2016/11/11 - 2016/11/11
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morino296さん
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大河ドラマ「真田丸」もそろそろクライマックスが近づいてきました。
この日は、天王寺から玉造、大阪城と真田幸村ゆかりの地を歩いてみました。
表紙の写真は、真田幸村討死の地として知られる安居神社の境内にある「真田幸村の銅像」と「真田幸村戦死跡之碑」です。
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天王寺都ホテルの窓からの眺め 6:50頃
今回お世話になったホテルの部屋から眺める天王寺駅方面。都シティ 大阪天王寺 宿・ホテル
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天王寺都ホテルの外観
近鉄あべの橋駅東口に直結、近鉄百貨店、あべのハルカスにも隣接。
JR、地下鉄の天王寺駅も直ぐ目の前で、とても便利な立地でした。都シティ 大阪天王寺 宿・ホテル
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あべのハルカスを見上げて
JR天王寺駅から天王寺公園方面へ向かいます。
高さ300mを超える日本で一番高い複合ビル。
ハルカスは、「伊勢物語」の一節「晴るかす」(晴らす、晴れ晴れとさせる)から名づけられたそうです。
近鉄阿部野橋駅に、よくこれだけの高層ビルを建てたものですね。
(今回は、展望フロアへは上りませんでした。)あべのハルカス 名所・史跡
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天王寺動物園の横にある旧黒田藩蔵屋敷長屋門(大阪府有形文化財)
旧黒田藩(福岡藩)蔵屋敷の表門で、江戸時代中期の蔵屋敷の遺構をもつ数少ないもののひとつ。
現在の中之島三井ビル付近にあったが、昭和8年(1933)、同ビル建設に際し大阪市に寄贈され、現在は天王寺公園内、大阪市立美術館南側に保存されています。天王寺公園 公園・植物園
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大阪市立美術館
イチョウが色づいていました。
8時前なので、朝の散歩をする人を見掛けるくらいでした。大阪市立美術館 美術館・博物館
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大阪市立美術館前から望む通天閣
通天閣 名所・史跡
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茶臼山と河底池
天王寺公園内にある茶臼山は標高26m。
5世紀ごろの全長200m近い前方後円形古墳とされる説と、自然陵とする説ともあり、今だ謎の残る山だそうです。天王寺公園 公園・植物園
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河底池に架かる和気橋
延暦7年(788)、和気清麻呂が旧大和側の流れを変えるために上町台地を開削した際に、茶臼山古墳の濠を利用した名残が河底池であると伝えられることから和気橋と呼ばれます。天王寺公園 公園・植物園
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茶臼山古戦場跡
解説に次のように書かれていました。
慶長二十年五月七日(1615年5月7日)、紅の旗・吹貫であたかもつつじの花盛りのように群れなびかせた真田の赤揃が陣を構える茶臼山の真田幸村隊三千五百は、この日の正午過ぎ、徳川方最強の松平忠直率いる越前勢一万五千と激突し、真田の赤揃えと松平家の家紋のツマ黒が交互に入り乱れる大坂夏の陣最大の激戦が茶臼山周辺で繰り広げられた。(大坂夏の陣 天王寺口の戦い)
数では劣る真田隊であったが、高い戦意と捨身の攻撃で越前勢を突き破り、徳川家康の本陣目掛けて一文字に三度の攻撃を仕掛け、あとわずかで家康の首に手が届くところまで攻めるも、数に優る越前勢が混乱から立ち直り反撃を開始、しばらく茶臼山に拠って抵抗を続けた真田隊も越前勢の猛攻によって奮戦むなしく壊滅し、真田幸村も激戦を戦い抜いて疲弊し茶臼山の北にある安居天神で休息しているところを越前兵により討ち取られる。 ―真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由―「薩摩旧記」天王寺公園 公園・植物園
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茶臼山 大坂夏の陣を紹介する大きな看板
「茶臼山」に布陣する豊臣方・真田幸村軍と、それに対峙する総兵力3倍ほどの徳川方の布陣の様子が描かれています。天王寺公園 公園・植物園
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茶臼山の頂上
真田幸村の解説や名言が紹介されていました。
戦国時代、ここには大塚城(茶臼山砦や茶臼山陣城)があったそうです。
天文15年(1546)、細川晴元の家臣・山中又三郎を城主に築城以来、大坂夏の陣、真田信繁の陣城として使用されたのを最後に廃城。天王寺公園 公園・植物園
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茶臼山の麓にある「大坂の陣史跡茶臼山の碑」
冬の陣 徳川家康本陣跡
夏の陣 真田幸村本陣跡
裏面には、
大坂之陣四百年記念 一心寺建立
平成二十八年十月
とありましたので、まだ出来立ての碑でした。天王寺公園 公園・植物園
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一心寺 仁王門(山門)
なかなか迫力のあるユニークな仁王像ですね。
縁起によれば、
平成9年4月、第12期お骨佛開眼大法要に合わせて、平成7年より2年をかけて建立。
仁王尊は彫刻家神戸峰男氏による5m余りの青銅像。一心寺 寺・神社・教会
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一心寺 山門の扉の天女
これも寺では珍しい意匠と思います。
四人の天女は、画家・秋野不矩氏の原画を神戸氏が浮彫りにされたもの。
インドから日本に至る仏教世界の文化を帯して少しずつ顔や姿が違います。
昭和20年の空襲で焼失した旧山門が大坂城玉造門の移築と伝えられ、「黒門」と呼ばれていたことから、新山門も今日的意匠による黒い門として復興したものだそうです。一心寺 寺・神社・教会
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一心寺 念仏堂
一心寺 寺・神社・教会
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一心寺 大本堂
浄土宗
山号:坂松山
開基:文治元年(1185)法然上人
住所:天王寺区逢阪2丁目8-69
納骨された遺骨で造立される「お骨佛の寺」、
宗派を問わず年中無休で営む「おせがきの寺」。一心寺 寺・神社・教会
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一心寺 開山堂
徳川方・本多忠朝の墓や、幸村に追い詰められた徳川家康を守ったといわれる「霧降の松」、「真田の抜け穴」と伝わる井戸も残るそうですが、残念ながら確認しませんでした。一心寺 寺・神社・教会
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一心寺 納骨堂(奥)とお骨佛堂(右)
10年に一度、お骨で仏像が造られているそうです。一心寺 寺・神社・教会
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安居神社(安居天満宮)
天王寺区逢坂1-3-24
一心寺から国道52号線をはさんだ北側にあります。
ここは、大坂夏の陣で真田幸村が討死した地として知られます。安居神社 寺・神社・教会
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安居神社 境内
本殿の右横に真田幸村の銅像があります。
1615年5月7日、子の真田大助を大坂城へ帰し、茶臼山から出陣した幸村は、劣性にもかかわらず徳川家康の首を狙い、まっしぐらに家康の本陣を目指します。
茶臼山から出発し、阿倍野区役所あたりを突破し、北田辺駅付近に布陣していた徳川本陣へ突撃。
あと一歩のところまで攻めましたが敵方の増援に阻まれ、幸村は疲労困憊し退却する途中、ここ安居神社で馬から降りて休憩したところを、越前松平勢に見つかり、松平忠直の鉄砲組・西尾仁左衛門により討ち取られました。安居神社 寺・神社・教会
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安居神社
境内に建つ「真田幸村戦死跡之碑」と幸村の銅像
幸村の銅像は2009年12月に完成したもの。安居神社 寺・神社・教会
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安居神社 涙を流す真田幸村
この首を授けるゆえ手柄とするがよいと差し出したともいわれます。
真田信繁(幸村)享年49歳。
前夜の雨が無念の涙のように見えました。安居神社 寺・神社・教会
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安居神社 拝殿
祭神:少彦名神、菅原道真
創建は不明ですが、942年には菅原道真も祀られました。
菅原道真が九州大宰府へ送られる際に、船の風待ちのために滞在したことから「安居」と呼ばれたとか。
この神社は、大丸の業祖下村彦右衛門氏の加護により反映されたことで知られ、大丸天神とも呼ばれるそうです。
太平洋戦争の災禍を受け、一切の建物がなくなり、大丸をはじめとする奉賛者によって昭和26年に復興されたもの。安居神社 寺・神社・教会
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天王寺動物園 8:43頃
開園前の動物園の横を通り、天王寺駅へ向かいます。
夜来の雨も上がり、青空が広がってきました。天王寺動物園 動物園・水族館
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JR環状線 玉造駅 9:00頃
環状線で天王寺駅から玉造駅へ移動。玉造駅 駅
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JR玉造駅前の横丁「玉造・幸村ロード」
横丁にも「幸村ロード」の幟が並びます。 -
玉造日之出通商店街
商店街には幸村ゆかりのグッズやメニューもあるようですが、まだ開店前の店ばかりでした。 -
三光神社
天王寺区玉造本町14-90
JR玉造駅から徒歩約5分。三光神社 寺・神社・教会
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三光神社
境内には、真田丸から大坂城に続くといわれる「真田の抜け穴」があり、
脇には采配を振るう幸村の銅像があります。
11月第1日曜日の「真田まつり」には「抜け穴」の扉が開かれるそうです。
大坂冬の陣(慶長19年)、真田幸村は大坂城の手薄な城南へ徳川方が一斉に進攻する事を察知して、わずか1ヶ月余りで真田丸を設け、大坂城まで通じる地下の抜け穴を作ったと伝わります。三光神社 寺・神社・教会
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三光神社 社殿へ上る石段
第二次大戦の戦火により神社の建物全てと氏子全域を焼失。
復興は無理かといわれていたものが、戦後氏子崇敬者の総意により復興されたそうです。三光神社 寺・神社・教会
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三光神社 社殿
祭神:天照大神、月読尊、素戔鳴尊
大阪城東南の丘陵真田山に鎮座。
創立は仁徳天皇から三代後の反正天皇の時代と言われ、創建以後神職は武内宿弥の末裔武川氏(86代)が就かれているそうです。
全国で唯一の中風除の神としても知られるそうです。三光神社 寺・神社・教会
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三光神社 大阪七福神の寿老神
三光神社 寺・神社・教会
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三光神社 手水舎
三光神社 寺・神社・教会
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三光神社 末社(稲荷社、仁徳天皇社、武内宿弥社)
武内宿弥の末裔たる武川氏が三光宮の創建以後神職として奉仕し長寿の神として祀られています。三光神社 寺・神社・教会
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三光神社 片柱の鳥居(境内北側の鳥居)
第二次世界大戦の戦火を被りながら残った片柱が、使われているそうです。
この片柱には、大相撲の力士の名が刻まれています。三光神社 寺・神社・教会
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真田幸村めぐルート 案内板
この案内板は助かりますね。
大河ドラマ「真田丸」のお蔭でしょうか。三光神社 寺・神社・教会
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善福寺 どんどろ大師
住所:天王寺区空堀町10-19
宗派:高野山真言宗
真田丸があったとされる北の空堀にあたる場所にあります。
江戸時代1752年、高野山岩本院の法資法道が大坂夏の陣の戦死者を弔うために創建したのが鏡如庵大師堂(どんどろ大師)。
どんどろ大師は、明治時代に廃寺になり、その後、大阪府豊能郡豊能町にあった如意山甘露院善福寺を鏡如庵大師堂のあった現在地へ移転したそうです。善福寺 寺・神社・教会
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善福寺 門前に飾られた「お弓 おつる」の銅像
歌舞伎 傾城阿波鳴門(けいせいあわのなると)どんどろ大師門前の場
真田丸とは特に関係ありませんでした。善福寺 寺・神社・教会
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善福寺 境内の勝軍地蔵尊
善福寺 寺・神社・教会
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善福寺 境内のどんどろ大師
善福寺 寺・神社・教会
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心眼寺
住所:天王寺区餌差町2-22
幸村・大助父子の菩提寺。
1622年に白牟(はくむ)和尚が、真田幸村と大助の冥福を祈るために創建。
創建から寺の定紋は六文銭で、山号は真田山。
山門の右に「真田幸村出丸城跡」の碑が建ちます。
まさに、この辺りに真田丸(出丸)があったそうです。心眼寺 寺・神社・教会
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心眼寺 山門の扉の六文銭
心眼寺 寺・神社・教会
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心眼寺 真田丸出城跡の解説
慶長19年(1614)、大坂夏の陣に際し、豊臣方の真田信繁(幸村)が惣構の空堀南側に築いた曲輪で、三日月形をしたことから偃月城(えんげつじょう)とも呼ばれた。
冬の陣後の講和条件によって破却された。
豊臣秀吉が築いた大坂城は難攻不落の天下の名城として知られるが、南方の天王寺方面からの防備が不十分であった。
大坂冬の陣にあたり、豊臣方から招かれて九度山から大坂城に入城した幸村は、この弱点に気付き、現在の空堀商店街からJR玉造駅方面に造られていた惣構の空堀の外側にあった「笹山」という小丘陵に出城を構え、徳川勢の攻撃に備えた。
出城は、東西200mほどの規模で、三日月形をした外形の内部が東西2つの曲輪からなり、惣構の堀を土橋でまたいで大坂城と結ばれていたという。
幸村は3千人余りの将兵でこの出城を守り、冬の陣最大の戦果をあげた。心眼寺 寺・神社・教会
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心眼寺 境内にある真田左衛門佐豊臣信繁之墓
信繁の400回忌に建立された墓碑(平成26年10月)。心眼寺 寺・神社・教会
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心眼寺 地蔵堂
まんなおし地蔵尊が祀られています。
開運を祈願 すると、願いが叶うといわれ、庶民の信仰が篤く、かつては参拝が絶えなかったそうです。心眼寺 寺・神社・教会
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興徳寺 山門
住所:天王寺区餌差町2-17
心眼寺の隣にあります。興徳寺 寺・神社・教会
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興徳寺 境内と本堂
宗派:高野山真言宗
聖徳太子存世中に今の法円坂付近に「薬師院」として創建。
天平年間(729~749)に行基菩薩によって再建された畿内49ケ院のひとつと言われていますが、第二次世界大戦の大阪大空襲で山門以外の諸堂を焼失したため詳細は不明だそうです。
現在の本堂は昭和27年に再建。
(興徳寺のHP参照)興徳寺 寺・神社・教会
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興徳寺 「准提観音像」
無数の仏を産んだことから仏母とも言われ、子授けと安産の観音様としてお祀りされています。
像高約10mの大きさがあります。
観音様の周囲には西国三十三か所霊場のお砂を埋めてあり、歩くと西国観音霊場をまわったことと同じ功徳が得られるそうです。興徳寺 寺・神社・教会
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真田丸顕彰碑(興徳寺の正面)
幸村が築いた砦「真田丸」があったとされる大阪明星学園グランド脇に建つ顕彰碑(平成28年2月設置)。 -
大阪明星学園の校舎に描かれた幸村
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円珠庵(鎌八幡)
住所:天王寺区空清町4-2
冬の陣の際に幸村が戦勝祈願したと伝えられる「鎌八幡」が祀られています。
「悪縁を断つ寺」と書かれています。鎌八幡 (圓珠庵) 名所・史跡
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円珠庵(鎌八幡)の山門
入り口に張り紙があり、境内は撮影禁止。
山門に貼られている由来によれば、
遠い昔この辺りは三韓坂と言われる古道で、その脇に一本の榎の霊木があり人々の信仰を集めていました。
大坂冬の陣の時、真田幸村がこの土地に陣所を構え、榎の信仰を聞きつけて鎌を打ち付けて、鎌八幡大菩薩と祈念したところ大いに戦勝をあげたと伝えられます。
江戸時代初期には、この鎌八幡の境内に国文学者の高僧契沖阿闍梨が居を定め、円珠庵と称したそうです。
祈願は、悪縁を断つことから病根断、縁切、因縁断、悪霊断、厄払、悪運断ほか。鎌八幡 (圓珠庵) 名所・史跡
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円珠庵(鎌八幡)
境内は撮影禁止ですが、塀越しに霊木の榎を見ることが出来ます。
榎には多くの鎌が打ち込まれています。
まだ。9:45頃でしたので、大阪城まで歩いてみることにしました。鎌八幡 (圓珠庵) 名所・史跡
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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 10:00頃
住所:中央区玉造2-24-22
1894年、この地に聖アグネス聖堂が建てられ玉造教会が誕生。
その聖堂は戦災によって焼失、その後、仮聖堂を経て、ザビエル来日400年記念の年に建設された聖フランシスコ・ザビエル聖堂に引き継がれ、1963年に、現司教座聖堂「聖マリア大聖堂」へと生まれ変わりました。
その大聖堂の西北には、細川越中守の屋敷跡と伝えられている「越中井」が残されており、細川ガラシア夫人を記念して辞世の句碑が建っています。(HP参照)大阪カテドラル 聖マリア大聖堂 名所・史跡
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大阪カテドラル聖マリア大聖堂
大聖堂前広場の両端にある高山右近と細川ガラシア夫人の石像大阪カテドラル 聖マリア大聖堂 名所・史跡
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大阪カテドラル聖マリア大聖堂の解説
館内は撮影禁止でしたのでこちらで紹介します。
大聖堂と言われる通り大きな聖堂です。
また、素晴らしいステンドグラスやパイプオルガンがあります。大阪カテドラル 聖マリア大聖堂 名所・史跡
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玉造稲荷神社 10:05頃
住所:中央区玉造2-3-8
主神:宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)
相殿:下照姫命(したてるひめのみこと) 雅日女命(わかひるめのみこと)
月読命(つきよみのみこと) 軻遇突智命(かぐつちのみこと)
由緒によれば、
垂仁天皇18年(紀元前12年)の秋に創祀。
天正4年の兵乱により焼失、慶長8年に豊臣秀頼により社殿、高殿(舞台)が再建。
大坂の陣で、再び戦地となり被害をうけましたが、元和5年に徳川幕府の大坂城代内藤紀伊守を始め、氏子・崇敬者の寄進を以って再建。
別称は豊津稲荷神社とも呼ばれ豊臣・徳川時代を通じ「大坂城の鎮守神」として崇敬されたことが、史料に残っています。
文久3年11月の大坂大火(新町焼)を経て、明治4年氏子・崇敬者により再建。
第二次世界大戦の戦禍を受け、戦後は宗教法人(神社本庁)玉造稲荷神社となりました。
社殿は昭和29年に遷座。玉造稲荷神社 寺・神社・教会
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玉造稲荷神社 境内に建つ豊臣秀頼像
大河ドラマの秀頼よりは、ちょっと下膨れの顔に見えませんか?玉造稲荷神社 寺・神社・教会
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玉造稲荷神社 豊臣秀頼奉納鳥居
慶長8年(1603年)に秀頼より奉納された鳥居。
大坂夏の陣、第二次世界大戦と二度の戦火を乗り越えてきた鳥居ですが、平成7年1月の阪神淡路大震災により基礎に損傷を生じ、建立以来400年間「大坂城の鎮守神」としての歴史的シンボルに幕を閉じここに保存することになったそうです。玉造稲荷神社 寺・神社・教会
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玉造稲荷神社 豊臣秀頼公胞衣塚大明神
豊臣秀頼公と母・淀殿を結ぶ卵膜・胎盤などの胞衣(えな/よな)が鎮まる。
玉造の地を数々遷座したが、地元の政・財・文化界有志により、大坂城鎮守神である当神社へ鎮座されたそうです。
縁結びの祈願は、豊臣秀頼に仕えた真田幸村ゆかりの〝真田紐〟で作られた”縁のひも”に願いごとを書いて〝縁のひも掛け〟に結びます。玉造稲荷神社 寺・神社・教会
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大阪城公園に到着 10:20頃
南外堀越しに眺める天守閣
次の約束が11:30なので、移動時間を考えると大阪城の見学時間は40分ほどしかありません。 -
大阪城公園の案内図
現在地は、真下の赤い▲マークです。 -
大阪城公園の紅葉
紅葉情報では、大阪城公園の紅葉は見頃となっていました。 -
大阪城 六番櫓と南外堀
素晴らしい天気になりました。
(江戸時代までは大坂城、明治時代以降は大阪城と使い分けているとか) -
大阪城 大手門前
現存の大手門は、寛永5年(1628)徳川幕府の大坂城再築工事で創建されたもの。大阪城 名所・史跡
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大阪城 大手口枡形の巨石
城の威容を誇示する巨石が多く使われています。
大手門を潜り正面にある大手見付石(右)は表面積が約29畳敷で城内第4位、大手二番石(左)は約23畳敷で第5位。いずれも採石場所は小豆島と推定されるそうです。
ここの石垣工事は、当初肥後熊本藩加藤忠弘が築き、のちに築後久留米藩有馬豊氏が改築したそうです。 -
大阪城 大手門を入り枡形から多聞櫓を潜ります。
こんな中までバスが入るのですね。大阪城 名所・史跡
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大阪城 城内のイチョウ
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大阪城 桜門
本丸の正門にあたる桜門。
寛永3年(1626)に創建されたが、明治維新の大火で焼失し、明治20年(1887)に陸軍によって再建されたもの。大阪城 名所・史跡
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大阪城 桜門枡形の巨石
蛸石とよばれる城内最大の巨石で表面積は約36畳敷、重量は108トンと推定。
備前岡山藩池田忠雄の担当で築かれ、石材は備前産の花崗岩。
江戸時代に、これほどの巨石をどうやって運んだのでしょうか。 -
大阪城 青空に聳える天守閣 10:45頃
外国人や小学生などで混雑していました。
NHKのブラタモリでもやっていましたが、豊臣秀吉が造った大坂城は取り壊されて埋められましたが、その遺構はこの近くに残っているようですね。
ゆっくりしたいのですが、次の約束があり、時間切れです。
最寄りの地下鉄中央線谷町四丁目駅へ急ぎます。大阪城 名所・史跡
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大阪城 銀明水井戸の井筒
小学生たちに占拠されていました(笑)。
この井筒は、本丸に建つ旧陸軍第4師団司令部庁舎の裏手にあったもの。
徳川幕府再築の大坂城本丸に設けられた5つの井戸の一つで、本丸御殿の裏に位置し、本丸の警備をする役人の飲料水として用いられたもの。
昭和6年、天守閣の復興と同時に行われた第4師団司令部の庁舎新築にあたり、現在地に移設されたもの。そのため、水道水が引かれています。 -
大阪城 豊国神社
豊臣秀吉、秀頼、秀長を祀ります。
時間がないので鳥居の前で失礼しました。
午前中3時間半ほどの短い時間でしたが、真田幸村ゆかりの地の散策を楽しませてもらいました。(歩いた距離は約8Kmでした。)豊國神社 寺・神社・教会
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大阪歴史博物館 10:56頃
交差点の信号待ち、地下鉄の駅は、博物館の向こう側です。
天守閣から谷町四丁目駅まで結構な距離があり、大阪城の大きさを改めて認識しました。
駅に着いたら、電車が発車したところで、7分待ち(オー、ノー!)
待ち合わせ時間にちょっと間に合わないかも・・・。
(つづき)大阪歴史博物館 美術館・博物館
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この旅行記へのコメント (2)
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- 豚のしっぽさん 2016/11/17 18:37:33
- 歩かれましたね〜(*^^)
- こんばんは、296さん
待合わせまでの時間を 有意義に歩かれましたね〜
真田幸村がテーマですね
豊臣家を守るため奮戦し
最後まで主君を裏切らなかった真田幸村は、関西人のヒーロー
大坂夏の陣で大坂城落城から400年めとなった昨年は
あちらこちらで「真田幸村まつり」が開催されていましたので
いろいろ散策しやすくなっていると思います
大阪城、、、広いでしょ!
正面大手門からの入城しても20分は歩かないと
天守閣にはたどりつきませんものね
青空になってよかったです!
シッポ
- morino296さん からの返信 2016/11/17 20:20:32
- RE: 歩かれましたね〜(*^^)
- しっぽさん
こんばんは。
書き込みいただき有難うございます。
この日は、短い時間でしたが、結構、いろいろな所へ行けました。
真田幸村の人気は凄いですね。
最近、ブラタモリでも大坂城の遺構が紹介されていたので、
勉強になりました。
大阪城へ行ったのは3回目ですが、いつも広さにビックリです。
この日も、谷町4丁目に11時に着くつもりで歩いたのですが、
最後は、ちょっと駆け足でした。
(どこかの駅でも、駆け足でしたがね(笑)。)
この後は、勝尾寺に続きま〜す。
morino296
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