2015/05/26 - 2015/05/26
50位(同エリア146件中)
junemayさん
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- Q&A回答0件
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- フォロワー41人
2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
幸いなことにルカ・シニョレッリの描いた地獄の悪夢に悩まされることもなく、さわやかな朝を迎えられました。今日は午前中オルヴィエートを歩いて、午後はチヴィタ ディ バーニョレージョに行く予定です。午前中の予定が詰まっているので、全部消化できるかが心配。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ホテル・ウンブリアは朝食付き。普段はレストランとして使用している場所で朝食を頂きます。
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特徴は、甘いケーキが多いこと。そりゃケーキは好きですよ。でも朝からあまり食べる気はしない・・・ちゃんとしたパンがないんだよね。ミキサーに入っているのは、ベリー系のこってりとしたジュースとジャムの中間のようなもの。ヨーグルトにかけて食べるとちょうど良かったです。
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面白いのはこの隅にあるゆで卵を作る機械。調理済みのゆで卵も置いてありますが、作り立てを食べたい場合には、こちらの機械で好きな時間をセットして作ることが出来ます。何でもやってみたい人なので、一度挑戦しましたが、半熟まで至らない卵になりました。せっかちには向きません。
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今日もフニコラーレで、丘の上の町オルヴィエートにやってきました。カーエン広場から左方向に歩いていくと、程なく濃い緑の中にサン・パトリツィオの井戸が見えて来ます。
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1527年に起きた「ローマの略奪」(神聖ローマ皇帝兼スペイン王カルロス5世がイタリアに侵攻し、教皇領のローマで殺戮、破壊、強奪、強姦などを行った事件(ウィキペディアより))後にオルヴィエートに避難してきた教皇クレメンス7世のもとで建築事業に携わっていたアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネがここに有望な水脈があることを発見したのです。アントニオはサンガッロ一族の中でも抜きんでた才能を持った人物で、ルネサンス期のイタリアで主導的な立場にあった建築家です。
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少々雲は多いですが、今日もウンブリアのなだらかな丘が続く景色を楽しみます。
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井戸はここから62m以上低い場所にあって、決して交わらない二本のらせん階段を伝って下りていくことが出来ます。ルネサンス期の傑作と言われているこの井戸は建築学的にも見どころが多いのですが、248段の階段を下りて上って・・・ということを躊躇して、今回は外側を見ただけ。後で時間が余ったら戻ってくることにしましょう。
中世の時代、丘の上の町の最優先事項は水の確保だったと思いますが、1528年にこれが出来る前はどうしていたんでしょう? -
サン・パトリツィオの井戸の隣には、紀元前5世紀に作られたエトルリア時代の神殿ベルヴェデーレ・エトリアルの土台部分が残っていました。
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この神殿はサン・パトリツィオの井戸を建設中に発見されたものだそうです。とはいえ、それから道路工事のために発掘作業を行った1828年までは殆ど忘れ去られていました。その2年後、今度は崖の下のカッシア・ヌオヴァ通りを建設中に、現在「ネクロポリス」として観光スポットになっている、トゥフォ(凝灰岩)の塊で作られた複数の墓室が発見され、ここにエトルリア時代の町が確かに存在したことが公式に明らかになりました。
オルヴィエートの地下世界というツアーがあって、ネクロポリスにも興味津々なんですが、今回は時間がなさそう・・・ -
町に戻ります。昨日は目抜き通りを通ったので、今日はオルヴィエートの北側を通るローマ通りを進みます。相変わらず祠を見つけると、すぐさま駆け寄ります。
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イチオシ
雑草に覆われた、どこかの教会の鐘楼です。屋上の花は意図的に植えたものではないと思うのですが、ちょうど花盛りで装飾の一部と化していました。
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こういうつぎはぎだらけの家を見つけるのも楽しい・・・
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通りの名前がローマからフィレンツェ大聖堂の生みの親アルノルフォ・ディ・カンビオを冠した名前に変わると、段々と、古い町並みに入っていきます。カンビオと何か関係でもあるのかしら?
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どなたか存じませぬが、個人の家の庭先を撮らせていただきました。奥の小窓のマリア様も計算されつくした位置に。
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古そうな建物の2階に注目! 窓枠の周りのレンガの積み方凝っていますねえ・・・
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この辺りは、赤地に黄色の塔の旗のパリオらしく、家々を飾る花もこの二色で統一されていました。
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今日最初の教会は、1235年から64年にかけて建築されたこちらのサン・ドメニコ教会です。1234年に列聖したサン・ドメニコに捧げるイタリアで最初の教会となりました。ドイツの聖人アルベトゥス・マグヌスがここに滞在していたことから彼の弟子であったトマス・アキナスはこちらの修道院で1261年〜5年まで神学を教えていました。ちょうどボルセーナの奇跡が起こった頃のことです。また、教皇がオルヴィエートに避難していた時代に亡くなった四人の枢機卿の墓がここにあることでも知られています。
現在のファサードは元々は右翼廊の壁だった部分。1934年に当時のファシスト政府は身廊と隣接する修道院を破壊し、ここに女子体育学校を作ったのだそうです。中に当時の写真があるそうですから、入って確認してみましょう。 -
ゴシック様式の扉とその上のルーネット部分のフレスコは、1934年に近くの教会サント・スピリト・デッリ・アルメニから移築されたものです。
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サン・ドメニコ教会にも花絨毯が残っていましたよ。これは「キリストの洗礼」ですね。あまり上手ではないけれど、手作り感に溢れています。
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右翼廊の壁が入り口となったため、かつての左翼廊奥が現在の主祭壇となっています。オリジナルの教会は、この左手に身廊、右手の現在聖歌隊席のある場所に後陣と四つの礼拝堂がありました。様々な修復の歴史がありますが、それも現存しないとなると想像するのが難しい。
教会内部は最低限の装飾のみで、全盛期の面影は残っていません。
主祭壇に飾られているキリストの十字架は、この教会の修道院で神学を教えていたトマス・アキナスに話しかけてきたといういわくつきの像です。 -
一体これは何? こんな床は見たことがない・・・と思いつつ、この時は何もわからないままだったのですが、調べてみたら、1516年〜24年にかけて、ミケーレ・サンミケーリが制作した、シエナから追放されオルヴィエートにやってきた豪商貴族ペトルッチのモニュメントでした。
元々後陣のこの場所に作られたのですが、1670年の火災をきっかけに他に移され、1992年に元の場所に復元されたそうです。ジョルジョ・ヴァザーリをして「サンミケーリの作った最も美しい墓」と言わしめたもので、7枚のレリーフのある大理石が床にはめ込まれています。大きい4枚には福音記者達、3枚にはプット(天使)達が彫られています。
2枚のガラス越しに地下の礼拝堂の様子を窺うことが出来ます。 -
昨日訪れたサンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会にもあった美術学校の生徒の作品と
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それを元に作った花絨毯をもう1枚発見! この紋章は先ほど町で見かけた赤と黄のパリオのデザインみたいです。
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この教会で一番有名なのが、フィレンツェ大聖堂の最初の設計者アルノルフォ・ディ・カンビオ作と言われるこちらの枢機卿ギリャウメ・デ・ブライのモニュメントです。1282年頃の作品。これがあるから、通りの名前に彼の名前を付けたんですね。
13世紀に作られた4つの墓の一つです。枢機卿デ・ブライは教皇マルティネス4世の時代に亡くなり、彼の後継者はすぐさまモニュメントの発注を行い、それを供える最適な場所としてこの教会を選びました。 -
モニュメントは何度も分解され、また教会は火事、数回の修復を経て来ているので、オリジナルがどのようなものだったか定かではありませんが、残っている文書を考えあわせて今見ている形に改修復元を行ったそうです。
枢機卿の寝姿を二人の聖職者がドレープを持ちあげて見守っています。その上には、右に聖ドメニコ、左に聖マルコが立ち、マルコは中央上壇にいる聖母子に跪いている枢機卿を紹介しています。 -
興味深いのは、聖母像が2世紀のローマ時代の彫像の転用で、それをカンビオが聖母としてリメイクし、腕を付け換えて幼子を抱くポーズにしたということ! 恐れ多くも、そんなことが許されたんですね、
そう言われれば髪型がローマ風に思えてきます。周りのコズマーティ模様がとても美しいです。 -
教会が1934年に破壊されたときの様子を物語るパネルです。イタリア語オンリーなので理解できませんが、それまでの身廊や後陣の詳細図等が痛々しい写真とともに展示されていました。
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後陣右側にあったサン・トマゾの礼拝堂です。前述の聖トマス・アキナスに捧げられています。右に見えるフレスコは14世紀の作品で、トマス・アキナスを描いたもの。見えづらいですが、左の粗末な祭壇にも磔像のフレスコ(14世紀から15世紀)がありました。
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ヴェローナの聖ペトロ(殉教者サン・ピエトロ)の礼拝堂です。後陣左側にありました。フレスコは1430年ごろ描かれたピエトロ・ディ・ニコラ・バローニの作品。サンタ・マリア・ディ・セルヴィにも大聖堂にも彼の作品がありましたね。
左側は、聖ペトロの殉教の場面、右側は玉座の聖母子の左右に左から聖ドメニコ、聖ヤコブ、大アントニオス、聖ペトロが立っています。なんと右端の聖ペトロの肩には、彼を殺したナイフが突き刺さっていますよ! -
祭壇画は、それを生々しく描いた絵画でした。倒れた聖ペトロは、自分自身の血で地面に何か書き残しています!
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こちらもドメニコ会の聖人に捧げられた礼拝堂ですが、名前を控えてきませんでした。ご覧のように、どのように修復を行ったかということについて、詳細な説明書きがあるのですが、すべてイタリア語のみ!
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町に戻ります。また赤地に黄色の塔の旗見っけ!
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最上階にポルティコのある家。
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良い具合に、ツタが絡んでいます。
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こちらに進むと、昨日行った町の中心レップブリカ広場に出られそう。右手の建物のアーチの下もれっきとした公道。ヴィヴァリア通りと書いてあります。
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昨日見たモーロの塔が見えて来ました。道がまっすぐでないので、どちらの方向に進んでいるのか確信がなかったのですが、これでわかりました。
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ポポロ広場に面して建つこちらは、パラッツォ・シモンチェッリ。13世紀の建造で、16世紀にリフォームしていますが、ファサードの一部に中世の建物の一部をわざと(かな?)残しています。扉の上のバルコニーもオリジナルで、イッポリット・スカルツァの作だと言われています。
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ポポロ広場に建つポポロ宮パラッツォ・デル・カピターノ・デル・ポポロです。ウンブリア各地で見てきた町の民兵の司令官の館ですね。広場では毎週木曜日と土曜日に市がたつそうですよ。
オルヴィエートの町に町の民兵(ポポロ)の司令官が最初に登場したのは1250年のこと。その後一時勢力は衰えましたが、フランス出身の教皇マルティネス4世への反発から1280年代にアンチ・フランスの拠点としてその勢いを取り戻しています。マルティネス4世の死後、ポポロの司令官はギルドの代表と足並みをそろえ、7つの重要なギルドの代表者(後のシニョーリ・セッテ)との会合をポポロ宮で行うようになりました。
中世の時代には民兵の司令官、教皇の執政長官、シニョーリ・セッテの住居として、その後は大学の法律および神学部、劇場として使われてきましたが、現在は会議場となっています。 -
宮殿は1280年〜1316年に建てられたロマネスクとゴシックが入り混じった建物で、町の他の建物同様火山性のトゥファ(凝灰岩)で作られています。1階部分のアーチ、そしてその上のコーニスの流れるような曲線模様が素晴らしいですね。厳めしさと優雅さが同居しているような建物で、屋上の砦風の装飾と2階の方立のある三連窓とは好対照。
2階へと続く左側の階段の配置も計算尽くされているような気がします。 -
よく見ると、1階部分のアーチの間には、フレスコが薄く残っていますよ。
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2階の三連窓の間にあったこちらは、どなたかの紋章かと思われますが、原形をとどめず・・・
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ポポロ広場からすぐのパラッツォ・コムナーレ(市庁舎)のあるレップブリカ広場に今日もやってまいりました。現在の市庁舎は、崩壊の危機にあったものをイッポリート・スカルツァが1580年に再建したものです。創建当時の13世紀のロマネスク様式を採用していますが、インフォメーションでもらった資料によると、ファサードの一部は未完成だとか。どこが???
この写真ではわかりませんが、現在アーチの数は7つ。イッポリートは今正面に見えている二本柱のある部分(アーチ3つ分)を中心に、左右に4つずつアーチを並べたかったようなのです。つまり、右側にあと4つ作って全部で11のアーチにしたかったんですね。でも結局のところ、彼の思い通りにはならず(予算不足?)、未完成のまま現在に至っています。 -
レップブリカ広場から道を左に折れて、ロッジャ・デイ・メルカンティ通りを行きます。この町にも塔が多いなあ・・・
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こっちにも! パリオの旗のデザインが変わりましたね。今度は赤地に白いX十字です。
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こんな狭い道でもひっきりなしに車がやってくるのでご用心。
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廃業したように見えた1746年創建のサン・ルドヴィコ教会。ラニエーリ広場にありました。見学したいときは併設(左隣)の修道院の入り口でベルを鳴らすと、修道女が入れて下さるのだそうです。残念!知らなかったぁ〜!
ここには、ちょっと変わったフレスコ画があるのです。 -
この広場の近くで見つけた La corte dei Miracoli(奇跡の中庭) という焼き物のお店です。店のオーナー アルベルト・ベッリーニ氏はテラコッタの陶芸家で2002年からこのお店を始めたそうです。
お店に入った途端、彼独特の中世の世界に引きずり込まれてしまうこと請け合い。入ったら一生出てこれないような気がして、私は覗き込むだけにしました。 -
イチオシ
彼の作品を一つだけ紹介しましょう。ショーウインドーの作品、夢の世界に誘ってくれましたよ。
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この道を行くと、崖沿いの道に突き当たりそうです。
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やったぁ〜! カーエン広場とは反対側の崖の縁に到着です。こちらの景色はなだらかな丘が続く田園風景が楽しめます。ベリッシマ!!
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門が見えたので近寄っていきました。こちらは、1822年に作られたポルタ・ロマーナ ローマ門です。以前この場所には12世紀に作られたペルトゥーサ門がありました。現在の門のアーキトレーヴには、教皇ピウス7世の名前が刻まれていて、門の上には鷲とガチョウが1対ずつ羽を休めています。鷲もガチョウもオルヴィエートのシンボルなんですって。
1860年、長年オルヴィエートを直轄領として君臨してきた教皇の守備隊はここを通って町から撤退し、その日からオルヴィエートは新しいイタリア王国の一部となったのです。 -
ローマ門に背を向けて、崖沿いの道を北に向かって進みます。
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次に現れたのは、エトルリア時代の神殿跡に建てられたサン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会(洗礼者聖ヨハネ教会)です。現在の建物は、1687年の地震で全壊した後1697年〜1704年にかけて再建されたものです。鐘楼は古く見えますが、1928年の建造。残念ながら、ここも閉まっていました。
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サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会の先から緩やかに下る道がありました。Vicolo Malcoriniと書いてありました。車の通らない歩行者専用の道のようです。崖の下のエトルリア遺跡を含めて、オルヴィエートの散策にはもう1日費やすべきでしたね。
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覗き込むと、丘のてっぺんから一段低くなった崖の中腹まで家並みが続いていました。崖っぷちぎりぎり。住むには勇気がいそうです。
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左側には元教会だったと思しき古い建物、
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そして右側の崖っぷちにはサンタ・マリア・デル・ピアント教会。1768年にスペイン貴族が創建したものです。この教会、ナポレオン時代から閉鎖されていましたが、なぜか2000年に修復が行われています。そう言えばファサードが新しい・・・
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ヴィッコロ・マルコリーニ通りVicolo Malcoriniを横から眺めると垂直の崖の上に作られていることがわかります。
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オルヴィエート郊外の森の中には、1557年頃作られたサン・ロレンツォ・デッレ・ヴィッネ教会の姿がありました。大聖堂のコルポラーレ礼拝堂に、教皇ウルバヌス4世が、聖体布とともにボルセーナから戻ってきて、キアロ川の橋のたもとで、オルヴィエートの司教に挨拶しているフレスコがありましたが、あの絵の右側に描かれていた教会がこちらのサン・ロレンツォです。
現在教会は閉じられていて、荒れ果てたままの状態で放置されているそうです。 -
賑やかな町に戻り、次に行く場所を人に尋ねます。ジモティに尋ねたいのだけれど、観光客ばかりでなかなか見つからない・・・
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見事なブラシノキだこと!
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修道会カルメル会の教会 サンタ・マリア・デル・カルミネ。こちらの教会も打ち捨てられて久しい雰囲気・・・
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迷っています。あれ〜? この塔さっき見たような記憶・・・
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ちゃんとしたジモティのおばさまに道を教えてもらい、今度こそ目指すサン・ジョヴェナーレ教会へ。この道を右に上っていくのです。
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さっき訪れた洗礼者聖ヨハネ教会が見えます。なぁんだ! ヴィッコロ・マルコリーニ通りから見下ろした一段低い町並みが左手の町なんですね。一つとして同じ格好のない、複雑に入り組んだ瓦屋根が見えて、絶景かな 絶景かな!!
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ようやく見つけましたよ。この看板がなければまだ暫く彷徨ったことでしょう。
サン・ジョヴェナーレ 11世紀 と書かれています。 -
こちらがサン・ジョヴェナーレ教会です。ブラヴォー! 最初の教会はエトルリア人以降、オルヴィエートに再び人が住むようになった6世紀だと言われています。ここもまた、エトルリア時代の神殿跡だったようです。その後、ナルニの町の最初の司教ジョヴェナーレに捧げる初期キリスト教会となっていました。ジョヴェナーレは4世紀の人ですが、彼への信仰は中世初期の時代に広がりました。
伝説によれば町に住んでいた7人の貴族が融資して、1004年に現在の教会を再建したのだそうです。勿論、オルヴィエートに現存する一番古い教会です。
小さなバラ窓は17世紀の修復の際に深刻な被害を被りましたが、そのほかの部分は殆ど11世紀のまま残っています。初期のロマネスクと呼んで良いのかしら? 鐘楼は下層部分を除いては19世紀の再建ですが、鐘は今でも力強く鳴り響いているそうですよ。 -
中に入るのは、身廊右側にある扉から。扉の上のルーネット部分には聖ジョヴェナーレ司教のレリーフ、その下の碑文には1497年というこの扉の建設年が残っていました。
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内部が思ったよりずっと広いので驚きました。三廊式です。カウンターファサード寄りの3つのアーチ部分は11世紀のままの状態ですが、半円形の後陣は13世紀末に崩れ、身廊はその後東方向にゴシック様式で拡張されたのだそうです。4段の階段より先が拡張部分です。
この修復時に、身廊の端にあった列柱は、新たなヴォールトを作るために壁柱に置き換えられています。 -
こちらが、13世紀末に新設された部分。後陣へはさらに3段の階段を上ります。半円形だった後陣は、拡張の際に長方形に作り替えられました。
教会の壁は御多分に漏れず、1632年頃にバロック様式に改修されましたが、最近になって復元されました。それにより、12世紀から15世紀にかけて描かれた、オルヴィエート派の画家によるフレスコが命を吹き返したのです。 -
後陣の勝利の門には、ジョヴェナーレ司教を太陽になぞらえたフレスコ? が中央に燦然と輝いていました。最近になって修復されたものですよね。色彩がとても鮮やかです。
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大理石製の主祭壇は1170年の作。その前のビザンティン時代の教会で使われていたスラブの再利用だと言われています。
後陣中央の小さなイコンの祭壇画はこの写真だとはっきりと見えませんので、下で紹介します。
その右横にあるフレスコは、こちらも15世紀の作品で「アレキサンドリアの聖カタリナ」です。ピエトロ・ディ・ニコラ・バローニの作品。先ほどサン・ドメニコ教会で彼の作品を見たばかりですね。 -
こちらが、主祭壇後ろに飾られた、マエスタと呼ばれるイコンの祭壇画です。ビザンティン時代のイコンのコピーで、15世紀に作られ「救済の聖母」と呼ばれています。比較的最近まで銀のカバーで隠されていて、20世紀になってその中から再発見されたとの言う貴重な作品です。
イコンは16世紀にゲッツィ家が所持していたものをサンタゴスティーノ教会に寄贈し、ナポレオン時代終焉後にこちらの教会に移されたものと聞きました。 -
後陣へと上る階段下にあった台には、古いスラブがご覧のように飾られていました。以前の教会にあったものなのか、説明はありませんでしたが、幾何学模様が綺麗ですね。ガイドブックには、13世紀の透かし彫りの聖書台があると書いてあったのですが、見つかりませんでした。
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主祭壇へと通じる壁柱に描かれていたフレスコは、マラヴァッレの聖グリェルモ。12世紀のフランス出身の聖人で、なぜかフィリピンで根強い人気があるのを今回発見しました。
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後陣向かって右側にあった礼拝堂です。何の説明もありません。祭壇画は、肉体の一部が裂けているキリスト? 意味が良く分かりません。ご存知の方教えてくださいね。
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こちらがそのズームした写真。最近の作品のようです。なんだか奇妙な絵ですよね。
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礼拝堂の左右にもフレスコの断片が見られました。こちらは左壁。
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礼拝堂の右壁高い位置にあった、シエナの聖ベルナルディーノを描いた15世紀の作品。
聖ベルナルディーノはIHS(聖なるキリストの名)というシンボルが描かれたページのある本を開いています。右側に伸びてきているのはキリストの手かしら? -
こちらは後陣左側にあったサン・サビーノ礼拝堂。町の有力者モナルデスキ家の礼拝堂で、一族のブヌッチョ・モナルデスキの墓が安置されています。祭壇画はキリストの磔像を中心に左右に聖サビーノと聖マルコの姿がありました。
天井のヴォールトにはキリストを中心に四人の福音記者達の肖像がトンドの中に描かれていました。 -
モナルデスキ家礼拝堂の傍にあったという記憶があるパドヴァの聖アントニオの礼拝堂です。中央の木製の彫像は16世紀のもので、ラッファエロ・デイ・モンテルーポの作品です。
モンテルーポはオルヴィエート大聖堂ファサードのバラ窓上のニッチェにあった12使徒の彫像制作のリーダーでした。12使徒のうち、中央の4体が彼の作だと言われています。 -
聖アントニオの礼拝堂の斜め左後方にあったこちらのフレスコ。かなりはっきりとした綺麗な状態で残っていましたが、どなただか分かりません。
フレスコの多くについては詳細な説明がほとんど見つからなかったので、画像だけご覧下さいね。 -
ボケ写真です。左後陣の聖サビーノ礼拝堂のアーチ前の高い壁にあったのは「授乳の聖母」マドンナ・デル・ラッテ 1300年ごろの作品。
天使たちが両側から垂らしている聖母の背後にある布は「栄誉の布」と呼ばれていて、玉座の背景によく使われるものなんだとか。 -
左側の壁に移ります。
中央は聖ジョヴェナーレ教会で営まれた死者に対する供養の一覧表で、亡くなった日が掲載されています。14世紀のフレスコで、こういったものを見るのは初めてです。その左横には聖母子がいました。 -
ちょうど、上の写真に相対する右壁にも、年間の供養の予定表のようなカレンダーがありました。月ごとの行事が記されています。一番下に注目。棺桶に骸骨の姿が!
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左側の白い服を着た方は、先ほども登場したマラヴァッレの聖グリェルモ。上半身だけしか残っていませんが、彼の率いる修道会の規律書を携えた姿で描かれています。この辺りのフレスコは15世紀の作品。
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続いて、「受胎告知」です。13世紀末の改修工事で設けられた大きな壁柱の外側に描かれていました。残念ながら大天使ガブリエルの顔は失われています。どう見ても、いたずらで剥されたとしか思えませんね。
このフレスコについては作者がわかっていて、コーラ・ペトルッチョーニとアンドレア・ディ・ジョヴァンニの2名の作だそうです。1380年頃の作品。2名とも当時ウンブリア州各地の教会でフレスコの制作に携わっています。
聖母の顔は東洋人風? -
「受胎告知」の上に描かれていたのは、「授乳の聖母と聖人達」。左に立つのは、服を着た上から矢が刺さっている聖セバスティアーノですって! 彼のフレスコで着衣のものを見るのは初めてかも。右側は大アントニオス。右下に小さく描かれているのは寄進者ですね。
こちらは1399年の作品だそう。 -
こんな風に二つ並んで壁柱に描かれていました。
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恐らくは壁のスタッコを剥いだ時に出てきた古い礼拝堂跡と言ったところでしょうか? フレスコを優先させるとなると、壁の傷跡も容易に修繕できませんね。
右側はキリストの幼子を抱いた聖クリストフォロです。13世紀。 -
とても状態の良い右側のフレスコは、17世紀の比較的新しい作品です。12世紀のものと比べると、構図的にも人物描写も卓越していて、時代の流れを感じます。
作者ピエトロ・パオロ・センシーニは、ウンブリア州ペルージャ県の小さな町トーディの名門の生まれで、トーディの町には彼の多くの作品が残されています。
左側下に描かれた4人は、左からマラヴァッレの聖グリェルモ、洗礼者聖ヨハネ、聖ジョヴェナーレ、そして自分が焼かれた鉄格子を持つ聖ロレンツォです。こちらは、ピエトロ・ディ・プッチョの作と言われています。14世紀末。 -
聖母子の両側にいるのは、聖ジョヴェナーレ(左)と、聖サビーノ(右)。聖母の足元には、頭巾をかぶった告解者達。三角頭巾の少々不気味なコスチュームは今でもスペイン等で、聖週間(セマナサンタ)のお祭りの際などに見ることが出来ます。
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気品漂う聖母とややファニーフェースの幼子!
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左側壁の一番端(カウンターファサード側)にあったのは洗礼堂です。
小さな15世紀の洗礼盤が置かれていました。元々の洗礼堂はもっと奥行きがあったらしく、内壁のフレスコは皆途中でちょん切れていました。
洗礼堂の右側の壁には、上半身のみ残っている聖母と聖ピエトロのフレスコがありました。 -
洗礼者聖ヨハネのモザイクは最近の作だそう。
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カウンターファサードです。これもボケていますが、1枚しか撮っていないのでご容赦を。中央扉の他、右側に小さな扉が見えますね。これは多分鐘楼に行くための扉でしょう。
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洗礼堂から続くカウンターファサードの壁です。
ここにも素晴らしいフレスコが数多く見られます。右側の2枚はピエトロ・ディ・プッチョの作品です。大聖堂内コルポラーレ礼拝堂にあった「ボルセーナの奇跡」のフレスコはウゴリーノ・ディ・プレテ・イラーリオ指揮の元、プッチョによって描かれたとも言われています。制作は14世紀末。 -
「玉座の聖ジョヴェナーレ」です。いやぁ 素晴らしい出来ですね。赤いローブのひだの表現、薄い緑色の玉座のデザインもお見事です!
左下にいるのは寄進者ですね。 -
洗礼堂の奥行きが短くなったために、途中で切れているのが誠に残念な「最後の晩餐」です。でも重要人物(キリスト、眠りこけている聖ヨハネ、ユダ)はしっかりと残っていました。
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お次の2枚はまたまたボケていますね(汗)。
柱から壁へと続いているフレスコは珍しいのではないかしら?「生命の樹」は聖ブリツィオの聖母の親方(マエストラ)による1300年ごろの作品です。 -
カウンターファサード向かって左側のもう1枚のボケ写真は、磔図。左側に聖母、右側には福音記者聖ヨハネがいますが、傷みが激しい! 十字架の下には二人の寄進者の姿がありました。制作は14世紀初期と言われています。
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やっとまともな写真(ホッ)。
カウンターファサード最後のフレスコは、聖ブリツィオの聖母の親方の後継者(ややこしい・・・)による「玉座の聖母子と聖人達」です。13世紀。
聖人は左側は聖ジョヴェナーレ、右側が聖ステファノだそうです。 -
右壁に移ります。
「玉座の聖母子と聖人達」は1300年ごろの作品で、サン・ロレンツォ・デ・アラーリ教会の親方によるもの。
顔がありませんが、左側は聖ジョヴェナーレが手前の寄進者をほめたたえている姿。右側は福音記者聖ヨハネです。 -
左側剣と秤を持っているのは、正義の天使ミカエル(ミケーレ)かな?
その隣は「聖母被昇天」。天使の羽の色遣いがとても美しいです。この作品は大聖堂でお馴染みのウーゴリア・ディ・プレテ・イラリオの作だそう。聖母は天使によって天へと昇って行ったんでしたね。14世紀。
一番右は「玉座の聖母子」。 -
イチオシ
「聖母被昇天」のアップです。厳密にいえば,聖母の被昇天は、キリストの磔以後のことなので、この絵は時代考証がなっていないということになりますかね・・・
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続いての壁です。
色々なフレスコが次々と描かれていったことがわかります。手前のキリストと聖トマゾの祭壇が作られたため、左側の聖母子が描かれたフレスコがちょん切れてしまったんですね。
上の2枚は碑文から1312年の作と判明したとのこと。右側の作品には前述の聖ブリツィオの聖母の親方という署名が残されています。玉座の聖母子の両側には、聖ジョヴェナーレ(左)と顔は失われていますが、カノーサの聖サビーノ(右)が立っています。左側の聖母子も同じ人によって描かれたと思われます。 -
「聖セバスティアーノ」と「磔像」、そして右側の黒服の司祭はトマス・アキナスです。15世紀。
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右側廊の出入り口すぐ右側の壁にあった礼拝堂のフレスコは、「受胎告知」と「聖誕」です。14世紀の作品で、こちらもウゴリーノ・ディ・プレテ・イラリオの可能性が高いそうです。残念ながらかなり傷んでいます。
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前の写真の礼拝堂の上にあったフレスコ。高い場所にあるものの方が比較的ダメージが少ないような気がします。
左から大アントニオス、洗礼者聖ヨハネ、そして聖ヤコブです。 -
左側にもあった、階段上の大きな壁柱に描かれたフレスコの作者は、これまでたびたび登場している聖ブリツィオの聖母の親方です。13世紀末の制作です。
聖母子の左には聖ピエトロ、右には福音記者聖ヨハネが描かれています。 -
壁柱横のアーチ部分の人物については諸説ありますが、聖アニェーゼだというのが有力です。
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そして、壁柱の反対側(内側)には、1739年に教会がジュゼッペ・マルチャーノにより再奉献されたとの碑文が残されていました。キリストと聖パオロが登場するこのフレスコ、なんだか滑稽ですねえ。
キリスト
「俺を呼んだの あんただろ?」
聖パオロ
「いえいえそんな! 滅相もない!」
と言っているわけはない・・・ -
身廊の内側にやってきました。身廊中ほどからカウンターファサードに向かって左側の様子です。
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そしてこちらが右側。内側のアーチとアーチの間には、トンドの中に聖人の姿が描かれていました。
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状態の良いものをいくつか紹介すると、
こちらは聖ピエトロ。鍵を持っていますね。 -
聖ジョヴェナーレ
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聖サビーノ
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マラヴァッレの聖グリェルモ というこの教会が捧げている聖人達。そして
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聖ヨハネ(シンボルは鷲)
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聖マタイ(シンボルは人または天使)
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聖ルカ(シンボルは牛)
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そして聖マルコ(シンボルはライオン) というお馴染みの福音記者達の姿がありました。
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最後に柱に描かれたフレスコを紹介。主祭壇に向かって左側の柱から行きましょう。
上は「キリストと聖母、福音記者聖ヨハネ」。13世紀の古いフレスコですが、丁寧に修復されています。聖セヴィーロと聖マルティリオ教会の親方作だそうです。下に描かれているのは、聖フランチェスコかな? -
こちらは右側の柱です。上は受胎告知の一部。下は聖ジョヴェナーレ? ?マークが付けられていたので、知る人ぞなしです。
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1本の柱でも見る方向により、絵が異なってきます。「受胎告知」はこちらの方が二人揃っていて分かりやすかったかな?
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小さな小箱を大事そうに抱えたこちらの女性。アレキサンドリアの聖カタリナだそうです。
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同じく右側の柱にあった、「聖ミケーレのドラゴン退治」。こちらは14世紀の作品です。色遣いが素晴らしい・・・
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お終いは左側2本目の柱には聖母子。もうきりがないので、この辺でお開きにしましょう。
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フレスコ満載の古い教会を堪能いたしました。人が少なくてほぼ独占状態。お蔭さまで至福の時を過ごすことが出来ましたよ。教会前からの景色を楽しむ時間がなかったのですが、観光ガイドにはファサード前広場がお勧めパノラマヴューポイントとして挙げられていました。私は時間との勝負で次のスポットへ。
続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その64 オルヴィエート4で!
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この旅行記へのコメント (2)
-
- マリアンヌさん 2016/06/28 17:23:37
- サン・ジョヴェナーレ☆
- junemayさん、こんにちわ。
オルヴィエートにこんなフレスコが素晴らしい教会があったんですね。
ドゥーモと博物館、美術館と井戸くらいしか行けなかったなぁ・・・
バスが少ないので1日はチヴィタ・バーニョレージョで終わってしまったし。
junemayさんのようにじっくり見るっていいですね。
地下ツアーにも行ったのですが英語がわからなかったし、情けないばかりです。
エトルスキの遺跡もあるし、是非いつか再訪したいなぁ。
そしたらjunemayさんの解説読ませていただきながら、フレスコに浸ってみたいです。
では、また〜
マリアンヌ
- junemayさん からの返信 2016/06/28 22:47:52
- RE: サン・ジョヴェナーレ☆
- マリアンヌさん こんばんは
いつもありがとうございます。
サン・ジョヴェナーレは何の根拠もないけれど(何の文書も残っていない)、多分大聖堂ができる前にドゥオモだった教会という話を聞いて、出かけていって正解でした。
ウンブリアは小さな町も含めて、またゆっくり滞在したい場所ですね。交通の便が悪いから、1日1か所に限定して、モンテファルコ、トーディ、グッビオ、テルニ、コルトーナ・・・それにペルージャとスポレートはまだ見ていない箇所がたくさんあるんです。またフォリーニョを起点に回るのも良さそう・・・頭の中が、いつのことになるやらわからない旅の計画でいっぱいです。
エトルリアの遺跡は、そのテーマに絞って回りたいなって考えています。ローマの近郊にも沢山あるようですし、人気観光地ではないので、語学力が必須。そしてかなりマニアックな旅になりそうですね。
私も今年のスペインの旅で英語力の低下をいやっというほど思い知らされたので、勉強しなくては。昨年イタリアに行く前にレッスン8まで進んだイタリア語初級の内容はすっぽり頭から抜け落ちています。これだから齢はとりたくない・・・
今は頑張って昨年のイタリアを完成させることに集中します。またのご訪問お待ちしております。
junemay
> junemayさん、こんにちわ。
>
> オルヴィエートにこんなフレスコが素晴らしい教会があったんですね。
> ドゥーモと博物館、美術館と井戸くらいしか行けなかったなぁ・・・
> バスが少ないので1日はチヴィタ・バーニョレージョで終わってしまったし。
> junemayさんのようにじっくり見るっていいですね。
>
> 地下ツアーにも行ったのですが英語がわからなかったし、情けないばかりです。
> エトルスキの遺跡もあるし、是非いつか再訪したいなぁ。
> そしたらjunemayさんの解説読ませていただきながら、フレスコに浸ってみたいです。
>
> では、また〜
> マリアンヌ
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