2015/05/26 - 2015/05/26
58位(同エリア147件中)
junemayさん
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- 旅行記226冊
- クチコミ42件
- Q&A回答0件
- 191,252アクセス
- フォロワー41人
2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
サン・ジョヴェナーレ教会からすぐの場所に、大聖堂付属美術館(MODO)のアネックスとなっているサンタゴスティーノ教会があるので、帰りに寄ってみることにしました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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こちらがサンタゴスティーノ教会。かつての教会で、今は教会としての機能を失っています。元々はサンタ・ルチアに捧げられた古い教会跡に13世紀に建てられた教会で、建物自体はかなり大きなものでしたが、ファサードが完成することはなかったようです。
アウグスティン修道会が併設されていましたが、1810年にナポレオン時代の大規模な宗教弾圧により閉鎖となり、その後は軍が使用した時代もありました。 -
現在は、ご覧の大聖堂付属美術館アネックスとなっています。このポスターにあるルカ・シニョレッリ作の「マグダラのマリア」は本館にあり、ここにはありません。
一目見てウットリ・・・早くお会いしたいなあ・・・ -
まずはサンタゴスティーノ教会について。
13世紀に建てられた後、教会は1724年に大規模な改修を行っています。まるで外側以外は新婚そっくりさんのように新しい教会を中に作ったのです。見て下さい。右側の窓に対応させるために、左側にはだまし絵の窓まで作っちゃってますよ。
そして大聖堂付属美術館について
大聖堂の理事会は1556年以来、一連の聖人達の彫像制作の依頼を長期にわたって行い、大聖堂内に設置してきました。それらの彫像は壁のスタッコをすべて剥いでフレスコを復活させた1890年の大規模改修の際に運び出され、現在はこちらの元教会で展示されています。バロック装飾の中に置かれていた彫像達なんですね。
一番目立つサンタゴスティーノ教会の旧主祭壇に置かれた2体の彫像。何かと思ったら「受胎告知」でした。ちょっと変わっていますね。
1554年から大聖堂に大理石の彫像が置かれ始め、半世紀たった頃、ファルネーゼ公爵は、お抱えアーチストの一人、フランチェスコ・モキに、12使徒の一人フィリポの彫像を作るよう依頼しました。これは若く野心的な若いアーチストにとって一流の彫刻家の仲間入りをするまたとないチャンスでした。
しかし彼がその制作に取り組む前の1603年に、理事会がモキに「受胎告知」を作るよう依頼してきたのです。 -
「天使ガブリエル像」は1605年に完成し、今までにない独創的なポーズと構成、表現力が備わったミケーレ像に大絶賛を浴びました。1609年にようやく完成した「マリア像」に関しては、「今までの因習的な受胎告知像と比べてポーズが奇抜すぎる」「体の線がはっきり見えすぎる」という意見が司教から出て、ひと悶着あったようです。
ようやく理事会の了承が取れた1612年から大聖堂を飾ってきました。現在はモキが望んでいた通りの設置方法(天使が右後方)で、美術館アネックスの舞台を飾っています。 -
サンタゴスティーノ教会の後ろ壁上方にあるフレスコです。以前の教会にあった後陣の内側にご覧のような新しい壁を築き、主祭壇を設置していたようです。
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1554年に大聖堂の理事会が最初にフランチェスコ・モスカ(イル・モスキーノ)に依頼したのは、聖ピエトロと聖パオロ、聖セバスティアーノ、そしてピエタ像の4体でした。
しかしながら発注したカラッラ大理石が1体分しか届かず、フランチェスコ・モスカは1556年こちらの聖パオロを完成させた段階でオルヴィエートを去ります。右手に持っているはずの彼のトレードマークの剣はここでは見当たりませんね。
パオロ像は大聖堂の身廊右側最初の柱前に置かれました。 -
続いて設置されたのは、1560年に作られたラッファエロ・モンテルーポによる聖ピエトロ。勿論、パオロと対になるよう、大聖堂の身廊左側最初の柱前に置かれました。聖人達のうち、最も重要な最初の2人がこうして無事完成しました。この後理事会は残る10人の使徒を身廊内の列柱前に設置する計画を立てたようです。
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1579年、理事会はイッポリート・スカルツァをカラッラに派遣し、4体分の大理石を手に入れることに成功。こうしてスカルツァにより作られたのが、こちらの聖トマゾ。
1587年にこちらが完成した時には、盛大な儀式が行われたそうです。 -
そして、こちらの若き福音記者聖ヨハネです。この像の完成には1588年から6年の歳月がかかっています。いつも聖ヨハネはほれぼれするほど男前に表現されますが、こちらの像もなかなかのものですなあ・・・
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1589年、大理石の3番目のブロックは、聖アンデレ用にファビアーノ・トッティに託されました。彼は1589年〜90年にかけて設計図を理事会に提出しましたが、どうしたわけか理事会は設計図をスカルツァに渡し、像はトッティのデザインのまま、スカルツァが1599年に完成させました。木の十字架は彼のシンボルとして後から用意されたものです。
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前述の「受胎告知」を作ったフランチェスコ・モキは、聖フィリポと聖タダイの制作を依頼されました。聖フィリポの写真は撮り忘れたようで、こちらは聖タダイ。
モキは聖フィリ像を、上記のマリア像完成後の1609年からオルヴィエートで取り組みはじめ、1610年には完成させて納品しました。しかし、その価値についての論争が勃発、彼への報償は1614年まで払われませんでした。このことが彼をローマでの仕事へと向かわせるきっかけとなったようです。事実それから彼はローマのファルネーゼ公爵の元で、20年近く制作に携わっています。
2体目の聖タダイは、ローマで彫ることを条件にそれから25年以上たった1638年に契約が交わされました。モキは1640年から4年かけてこちらの像を完成させましたが、ローマから輸送中にかなりの傷がついてしまったそうです。全く気が付きませんでしたが・・・ -
聖セバスティアーノです。この人はやはり裸でなければと前回の旅行記で書きましたが、全裸というのも逆に見るのは初めてかもしれません。一人浮いちゃっていましたよ。可哀そうに・・・
聖ピエトロ像の制作者フランチェスコ・モスカが途中まで作ったものを、イッポリート・スカルツァが1557年に完成させ、大聖堂のカペッラ・ヌオヴァ入口のニッチェに置かれました。 -
聖セバスティアーノと同じ、ペストの守護聖人同士である聖ロッコの制作者は、ファビアーノ・トッティ。聖アンデレの設計者ですね。完成は1593年です。
彼のシンボルは、彼の足にできたペストの潰瘍。衣服を持ちあげて、それを見せています。 -
あと何点か紹介しましょう。こちらは聖バルトロメオです。この彫像に関しては、ピエトロ・ベルニーニ(ロレンツォの父)とイッポリート・ブツィという2人の候補者がいたのですが、結果的にはブツィが選ばれました。彫像は彼のシンボルであるナイフ(彼は皮剥ぎの刑で殉教しました)を右手に持って立っています。1616年から17年の制作。
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フィレンツェ出身のジョヴァンニ・バッティスタ・カッチーニが制作した使徒ゼベダイの子聖ヤコブ。1589年〜1591年にかけての制作です。ご存知サンティアゴ・デ・コンポステーラの、あのヤコブです。古代ユダヤの地で殉教した彼の遺体が何千キロも離れたスペインのガリシアで見つかるとは! まさに奇跡ですね。
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こちらは、ジャンボローニャの設計を元にピエトロ・フランカヴィーリャが制作した作品で聖マッテオ(マタイ)。1595年〜1600年にかけて制作されました。
この作品、フィレンツェのオルサンミケーレ教会の外側ニッチェにある、ジャンボローニャ作の聖ルカ像に酷似していますよ。理事会の要望で、彼のシンボル人(天使)が加えられたのが違いだそう。 -
手前にあるガラスケースに入っているのは、ジャンボローニャの設計図を基に作られたテラコッタ製の立体模型です。だいぶ崩れて元の形を留めていませんが、フランカヴィーリャの作った上の像と比較すると、この模型はより柔軟性、俊敏性、調和に富んでいるんですって! フランカヴィーリャに失礼かも・・・
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サンタゴスティーノ教会には列柱がないので、彫像は、元礼拝堂の祭壇前に堂内をぐるりと取り囲むようにして置かれていました。
元礼拝堂に飾られているのは、様々なポーズのプット達の素描です。 -
近くで見ると、こんなあどけない仕草をしたプット達ですが、大聖堂のどこで使われていたのか、あるいはバロック装飾の原画なのか、説明はありませんでした。
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このような鐘も見ることが出来ましたよ。
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サンタゴスティーノ教会から次の目的地に向かう途中にあったパラッツォ・カラヴァージャ・シモンチェッリ。中央扉のアーチがイッポリート・スカルツァの作だと書いてあったので、ちょっと寄らせていただきました。16世紀前半に建てられたお屋敷です。
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カラヴァージャ宮は現在B&Bになっています。
ちょっと失礼して、中庭の写真を1枚撮らせていただきました。中世の佇まいが残っていますね。 -
先ほど、聖ジョヴェナーレ教会に行くときには、右手の坂を上って行ったのですが、今度は左手の坂を下ります。
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中世の井戸は、お金を払わなくても、町のあちこちで見ることが出来るのですが、エトルリア時代の井戸があるというので、探してみます。
この井戸のあるところが、目指す場所の入り口でした。 -
カーヴァの井戸です。件の坂道をどんどん下っていくと、右手にあります。カーエン広場近くにあったサン・パトリツィオの井戸ほど有名ではないですが、歴史はエトルリア時代に遡る、そしてクレメンス7世がサン・パトリツィオの井戸を作らせたアントニオ・ダ・サンガッロに発掘を命じた手紙が発見されたのが、なんとごく最近と聞いて、ちょっと興味を持ってしまいました。
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下にずんずん下りていくと、周りはこのような出土した中世の陶器や仕事用具類が展示されています。
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殆どが素焼きの壺ですが、マジョルカ焼きなども何点か見ることが出来ました。
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周りはすべてトゥファ(凝灰岩)の岩盤です。所々にフラスコ型をした竪穴がありますが、これは中世の時代にゴミ捨て場として使われていたものだそう。
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洗面台のような形をしたものが、典型的なエトルリア時代の墓だそうです。中世の時代には、織物の縮絨機として使われていたと、説明書きにはありました。
エトルリア時代の遺跡の発掘により、彼らが屋根にたまった雨水をここで集めていた装置も見つかりました。 -
そして、これがカーヴァの井戸です。サン・パトリツィオの井戸同様岩盤を掘ったもので、深さが36m、直径が3.4mあります。エトルリア時代の井戸を、1527年〜1530年にかけて、教皇クレメンス7世の命を受け、整備拡張したもので、1690年まで使われ、その後は長い間忘れられていました。
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緑色の水が見えるでしょうか? 井戸の底近くには、高さ170cm、長さ20mのトンネルが掘られているそうです。
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Aと書いてあるのがカーヴァの井戸の断面図です。底近くにトンネルが横に伸びているのがわかりますね。
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ここで行き止まりなので戻ります。なんてことはない、ただの井戸でしたが、まあ遺跡の一部がちらっと見えて、雰囲気だけは味わうことが出来ました。
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中世には、年中温度が一定なこちらの洞窟は、ワインセラーとして大切なオルヴィエートのワインの貯蔵に使われたそうです。
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ワインセラーの跡かな?
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これは、また別の中世のゴミ捨て場ですって。
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焼き物を焼いた窯(マッフル炉)の跡も発見されました。ここでルネサンス期には、金属の釉薬を用いた陶器が焼かれていたとのこと。
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全く意味不明のカップルの人形が大音響のロックンロールに合わせて踊っているのは、なんと第二のカーヴァの井戸の上だそうです。解説にはこの井戸について一言だけ、全てが「謎に包まれている」とありました。
井戸は蓋をされて、水もないので、そう言われなければ井戸に見えません。なぜ人形が踊っているのかについては、説明がありませんでした!? -
でもこの岩の天井は凄かったなあ・・・19世紀には採石場に転用された歴史もあるようです。トゥファを切り出した跡なのでしょうか?
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典型的なエトルリア式の水路も発掘により発見されました。
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はい。出口です。この時間に私以外の観光客は数名でした。時間が余って余って…という方以外にはお勧めしません。でもここのカフェは、トゥファのそそり立つ壁を見ることが出来て、なかなか居心地良かったですよ。ランチにはお勧めです。
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カーヴァの井戸で道草を食ってしまったので、大急ぎで大聖堂の後ろにある付属美術館に向かいます。
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いきなり、大聖堂の裏手にある美術館入り口に潜入です。大聖堂と同じ黒と白の横縞模様のあるアーチを訳も分からず進んでいきます。
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所々に、展示されているのか、放置されているのかわからない、細かい彫刻が沢山置かれた場所を通ります。
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これはどう見たって粗大ごみ置き場といった雰囲気でしょう?
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古いタペストリーが吊るされた、ボロボロの部屋を通って、たどり着いたのは「、サラ・デッリ・アフレスキー」フレスコの部屋です。
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ここにはフレスコの断片が沢山集められていました。
左側は「アレキサンドリアの聖カタリナと福音記者聖ヨハネといる聖母子」。制作は14世紀初期で、20世紀末に修復を行った結果、ハロ(頭の上の光輪)の表現に14世紀としては傑出した技術が用いられているとして、にわかに脚光を浴びた作品です。聖ジョヴェナーレ教会にも作品があった、聖ブリツィオの聖母の親方(マエストラ)の作です。
中央は「洗礼者聖ヨハネ」(15世紀)。ラクダの毛皮をまとった聖ヨハネ像は壁のほんの一部のみしか残されていません。左の聖母子像と比べてみると、ハロの描き方が全く異なり、凝ったデザインであることに気が付きます。オルヴィエート辺りでは見かけないハロの表現から、地元のアーティストの作品ではないと言われています。
右側は「オリーヴの聖母」(15世紀初期)と呼ばれる佳品です。サンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会にあったもので、1399年にアッシジで、オリーヴの樹の下で休んでいた父子の前に聖母が出現した奇跡を題材にしています。白衣の聖母であるというのが「オリーヴの聖母」の特徴の一つです。 -
幾何学的な模様のスラブですが、レリーフの中にブドウの実と木の実をついばむ小鳥の姿がありますね。いつ頃の時代のものか、控えてくるのを失念。
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14世紀後半に描かれた「東方三博士の礼拝」です。作者不詳ですが、構図、熟練した筆遣い、巧みな人物表現からかなり高名な画家の作品であろうと言われています。当時活躍したのオルヴィエートの画家を一人一人当たってみたものの、該当者が見つからなかったそう。
私は背後にいる沢山の馬達(特に白い馬)にいたく感銘を受けてしまいました。 -
左側の2枚は「女性殉教者と聖騎士」。同じく14世紀の作品です。シエナ出身の画家リッポ・ヴァンニの影響が見られるので、彼の弟子の作品ではないかと言われています。
右側は「キリストの神殿へのお披露目」。残念ながら左側の大部分が欠損状態です。1378年から1420年頃にかけて、オルヴィエートのカルミネの聖母祈祷所の天井や壁に描かれていたもので、このすぐ下の写真「聖誕」「東方三博士の礼拝」とともに「キリストの若き日の生涯」シリーズを構成しています。最近になって、アンドレア・ディ・ジョヴァンニの作品であることが判明しました。フレスコは祈祷所がリフォームに入った1559年に教会の壁から剥されたようです。 -
多数のフレスコの描かれた石のブロックとともに展示されていたのが、件の「聖誕」と「東方三博士の礼拝」です。こちらはかなり大きな作品で、比較的損傷も少ないように思いました。中央上に描かれた「三位一体」は、別の画家によるものだそうです。
ジョヴァンニは1378年〜80年にかけて、ウゴリーノ・ディ・プレテ・イラリオの元で大聖堂の後陣のフレスコ制作に携わっていました。 -
オルヴィエート郊外にあるサント・スピリト・デッリ・アルメーリ教会にあった「受胎告知」です。15世紀初期の作品。これは文句なく美しい・・・
天使とマリアが同じ柄(それも白地)の衣服をまとっているのは珍しいですね。また、マリアの立っている部屋の奥にはベッドが見えていますよ。寝室が描かれた「受胎告知」も私の記憶にはありません。 -
左側はキリスト教の「隠者」。エジプトの聖マカリオスではないかと言われています。彼は隠遁修道を初期キリスト教の時代に極めた聖人の一人で、4世紀頃のエジプトは、隠遁修道の中心地となっていたそうです(ウィキペディア)。15世紀の作品。
右側の壁に移って、「聖母子」です。ピエトロ・ディ・ニコラ・バローニの工房の作品と言われています。中世のイコンのような伝統的な聖母子像で、ソフトタッチの筆遣いが特徴。15世紀後半。
そして「聖ジュリアーノ像」。こちらは、一般の建物から見つかったフレスコです。聖ジュリアーノと呼ばれる聖人は何人もいて、どの人のことなのか特定できませんでした。15世紀中程。
床の薄い縞模様と同じ色の組み合わせの赤、緑、白の高価な衣装をまとったジュリアーノは気高さや上品さを兼ね備えていて、育ちの良さを感じさせます。ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノやフラ・アンジェリコが醸し出す雰囲気にも似ているような気がしませんか? -
サラ・デッリ・アフレスキーを出ると一旦外に出ます。写真はパラッツォ・デイ・パピ 教皇の館です。33人の枢機卿の住まいとして建てられた13世紀の建物です。
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その一角に、1982年まで大聖堂のファサード中央扉上のルーネット部分に飾られていた彫像群「マエスタ」が展示されていました。大理石製の聖母子像、ブロンズ製のキャノピー、そして同じくブロンズで作られたキャノピーのドレープを持ちあげる天使達の像です。作者は明らかになっていませんが、説明にはロレンツォ・マイターニが加わっているのではないかと?マーク付きで書かれていました。1310年〜1325年頃の作品です。
彫像群には様々な色や金メッキの跡が残っていて、完成当時は豪華に彩られていたようです。キャノピーの内部には青色がはっきりと見えていますね。風雨にさらされ、天使像は特に羽の部分に破損が目立ちます。しかしながら、聖母子の顔は穏やかで、見上げた人々をほっとさせる人知を超えた力があるように感じます。 -
続いて教皇の館1階にある第三室「礼拝堂」に入りました。ここには13世紀から17世紀初頭までの彫刻、絵画、装飾品等が年代別に展示されています。例によって興味のあるものだけ写していますのであしからず。
こちらはリッポ・ヴァンニ? と?マークのついた二つ折りの祭壇画の一部です。1350年ごろの作品で、オルヴィエート市内のサン・フランチェスコ教会から運ばれたものです。聖母子の周りにいる聖人は聖ピエトロ、聖パオロ、聖アニェーゼ、そして聖ルチアです。パネルてっぺんの尖がった部分や下の部分は破損していてギザギザになっています。どうやらシロアリにやられたようです。
幸いなことに絵の部分は食われずに済みました。リッポ・ヴァンニでないにせよ、シエナ派の画家によるものという点では多くの学者の意見が一致しているそうです。 -
ここにもフレスコが1枚ありました。恐らく聖セヴェーロと聖マルティリオ教会から運ばれたものではないかと言われていて、2人の使徒の半身が描かれています。福音記者聖ヨハネと聖パオロだそう。二人とも右を向いているので、その方向に別の中心となるフレスコがあったのでしょうね。1275年から85年というかなり古い時代の作品の割には良好な状態です。
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こちらは1330年〜70年代に大聖堂の聖歌隊席に置かれていた彫像、パネル類の展示です。シエナ出身の職人集団によって彫刻された木製の聖歌隊席は、身廊の第一柱間付近にありました。これは最も古い寄せ木細工の一つと言われているそうです。尤も、15世紀に入ってから何度も追加や修復を行っていますので、オリジナルとは様相が異なると思われます。1859年に行われた補修工事の際、これらは美術館に移され、現在大聖堂内にはそのコピーが置かれています。
2体の多色彩色された彫像は「受胎告知」の場面で、1350年頃の制作です。1536年に、聖歌隊席が後陣に移った時に一緒に動かされています。
背後の「聖母戴冠」が描かれた三角形の大きなパネルは、聖歌隊席の中央に仕切り板として置かれていました。1370年頃の作品。聖母の周りには、たくさんの音楽を奏でる天使達の姿がはめ込まれています。のちにこのパネルをモザイクで複製して、大聖堂のファサード中央のティンパヌム(三角形)部分に設置するというプランも立てられましたが、結局実行されることはありませんでした。 -
思い出してみてください。
こちらが1370年から84年にかけて制作された、大聖堂の後陣上のヴォールトに描かれた「聖母戴冠」です。 -
そしてこちらが、ジョヴァンニ・ランフランコの絵画を元に、大聖堂のファサードを飾っていた「聖母戴冠」の一部(ヴァージョン2)です。1713年〜4年にかけて、ルドヴィコ・マッツァナンティによってデザインされました。1568年からあった「キリストの復活」のモザイクに代わり、完成後ファサードのティンパヌムを飾りましたが、モザイクに問題があったらしく、ほとんど直後から劣化が始まりました。
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そしてこちらが現在の大聖堂ファサードの中央部分のティンパヌム(ヴァージョン3)です。15世紀にサーノ・ディ・ピエトロにより描かれた原画を元にしたもので、上のモザイクに取って代わり、1842年から7年頃設置されたものです。
ともあれ、最初のヴァージョンのものが元となり、新しいヴァージョンを次々と生んでいったことがわかって、大変興味深かったです。 -
壁にあるのは、様々な寄せ木細工の作品です。聖人の姿をはめ込んだものや、何種類もの幾何学模様のパネルは、大聖堂内の装飾や聖歌隊席の背もたれ、座面、ひじ掛け等に使われていたものと思われます。
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こちらの書見台付きの回転式説教壇は、1330年頃作られたもので、こちらも全面に細かい寄せ木細工が施されています。中央の書見台には、大きな聖書を垂直に立てかけられるよう、ぎざぎざのついた滑り止めがついていました。
かなり傷んでいますが、こちらも「経年劣化」だけでなく、白アリの害に会っているようです。 -
こちらは、聖フランチェスコ教会の祭壇画の中央部分だったパネルで、シエナ出身のシモーネ・マルティーニによる1322年〜24年頃の作品です。比較的良好なコンディションですが、左右部分についてはいまだに学者の間で議論の対象となっていて、オリジナルがどのような形だったのかはっきりとしていません。
上部中央には救い主キリスト。その左右にいるのは最も位の高い天使 熾天使(セラフィム)と次位の智天使(ケルビム)。その下にあるトンドの中の天使は三番目の位の座天使(トロネス)だそう。9つもある天使の階級のうち、上位3階級がそろったことになります。
ちなみにミケーレ、ガブリエル、そして地獄に堕ちた堕天使ルシファは、最上位のセラフィムだ(だった)そうですよ。 -
5枚のパネルは、オルヴィエートのサン・ドメニコ教会(朝一番で行った教会です)に残っていた唯一の多翼祭壇画の一部分で、中央パネルにシモーネ・マルティーニの署名と制作年1320年が入っています。パネル自体はかなりボロボロですが、幸い絵が描かれている部分は良好です。
左からマグダラのマリア、聖ドメニコ、聖ピエトロ、聖母、聖パオロです。多翼祭壇画にするためには、どう考えても、少なくともあと2枚パネルが必要ですが、見つかっていません。マグダラのマリアのパネルの右下に寄進者が描かれていますが、ソヴァーナの司教であったトラスモンド・モナルデスキです。そう、あの名門モナルデスキ家出身者。彼は聖ドメニコ教会の主祭壇およびこちらの祭壇画のパトロンでした。 -
次からの2枚のモザイクはピエトロ・ディ・プッチョ作の大聖堂のバラ窓の周りのモザイクのオリジナルです。19世紀にモザイクは外されて、現在はコピーのモザイクに置き換わっています。
モザイクには4大教会博士が描かれているのですが、せっかく保管のために外したのに、そのうち2枚しか残っていないそうですよ。意味ないじゃん! -
ヒエロニムスは四大ラテン教父の一人で、ヒエロニムスはカトリックのスタンダードであるウルガータ訳聖書の翻訳を405年ごろ完成させています。
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ミラノの司教聖アンブローズ、日本語ではアンブロジウスと呼ぶみたいです。アウグスティヌスに影響を及ぼした人としても知られています。
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シンボルのカギと剣で、「聖ピエトロと聖パオロ」とわかりますね。作者名を控えてこなかったのですが、多分ペルジーノの弟子の作品だったと思います。15世紀から16世紀の作品。
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こちらは、ピントゥリッキオの弟子の作品で、「バーリの聖ニコラ」。1495年。
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イチオシ
この1枚を見るためにやってきたといっても過言ではない、ルカ・シニョレッリの1504年の傑作「マグダラのマリア」です。彼女がオルヴィエートの守護聖人となったすぐ後に描かれたものです。ゆっくりゆっくり眺めて、頭の中の箪笥にイメージを閉じ込めました。いつでも引き出して見ることができるかしら?
絵は1653年、聖歌隊席の工事中に、大聖堂内サン・ブリツィオ礼拝堂内にあるミニ礼拝堂 マグダラのマリア礼拝堂の祭壇から外されました。この礼拝堂は1723年〜4年にかけてバロック様式で再建されています。
実は、この絵には試作品があって、パリのルーブル美術館が所蔵しているそうです。人物に関してはほぼ同等の出来ですが、背景の風景についてはかなりグレードが落ちると書かれていました。展示されているのであれば、是非とも見たいと思っています。 -
サン・ブリツィオ礼拝堂のフレスコ「偽キリストの説教」の端っこにもシニョレッリの自画像がありましたが、こちらは、「ニッコロ・ダニョーロ・フランキと一緒にいるシニョレッリ」というタイトルの1枚です。ニッコロ・ダニョーロ・フランキは主に経理を担当。シニョレッリと共にサン・ブリツィオ礼拝堂の指導者的存在の人物でした。
制作は1504年でシニョレッリ作とされてきましたが、18世紀の偽造だと言い張る学者もいて、長い間論議を呼んできました。最近の科学的な分析では、テラコッタ部分については少なくとも16世紀まで遡れるという結果が出ています。果たして、これはシニョレッリの自画像なのか、はたまた第三者が描いたものなのか・・・
まあ、実際に誰が描いたのか、そんなことはどうでもよくて、あの偉大なフレスコを描き上げた天才画家にお目にかかる機会を与えられただけで感謝感激している自分がいます。 -
1550年頃から90年頃にかけて、大聖堂は大掛かりな大改修を行います。この際に、前述の聖歌隊席の移動の他、神聖化された聖体のための幕屋の建造、翼廊に新たな礼拝堂の追加、オルガンの設置などが行われました。
オルヴィエート在住の若い画家チェーザレ・ネッビアは上記の幕屋を飾る11枚のパネルの作成を依頼されました。すでに幕屋はラッファエロ・ダ・モンテルーポの設計、イッポリート・スカルツァの制作によって出来上がっていました。
幕屋は主祭壇を飾っていましたが、1629年には後陣に移され、18世紀末には壊してしまったようです。ネッビアの作品はごく最近になって見つかり、復元されました。右の11枚がその作品です。1563年。
左側の1枚は16世紀か17世紀のネッピア派の作品とされている「洗足式」です。 -
ネッビアは上の5枚で聖体拝領を描いています。
左から、「砂漠のマンナの奇跡」、「放蕩息子のためのごちそう」、「アブラハムの犠牲」、「アブラハムの祝福」、「最後の晩餐」です。下の6枚は預言者、シュビュラ(アポロンの信託を受け取る巫女)などが描かれています。 -
16世紀後半の大聖堂の大改修後に身廊を飾っていた作品が続きます。その多くは1890年の再改修の際に取り外され、行方不明になったり壊されたりしましたが、10枚の祭壇画は美術館で生き続けてきました。そのうちネッピアが描いた3枚を紹介しましょう。
こちらは、1567年作の「カナの婚宴」。聖母と弟子たちとともにカナという町の親戚の婚宴に参加したキリストが、水をワインに変えたという、キリスト最初の奇跡の話が描かれています。この絵の成功により、ネッピアは独立した画家としての人生を歩みだすことになるのです。 -
2枚目は、1575年に描かれた「茨の冠をかぶるキリスト」。画面左側手前にいる二人の兵士のたわいもない話に気を取られ、画面奥でひっそりと行われている残酷な儀式には気が付かないかもしれません。
画面中程の左端にいるカメラ目線の男性は、ネッピア本人だと言われています。自画像を作品の中に投入させる手法はシニョレッリの影響かしら? -
3枚目は、「マリアの誕生」。カウンターファサードにあったモナルデスキ家の礼拝堂のための1枚です。パトロンのスフォルツァ・モナルデスキは左下端に描かれています。右端は彼の妻かしら?
ネッピアはこの頃ローマで教皇シクストゥス5世のための仕事で多忙であり、この作品の搬入にはかなり時間がかかったようで、大聖堂の理事会が何度も督促を行った記録が残っています。作品そのものは非常に好評で、1584年になってようやくオルヴィエートに到着しました。 -
こちらも同じ1584年のネッピアの作品ですが、最近になって発見され、復元されたファサードのモザイクのための試作品で、10枚の祭壇画とは別のものです。
大聖堂の右側の壁に沿って掲げられていた「キリストの受難」シリーズの最終章に当たる作品だそうです。モザイクそのものは1713年に置き換えられ、その後行方不明だということで、現存するのはこの試作品だけです。 -
ジローラモ・ムツィアーノは、1555年にラッファエロ・ダ・モンテルーポの推薦を受け、大改修後の祭壇画「キリストの生涯」シリーズを依頼された画家の一人です。
ムツィアーノの最初の1枚は「ラザロの復活」。1556年。ラザロについては前にも書いた記憶がありますが、キリストが死後4日たったラザロの墓の前に立ち、「ラザロ、出て来なさい」と言うと、布に巻かれたラザロが中から出てくるという「奇跡」のお話です。 -
ムツィアーノ2枚目は「ゴルゴダの丘への道」。こちらは、ヴェロニカがキリストに渡した顔を拭くためのヴェールを差し出したところ、そのヴェールにキリストの顔が浮かび上がったという、「聖顔布」のお話です。左側では心労のため、聖母が倒れかかっています。1557年。
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ムツィアーノは1558年にオルヴィエートを去りましたが、その後も大聖堂のために2枚の祭壇画を描いています。これからの2枚は、ローマに住んでいたムツィアーノがオルヴィエートに送った作品です。
「キリストのむち打ち」1575年の作品。立体的な構図が新鮮な作品ですね。アーチの出口の先に描かれている風景が重苦しい空気を和らげてくれています。キリストの足の長さにはビックリ! -
ムツィアーノ最後の作品は、皮肉にも「キリストの受難」シリーズの最初の場面「捕らわれたキリスト」です。1584年。
画面では同時に二つのドラマが進行しており、右側の男性が荒っぽい「動」だとすれば、キリストが醸し出しているのは「静」そのもの。木漏れ日が効果的に彼の顔を照らし出していて、この絵の主人公が誰なのかを教えてくれています。良い味出していますね。ムツィアーノ! -
フランドル地方の画家ヘンドリック・ファン・デン・ブルーク(イタリア名アッリゴ・フィアミンゴ)が推薦した画家ニコラ・チルチニャーニによって描かれた、サン・ニコロの礼拝堂の祭壇画「足の不自由なものを癒すキリスト」も、現存する10枚の祭壇画のうちの1枚です。
フレスコの状態はかなり悪いですが、登場人物が面白くて画面にぐんぐん吸い寄せられていくのを感じました。舞台は公衆浴場のようです。左上方に飛行中なのは、大天使ラファエルです。ラファエルは癒しを司る天使だそう。 -
聖人の姿が織り込んである儀式用の祭服。肩が凝りそうに重たそうなイメージです。
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左側はシメオーネ・エ・マキローネ(スポレート出身の二人組の画家で、13世紀半ばに活躍した)の作ではないかと言われている(これも? マークがついていました)「聖母子像」です。彼らの作品にはビザンティン芸術の影響が色濃く出ていますが、同時にその頃のイタリアンゴシックの中心地であったアンコーナ、フィレンツェ、ピサ、オルヴィエートの絵画の影響も受けていると言われています。
この聖母子像、オルヴィエートに現存する最古の絵画だそうですよ。
右側の十字架は、このシメオーネ・エ・マキローネから影響を受けたオルヴィエートの画家の作品だそうで、1270年頃に作られています。 -
3体の彫像は「キリストと天使達」。1347年〜8年にかけての作品です。大聖堂のコルポラーレ礼拝堂が建設中の間に収められた可能性が高いようです。その後大聖堂の扉の一つコルポラーレ扉上のルーネットに移され、1985年には風化が進んでボロボロの状態になっていました。
キリスト像はニーノ・ピサーノ作で、右手と左手で聖杯を抱えています。左手に持っていた聖餅は失われているようです。天使に使われているグレードの低い大理石で、この2体についてはトマゾ・ピサーノの作だそうです。 -
この煌びやかな祭壇画は、私がオルヴィエートで最初に訪れたサンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会の主祭壇にあったもので、1270年頃に制作されました。フィレンツェ出身のコッポ・ディ・マルコヴァルドの作だとされています。13世紀の絵画では、聖母が左腕を回して幼子を抱くパターンがほとんどなのですが、これはそういう意味では逆パターンで珍しいと言えます。
この祭壇画、1320年頃にカウンターファサードに移されていたのですが、1733年には元の主祭壇に返り咲きを果たしたのです。というのも、聖母が血の涙を流したという「奇跡」を目撃した人が何人も出たからです。
1861年に新しい教会に移った段階では、聖母子は金の王冠をそれぞれつけ、保護のためか、別の絵で表面を覆われていました。1927年〜8年にかけて再ペイントを含めた修復を行っています。
この絵に関してはまだまだ面白い話があります。1953年にこの絵を盗んだ泥棒がいて、彼は海を越えてイギリスのナショナル・ギャラリーに売りつけようとしましたが失敗。1965年〜70年にかけて再ペイントした部分が剥がれ落ち、再度修復が行われています。長い旅路の末絵は1984年にオルヴィエートに戻ってきましたが、教会は再度の盗難を恐れ、セキュリティ上の理由から美術館に持ち込まれたそうです。 -
どこにあったかなあ・・・サン・ミケーレがとどめを刺すところですが、肝心の剣がありませんね。
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こちらは、つい先ほど訪問したサン・ジョヴェナーレ教会のかつての主祭壇で、1882年に美術館に移されたものです。2007年には可能な限りの修復が行われました。写真で見るとわかりませんが、かなり大きな祭壇です。
ルーネット部分には、天使と共にいる祝福するキリスト。中央部分には、聖母子を中心として、痛みの激しい聖ジョヴェナーレと聖サビーノが両脇に立っています。聖母の美しさが際立っているだけに、両脇の聖人のダメージは残念でなりません。
下のプレデッラには、左から「教皇ダマスス1世が聖ジョヴェナーレをナルニの司教として奉献」、「ナルニの町で説教をする聖ジョヴェナーレ」、「聖ジョヴェナーレを暴行した後に自殺を図る異教徒」の場面がそれぞれ描かれています。中央の絵、正確な遠近法が取り入れられていますね。
3つの部分はそれぞれ別の画家が担当していて、ルーネットはアントニオ・デル・マッサーロ・ダ・ヴィテルボ(1489年〜92年)、メインはヤコポ・リパンダ・ダ・ボローニャ(1485年〜95年)、プレデッラはジョヴァンニ・フランチェスコ・ダヴァンツァラーノ(1490年)の作だそうです。 -
15世紀末のアントニオ・ヴィテルボによる「聖母子」。出所はわかっていませんが、大聖堂のどこかにあったようです。絵は元々多翼祭壇画の中央部分で、今収められているフレームはオリジナルではないという説が有力です。多翼祭壇画の他の部分は見つかっていません。フレームが収まっている幕屋も、右翼廊にあった礼拝堂の祭壇の再利用だそうです。特注したみたいにぴったりと収まっていますね。
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ビザンティン時代のイコンは、アドリア海側のヴェネト州からオルヴィエートに伝わり、繰り返し同じパターンでコピーが作られてきました。左の2枚はいずれも17〜18世紀に作られたものですが、そっくりですね。キリストの幼子が妙に大人っぽい目つきなのが気になりますが・・・
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アンドレア・デッラ・ロッビアに代表される釉を使ったセラミック彫刻を見ると、ふらふらと近寄っていってしまいます。これは、受胎告知の天使ですね。かなり損傷が激しいです。
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時刻は午後1時20分。見逃した部分もあるかと思いますが、大聖堂付属美術館は早回りで一周して見学を終えました。これからクイックランチを食べて、チヴィタ・ディ・バーニョレージョに向かうバス停を探さなければなりません。間に合うかなあ〜!
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大聖堂の縞々の外壁を眺めながら、バスの出るカーエン広場へと急ぎます。ロマネスク様式の特徴が良く出ていますね。素晴らしい出会いに感謝!
この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その65 チヴィタ・ディ・バーニョレージョで!
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