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プラド美術館は、フランスのルーヴル美術館、ロシアのエルミタージュ美術館と並ぶ、世界3大美術館のひとつです。また、他の美術館が数多の戦争による略奪品をコレクションに加えているのに対し、プラドには略奪品や盗品がひとつもないのが自慢です。確かに後ろ指を刺されないという正当性はアピールポイントですが、戦争によって収奪される立場に立たされても、略奪する立場にはなれなかったのが現実でした。これが、後世に「災い転じて福となす」に化けたと言えます。<br />美術館の建物は、カルロス3世時代の都市再開発の中で、1785年に建築家ファン・デ・ビリャヌエバが設計した自然科学博物館が前身のネオ・クラシック様式の荘厳な建物です。しかし建設途上にナポレオン軍が侵略した時代には、彼らの宿舎兼火薬庫となり、独立戦争によってさらに建設が頓挫したそうです。その後、1819年にフェルナンド7世によって「王立プラド美術館」として開館しました。<br /><日程><br />1日目:関空→フランクフルト(LH0741 10:05発)<br />    フランクフルト→バルセロナ(LH1136 17:30発)<br />    宿泊:4 Barcelona(二連泊)<br />2日目:グエル公園==サグラダ・ファミリア==カサ・ミラ/カサ・バトリョ(車窓)<br />            ==ランチ:Marina Bay by Moncho&#39;s==カタルーニャ広場<br />            15:00?フリータイム<br />    カタルーニャ広場==サン・パウ病院==サグラダ・ファミリア==<br />            カサ・ミラ--カサ・バトリョ--夕食:Cervecer?・a Catalana(バル) <br />    ==カタルーニャ音楽堂<br />            宿泊:4 Barcelona(二連泊)<br />3日目:コロニア・グエル地下礼拝堂==モンセラット観光--<br />    ランチ:Restaurant Montserrat==ラス・ファレラス(水道橋)<br />            ==タラゴナ観光(円形競技場、地中海のバルコニー)<br />    バレンシア宿泊:Mas Camarena<br />4日目:ランチ:Mamzanil(Murcia)<br />            ==(午後4:00到着)ヘネラリーフェ宮殿<br />            --アルハンブラ宮殿==ホテル Vincci Granada==Los Tarantos<br />           (洞窟フラメンコ)<br />            --サン・ニコラス展望台(アルハンブラ宮殿の夜景観賞)<br />5日目:ミハス散策--ランチ:Vinoteca==ロンダ(午後4:00到着)<br />            フリー散策<br />            宿泊:Parador de Ronda<br />6日目:セビリア観光(スペイン広場--セビリア大聖堂)==<br />            コルドバ観光(メスキータ--花の小径)-==コルドバ駅<br />    AVE:コルドバ→マドリード<br />    夕食:China City<br />    宿泊:Rafael Hoteles Atocha(二連泊)<br />7日目:マドリード観光(スペイン広場<下車観光>==ソフィア王妃芸術センター<br />    ==プラド美術館--免税店ショッピング==ランチ:Dudua Palacio<br />    ==トレド観光(サント・トメ教会、トレド大聖堂<外観>)==<br />            ホテル--フリータイム(プエルタ・デル・ソル、マヨール広場、<br />    サンミゲル市場、ビリャ広場、アルムデナ大聖堂、マドリード王宮<br />    オリエンテ広場 、エル・コルテ・イングレス<グラン・ビア>)<br />    宿泊:Rafael Hoteles Atocha(二連泊)<br />8日目:マドリード→フランクフルト(LH1123 8:35発)<br />    フランクフルト→関空(LH0740 13:35発)<br />9日目:関空着(7:20)

ときめきのスペイン周遊⑲マドリード プラド美術館

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2016/09/02 - 2016/09/10

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2

29

montsaintmichel

montsaintmichelさん

プラド美術館は、フランスのルーヴル美術館、ロシアのエルミタージュ美術館と並ぶ、世界3大美術館のひとつです。また、他の美術館が数多の戦争による略奪品をコレクションに加えているのに対し、プラドには略奪品や盗品がひとつもないのが自慢です。確かに後ろ指を刺されないという正当性はアピールポイントですが、戦争によって収奪される立場に立たされても、略奪する立場にはなれなかったのが現実でした。これが、後世に「災い転じて福となす」に化けたと言えます。
美術館の建物は、カルロス3世時代の都市再開発の中で、1785年に建築家ファン・デ・ビリャヌエバが設計した自然科学博物館が前身のネオ・クラシック様式の荘厳な建物です。しかし建設途上にナポレオン軍が侵略した時代には、彼らの宿舎兼火薬庫となり、独立戦争によってさらに建設が頓挫したそうです。その後、1819年にフェルナンド7世によって「王立プラド美術館」として開館しました。
<日程>
1日目:関空→フランクフルト(LH0741 10:05発)
    フランクフルト→バルセロナ(LH1136 17:30発)
    宿泊:4 Barcelona(二連泊)
2日目:グエル公園==サグラダ・ファミリア==カサ・ミラ/カサ・バトリョ(車窓)
    ==ランチ:Marina Bay by Moncho's==カタルーニャ広場
    15:00?フリータイム
    カタルーニャ広場==サン・パウ病院==サグラダ・ファミリア==
    カサ・ミラ--カサ・バトリョ--夕食:Cervecer?・a Catalana(バル)
    ==カタルーニャ音楽堂
    宿泊:4 Barcelona(二連泊)
3日目:コロニア・グエル地下礼拝堂==モンセラット観光--
    ランチ:Restaurant Montserrat==ラス・ファレラス(水道橋)
    ==タラゴナ観光(円形競技場、地中海のバルコニー)
    バレンシア宿泊:Mas Camarena
4日目:ランチ:Mamzanil(Murcia)
    ==(午後4:00到着)ヘネラリーフェ宮殿
    --アルハンブラ宮殿==ホテル Vincci Granada==Los Tarantos
    (洞窟フラメンコ)
     --サン・ニコラス展望台(アルハンブラ宮殿の夜景観賞)
5日目:ミハス散策--ランチ:Vinoteca==ロンダ(午後4:00到着)
    フリー散策
    宿泊:Parador de Ronda
6日目:セビリア観光(スペイン広場--セビリア大聖堂)==
    コルドバ観光(メスキータ--花の小径)-==コルドバ駅
    AVE:コルドバ→マドリード
    夕食:China City
    宿泊:Rafael Hoteles Atocha(二連泊)
7日目:マドリード観光(スペイン広場<下車観光>==ソフィア王妃芸術センター
    ==プラド美術館--免税店ショッピング==ランチ:Dudua Palacio
    ==トレド観光(サント・トメ教会、トレド大聖堂<外観>)==
    ホテル--フリータイム(プエルタ・デル・ソル、マヨール広場、
    サンミゲル市場、ビリャ広場、アルムデナ大聖堂、マドリード王宮
    オリエンテ広場 、エル・コルテ・イングレス<グラン・ビア>)
    宿泊:Rafael Hoteles Atocha(二連泊)
8日目:マドリード→フランクフルト(LH1123 8:35発)
    フランクフルト→関空(LH0740 13:35発)
9日目:関空着(7:20)

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
一人あたり費用
30万円 - 50万円
交通手段
観光バス 徒歩 飛行機
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
日本旅行
  • プラド美術館<br />フェルナンド7世はナポレオンに幽閉され、復位までの6年間をパリで過ごしました。その時、王は、ナポレオンが権力にものを言わせて絵画収集するのを目の当たりにし、すっかり感化されたそうです。ですから、復位後真っ先にしたことが「歴代の王が集めた絵画を1ヶ所に集める」という美術館創設宣言でした。皮肉にも、物まねから始まった美術館は、反動政治を強行して評判の悪かった王の唯一の善政となりました。しかし、その陰には2度の結婚による2人の妃の支えがありました。美術館のホールには、最初の妃イサベラ・デ・ブラガンサの坐像が創設者として置かれています。これは、美術館創立を進言した功労者として、2番目の妃マリア・ホセファ・アマリアが造らせたものです。ゴヤが描いた『野営中のフェルナンド7世』を観れば自明ですが、この王は美術館構想を途中で頓挫しかねない能力の持ち主だったようです。我々は、賢明だった2人の王妃に現在こうして絵画を愛でられることを感謝すべきかもしれません。<br />開館時のカタログによると、展示作品は全311点に過ぎませんでした。その後、王室や修道院のコレクションが加わり、国立になると収奪されて国外へ流出した絵画を買い戻したり、公的な場所に貸与している作品を返還させたりし、現在のコレクションは8000点を越えます。王室が収集した美術品の数では世界一です。往時の美術館は維持費も王室が負担し、開館するのは週1回、入館には許可が必要でした。国有化されたのは1868年にブルボン王朝が追放されてスペインが共和制になった時で、王立美術館を改め国立プラド美術館となりました。現在も12世紀ロマンネスク絵画から、ゴシック期、バロック期の19世紀初めまでの作品など、その所蔵品は増え続けています。常設は3000点ほどですが、近代スペイン王室が私財を投じて収集した400年の美の結集を素直に愛でることができます。

    プラド美術館
    フェルナンド7世はナポレオンに幽閉され、復位までの6年間をパリで過ごしました。その時、王は、ナポレオンが権力にものを言わせて絵画収集するのを目の当たりにし、すっかり感化されたそうです。ですから、復位後真っ先にしたことが「歴代の王が集めた絵画を1ヶ所に集める」という美術館創設宣言でした。皮肉にも、物まねから始まった美術館は、反動政治を強行して評判の悪かった王の唯一の善政となりました。しかし、その陰には2度の結婚による2人の妃の支えがありました。美術館のホールには、最初の妃イサベラ・デ・ブラガンサの坐像が創設者として置かれています。これは、美術館創立を進言した功労者として、2番目の妃マリア・ホセファ・アマリアが造らせたものです。ゴヤが描いた『野営中のフェルナンド7世』を観れば自明ですが、この王は美術館構想を途中で頓挫しかねない能力の持ち主だったようです。我々は、賢明だった2人の王妃に現在こうして絵画を愛でられることを感謝すべきかもしれません。
    開館時のカタログによると、展示作品は全311点に過ぎませんでした。その後、王室や修道院のコレクションが加わり、国立になると収奪されて国外へ流出した絵画を買い戻したり、公的な場所に貸与している作品を返還させたりし、現在のコレクションは8000点を越えます。王室が収集した美術品の数では世界一です。往時の美術館は維持費も王室が負担し、開館するのは週1回、入館には許可が必要でした。国有化されたのは1868年にブルボン王朝が追放されてスペインが共和制になった時で、王立美術館を改め国立プラド美術館となりました。現在も12世紀ロマンネスク絵画から、ゴシック期、バロック期の19世紀初めまでの作品など、その所蔵品は増え続けています。常設は3000点ほどですが、近代スペイン王室が私財を投じて収集した400年の美の結集を素直に愛でることができます。

  • プラド美術館<br />創設の趣旨から明白なように、コレクションには王室の趣向が色濃く反映されています。ハプスブルク朝時代のフランドル派やブルボン朝時代のヴェネチア派の絵画、またグレコをはじめベラスケス、ゴヤなどのスペイン絵画が多数あります。ルーベンス、ボスなどの作品を含むオランダ・ドイツの絵画はハプスブルク朝時代の収集、色彩表現の豊かなティツィアーノやティントレットなどのイタリア・フランスの絵画はブルボン朝時代の遺産です。コレクションの質の高さは現在のスペイン・アートに通じるものを窺わせますが、それは美に対する民族の持つDNAなのか、はたまた偶然なのか…。歴代の王たちが、こと美術に関しては野心のある画家や目利きの側近を抱えていたことが幸いしています。<br />因みにベラスケスやゴヤは、王室の裏も表も承知した宮廷画家でした。彼らは、王とその家族をモデルに、あるいは王たちが繰り広げた戦いをテーマにして王室の虚飾に満ちた一面を冷徹な目で描き、スペインの歴史に密着した絵画を遺しています。写真のなかった時代、絵画は記録という役割も担っていました。描かれた時代背景を知ればこそ、「素晴らしい絵」を越えるものがそこから炙り出されてきます。

    プラド美術館
    創設の趣旨から明白なように、コレクションには王室の趣向が色濃く反映されています。ハプスブルク朝時代のフランドル派やブルボン朝時代のヴェネチア派の絵画、またグレコをはじめベラスケス、ゴヤなどのスペイン絵画が多数あります。ルーベンス、ボスなどの作品を含むオランダ・ドイツの絵画はハプスブルク朝時代の収集、色彩表現の豊かなティツィアーノやティントレットなどのイタリア・フランスの絵画はブルボン朝時代の遺産です。コレクションの質の高さは現在のスペイン・アートに通じるものを窺わせますが、それは美に対する民族の持つDNAなのか、はたまた偶然なのか…。歴代の王たちが、こと美術に関しては野心のある画家や目利きの側近を抱えていたことが幸いしています。
    因みにベラスケスやゴヤは、王室の裏も表も承知した宮廷画家でした。彼らは、王とその家族をモデルに、あるいは王たちが繰り広げた戦いをテーマにして王室の虚飾に満ちた一面を冷徹な目で描き、スペインの歴史に密着した絵画を遺しています。写真のなかった時代、絵画は記録という役割も担っていました。描かれた時代背景を知ればこそ、「素晴らしい絵」を越えるものがそこから炙り出されてきます。

  • プラド美術館 ヘロニモスの扉<br />正門にはベラスケス門、ゴヤ門、ムリーリョ門があり、それぞれの画家の像が来場者を迎え入れます。日曜日は入館無料という気前のいい美術館ですが、土曜日の午後と日曜日の午前は団体入場ができないため、ガイドさんも入れないというツアー客には少々残念な面もあります。<br />所蔵品はどれも15世紀以降に王室が私財を投じて代々収集してきた至宝です。つまり展示品は国王の私有財産であり、王室が収集した美術品の数では世界一を誇ります。開館当初の美術館は維持費も王室が賄い、開館するのは週1回、入館には許可を必要としたそうです。国有化されたのは1868年にブルボン王朝が追放されてスペインが共和制になった折で、王立美術館から国立プラド美術館と名も改められました。現在も12世紀ロマネスク絵画から、ゴシック 期、19世紀初めのバロック期までの作品など、その所蔵品は増え続けているようです。<br />入口を示したマップです。<br />https://content.cdnprado.net/imagenes/proyectos/personalizacion/7317a29a-d846-4c54-9034-6a114c3658fe/cms/pdf/visita_plano_ubicacion.pdf

    プラド美術館 ヘロニモスの扉
    正門にはベラスケス門、ゴヤ門、ムリーリョ門があり、それぞれの画家の像が来場者を迎え入れます。日曜日は入館無料という気前のいい美術館ですが、土曜日の午後と日曜日の午前は団体入場ができないため、ガイドさんも入れないというツアー客には少々残念な面もあります。
    所蔵品はどれも15世紀以降に王室が私財を投じて代々収集してきた至宝です。つまり展示品は国王の私有財産であり、王室が収集した美術品の数では世界一を誇ります。開館当初の美術館は維持費も王室が賄い、開館するのは週1回、入館には許可を必要としたそうです。国有化されたのは1868年にブルボン王朝が追放されてスペインが共和制になった折で、王立美術館から国立プラド美術館と名も改められました。現在も12世紀ロマネスク絵画から、ゴシック 期、19世紀初めのバロック期までの作品など、その所蔵品は増え続けているようです。
    入口を示したマップです。
    https://content.cdnprado.net/imagenes/proyectos/personalizacion/7317a29a-d846-4c54-9034-6a114c3658fe/cms/pdf/visita_plano_ubicacion.pdf

  • プラド美術館 <br />プラド美術館は、その名も「プラド通り(Paseo del Prado)」という大通りの真ん中にあります。アトーチャ駅からでも歩いて15分程の距離です。<br />入場券をすでに持っている我々が入ったのは、ヘロニモスの扉です。ヘロニモスの扉前には、扉の名前の由来となったサン・ヘロニモ・エル・レアル教会があります。<br />尚、リュックサックでの入場は禁じられていますので、必要な物だけを入れられる小さ目のショルダー・バックを準備をしておかれると便利です。<br /><br />有名作品の展示ルームはよく変更されるそうです。事前に展示ルームを調べる方法を記しておきます。ヒエロニムス・ボッシュについては特別展を開催中のようで、通常56Aに展示されているはずが、展示室Bに換わっていました。<br />ツアーの入場券で特別展も鑑賞することもできるのですが、時間予約できないため長蛇の列に並ぶことになります。<br />プラド美術館のHPにある「COLLECTION」の検索入力欄の右側にある「EXPROLER THE COLLECTION」をクリックすると、主だったアーティスト名や部屋番号から展示室や展示作品が検索できます。一番下に「LOCATION」がありますのでそこをクリックします。<br />https://www.museodelprado.es/en/the-collection<br />フロアマップです。<br />https://content1.cdnprado.net/imagenes/proyectos/personalizacion/7317a29a-d846-4c54-9034-6a114c3658fe/cms/pdf/plano_museo_del_prado_en.pdf

    プラド美術館
    プラド美術館は、その名も「プラド通り(Paseo del Prado)」という大通りの真ん中にあります。アトーチャ駅からでも歩いて15分程の距離です。
    入場券をすでに持っている我々が入ったのは、ヘロニモスの扉です。ヘロニモスの扉前には、扉の名前の由来となったサン・ヘロニモ・エル・レアル教会があります。
    尚、リュックサックでの入場は禁じられていますので、必要な物だけを入れられる小さ目のショルダー・バックを準備をしておかれると便利です。

    有名作品の展示ルームはよく変更されるそうです。事前に展示ルームを調べる方法を記しておきます。ヒエロニムス・ボッシュについては特別展を開催中のようで、通常56Aに展示されているはずが、展示室Bに換わっていました。
    ツアーの入場券で特別展も鑑賞することもできるのですが、時間予約できないため長蛇の列に並ぶことになります。
    プラド美術館のHPにある「COLLECTION」の検索入力欄の右側にある「EXPROLER THE COLLECTION」をクリックすると、主だったアーティスト名や部屋番号から展示室や展示作品が検索できます。一番下に「LOCATION」がありますのでそこをクリックします。
    https://www.museodelprado.es/en/the-collection
    フロアマップです。
    https://content1.cdnprado.net/imagenes/proyectos/personalizacion/7317a29a-d846-4c54-9034-6a114c3658fe/cms/pdf/plano_museo_del_prado_en.pdf

  • プラド美術館 <br />ヒエロニムス・ボッシュの特別展の行列です。<br />ソフィア王妃芸術センターで不完全燃焼だったこともあり、添乗員さんが機転を利かせてフリー鑑賞もできるように取り計らってくれたのでラッキーでした。<br />ボッシュ作品を観るのは諦め、まず「ベラスケスの部屋」へ一目散です。<br /><br />展示絵画の撮影は、2006年10月以降、残念なことに禁止になっています。懐の広い欧州の美術館にしては珍しいのですが、入口には注意書きがあり、現地ガイドさんからもカメラを仕舞うように案内があります。<br />撮影が禁止された理由のひとつには、ミュージアムショップでの絵葉書や絵画本の売上減少や写真撮影のために行列ができて渋滞するということもあったようです。しかし筆頭となる理由は、カメラのフラッシュの強い光に含まれる紫外線が絵の具の劣化を促すからです。通常の美術館の展示室は、太陽光が当たらないように配慮されており、窓はあっても小さく、紫外線を放たない蛍光灯を使用している場合がほとんどです。以前は、フラッシュを使わなければ撮影が認められていたようですが、あまりのマナーの悪さに業を煮やし、撮影禁止に踏み切ったようです。<br />プラド美術館にはゴヤ『ボルドーのミルク売り娘』という作品があるのですが、20年前に撮影されたというこの作品を雑誌で見た時、少女の心を表しているかのような澄み切った青空がとても印象的でした。ところが今回観たものは、ノスタルジックなセピア色の空が広がる、全く印象の異なる絵になっていました。こうした事実に直面すると、撮影禁止も納得せざるを得ません。<br />ですからここで紹介する絵画の画像は、次のサイトから借用させていただきました。<br />https://www.museodelprado.es/en/the-collection

    プラド美術館
    ヒエロニムス・ボッシュの特別展の行列です。
    ソフィア王妃芸術センターで不完全燃焼だったこともあり、添乗員さんが機転を利かせてフリー鑑賞もできるように取り計らってくれたのでラッキーでした。
    ボッシュ作品を観るのは諦め、まず「ベラスケスの部屋」へ一目散です。

    展示絵画の撮影は、2006年10月以降、残念なことに禁止になっています。懐の広い欧州の美術館にしては珍しいのですが、入口には注意書きがあり、現地ガイドさんからもカメラを仕舞うように案内があります。
    撮影が禁止された理由のひとつには、ミュージアムショップでの絵葉書や絵画本の売上減少や写真撮影のために行列ができて渋滞するということもあったようです。 しかし筆頭となる理由は、カメラのフラッシュの強い光に含まれる紫外線が絵の具の劣化を促すからです。通常の美術館の展示室は、太陽光が当たらないように配慮されており、窓はあっても小さく、紫外線を放たない蛍光灯を使用している場合がほとんどです。以前は、フラッシュを使わなければ撮影が認められていたようですが、あまりのマナーの悪さに業を煮やし、撮影禁止に踏み切ったようです。
    プラド美術館にはゴヤ『ボルドーのミルク売り娘』という作品があるのですが、20年前に撮影されたというこの作品を雑誌で見た時、少女の心を表しているかのような澄み切った青空がとても印象的でした。ところが今回観たものは、ノスタルジックなセピア色の空が広がる、全く印象の異なる絵になっていました。こうした事実に直面すると、撮影禁止も納得せざるを得ません。
    ですからここで紹介する絵画の画像は、次のサイトから借用させていただきました。
    https://www.museodelprado.es/en/the-collection

  • ベラスケス『ラス・メニーナス』[2F #12](1656年)<br />円熟の極致が感じられる作品です。絵の中の人物の息遣いが聞こえてきそうな、今にも話しかけてきそうな、そんな臨場感に溢れた絵です。かつて王の私室に飾られていたこの絵画は、世界3大名画のひとつに挙げられたりもしますが、名画中の名画と呼ぶに相応しいものです。ピカソもこの絵にインスピレーションを感じて40枚以上の連作を残し、他にもモネやダリなどもインスピレーションを受けています。また、ベラスケスの影響を受けたマネは、「画家の中の画家」と讃えたほどです。ベラスケスは1599年にセビリアに生まれ、幼い頃から画才を発揮し、24歳の時にフェリペ4世の肖像を描いたのを機に宮廷画家となり、国王や王女などの肖像画や宮廷内を飾る絵画を30数年間描き続けました。王はハプスブルグ家の風貌を全て受け継ぎ、渾名は「無能王・不能王」と蔑まれていましたが、ベラスケスは王の特徴を見事にキャンバスに表現し、めがねに適ったのでした。<br />ベラスケスが描いた作品は120点程あり、スペインを訪れたルーベンスの誘いでイタリアを訪問したのを境に遠近法や学んだ解剖学を絵画に反映させました。しかし2度目のイタリア訪問は4年近くに及ぶも、帰国後は僅か10作を遺しただけです。その10作品の中の1作が門外不出の国宝級の扱いとなっている『ラス・メニーナス』です。この作品が描かれた目的は、フェリペ4世が王女マルガリータの王位継承権をアピールするためだったとの説もあります。実際はこの後に王子が生まれたのですが…。<br />王女マルガリータを中心に描き、侍女や侍従、召使、犬が王女を囲んでいます。左側でキャンバスに向かっているのがベラスケスで、その黒い衣服の胸にサンチアゴ騎士団の紋章である赤い十字架が描かれています。フェリペ4世のお気に入りだったベラスケスは当時職人としての地位しか認められていませんでしたが、自分の肖像画を描くのはベラスケスただ一人とフェリペ4世に言わしめただけでなく、宮廷内最高位である王宮配室長に昇りつめるほどの長年に亘る努力が結実し、家柄や血筋をはじめ細部に亘って厳しい審査がなされる権威ある貴族集団『サンチアゴ騎士団』の入団までが格別の計らいで許され、貴族に列せられています。その年の1659年に赤い十字架の紋章を描き加えたベラスケスでしたが、それは彼がこの世を去る前年のことでした。人物たちの視線は鑑賞者の方へ向けられ、まるで鑑賞者も絵の中の一部といった錯覚に陥ります。この感覚だけを取っても、この絵画が名画中の名画と賞される所以が判る気がします。<br />では絵の中のベラスケスが実際にそのキャンバスに描いているのは誰なのか?その答えは中央奥の鏡の中にあります。そこに映っているのは、フェリペ4世国王夫妻です。鑑賞者である我々のいる側に、国王夫妻がモデルとして並んで立っているのです。つまり鑑賞者は、国王夫妻の視点で絵画の中の人物たちを見ているという設定です。ベラスケスはイタリアから帰った後、ここにも描いているように小人や道化師などを度々モデルにしています。宮廷では、小人や道化師を養うことが伝統となっていたからです。そう言うと聞こえはいいのですが、実際には小人たちは奇形であればあるほど重用され、生きた玩具として扱われ、王子や王女たちの身代わりに体罰を受ける存在だったそうです。しかしベラスケスは、彼らを王家の人々や貴族たちと区別することなく、公平にあるがままの姿を描き出しました。<br />もう一つの見所は遠近法です。近くで見てから後ろまで退き、そこで振り返ると階段を上りかけている執事が更に遠くに見えます。また、写真を見ているようにフォーカスを主役のマルガリータ王女に当て、後方を少しぼかした表現方法を用いているのも特徴です。

    ベラスケス『ラス・メニーナス』[2F #12](1656年)
    円熟の極致が感じられる作品です。絵の中の人物の息遣いが聞こえてきそうな、今にも話しかけてきそうな、そんな臨場感に溢れた絵です。かつて王の私室に飾られていたこの絵画は、世界3大名画のひとつに挙げられたりもしますが、名画中の名画と呼ぶに相応しいものです。ピカソもこの絵にインスピレーションを感じて40枚以上の連作を残し、他にもモネやダリなどもインスピレーションを受けています。また、ベラスケスの影響を受けたマネは、「画家の中の画家」と讃えたほどです。 ベラスケスは1599年にセビリアに生まれ、幼い頃から画才を発揮し、24歳の時にフェリペ4世の肖像を描いたのを機に宮廷画家となり、国王や王女などの肖像画や宮廷内を飾る絵画を30数年間描き続けました。王はハプスブルグ家の風貌を全て受け継ぎ、渾名は「無能王・不能王」と蔑まれていましたが、ベラスケスは王の特徴を見事にキャンバスに表現し、めがねに適ったのでした。
    ベラスケスが描いた作品は120点程あり、スペインを訪れたルーベンスの誘いでイタリアを訪問したのを境に遠近法や学んだ解剖学を絵画に反映させました。しかし2度目のイタリア訪問は4年近くに及ぶも、帰国後は僅か10作を遺しただけです。その10作品の中の1作が門外不出の国宝級の扱いとなっている『ラス・メニーナス』です。この作品が描かれた目的は、フェリペ4世が王女マルガリータの王位継承権をアピールするためだったとの説もあります。実際はこの後に王子が生まれたのですが…。
    王女マルガリータを中心に描き、侍女や侍従、召使、犬が王女を囲んでいます。左側でキャンバスに向かっているのがベラスケスで、その黒い衣服の胸にサンチアゴ騎士団の紋章である赤い十字架が描かれています。フェリペ4世のお気に入りだったベラスケスは当時職人としての地位しか認められていませんでしたが、自分の肖像画を描くのはベラスケスただ一人とフェリペ4世に言わしめただけでなく、宮廷内最高位である王宮配室長に昇りつめるほどの長年に亘る努力が結実し、家柄や血筋をはじめ細部に亘って厳しい審査がなされる権威ある貴族集団『サンチアゴ騎士団』の入団までが格別の計らいで許され、貴族に列せられています。その年の1659年に赤い十字架の紋章を描き加えたベラスケスでしたが、それは彼がこの世を去る前年のことでした。 人物たちの視線は鑑賞者の方へ向けられ、まるで鑑賞者も絵の中の一部といった錯覚に陥ります。この感覚だけを取っても、この絵画が名画中の名画と賞される所以が判る気がします。
    では絵の中のベラスケスが実際にそのキャンバスに描いているのは誰なのか?その答えは中央奥の鏡の中にあります。そこに映っているのは、フェリペ4世国王夫妻です。鑑賞者である我々のいる側に、国王夫妻がモデルとして並んで立っているのです。つまり鑑賞者は、国王夫妻の視点で絵画の中の人物たちを見ているという設定です。 ベラスケスはイタリアから帰った後、ここにも描いているように小人や道化師などを度々モデルにしています。宮廷では、小人や道化師を養うことが伝統となっていたからです。そう言うと聞こえはいいのですが、実際には小人たちは奇形であればあるほど重用され、生きた玩具として扱われ、王子や王女たちの身代わりに体罰を受ける存在だったそうです。しかしベラスケスは、彼らを王家の人々や貴族たちと区別することなく、公平にあるがままの姿を描き出しました。
    もう一つの見所は遠近法です。近くで見てから後ろまで退き、そこで振り返ると階段を上りかけている執事が更に遠くに見えます。また、写真を見ているようにフォーカスを主役のマルガリータ王女に当て、後方を少しぼかした表現方法を用いているのも特徴です。

  • ベラスケス『赤いドレスのマルガリータ王女』[2F #12](1660年)<br />王女9歳の頃の作品です。ベラスケスの絶筆作になるこの作品は、娘婿のマルティネス・デ・マソが頭部と手の部分に加筆して完成させたと言われており、他のマルガリータの絵画に比べると、頭部と身体の大きさがアンバランスになっています。<br />彼女の叔父に当たるレオポルド1世に13歳で嫁いだマルガリータ王女は、皇帝とウィーン宮廷生活を謳歌しました。6人の子供を授かりますが、成人に達したのは娘マリア・アントニアたった一人でした。これは、ハプスブルグ家の血縁関係が濃すぎたことによる弊害でした。因みに彼女の母親マリアナも従兄に嫁ぐ予定でしたが、彼が早逝したためその父親である叔父フェリペ4世に嫁いでいます。何とも数奇な運命です。<br />6人目の子供を死産した後、21歳で亡くなっています。往時の王女の宿命ともいえる政略結婚ではあったものの、衰え始めたスペイン王国を離れてのオーストリアでのレオポルド1世との短い結婚生活は幸せな生活だったようですが、悲惨な最期だったとも言えます。

    ベラスケス『赤いドレスのマルガリータ王女』[2F #12](1660年)
    王女9歳の頃の作品です。ベラスケスの絶筆作になるこの作品は、娘婿のマルティネス・デ・マソが頭部と手の部分に加筆して完成させたと言われており、他のマルガリータの絵画に比べると、頭部と身体の大きさがアンバランスになっています。
    彼女の叔父に当たるレオポルド1世に13歳で嫁いだマルガリータ王女は、皇帝とウィーン宮廷生活を謳歌しました。6人の子供を授かりますが、成人に達したのは娘マリア・アントニアたった一人でした。これは、ハプスブルグ家の血縁関係が濃すぎたことによる弊害でした。因みに彼女の母親マリアナも従兄に嫁ぐ予定でしたが、彼が早逝したためその父親である叔父フェリペ4世に嫁いでいます。何とも数奇な運命です。
    6人目の子供を死産した後、21歳で亡くなっています。往時の王女の宿命ともいえる政略結婚ではあったものの、衰え始めたスペイン王国を離れてのオーストリアでのレオポルド1世との短い結婚生活は幸せな生活だったようですが、悲惨な最期だったとも言えます。

  • ベラスケス『バッカスの勝利』[1F #10](1629年)<br />第10室には『バッカスの勝利』、第11室には『ウルカヌスの鍛冶場』が展示されています。酒の神「バッカス」が酒宴に集まった農民たちにブドウの葉の冠しているギリシア神話に因む絵画です。粗野な農民たちとの酒盛りに神を登場させ、日常的光景の中で際立たせる演出がいかにもベラスケスらしいアイデアです。<br />2作品共にほぼ同時期に描かれたものですが、その画風の違いは歴然としています。これらの作品は、ベラスケスの画風の変換点に位置するものです。ベラスケスは、『バッカス』を描いた直後、偶然、使節としてスペイン王室を訪れたルーベンスに出会い、彼の勧めでイタリアを訪れています。イタリア訪問前の作品『バッカス』はどこかのっぺりとしており、遠近法が見られません。また、イタリアで学んだ解剖学の知識がそれ以後の作品に反映されていきました。進化した最初の記念すべき作品が『ウルカヌスの鍛冶場』です。しかし、『バッカスの勝利』を描き上げてから僅か1年後の作品です。<br />因みに彼が生涯に描いた絵は120点程ありますが、そのほとんどがプラド美術館のコレクションになっています。

    ベラスケス『バッカスの勝利』[1F #10](1629年)
    第10室には『バッカスの勝利』、第11室には『ウルカヌスの鍛冶場』が展示されています。酒の神「バッカス」が酒宴に集まった農民たちにブドウの葉の冠しているギリシア神話に因む絵画です。粗野な農民たちとの酒盛りに神を登場させ、日常的光景の中で際立たせる演出がいかにもベラスケスらしいアイデアです。
    2作品共にほぼ同時期に描かれたものですが、その画風の違いは歴然としています。これらの作品は、ベラスケスの画風の変換点に位置するものです。ベラスケスは、『バッカス』を描いた直後、偶然、使節としてスペイン王室を訪れたルーベンスに出会い、彼の勧めでイタリアを訪れています。イタリア訪問前の作品『バッカス』はどこかのっぺりとしており、遠近法が見られません。また、イタリアで学んだ解剖学の知識がそれ以後の作品に反映されていきました。進化した最初の記念すべき作品が『ウルカヌスの鍛冶場』です。しかし、『バッカスの勝利』を描き上げてから僅か1年後の作品です。
    因みに彼が生涯に描いた絵は120点程ありますが、そのほとんどがプラド美術館のコレクションになっています。

  • ベラスケス『ウルカヌスの鍛冶場』[1F #11](1630年)<br />この作品もギリシア神話に因んだモチーフの作品です。カトリック宗教画一辺倒のスペイン絵画に一矢報いるように、ベラスケスは神話のモチーフにも果敢に挑みました。異教もまた宗教であることを伝えようとしたのです。<br />一見、ある鍛冶場でのワン・シーンを描いた絵画かと思うような作品ですが、ここに描かれているのはオウィディウス『変身物語 (メタモルポーセース)』の中の一挿話、『レウコトエとクリュティエの物語 』の発端となる重要な場面です。<br />左端の月桂冠を被った太陽神アポロが、軍神マルスと愛と美の女神ヴィーナスの不貞を、ヴィーナスの夫である火と鍛冶の神ウルカヌス(左から2番目)に密告するために訪れた場面を描いています。<br />しかし、この光景はあまりにも世俗的であり、さほど重要なシーンとは思えません。ウルカヌスには神々しさが微塵もなく、どう見てもヴィーナスの夫の風貌をしていません。職人たちも、異界から突如現れたアポロに驚いてはいますが、特段感銘を受けている様子はありません。また、不貞を暗示させるような描写もどこにもありません。<br />鑑賞者は何かが描写の中に隠されているのではないかと期待するのですが、ベラスケスは敢えて抑えた筆致で日常のなにげない光景の様に描いています。それこそが、この作品を評価すべき点だそうです。こうした描写は、ベラスケスの現実主義のなせる業です。威厳も崇拝も、全て人に委ねられるという考え方です。

    ベラスケス『ウルカヌスの鍛冶場』[1F #11](1630年)
    この作品もギリシア神話に因んだモチーフの作品です。カトリック宗教画一辺倒のスペイン絵画に一矢報いるように、ベラスケスは神話のモチーフにも果敢に挑みました。異教もまた宗教であることを伝えようとしたのです。
    一見、ある鍛冶場でのワン・シーンを描いた絵画かと思うような作品ですが、ここに描かれているのはオウィディウス『変身物語 (メタモルポーセース)』の中の一挿話、『レウコトエとクリュティエの物語 』の発端となる重要な場面です。
    左端の月桂冠を被った太陽神アポロが、軍神マルスと愛と美の女神ヴィーナスの不貞を、ヴィーナスの夫である火と鍛冶の神ウルカヌス(左から2番目)に密告するために訪れた場面を描いています。
    しかし、この光景はあまりにも世俗的であり、さほど重要なシーンとは思えません。ウルカヌスには神々しさが微塵もなく、どう見てもヴィーナスの夫の風貌をしていません。職人たちも、異界から突如現れたアポロに驚いてはいますが、特段感銘を受けている様子はありません。また、不貞を暗示させるような描写もどこにもありません。
    鑑賞者は何かが描写の中に隠されているのではないかと期待するのですが、ベラスケスは敢えて抑えた筆致で日常のなにげない光景の様に描いています。それこそが、この作品を評価すべき点だそうです。こうした描写は、ベラスケスの現実主義のなせる業です。威厳も崇拝も、全て人に委ねられるという考え方です。

  • エル・グレコ『胸に手を置く騎士』[2F #8B](1580年頃)<br />この作品はスペインの騎士文化を伝える貴重な作品で、「プラドのモナ・リザ」とも称され、プラド美術館の代表作のひとつです。<br />絵のモデルは不詳とされていますが、グレコの青年時代に似ているとも言われています。トレドのサント・トメ教会にある、グレコ作『オルガス伯爵の埋葬』にも登場する人物です。静かにこちらを見つめるその眼差しには眼力があり、時空を越えて視線が合ったような錯覚に陥りドギマギします。<br />この絵には4つの鑑賞ポイントがあります。<br />まず、剣を鞘から抜き、体の前で直立させていることです。この姿は、騎士としての「矜持」  を表現しています。<br />2つ目は、左肩です。 左肩が異様と思われるほど変形 しています。誰でも多少は左右アンバランスですが、この紳士の両肩は極端です。ある説によると、この「左肩の異常」は戦闘による負傷によるとのことです。グレコは卓越した肖像画家でもあり、その人物を誇示したり飾り立てることもなく、ありのままの姿で描きました。そのため、時には不興を買うこともあったそうです。<br />3つ目は、プラドが絵の題名にした「胸に置かれた手」です。この手は通常とは違なり、その指の開き方が少し風変わりです。この手が何を意味するのかは、プラド美術館の公式カタログに次のように記されています。「エレガントに胸に置かれた手は何を意味するのか、後悔の念か、強い信念か、鞘から抜かれた剣とともに固い誓いを意味するものか、畏敬の念を示すのか、あるいは礼節表現か」。つまり美術館も、この手の意味を決めかねています。プラドはこの手を「エレガント」と記していますが、確かに細長くて華奢でさえあり、「戦闘で左肩を負傷した騎士」から想像できる「手」ではありません。<br />4つ目は、手と同様に意味深長なこの紳士の表情です。 威厳ではあるものの、穏やかさ も感じさせる表情です。しかも、紳士の視線は鑑賞者を見ているようですが、僅かに視線を逸らしています。鑑賞者を見ると同時にその背後にある何かを見ているような視線です。いわゆる「八方睨にらみ」の絵と言われる「鑑賞者がどの位置から見ても、自分が見つめられているように感じる絵」になっています。

    エル・グレコ『胸に手を置く騎士』[2F #8B](1580年頃)
    この作品はスペインの騎士文化を伝える貴重な作品で、「プラドのモナ・リザ」とも称され、プラド美術館の代表作のひとつです。
    絵のモデルは不詳とされていますが、グレコの青年時代に似ているとも言われています。トレドのサント・トメ教会にある、グレコ作『オルガス伯爵の埋葬』にも登場する人物です。静かにこちらを見つめるその眼差しには眼力があり、時空を越えて視線が合ったような錯覚に陥りドギマギします。
    この絵には4つの鑑賞ポイントがあります。
    まず、剣を鞘から抜き、体の前で直立させていることです。この姿は、騎士としての「矜持」 を表現しています。
    2つ目は、左肩です。 左肩が異様と思われるほど変形 しています。誰でも多少は左右アンバランスですが、この紳士の両肩は極端です。ある説によると、この「左肩の異常」は戦闘による負傷によるとのことです。グレコは卓越した肖像画家でもあり、その人物を誇示したり飾り立てることもなく、ありのままの姿で描きました。そのため、時には不興を買うこともあったそうです。
    3つ目は、プラドが絵の題名にした「胸に置かれた手」です。この手は通常とは違なり、その指の開き方が少し風変わりです。この手が何を意味するのかは、プラド美術館の公式カタログに次のように記されています。 「エレガントに胸に置かれた手は何を意味するのか、後悔の念か、強い信念か、鞘から抜かれた剣とともに固い誓いを意味するものか、畏敬の念を示すのか、あるいは礼節表現か」。つまり美術館も、この手の意味を決めかねています。プラドはこの手を「エレガント」と記していますが、確かに細長くて華奢でさえあり、「戦闘で左肩を負傷した騎士」から想像できる「手」ではありません。
    4つ目は、手と同様に意味深長なこの紳士の表情です。 威厳ではあるものの、穏やかさ も感じさせる表情です。しかも、紳士の視線は鑑賞者を見ているようですが、僅かに視線を逸らしています。鑑賞者を見ると同時にその背後にある何かを見ているような視線です。いわゆる「八方睨にらみ」の絵と言われる「鑑賞者がどの位置から見ても、自分が見つめられているように感じる絵」になっています。

  • グレコ『羊飼いの礼拝』[2F #10B](1612~14年)<br />マニエリスム絵画の巨匠エル・グレコ晩年の代表作です。現存するグレコの作品は工房作の多い事で知られていますが、全てグレコ自身の筆とされる貴重な作品です。<br />イエスが降誕した夜、ベツレヘム郊外の貧しい羊飼いが大天使のお告げを聞き、彼らが厩の飼葉桶に眠るイエスを礼拝するというテーマです。<br />降誕し威光を放つイエスを中心に奥手へ聖母マリアと聖ヨセフの姿を、手前に駆けつけた羊飼いを、そして上部にイエスの降誕を祝福する天使たちを配しています。光彩表現による明暗の強調や縦に引き伸ばされた人体のデフォルメ、赤と青、緑など原色に近い色使いで表現しているのが、晩年のグレコ作品の特徴です。<br />グレコは工房作も含め本テーマを描いた作品を幾つも手がけていますが、内容や構図、色彩、そして表現手法において至高の作品のひとつとする研究者も多い作品です。

    グレコ『羊飼いの礼拝』[2F #10B](1612~14年)
    マニエリスム絵画の巨匠エル・グレコ晩年の代表作です。現存するグレコの作品は工房作の多い事で知られていますが、全てグレコ自身の筆とされる貴重な作品です。
    イエスが降誕した夜、ベツレヘム郊外の貧しい羊飼いが大天使のお告げを聞き、彼らが厩の飼葉桶に眠るイエスを礼拝するというテーマです。
    降誕し威光を放つイエスを中心に奥手へ聖母マリアと聖ヨセフの姿を、手前に駆けつけた羊飼いを、そして上部にイエスの降誕を祝福する天使たちを配しています。光彩表現による明暗の強調や縦に引き伸ばされた人体のデフォルメ、赤と青、緑など原色に近い色使いで表現しているのが、晩年のグレコ作品の特徴です。
    グレコは工房作も含め本テーマを描いた作品を幾つも手がけていますが、内容や構図、色彩、そして表現手法において至高の作品のひとつとする研究者も多い作品です。

  • グレコ『受胎告知 』[2F #9B](1597~1600年)<br />マドリードのドーニャ・マリア・デ・アラゴン学院の大祭壇衝立下段中央部として制作された作品です。<br />大天使ガブリエルから父なる神の意志により神の子イエスを宿す聖なる器として聖胎を告げられ、それを静粛に受けとめようとする聖母マリアを描いています。<br />中央やや上に描かれた三位一体のひとつである聖霊が放つ神秘的な光によって表現された雰囲気は、グレコ自身の古典的表現からの逸脱を表し、独特のうねるような筆跡が他に類を見ない独特の世界観を顕わにした意欲作です。こうした神秘性を携える表現手法はグレコ後期の特徴のひとつになっていきます。

    グレコ『受胎告知 』[2F #9B](1597~1600年)
    マドリードのドーニャ・マリア・デ・アラゴン学院の大祭壇衝立下段中央部として制作された作品です。
    大天使ガブリエルから父なる神の意志により神の子イエスを宿す聖なる器として聖胎を告げられ、それを静粛に受けとめようとする聖母マリアを描いています。
    中央やや上に描かれた三位一体のひとつである聖霊が放つ神秘的な光によって表現された雰囲気は、グレコ自身の古典的表現からの逸脱を表し、独特のうねるような筆跡が他に類を見ない独特の世界観を顕わにした意欲作です。こうした神秘性を携える表現手法はグレコ後期の特徴のひとつになっていきます。

  • グレコ『聖三位一体』[2F #9B](1577~79年)<br />グレコがスペインへ来て最初に、トレドのサント・ドミンゴ・エル・アンティグオ聖堂のために描いた作品です。因みに、最期に描いたのが『羊飼いの礼拝』です。『聖三位一体』は父なる神と精霊の鳩、受難後のキリストが共に神格であることを表現しています。構図がどことなくミケランジェロの『ピエタ』やドイツ・ルネッサンスの巨匠アルブレヒト・デューラーの木版画に似ているのは、これらに感化されたためとされています。三位一体とは、この世のあらゆるものを創造した父なる神、人間の罪を十字架上で償った神の子イエス、使徒などに下される聖霊の3つが同位で存在することを意味し、現在のキリスト教の最重要教義とされているものです。<br />グレコの力強く荒々しい筆跡とマニエリスム独特の人体表現の奔放さが相俟って、劇的に表現されています。<br /><br />スペインでは余所者扱いされたグレコでしたが、ビザンチン派やヴェネチア派、フランドル派の画風を統合して独特の画風を生みだし、近世スペイン画の祖と言われるほどに出世しました。グレコは、人物は下から仰ぎ見た時にバランスよく美しくなるという観察から、背の高い人物を好んで描いています。この『三位一体』は、スペインでの処女作です。『羊飼いの礼拝』は、最後の絵となります。共に敬虔な宗教画です。

    グレコ『聖三位一体』[2F #9B](1577~79年)
    グレコがスペインへ来て最初に、トレドのサント・ドミンゴ・エル・アンティグオ聖堂のために描いた作品です。因みに、最期に描いたのが『羊飼いの礼拝』です。『聖三位一体』は父なる神と精霊の鳩、受難後のキリストが共に神格であることを表現しています。構図がどことなくミケランジェロの『ピエタ』やドイツ・ルネッサンスの巨匠アルブレヒト・デューラーの木版画に似ているのは、これらに感化されたためとされています。 三位一体とは、この世のあらゆるものを創造した父なる神、人間の罪を十字架上で償った神の子イエス、使徒などに下される聖霊の3つが同位で存在することを意味し、現在のキリスト教の最重要教義とされているものです。
    グレコの力強く荒々しい筆跡とマニエリスム独特の人体表現の奔放さが相俟って、劇的に表現されています。

    スペインでは余所者扱いされたグレコでしたが、ビザンチン派やヴェネチア派、フランドル派の画風を統合して独特の画風を生みだし、近世スペイン画の祖と言われるほどに出世しました。グレコは、人物は下から仰ぎ見た時にバランスよく美しくなるという観察から、背の高い人物を好んで描いています。この『三位一体』は、スペインでの処女作です。『羊飼いの礼拝』は、最後の絵となります。共に敬虔な宗教画です。

  • グレコ『聖霊降臨 』[2F #9B](1605~10年頃)<br />ドーニャ・マリア・デ・アラゴン学院礼拝堂の大祭壇画衝立の一部であったとも推測されている作品です。半円形アーチの額縁処理がなされている点などから『キリストの復活』の対画と考えられています。<br />イエスの昇天から10日の後、五句節の日に聖母マリアや使徒らが集まる家へ嵐のような大きな音が鳴り響き、各々の頭上へ舌の如き炎が灯り、一同を聖霊で満たし、永久にイエスの弟子であることを示すと共に、布教のために異国の言語を話す能力を授かったという奇跡的な逸話をテーマにしています。<br />この作品にも、グレコ最大の特徴であるデフォルメされた人体表現や強烈な色彩による眩い光の表現が顕著に表わされています。

    グレコ『聖霊降臨 』[2F #9B](1605~10年頃)
    ドーニャ・マリア・デ・アラゴン学院礼拝堂の大祭壇画衝立の一部であったとも推測されている作品です。半円形アーチの額縁処理がなされている点などから『キリストの復活』の対画と考えられています。
    イエスの昇天から10日の後、五句節の日に聖母マリアや使徒らが集まる家へ嵐のような大きな音が鳴り響き、各々の頭上へ舌の如き炎が灯り、一同を聖霊で満たし、永久にイエスの弟子であることを示すと共に、布教のために異国の言語を話す能力を授かったという奇跡的な逸話をテーマにしています。
    この作品にも、グレコ最大の特徴であるデフォルメされた人体表現や強烈な色彩による眩い光の表現が顕著に表わされています。

  • バルトロメ・エステバン・ムリーリョ『無原罪の御宿り(エル・エスコリアル)』<br />[2F #17](1660~65年頃)<br />エル・エスコリアールの「ラ・タシータ(親王の館)」が旧蔵していたことから『エル・エスコリアール』と呼ばれ、テーマは神の子イエスの母である聖母マリアがマリアの母アンナ(イエスの祖母)の胎内に宿った瞬間、神の恩寵により原罪から免れたとする、最初は東方で唱えられ神学者の間で盛んに議論された後、1854年に公認された教理「無原罪お御宿り」で、17世紀スペインにおいて最もポピュラーなテーマのひとつでした。聖三位の一位であるイエス、その聖器のマリア、マリアを生んだアンナそれぞれの関係性の議論により当時は公認されていなかったこの複雑な図解的規定を、学の無い者でも判り易いようにムリーリョは簡略化し表現しています。<br />ムリーリョは1618年スペインで生まれ、幼い頃に両親を失いました。結婚後も5人の息子を次々とペストで失い、6人目の娘は耳が聞こえませんでした。本人も1682年に作画中に足場から落下して亡くなりました。ムリーリョは10枚以上の「無原罪の御宿り」を描いたようですが、年代から考えると、5人の息子を失った頃から何かに憑かれたように描き始めています。この作品は最も早い時期の作品で、最も有名な作品です。マリアは少女のあどけなさが残る姿で描かれています。マリアは上限の月の上に立ち、天使に祝福されています。白と青で無原罪を示したと思われ、構図的には右側が重いため、左側の青いベールを大きめにするのと顔を少し左に傾けてバランスをとっています。

    バルトロメ・エステバン・ムリーリョ『無原罪の御宿り(エル・エスコリアル)』
    [2F #17](1660~65年頃)
    エル・エスコリアールの「ラ・タシータ(親王の館)」が旧蔵していたことから『エル・エスコリアール』と呼ばれ、テーマは神の子イエスの母である聖母マリアがマリアの母アンナ(イエスの祖母)の胎内に宿った瞬間、神の恩寵により原罪から免れたとする、最初は東方で唱えられ神学者の間で盛んに議論された後、1854年に公認された教理「無原罪お御宿り」で、17世紀スペインにおいて最もポピュラーなテーマのひとつでした。聖三位の一位であるイエス、その聖器のマリア、マリアを生んだアンナそれぞれの関係性の議論により当時は公認されていなかったこの複雑な図解的規定を、学の無い者でも判り易いようにムリーリョは簡略化し表現しています。
    ムリーリョは1618年スペインで生まれ、幼い頃に両親を失いました。結婚後も5人の息子を次々とペストで失い、6人目の娘は耳が聞こえませんでした。本人も1682年に作画中に足場から落下して亡くなりました。ムリーリョは10枚以上の「無原罪の御宿り」を描いたようですが、年代から考えると、5人の息子を失った頃から何かに憑かれたように描き始めています。この作品は最も早い時期の作品で、最も有名な作品です。マリアは少女のあどけなさが残る姿で描かれています。マリアは上限の月の上に立ち、天使に祝福されています。白と青で無原罪を示したと思われ、構図的には右側が重いため、左側の青いベールを大きめにするのと顔を少し左に傾けてバランスをとっています。

  • ムリーリョ『善き牧者としての幼児キリスト』<br />[2F #17](1655~60年頃) <br />柔らかく繊細で豊かな叙情的描写が見事なムリーリョ屈指の代表作であり、牧歌的な美しい作品です。制作の詳細は不明ですが、1746年、国王フェリペ5世の王妃イザベル・デ・ファルネシオがセビリア滞在の際に買い上げ、その後1794年、アランフェス宮の国王夫妻の寝室に飾られていたことが記録に残されています。<br />テーマは、罪を犯した人間が悔悛し、それを受け入れる神の姿を、1匹の子羊が迷っているのを羊飼いが見つけることができて喜んでいる姿として表した教義「善き羊飼い」です。理想的な田園風景を借景に愛らしくも神の子としての威厳を兼ね備える幼子イエスの神々しい描写がムリーリョの真骨頂です。こうした柔らかく繊細に描写された風景や登場人物の表現は、故郷セビリアを中心に圧倒的な人気を博し、スペインの美術の地位を再度諸外国に知らしめることになりました。<br />

    ムリーリョ『善き牧者としての幼児キリスト』
    [2F #17](1655~60年頃)
    柔らかく繊細で豊かな叙情的描写が見事なムリーリョ屈指の代表作であり、牧歌的な美しい作品です。制作の詳細は不明ですが、1746年、国王フェリペ5世の王妃イザベル・デ・ファルネシオがセビリア滞在の際に買い上げ、その後1794年、アランフェス宮の国王夫妻の寝室に飾られていたことが記録に残されています。
    テーマは、罪を犯した人間が悔悛し、それを受け入れる神の姿を、1匹の子羊が迷っているのを羊飼いが見つけることができて喜んでいる姿として表した教義「善き羊飼い」です。理想的な田園風景を借景に愛らしくも神の子としての威厳を兼ね備える幼子イエスの神々しい描写がムリーリョの真骨頂です。こうした柔らかく繊細に描写された風景や登場人物の表現は、故郷セビリアを中心に圧倒的な人気を博し、スペインの美術の地位を再度諸外国に知らしめることになりました。

  • ペーター=パウル・ルーベンス『三美神』[2F #29](1637年)<br />1577年にドイツで生まれ、10歳で両親の祖国だったフランドル地方へ帰郷したルーベンスは、17世紀バロック期を代表するフランドル絵画の巨匠です。23歳の時、アントワープを離れ芸術の中心地だったイタリアへ勉学に赴いた彼は、マントヴァ公爵の寵愛を受けて宮廷画家となった後、30歳で重病の母のためアントワープに戻って定住し、スペイン領だった祖国ネーデルランドの宮廷画家として1609~21年まで活躍しました。1628年には外交官となり、その時に訪れたマドリードで22歳年下のベラスケスと出会っています。一期一会とはよく言ったもので、この出会いがなければもしかしたら『三美神』は生まれていなかったかもしれません。またルーベンスは多くの画家を集めて「ルーベンス工房」を開き、教会や宮廷の大きな絵画や肖像画だけでなく、タペストリーや本の挿絵、スケッチにいたるまで63年の生涯の中で2500点以上もの膨大な作品を手がけています。<br /><br />この作品は、ルーベンス後期の傑作と称されています。愛の女神ヴィーナスに仕える三美神は、古代神話の時代から優雅さや美の擬人像とされてきました。「愛と欲望とその成就」を表しているとも、「純粋と美と愛」を表しているともされ、また「歓喜と美と快楽」を意味するとも、「恩恵を与える者と受け取る者、そして返礼する者」を意味するとも言われ、多様な解釈があります。<br />そうした神話はともかく、豊満で華麗な官能美を描くために三美神を選んだというのが真相だそうです。ルーベンスの特徴は、躍動感のある構図と大胆な筆遣いに色使いで、女性の肌はまるで血を混ぜて描いているかのように生き生きとした透明感に溢れていると称されています。

    ペーター=パウル・ルーベンス『三美神』[2F #29](1637年)
    1577年にドイツで生まれ、10歳で両親の祖国だったフランドル地方へ帰郷したルーベンスは、17世紀バロック期を代表するフランドル絵画の巨匠です。 23歳の時、アントワープを離れ芸術の中心地だったイタリアへ勉学に赴いた彼は、マントヴァ公爵の寵愛を受けて宮廷画家となった後、30歳で重病の母のためアントワープに戻って定住し、スペイン領だった祖国ネーデルランドの宮廷画家として1609~21年まで活躍しました。1628年には外交官となり、その時に訪れたマドリードで22歳年下のベラスケスと出会っています。一期一会とはよく言ったもので、この出会いがなければもしかしたら『三美神』は生まれていなかったかもしれません。 またルーベンスは多くの画家を集めて「ルーベンス工房」を開き、教会や宮廷の大きな絵画や肖像画だけでなく、タペストリーや本の挿絵、スケッチにいたるまで63年の生涯の中で2500点以上もの膨大な作品を手がけています。

    この作品は、ルーベンス後期の傑作と称されています。愛の女神ヴィーナスに仕える三美神は、古代神話の時代から優雅さや美の擬人像とされてきました。「愛と欲望とその成就」を表しているとも、「純粋と美と愛」を表しているともされ、また「歓喜と美と快楽」を意味するとも、「恩恵を与える者と受け取る者、そして返礼する者」を意味するとも言われ、多様な解釈があります。
    そうした神話はともかく、豊満で華麗な官能美を描くために三美神を選んだというのが真相だそうです。ルーベンスの特徴は、躍動感のある構図と大胆な筆遣いに色使いで、女性の肌はまるで血を混ぜて描いているかのように生き生きとした透明感に溢れていると称されています。

  • レンブラント・ファン・レイン『アルテミシア』[2F #16B](1635年頃)<br />レンブラントが28歳の頃の作品です。カラヴァッジオ的な明暗法と劇的な一瞬の表現から出発した彼の代表作と言えます。<br />しかしこの絵のテーマは不祥で、少女から今まさに運命の杯を受けようする女王アルテミシアあるいはソフォニスバだとの2つの説があります。いずれにしても、顔や手の表情に微妙な心の揺らぎが描写されています。描かれた杯には、アルテミシアの夫マウソラス王の遺灰、またはソフォニスバを殺した毒が入っていることになります。<br />まず、アルテミシアと仮定して話を進めます。<br />アルテミシアは、紀元前4世紀の古代小アジア都市国家カリア(首都ハリカルナッソス)の王マウソロスの妹であり妃でした。カリア国では統治者がその姉妹と結婚するのが慣習でした。その理由のひとつが、家族内の力や富を維持するためです。夫の死後、暫くは良く国を統治していましたが、夫の遺灰をワインに混ぜて飲み込み、自らを夫の墓と化して悲しみのうちに息絶えたと伝えられています。こうしたことから、アルテミシアは献身的な妻の鑑とされています。マウソロス霊廟はマウソロスとその妻アルテミシアの遺体を安置するために造られた霊廟で、後に世界七不思議の一つに選ばれています。<br />しかし近年プラド美術館は、この絵画をアルテミシアではなくソフォニスバを描いたものだとの解釈を示しています。<br />カルタゴの将軍アスドルバルの娘ソフォニスバは領主マシニッサと結婚するが、結婚初夜にローマとカルタゴの間に戦争が勃発し、マシニッサは戦地に向かいました。アスドルバルはカルタゴを守るため義理の息子マシニッサの恋敵シュファクスと結び、そのシュファクスはソフォニスバを我がものにしようと企てました。シュファクスはローマ側についたマシニッサと一騎討ちで戦うが、敗北して捕らえられ、腹いせにローマ将軍スキピオに向かってソフォニスバを中傷し、ローマに対する謀反を煽る悪女であると告げました。そのため、スキピオはソフォニスバを捕虜として凱旋の見せしめにローマへ連れ帰ることに決めました。ソフォニスバは、捕虜の恥辱を受けることを拒み、マシニッサにもらった毒を飲んで自殺したのです。<br />余談ですが、絵のモデルはレンブラントの妻サスキアです。夫婦の愛をこの作品に込めたとも言われています。因みにこの作品が完成した1635年に2人は結婚しています。どちらの解釈にせよ、高揚した夫婦愛を扱った作品であることは間違いありません。こうした絵画を夫婦で鑑賞できたのも何かの縁なのでしょうね!

    レンブラント・ファン・レイン『アルテミシア』[2F #16B](1635年頃)
    レンブラントが28歳の頃の作品です。カラヴァッジオ的な明暗法と劇的な一瞬の表現から出発した彼の代表作と言えます。
    しかしこの絵のテーマは不祥で、少女から今まさに運命の杯を受けようする女王アルテミシアあるいはソフォニスバだとの2つの説があります。いずれにしても、顔や手の表情に微妙な心の揺らぎが描写されています。描かれた杯には、アルテミシアの夫マウソラス王の遺灰、またはソフォニスバを殺した毒が入っていることになります。
    まず、アルテミシアと仮定して話を進めます。
    アルテミシアは、紀元前4世紀の古代小アジア都市国家カリア(首都ハリカルナッソス)の王マウソロスの妹であり妃でした。カリア国では統治者がその姉妹と結婚するのが慣習でした。その理由のひとつが、家族内の力や富を維持するためです。夫の死後、暫くは良く国を統治していましたが、夫の遺灰をワインに混ぜて飲み込み、自らを夫の墓と化して悲しみのうちに息絶えたと伝えられています。こうしたことから、アルテミシアは献身的な妻の鑑とされています。マウソロス霊廟はマウソロスとその妻アルテミシアの遺体を安置するために造られた霊廟で、後に世界七不思議の一つに選ばれています。
    しかし近年プラド美術館は、この絵画をアルテミシアではなくソフォニスバを描いたものだとの解釈を示しています。
    カルタゴの将軍アスドルバルの娘ソフォニスバは領主マシニッサと結婚するが、結婚初夜にローマとカルタゴの間に戦争が勃発し、マシニッサは戦地に向かいました。アスドルバルはカルタゴを守るため義理の息子マシニッサの恋敵シュファクスと結び、そのシュファクスはソフォニスバを我がものにしようと企てました。シュファクスはローマ側についたマシニッサと一騎討ちで戦うが、敗北して捕らえられ、腹いせにローマ将軍スキピオに向かってソフォニスバを中傷し、ローマに対する謀反を煽る悪女であると告げました。そのため、スキピオはソフォニスバを捕虜として凱旋の見せしめにローマへ連れ帰ることに決めました。ソフォニスバは、捕虜の恥辱を受けることを拒み、マシニッサにもらった毒を飲んで自殺したのです。
    余談ですが、絵のモデルはレンブラントの妻サスキアです。夫婦の愛をこの作品に込めたとも言われています。因みにこの作品が完成した1635年に2人は結婚しています。どちらの解釈にせよ、高揚した夫婦愛を扱った作品であることは間違いありません。こうした絵画を夫婦で鑑賞できたのも何かの縁なのでしょうね!

  • ゴヤ『カルロス4世の家族』[2F #32](1800年)<br />ゴヤの主席宮廷画家昇進を記念して1800年にアランフェスの離宮で描かれたカルロス4世一家の肖像画ですが、内容は風刺っぽい滑稽さが満載です。<br />ゴヤは人数が13という不吉な数字であることを嫌って自らの姿を暗がりに加えています。左奥にじっと正面に目を向け、隠れるようにひっそりと立っています。冷徹な観察眼で見た通りに描き上げたものの、「こんな絵で申し訳ありません」とでも言っているような表情です。<br />ゴヤは見たまま感じたままに絵筆を走らせています。総勢14名が揃った画面には、家族の絆が通い合っている気配は微塵も感じられません。各々が向ける視線もばらばらです。ここには、愚鈍と退廃の描写が満ちており、さらには虚飾と混沌のスペイン国王の実態を炙り出しています。美術品を見抜く目は一流でも政治を宰相に任せて狩猟やビリヤード、時計のコレクションに明け暮れ「無能王」とも渾名された暗愚なカルロス4世は、勲章を下げているからかろうじて王だと判りますが、自信なさげな表情と肥満体には王の威厳は毛頭感じられません。<br />その右脇の宰相ゴドイと愛人関係にあった王妃マリア・ルイサの品性を欠く表情、その王妃の両脇にいる王女と王子のゴドイ似の顔立ちまでも忠実に描いています。近衛兵士だったゴドイを宰相に推したのも、男好きで権力欲が強かった王妃でした。彼女は2人の子どもを引き寄せていますが、その腕のボリュームも美とは縁遠い描写になっています。<br />王の姉は、こめかみに膏薬を貼っています。写真でもあるまいし、ここまで正確に描写する必要があるのでしょうか…。<br />この絵をカルロス4世は大層喜んだそうですから、如何に知性に欠け、おめでたかったかが窺えます。従ってこの作品は、美術品としてよりも、時代の実写記録として高く評価されています。<br />左側に立つ皇太子フェルナンドは父から王位を奪ってフェルナンド7世として即位しますが、それ以前にゴドイがナポレオンと密約を交わして10万人のフランス軍がスペイン北部と中部の主要都市を制圧して駐屯するという事態が起こっています。これに対して反ゴドイ派の貴族が大衆を率いて蜂起してゴドイを失脚させ、この2日後に皇太子がフェルナンド7世として即位しています。しかしその後、ナポレオンによって退位させられ、ナポレオンの兄がホセ1世として王位に就きました。そして王族にパリへ移るよう命じると、マドリードの民衆が立ち上がってフランス軍を襲撃する事態へと発展しました。しかし圧倒的な数にものを言わせたフランス軍に数時間で鎮圧され、捕らえられた数百人はプリンシペ・ピオの丘で銃殺の憂き目に遭いました。それでもこの事件は全ヨーロッパの独裁者になろうとしていたナポレオンへの戦線布告となり、以後6年間に亘る独立戦争の幕開けとなりました。

    ゴヤ『カルロス4世の家族』[2F #32](1800年)
    ゴヤの主席宮廷画家昇進を記念して1800年にアランフェスの離宮で描かれたカルロス4世一家の肖像画ですが、内容は風刺っぽい滑稽さが満載です。
    ゴヤは人数が13という不吉な数字であることを嫌って自らの姿を暗がりに加えています。左奥にじっと正面に目を向け、隠れるようにひっそりと立っています。冷徹な観察眼で見た通りに描き上げたものの、「こんな絵で申し訳ありません」とでも言っているような表情です。
    ゴヤは見たまま感じたままに絵筆を走らせています。総勢14名が揃った画面には、家族の絆が通い合っている気配は微塵も感じられません。各々が向ける視線もばらばらです。ここには、愚鈍と退廃の描写が満ちており、さらには虚飾と混沌のスペイン国王の実態を炙り出しています。美術品を見抜く目は一流でも政治を宰相に任せて狩猟やビリヤード、時計のコレクションに明け暮れ「無能王」とも渾名された暗愚なカルロス4世は、勲章を下げているからかろうじて王だと判りますが、自信なさげな表情と肥満体には王の威厳は毛頭感じられません。
    その右脇の宰相ゴドイと愛人関係にあった王妃マリア・ルイサの品性を欠く表情、その王妃の両脇にいる王女と王子のゴドイ似の顔立ちまでも忠実に描いています。近衛兵士だったゴドイを宰相に推したのも、男好きで権力欲が強かった王妃でした。彼女は2人の子どもを引き寄せていますが、その腕のボリュームも美とは縁遠い描写になっています。
    王の姉は、こめかみに膏薬を貼っています。写真でもあるまいし、ここまで正確に描写する必要があるのでしょうか…。
    この絵をカルロス4世は大層喜んだそうですから、如何に知性に欠け、おめでたかったかが窺えます。従ってこの作品は、美術品としてよりも、時代の実写記録として高く評価されています。
    左側に立つ皇太子フェルナンドは父から王位を奪ってフェルナンド7世として即位しますが、それ以前にゴドイがナポレオンと密約を交わして10万人のフランス軍がスペイン北部と中部の主要都市を制圧して駐屯するという事態が起こっています。これに対して反ゴドイ派の貴族が大衆を率いて蜂起してゴドイを失脚させ、この2日後に皇太子がフェルナンド7世として即位しています。しかしその後、ナポレオンによって退位させられ、ナポレオンの兄がホセ1世として王位に就きました。そして王族にパリへ移るよう命じると、マドリードの民衆が立ち上がってフランス軍を襲撃する事態へと発展しました。しかし圧倒的な数にものを言わせたフランス軍に数時間で鎮圧され、捕らえられた数百人はプリンシペ・ピオの丘で銃殺の憂き目に遭いました。それでもこの事件は全ヨーロッパの独裁者になろうとしていたナポレオンへの戦線布告となり、以後6年間に亘る独立戦争の幕開けとなりました。

  • ゴヤ『裸のマハ』・『着衣のマハ』[2F #36]<br />『裸のマハ』の制作年は1797~1800年頃、『着衣のマハ』の制作年は1800~05年頃とされていていますが、正確な年は不明だそうです。デューラーの『アダム』と『イヴ』がドイツ絵画史上初めて描かれた等身大の人物画ならば、『裸のマハ』はスペイン絵画史上初の裸体画です。この時代はキリスト教が裸の女性の絵を禁止じていたため、来客のある日は『裸のマハ』を『着衣のマハ』で覆い隠していたそうです。そのために『着衣のマハ』は『裸のマハ』に比べ描画が粗くなっています。しかし、そのうちこのことが公になってしまい、異端審問所から追求を受けたそうです。<br />モデルとなった女性が誰なのかは謎のままで、そもそもモデルがいたのかどうかも不明だそうです。「マハ」とは名前ではなく、「いい女」という意味で、他にも「ヴィーナス」や「ジプシー女」など様々な愛称で呼ばれていました。ともあれ、200年の時空を越えてその神秘的な微笑が世界中の人々を惹きつけていることに変わりはありません。<br />注文主は美術品収集家として有名な宰相ゴドイと伝えられ、マハのモデルは彼の愛人のアルバ公爵夫人やペピータなど様々に憶測されており、マハの顔がペピータに似ていると言う者もいたそうです。そのゴドイ邸にはベラスケス『鏡のヴィーナス』があり、この名作に並ぶ裸体画をゴヤに依頼したものと推察されています。

    ゴヤ『裸のマハ』・『着衣のマハ』[2F #36]
    『裸のマハ』の制作年は1797~1800年頃、『着衣のマハ』の制作年は1800~05年頃とされていていますが、正確な年は不明だそうです。 デューラーの『アダム』と『イヴ』がドイツ絵画史上初めて描かれた等身大の人物画ならば、『裸のマハ』はスペイン絵画史上初の裸体画です。この時代はキリスト教が裸の女性の絵を禁止じていたため、来客のある日は『裸のマハ』を『着衣のマハ』で覆い隠していたそうです。そのために『着衣のマハ』は『裸のマハ』に比べ描画が粗くなっています。しかし、そのうちこのことが公になってしまい、異端審問所から追求を受けたそうです。
    モデルとなった女性が誰なのかは謎のままで、そもそもモデルがいたのかどうかも不明だそうです。「マハ」とは名前ではなく、「いい女」という意味で、他にも「ヴィーナス」や「ジプシー女」など様々な愛称で呼ばれていました。ともあれ、200年の時空を越えてその神秘的な微笑が世界中の人々を惹きつけていることに変わりはありません。
    注文主は美術品収集家として有名な宰相ゴドイと伝えられ、マハのモデルは彼の愛人のアルバ公爵夫人やペピータなど様々に憶測されており、マハの顔がペピータに似ていると言う者もいたそうです。そのゴドイ邸にはベラスケス『鏡のヴィーナス』があり、この名作に並ぶ裸体画をゴヤに依頼したものと推察されています。

  • ゴヤ『マドリード1808年5月3日』[1F #64](1814年) <br />ナポレオン支配に抵抗して戦った民衆が処刑される場面です。血を流して倒れている者やまさに今銃殺されんとする者、悲劇を目の当たりにしながら銃殺を待たされる者など、今にも銃声や嗚咽、呻き声が聞こえてきそうな臨場感に溢れています。<br />そんな張り詰めた空気の中、ゴヤは両腕を上げた白服の男の右手に聖痕を描いたり、左端の暗がりに赤子を抱いた女性の姿を描くなど、そこからイエスや聖母子をイメージさせるトラップを仕掛けています。銃殺された人々が神によって救われるよう願ってのことかとつい深読みしてしまいます。<br />因みに、1813年、フランス軍はスペインからの撤退を余儀なくされ、フェルナンド7世が再び王位に就いて絶対王政を敷くことになりました。

    ゴヤ『マドリード1808年5月3日』[1F #64](1814年)
    ナポレオン支配に抵抗して戦った民衆が処刑される場面です。血を流して倒れている者やまさに今銃殺されんとする者、悲劇を目の当たりにしながら銃殺を待たされる者など、今にも銃声や嗚咽、呻き声が聞こえてきそうな臨場感に溢れています。
    そんな張り詰めた空気の中、ゴヤは両腕を上げた白服の男の右手に聖痕を描いたり、左端の暗がりに赤子を抱いた女性の姿を描くなど、そこからイエスや聖母子をイメージさせるトラップを仕掛けています。銃殺された人々が神によって救われるよう願ってのことかとつい深読みしてしまいます。
    因みに、1813年、フランス軍はスペインからの撤退を余儀なくされ、フェルナンド7世が再び王位に就いて絶対王政を敷くことになりました。

  • ゴヤ『わが子を喰らうサチュルヌス』[1F #65](1820~23年)<br />ゴヤの作風は、50歳の頃から暗い陰鬱な印象のものに激変します。梅毒に侵されていたため、生まれた子供も梅毒に感染していたと言われています。ですからその心理を抉るような異常な絵も描いています。<br />サトゥルヌスは、ローマ神話の農耕神で主神ユピテルの父。鎌で父ウラノスを去勢させて権力を奪いました。予言で、自分と同じように、我が子に支配権を奪われると言われ、次々と我が子を食らって殺したという伝説があります。<br />ゴヤはこの絵を自分の家の食堂に飾っていたと言いますから、この頃の精神状態は極めて危険な状態だったと窺えます。因みに、後世の加筆で男根の勃起が隠されたそうです。<br /><br />『黒い絵』の連作14枚(1820~23年)は、観ているうちに気持ちに澱が溜まっていく感じのするとても重い作品となっており、作者の精神状態が窺える描写です。これらは隠遁に近い生活になって移り住んだ別荘の壁に描かれた作品ですが、その後、漆喰ごと剥がされてここに収められました。ほとんど黒色で描かれ、 かすかに他の色が差している不気味な絵が、大きな部屋に並べられています。作品の題名は、『わが子を喰らうサトゥルヌス』『棍棒で殴り合う男たち』『魔女の夜宴』…。とても陰鬱な題名の作品ばかりです。家族と住まう家の壁にこうした絵を描いた心理状態が如何なるものだったのか…。<br />画家としての階段を駆け昇ってきたゴヤが、晩年になってその過程の自分の姿に良心の呵責を感じ、言いようのない不安と人間不信を感じた結果とは言えないでしょうか?時に冷徹に、時に嘲笑を込めて、また自己の才能の迸りに満足しながらキャンバスに向かったゴヤが、激動の時代の生身の人間として自分に向き合い、最期に描いたのがこの一連の傑作だったのです。<br /><br />ゴヤ(1746~1828年)の画家としての生涯は、3つの時代に分けることができます。初めが、王立タペストリー工場で下絵『カルトン』を描いた時期です。その頃の代表作が『村の結婚式』です。描かれている人物の顔を観れば、愛のない結婚の深層を鋭く見抜いていることが窺えます。全然幸せそうな表情をしていません。<br />次が、王室画家の時期です。『カルロス4世の家族』『1808年5月2日『『1808年5月3日』は、その頃の作品です。<br />最後が、宮廷を離れ、郊外の別荘やフランスのボルドーで暮らした時代です。彼は40歳代で聴力を失うのですが、妻ホセファが亡くなって再婚すると1819年には新しい家族とマドリード郊外の別荘に引き籠もってしまいます。最高傑作『黒い絵』の連作は、別荘の食堂やサロンの漆喰の壁に描かれたものですが、その頃の流れが、病気療養を口実にして出かけたボルドーへと浸み込んでいくのです。<br />時代毎の絵画を見比べるうちに、ゴヤが王室画家だった時代にすでに屈折した内面を絵画に表現していることに気付かされました。ゴヤが王室に仕えた時期は、スペインの能なしカルロス4世から征服者ナポレオン1世の兄ホセ1世、さらに復位したフェルナンド7世へとめまぐるしく変遷した時代です。王が代わる度、ヨー ロッパ史上激動の時代の政治の立ち位置は180度大転換させられました。ゴヤは、この3人に仕えたのですから、病むのも止むを得ない気がします。

    ゴヤ『わが子を喰らうサチュルヌス』[1F #65] (1820~23年)
    ゴヤの作風は、50歳の頃から暗い陰鬱な印象のものに激変します。梅毒に侵されていたため、生まれた子供も梅毒に感染していたと言われています。ですからその心理を抉るような異常な絵も描いています。
    サトゥルヌスは、ローマ神話の農耕神で主神ユピテルの父。鎌で父ウラノスを去勢させて権力を奪いました。予言で、自分と同じように、我が子に支配権を奪われると言われ、次々と我が子を食らって殺したという伝説があります。
    ゴヤはこの絵を自分の家の食堂に飾っていたと言いますから、この頃の精神状態は極めて危険な状態だったと窺えます。因みに、後世の加筆で男根の勃起が隠されたそうです。

    『黒い絵』の連作14枚(1820~23年)は、観ているうちに気持ちに澱が溜まっていく感じのするとても重い作品となっており、作者の精神状態が窺える描写です。これらは隠遁に近い生活になって移り住んだ別荘の壁に描かれた作品ですが、その後、漆喰ごと剥がされてここに収められました。ほとんど黒色で描かれ、 かすかに他の色が差している不気味な絵が、大きな部屋に並べられています。作品の題名は、『わが子を喰らうサトゥルヌス』『棍棒で殴り合う男たち』『魔女の夜宴』…。とても陰鬱な題名の作品ばかりです。家族と住まう家の壁にこうした絵を描いた心理状態が如何なるものだったのか…。
    画家としての階段を駆け昇ってきたゴヤが、晩年になってその過程の自分の姿に良心の呵責を感じ、言いようのない不安と人間不信を感じた結果とは言えないでしょうか?時に冷徹に、時に嘲笑を込めて、また自己の才能の迸りに満足しながらキャンバスに向かったゴヤが、激動の時代の生身の人間として自分に向き合い、最期に描いたのがこの一連の傑作だったのです。

    ゴヤ(1746~1828年)の画家としての生涯は、3つの時代に分けることができます。初めが、王立タペストリー工場で下絵『カルトン』を描いた時期です。その頃の代表作が『村の結婚式』です。描かれている人物の顔を観れば、愛のない結婚の深層を鋭く見抜いていることが窺えます。全然幸せそうな表情をしていません。
    次が、王室画家の時期です。『カルロス4世の家族』『1808年5月2日『『1808年5月3日』は、その頃の作品です。
    最後が、宮廷を離れ、郊外の別荘やフランスのボルドーで暮らした時代です。彼は40歳代で聴力を失うのですが、妻ホセファが亡くなって再婚すると1819年には新しい家族とマドリード郊外の別荘に引き籠もってしまいます。最高傑作『黒い絵』の連作は、別荘の食堂やサロンの漆喰の壁に描かれたものですが、その頃の流れが、病気療養を口実にして出かけたボルドーへと浸み込んでいくのです。
    時代毎の絵画を見比べるうちに、ゴヤが王室画家だった時代にすでに屈折した内面を絵画に表現していることに気付かされました。ゴヤが王室に仕えた時期は、スペインの能なしカルロス4世から征服者ナポレオン1世の兄ホセ1世、さらに復位したフェルナンド7世へとめまぐるしく変遷した時代です。王が代わる度、ヨー ロッパ史上激動の時代の政治の立ち位置は180度大転換させられました。ゴヤは、この3人に仕えたのですから、病むのも止むを得ない気がします。

  • ゴヤ『日傘』[1F #86](1777年)<br />ゴヤが王立タピスリー工場で原画画家として働いていた頃、皇太子夫妻(後のカルロス4世及びマリア・イルサ)の依頼により、エル・パルド宮にある食堂の装飾用タピスリーの原画として制作された作品です。ゴヤを始め複数の画家が手がけた総数63枚にも及ぶタピスリー共通のテーマは、「愉快に余暇を過ごす民衆」でした。<br />マハなる若い娘は往時流行だった鮮やかなブルーの衣服と黄色いスカートを身に着け、膝の上に子犬を乗せながら土手の上に座り、傍らのマホなる若い男が日傘を差し出す構図です。背景にはやや背の高い壁と雲がかかった青空、青々と茂る木々が配されています。<br />若い男女と日傘で三角形の基本構図を形成し、日傘によって微妙に変化する若い娘の顔の陰影の描写や明瞭かつ軽快な色彩による衣服の表現などは絵画に対する高い意欲と挑戦が感じられます。さらに下級階層の者には特別な存在のマハとマホをモチーフに選定するという人間観察的な側面も見出すことができ、ゴヤの世相や人間への高い関心が表現されています。

    ゴヤ『日傘』[1F #86](1777年)
    ゴヤが王立タピスリー工場で原画画家として働いていた頃、皇太子夫妻(後のカルロス4世及びマリア・イルサ)の依頼により、エル・パルド宮にある食堂の装飾用タピスリーの原画として制作された作品です。ゴヤを始め複数の画家が手がけた総数63枚にも及ぶタピスリー共通のテーマは、「愉快に余暇を過ごす民衆」でした。
    マハなる若い娘は往時流行だった鮮やかなブルーの衣服と黄色いスカートを身に着け、膝の上に子犬を乗せながら土手の上に座り、傍らのマホなる若い男が日傘を差し出す構図です。背景にはやや背の高い壁と雲がかかった青空、青々と茂る木々が配されています。
    若い男女と日傘で三角形の基本構図を形成し、日傘によって微妙に変化する若い娘の顔の陰影の描写や明瞭かつ軽快な色彩による衣服の表現などは絵画に対する高い意欲と挑戦が感じられます。さらに下級階層の者には特別な存在のマハとマホをモチーフに選定するという人間観察的な側面も見出すことができ、ゴヤの世相や人間への高い関心が表現されています。

  • フラ・アンジェリコ『受胎告知』[1F #56B](1425~28年) <br />15世紀のイタリ・ルネッサンス史に燦然と輝くフィレンツェ派の巨匠フラ・アンジェリコは、フィレンツェの農村地方で生まれ、本名をグィード・ディ・ピエトロと言います。20歳以前の経歴はあまり知られていませんが、1417年に画家として活動を始め、1425年にドミニコ修道士となって宗教書の写本装飾師として絵を描いています。イエスの磔刑図を描きながら涙を流すほど信仰心が篤く、静謐で美しい光に満ちた宗教画や敬虔で愛らしい人柄から「天使の(アンジェリコ)画家」と慕われ、彼の死後、誰が授けたかフラ・アンジェリコが彼の名になっています。1982年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世により、「福者」に列せられています。フィレンツェから北へ4kmほどの丘にあるフィエゾレ町のサン・ドミニコ教会から1611年にスペインに売られてきたのがこの作品です。特徴は、明確な輪郭線と黄金色の使用により、テーマの聖性を強調している点です。また、大天使ガブリエルがマリアに受胎を告げている御堂の左奥に楽園を追放されたアダムとイヴの姿を描くことで、神の子イエスの正統性と絶対性を暗示させています。<br />大画の下にあるプレデッラ部分には、聖母マリアの婚姻から聖母マリア被昇天に至るまでのマリアの生涯を5連の帯状に描いています。<br />古来より多くの画家が描いてきたテーマですが、その中でもアンジェリコの作品は敬虔で清楚な独自の世界観が描かれていると評されています。拘りを持っていたのか、この絵画の他にも似た構図のものを幾度も描いています。彼が生涯を過ごしたサン・マルコ修道院(現サン・マルコ美術館)でもその壁画を見ることができます。

    フラ・アンジェリコ『受胎告知』[1F #56B](1425~28年)
    15世紀のイタリ・ルネッサンス史に燦然と輝くフィレンツェ派の巨匠フラ・アンジェリコは、フィレンツェの農村地方で生まれ、本名をグィード・ディ・ピエトロと言います。20歳以前の経歴はあまり知られていませんが、1417年に画家として活動を始め、1425年にドミニコ修道士となって宗教書の写本装飾師として絵を描いています。イエスの磔刑図を描きながら涙を流すほど信仰心が篤く、静謐で美しい光に満ちた宗教画や敬虔で愛らしい人柄から「天使の(アンジェリコ)画家」と慕われ、彼の死後、誰が授けたかフラ・アンジェリコが彼の名になっています。1982年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世により、「福者」に列せられています。 フィレンツェから北へ4kmほどの丘にあるフィエゾレ町のサン・ドミニコ教会から1611年にスペインに売られてきたのがこの作品です。特徴は、明確な輪郭線と黄金色の使用により、テーマの聖性を強調している点です。また、大天使ガブリエルがマリアに受胎を告げている御堂の左奥に楽園を追放されたアダムとイヴの姿を描くことで、神の子イエスの正統性と絶対性を暗示させています。
    大画の下にあるプレデッラ部分には、聖母マリアの婚姻から聖母マリア被昇天に至るまでのマリアの生涯を5連の帯状に描いています。
    古来より多くの画家が描いてきたテーマですが、その中でもアンジェリコの作品は敬虔で清楚な独自の世界観が描かれていると評されています。拘りを持っていたのか、この絵画の他にも似た構図のものを幾度も描いています。彼が生涯を過ごしたサン・マルコ修道院(現サン・マルコ美術館)でもその壁画を見ることができます。

  • 『モナ・リザの模写』[1F #56B]<br />プラドのような超一流の美術館が、第一級の名画と共に「模写作品」を展示することは尋常ではありません。「世界一有名な絵」 の模写だからとも言えますが、『モナ・リザ』の模写は世の中に溢れています。しかも、この模写は著名画家のものでもないのです。<br />プラド美術館の発表によると、現存する模写の中で最初期のものであり、 ダ・ヴィンチのアトリエで直弟子が『モナ・リザ』とほぼ同時期に制作したものとしています。何故なら、 「ルーヴルのモナ・リザ」には上塗りで隠された変更点や訂正箇所がありますが、その大部分は「プラドのモナ・リザ」と共通しているためです。ですからプラド美術館は、この絵を「ルネッサンス期のモナ・リザの複製」と評価し、堂々と展示しているのです。微妙にオリジナルと描かれた方向が違うことから、2枚を並べると3D画像になるそうです。<br />しかし、「プラドのモナ・リザ」は、より若く鮮やかな印象を受け、背景の描写もより瑞々しく映ります。何故印象が異なるのかは、画家の技量の差とその後の加筆にあります。ダ・ヴィンチはフランソワ1世に招かれてフランスに移住しましたが、『モナ・リザ』を持参し、死ぬまで手を加え続けたと言われています。しかもこの絵は、「スフマート技法」で描かれています。ごく薄い絵の具を積層し、色の変化点が全く判別できないほどぼかす技法です。手を加え続けることで、『モナ・リザ』は「複雑さ」や「奥深さ」や「謎」を湛えた今の形になったと言えます。<br />ひょっとしたら『モナ・リザ』がダ・ヴィンチ工房で 一応の 完成をみた時の姿は「プラドのモナ・リザ」に近いものだったのかもしれません。

    『モナ・リザの模写』[1F #56B]
    プラドのような超一流の美術館が、第一級の名画と共に「模写作品」を展示することは尋常ではありません。「世界一有名な絵」 の模写だからとも言えますが、『モナ・リザ』の模写は世の中に溢れています。しかも、この模写は著名画家のものでもないのです。
    プラド美術館の発表によると、現存する模写の中で最初期のものであり、 ダ・ヴィンチのアトリエで直弟子が『モナ・リザ』とほぼ同時期に制作したものとしています。何故なら、 「ルーヴルのモナ・リザ」には上塗りで隠された変更点や訂正箇所がありますが、その大部分は「プラドのモナ・リザ」と共通しているためです。ですからプラド美術館は、この絵を「ルネッサンス期のモナ・リザの複製」と評価し、堂々と展示しているのです。微妙にオリジナルと描かれた方向が違うことから、2枚を並べると3D画像になるそうです。
    しかし、「プラドのモナ・リザ」は、より若く鮮やかな印象を受け、背景の描写もより瑞々しく映ります。何故印象が異なるのかは、画家の技量の差とその後の加筆にあります。ダ・ヴィンチはフランソワ1世に招かれてフランスに移住しましたが、『モナ・リザ』を持参し、死ぬまで手を加え続けたと言われています。しかもこの絵は、「スフマート技法」で描かれています。ごく薄い絵の具を積層し、色の変化点が全く判別できないほどぼかす技法です。手を加え続けることで、『モナ・リザ』は「複雑さ」や「奥深さ」や「謎」を湛えた今の形になったと言えます。
    ひょっとしたら『モナ・リザ』がダ・ヴィンチ工房で 一応の 完成をみた時の姿は「プラドのモナ・リザ」に近いものだったのかもしれません。

  • ラファエロ・サンティ『仔羊と聖家族』[1F #49](1507年)<br />小さな絵なのでうっかりすると見逃してしまうほどです。マリアの無原罪のお宿りを肯定させるために、ヨセフを子供がつくれないほどの老人として描いているのが特徴です。<br />イタリア中部のウルビーノで画家の子として1483年に生まれたラファエロは、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロと並ぶルネサンス最盛期の3大巨匠のひとりです。21歳でフィレンツェに移住するも、この頃は単なる田舎画家で名声もなく、個人の肖像画や聖母子などを描いて生計を立てていました。「聖母の画家」との異名を持つラファエロですが、残されている聖母子の作品の大部分はこの恵まれなかった時期に描かれたものだそうです。<br />師となったピエトロ・ペルジーノの教えを瞬く間に吸収し、その後ミケランジェロやレオナルドの芸術に触発されて多くを学んで成長していきました。因みに、ミケランジェロはラファエロより8歳年上で、レオナルドとは31歳離れています。25歳で教皇ユリウス2世の招きによりヴァチカンの宮廷画家となり、古典主義絵画の祖と呼ばれるほどになりました。画家としてこれ以上はないほど恵まれた晩年でしたが、1520年に突然の高熱病に侵され、37歳の若さでその生涯を閉じています。

    ラファエロ・サンティ『仔羊と聖家族』[1F #49](1507年)
    小さな絵なのでうっかりすると見逃してしまうほどです。マリアの無原罪のお宿りを肯定させるために、ヨセフを子供がつくれないほどの老人として描いているのが特徴です。
    イタリア中部のウルビーノで画家の子として1483年に生まれたラファエロは、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロと並ぶルネサンス最盛期の3大巨匠のひとりです。21歳でフィレンツェに移住するも、この頃は単なる田舎画家で名声もなく、個人の肖像画や聖母子などを描いて生計を立てていました。「聖母の画家」との異名を持つラファエロですが、残されている聖母子の作品の大部分はこの恵まれなかった時期に描かれたものだそうです。
    師となったピエトロ・ペルジーノの教えを瞬く間に吸収し、その後ミケランジェロやレオナルドの芸術に触発されて多くを学んで成長していきました。因みに、ミケランジェロはラファエロより8歳年上で、レオナルドとは31歳離れています。25歳で教皇ユリウス2世の招きによりヴァチカンの宮廷画家となり、古典主義絵画の祖と呼ばれるほどになりました。画家としてこれ以上はないほど恵まれた晩年でしたが、1520年に突然の高熱病に侵され、37歳の若さでその生涯を閉じています。

  • ピーテル・ブリューゲル『死の勝利』[1F #56](1562~63年) <br />初期ネーデルランド絵画の巨匠ブリューゲルの代表的作のひとつです。死の圧倒的な存在感と、それに対峙する人々の儚い抵抗という陰惨なテーマを描いています。<br />「死」の象徴となる骸骨たちは、身分を問わず全ての人々を蹂躙し、支配しています。左下部では王が「死」の象徴によって生命とその財産を強奪され、下部中央から右にかけては集団化した「死」の象徴が人間の「生と喜び」を象徴する晩餐を破壊し、強奪や姦淫を犯しながら進軍しています。また、剣を手に必死に抗う姿は、大軍の前では虚しい抵抗に過ぎないことを暗示しています。<br />阿鼻叫喚の恐ろしいテーマながら、目が離せない不思議な魅力を放つ一枚です。 <br />

    ピーテル・ブリューゲル『死の勝利』[1F #56](1562~63年)
    初期ネーデルランド絵画の巨匠ブリューゲルの代表的作のひとつです。死の圧倒的な存在感と、それに対峙する人々の儚い抵抗という陰惨なテーマを描いています。
    「死」の象徴となる骸骨たちは、身分を問わず全ての人々を蹂躙し、支配しています。左下部では王が「死」の象徴によって生命とその財産を強奪され、下部中央から右にかけては集団化した「死」の象徴が人間の「生と喜び」を象徴する晩餐を破壊し、強奪や姦淫を犯しながら進軍しています。また、剣を手に必死に抗う姿は、大軍の前では虚しい抵抗に過ぎないことを暗示しています。
    阿鼻叫喚の恐ろしいテーマながら、目が離せない不思議な魅力を放つ一枚です。

  • アルブレヒト・フォン・デューラー『アダム』と『イヴ』<br />[1F #55B](1507年) <br />1471年にドイツで生まれたデューラーは、ドイツ・ルネッサンスを代表する画家であり版画家です。妹とドイツ旅行をした時に訪れたニュルンベルク旧市街に、彼が1509年から1528年に亡くなるまで制作に没頭した家が記念館として残されています。1512年に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の宮廷画家となって名を馳せたデューラーの作品中、最も著名なのがこの『アダム』と『イヴ』です。ドイツ絵画史上初めて描かれた等身大の人物とされ、完全な肉体の理想像と言われています。見てのとおり、神によって天地創造が行われた6日目に創られた最初の人間アダムとイヴが禁断の果実である知恵の実を手にした旧約聖書の一場面が描かれ、2人が持つのがその知恵の実です。これを口にしたばかりに、神の逆鱗に触れて楽園を追放されたのです。<br />プラド美術館での鑑賞時間は1時間10分程でしたが、本当にあっという間でした。

    アルブレヒト・フォン・デューラー『アダム』と『イヴ』
    [1F #55B](1507年) 
    1471年にドイツで生まれたデューラーは、ドイツ・ルネッサンスを代表する画家であり版画家です。妹とドイツ旅行をした時に訪れたニュルンベルク旧市街に、彼が1509年から1528年に亡くなるまで制作に没頭した家が記念館として残されています。1512年に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の宮廷画家となって名を馳せたデューラーの作品中、最も著名なのがこの『アダム』と『イヴ』です。ドイツ絵画史上初めて描かれた等身大の人物とされ、完全な肉体の理想像と言われています。見てのとおり、神によって天地創造が行われた6日目に創られた最初の人間アダムとイヴが禁断の果実である知恵の実を手にした旧約聖書の一場面が描かれ、2人が持つのがその知恵の実です。これを口にしたばかりに、神の逆鱗に触れて楽園を追放されたのです。
    プラド美術館での鑑賞時間は1時間10分程でしたが、本当にあっという間でした。

  • ヒエロニムス・ボッシュ『快楽の園』(1500~05年)<br />この絵画を観たかったのですが、生憎特別展の方に展示されており、時間の関係で観ることは叶いませんでした。通常は、[1F 56A]に展示されています。<br />オランダの宗教画家ボッシュの代表作であり、プラド美術館で最も謎めいた作品と言われています。ファンタジーな雰囲気に溢れる画風で人気を集めたボッシュの名はスペインへも轟き、数多の作品がスペインに運び込まれています。その独創的な絵から、「地獄と怪物の画家」と称されていました。『快楽の園』は、絶対君主と言われたフェリペ2世がその王宮エル・エスコリアルで飾っていた、観音開きの板に油彩で描かれた三連祭壇画です。閉じた状態では、そこに描かれているのは「天地創造」。透明な球体の中に平面になった地球が浮かび、その下の部分は下界、上の部分は雲が渦巻く天空を表しています。扉を開くとその左翼に描かれているのは「エデンの園」。神が生まれたばかりのイヴの手を取って導き、アダムに 引き合わせています。蛇の巻き付いた「知恵の木」は、まるで彼らとは無関係であるかのように遥か後方に描かれています。<br />右翼に描かれているのは「地獄」。知恵の木の実を食べた人々が堕ちた地獄の辛苦を表し、奇怪な生物や人物が描かれています。この中に薄笑いを浮かべて振り返っている男の姿があり、これがボッシュの肖像画だと言われています。そして中央部分には現世を表す「快楽の園」。愛と快楽をモチーフとし、この中央画には円形と卵形が多用され、それぞれ豊穣を意味する小宇宙(子宮)を表しています。<br />聖書に基づく寓話を描いたとも言われていますが、梟やキリン、馬だけでなくユニコーンやグリフォンのような想像上の動物や巨大な果実や魚、鳥、奇妙な形をした塔、そして様々な快楽に耽ける無数の裸の男女が描かれています。男に担がれた巨大なムール貝の中から突き出した男女の足、赤い実を手に梟を載せて踊る人々、翼を付けて飛ぶ人間、手が樹木、胴体が卵の殻になっている「樹木人間」、戦車の耳、鳥の怪物に丸飲みされてはそのまま排泄される人々。パネルにぎっしりと描かれた摩訶不思議な世界は、謎と寓意に満ちているとされ、その解釈については現在でも多くの人々の議論の的となっています。細部までじっくり観てボスが伝えようとする寓意や象徴を解き明かせれば面白いが、今回は残念ながら時間的余裕がありません。『快楽の園』をはじめ現存するボッシュの作品は25点しかありませんが、そのうちの10点がプラド美術館に所蔵されているのは吃驚ポンです。<br /><br />この続きは、ときめきのスペイン周遊⑳マドリード 街ある記(エピローグ)にてお届けいたします。

    ヒエロニムス・ボッシュ『快楽の園』(1500~05年)
    この絵画を観たかったのですが、生憎特別展の方に展示されており、時間の関係で観ることは叶いませんでした。通常は、[1F 56A]に展示されています。
    オランダの宗教画家ボッシュの代表作であり、プラド美術館で最も謎めいた作品と言われています。ファンタジーな雰囲気に溢れる画風で人気を集めたボッシュの名はスペインへも轟き、数多の作品がスペインに運び込まれています。その独創的な絵から、「地獄と怪物の画家」と称されていました。 『快楽の園』は、絶対君主と言われたフェリペ2世がその王宮エル・エスコリアルで飾っていた、観音開きの板に油彩で描かれた三連祭壇画です。閉じた状態では、そこに描かれているのは「天地創造」。透明な球体の中に平面になった地球が浮かび、その下の部分は下界、上の部分は雲が渦巻く天空を表しています。 扉を開くとその左翼に描かれているのは「エデンの園」。神が生まれたばかりのイヴの手を取って導き、アダムに 引き合わせています。蛇の巻き付いた「知恵の木」は、まるで彼らとは無関係であるかのように遥か後方に描かれています。
    右翼に描かれているのは「地獄」。知恵の木の実を食べた人々が堕ちた地獄の辛苦を表し、奇怪な生物や人物が描かれています。この中に薄笑いを浮かべて振り返っている男の姿があり、これがボッシュの肖像画だと言われています。 そして中央部分には現世を表す「快楽の園」。愛と快楽をモチーフとし、この中央画には円形と卵形が多用され、それぞれ豊穣を意味する小宇宙(子宮)を表しています。
    聖書に基づく寓話を描いたとも言われていますが、梟やキリン、馬だけでなくユニコーンやグリフォンのような想像上の動物や巨大な果実や魚、鳥、奇妙な形をした塔、そして様々な快楽に耽ける無数の裸の男女が描かれています。 男に担がれた巨大なムール貝の中から突き出した男女の足、赤い実を手に梟を載せて踊る人々、翼を付けて飛ぶ人間、手が樹木、胴体が卵の殻になっている「樹木人間」、戦車の耳、鳥の怪物に丸飲みされてはそのまま排泄される人々。 パネルにぎっしりと描かれた摩訶不思議な世界は、謎と寓意に満ちているとされ、その解釈については現在でも多くの人々の議論の的となっています。細部までじっくり観てボスが伝えようとする寓意や象徴を解き明かせれば面白いが、今回は残念ながら時間的余裕がありません。 『快楽の園』をはじめ現存するボッシュの作品は25点しかありませんが、そのうちの10点がプラド美術館に所蔵されているのは吃驚ポンです。

    この続きは、ときめきのスペイン周遊⑳マドリード 街ある記(エピローグ)にてお届けいたします。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • chieko2014さん 2016/11/01 10:13:13
    残念!
    おはようございます(^^♪

    プラド美術館も圧巻ですね!

    プラドは夕方からの無料時間と、いつも行き当たりばったりの私達にしては珍しく年に一日だけの特別無料視聴の日が滞在中と重なり、たっぷりと鑑賞したつもりですが・・
    やはり見たらず、重い本を購入してしまいました。

    その時、告知ポスターでボッシュ展が開催されると。

    ボッシュはリスボンでわざわざ時間を割いて鑑賞してきたのでポスターを眺めながらやはり巡り合せの悪さを恨みました。
    リスボンでも当然のこと、本を購入。それが重たいことこの上ない!途中で捨てたくなりました(笑)

    そんなことよりも、ボッシュ展の鑑賞ならなかったのですね。残念なことでしたね。ぜひ、montsaintmichelさんの感想をお聞きしたかったです。
    私の感想は・・・やはり酷いものです。

    それではまたお邪魔させて頂きます。
                      chieko2014

    montsaintmichel

    montsaintmichelさん からの返信 2016/11/01 16:51:27
    RE: 残念!
    chieko2014さん、こんにちは!

    ツアーでなければボッシュ展が堪能できたはずなのに、とても残念な思いでした。chieko2014さんはリスボンでボッシュを鑑賞されたとのこと、羨ましく思います。
    プラド美術館は正味1時間程の鑑賞時間では不完全燃焼気味でしたが、事前に観るべきものをマーキングしておいたので効率よく回ることができました。ツアーで美術館を2軒はしごするのは無理があるかもしれません。

    当方の旅行記はエピローグに入りましたが、chieko2014さんはまだ続きそうですね!旅行からかなり時間が経っているようですが、記憶力抜群ですね!当方にはできない業と思います。旅行記も体裁のいい備忘録ですから…。
    時々アクセスさせていただきますので、がんばってくださいね!

    montsaintmichel

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