2015/05/26 - 2015/05/26
9位(同エリア54件中)
junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
オルヴィエートからチヴィタ・ディ・バーニョレージョまでのバスは1日に何本かありますが、そのうちの何本かはスクールバス専用のようで、都合のよい時刻は朝7:50か12:45、13:55の3本しかありませんでした。帰りも同じで14:40の次は最終バスの17:25。これを逃すとタクシーで帰るしかなくなります。カーエン広場にあるインフォメーションには、バスの時刻表が置いてありますので、いらっしゃるときはそれを参考にしてくださいね。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ここが、カーエン広場のバス停です。CO.TRA.Lというバス会社で、コトラルと読みますが、ピリオドの打ち方が面白い。そうそう、時刻表にweekdays onlyと書いてあったので、土日は運行していないようです。
バス停には、なぜかアジア人ばかりがバスを待っていました。これは後でわかったことですが、ベルリンで働いている日本人女性、べリルンで働いている日本人男性(この二人はお互い全く面識なし)と日本から来たその姉、それに私と日本人が全部で4名。それに香港からやってきた5、6名の賑やかなグループ、全部で20名位の乗客のうち半数がアジア人でした。チヴィタは今や多くの人達に知られる存在なんですね。 -
バスはオルヴィエートの丘を下り、田園地帯を南西に向かって走ります。後で地図を調べたら、オルヴィエートからあの奇跡が起こったボルセーナに行く道からちょっと南に下った辺りでした。
大聖堂の尖塔がよく見えています。下から見上げるオルヴィエートもなかなかですね。 -
今ちょうど通っている手前のお庭は、イル・リポジーノという宿泊施設で、なんと日本人経営。自家製ワインも作っていて、この絶景を部屋からワイングラス片手に眺められるなんて、嬉しいですね。
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そうこうしているうちに、景色は変わって、一面ブドウ畑に変身!
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これぞウンブリア!という景色です。
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屋根のない廃屋まで美しい・・・
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これは牧草地?
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途中で一瞬、チヴィタが一望できる町を通りました。ルブリアーノLubrianoという町だったかしら?
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そして約1時間かかってバーニョレージョの町に到着です。乗ってきたCO.TRA.Lのバスはこの青い車体です。
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さて、これからどちらの方向に行けばよいのかしら?
バーニョレージョはウンブリア州ではなく、ローマと同じラッツィオ州ヴィテルボ県の町で、人口は3600人余り。ローマからも90kmしか離れていないそうです。バス停近くにあったお土産屋さんで、店の主人に「バーニョレージョの地図、まったく売れないので1ユーロにまけとくよ」と言われて購入しました。
これでチヴィタへの道順がわかった! と思いましたが、実際は1本道なので迷いようがありませんでした。ガックシ・・・ -
花いっぱいの民家。アジサイの花もほころびかけていました。
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お〜 ひよ子ちゃん、車に気を付けるんだよ って聞いてないし・・・
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途中にあったバーニョレージョの戦争記念碑。「国のために命を落とした勇敢な息子たち」と書いてあります。どこの町にもある記念碑ですが、碑文に1990年〜1993年とあるから比較的新しいモニュメントです。
この広場に面して町のカテドラル サン・ニコラ・エ・サン・ドナートがあったはずなんですが全く記憶にございません。 -
立派なキャノピー付きの祠ですよ!
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バスを降りた場所から10分ほど歩いたところにあったサンタゴスティーノ教会(左)と奥サン・マルティノ教会です。
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広場の前の銅像はどなたかな?
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上の銅像より、お庭にあったこの古そうな彫像群の方が気になりました。手前左は修道女、右はお年を召したご婦人に見えますが、奥の顔を隠している男性の左腕の筋肉の盛り上がりが凄い! 一体何者???
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お待たせしました。歩き始めて20分。ようやくチヴィタとご面会です。
おお〜言葉になりません。バーニョレージョの町外れはそのまま急峻な崖になっていて、チヴィタのある丘以外何もない、荒涼たる景色が広がっていました。 -
イチオシ
チヴィタはバーニョレージョから続く台地が一旦途切れてまたその先で少しせり上がった狭い台地の縁にあります。両側は険しい崖。
途轍もなく広い台地が、すぐそばを流れるテベレ川(そう、あのローマを流れる川です!)によってすっかり削り取られた荒れ野にぽつっと残された離れ小島のようです。想像していたよりずっと大きな空間の中にチヴィタはありました。写真って狭い空間しか写せないんだと実感。 -
イチオシ
何枚も何枚も同じような写真を撮りまくります。谷を渡る風の冷たいこと!
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チヴィタに向かって左側の崖の上の町が、先ほど通ってきたルビリアーノの町です。
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気が付くとまた同じアングルで写真を撮っています。でも一瞬一瞬景色が違って見えるから不思議。
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バーニョレージョの崖っぷちにあったボナヴェントゥーラの洞窟。そう、チヴィタは13世紀の宗教哲学者にして神学者、司教、フランシスコ会の枢機卿だった聖人ボナヴェントゥーラの生まれ故郷でした。彼はアッシジの聖フランチェスコの伝記を書いた人としても有名で、パリの大学で教え、聖トマス・アキナスの友人でもありました。彼が子供時代を過ごした家はとうの昔に崖から崩れ落ちたそう。
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この洞窟はエトルリア時代の墓でした。
幼いジョアンニ・フィダンツァ(ボナヴェントゥーラの本名)が重病にかかった時、彼の両親は、当時説教の旅に出ていて、数日間この洞窟に滞在していた聖フランチェスコの元に駆けつけ、子供を祝福し、癒してもらったという伝説が残されています。奇跡的に治癒した(聖フランチェスコの奇跡?)ジョヴァンニに、聖フランチェスコはラテン語でこう告げたのだそう。「私の癒しの祈りは『良い結果』を生んだね」。良い結果=Bona Ventura。
その日から人々は彼のことをバンビーノ・ボナヴェントゥーラ(良い結果の子)と呼ぶようになり、ジョヴァンニはチヴィタとバーニョレージョの間にある聖フランシスコ修道会に入会した時に自らボナヴェントゥーラと名乗るようになったそうです。
で、肝心の洞窟は鍵がかかっていて入れずじまいでした。中には小さな礼拝堂があるらしいのですが。 -
洞窟の横の階段を下りて、なおもしばらく行くと、今度は真正面にチヴィタが見えて来ました。
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望遠で覗くと、ほとんどオーヴァーハングしているような崖の上に家が建っているのがわかります。
元々、ここの地盤は粘土層の上に固い溶岩や凝灰岩の層が積み重なったもの。粘土層は海洋性で、浸食されやすい性質を持っていました。凝灰岩の層が川によって次第に削られ、水が下の層まで達した結果、土台部分の粘土層の浸食のペースが早まり、地盤崩壊、地滑りを起こしたのです。 -
17世紀末には地震の頻発により地盤崩壊が加速したため、司教と町の執政官は村人をバーニョレージョに強制移住させました。19世紀には、浸食が現在橋がかけられている地点まで達して、バーニョレージョの町とつながっていたチヴィタは島のように孤立してしまいました。
チヴィタは死にゆく町、滅びゆく町 瀕死の町と様々な形容詞で呼ばれていますが、暗い絶望的なイメージはありません。まだ存在するのが不思議な場所という表現の方がぴったりくるかも。 -
この先がバーニョレージョの突端で、そこに村への入場料を徴収する料金所がありました。1.5ユーロだったかな? 入場料は村の保全に使われているそうです。
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私たちの乗ったバスには地元の人を含めて20人くらいの乗客しかいなかったので、観光客は少ないのかなと勝手に想像していたのですが、とんでもない! 殆どの皆さんは車やバスでいらっしゃるようで、ここから10分位歩いた駐車場から大勢の観光客がひっきりなしにやって来ていました。
日本の阪〇交通社の団体客にも遭遇しました。以前、ツアーでは添乗員さんに「皆さ〜ん、橋の所まで行って、写真を撮ったら戻って来てくださいね」と言われたという話を聞いたことがありますが、そんなことはなく、皆さん村を散策された帰りのようでした。それじゃああんまりですよね(笑)。 -
さあ、いよいよチヴィタへの橋を渡ります。ここまでバスを降りてからたっぷり30分かかりました。帰りのバスの時刻から30分差し引いて、村に滞在できる時間を計算します。
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1965年に架けられた鉄筋コンクリート製の橋です。基本的には徒歩のみですが、住人と特別な許可証を持つ人のみ、自転車、バイク、荷物用の四輪車での通行が許可されています。
谷底から最大で40mあるそうですよ。 -
チヴィタに向かって右側の広大な谷です。写真だとほんの一部分しか見えませんが、あちこちに白い浸食された岩肌がむき出しになっているのがお分かりだと思います。その向こうには河岸段丘かな? 一段高い場所に平らな台地が続いています
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チヴィタに向かって左側の狭い谷です。先ほどバスで通った町ルビリアーノが崖の上に見えています。こちらの崖すれすれに建っている建物も決して安全とは言えませんね。
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ちょっと雲行きが怪しくなってきました。なんとかあと数時間もってほしい・・・
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こちらはバーニョレージョ方面を振り返った1枚です。
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浸食と地滑りは森林崩壊をもたらし、谷では大きな樹木は育っていません。低木が少々と黄色いワイルドフラワーが咲き乱れていました。英語ではバッドランドBadlandと呼ばれる浸食された涸れ谷です。
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ここまで接近すると、「これはやばいでしょう」という状況になっているのがはっきりとわかります。2004年には地面に鋼鉄の杭を打ち込んで地盤を強化するという計画が立てられたことがあるそうですが、その後どうなったのかしら?
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2006年にはワールド・モニュメント財団の「100の絶滅危惧サイト」の一つにも加えられました。浸食と制限のない観光の脅威にさらされている・・・とありましたが、人工的な脅威の方は、観光客あってのチヴィタにとっては、解決不可能な問題だと思われます。
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チヴィタの左側斜面をズームアップすると・・・
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ほらほら!今にも滑り落ちそうな木が! 必死に根を張って踏みとどまっている樹木に、心からの声援を送ります。頑張れ〜!!
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ルビリアーノの町もだいぶ近くに見えて来ました。多分直線距離にして1kmあるかないかですが、間に道らしきものは見えません。崖沿いにいくつか洞穴が見えますね。
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村の入り口のサンタ・マリア門が見えて来ました。これが、現在唯一残っている村への出入り口です。中世の時代には2つの門があったんですって!
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村に通じる最後の坂を上ります。結構きつい!
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チヴィタに最初に人が住み着いたのは2500年前のエトルリア人でした。その頃チヴィタに行くのはそう大変ではありませんでした。エトルリア時代、チヴィタの近くを通っていたテヴェレ川沿いの道は、中央イタリアに行くための交易ルートの一つだったのです。町が栄えていたことは、崖下の岩の中にあるエトルリア人のネクロポリス(墳墓)の多さからも想像できます。
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先ほど入り口に鍵がかけられていた「ボナヴェントゥーラの洞窟」も、そうしたエトルリア人の墳墓の一つでしたね。比較的高台にあった先ほどの洞窟はともかく、現在墳墓の多くは地滑りや地震、浸食などで岩に押しつぶされたり、埋まったりしているそうです。
調べてみると、どうやらエトルリア時代から地震が頻発する地域で、地滑り、浸食は深刻な問題だったようです。紀元前265年にローマ人がやってくると、彼らは町を守るために雨水の排水管の設置や谷を流れる小河川の堰き止めや整備を行いますが、ローマ帝国以降は殆ど顧みられなくなります。その結果地盤は急速に悪化し、やがてチヴィタの崩壊を招くことになるのです。 -
チヴィタのタイルの祠第1号です。
774年にランゴバルド人(ロンバルド人)がフランク王国のカール大帝に滅ぼされると、チヴィタ(とバーニョレージョの町)は教皇領となりますが、やがて1140年には自治都市となります。当時の町の有力者にモナルデスキ家があります。そう、オルヴィエートでよく出てきた名門貴族です。 -
オルヴィエートとチヴィタの関係はあまり良いとは言えず、モナルデスキ家はチヴィタをヴィテルボの町との宗教紛争(オルヴィエートは教皇派、ヴィテルボは皇帝派の町でした)の戦略拠点にしようとしていました。事実モナルデスキ家による実効支配が1457年まで続きました。この年、チヴィタの人々は反旗を翻し、モナルデスキ家に属するチェルヴァーラの要塞を破壊し、勝利をおさめました。
ようやくたどり着いた町の入り口サンタ・マリア門のアーチの両側にある「人の頭を抱えたライオン像」は、この時の戦勝記念だそうです。 -
アップはこちら。アーチの上にあるのは鷲がライオンの頭を爪の間に挟んでいる姿ですって。
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サンタ・マリア門から振り返ってみたバーニョレージョの町方面。中世の時代までは現在橋のある場所からチヴィタまでは尾根が伸びていて、間にはボナヴェントゥーラが入会したフランシスコ会の修道院がありました。1765年の地滑りで、建物は谷底に落ちていき、崩壊したそうです。
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右側の谷は、荒れ野ばかりでなく、河岸段丘が続いているのが一目でわかります。段丘の手前には人の手の入った耕作地も見ることが出来ました。ちょっとほっとする風景です。
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門の中にあったサンタ・マリア・デッラ・ポルタ通りの標識です。
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門の反対側の入り口は目立たない、どこかの家の通用口と言った雰囲気でした。それもそのはず、門のある建物は11世紀のこの地の領主の城だったとのこと。
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ツタの絡んだアーチをくぐっていくと・・・
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広場というには狭すぎるコレサンティ広場に出ます。今まで見てきた風景が嘘のように平和で静かな村の佇まいです。
チヴィタは「イタリアで最も美しい町(村)」に登録されています。「フランスで最も美しい村」は聞いたことがあったけれど、イタリアにもあったんだ・・・
http://www.borghipiubelliditalia.it/en/ -
雨が降らないことを祈って、美しい村の散策開始です。地盤崩壊や地震を恐れてか、このように土台部分を補強した建物が目立ちました。観光の町なので、いたるところレストラン、カフェ、お土産物屋さんが目につきます。正式な住人の数は12人とか言われていますが、夏の間には100人以上に増えるそうです。
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最近作られたらしい祠発見!
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中のフレスコは古そうです。外枠を新調したのかしら?
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こちらのアーチに置かれているテラコッタはエトルリア人?
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コレサンティ広場の右手、崖沿いの道をたどっていくと、立派な邸宅があったので、近づいていきます。綺麗に手入れされているし、テレビのアンテナが立っているので、チヴィタの数少ない住人のお宅のようです。
傍まで近寄ってみると、右側に何かありましたよ! -
おお〜 ここが、聖ボナヴェントゥーラの家のあった場所でした。彼が少年時代を過ごした家は、1524年〜25年にかけて彼に捧げる教会に建て替えられました。ヴォールト屋根のある15m×9mの長方形の建物だったそうです。
教会は1695年の地震で被害を受け、1703年に再建されたものの、1764年の地震でまたもやダメージを受けました。そしてそれに続く連続的な地滑りで、1826年には完全に崩壊したそうです。 -
崩壊した教会の隣の家は大丈夫なのかなあ・・・他人事ながら心配です。庭のジャスミンが良い香りを漂わせていました。
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なおも、崖沿いの道をたどります。
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扉がお揃いの渋い柿茶色に塗られたこちらのお宅も手入れに抜かりはありません。
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どの家も窓辺を花で美しく飾り立てていて、見せる努力を怠っていませんね。流石イタリアの美しい町に選ばれただけのことはあります。
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2階への外階段がある家が多いように思いました。この狭い小路を抜けると・・・
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今までで一番大きい広場に出ました。村の中心の、古いドゥオモ広場Piazza Duomo Vecchioです。チヴィタのすべての道はこの広場に通じていますので、道に迷う心配はありません。
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そしてこちらがドゥオモ・ヴェッキオ。その名が示す通り、かつてのドゥオモ(大聖堂)だった教会です。17世紀末まではここに司教座が置かれていましたが、前述したとおり、相次ぐ地震の頻発により、地盤が崩壊を始めたため、安全策のため人々を避難させ、大聖堂をバーニョレージョの町に移したのです。先ほど見損なったサン・ニコラ・エ・サン・ドナートに司教座も移ったんですね。
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サン・ドナート教会です。エトルリア時代の神殿跡に建てられた教会で、起源は5世紀に遡ります。今でもかつての神殿から地下のエトルリア墳墓へと続いていた立て坑が残されているそうですよ。
最初はバシリカ・タイプの外にポルティコのある建物でしたが、何度も修復、改修を経て、1511年にはカポラローラ出身の建築家ニコラ・マッテウッチにより大改修を行っています。現在のファサードはその工事の終了後に建て替えられたもので、1524年〜47年にかけて作られたルネサンス様式です。 -
広場の中央まで下がっていって、もう一度教会を眺めました。ロマネスクの鐘楼が良い味を出しています。鐘楼の基盤部分には、エトルリア時代の石棺が使われていると聞きました。何でも再利用するローマ人の特徴ですね。
中に入ってみます。 -
サン・ドナート教会内部です。白い装飾のないアーチが身廊と側廊を分け、内部を明るいものにしていました。16世紀の大改修の際にそれまでの主祭壇、クリプト等の除去、聖歌隊席の移動、内陣の新設、側廊と屋根の高さを上げる工事などが行われています。基本的な構造はそれから変わっていませんが、その後も頻発する地震、地滑りの度に教会は甚大な被害を受け、修復を繰り返しています。
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いつものことですが、教会の祭壇早回りです。
膝の潰瘍を見せているのは、ペストの守護聖人聖ロッコですね。 -
見目麗しい聖母子の像。長いロザリオを片手に持っていました。
背後にある絵は、シエナの聖カタリナの生涯を代表するエピソードとして知られている「キリストとの神秘の結婚」のようです。 -
内陣横にあったこちらの礼拝堂は、856年に亡くなった、チヴィタの司教聖イルデブランドの聖遺物が収められている祭壇です。彼の聖遺物は、主祭壇下の二つの密封された箱に収められ、開封されることなく保管されてきました。写真の新しい祭壇が完成した1887年に、主祭壇からこちらに移されました。地震や地滑りに耐え、よくここまで持ちこたえてきましたね。
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内陣の主祭壇です。殉教の象徴であるヤシの葉が飾ってあるのが印象的です。残念ながら後陣の半月形ドームに描かれたフレスコは殆ど消えかかっていました。
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「解放のマドンナ」と呼ばれている王冠をかぶった聖母子像は、イタリアの各地で見られますが、こちらはそのうちの複製の1枚だと思われます。
祭壇の聖母子を護る天使像やその上の装飾は思いっきりバロックでした。 -
床に残る大理石の墓石はごく最近彫られたもののように、彫刻された面の陰影がはっきりと残されていました。とても美しい墓標ですね。
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造りはシンプルですが、美しい曲線模様をあしらったグロテスク装飾?のフレスコが描かれた説教壇です。
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サンタ・ヴィットリアは3世紀皇帝デキウスの時代のローマの殉教者で、彼女の聖遺物はベネディクト会がチヴィタに修道院を開いたときに、この町に一緒に運ばれたのだそうです。
今ここにあるのは、サンタ・ヴィットーリアの等身大の像とこちらの石棺だけです。彼女の骨はマルケ州のサンタ・ヴィットーリア・イン・マテラーノという町にあり、骨と棺を含む聖遺物が別々になった経緯については定かではありません。先ほど通ってきたサンタ・マリア門の前には、彼女に捧げる教会があったのですが、それも1694年の地滑りで現存していません。その時点で、こちらの教会に移されたものと思われます。彼女は聖イルデブランドに続き、町の守護聖人となっています。 -
最後にもう一つ美しい石造りの祭壇を紹介しましょう。二人の天使が王冠を捧げ持っていて、その下にある新芽を愛しんでいるように見えます。これは紋章かな? 中央にある木の箱には一体何が収められているのでしょうね? あまりよそでは見たことのない個性的な祭壇でした。
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教会の外に出てまいりました。鐘楼の隣に立つどっしりとした(これまた下に行くほど壁が厚くなっていますね)建物は、かつての司教館。現在はB&Bになっていて、1階には日本の雑誌にも紹介されたことのある「アンティコ・フォルノ」というレストランがあります。
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司教館の隣のおうち。2階の窓の上に穴が開いていますが、何かいますよ。どうやら鳥の住処みたいです。
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教会の対面の家も「ボナヴェントゥーラ」というロカンダ(宿)になっているみたいです。住んでいる人の殆どは観光業に携わっているのでしょうね。
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ぐるりと1周回って、広場の最後の面には、こちらのワイナリー(カンティーナ)が店を出していました。休むのはもう少し後にすることにして、チヴィタの村をなおもほっつき歩きます。
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石の再利用方法が良く分かる見本がありましたよ。少々危なっかしい使い方ですが、こうやって繰り返し古いものが利用されてきたんですね。石の家の耐震性ってどの程度なのかしら? 地震に何度見舞われても、ここの人達は石の家に住むのをやめないと思いますけれど・・・
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チヴィタに来てから初めて見たピッカピカのスクーター。これなら、あのきつい坂も楽々上れますね。
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地震対策か地滑り対策かわかりませんが、リスクを承知でこの地を動こうとしない人々の家が続きます。予想に反して、どの家も無人ではなく、住んでいる気配があります。もう5月の末なので、人口100人越えの季節なのかもしれません。
6月の第一週には、「ラ・トンナ」と呼ばれるロバレースがサン・ドナーテ教会前の広場で開催されるので、その準備で皆村に帰ってきているのかもしれません。
ロバは薄のろ、おバカさんのシンボルのように扱われることが多いのですが、キリスト教以前の時代には知的な動物と考えられていたんですって。祭りの日だけはロバは主役となって、若い男性を乗せて、あの狭い広場を疾走?!するそうですよ。 -
家が倒壊しないための、つっかえ棒のアーチも至る所で見られました。小さな祠また見っけ!
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今度はルネサンス風の窓枠に羽の生えた馬のレリーフ!
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アップはこちら。
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狭い敷地の庭を覆いつくす鉢植えの数々。
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階段脇もご覧の通りです。
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でも、突き当たりの門の先にかつてあった家はありません。ちょっと複雑な気分・・・
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チヴィタ名物? のにゃんです。人間より猫の数が多いと聞きましたよ。
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で暫く行くと、店の主人が暇そうに座っていたので、このお店でお茶を飲むことにしました。
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壁が黒く煤けているのを見ると、以前はこの中で火が使われていたようですね。
看板にはブルスケッタ、ワイン、油、ハチミツ地元産 と書かれていますが・・・ -
お店の中は半分洞窟のようでした。人工的に掘ったものかしら? かつてはオリーヴ油の搾油所だったそうです。
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洞窟?の奥には、オリーヴを搾るのに使った大きな石臼がありました。
オリーヴを搾るには2つの方法があり、一つはこの石臼を用いる伝統的な方法、そしてもう1つは遠心分離機を使う方法で、後者の方がコストもかからず香りも強いそうです。でも味は石臼で搾ったものにかなわないとか。主人はそんな話をしてくれました。
昔は石臼の周りを「知的な」動物ロバが1日中グルグルと回って油を搾っていたのでしょうね。
それにしてもこのお店、宣伝が下手なようで、お客さんが全く入っていませんでした。石臼とオリーヴオイルを作るのに必要な道具類しかないけれど、それはそれでなかなか面白かったですよ! -
やっとみつけました。チヴィタの井戸第1号! 搾油所の前にありましたよ。
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搾油所を通り過ぎると、地面が低くなり始めて、もうチヴィタの町が終わるよ!と教えてくれます。
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その先には、ご覧のような涸れ谷が広がっていました。アメリカ西部のバッドランド地帯によく似た風景です。
白い尾根は削られて槍のように尖った岩の層。上にあったはずの凝灰岩は殆どなくなっています。素晴らしい景色なのですが、人間が住むには過酷な所ですね。 -
もう少し近くで涸れ谷を眺めようと、その先の道を降りていきます。
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この階段を下りると、展望台でもあるかなと思ったのですが・・・
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こちらの木々が植わった果樹園があっただけでした。しばらく果樹園の低い塀に腰かけて、このパノラマヴューに見入っていました。
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先ほど通ってきた道を戻ります。サン・ドナート教会の先はどんどんチヴィタの地面は狭まって行って、幅は家数軒分しかありません。
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「古いチヴィタ」と書かれた看板があったので、覗いてみることにしました。「カランキ(イタリア語で涸れ谷)のパノラマが見られるエトルリア時代の地下洞窟」とあります。
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こちらがその地下洞窟の入り口。
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中には昔使われていた農具類が沢山壁に展示されていました。他に先ほど見たようなオリーヴオイルの搾油用の石臼、ワインのためのぶどう搾り機、樽、瓶などが展示されているようでした。時間の都合でここは省略。
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でパノラマヴューはこちら。まあ、先ほど撮ったものほど迫力はありませんね。でも、可能ならこの涸れ谷を時間をかけて歩いてみたいと思いました。チヴィタの周りをぐるりと回りながら写真が撮れたら最高ですね。
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こんなところにもローマ時代の遺物が転がって・・・ではなく立っていましたよ。彫像の土台部分かしら?
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自然のトゥファと一体化したような家。すぐ先は崖だし、命がけで住んでいるかしら?
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聖ボナヴェントゥーラ通りのタイル画です。
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あっという間にドゥオモ・ヴェッキオ広場に戻ってきたので、今度は向かって右側の道を進みます。
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だいぶ見慣れてきたこのつっかえ壁。チヴィタでしか見られない佇まいだと思います。繰り返しになりますが、いざという時に役に立つのかが心配。
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とにかく階段が多い。1階は押しつぶされる可能性があるので、2階から出入りしているのかなあ・・・
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ほらっ! 左側の家、天然のトゥフォもつっかえ岩になっていますよ。
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こちらのアーチの中には、チーズとサラミのお店 アルコ・デ・グスト。リコッタチーズが美味しそうでした。肝心の写真はオオボケで没!
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やけに暗くなってきたなあ と思っていたら、とうとう降りだしました。今までもってくれてありがとう!
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先ほどのタイル画と同じ図案ですが、色遣いが違いますね。
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ここからバーニョレージョ方面を写してみると、一番高い崖の手前はすべて地滑りで崩落した部分なんですね。両側から削られてどんどん細くなってきたことがわかります。大丈夫かのかなあ…あの家。
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町の方を振り向くと、そこには崩落の危険など微塵も感じさせない美しい町が存在していました。
チヴィタはね。死にゆく町ではないんだよ。これからも生き続ける町なんだよ! と言っているみたい・・・
地面に大粒の雨が落ちてきました。この美しい町がいつまでも地球上から消えないことを心から願いながら、さあそろそろ帰りましょうか。 -
この奥にあるのは、口コミで評価の高いレストラン アンティコ・トルキーオ。パスタとピッツァが絶品だそうです。残念ながら食べていたら、ここに泊まらなければならなくなるので、メニューを眺めただけで撤退です。(´・ω・`)
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サンタ・マリア門には、雨宿り組が大勢立っていて混雑していました。そのうち、雨が本降りになってきたので、珍しく帰りの写真は1枚もありません。橋の上では谷から吹き上げる猛烈な風と雨に往生しました。
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オルヴィエートに着く頃になって、空が晴れてきました。品行方正ですからね。行きと同じ辺りから撮った暮れなずむオルヴィエートの町。ゾクゾクするほど魅力的です。
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同じ崖の上の町でも、こちらの崖は強固なようですよ。
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おまけ。
オルヴィエートについてから、宿の近くの八百屋さんで売っていた果物(野菜)ですが、これキウイでしょうかねえ? こんな形のものは初めて見ました。奥にあるトマトもいろいろな形があって、赤ピーマンと間違えそうでした。
この続きはイタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その66 アレッツォその1で!
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この旅行記へのコメント (8)
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- pedaruさん 2020/03/18 06:01:16
- 思い出のチヴィタ
- junemayさん おはようございます。
何年も前の旅行記に最近書き込みがあり、そのつながりで、2度目の訪問をさせていただきました。
改めて読んでみると、junemayさんのチビタの旅行記は素晴らしい案内書になっているのですね。写真も、説明も一流です。私もこの旅行記を読んでから出かければよかった、と後悔しています。
私の場合は失敗談でお笑いをとっているだけの旅行記ですから、詳しい説明は皆無です。
イタリアはコロナウィルス騒ぎで日本以上に大変なことになっているようですね。
一日も早い収束を願っております。
pedaru
- junemayさん からの返信 2020/03/21 21:20:08
- RE: 思い出のチヴィタ
- pedaruさん こんばんは
チヴィタ同様打ち捨てられた我が旅行記にようこそ!
大好きな旅に行けない身ゆえ、現在とても暇なのですが、今のヨーロッパ情勢を見聞きしていると、のんきな数年前の旅の記録を書く気になれないのが実情です。イタリア全土が死にゆく街と化していて、大変つらい。対岸だけでなく、我が身にも迫りくる勢いなので、一刻も早く人類の英知がウイルスに打ち勝つことが出来ますようにと祈るだけの日々です。
今日久しぶりにマイページを見たため、返信が遅くなりました。申し訳ございません。個人的にPedaruさんの透明水彩の絵がとても気に入っています。私も以前は地域のサークルに属して何十枚か手掛けたのですが、才能がないことがわかり、今は眺めるのを専門にしております。二つと同じものがない建物の絵を見ていると癒されますね。これからも作品の発表楽しみにしております。
ご訪問頂き、ありがとうございました。再び旅路につくことが出来る日が一刻も早く来ることをともに願いましょうね。
junemay
> junemayさん おはようございます。
>
> 何年も前の旅行記に最近書き込みがあり、そのつながりで、2度目の訪問をさせていただきました。
> 改めて読んでみると、junemayさんのチビタの旅行記は素晴らしい案内書になっているのですね。写真も、説明も一流です。私もこの旅行記を読んでから出かければよかった、と後悔しています。
> 私の場合は失敗談でお笑いをとっているだけの旅行記ですから、詳しい説明は皆無です。
> イタリアはコロナウィルス騒ぎで日本以上に大変なことになっているようですね。
> 一日も早い収束を願っております。
> pedaru
>
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- Rolleiguyさん 2017/01/23 20:28:50
- 素晴らしい旅行のご経験ですね
- junemay様
私の旅行記にお出で頂き有難うございました。
イタリアの旅行記の中身の濃いこと、ここはどこです、というだけの写真ではない内容に
とても楽しく拝見しました。写真の撮り方も素敵ですね。
イタリアにはもう20年以上ご無沙汰しており、当面行く予定もありませんが、
このような旅行記を拝見すると、スイスやオーストリアばかりではなく、足を延ばすことを
考えねばと思いました。他のもゆっくり拝見したいと思います。
Rolleiguy
- junemayさん からの返信 2017/01/24 15:22:02
- RE: 素晴らしい旅行のご経験ですね
- Rolleiguyさま
ご訪問、そして素敵なお便りをありがとうございました。
山がお好きなのですね。私も前橋や高崎から見る冬の両毛三山の姿が大好きです。登山は無理ですが、一昨年は友人と月山に登り、昨年は尾瀬や一の倉沢を歩きました。今年は数十年ぶりにスイス、オーストリア、イタリアアルプスの山を見に行こうと考え、さすがに一人旅では寂しいので、ツアーを申し込んでしまいました。奇岩が好きなので、ドロミテを楽しみにしています。
自分が何を見たのか、何に感動したのかを理解したいので、色々と調べながら書いていると、どんどん時間が経ってしまいます。自己満足の産物ですが、よろしければまたのおいでをお待ちしております。
ありがとうございました。昔榛名富士をバックに夫婦で撮った写真が今も居間に飾ってあります。これからも素敵な山歩きの記楽しみにしております。
junemay
> junemay様
> 私の旅行記にお出で頂き有難うございました。
> イタリアの旅行記の中身の濃いこと、ここはどこです、というだけの写真ではない内容に
> とても楽しく拝見しました。写真の撮り方も素敵ですね。
> イタリアにはもう20年以上ご無沙汰しており、当面行く予定もありませんが、
> このような旅行記を拝見すると、スイスやオーストリアばかりではなく、足を延ばすことを
> 考えねばと思いました。他のもゆっくり拝見したいと思います。
> Rolleiguy
>
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- マリアンヌさん 2016/07/11 12:18:07
- 絶景☆
- junemayさん、こんにちわ。
私もこの不思議な景色に惹かれて2010年と2011年に訪れました。
1度目は、やはりオルヴィエートからバスで行ったのですが、乗客は3名でした。ボナヴェントゥーラ所縁の地だったんですね。
ミーハーな私、チェック不足で初めて知りました。
junemayさんは、もともとの博識に加え、ネットで英語か何かで調べていらっしゃるのですか?
いつも教会の絵などすべてがお分かりになって感心しています。
チヴィタは、最近は入場料を取っているんですね。
私の時はまだ無料でしたが、メジャーになってより多くの観光客が訪れるのでしょうね。
ブルスケッタ・ワインの店で食べました。懐かしい〜
帰りのバスまで時間があったので、顔を真っ赤にしてワイン飲んでしまいました。
続き楽しみにしています。
マリアンヌ
- junemayさん からの返信 2016/07/11 21:19:20
- RE: 絶景☆
- マリアンヌさん こんばんは
チヴィタに2回も行かれたのですか?流石マリアンヌさん、もうほとんどイタリアは訪問済みなのではないですか?
貴女の旅行記を拝見して、北イタリアからクロアチアへの旅やサルデーニャやコルシカ、そして以前訪れたシチリアへも行きたいと思っている今日この頃です。
私は事前準備があまり得意でないため、ぶっつけ本番であることがほとんど。現地で興味を引いたこと、ものについての情報収集や帰ってから調べることがとても多いのです。ガイドブックを購入したり、ネットで調べたり、それで「ああ〜なるほど。こういうことだったんだ」と納得する というパターンが大半です。現地で調べるのは限界があるので、後でゆっくり探して、読んで、理解に至るのにとても時間がかかってしまっています。キリスト教や芸術についても外国語についてもほとんど未知の世界なので、また、読んでもすぐ忘れてしまうので、初めの方と違うこと書いているのではと時々ひやっとさせられます。
写真だけが頼りということもしばしばで、1行書くのに2時間かかることもあるんですよ。もうそろそろ、このやり方改めねばと思ってはいるのですが、旅の楽しみ方は人それぞれ。最終的に満足することが何よりだと思っておりますので、旅行記はいわば自己満足の産物ですね。よろしければ引き続きご覧いただければ嬉しいです。
今回もエトルリア以降の歴史については、帰ってから調べました。調べたら調べたで、もう一度行きたくなってしまうんですから困ったものですね(笑)。
マリアンヌさんは今年はどこかにお出かけでしょうか?予定が決まったらお知らせくださいね。私もマリアンヌさんの旅行記楽しみにしております。
junemay
> junemayさん、こんにちわ。
>
> 私もこの不思議な景色に惹かれて2010年と2011年に訪れました。
> 1度目は、やはりオルヴィエートからバスで行ったのですが、乗客は3名でした。ボナヴェントゥーラ所縁の地だったんですね。
> ミーハーな私、チェック不足で初めて知りました。
> junemayさんは、もともとの博識に加え、ネットで英語か何かで調べていらっしゃるのですか?
> いつも教会の絵などすべてがお分かりになって感心しています。
>
> チヴィタは、最近は入場料を取っているんですね。
> 私の時はまだ無料でしたが、メジャーになってより多くの観光客が訪れるのでしょうね。
> ブルスケッタ・ワインの店で食べました。懐かしい〜
> 帰りのバスまで時間があったので、顔を真っ赤にしてワイン飲んでしまいました。
>
> 続き楽しみにしています。
> マリアンヌ
>
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- とし坊さん 2016/07/10 15:43:15
- 絶景ですね
- ホンマに絶景ですね
死ぬまでに行きたい絶景ポイント50選に入ってます
いつか行きたいな でも青空が素晴らしいですね(^O^)
- junemayさん からの返信 2016/07/10 21:18:23
- RE: 絶景ですね
- とし坊さま こんばんは。
いつもご訪問ありがとうございます。ラヴェンナまでの道が遠く、お待たせして申し訳ございません。
チヴィタに関して言えば、あの絶景を360度の方向から眺めたかったというのが本音です。上にある村が、あの絶景を忘れてしまうほど平和でのどかな美しい町だったことも非常に印象に残っています。お土産物屋さんが軒を並べるっと言った雰囲気ではなかったけれど、今後は心配ですね。とし坊さんの絶景ポイント50選には他に何がはいるんでしょう? 興味津々です。
junemay
> ホンマに絶景ですね
>
> 死ぬまでに行きたい絶景ポイント50選に入ってます
>
> いつか行きたいな でも青空が素晴らしいですね(^O^)
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