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仙元山の麓に建てられた人見山・昌福寺(しょうふくじ、埼玉県熊谷市人見)は室町時代中期に深谷城主上杉房憲(うえすぎ・ふさのり、生没不詳)によって上杉家先祖の冥福を祈るため創建された漕洞宗の名刹です。<br /><br />そもそも上杉氏の出自は藤原北家の流れをくみ、右大臣藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)の孫にあたる勧業修寺高藤(かんしゅうじ・たかつぐ)より十二代目にあたる重房(しげふさ)は丹波国何鹿郡上杉荘の地を有し、公家から武士となって上杉姓を称したと伝えられています。<br /><br />建長4年(1252)鎌倉幕府将軍に迎えられた宗尊親王が鎌倉へ下向した時に随行したのがこの重房であり、重房の娘は足利頼氏(あしかが・よりうじ)に嫁がせ、また孫の清子は足利尊氏並びに直義(ただよし)の生母となったので上杉氏は名門足利氏の一門として勢力を有することになります。<br /><br />元弘元年(1333)新田義貞(にった・よしさだ)らの攻撃によって得宗北条高時(ほうじょう・たかとき)を最高権力者とする鎌倉幕府が滅亡、代わって後醍醐天皇の親政による建武の新政が開始、翌年建武元年(1334)、新政権は関東統治のため成良親王を首長とし尊氏の弟直義(ただよし)を執事とする鎌倉将軍府(「鎌倉府」の前身)を設置します。<br /><br />建武2年(1335)北条高時の遺児である北条時行(ほうじょう・ときゆき)を擁立した信濃国諏訪氏及び北条氏残党の反乱が勃発(中先代の乱)、上洛中の尊氏は後醍醐天皇の許可が降りないまま下向し時行軍を駆逐して鎌倉を回復します。<br /><br />尊氏はそのまま鎌倉に居座り後醍醐天皇からの帰洛命令をも無視し、独自に恩賞を与えるなどして武家政権としての動きを始めたため、後醍醐天皇は新田義貞に尊氏討伐命令を発します。<br /><br />これに対し尊氏は天皇に反旗を翻すことを決意し京都へ進軍、その際鎌倉将軍府は嫡男義詮(よしあきら)に任せ、補佐役として斯波家長(しば・いえなが)、次いで上杉憲藤(うえすぎ・のりふじ)をそれぞれ関東執事に任命しますが建武4年(1337)末から暦応元年(1338)にかけてこの両名は多賀城に拠点を置く鎮守府将軍の北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)軍との戦いで戦死、後任として上杉憲顕(うえすぎ・のりあき)と高師冬(こうの・もろふゆ)が関東執事に任命されます。<br /><br />貞和5年(1349)、幕府内で高師直(こうの・もろなお)の執事罷免を画策した足利直義が逆に敗れ失脚、尊氏は直義に代わって政務を担当させるため義詮を鎌倉から呼び戻し、代わりに二男基氏(もとうじ、1340~1367)を下向させ関東統治を命じ、上杉憲顕と高師冬が関東執事として基氏を補佐することになります。(初代鎌倉公方)<br /><br />観応元年(1350)、一度幕政から身を引いた直義が勢力を盛り返し、足利尊氏・高師直派との抗争が始り、関東においては直義派の上杉憲顕は息子の能憲(よしのり)と共に師直の従兄弟にあたる高師冬と敵対することになります。(観応の擾乱)<br /><br />観応2年(1351)、上杉憲顕は鎌倉を離れ上野国に入り、常陸国で挙兵した能憲と呼応して敵対する高師冬を鎌倉から追放、後に自害に追い込み鎌倉公方足利基氏を陣営に引き入れた後、更に直義を鎌倉に迎える画策をするも尊氏の怒りを買って憲顕は上野国・越後国の守護職を剥奪されます。<br /><br />観応3年(1352)、直義が死去して観応の擾乱は終結、そして尊氏が没すると二代将軍となった義詮と鎌倉公方の足利基氏兄弟は、幼少時に執事として補佐を受け今は信濃国に追放の身である上杉憲顕を密かに越後守護に再任します。<br /><br />貞治2年(1363)、基氏は越後守護職の上杉憲顕を関東執事(後に関東管領)として鎌倉に呼び寄せ、それまで畠山氏や宇都宮氏が務めていた関東執事職並びに越後国・上野国守護職は上杉憲顕に与えられ、これを機に上杉氏は代々その職を務める事になります。<br /><br />ところで関東管領上杉憲顕の六男の憲英(のりふさ)は荒川の扇状地で唐沢川右岸の台地に庁鼻和城(こばなわじょう)を築城、庁鼻和上杉(こばなわうえすぎ)と名乗り初代城主として対岸の上野国で幕府に抵抗していた新田氏などを抑えるためたびたび出陣して戦功をあげます。<br /><br />貞治6年(1367)、足利氏満(あしかが・うじみつ)が父基氏の死去によって二代鎌倉公方となり、関東管領を継いだ上杉憲春(うえすぎ・のりはる)と共に宇都宮氏を始めとする関東諸勢力と戦い強力な支配権を確立します。<br /><br />康暦元年(1379)幕府で内部抗争が起こると氏満は将軍足利義満(あしかが・よしみつ)に反発し挙兵しようと試みますが憲春の自刃による諌めにより断念、応永5年(1398)、足利満兼(あしかが・みつかね)が父氏満の死去により三代鎌倉公方に就任、父の時代から将軍家との緊張関係が継続する中、周防守護大内義弘(おおうち・よしひろ)が将軍義満に対し挙兵、これに呼応して満兼は鎌倉を出陣するも関東管領上杉憲定(うえすぎ・のりさだ)に諌められ途中で引き返すことになります。<br /><br />応永16年(1411)、足利持氏(あしかが・もちうじ)が父満兼の死去により四代鎌倉公方となり、翌々年上杉氏憲(うえすぎ・うじのり、禅宗(ぜんしゅう))が関東管領に就任、氏憲は持氏の叔父にあたる足利満隆父子に接近し若輩の持氏に代わり鎌倉府の実権を掌握しようとします。<br /><br />応永22年(1415)評定で氏憲が持氏と対立すると、氏憲は関東管領職を更鉄され後任は山内上杉憲基(うえすぎ・のりもと)となりますが、更迭に不満を持った氏憲は満隆と共に反乱を起こし一時鎌倉を制圧(禅秀乱)、駿河に退避した持氏は幕府の支援を受けて反乱は鎮圧されます。<br /><br />応永35年(1428)、四代将軍足利義持(あしかが・よしもち)が没し後継については「クジ引き」によって足利義教(あしかが・よしのり)が将軍に就任、鎌倉公方足利持氏は自らが将軍後継候補に選ばれなかったことに不満を持ち兵を率いて上洛しようとしますが、憲基の養子となって憲基の死後関東管領に補された足利憲実(あしかが・のりざね)によって諌止され、以降憲実は鎌倉府と幕府との調停に努めますが、他方では持氏と憲実との間に緊迫状況が生まれてきます。<br /><br />永享10年(1438)持氏が憲実を暗殺するとのうわさが起ち、憲実は鎌倉を離れ自領の上野国平井城に籠りますが、他方持氏は憲実討伐のため出陣、これに対し幕府は持氏追討軍を派兵し結果持氏は幕府軍に敗れます。(永享の乱)<br /><br />敗れた持氏は幕府に恭順を誓い出家しますが幽閉される事態となり、憲実は持氏の助命を幕府に嘆願するも将軍義教はこれを許さず、憲実はやむなく幽閉先の永安寺を攻めて持氏の自害させます。<br /><br />永享12年(1440)鎌倉公方の忠実な奉公衆である結城氏朝(ゆうき・うじとも)が持氏遺児を奉じて挙兵、幕府は先の乱後に出家し管領職を辞任した憲実に復帰して出馬を命じ、憲実はこれに応じて反乱を終結させ再び隠遁生活に戻ります。(結城合戦)<br /><br />嘉吉元年(1441)、京都において結城合戦戦勝祝勝として招かれた将軍義教が腹心の赤松満祐(あかまつ・みつすけ)に暗殺される事件(嘉吉の乱)が勃発、幕府は関東における支配秩序を回復させるべく憲実に関東管領職復帰を命じますが憲実はこれを拒否し、越後守護職を後継した二男房顕(ふさあき)を除く息子たちにも出家させます。<br /><br />しかしながら文安4年(1447)憲実の意に反して長男上杉憲忠(うえすぎ・のりただ)が還俗して十二代関東管領に就任し、また将軍足利義教が<br />暗殺された後、上杉氏一族や関東の諸士から幕府への働き掛けもあり、断絶した鎌倉公方の再興が了承されます。<br /><br />宝徳元年(1449)、四代鎌倉公方足利持氏(あしかが・もちうじ)の遺児の足利成氏(あしかが・しげうじ)が五代鎌倉公方に就任し鎌倉に帰還、享徳3年(1455)、成氏は関東管領上杉憲忠(うえすぎ・のりただ)を御所に呼び寄せ、父持氏を自刃に追いやった上杉憲実の復讐を果たします。<br /><br />この事件が契機となり鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏と対立関係に危惧した将軍義満は止む無く上杉氏を擁護する立場をとり、永享10年(1438)幕府の命を受けた駿河国守護今川範忠(いまがわ・のりただ)は上杉氏を支援すべく軍を率い転戦中の足利成氏が留守の間に鎌倉に攻め入ります。<br /><br />今川範忠による鎌倉府占拠を知った足利成氏は鎌倉に戻るのを断念、下総国古河(こが)に拠点を移し以降古河公方と称して関東北東地域(下総・下野・常陸等)の諸国人の支持を背景に上杉氏と対峙して新たな展開を迎えることになります。<br /><br />関東のヘソというべき古河に拠点を定めた足利成氏に対して上杉氏分家筋の扇谷(おうぎがやつ)上杉氏は家宰の太田道真(どうしん)・道灌(どうかん)父子による防御ラインとして江戸・岩槻に築城または改築を行い古河公方の来襲に備えます。<br /><br />深谷上杉氏五代当主の上杉房憲(ふさのり)は庁鼻和城の防御に不安を感じ、康生2年(1456)庁鼻和城の西方の唐沢川と福川に囲まれた低湿地をひかえた地の利の上に深い堀と高い土塁を新たに構築した深谷城を築き古河公方に対抗、以降憲清・憲賢・憲盛・氏憲と5代にわたり居城した上杉氏にとって深谷城は重要拠点となります。<br /><br />七代憲賢(のりかた)時代には武蔵南部から勢力を北進させた小田原北条氏の脅威を受けることとなり、山内・扇谷の両上杉氏は足利晴氏にも支援を得るなか、一度奪われた河越城奪還をめざし少数で籠城している北条綱成(ほうじょう・つなしげ)軍を取り囲みますが巧妙な戦術によって決定的な敗退を喫しこれによって北条氏の武蔵北部と上野南部までの支配を確立します。<br /><br />この合戦に参陣して深谷に逃げ帰った憲賢は方針転換し北条氏に誼(よしみ)を通じことで本領安堵を狙い、孫の九代氏憲(うじのり)の代には北条氏政(ほうじょう・うじまさ)の養女を室に迎える事により小田原北条氏に臣従、鉢形城に拠点を置く北条氏邦(ほうじょう・うじくに)に従って各地を転戦するになります。<br /><br />天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに際しては小田原城に詰めていた氏憲は北条氏と共に敗れ、他方深谷城籠城の家臣たちは秀吉派遣の北国軍攻撃を目前にして降伏開城しこれにより深谷上杉氏は滅亡します。<br /><br /><br />2023年1月28日追記<br /><br />境内に建てられた説明板には下記の通り紹介されています。<br /><br /><br />『 昌 福 寺<br /><br />禅宗曹洞宗、人見山といいます。康正2年(1456)上杉右馬助房憲が古河公方に対抗するため深谷城に移ったとき、仙元山を背景に昌福寺を開き山頂に富士浅間神社を勧請しました。開山は漱怒全芳禅師で永正15年(1518)に亡くなりました。<br /><br />本堂左手に房憲と憲盛の墓があります。江戸期の慶安4年(1648)幕府から寺領20石を下付されました。本堂裏に自然の立地条件をたくみに取入れた室町時代と推定される禅宗庭園があります。文化財に前期の房憲・憲盛の墓のほか、最後の城主氏憲の寄進状、鰐口釈迦三尊像、漱怒全芳大和尚像などが市指定となっています。<br /><br />       昭和57年3月<br />                深谷上杉顕彰会  』

武蔵深谷 藤原北家を遠祖とし足利氏一門のなかで歴代関東管領職を勤めた上杉氏庶流で初代深谷城主上杉房憲が祖先の霊を祀る為創建した『昌福寺』散歩

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2016/09/10 - 2016/09/10

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滝山氏照

滝山氏照さん

仙元山の麓に建てられた人見山・昌福寺(しょうふくじ、埼玉県熊谷市人見)は室町時代中期に深谷城主上杉房憲(うえすぎ・ふさのり、生没不詳)によって上杉家先祖の冥福を祈るため創建された漕洞宗の名刹です。

そもそも上杉氏の出自は藤原北家の流れをくみ、右大臣藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)の孫にあたる勧業修寺高藤(かんしゅうじ・たかつぐ)より十二代目にあたる重房(しげふさ)は丹波国何鹿郡上杉荘の地を有し、公家から武士となって上杉姓を称したと伝えられています。

建長4年(1252)鎌倉幕府将軍に迎えられた宗尊親王が鎌倉へ下向した時に随行したのがこの重房であり、重房の娘は足利頼氏(あしかが・よりうじ)に嫁がせ、また孫の清子は足利尊氏並びに直義(ただよし)の生母となったので上杉氏は名門足利氏の一門として勢力を有することになります。

元弘元年(1333)新田義貞(にった・よしさだ)らの攻撃によって得宗北条高時(ほうじょう・たかとき)を最高権力者とする鎌倉幕府が滅亡、代わって後醍醐天皇の親政による建武の新政が開始、翌年建武元年(1334)、新政権は関東統治のため成良親王を首長とし尊氏の弟直義(ただよし)を執事とする鎌倉将軍府(「鎌倉府」の前身)を設置します。

建武2年(1335)北条高時の遺児である北条時行(ほうじょう・ときゆき)を擁立した信濃国諏訪氏及び北条氏残党の反乱が勃発(中先代の乱)、上洛中の尊氏は後醍醐天皇の許可が降りないまま下向し時行軍を駆逐して鎌倉を回復します。

尊氏はそのまま鎌倉に居座り後醍醐天皇からの帰洛命令をも無視し、独自に恩賞を与えるなどして武家政権としての動きを始めたため、後醍醐天皇は新田義貞に尊氏討伐命令を発します。

これに対し尊氏は天皇に反旗を翻すことを決意し京都へ進軍、その際鎌倉将軍府は嫡男義詮(よしあきら)に任せ、補佐役として斯波家長(しば・いえなが)、次いで上杉憲藤(うえすぎ・のりふじ)をそれぞれ関東執事に任命しますが建武4年(1337)末から暦応元年(1338)にかけてこの両名は多賀城に拠点を置く鎮守府将軍の北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)軍との戦いで戦死、後任として上杉憲顕(うえすぎ・のりあき)と高師冬(こうの・もろふゆ)が関東執事に任命されます。

貞和5年(1349)、幕府内で高師直(こうの・もろなお)の執事罷免を画策した足利直義が逆に敗れ失脚、尊氏は直義に代わって政務を担当させるため義詮を鎌倉から呼び戻し、代わりに二男基氏(もとうじ、1340~1367)を下向させ関東統治を命じ、上杉憲顕と高師冬が関東執事として基氏を補佐することになります。(初代鎌倉公方)

観応元年(1350)、一度幕政から身を引いた直義が勢力を盛り返し、足利尊氏・高師直派との抗争が始り、関東においては直義派の上杉憲顕は息子の能憲(よしのり)と共に師直の従兄弟にあたる高師冬と敵対することになります。(観応の擾乱)

観応2年(1351)、上杉憲顕は鎌倉を離れ上野国に入り、常陸国で挙兵した能憲と呼応して敵対する高師冬を鎌倉から追放、後に自害に追い込み鎌倉公方足利基氏を陣営に引き入れた後、更に直義を鎌倉に迎える画策をするも尊氏の怒りを買って憲顕は上野国・越後国の守護職を剥奪されます。

観応3年(1352)、直義が死去して観応の擾乱は終結、そして尊氏が没すると二代将軍となった義詮と鎌倉公方の足利基氏兄弟は、幼少時に執事として補佐を受け今は信濃国に追放の身である上杉憲顕を密かに越後守護に再任します。

貞治2年(1363)、基氏は越後守護職の上杉憲顕を関東執事(後に関東管領)として鎌倉に呼び寄せ、それまで畠山氏や宇都宮氏が務めていた関東執事職並びに越後国・上野国守護職は上杉憲顕に与えられ、これを機に上杉氏は代々その職を務める事になります。

ところで関東管領上杉憲顕の六男の憲英(のりふさ)は荒川の扇状地で唐沢川右岸の台地に庁鼻和城(こばなわじょう)を築城、庁鼻和上杉(こばなわうえすぎ)と名乗り初代城主として対岸の上野国で幕府に抵抗していた新田氏などを抑えるためたびたび出陣して戦功をあげます。

貞治6年(1367)、足利氏満(あしかが・うじみつ)が父基氏の死去によって二代鎌倉公方となり、関東管領を継いだ上杉憲春(うえすぎ・のりはる)と共に宇都宮氏を始めとする関東諸勢力と戦い強力な支配権を確立します。

康暦元年(1379)幕府で内部抗争が起こると氏満は将軍足利義満(あしかが・よしみつ)に反発し挙兵しようと試みますが憲春の自刃による諌めにより断念、応永5年(1398)、足利満兼(あしかが・みつかね)が父氏満の死去により三代鎌倉公方に就任、父の時代から将軍家との緊張関係が継続する中、周防守護大内義弘(おおうち・よしひろ)が将軍義満に対し挙兵、これに呼応して満兼は鎌倉を出陣するも関東管領上杉憲定(うえすぎ・のりさだ)に諌められ途中で引き返すことになります。

応永16年(1411)、足利持氏(あしかが・もちうじ)が父満兼の死去により四代鎌倉公方となり、翌々年上杉氏憲(うえすぎ・うじのり、禅宗(ぜんしゅう))が関東管領に就任、氏憲は持氏の叔父にあたる足利満隆父子に接近し若輩の持氏に代わり鎌倉府の実権を掌握しようとします。

応永22年(1415)評定で氏憲が持氏と対立すると、氏憲は関東管領職を更鉄され後任は山内上杉憲基(うえすぎ・のりもと)となりますが、更迭に不満を持った氏憲は満隆と共に反乱を起こし一時鎌倉を制圧(禅秀乱)、駿河に退避した持氏は幕府の支援を受けて反乱は鎮圧されます。

応永35年(1428)、四代将軍足利義持(あしかが・よしもち)が没し後継については「クジ引き」によって足利義教(あしかが・よしのり)が将軍に就任、鎌倉公方足利持氏は自らが将軍後継候補に選ばれなかったことに不満を持ち兵を率いて上洛しようとしますが、憲基の養子となって憲基の死後関東管領に補された足利憲実(あしかが・のりざね)によって諌止され、以降憲実は鎌倉府と幕府との調停に努めますが、他方では持氏と憲実との間に緊迫状況が生まれてきます。

永享10年(1438)持氏が憲実を暗殺するとのうわさが起ち、憲実は鎌倉を離れ自領の上野国平井城に籠りますが、他方持氏は憲実討伐のため出陣、これに対し幕府は持氏追討軍を派兵し結果持氏は幕府軍に敗れます。(永享の乱)

敗れた持氏は幕府に恭順を誓い出家しますが幽閉される事態となり、憲実は持氏の助命を幕府に嘆願するも将軍義教はこれを許さず、憲実はやむなく幽閉先の永安寺を攻めて持氏の自害させます。

永享12年(1440)鎌倉公方の忠実な奉公衆である結城氏朝(ゆうき・うじとも)が持氏遺児を奉じて挙兵、幕府は先の乱後に出家し管領職を辞任した憲実に復帰して出馬を命じ、憲実はこれに応じて反乱を終結させ再び隠遁生活に戻ります。(結城合戦)

嘉吉元年(1441)、京都において結城合戦戦勝祝勝として招かれた将軍義教が腹心の赤松満祐(あかまつ・みつすけ)に暗殺される事件(嘉吉の乱)が勃発、幕府は関東における支配秩序を回復させるべく憲実に関東管領職復帰を命じますが憲実はこれを拒否し、越後守護職を後継した二男房顕(ふさあき)を除く息子たちにも出家させます。

しかしながら文安4年(1447)憲実の意に反して長男上杉憲忠(うえすぎ・のりただ)が還俗して十二代関東管領に就任し、また将軍足利義教が
暗殺された後、上杉氏一族や関東の諸士から幕府への働き掛けもあり、断絶した鎌倉公方の再興が了承されます。

宝徳元年(1449)、四代鎌倉公方足利持氏(あしかが・もちうじ)の遺児の足利成氏(あしかが・しげうじ)が五代鎌倉公方に就任し鎌倉に帰還、享徳3年(1455)、成氏は関東管領上杉憲忠(うえすぎ・のりただ)を御所に呼び寄せ、父持氏を自刃に追いやった上杉憲実の復讐を果たします。

この事件が契機となり鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏と対立関係に危惧した将軍義満は止む無く上杉氏を擁護する立場をとり、永享10年(1438)幕府の命を受けた駿河国守護今川範忠(いまがわ・のりただ)は上杉氏を支援すべく軍を率い転戦中の足利成氏が留守の間に鎌倉に攻め入ります。

今川範忠による鎌倉府占拠を知った足利成氏は鎌倉に戻るのを断念、下総国古河(こが)に拠点を移し以降古河公方と称して関東北東地域(下総・下野・常陸等)の諸国人の支持を背景に上杉氏と対峙して新たな展開を迎えることになります。

関東のヘソというべき古河に拠点を定めた足利成氏に対して上杉氏分家筋の扇谷(おうぎがやつ)上杉氏は家宰の太田道真(どうしん)・道灌(どうかん)父子による防御ラインとして江戸・岩槻に築城または改築を行い古河公方の来襲に備えます。

深谷上杉氏五代当主の上杉房憲(ふさのり)は庁鼻和城の防御に不安を感じ、康生2年(1456)庁鼻和城の西方の唐沢川と福川に囲まれた低湿地をひかえた地の利の上に深い堀と高い土塁を新たに構築した深谷城を築き古河公方に対抗、以降憲清・憲賢・憲盛・氏憲と5代にわたり居城した上杉氏にとって深谷城は重要拠点となります。

七代憲賢(のりかた)時代には武蔵南部から勢力を北進させた小田原北条氏の脅威を受けることとなり、山内・扇谷の両上杉氏は足利晴氏にも支援を得るなか、一度奪われた河越城奪還をめざし少数で籠城している北条綱成(ほうじょう・つなしげ)軍を取り囲みますが巧妙な戦術によって決定的な敗退を喫しこれによって北条氏の武蔵北部と上野南部までの支配を確立します。

この合戦に参陣して深谷に逃げ帰った憲賢は方針転換し北条氏に誼(よしみ)を通じことで本領安堵を狙い、孫の九代氏憲(うじのり)の代には北条氏政(ほうじょう・うじまさ)の養女を室に迎える事により小田原北条氏に臣従、鉢形城に拠点を置く北条氏邦(ほうじょう・うじくに)に従って各地を転戦するになります。

天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに際しては小田原城に詰めていた氏憲は北条氏と共に敗れ、他方深谷城籠城の家臣たちは秀吉派遣の北国軍攻撃を目前にして降伏開城しこれにより深谷上杉氏は滅亡します。


2023年1月28日追記

境内に建てられた説明板には下記の通り紹介されています。


『 昌 福 寺

禅宗曹洞宗、人見山といいます。康正2年(1456)上杉右馬助房憲が古河公方に対抗するため深谷城に移ったとき、仙元山を背景に昌福寺を開き山頂に富士浅間神社を勧請しました。開山は漱怒全芳禅師で永正15年(1518)に亡くなりました。

本堂左手に房憲と憲盛の墓があります。江戸期の慶安4年(1648)幕府から寺領20石を下付されました。本堂裏に自然の立地条件をたくみに取入れた室町時代と推定される禅宗庭園があります。文化財に前期の房憲・憲盛の墓のほか、最後の城主氏憲の寄進状、鰐口釈迦三尊像、漱怒全芳大和尚像などが市指定となっています。

       昭和57年3月
                深谷上杉顕彰会  』

交通手段
高速・路線バス JRローカル

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  • 人見山昌福寺(全景)<br /><br />昌福寺を見下ろす仙元山が後ろに控えています。

    人見山昌福寺(全景)

    昌福寺を見下ろす仙元山が後ろに控えています。

  • 人見山昌福寺・寺標

    人見山昌福寺・寺標

  • 昌福寺・山門

    昌福寺・山門

  • 昌福寺・本堂

    昌福寺・本堂

  • 昌福寺本堂・扁額<br /><br />「昌福禅寺」と揮毫された寺額が掲載されています。

    昌福寺本堂・扁額

    「昌福禅寺」と揮毫された寺額が掲載されています。

  • 昌福寺・境内

    昌福寺・境内

  • 昌福寺・境内

    昌福寺・境内

  • 昌福寺・境内

    昌福寺・境内

  • 昌福寺関係・石碑

    昌福寺関係・石碑

  • 昌福寺・境内

    昌福寺・境内

  • 天童山の典座和尚と若き道元禅師の像

    天童山の典座和尚と若き道元禅師の像

  • 昌福寺・鐘楼堂

    昌福寺・鐘楼堂

  • 昌福寺・境内<br /><br />山門の脇から石門方向を一望、その先には北陸新幹線高架が走っています。

    昌福寺・境内

    山門の脇から石門方向を一望、その先には北陸新幹線高架が走っています。

  • 昌福寺・境内<br /><br />本堂を左手にして広々とした境内を眺めます。

    昌福寺・境内

    本堂を左手にして広々とした境内を眺めます。

  • 昌福寺本堂(左側)<br /><br />本堂左を入りますと墓地になり右方向に進むと左側に深谷上杉房憲らの墓所があります。

    昌福寺本堂(左側)

    本堂左を入りますと墓地になり右方向に進むと左側に深谷上杉房憲らの墓所があります。

  • 深谷上杉房憲墓所(全景)

    深谷上杉房憲墓所(全景)

  • 「深谷城主上杉房憲及び累代之墓」石柱

    「深谷城主上杉房憲及び累代之墓」石柱

  • 上杉房憲及び累代の墓全景<br /><br />石柱で囲まれた石段付の特別な墓所が配されています。

    上杉房憲及び累代の墓全景

    石柱で囲まれた石段付の特別な墓所が配されています。

  • 深谷上杉房憲墓所内部

    イチオシ

    深谷上杉房憲墓所内部

  • 墓誌

    墓誌

  • 深谷上杉房憲墓所内部

    深谷上杉房憲墓所内部

  • 深谷上杉房憲墓所内部<br /><br />宝篋印塔が三基見えます。<br />

    深谷上杉房憲墓所内部

    宝篋印塔が三基見えます。

  • 歴代住職墓

    歴代住職墓

  • 昌福寺・境内

    昌福寺・境内

  • 仙元山公園一部

    仙元山公園一部

  • 仙元山公園一部

    仙元山公園一部

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