萩旅行記(ブログ) 一覧に戻る
萩城下町番外編として、ホテル到着後の自由散策や翌日の早朝散策の様子をレポいたします。萩は3箇所回れるツアーなのですが、それでも回りきれない魅力あるスポットを紹介いたします。<br />萩市中心部は、阿武川支流の橋本川と松本川に挟まれた三角州上にあり、日本海を背に三方を山に囲まれた自然味溢れる穏やかな街です。1604(慶長9)年に萩藩祖 毛利輝元(36万石)が日本海に張り出した指月山の麓に萩城(指月城)を築いたことで城下町として大いに栄えました。<br />その後260年もの間、城下町として発展しましたが、明治維新後は歴史の表舞台から抹殺され、その恩恵で往時の町並みが今も姿を留め、武家屋敷や豪商屋敷などが多数遺されています。<br />藩政時代、現在の市街中心部は、低地のため遊水地として利用されたに過ぎませんが、明治時代には遊水地を埋め立てて官公庁などが整備されました。また、国道のひとつは江戸時代からの街道を拡幅しただけで、街の姿を変えることを許可しませんでした。鉄道網は、昔からの町並みを守ろうとする意識が高く、三角州エリアに入れることを忌避し、城下町を迂回した形で敷設され、鉄道からのアクセスは少々不便です。こうしたことが奏功し、「江戸時代の絵地図がそのまま使える町」とも称され、多くの人に愛されています。  <br /><br />萩城下町マップです。(一番判り易いのですが、野山獄の位置が一筋間違っていますので注意ください)<br />http://machihaku.city.hagi.lg.jp/satellite/mappdf/hagimachimap.pdf<br /><1日目><br />新大阪駅(新幹線)===福山駅---錦帯橋(昼食+散策)<br />---津和野(案内人と一緒に散策)---萩グランドホテル天空<br /><2日目><br />萩グランドホテル天空---松陰神社(ボランティアの方と一緒に散策)<br />---旧萩藩校明倫館(同じ)---萩城下町(同じ)<br />---蒲鉾店(ショッピング)---海鮮村北長門(昼食)<br />---青海島(クルーズコース・島上陸コース・金子みすゞ記念館コースから選択)<br />---秋吉台---瑠璃光寺---湯本観光ホテル西京(オプション:大谷山荘宿泊)<br /><3日目><br />湯本観光ホテル西京---宮島口===宮島(昼食+散策:3時間)===宮島口<br />---尾道===千光寺公園(ロープウェイ)---千光寺公園(山頂)<br />---福山駅(新幹線)===新大阪駅

早春賦 西国放浪記③萩城下町(番外編)

896いいね!

2016/03/03 - 2016/03/05

3位(同エリア898件中)

0

38

montsaintmichel

montsaintmichelさん

萩城下町番外編として、ホテル到着後の自由散策や翌日の早朝散策の様子をレポいたします。萩は3箇所回れるツアーなのですが、それでも回りきれない魅力あるスポットを紹介いたします。
萩市中心部は、阿武川支流の橋本川と松本川に挟まれた三角州上にあり、日本海を背に三方を山に囲まれた自然味溢れる穏やかな街です。1604(慶長9)年に萩藩祖 毛利輝元(36万石)が日本海に張り出した指月山の麓に萩城(指月城)を築いたことで城下町として大いに栄えました。
その後260年もの間、城下町として発展しましたが、明治維新後は歴史の表舞台から抹殺され、その恩恵で往時の町並みが今も姿を留め、武家屋敷や豪商屋敷などが多数遺されています。
藩政時代、現在の市街中心部は、低地のため遊水地として利用されたに過ぎませんが、明治時代には遊水地を埋め立てて官公庁などが整備されました。また、国道のひとつは江戸時代からの街道を拡幅しただけで、街の姿を変えることを許可しませんでした。鉄道網は、昔からの町並みを守ろうとする意識が高く、三角州エリアに入れることを忌避し、城下町を迂回した形で敷設され、鉄道からのアクセスは少々不便です。こうしたことが奏功し、「江戸時代の絵地図がそのまま使える町」とも称され、多くの人に愛されています。

萩城下町マップです。(一番判り易いのですが、野山獄の位置が一筋間違っていますので注意ください)
http://machihaku.city.hagi.lg.jp/satellite/mappdf/hagimachimap.pdf
<1日目>
新大阪駅(新幹線)===福山駅---錦帯橋(昼食+散策)
---津和野(案内人と一緒に散策)---萩グランドホテル天空
<2日目>
萩グランドホテル天空---松陰神社(ボランティアの方と一緒に散策)
---旧萩藩校明倫館(同じ)---萩城下町(同じ)
---蒲鉾店(ショッピング)---海鮮村北長門(昼食)
---青海島(クルーズコース・島上陸コース・金子みすゞ記念館コースから選択)
---秋吉台---瑠璃光寺---湯本観光ホテル西京(オプション:大谷山荘宿泊)
<3日目>
湯本観光ホテル西京---宮島口===宮島(昼食+散策:3時間)===宮島口
---尾道===千光寺公園(ロープウェイ)---千光寺公園(山頂)
---福山駅(新幹線)===新大阪駅

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
観光バス 新幹線

PR

  • 萩 光圀本店<br />津和野を発ち、途中「道の駅 ピュアラインにしき」でトイレ休憩を挟み、萩城下町へと駒を進めてきました。ホテル到着は、予定より若干早い17:30です。<br />到着後、早速向かったのは創業安政5年、夏蜜柑菓子の老舗「光圀本店」です。ホテルから3ブロック先の至近距離にありますが、18:00閉店のはずが既に完売のためクローズで残念!!<br />萩土産として喜ばれる「夏蜜柑丸漬」は、TV「ケンミンショー」で話題騒然となり、最近は品薄状態が続いているようです。聞く所に拠れば、開店前に行列ができるほどの人気だそうです。限定180個/日ならそれもあり得ます。<br />お店のHPです。<br />http://www.mitsukuni-honten.com/

    萩 光圀本店
    津和野を発ち、途中「道の駅 ピュアラインにしき」でトイレ休憩を挟み、萩城下町へと駒を進めてきました。ホテル到着は、予定より若干早い17:30です。
    到着後、早速向かったのは創業安政5年、夏蜜柑菓子の老舗「光圀本店」です。ホテルから3ブロック先の至近距離にありますが、18:00閉店のはずが既に完売のためクローズで残念!!
    萩土産として喜ばれる「夏蜜柑丸漬」は、TV「ケンミンショー」で話題騒然となり、最近は品薄状態が続いているようです。聞く所に拠れば、開店前に行列ができるほどの人気だそうです。限定180個/日ならそれもあり得ます。
    お店のHPです。
    http://www.mitsukuni-honten.com/

  • 萩 女(おなご)台場<br />夕食は18:30〜なので、それまでホテル周辺を散策することにします。<br />幕末期、浜辺では武士たちが戦の演習、海上では水軍が軍艦の操練を行っていました。また、陸地側には外国の軍艦の襲来に備えて大砲を据える土塁(台場)が築かれ、現在でも2箇所が残されています。その土塁の築造に当たって武士の妻や奥女中の功績が大きかったため、これらは「女台場」と呼ばれ、市民に親しまれています。それまで禁じられていた絹の着物が許されたため、華やかに着飾った女性たちが集まったそうです。<br />その時の作業唄は、民謡「男なら」として今も歌い継がれています。夕食時に、ホテルの女将さんがピンクのリボン姿で歌ってくださりました。<br />主戦力となる男たちが出払った中、何時外国船が襲撃してくるかもしれないという恐怖心が住民たちに計り知れないパワーを引き出させたのでしょう。現在残る土塁は、往時の住民たちの恐怖を浮き彫りにした形とも言えます。

    萩 女(おなご)台場
    夕食は18:30〜なので、それまでホテル周辺を散策することにします。
    幕末期、浜辺では武士たちが戦の演習、海上では水軍が軍艦の操練を行っていました。また、陸地側には外国の軍艦の襲来に備えて大砲を据える土塁(台場)が築かれ、現在でも2箇所が残されています。その土塁の築造に当たって武士の妻や奥女中の功績が大きかったため、これらは「女台場」と呼ばれ、市民に親しまれています。それまで禁じられていた絹の着物が許されたため、華やかに着飾った女性たちが集まったそうです。
    その時の作業唄は、民謡「男なら」として今も歌い継がれています。夕食時に、ホテルの女将さんがピンクのリボン姿で歌ってくださりました。
    主戦力となる男たちが出払った中、何時外国船が襲撃してくるかもしれないという恐怖心が住民たちに計り知れないパワーを引き出させたのでしょう。現在残る土塁は、往時の住民たちの恐怖を浮き彫りにした形とも言えます。

  • 萩 女台場<br />1863(文久3)年、久坂玄瑞ら長州藩が攘夷決行として関門海峡を通過する外国船を砲撃する事件を起こしました。しかし翌年、連合艦隊(米国・英国・フランス・オランダ)の報復により甚大な被害を受け、戦艦をはじめ民家までが大損害を被りました。この事件をきっかけに、萩の住民の間で「自らの手で城下を守ろう」とする機運が高まり、萩藩は外国船の襲撃に備えるために住民に菊ヶ浜に土塁の築造を命じました。武士たちの留守を預かる老若男女たちは、身分や貧富を問わず奉仕し、この時ばかりはめったに屋敷外に出ることのなかった武士の妻や奥女中までもが総動員されたそうです。現在は、高さ3m、幅12mの土塁が距離50mに亘って遺されています。

    萩 女台場
    1863(文久3)年、久坂玄瑞ら長州藩が攘夷決行として関門海峡を通過する外国船を砲撃する事件を起こしました。しかし翌年、連合艦隊(米国・英国・フランス・オランダ)の報復により甚大な被害を受け、戦艦をはじめ民家までが大損害を被りました。この事件をきっかけに、萩の住民の間で「自らの手で城下を守ろう」とする機運が高まり、萩藩は外国船の襲撃に備えるために住民に菊ヶ浜に土塁の築造を命じました。武士たちの留守を預かる老若男女たちは、身分や貧富を問わず奉仕し、この時ばかりはめったに屋敷外に出ることのなかった武士の妻や奥女中までもが総動員されたそうです。現在は、高さ3m、幅12mの土塁が距離50mに亘って遺されています。

  • 萩 菊ヶ浜海水浴場<br />菊ヶ浜から見える「萩六島」は、平坦な形をしているのが特徴です。左から、相島、尾島、羽島、肥島、櫃(ひつ)島、笠島の順です。生憎、大島は笠島の陰に隠れています。<br />これらが平坦な形なのは、火山噴火でできた溶岩台地の島だからです。こうした平坦な溶岩台地の島が見られるのは、世界でも萩だけだそうです。<br />一番右にある笠山は、標高112mあり、名の通り「市女笠(いちめがさ)」を彷彿とさせる趣のある島です。山麓には25000本の椿群生林があることで知られています。

    萩 菊ヶ浜海水浴場
    菊ヶ浜から見える「萩六島」は、平坦な形をしているのが特徴です。左から、相島、尾島、羽島、肥島、櫃(ひつ)島、笠島の順です。生憎、大島は笠島の陰に隠れています。
    これらが平坦な形なのは、火山噴火でできた溶岩台地の島だからです。こうした平坦な溶岩台地の島が見られるのは、世界でも萩だけだそうです。
    一番右にある笠山は、標高112mあり、名の通り「市女笠(いちめがさ)」を彷彿とさせる趣のある島です。山麓には25000本の椿群生林があることで知られています。

  • 萩 菊ヶ浜海水浴場<br />北長門海岸国定公園内にある風光明媚な海水浴場です。国指定史跡「萩城跡」の東側に広がり、白砂青松の海岸として知られています。環境省「快水浴場百選」に選定され、白い砂と青い海が人気で、丸いシルエットが美しい国の天然記念物「指月山」や沖合いには笠山をはじめとする「萩六島」が眺められます。<br />また、「日本の夕陽百選」にも選ばれ、絶好の夕景ポイントでもあります。全長1.2kmにおよぶ菊ヶ浜からは、美しい落陽が見られます。幕末の維新志士たちも、ここから沈み行く夕陽を見つめながら明日への英気を養ったことでしょう。そんな歴史のロマンが感じられるビーチです。その美しい景観から、時代劇からドラマ、旅番組のロケ地に使用される機会も多いそうです。

    萩 菊ヶ浜海水浴場
    北長門海岸国定公園内にある風光明媚な海水浴場です。国指定史跡「萩城跡」の東側に広がり、白砂青松の海岸として知られています。環境省「快水浴場百選」に選定され、白い砂と青い海が人気で、丸いシルエットが美しい国の天然記念物「指月山」や沖合いには笠山をはじめとする「萩六島」が眺められます。
    また、「日本の夕陽百選」にも選ばれ、絶好の夕景ポイントでもあります。全長1.2kmにおよぶ菊ヶ浜からは、美しい落陽が見られます。幕末の維新志士たちも、ここから沈み行く夕陽を見つめながら明日への英気を養ったことでしょう。そんな歴史のロマンが感じられるビーチです。その美しい景観から、時代劇からドラマ、旅番組のロケ地に使用される機会も多いそうです。

  • 萩 菊ヶ浜海水浴場<br />萩名物の夏みかんを絞ったような夕焼けです。<br />菊ヶ浜の松原は、古くは「阿武の松原(おおまつばら)」として歌にも詠まれ、日本名所記にも載りました。かつては阿古ヶ浜と呼ばれていましたが、萩藩の御用を勤めた豪商の菊屋家が藩士や足軽衆のための惣固屋を建てて住まわせたことから、菊ヶ浜と称するようになったそうです。<br />また、第6代横綱 阿武松緑之助は、七海村(現七見)に生まれた長州毛利藩のお抱え力士でした。阿武松のしこ名は、この「阿武の松原」が由来だそうです。初土俵以来、一場所も負け越したことはなく、「稲妻」「緋緘(ひおとし)」と共に「文政角界の三傑」と呼ばれたそうです。

    萩 菊ヶ浜海水浴場
    萩名物の夏みかんを絞ったような夕焼けです。
    菊ヶ浜の松原は、古くは「阿武の松原(おおまつばら)」として歌にも詠まれ、日本名所記にも載りました。かつては阿古ヶ浜と呼ばれていましたが、萩藩の御用を勤めた豪商の菊屋家が藩士や足軽衆のための惣固屋を建てて住まわせたことから、菊ヶ浜と称するようになったそうです。
    また、第6代横綱 阿武松緑之助は、七海村(現七見)に生まれた長州毛利藩のお抱え力士でした。阿武松のしこ名は、この「阿武の松原」が由来だそうです。初土俵以来、一場所も負け越したことはなく、「稲妻」「緋緘(ひおとし)」と共に「文政角界の三傑」と呼ばれたそうです。

  • 萩 野山獄跡<br />ホテルから1ブロック先には、晩年の松陰を静寂の中に偲べる遺跡があります。それが萩藩牢獄跡です。<br />士族以上の身分の科人を収容する上牢を野山獄と呼び、庶民を収容する下牢を岩倉獄と区別していました。野山獄に投獄された者は、ほとんどが殺人や傷害罪の前歴を持つ凶悪犯で、しかも何犯も重ねた兵揃いでした。脱藩した高杉晋作もここに投獄されています。<br />安政元年に下田で海外密航に失敗した松陰は野山獄へ投獄されましたが、松陰と共に密航を図った金子重之輔は商家出生のため、常念寺筋を挟んで対面する岩倉獄へ投ぜられています。<br />現在は敷地の一部を残すのみで、敷地内には「野山獄十有一烈士之碑(貴族院議員 毛利元昭書)」と「十一烈士絶命之処」の碑が立てられています。元治元年、俗論派により禁門の変を責められた正義派十一名の追悼の碑です。文字がかなり薄くなっていますが、長州藩 中村九郎はかろうじて読み取れます。<br />1棟に独房が6つの獄舎が、竹格子で囲まれた中庭を挟んで南北に2棟向かい合って建っていたようです。松陰の入獄時には既に11人が収監されており、松陰は北側最奥(西)の部屋に収監されました。11人の獄囚暦は在獄1〜49年と幅広く、年齢的には松陰が25歳で最も若かったようです。独房の広さは畳2畳と板敷半坪とされますから、3畳程のスペースと思われます。

    萩 野山獄跡
    ホテルから1ブロック先には、晩年の松陰を静寂の中に偲べる遺跡があります。それが萩藩牢獄跡です。
    士族以上の身分の科人を収容する上牢を野山獄と呼び、庶民を収容する下牢を岩倉獄と区別していました。野山獄に投獄された者は、ほとんどが殺人や傷害罪の前歴を持つ凶悪犯で、しかも何犯も重ねた兵揃いでした。脱藩した高杉晋作もここに投獄されています。
    安政元年に下田で海外密航に失敗した松陰は野山獄へ投獄されましたが、松陰と共に密航を図った金子重之輔は商家出生のため、常念寺筋を挟んで対面する岩倉獄へ投ぜられています。
    現在は敷地の一部を残すのみで、敷地内には「野山獄十有一烈士之碑(貴族院議員 毛利元昭書)」と「十一烈士絶命之処」の碑が立てられています。元治元年、俗論派により禁門の変を責められた正義派十一名の追悼の碑です。文字がかなり薄くなっていますが、長州藩 中村九郎はかろうじて読み取れます。
    1棟に独房が6つの獄舎が、竹格子で囲まれた中庭を挟んで南北に2棟向かい合って建っていたようです。松陰の入獄時には既に11人が収監されており、松陰は北側最奥(西)の部屋に収監されました。11人の獄囚暦は在獄1〜49年と幅広く、年齢的には松陰が25歳で最も若かったようです。独房の広さは畳2畳と板敷半坪とされますから、3畳程のスペースと思われます。

  • 萩 野山獄跡<br />松陰には獄中で出会った年上の女囚「高須久子」との色恋沙汰が囁かれていますが、松陰の妹 千代はこう証言しています。<br />「一般的な世間の尺度で見ると妻を迎え一家を成すべき年齢でした。けれど松陰は、成年に達してからは全国のあちらこちらと遊歴しましたし、ここ長州にいる時でもお咎めを受けて蟄居を申しつけられておりましたから、妻帯するなどという相談や話が湧いて出ようはずもありません。(中略)松陰は生涯婦人に関係せることはなかったのです」。こう否定しているのに「色恋沙汰のひとつくらいは・・・」と詮索したがるのも判らないでもありませんが・・・。<br />久子は上級武士の娘でしたが、婿養子に先立たれて未亡人となりました。金と暇をもてあまし、趣味の三味線などの芸事三昧に明け暮れ、それに加えて芸人を家に呼んで酒をふるまい、泊めるなどしたのです。それが世間の噂となり、やがて親戚の耳にも入りました。身分制度が厳しい時代にあって、芸人が差別部落出身の男だったことから親族が困り果て、藩に訴え出て「借牢(保護入獄)」処分となり、刑期はなく無期限の入獄の身でした。<br />実際、松陰が詠んだ和歌には、詞書に恋愛感情を匂わせるものもあります。「高須未亡人に数々のいさをしをものがたりし跡にて」という詞書のある和歌です。「清らかな 夏木のかげに やすらへど 人ぞいふらん 花に迷ふ」。<br />花を久子になぞらえたとして、秘められた恋愛感情を吐露したと解釈する向きもあります。そうも思えますが、ラブロマンス願望と言うフィルタを通せば、皆そう思えるものです。<br />「恋愛は錯覚から始まる」と言われるように、単なる情景を詠んだものでも恋文と勘違いすることもありますから・・・。<br />しかし通説では、江戸に護送される直前、久子は餞別代わりに手作りの汗拭きを松陰に贈っています。これに対して松陰は、「箱根山 越すとき汗の 出でやせん 気の思ひを ふき清めてん」の歌と「一声を いかで忘れん 郭公(ほととぎす)」の句を久子に贈りました。こうした素直な気持ちを詠んだものがあれば、やはり2人の間には秘められた感情があったのかもしれません。<br />しかし、2人とも感情を押し殺したのです。久子は、松陰の志の邪魔をしないように身を引いたのではないでしょうか?松陰は禁欲的なストイックな生き方をしていた人物であり、投獄を勉学に励むチャンスと捉えた状況下で堕落の道に走らせることに罪悪感を募らせたはずです。

    萩 野山獄跡
    松陰には獄中で出会った年上の女囚「高須久子」との色恋沙汰が囁かれていますが、松陰の妹 千代はこう証言しています。
    「一般的な世間の尺度で見ると妻を迎え一家を成すべき年齢でした。けれど松陰は、成年に達してからは全国のあちらこちらと遊歴しましたし、ここ長州にいる時でもお咎めを受けて蟄居を申しつけられておりましたから、妻帯するなどという相談や話が湧いて出ようはずもありません。(中略)松陰は生涯婦人に関係せることはなかったのです」。こう否定しているのに「色恋沙汰のひとつくらいは・・・」と詮索したがるのも判らないでもありませんが・・・。
    久子は上級武士の娘でしたが、婿養子に先立たれて未亡人となりました。金と暇をもてあまし、趣味の三味線などの芸事三昧に明け暮れ、それに加えて芸人を家に呼んで酒をふるまい、泊めるなどしたのです。それが世間の噂となり、やがて親戚の耳にも入りました。身分制度が厳しい時代にあって、芸人が差別部落出身の男だったことから親族が困り果て、藩に訴え出て「借牢(保護入獄)」処分となり、刑期はなく無期限の入獄の身でした。
    実際、松陰が詠んだ和歌には、詞書に恋愛感情を匂わせるものもあります。「高須未亡人に数々のいさをしをものがたりし跡にて」という詞書のある和歌です。「清らかな 夏木のかげに やすらへど 人ぞいふらん 花に迷ふ」。
    花を久子になぞらえたとして、秘められた恋愛感情を吐露したと解釈する向きもあります。そうも思えますが、ラブロマンス願望と言うフィルタを通せば、皆そう思えるものです。
    「恋愛は錯覚から始まる」と言われるように、単なる情景を詠んだものでも恋文と勘違いすることもありますから・・・。
    しかし通説では、江戸に護送される直前、久子は餞別代わりに手作りの汗拭きを松陰に贈っています。これに対して松陰は、「箱根山 越すとき汗の 出でやせん 気の思ひを ふき清めてん」の歌と「一声を いかで忘れん 郭公(ほととぎす)」の句を久子に贈りました。こうした素直な気持ちを詠んだものがあれば、やはり2人の間には秘められた感情があったのかもしれません。
    しかし、2人とも感情を押し殺したのです。久子は、松陰の志の邪魔をしないように身を引いたのではないでしょうか?松陰は禁欲的なストイックな生き方をしていた人物であり、投獄を勉学に励むチャンスと捉えた状況下で堕落の道に走らせることに罪悪感を募らせたはずです。

  • 萩 野山獄跡<br />松陰の教育者としての真骨頂は、野山獄時代にありと説く教育者もいます。そんな聖職の礎とも言える松陰が何故野山獄にいたかと言えば、国禁を犯して海外に遊学しようと密航を画策したためです。遊学の目的は、敵を知り己を知るために5大州を駆け巡るためでした。しかし、時代は鎖国、国禁を犯せば重罪です。松陰は、ペリー再来航の際、下田沖に停泊中の軍艦に乗り込み、米国への渡航を懇願するも、残念ながら願いは届かず送り返されました。遊学の志を断たれた松陰はその足で自首し、暫く江戸伝馬町の獄に投じられるも、やがて萩に戻されて野山獄に入獄しました。<br />普通なら、罪人として獄に繋がれれば、生きる望みを失います。しかし、松陰は、このピンチをチャンスと捉えて学問に励みました。ペリーを説得できなかったのは学問不足のためと考え、兄や友人に頼んで本を届けてもらい、広い範囲を学びました。その範囲は兵学に留まらず、歴史や地理、伝記、医学、政治、道徳などに及びました。そして学んだことを獄囚たちに教え、時には彼らから学びました。松陰が投獄されていたのは1年2ヶ月間でしたが、その間に618冊、月平均40冊のペースで読破しました。それでも、兄や友人に宛てた手紙には、浅学を嘆き、悔し涙することが多いと認めています。何と言う学問への情熱でしょう。また、松陰は、ただ読むだけではなく、重要と感じた箇所は必ず書き留め、その意味するところを考え抜きました。古人の教えを学びながら、現在の時代に生かす方法を常に模索していたのです。現実から離れて真の学問はないと考えたからです。

    萩 野山獄跡
    松陰の教育者としての真骨頂は、野山獄時代にありと説く教育者もいます。そんな聖職の礎とも言える松陰が何故野山獄にいたかと言えば、国禁を犯して海外に遊学しようと密航を画策したためです。遊学の目的は、敵を知り己を知るために5大州を駆け巡るためでした。しかし、時代は鎖国、国禁を犯せば重罪です。松陰は、ペリー再来航の際、下田沖に停泊中の軍艦に乗り込み、米国への渡航を懇願するも、残念ながら願いは届かず送り返されました。遊学の志を断たれた松陰はその足で自首し、暫く江戸伝馬町の獄に投じられるも、やがて萩に戻されて野山獄に入獄しました。
    普通なら、罪人として獄に繋がれれば、生きる望みを失います。しかし、松陰は、このピンチをチャンスと捉えて学問に励みました。ペリーを説得できなかったのは学問不足のためと考え、兄や友人に頼んで本を届けてもらい、広い範囲を学びました。その範囲は兵学に留まらず、歴史や地理、伝記、医学、政治、道徳などに及びました。そして学んだことを獄囚たちに教え、時には彼らから学びました。松陰が投獄されていたのは1年2ヶ月間でしたが、その間に618冊、月平均40冊のペースで読破しました。それでも、兄や友人に宛てた手紙には、浅学を嘆き、悔し涙することが多いと認めています。何と言う学問への情熱でしょう。また、松陰は、ただ読むだけではなく、重要と感じた箇所は必ず書き留め、その意味するところを考え抜きました。古人の教えを学びながら、現在の時代に生かす方法を常に模索していたのです。現実から離れて真の学問はないと考えたからです。

  • 萩 岩倉獄跡<br />常念寺筋を挟んで対峙する2つの牢獄名については、それなりの由来があります。<br />1645(正保2)年、9月17日の夜のこと。長州藩士 岩倉孫兵衛は、酒に酔って道を隔てた西隣の長州藩士 野山六右衛門の家に斬り込んで家族を殺傷したのです。これを知った藩は、野山宅に岩倉を幽閉し、後に斬処分としました。しかし、喧嘩両成敗ということで、その後両家取潰しの上、両家跡を牢獄にしました。<br />野山獄を武士が入牢する上牢、岩倉獄を庶民が入牢する下牢としたのは、斬り込んだ岩倉側に非があるため、位を低くするとの大岡裁きだったようです。<br />岩倉獄は下牢ということもあり、入牢した者への扱いもひどく、萩への移送の途中で体調を崩した金子重之輔も充分な手当を受けられずに1年足らずで獄死しています。享年25歳だった重之輔の死に松陰はひどく悲しんだそうです。

    萩 岩倉獄跡
    常念寺筋を挟んで対峙する2つの牢獄名については、それなりの由来があります。
    1645(正保2)年、9月17日の夜のこと。長州藩士 岩倉孫兵衛は、酒に酔って道を隔てた西隣の長州藩士 野山六右衛門の家に斬り込んで家族を殺傷したのです。これを知った藩は、野山宅に岩倉を幽閉し、後に斬処分としました。しかし、喧嘩両成敗ということで、その後両家取潰しの上、両家跡を牢獄にしました。
    野山獄を武士が入牢する上牢、岩倉獄を庶民が入牢する下牢としたのは、斬り込んだ岩倉側に非があるため、位を低くするとの大岡裁きだったようです。
    岩倉獄は下牢ということもあり、入牢した者への扱いもひどく、萩への移送の途中で体調を崩した金子重之輔も充分な手当を受けられずに1年足らずで獄死しています。享年25歳だった重之輔の死に松陰はひどく悲しんだそうです。

  • 萩 岩倉獄跡<br />第26代内閣総理大臣 田中義一の揮毫となる「金子重輔君絶命之處」の石碑が立てられています。

    萩 岩倉獄跡
    第26代内閣総理大臣 田中義一の揮毫となる「金子重輔君絶命之處」の石碑が立てられています。

  • 萩 萩心海<br />活魚料理一筋のお店です。大きな白い灯台が目印です。<br />店内にある大きな生簀は県下最大級で、イカ、おこぜ、鯵、鯖、平目等々、旬の魚介が泳ぎ、新鮮な魚介類をいただくことができます。注文を受けてからさばくので、活きいか定食やその日に獲れた魚の新鮮な刺身、ウニなどが人気です。<br />正直なところ、HPのメニューを見ると結構いいお値段ですが、実は裏メニューがあるそうです。「1000円定食」と言います。以前は、ランチ限定だったようですが、現在は昼夜OKのようです。ダメ元で注文されてみてはどうでしょうか?<br />因みに、NHKドラマ「はじまりの歌」で松本潤さんが同級生たちと一緒にご飯を食べていたのがこのお店です。ロケの時は、ここの交差点はとんでもない人だかりだったそうです。<br />お店のHPです。<br />http://www.hagishinkai.com/

    萩 萩心海
    活魚料理一筋のお店です。大きな白い灯台が目印です。
    店内にある大きな生簀は県下最大級で、イカ、おこぜ、鯵、鯖、平目等々、旬の魚介が泳ぎ、新鮮な魚介類をいただくことができます。注文を受けてからさばくので、活きいか定食やその日に獲れた魚の新鮮な刺身、ウニなどが人気です。
    正直なところ、HPのメニューを見ると結構いいお値段ですが、実は裏メニューがあるそうです。「1000円定食」と言います。以前は、ランチ限定だったようですが、現在は昼夜OKのようです。ダメ元で注文されてみてはどうでしょうか?
    因みに、NHKドラマ「はじまりの歌」で松本潤さんが同級生たちと一緒にご飯を食べていたのがこのお店です。ロケの時は、ここの交差点はとんでもない人だかりだったそうです。
    お店のHPです。
    http://www.hagishinkai.com/

  • 萩城の復元模型<br />JR東萩駅の駅前広場には、今はなき萩城天守閣の1/6スケールの復元模型があります。<br />萩城は、中国の大名 毛利家14代の居城でした。標高143mの指月山の山麓に本丸が築かれたことから指月城とも呼ばれ、幕末の維新志士たちの故郷とも言え、「日本百名城(75番)」に数えられています。<br />かつては高さ14.4m、下層は東西19.8m、南北16.2m、5層5階の白亜の天守閣が聳え立っていました。敗軍の将の城ゆえか、江戸幕府成立後に建てられたにも関わらず、敢えて戦時を意識した守り重視の造りが随所に見られたそうです。これも幕府への恨みから発したあてつけだったのかもしれませんが、何時の日か再び徳川家と刃を交えようという気概ゆえの沙汰だったのでしょう。<br />よく見ると4重6階の桃山風南蛮造の岩国城の姿に似ていないでも!?

    萩城の復元模型
    JR東萩駅の駅前広場には、今はなき萩城天守閣の1/6スケールの復元模型があります。
    萩城は、中国の大名 毛利家14代の居城でした。標高143mの指月山の山麓に本丸が築かれたことから指月城とも呼ばれ、幕末の維新志士たちの故郷とも言え、「日本百名城(75番)」に数えられています。
    かつては高さ14.4m、下層は東西19.8m、南北16.2m、5層5階の白亜の天守閣が聳え立っていました。敗軍の将の城ゆえか、江戸幕府成立後に建てられたにも関わらず、敢えて戦時を意識した守り重視の造りが随所に見られたそうです。これも幕府への恨みから発したあてつけだったのかもしれませんが、何時の日か再び徳川家と刃を交えようという気概ゆえの沙汰だったのでしょう。
    よく見ると4重6階の桃山風南蛮造の岩国城の姿に似ていないでも!?

  • JR東萩駅<br />鉄道でのアクセスの拠点となるJR山陰本線 東萩駅です。<br />萩は、古い町並みが魅力ですが、その歴史は意外に浅く、関ヶ原の戦い以後に発達した新興都市です。通常、大きな藩の場合、藩主の居館所在地が県庁所在地になりますが、萩は毛利氏36万石の中心地だったにもかかわらず、県庁所在地になりそこねています。これは、幕末に藩主が交通の要衝である山口に突然引っ越してしまったからです。<br />毛利氏は、かつては中国地方を領有する大名で、本拠地は広島県にありました。しかし、関ヶ原の戦いの敗北で領地の大部分を没収され、寂れた未開地の萩に封印されました。やがて幕末に幕府の力が衰えてきたのを察知し、幕府に無断で藩庁を萩から山口に移転したのです。山口城(政事堂))という庁舎を造り、藩主も移住しました。萩では国内外の激動に対処するには不便だというのが表向きの理由でした。往時の長州藩は、各地で政治活動に手を染め、公然と幕府に敵対していたため、積年の悲願だった山口遷都を強行できたのです。<br />毛利家の人々にとっては、萩は屈辱の仮住まいであり続けたのかもしれません。明治維新後、こうして萩は歴史の表舞台から外され、日本海側の小さな町として昔ながらの姿で息を潜めていました。そのために近年観光地として突如脚光を浴びることになったのです。

    JR東萩駅
    鉄道でのアクセスの拠点となるJR山陰本線 東萩駅です。
    萩は、古い町並みが魅力ですが、その歴史は意外に浅く、関ヶ原の戦い以後に発達した新興都市です。通常、大きな藩の場合、藩主の居館所在地が県庁所在地になりますが、萩は毛利氏36万石の中心地だったにもかかわらず、県庁所在地になりそこねています。これは、幕末に藩主が交通の要衝である山口に突然引っ越してしまったからです。
    毛利氏は、かつては中国地方を領有する大名で、本拠地は広島県にありました。しかし、関ヶ原の戦いの敗北で領地の大部分を没収され、寂れた未開地の萩に封印されました。やがて幕末に幕府の力が衰えてきたのを察知し、幕府に無断で藩庁を萩から山口に移転したのです。山口城(政事堂))という庁舎を造り、藩主も移住しました。萩では国内外の激動に対処するには不便だというのが表向きの理由でした。往時の長州藩は、各地で政治活動に手を染め、公然と幕府に敵対していたため、積年の悲願だった山口遷都を強行できたのです。
    毛利家の人々にとっては、萩は屈辱の仮住まいであり続けたのかもしれません。明治維新後、こうして萩は歴史の表舞台から外され、日本海側の小さな町として昔ながらの姿で息を潜めていました。そのために近年観光地として突如脚光を浴びることになったのです。

  • 萩グランドホテル天空<br />今回お世話になったホテルです。温泉は、自家源泉「萩温泉 弘法寺の湯」です。<br />「はぎ温泉」「萩本陣温泉」「萩指月温泉」などと合わせて「萩温泉郷」のひとつとして親しまれています。お肌がしっとりする保湿効果と、ややぬるめながら体を芯から温める保温効果の高い泉質が特徴です。<br />泉質は、カルシウム・ナトリウム・塩化物冷鉱泉。効能は、やけど、切り傷、慢性皮膚病、慢性婦人病、慢性消化器病など。

    萩グランドホテル天空
    今回お世話になったホテルです。温泉は、自家源泉「萩温泉 弘法寺の湯」です。
    「はぎ温泉」「萩本陣温泉」「萩指月温泉」などと合わせて「萩温泉郷」のひとつとして親しまれています。お肌がしっとりする保湿効果と、ややぬるめながら体を芯から温める保温効果の高い泉質が特徴です。
    泉質は、カルシウム・ナトリウム・塩化物冷鉱泉。効能は、やけど、切り傷、慢性皮膚病、慢性婦人病、慢性消化器病など。

  • 萩グランドホテル天空<br />あまり知られていませんが、このホテルの土産店では長州屋光國製菓本舗「夏蜜柑丸漬」が販売されています。光圀本店の分家です。ダメ元でホテルの売店で聞いてみた所、ラッキーにも3個残っていました。長州屋光圀はホテルと道を挟んで向かい合っており、多少融通してもらっているようです。<br />因みに、長州屋光圀は17:00閉店です。

    萩グランドホテル天空
    あまり知られていませんが、このホテルの土産店では長州屋光國製菓本舗「夏蜜柑丸漬」が販売されています。光圀本店の分家です。ダメ元でホテルの売店で聞いてみた所、ラッキーにも3個残っていました。長州屋光圀はホテルと道を挟んで向かい合っており、多少融通してもらっているようです。
    因みに、長州屋光圀は17:00閉店です。

  • 長州屋光國製菓本舗「夏蜜柑丸漬」<br />大正5年に3代目光國義太郎により創製されて以来、総工程に5日間かけ、伝統の製法をそのままに全て熟練の技による手作業をされています。夏蜜柑の皮に含まれる風味とほろ苦さはそのままに、その上品な甘さで全国にファンを持つ逸品です。皮を漬ける蜜は大正5年の創製から継ぎ足し使っているうちに、エキスが混ざって独特の旨味を生み出しています。お茶やコーヒーはもちろん、洋酒との相性も抜群だそうです。<br />ご近所用ですので中身はお見せできません。

    長州屋光國製菓本舗「夏蜜柑丸漬」
    大正5年に3代目光國義太郎により創製されて以来、総工程に5日間かけ、伝統の製法をそのままに全て熟練の技による手作業をされています。夏蜜柑の皮に含まれる風味とほろ苦さはそのままに、その上品な甘さで全国にファンを持つ逸品です。皮を漬ける蜜は大正5年の創製から継ぎ足し使っているうちに、エキスが混ざって独特の旨味を生み出しています。お茶やコーヒーはもちろん、洋酒との相性も抜群だそうです。
    ご近所用ですので中身はお見せできません。

  • 萩グランドホテル天空<br />夕食は「ふく会席  丙辰丸」です。<br />詳細は、お品書きを参照してください。唐揚げなどは、後から出てきます。

    萩グランドホテル天空
    夕食は「ふく会席 丙辰丸」です。
    詳細は、お品書きを参照してください。唐揚げなどは、後から出てきます。

  • 萩 平安橋<br />ご覧のようにまだ夜明け前です。天気も優れず、東に山を擁するため、萩の夜明けは遅いそうです。きれいな夕日が拝めたので今日の天候は大丈夫と油断していたら、朝方まで雨が降っていました。日頃の行いが祟ったのかもしれません。<br />早朝にホテルのレンタサイクルで城下町を巡る予定でしたが、ここでハプニング発生です。レンタサイクルにはライトが装着されておらず、明るくなるまでは貸せないそうです。市の条例のようですが、それなら何故レンタサイクルにライトを付けないのか?因みに、どこのレンタサイクルにもライトはありません。途中で日が暮れたら、降りて押して下さいとのスタンツです。観光都市「萩」の課題に直面した気分です。ホテルに時間を指定して予約した時には、先着順と言われただけでしたのでショックです。タクシー利用の選択肢もありましたが、雨も止み、時間的にも余裕があったので徒歩で巡ることにしました。6km強の道程です。<br /><br />ひたすら20分間黙々と歩いて到着したのが、第一ポイントの平安橋です。<br />かつて萩城三の丸への入口となる三つの門がありましたが、そのひとつの南総門(平安古の総門)前にある外堀に架けられた橋です。各総門には門番が常駐し、厳しく出入りを規制していたそうです。<br />この橋は玄武岩で造られており、吊り桁・定着桁を備えたゲルバー桁(片持ち梁)構造で、全長6m、幅4m、堀底からの高さは2.5mあります。この橋以外にも石橋が架けられていたそうですが、現存するのはこの橋だけです。<br />現在の橋が架けられたのは明和年間(1764〜72年)とされ、1652(慶安5)年製の城下町絵図では木橋が描かれています。つまり、外堀が完成した時に木橋が架けられ、その後石橋に架け替えられたようです。<br />1962年、市の文化財に指定されています。

    萩 平安橋
    ご覧のようにまだ夜明け前です。天気も優れず、東に山を擁するため、萩の夜明けは遅いそうです。きれいな夕日が拝めたので今日の天候は大丈夫と油断していたら、朝方まで雨が降っていました。日頃の行いが祟ったのかもしれません。
    早朝にホテルのレンタサイクルで城下町を巡る予定でしたが、ここでハプニング発生です。レンタサイクルにはライトが装着されておらず、明るくなるまでは貸せないそうです。市の条例のようですが、それなら何故レンタサイクルにライトを付けないのか?因みに、どこのレンタサイクルにもライトはありません。途中で日が暮れたら、降りて押して下さいとのスタンツです。観光都市「萩」の課題に直面した気分です。ホテルに時間を指定して予約した時には、先着順と言われただけでしたのでショックです。タクシー利用の選択肢もありましたが、雨も止み、時間的にも余裕があったので徒歩で巡ることにしました。6km強の道程です。

    ひたすら20分間黙々と歩いて到着したのが、第一ポイントの平安橋です。
    かつて萩城三の丸への入口となる三つの門がありましたが、そのひとつの南総門(平安古の総門)前にある外堀に架けられた橋です。各総門には門番が常駐し、厳しく出入りを規制していたそうです。
    この橋は玄武岩で造られており、吊り桁・定着桁を備えたゲルバー桁(片持ち梁)構造で、全長6m、幅4m、堀底からの高さは2.5mあります。この橋以外にも石橋が架けられていたそうですが、現存するのはこの橋だけです。
    現在の橋が架けられたのは明和年間(1764〜72年)とされ、1652(慶安5)年製の城下町絵図では木橋が描かれています。つまり、外堀が完成した時に木橋が架けられ、その後石橋に架け替えられたようです。
    1962年、市の文化財に指定されています。

  • 萩 旧明倫館跡<br />平安橋のすぐ先を左折し、長い一本道の追廻し筋に入ります。その名の通り、城内に侵入した不審者のような気分に浸れます。暫く進むと右手に石垣が現れ、その先に忽然と石碑が現れます。この空き地が、5代藩主 吉元が開いた旧明倫館跡です。<br />11歳の吉田松陰が、13代藩主 敬親の面前で「武教全書」戦法篇三戦の講義をしたのもここです。明倫館は、1849(嘉永2)年に江向に移転拡張しました。<br /><br />毛利家は、大江匡房や広元を祖とする家柄であり、伝統的に学問を重んじました。5代藩主 毛利吉元によって1719(享保4)年に創建された藩校「明倫館」は、江戸時代末期に270余を数えた藩校のうち12番目に設立され、旧明倫館は、940坪の敷地内に孔子、孟子などの木主を納めた大成殿を中心に配置され、左右に剣術場、槍術場、砲術場などの武道場が館の外周を形成していました。吉元は、明倫館初代学頭の小倉尚斎と共に幕府大学頭 林家の私塾「昌平黌」に学んだ林家朱子学の正系であり、藩学の構造も教育内容、儀式等共に多くが湯島の聖堂を模範としていました。<br />「明倫館」の名は、 往時の侍講で2代目学頭となった山県周南の命名です。出典は『孟子』の滕文公編の三章にある「上に立つものが教育の力によって人間の道を明らかにして教え導けば、人民はみなそれに感化されて互いに親しみあい国は大いに治まる(皆、人倫を明らかにする所以なり)」を引用したと伝えられています。

    萩 旧明倫館跡
    平安橋のすぐ先を左折し、長い一本道の追廻し筋に入ります。その名の通り、城内に侵入した不審者のような気分に浸れます。暫く進むと右手に石垣が現れ、その先に忽然と石碑が現れます。この空き地が、5代藩主 吉元が開いた旧明倫館跡です。
    11歳の吉田松陰が、13代藩主 敬親の面前で「武教全書」戦法篇三戦の講義をしたのもここです。明倫館は、1849(嘉永2)年に江向に移転拡張しました。

    毛利家は、大江匡房や広元を祖とする家柄であり、伝統的に学問を重んじました。5代藩主 毛利吉元によって1719(享保4)年に創建された藩校「明倫館」は、江戸時代末期に270余を数えた藩校のうち12番目に設立され、旧明倫館は、940坪の敷地内に孔子、孟子などの木主を納めた大成殿を中心に配置され、左右に剣術場、槍術場、砲術場などの武道場が館の外周を形成していました。吉元は、明倫館初代学頭の小倉尚斎と共に幕府大学頭 林家の私塾「昌平黌」に学んだ林家朱子学の正系であり、藩学の構造も教育内容、儀式等共に多くが湯島の聖堂を模範としていました。
    「明倫館」の名は、 往時の侍講で2代目学頭となった山県周南の命名です。出典は『孟子』の滕文公編の三章にある「上に立つものが教育の力によって人間の道を明らかにして教え導けば、人民はみなそれに感化されて互いに親しみあい国は大いに治まる(皆、人倫を明らかにする所以なり)」を引用したと伝えられています。

  • 萩 堀内鍵曲(かいまがり)<br />追廻し筋をどんどん進むと鍵曲が次第にその全貌を顕にします。両脇を高い土塀で囲み、道をクランク状に直角に曲げた独特の道筋です。道が鍵の手に曲がっているため、一見袋小路に入り込んだような錯覚に陥ります。また、一部の土塀には瓦が塗り込められ、その幾何学模様の妙は趣があります。<br />この堀内地区は、旧萩城三の丸に当たります。毛利輝元が1608(慶長13)年に指月山に城を完成させ、町割を実施したことに始まり、藩の諸役所や毛利一門、永代家老、寄組といった大身の武家屋敷が建ち並ぶ地域でした。この鍵曲は、武家屋敷を警護するのに重要な役目を担っていたようです。

    萩 堀内鍵曲(かいまがり)
    追廻し筋をどんどん進むと鍵曲が次第にその全貌を顕にします。両脇を高い土塀で囲み、道をクランク状に直角に曲げた独特の道筋です。道が鍵の手に曲がっているため、一見袋小路に入り込んだような錯覚に陥ります。また、一部の土塀には瓦が塗り込められ、その幾何学模様の妙は趣があります。
    この堀内地区は、旧萩城三の丸に当たります。毛利輝元が1608(慶長13)年に指月山に城を完成させ、町割を実施したことに始まり、藩の諸役所や毛利一門、永代家老、寄組といった大身の武家屋敷が建ち並ぶ地域でした。この鍵曲は、武家屋敷を警護するのに重要な役目を担っていたようです。

  • 萩 堀内鍵曲<br />不思議な構造の筋ですが、これは外敵の侵入を防ぐためや侵入者を追い詰めるための城下町特有のトリッキーな道です。道をクランク状にすることで、敵の見通しが利かないようにしています。まるで迷路あるいは袋小路に迷い込んだようで、別名「追廻し筋」とも呼ばれます。<br />鍵曲は、萩市内ではここ堀内と隣の平安古地区に2ヶ所残されていますが、未舗装のまま遺されているのは堀内鍵曲だけです。また、地元の方が「ダイダイ」と呼ぶ萩の代名詞の夏みかんがよく見えるのも堀内の方です。

    萩 堀内鍵曲
    不思議な構造の筋ですが、これは外敵の侵入を防ぐためや侵入者を追い詰めるための城下町特有のトリッキーな道です。道をクランク状にすることで、敵の見通しが利かないようにしています。まるで迷路あるいは袋小路に迷い込んだようで、別名「追廻し筋」とも呼ばれます。
    鍵曲は、萩市内ではここ堀内と隣の平安古地区に2ヶ所残されていますが、未舗装のまま遺されているのは堀内鍵曲だけです。また、地元の方が「ダイダイ」と呼ぶ萩の代名詞の夏みかんがよく見えるのも堀内の方です。

  • 萩 堀内鍵曲<br />武家屋敷があった地区のため、周囲の雰囲気もどことなく品格があり、閑静な散策路となっています。かつて回りを取り囲んでいた武家屋敷は今は影も形もなく、その広大な敷地は夏みかん畑に変えられています。<br />明治維新後、録を失った士族の生活を支えるため、必要最小限の家屋以外は取り壊され、代わりに夏みかんが植えられたそうです。

    萩 堀内鍵曲
    武家屋敷があった地区のため、周囲の雰囲気もどことなく品格があり、閑静な散策路となっています。かつて回りを取り囲んでいた武家屋敷は今は影も形もなく、その広大な敷地は夏みかん畑に変えられています。
    明治維新後、録を失った士族の生活を支えるため、必要最小限の家屋以外は取り壊され、代わりに夏みかんが植えられたそうです。

  • 萩 堀内鍵曲<br />昔のままの萩らしい風情を湛えた静寂感溢れる散策路です。<br />堀内地区は、伝統的な街並を保存する地区に選ばれ、家の門や塀を改修するのにも教育委員会への申請が必要だそうです。おかげで観光客は400年前にタイムスリップして往時の街並みを目の当たりにできるのですが、この景観を保存するのは本当に大変なことだろうと頭が下がります。

    萩 堀内鍵曲
    昔のままの萩らしい風情を湛えた静寂感溢れる散策路です。
    堀内地区は、伝統的な街並を保存する地区に選ばれ、家の門や塀を改修するのにも教育委員会への申請が必要だそうです。おかげで観光客は400年前にタイムスリップして往時の街並みを目の当たりにできるのですが、この景観を保存するのは本当に大変なことだろうと頭が下がります。

  • 萩 堀内鍵曲<br />鍵曲を反対側から撮影したものです。<br />NHK大河ドラマ『花燃ゆ』の撮影にも使われ、第1話の文の幼少期、明倫館への道程のシーンに幾度となく登場していました。ですから、この風景を見て懐かしく思われる方もおられるかもしれません。<br />

    萩 堀内鍵曲
    鍵曲を反対側から撮影したものです。
    NHK大河ドラマ『花燃ゆ』の撮影にも使われ、第1話の文の幼少期、明倫館への道程のシーンに幾度となく登場していました。ですから、この風景を見て懐かしく思われる方もおられるかもしれません。

  • 萩 堀内鍵曲<br />剥げ落ちた土塀が、栄枯盛衰を黙して語ってくれます。<br />主を失った土塀は自然に朽ち果て、崩れた土塀の間から、以前は屋敷内を飾っていたであろう楠が何事もなかったかのように顔を覗かせています。<br />

    萩 堀内鍵曲
    剥げ落ちた土塀が、栄枯盛衰を黙して語ってくれます。
    主を失った土塀は自然に朽ち果て、崩れた土塀の間から、以前は屋敷内を飾っていたであろう楠が何事もなかったかのように顔を覗かせています。

  • 萩 口羽家邸宅(重文)<br />上級武士の中でも永代家老に次ぐ家柄の萩藩寄組士 口羽家の堂々たる邸宅です。萩城下に残る上級武士の屋敷としては歴史が古く、かつ全国的にも比較的数の少ない武家屋敷の主屋と門がセットで保存されている貴重な建物です。主屋と表門が国の重要文化財に指定されています。<br />表門は、入母屋造、本瓦葺に出格子が特徴で、白壁と腰壁の海鼠壁のコントラストが美しく、萩に現存する最大規模の長屋門です。江戸藩邸の門を拝領し、萩の地に移築したものと伝えられています。この門の左側は馬屋となっており、ここから追廻し筋や三本桜のある馬場へと馬を走らせたそうです。

    萩 口羽家邸宅(重文)
    上級武士の中でも永代家老に次ぐ家柄の萩藩寄組士 口羽家の堂々たる邸宅です。萩城下に残る上級武士の屋敷としては歴史が古く、かつ全国的にも比較的数の少ない武家屋敷の主屋と門がセットで保存されている貴重な建物です。主屋と表門が国の重要文化財に指定されています。
    表門は、入母屋造、本瓦葺に出格子が特徴で、白壁と腰壁の海鼠壁のコントラストが美しく、萩に現存する最大規模の長屋門です。江戸藩邸の門を拝領し、萩の地に移築したものと伝えられています。この門の左側は馬屋となっており、ここから追廻し筋や三本桜のある馬場へと馬を走らせたそうです。

  • 萩 江風山月書樓(こうふうさんげつしょろう)跡<br />1798(寛政10)年に建造された萩藩主の別邸のひとつです。<br />川手御殿や花江御殿とも呼ばれていました。幕末には13代藩主 毛利敬親が重臣たちを邸内の茶室「花江茶亭」に集め、藩政について話し合ったという重要な場所でした。その後、1868(明治元)年に民有となり、花江茶亭は1889(明治22)年に萩出身の政治家 品川弥二郎らによって買い取られ、萩城跡の指月公園内に移築されています。現在ここには、門や座敷の一部だけが残されています。

    萩 江風山月書樓(こうふうさんげつしょろう)跡
    1798(寛政10)年に建造された萩藩主の別邸のひとつです。
    川手御殿や花江御殿とも呼ばれていました。幕末には13代藩主 毛利敬親が重臣たちを邸内の茶室「花江茶亭」に集め、藩政について話し合ったという重要な場所でした。その後、1868(明治元)年に民有となり、花江茶亭は1889(明治22)年に萩出身の政治家 品川弥二郎らによって買い取られ、萩城跡の指月公園内に移築されています。現在ここには、門や座敷の一部だけが残されています。

  • 萩 江風山月書樓跡<br />敬親は、農民の苦労を知るため、自ら城内で稲作を行なったと言われています。また、年齢を問わず有能な人材を登用し、僅か11歳の松陰を明倫館に呼んで山鹿流兵学をはじめとする「武教全書」戦法篇三戦の講義をさせています。更には、茶室「花江茶亭」では、身分の隔てなく様々な人たちと茶を点てたそうです。このように人々の声に傾聴した藩主の下ゆえ、藩の志士たちは明治維新へと突き進んで行く原動力となったのです。

    萩 江風山月書樓跡
    敬親は、農民の苦労を知るため、自ら城内で稲作を行なったと言われています。また、年齢を問わず有能な人材を登用し、僅か11歳の松陰を明倫館に呼んで山鹿流兵学をはじめとする「武教全書」戦法篇三戦の講義をさせています。更には、茶室「花江茶亭」では、身分の隔てなく様々な人たちと茶を点てたそうです。このように人々の声に傾聴した藩主の下ゆえ、藩の志士たちは明治維新へと突き進んで行く原動力となったのです。

  • 萩 常盤島<br />江風山月書樓跡の西端は橋本川に面し、その中洲となる常盤島には松が植えられ、別邸からの眺めに彩りを添えると共に、対岸からの目隠しにもなったと言われています。<br />この辺りから玉江浦の観音院方向を眺める景色は、江戸時代から玉江の秋月と称され、萩八景のひとつに数えられています。

    萩 常盤島
    江風山月書樓跡の西端は橋本川に面し、その中洲となる常盤島には松が植えられ、別邸からの眺めに彩りを添えると共に、対岸からの目隠しにもなったと言われています。
    この辺りから玉江浦の観音院方向を眺める景色は、江戸時代から玉江の秋月と称され、萩八景のひとつに数えられています。

  • 萩 指月橋<br />ここに萩八景遊覧船乗り場があります。40分ほどかけて水の都「萩」の景観を水辺から遊覧する趣向です。<br />遊覧コースは、萩城跡横の指月橋を始点に、お城の疎水を通り、常盤島経由で橋本川本流に入り、堀内伝建地区内・平安古伝建地区内の武家屋敷群を川から眺めるという往復ルートです。<br />HISの割引クーポンです。<br />http://his-coupon.com/ja/shop_8990290.html

    萩 指月橋
    ここに萩八景遊覧船乗り場があります。40分ほどかけて水の都「萩」の景観を水辺から遊覧する趣向です。
    遊覧コースは、萩城跡横の指月橋を始点に、お城の疎水を通り、常盤島経由で橋本川本流に入り、堀内伝建地区内・平安古伝建地区内の武家屋敷群を川から眺めるという往復ルートです。
    HISの割引クーポンです。
    http://his-coupon.com/ja/shop_8990290.html

  • 萩 旧厚狭毛利家(あさもうりけ)萩屋敷長屋(重文)<br />1856(安政3)年に建築された厚狭毛利家の長屋です。<br />本瓦葺、一重入母屋造で全長51mあり、萩に現存する武家屋敷の中では最大規模を誇ります。19室ある部屋数は毛利一門の栄華を偲ばせ、身分の高い者の詰所だったことが窺われます。 <br />毛利藩には「一門六家」なる制度があり、藩主以外の元就の子孫たちが代々家老職に就きました。厚狭毛利家は、その六家家老のひとつで、かつては「四本松毛利家」とも呼ばれました。元就の5男 元秋を祖とし、毛利氏の萩への移封後、厚狭に知行地を与えられ居館を構えたことがこの名の由来です。<br />萩屋敷は4700坪の広大な敷地を擁しましたが、主屋などは解体され、この長屋のみが残されています。萩市内には武家屋敷の長屋や長屋門がいくつか残されていますが、いずれも江戸時代末期のものです。その中でも、この長屋は建築年代のはっきりした貴重なものです。

    萩 旧厚狭毛利家(あさもうりけ)萩屋敷長屋(重文)
    1856(安政3)年に建築された厚狭毛利家の長屋です。
    本瓦葺、一重入母屋造で全長51mあり、萩に現存する武家屋敷の中では最大規模を誇ります。19室ある部屋数は毛利一門の栄華を偲ばせ、身分の高い者の詰所だったことが窺われます。
    毛利藩には「一門六家」なる制度があり、藩主以外の元就の子孫たちが代々家老職に就きました。厚狭毛利家は、その六家家老のひとつで、かつては「四本松毛利家」とも呼ばれました。元就の5男 元秋を祖とし、毛利氏の萩への移封後、厚狭に知行地を与えられ居館を構えたことがこの名の由来です。
    萩屋敷は4700坪の広大な敷地を擁しましたが、主屋などは解体され、この長屋のみが残されています。萩市内には武家屋敷の長屋や長屋門がいくつか残されていますが、いずれも江戸時代末期のものです。その中でも、この長屋は建築年代のはっきりした貴重なものです。

  • 萩 萩城二の丸南門<br />菊ヶ浜から見ると防波堤のようにも見えるのが萩城跡です。何故こんな日本海の交通の便の悪い所にわざわざ築城したのか不思議でなりません。<br />調べてみると、江戸幕府の策略でこの地を指定されていたことが判りました。関ヶ原の戦いで西軍総大将に担がれた毛利輝元でしたが、毛利家自体、吉川広家が徳川家康に通じるなど一枚岩ではなく、結局たいした働きもできずに敗戦しました。大坂城籠城を断念して家康の本領安堵の約束を信じて帰国するも、その約束を反故にされ、家康は関ヶ原の戦いで毛利軍を封じ込めた吉川広家に周防・長門2国を与えて毛利家取潰しを図ります。毛利家の事を思って行動した広家にとっては晴天の霹靂であり、広家が毛利家存続に奔走し、かろうじて領主の地位だけは許されたのです。<br />この処遇に毛利家は渋々従ったものの、内心は家康への怒りと恨みが鬱積していました。故に、毛利家ではこの時の恨みを生涯忘れぬようにと、江戸時代を通して幕府のある江戸に足を向けて寝たと言われています。また、正月の儀式として「今年は徳川を討つべきか」と倒幕の機を窺っていたとも伝えられています。260年経っても忘れず、積年の恨みが爆発して倒幕へと駆り立てていったのです。<br />幕府から受けた侮辱はそれだけではなく、防長2国に大減封された輝元は、責任を負って家督を秀就に譲るも、広島城に代わる城を築くため規則通り3箇所の候補(山口、防府、萩)を申請すると、幕府は往時日本海の僻地と言われた萩を目ざとく指定。藩主以下屈辱の極みでした。幕府は、毛利家を警戒し、交通の便の悪い日本海側の萩を意図的に選んだのです。萩城は1604(慶長9)年に着工され、その4年後に完成しています。以後、毛利家14代の居城として機能し、幕末から明治維新にかけて長州藩が新しい時代の夜明けに向けて大きな役割を果たしていったのです。

    萩 萩城二の丸南門
    菊ヶ浜から見ると防波堤のようにも見えるのが萩城跡です。何故こんな日本海の交通の便の悪い所にわざわざ築城したのか不思議でなりません。
    調べてみると、江戸幕府の策略でこの地を指定されていたことが判りました。関ヶ原の戦いで西軍総大将に担がれた毛利輝元でしたが、毛利家自体、吉川広家が徳川家康に通じるなど一枚岩ではなく、結局たいした働きもできずに敗戦しました。大坂城籠城を断念して家康の本領安堵の約束を信じて帰国するも、その約束を反故にされ、家康は関ヶ原の戦いで毛利軍を封じ込めた吉川広家に周防・長門2国を与えて毛利家取潰しを図ります。毛利家の事を思って行動した広家にとっては晴天の霹靂であり、広家が毛利家存続に奔走し、かろうじて領主の地位だけは許されたのです。
    この処遇に毛利家は渋々従ったものの、内心は家康への怒りと恨みが鬱積していました。故に、毛利家ではこの時の恨みを生涯忘れぬようにと、江戸時代を通して幕府のある江戸に足を向けて寝たと言われています。また、正月の儀式として「今年は徳川を討つべきか」と倒幕の機を窺っていたとも伝えられています。260年経っても忘れず、積年の恨みが爆発して倒幕へと駆り立てていったのです。
    幕府から受けた侮辱はそれだけではなく、防長2国に大減封された輝元は、責任を負って家督を秀就に譲るも、広島城に代わる城を築くため規則通り3箇所の候補(山口、防府、萩)を申請すると、幕府は往時日本海の僻地と言われた萩を目ざとく指定。藩主以下屈辱の極みでした。幕府は、毛利家を警戒し、交通の便の悪い日本海側の萩を意図的に選んだのです。萩城は1604(慶長9)年に着工され、その4年後に完成しています。以後、毛利家14代の居城として機能し、幕末から明治維新にかけて長州藩が新しい時代の夜明けに向けて大きな役割を果たしていったのです。

  • 萩 毛利輝元像<br />二の丸南門に立つ毛利輝元像です。<br />中国地方の雄 毛利元就の孫に当たります。元就は、戦国末期には広島城を居城として中国地方一帯を治めるも、関ヶ原の戦いで敗北し、防長2国に大減封される憂き目をみました。その後、輝元が居城としてここ萩の地に萩城を築城しました。<br />しかしここ萩市では、毛利家を興隆させた元就ではなく、萩城を建てて城下町を発展させた藩祖 輝元が贔屓にされているようです。<br />台座の紋は、毛利家家紋「一文字に三つ星」です。毛利氏は、鎌倉幕府の名臣 大江広元の四男 季光を祖とする一族として知られ、この家紋は元は大江一族のものでした。大江氏が祖とする阿保親王が平城天皇の第一皇子で一品の位にあり、一品親王と称されていたことから、一品の文字を図案化したものです。<br />品を表す三つ星は、天文学で言うオリオン座の中央部に直列して輝く「三つ星」を図案化したものです。中国では、大将軍星・左将軍星・右将軍星で構成された「三武」や「将軍星」と呼ばれ、武人の象徴として信仰されています。<br />また、一文字の「一」は数の根源にして「かつ」と読まれ、「敵に勝つ」の意味が込められています。三星と併せて用いることで更に武威を高める狙いがあったと考えられています。

    萩 毛利輝元像
    二の丸南門に立つ毛利輝元像です。
    中国地方の雄 毛利元就の孫に当たります。元就は、戦国末期には広島城を居城として中国地方一帯を治めるも、関ヶ原の戦いで敗北し、防長2国に大減封される憂き目をみました。その後、輝元が居城としてここ萩の地に萩城を築城しました。
    しかしここ萩市では、毛利家を興隆させた元就ではなく、萩城を建てて城下町を発展させた藩祖 輝元が贔屓にされているようです。
    台座の紋は、毛利家家紋「一文字に三つ星」です。毛利氏は、鎌倉幕府の名臣 大江広元の四男 季光を祖とする一族として知られ、この家紋は元は大江一族のものでした。大江氏が祖とする阿保親王が平城天皇の第一皇子で一品の位にあり、一品親王と称されていたことから、一品の文字を図案化したものです。
    品を表す三つ星は、天文学で言うオリオン座の中央部に直列して輝く「三つ星」を図案化したものです。中国では、大将軍星・左将軍星・右将軍星で構成された「三武」や「将軍星」と呼ばれ、武人の象徴として信仰されています。
    また、一文字の「一」は数の根源にして「かつ」と読まれ、「敵に勝つ」の意味が込められています。三星と併せて用いることで更に武威を高める狙いがあったと考えられています。

  • 萩 萩城跡<br />萩城は、毛利家14代の居城で、標高143mの指月山の山麓に本丸が築かれたことから指月城とも呼ばれました。しかし、廃城令によって瞬く間に城は解体され、現在は礎石と台座のみを残すだけです。明治政府=長州政府でしたから、各地の城下町の住民に配慮して率先垂範を示したと評価されていますが、藩庁を山口に移した後でしたので未練はなかったのでしょう。しかし、こうした2度の裏切りを受けた城下町の住民の怨嗟は計り知れないものだったはずです。その後、萩の街は歴史の表舞台から消されてしまったのです。倒幕が成就したのも藩士たちの活躍と城下町の協力があってのことだったはずです。天の報いか、恩を仇で返した毛利氏は、明治政府の要人に就くことは叶いませんでした。明治維新が成功したら徳川に取って代われる、最悪全国の殿様のリーダーにはなれるとほくそ笑んでいたようですが、天皇親政のために出番は無かったのです。<br />左端が本丸の南西隅に築かれた天守閣のあった場所です。緩い勾配を持つ石垣が優美さを湛えています。

    萩 萩城跡
    萩城は、毛利家14代の居城で、標高143mの指月山の山麓に本丸が築かれたことから指月城とも呼ばれました。しかし、廃城令によって瞬く間に城は解体され、現在は礎石と台座のみを残すだけです。明治政府=長州政府でしたから、各地の城下町の住民に配慮して率先垂範を示したと評価されていますが、藩庁を山口に移した後でしたので未練はなかったのでしょう。しかし、こうした2度の裏切りを受けた城下町の住民の怨嗟は計り知れないものだったはずです。その後、萩の街は歴史の表舞台から消されてしまったのです。倒幕が成就したのも藩士たちの活躍と城下町の協力があってのことだったはずです。天の報いか、恩を仇で返した毛利氏は、明治政府の要人に就くことは叶いませんでした。明治維新が成功したら徳川に取って代われる、最悪全国の殿様のリーダーにはなれるとほくそ笑んでいたようですが、天皇親政のために出番は無かったのです。
    左端が本丸の南西隅に築かれた天守閣のあった場所です。緩い勾配を持つ石垣が優美さを湛えています。

  • 萩 萩城跡<br />堀には鯉が泳いでいるので、海水ではなく淡水のようです。海が近いので海水を引いてもよかったはずですが、海には干満があるからなのでしょうか?<br />陸から萩城を眺めると、背景に山を配置した優雅な平城ですが、裏手に回ると防御構造物に指月山を組込んだ、海岸の大要塞だったことが判ります。近世までは日本海や東シナ海の方が防衛上重要でしたから、海上からの侵攻を意識して築城するのは当然のことですが、日本の城ではあまり見かけない景観と言えます。

    萩 萩城跡
    堀には鯉が泳いでいるので、海水ではなく淡水のようです。海が近いので海水を引いてもよかったはずですが、海には干満があるからなのでしょうか?
    陸から萩城を眺めると、背景に山を配置した優雅な平城ですが、裏手に回ると防御構造物に指月山を組込んだ、海岸の大要塞だったことが判ります。近世までは日本海や東シナ海の方が防衛上重要でしたから、海上からの侵攻を意識して築城するのは当然のことですが、日本の城ではあまり見かけない景観と言えます。

  • 萩 萩城跡<br />指月山は、城の森として300年以上守られてきたが故に、日本でも稀に見る成熟した照葉樹林として国の天然記念物に指定されています。<br />

    萩 萩城跡
    指月山は、城の森として300年以上守られてきたが故に、日本でも稀に見る成熟した照葉樹林として国の天然記念物に指定されています。

  • 萩 熊谷美術館(重文)<br />1965(昭和40)年に、文化資料を保存及び公開することを目的として開館された美術館です。<br />萩藩の御用商人 熊谷家の土蔵3棟を改造し、雪舟三幅対など書画屏風類、茶道具類、装飾用品の他、文書資料約500点が展示されています。特に注目されているのが、4代五右衛門義比が長崎において親交のあったドイツ人医師シーボルトから贈られた英国製ピアノです。日本に残る最古のピアノとして有名です。<br />建物は、1768(明和5)年に建てられたもので、主屋・離れ・本蔵は国指定重要文化財です。<br /><br />この続きは、早春賦 西国放浪記④松陰神社にてお届けします。

    萩 熊谷美術館(重文)
    1965(昭和40)年に、文化資料を保存及び公開することを目的として開館された美術館です。
    萩藩の御用商人 熊谷家の土蔵3棟を改造し、雪舟三幅対など書画屏風類、茶道具類、装飾用品の他、文書資料約500点が展示されています。特に注目されているのが、4代五右衛門義比が長崎において親交のあったドイツ人医師シーボルトから贈られた英国製ピアノです。日本に残る最古のピアノとして有名です。
    建物は、1768(明和5)年に建てられたもので、主屋・離れ・本蔵は国指定重要文化財です。

    この続きは、早春賦 西国放浪記④松陰神社にてお届けします。

この旅行記のタグ

関連タグ

896いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP