2016/09/04 - 2016/09/04
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morino296さん
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横浜は開港と同時に近代化が進み、いろんなものが始まりました。
街を歩くと、「発祥の地」や「日本ではじめて」などを見つけることが出来ます。
普段の散歩で見掛けているものも多いですが、今回は意識的に「発祥の地」を巡ってみました。
(その2)では、桜木町から野毛、馬車道などにある「発祥の地」をご紹介します。
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JR桜木町駅前 「鉄道発祥の地記念碑」
最初の鉄道に使われたレールを利用した記念碑。
昭和42年(1967)に建てられ、昭和63年に現在の場所に移設されたそうです。
明治5年(1872)5月7日、横浜(現・桜木町)〜品川駅間で日本で最初の鉄道が開通、
同年9月12日、横浜〜新橋(現・汐留)駅間で正式に開業されました。鉄道発祥記念碑 名所・史跡
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JR桜木町駅前 「鉄道発祥の地記念碑」
記念碑には、当時の横浜駅の外観や時刻表などが刻まれています。
当時は1日9往復、所要時間は53分、
運賃が高く(1番安い下等で50銭(蕎麦100杯分))、庶民には高い乗物でした。鉄道発祥記念碑 名所・史跡
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JR桜木町駅前 「鉄道発祥の地記念碑」
(記念碑の刻まれた内容の一部)
明治3年(1870)に鉄道資材を英国から輸入し横浜港で陸揚げされ建設が始まりました。
明治5年(1872)5月7日に、この場所に初代横浜駅が建設され、横浜〜品川間に最初の鉄道が開通しました。鉄道発祥記念碑 名所・史跡
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JR桜木町駅前 モレルの桜
「鉄道発祥の地記念碑」のすぐ後ろに、この桜の木が植わっています。
解説によれば、
明治5年、日本で最初の鉄道を新橋と横浜に建設する建築師長として貢献した英国人技術者レイモンド・モレルの生誕170周年を記念して2011年に植樹されたものだそうです。 -
JR桜木町駅
鉄道開通当時は、ここが横浜駅でした。
今は、桜木町駅が横浜みなとみらい地区の入り口駅となっています。
鉄道開通当時、これほどの高層ビルが立ち並ぶ街となるとは、誰も想像しなかったでしょうね。桜木町駅 駅
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野毛 センターグリルのスパゲティナポリタン
横浜が発祥の「スパゲティナポリタン」。
元祖は「ホテルニューグランド」の生トマトを使ったソースで作られたものだそうですが、この店では創業時からトマトケチャップを使っています。
初代・石橋豊吉氏は「ホテルニューグランド」の初代総料理長サリー・ワイル氏が経営していたセンターホテルで働いていたことから、「センターグリル」として開業しました。
当時、ホテルで使っていたような生トマトは希少な高級品で、街の洋食店では手に入りずらく、ケチャップで代用していたと伝わります。
麺は日本初のスパゲッティ「ボルカノ」の2.2mm極太麺。ゆでて一晩寝かせてもっちり感をだしているそうです。
調理は、ケチャップを入れてからしっかりと炒めることにより酸味が飛び、甘みが引き出されています。(センターグリルのHP参照)
この店のナポリタンは720円と値段もお手頃ですが、金曜日のランチは100円引きになります。センターグリル グルメ・レストラン
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野毛山公園にある「近代水道発祥の地」碑
野毛山動物園の横にあります。
横浜の水道の設計・監修をした英国人H.S.パーマーの銅像と創設に貢献した人達をたたえる碑文が書かれています。
横浜水道創設100周年を迎えた昭和62年4月に建てられました。 -
野毛山公園にある野毛山貯水池
近代水道はじまりの地です。
明治16年(1883)3月に渡来したヘンリー・スペンサー・パーマーは、神奈川県の依頼を受け、多摩川及び相模川から横浜までの導水に関して2つの工事計画を提出したが実行には至らず、明治17年(1884)12月、パーマーは再び神奈川県に請われ、水道工事のいっさいを任されました。
水道器具等をイギリスより購入し、水源を現在の津久井郡三沢村三井を流れる相模川支流の道志川と決定したパーマーは、野毛山貯水池に至る30マイルに及ぶ水道工事を明治18年(1885)4月に開始し、計画通り工事は順調に進みました。
試行錯誤の末、明治20年(1887)9月、洋式水道が完成しました。
現在は、山梨県道志村からの水が野毛山貯水池から市街へと配水され、横浜市民の喉を潤しています。 -
野毛山公園にある東京オリンピックの記念碑と展望台
「近代水道発祥の地」碑の近くにあります。
2020年の東京オリンピックまで4年を切りましたが、
前回の1964年東京オリンピックでは、横浜市でもサッカー、バレーボール、バスケットボールの競技が行われました。 -
関内 吉田橋関門跡の碑
現在、この橋の下を首都高速道路が走っています。
解説には次のように書かれています。
安政6年(1859)、横浜が開港となって交易場、貿易港として栄えるにしたがい、幕府は開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道から横浜路を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近までが入海であったことから木橋を架け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことより「吉田橋」と呼ばれました。
吉田橋が設置されてから当地は交通の中心地となり、その治安を図るため橋の袂に関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まりました。
関門は、当初、港側に設けられましたが、文久4年(1864)に吉田町側に移設されました。
関内、関外という呼び名はこの時以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢佐木町側を指し、その関門は明治4年に廃止されました。 -
JR関内駅の横のガード
このガードの左手前に「鉄の橋」「ブラントンと横浜」の碑が建っています。
吉田橋の海側になりますので、ここからが関内になりますね。 -
「鉄の橋」「ブラントンと横浜」の碑
【鉄の橋】
明治2年(1869)、英国人土木技術師R.H.ブラントンにより架け替えられた吉田橋は、橋長24m、幅員6mの日本最初のトラス鉄橋であり、「鉄の橋」として市民に親しまれるとともに、文明開化のシンボルとして錦絵に描かれるなど人気を集めました。
【ブラントンと横浜】
明治元年(1868)、日本政府の招聘により来日したブラントンは、開国に伴い、日本沿岸各地に灯台を建設する一方、8年間にわたり活動の拠点としていた横浜では、日本大通りや横浜公園の設計を行うなど、近代的な街づくりに大きな足跡を残しました。鉄の橋碑/ブラントンと横浜碑 名所・史跡
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「近代街路樹発祥の地」
JR根岸線のガードを潜った場所です。
明治元年(1867)、居留地の外国人からの要請で、吉田橋から本町通りにかけて馬車専用の道路(現在の馬車道)が造られました。
当時の横浜は人口過密状態であったため、馬車の往来による危険防止のため歩道を造り、さらに街の景観的魅力の向上や緑化を意図して、街路樹(松と柳)を植え始めました。
西洋化を目指していた馬車道沿いの各商店が、次々と自分の店舗前に植えたこともあり、馬車道の景観は一段と整備されていきました。近代街路樹発祥の地 名所・史跡
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「近代街路樹発祥の地」碑
昭和54年(1979)、開港120周年記念事業の一つとして、
横浜市が建てた碑です。近代街路樹発祥の地 名所・史跡
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馬車道の街なみ(関内駅側の入り口)
日本初のガス灯が登場し、街路樹とのコラボレーションの美しさができあがったそうです。
現在の街路樹は「アキニレ」が植えられています。馬車道 名所・史跡
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馬車道 「アイスクリーム発祥の地(太陽の母子像)」
1976年、日本アイスクリーム協会より寄贈された「太陽の母子像」(本郷新 作)。
(アイスクリームと母子像がどう関係するのかは分かりませんが)
アイスクリームの発祥については、
馬車道通りの常盤町5丁目で氷水店を開業していた町田房造が、
アメリカで酪農やアイスクリーム製造技術を学び明治元年に帰国した出島松蔵に指導を受け、明治2年(1869)、自店で日本で最初のアイスクリームを「あいすくりん」の名前で売り出したそうです。
しかし、高価(1人前で現在の8000円相当)だったことや、日本人には馴染みがなかったことから、売れずにすぐに店じまいをすることもあったそうです。
翌年5月、伊勢山皇太神宮のお祭りで販売したところ、当日の好天候にも恵まれて、冷たい「あいすくりん」に人々が集まり、大変繁盛したことがきっかけとなり、東京・銀座などに同業者が増え始めてアイスクリームが広まっていったそうです。
5月9日の「アイスクリームの日」前後には、馬車道商店街でアイスクリームに関連したイベントが行われています。アイスクリーム発祥の地 (太陽の母子像) 名所・史跡
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勝烈庵・馬車道総本店の玄関脇に立つ「ハマの街灯点火の地」碑
明治19年(1886)、日本最初の電力会社・東京電灯会社が開業。
その3年後の明治22年、横浜には横浜共同電灯会社が設立された。
明治23年、横浜共同電灯株式会社が中区常盤町に火力発電所を建設し、横浜市内の約700の電灯と街灯が一斉に点灯されたのが、神奈川県で初めて電力供給が行われたもので、それを記念して建てられたのが「ハマの街灯点火の地」碑。勝烈庵 馬車道総本店 グルメ・レストラン
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馬車道十番館
横浜・関内には開港当時の面影を物語る数多くの建造物や資料が残されていましたが、大正の震災や戦災でそのほとんどが失われてしまいました。
馬車道十番館は、明治の先覚者でガス事業の創始者でもある高島嘉右衛門家の旧跡に、開港当時の建築様式を参考に、明治の西洋館を再現したもの。
なお、山手十番館は母体である勝烈庵の十番目の店として昭和42年(1967)に明治100年を記念して建てられたもので、その後、「株式会社 横浜十番館」として独立、馬車道十番館、別館馬車道十番館などを開館したそうです。(馬車道十番館のHP参照) -
馬車道十番館前の牛馬飲水槽
この牛馬飲水槽は、大正6年、横浜の陸上交通の主力であった牛馬のために神奈川県動物愛護協会の前身である日本人道会と横浜荷馬車協会が現在の横浜市磯子区八幡橋際に設けたもの。
このほか中区の生糸検査所、西区高島町駅前、久保山のガ−ドそばに設置し、牛馬の途中休憩所としました。
また荷馬車協会には三千頭の牛馬がいて夏ともなればしゃれた麦わら帽子をつけ気どった足どりで荷物の運送をしました。
昭和四十五年十月 横浜史料保存会牛馬飲水 名所・史跡
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山手十番館 (この写真は別の日に撮影したものです。)
昭和42年(1967)に明治100年を記念して建てられた勝烈庵の十番目の店。 -
市民文化会館 関内ホール
玄関前でライブが行われていました。 -
朝倉響子作品 「ニケとニコラ」像
いつも関内ホールの横に立っている二人。
今年の夏は暑かったことでしょうね。 -
馬車道 「日本で最初のガス灯」の記念碑と復元されたガス灯
明治2年(1869)頃から、太田町の住民やドイツ人の経営する商社がガス灯の建設を相次いで神奈川県に出願。
その利権が外国人に独占されないようにという配慮から、神奈川県と外務省は明治3年(1870)に横浜の実業家、高島嘉右衛門が花咲町5丁目に設立した「日本ガス社中」にガス灯建設を許可しました。
明治5年(1872)に大江橋より馬車道、本町通りにかけて十数基の日本初のガス灯がともりました。
当時は、はんてん姿の点灯方がひとつひとつ手作業で点灯していたそうです。
初めて目にする西洋生まれのガス灯に、「キリシタンの魔法」といって恐怖と驚きの声もあがったそうです。
「日本ガス社中」は現在の横浜市本町小学校になりましたが、敷地内には文化財でもあるガス灯と「日本最初のガス会社跡」の記念碑があるそうです。
「日本ガス社中」は昭和19年に東京ガス株式会社になっています。日本で最初のガス灯 名所・史跡
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「日本で最初のガス灯」記念碑の説明文
〜日本で最初のガス灯〜
安政6年(1859年)に開港場となって以来、横浜は西洋文化の玄関口となりました。馬車道を起点にして全国に拡がったものも数多くあります。
ガス灯は、明治5年(1872年)に、高島嘉右衛門の「日本ガス社中」により、馬車道・本町通り等に設置、点灯され、これが日本における最初のガス灯となりました。柱部は英国グラスゴー市から輸入し、灯具は日本人職人により製造されたと言われます。 このたび、横浜市市民文化会館(関内ホール)新築完成を祝って、当時の型をモデルとしたガス灯を復元設置しました。壁面レリーフは、横浜開港資料館所蔵の絵葉書を転写したもので、明治末期の馬車道です。
昭和61年9月27日 馬車道商店街協同組合日本で最初のガス灯 名所・史跡
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馬車道にある平安堂薬局
平和堂薬局のHPによれば、
創業明治3年、現在は6代目。
『くすりは馬車道の平安堂』はおよそ100年前にできたキャッチコピー。
和歌山県出身の初代清水榮助は、江戸の薬種問屋で修業したのち、明治3年(1870)横浜・関内の日本人居住地区、馬車道に、出身地名から、屋号を紀伊国屋(キノクニヤ)薬舗と称し開業し、主商品・家伝薬「上気平安湯」を製造販売。
自家製剤「上気平安湯」は評判がよく、製造した商品は、横浜以外の地域からも要望があり、製造日の午前中にはその日の製造品は完売したそうです。 -
馬車道・弁天通りに設置されている日本写真の開祖 下岡蓮杖顕彰碑
円錐形の上部には、1839年フランスで発明された写真機「タゲレオタイプ」のオブジェが飾られています。
伊豆下田で生まれた下岡蓮杖は、絵描きに憧れて日本画を習っていたそうですが開港後に下田に着任したアメリカ総領事ハリスに給仕として雇われ、ハリスの副官であるオランダ人通訳ヒュースケンから学んだ写真術に興味を惹かれました。
その後、横浜に出てからアメリカ人写真家と出会い、その助手からも写真術を習いました。写真の開祖 下岡蓮杖顕彰碑 名所・史跡
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日本写真の開祖 下岡蓮杖顕彰碑
嘉永元年(1848)オランダから長崎へダゲレオタイプ一式が渡来した。
弘化2年(1845)、狩野派の青年絵師が銀板写真に遭遇し、絵筆を折り捨て写真術習得の道へ歩み出した。
この青年こそ日本に写真師という職業を確立した日本写真の開祖下岡蓮杖その人である。蓮杖は来日した外国人から湿板写真の機材を入手し、筆舌に尽くしがたい辛苦の歳月を経て、文久2年(1862)野毛に初めての写真場を開業。その後、弁天通りに進出し、慶応3年(1867)太田町5丁目に写真館を開き大繁盛した。
数多くの門下生を育て、我が国における写真技術の先覚者として近代文化の発展に貢献した。
その業績に敬意を表し、文明開化の地、馬車道通りに写真師発祥125周年、日本写真の開祖写真師下岡蓮杖顕彰碑を昭和62年建立。写真の開祖 下岡蓮杖顕彰碑 名所・史跡
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馬車道 歴史博物館の横にある牛馬飲水槽
居留地に住む外国人達の要請で、関内の長さ約1kmの道が拡張され、街路樹等が整備されると道を馬車で行き交うようになり、その通りを「馬車道」と呼ぶようになりました。
道路脇には、当時の交通手段であった馬や牛のための給水場として、牛馬飲水槽が設けられ、ここで馬や牛は水を飲み、休憩を取りました。
1869年には、ランガン商会が京浜乗合馬車を開業したほか、下岡蓮杖などの共同出資による成駒屋も乗合馬車の営業を開始したそうです。 -
神奈川県立歴史博物館(国重文、国史跡)
横浜正金銀行は明治13年(1880)に開業した日本銀行と並ぶ国内の最重要金融機関でした。
赤レンガ倉庫などの設計者として有名な妻木頼黄(よりなか)により、地盤工事から5年をかけて明治37年(1904)に完成。
建物は、地上三階、地下一階の構成で、外壁は稲田御影で化粧を施したドイツ・ネオバロック様式といわれる横浜で唯一の石造建築。
戦後は東京銀行横浜支店となりましたが、昭和39年(1964)、土地・建物を神奈川県が買収した後、関東大震災時に消失していたドームの復元と新館部分を増築して、昭和42年(1967)神奈川県立博物館として開館。
平成7年(1995)、内部を改装して神奈川県立歴史博物館に改称されました。神奈川県立歴史博物館 美術館・博物館
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YCC横浜創造都市センター
(元第一銀行横浜支店の建物で、その後、横浜銀行が本店別館として使用していた)
このビルの裏側に「日刊新聞発祥の地」があるそうですが、、
横浜市役所の新築工事エリアの中になるようで見つけられませんでした。
昭和4年(1929)、当時の第一銀行の横浜支店として、古典主義様式を用いて建設されました。
昭和55年(1980)以降は横浜銀行本店別館として活用されましたが、横浜銀行本店がMM21地区に新築移転後、このバルコニー部を残して建物の他の部分は取り壊されました。
残されたバルコニー部分の保存の動きがありましたが、道路の拡張工事のため、もとの位置から数十mほど移動し、残りの部分は新築復元することになりました。
平成15年(2003)、横浜アイランドタワーの一部として復元され、横浜市認定歴史的建造物の認定を受けました。 -
生糸商 中居屋重兵衛店跡
本町通りからベイスターズ通りに入った左手にあります。
中居屋重兵衛は、上野国吾妻郡中居村(群馬県吾妻郡妻恋村)の出身で、横浜が開港した安政6年(1859)に横浜に進出し、黎明期の生糸貿易を担った生糸貿易商。
その取引量は全輸出生糸の過半を超え、幕末の生糸貿易は中居屋によって支えられていました。彼の店には、全国から生糸が持ち込まれ、多くの外国人が生糸の買付けに訪れたといいます。
文久2年(1862)に観光された「横浜開港見聞誌」は、中居屋の店の様子について、商談に訪れる外国人の目を楽しませるために、金網を張った中庭に小鳥を放ち、座敷の周りにはガラス張りの大きな水槽を置き、金魚を泳がせていたと記しているそうで、中居屋の隆盛を伝える記述です。
中居屋は横浜発展の礎を築いた人物であり、明治時代になると、その事業は多くの生糸貿易省に引き継がれました。そして、横浜は日本最大の貿易都市に成長していきました。 -
横浜ベイスターズ優勝記念モニュメント 煌
平成10年(1998年)、球団としては38年ぶり、横浜ベイスターズとなってからは初めて日本シリーズを制しました。
この優勝を記念して、建てられたのが、「横浜ベイスターズ優勝記念モニュメント「煌」(きらめき)」です。
優勝当時の監督、コーチ、選手全員40名分の手形が飾られています。
このモニュメントはファンの募金で作られたそうです。
モニュメントが完成後は、通りの名称も「ベイスターズ通り」に変更されました。
25年ぶりに広島カープが優勝しましたが、そろそろベイスターズにも優勝して欲しいすね。横浜ベイスターズ優勝記念モニュメント 煌 名所・史跡
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神奈川県電気発祥の地
ベイスターズの優勝記念モニュメントのすぐ右側にあります。
明治23年(1890)横浜共同電燈会社が、この地に火力発電所を建設し、神奈川県で初めて電力供給を開始。
当時は、出力100KWの石炭火力発電で、利用者は約700軒だったそうです。神奈川県電気発祥の地 名所・史跡
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横浜公園
明治9年(1876)に開園した、日本でも最古の部類に入る西洋式公園です。
当時、敷地内には外人居留地運動場が建設され、
明治29年(1896)には日本で最初の野球の国際試合が行われました。
後の横浜公園平和野球場、そして現在の横浜スタジアムへとなっていきます。横浜公園 公園・植物園
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横浜公園 横浜スタジアム
「横浜公園平和野球場」が老朽化したため、1977年に運営会社「株式会社横浜スタジアム」が設立、僅か1年程の期間で横浜スタジアムが完成。横浜スタジアム 名所・史跡
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横浜公園の噴水
この噴水は3代目のものですが、場所は開園当時と変わらず、
日本大通り(写真の左手)のセンターライン上に位置しています。横浜公園 公園・植物園
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横浜公園の歴史
横浜公園誕生のきっかけは、幕末慶応3年(1866)の大火でした。
開港場の3分の1を焼失、幕府と諸外国との間で「横濱居留地改造及競馬場墓地等約書」が結ばれ、耐火で全焼した旧太田屋新田の港崎遊郭の跡地に、外国人と日本人の双方が利用できる「公けの公園」を設置することが認められました。
公園は外国人居留地と日本人市街地を隔てる防火道路(日本大通り)と一体的に計画され、イギリス人技師ブラントンによる原設計をもとに神奈川県が実施設計を担当して造営されました。
明治9年(1876)2月に開園し、居留外国人と日本人双方が利用できるの公園として「彼我(ひが)公園」と呼ばれました。
その後、横浜公園は、横浜市の管理となった明治末期、関東大震災からの復興を遂げた昭和初期、戦後の接収を経て、現在の横浜スタジアムが建設された昭和50年代と3度にわたる大きな改造を経て現在に至ります。
平成17年(2009)、日本大通り・山下公園とともに国の名勝となりました。 -
横浜公園 ブラントン像
この公園の設計者R.H.ブラントンの胸像が日本大通りの中心を向いて置かれています。
明治元年(1868)、日本政府の招聘により来日したブラントンは、8年間で数多くの足跡を残しました。
横濱居留地測量(1868-70)、電信敷設(1869)、新橋・横浜間の鉄道意見書(1869)、吉田橋(鉄の橋)架設(1869)、居留地下水道整備・マガダム式道路舗装・街路照明計画(1869-71)、水道計画(1870)、築港計画(1870,73,74)、新埋立居留地造成計画・施工(1871)、中村川拡幅設計・施工(1871)、日本大通り設計・施工(1871)、修技校開校(1871)、横浜公園設計・施工(1871,72) -
日本大通り 日本における近代道路の発祥地
旧外国人居留地と日本人街を区分する街路で、
慶応2年(1866)の大火災後に防火帯を兼ねて計画整備された
日本における近代道路の発祥地。
設計者はブラントンで、建設年代は明治4年〜12年。
12mの中央車道の両側に3mの歩道と9mの植樹帯が設けられていた。
(現在の幅員は36m)
この沿道には神奈川県庁、旧英国総領事館、旧横浜商工奨励館、旧横浜地方裁判所、三井物産横浜ビルといった歴史的建造物が集積し、横浜でも有数の歴史的景観となっています。
設計者のブラントンの銅像は、この中心線に向かって置かれています。日本大通り 名所・史跡
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日本大通り 日本における近代道路の発祥地
ブラントンが設計した道路の舗装には、スコットランドの技術者J.L.マカダムが考案したことからマカダム舗装と名付けられる砕石舗装が採用されていました。
伊豆産の硬い石を砕いてローラーで固め、5cmの層を3層重ねる技法で水はけがよく、馬車の通行にも適した道路でした。日本大通り 名所・史跡
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開港広場に面して建つ日本キリスト教会 横浜海岸教会
我が国最古のプロテスタント教会につながる由緒ある教会堂。
明治8年(1875)鋳造の鐘を今も開港広場に鳴り響かせています。
鐘塔の屋根の庇と塔の庇が重なり個性的な造形となっています。
現在の建物は昭和8年建設されたものですが、
老朽化のため2年ほど前に改修工事が行われ綺麗になりました。横浜海岸教会 寺・神社・教会
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横浜開港資料館 旧館
旧英国総領事館として昭和6年(1931)に建てられたもの。横浜開港資料館 美術館・博物館
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横浜開港資料館の中庭の「たまくす」の木
日米和親条約締結の地として有名なたまくすの木を中庭に抱き込むように建物が造られています。
「たまくす」は、江戸時代、横浜がちいさな農漁村であったころからこの地にあり、嘉永7年(1854)ペリー来航時に艦隊に随行してきた画家ハイネが描いた「横浜上陸」や「水神の祠」などに描かれた木がそれにあたると考えられています。
関内地区に大きな被害をもたらした慶応2年(1866)の大火、大正12年(1923)の関東大震災と二度の大きな被害をくぐり抜けた「たまくす」は、昭和56年(1981)日米和親条約締結の地に開館した横浜開港資料館を象徴する有形文化財として、そして近代横浜の生き証人として生き続けています。たまくすの木 自然・景勝地
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横浜開港資料館の中庭にある「ペリー提督横浜上陸」の図
米艦隊随行画家/ハイネ作だとか。横浜開港資料館 美術館・博物館
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横浜開港資料館の中庭 獅子頭共用栓とブラフ溝
解説によれば、
この共用栓は、日本最初の近代水道となった横浜水道(明治18〜20年)創設時横浜各所に配置されていたもの。
当時、家屋内に蛇口を惹く例は少なく、路頭の共用栓から水の供給を受けるのが一般的で、創設期600基がイギリス・グレンフィールド社から輸入された。
また、水受石は、山手の坂道など居留地時代の道路側溝に利用されていた石材を再利用した。獅子頭共用栓とブラフ溝 名所・史跡
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開港広場 日米和親条約締結の地
これが「日米和親条約締結の地」碑なのか?
この場所で安政元年(1854)、徳川幕府とアメリカ政府で日米和親条約が締結され、約200年続いた鎖国を終えました。
しかし開国はしたものの、ペリーを擁するアメリカ側が求めていた貿易の自由化を日本側は受け入れなかったため、開港までには至りませんでした。
その後、安政5年(1858)の日米修好通商条約の締結を経て、安政6年、横浜港は開港してアメリカ以外にもオランダ・ロシア・イギリス・フランスなどの交流が始まりました。日米和親条約締結の碑 名所・史跡
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横浜開港記念館の横にある開港広場
開港広場には地球儀の形をした「日米和親条約締結の地」の記念碑や「旧居留地90番地の大砲」、1890年頃に大桟橋付近に設置されていたという「時計塔」など、開港時代を想わせるオブジェが点在しています。
この広場にある公衆トイレは、日本で最初に造られたものだとか(?)。
開港後、居留地の外国人達からの日本人に対する立ち小便への苦情対策として、
明治4年(1871)に町の83箇所に板で囲った簡単なものを設けたのが始まりとされています。
(弁天橋のたもとが最初だとの話もあるようです。)開港広場 公園・植物園
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横浜中華街 関帝廟
関帝廟は、関東大震災や第二次世界大戦、不審火による火災で消失し、現在の4代目が完成したのは平成2年。
煌びやかな装飾には、金箔がふんだんに使われています。横浜中華街関帝廟 名所・史跡
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関帝廟の横にある「日本における新聞発祥の地」碑
ここはジョセフ彦と言う人が日本で初めて新聞を発行した記念の地と言う事で、発刊から130年を記念して1994年を建てられました。横浜中華街関帝廟 名所・史跡
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横浜地方共同庁舎と人形の家
この庁舎がある場所が、ヘボン博士が住んでいた場所。 -
ヘボン博士邸跡 「日本最初の和英辞典」発祥の地
安政6年(1859)、医療・伝道活動を目的として来航したヘボンは施療事業と共に日本語の研究を行って日本で最初の和英辞典だった「和英語林集成」を編修し、「美国平文」と言う名前で出版しましたのが日本最初の和英辞典でした。
日本語を転写することによって採用したのが英語式の転写方法であり、また、辞典が普及すると同時にヘボンによって書かれた文字「ヘボン式ローマ字」も広まっていきました。
また、キリスト教主義教育を日本に根付かせることを望み、文久3年(1863)に横浜にヘボン塾を開設。
その後のヘボン塾は、他のプロテスタント・ミッション学校と連携し、明治20年(1887)に明治学院として統合し、初代総理に就任しました。ヘボン博士邸跡 名所・史跡
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ヘボン博士邸跡
横浜地方合同庁舎の横に建っています。
碑文
開港とともに来日した宣教師の一人で神奈川成仏寺に3年仮寓、文久2年(1862)冬、横浜居留地39番に移転、幕末明治初期の日本文化の開拓に力をつくした。聖書のほんやく、和英辞典のへんさん、医術の普及などがそれである。
昭和24年(1949)10月記念碑が邸跡に建てられた。ヘボン博士邸跡 名所・史跡
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山手迎賓館
みなとみらい線元町中華街駅から谷戸坂の角にある結婚式場。
この日も結婚式が行われていました。山手迎賓館 名所・史跡
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山手迎賓館の脇にある「機械製氷発祥の地」の解説
気を付けてみないと見過ごしますね。山手迎賓館 名所・史跡
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山手迎賓館の脇にある「機械製氷発祥の地」のパネル
説明文の内容
開港から明治初期に至る時期、横浜にはボストンや函館から切り出された天然氷を扱う会社がいくつもつくられました。ホテルのレストランやアイスクリ−ムサロンで氷が共されたという記録が残っています。
1879(明治12)年には、日本で最初の機械製氷会社「ジャパン・アイスカンパニ−」がこの地に設立され、オランダ人ストルネブリンクらによって永く経営されました。
設立当時の建物は関東大震災で倒壊したものの、翌年には再建し、1999年(平成11年)まで、株式会社ニチレイの子会社である神奈川日冷株式会社山手工場として再建当時の姿のままで稼動していました。
横浜村が開港してからまもなく横浜港に氷が輸入されてきました。
また当初の氷はボストンと函館の氷が搬入されていましたが、ボストンの氷は横浜まで長時間掛かるため高価な氷とされていました。その氷で元町周辺の居留地で商売をしていた外国人も居たほどでした。そして、函館からの氷は、頻繁な外国船の出入と言う海運の利便さが大きく横浜や東京に搬入されました。日本人では中川嘉兵衛が1864年の11月に「氷売り込み」を出願し、氷の切り出しから各地で試みて失敗しましたが、1869年に函館氷の出荷に初めて成功しています。
1879年(明治12年)には元町周辺に日本最初の機械製氷会社「ジャパン・アイスカンパニ−」が設立されオランダ人ストルネブリンクが永く経営していました。
その後も経営者は何度か変わりましたが、関東大震災の1923年まで経営を続けられていました。山手迎賓館 名所・史跡
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代官坂
「日本バブテスト発祥の地」碑のある坂の対面にプレ−トがあります。
〜代官坂〜
この坂は、山手の丘を越えて北方・本牧へ行く道で、箕輪坂と称していましたが、坂の途中この地に横浜村名主石川徳右衛門が居住していたことから、代官坂とよばれています。幕末開港前後の当主徳右衛門は、日米和親条約締結のための応接場の設営、食糧、その他の設備一切を掌りました。
嘉永7年(1854)3月9日(4月6日)ペリ−が横浜村に上陸し住民の暮らしぶりを視察したおり屋敷を訪れ、徳右衛門が供応した様子が「ベルリ提督日本遠征記」に記されています。その後徳右衛門は、横浜町惣年寄となり町政を担当しました。
明治7年(1874)、坂の上(山手町75番地)にバブテスト自由伝道教会のネ−サン.ブラウンが教会堂を建て布教の拠点としましたが、火災で消失しその後、明治27年(1894)ベンネットが横浜第一バブテスト教会と称し、教会堂を坂の途中(現在 元町2丁目80番地)に移転しました。
大正12年(1923)寿町に移転し、跡地に「日本バブテスト発祥の地」の記念碑を建立しました。
社団法人 横浜国際観光協会 -
代官坂の途中(左手)にある「日本バプテスト発祥の地」碑
この場所は、以前は横浜外国人居留地の山手75番地に当たり、横浜第一パプテスト教会があったところだそうです。
道路脇の草むらに立っていて、気を付けないと分かりませんでした。 -
元町商店街にあるダニエル元町本店
「西洋家具発祥の店」と言っていいのでしょうか。
今から約140年程前に横浜で日本人の手によって西洋家具を製造する技術文化が始まりました。
徳川幕府開国後の横浜には外国人の暮らしに適った家具が一つも存在せず、文久3年(1863)に英国人のゴールマンが横浜に住む馬具職人の原安造に椅子の修理を依頼したところ、ゴールマンはその出来栄えに感心して、本格的な洋家具の製作を依頼したのが横浜から文明開化された西洋家具への始まりだそうです。
この優れた伝統を今も継承しているのが、ダニエルの洋家具で日本最初として伝統に極めて忠実に造っているそうです。
この「横浜クラシック家具」は、昭和初期に製造されたものが現在も「ホテル・ニューグランド」で使われているそうです。
横浜「発祥の地」巡り(その2)はこれくらいでお終いにします。
まだまだ、いろいろあるようなので、また捜し歩いてみる予定です。
(おしまい)ダニエル元町本店 専門店
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