2016/03/03 - 2016/03/05
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montsaintmichelさん
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萩城下町は二度目の訪問になりますので、今回はピンポイントで観光させていただきました。お目当ては、呉服町筋(御成道)に面し、菊屋横町と伊勢屋横町に挟まれて建つ「菊屋家住宅」 です。この季節には、古色を帯びた雛飾りを愛でることができます。
萩城下町には3本の小路があり、西から菊屋、伊勢屋、江戸屋横町と名が付けられています。碁盤目状に区割された狭い屋敷割の中、武家屋敷や町家が軒を連ね、城下町の情緒が満ちています。その中で、ひと際異彩を放つのが菊屋家住宅です。藩御用達の豪商 菊屋の名を戴く菊屋横町は、片側ほぼ全体が菊屋の土蔵と土塀という壮大さで、現存する江戸時代の建物としては国内最大の町家です。
屋敷内の主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟は国の重要文化財に指定され、極めて価値の高いお屋敷です。江戸時代は毛利家の御用商人で、食物、着物、更には武器までも取り扱っていました。
菊屋家のHPです。
http://www.kikuyake.com/
<1日目>
新大阪駅(新幹線)===福山駅---錦帯橋(昼食+散策)
---津和野(案内人と一緒に散策)---萩グランドホテル天空
<2日目>
萩グランドホテル天空---松陰神社(ボランティアの方と一緒に散策)
---旧萩藩校明倫館(同じ)---萩城下町(同じ)
---村田蒲鉾店(ショッピング)---海鮮村北長門(昼食)
---青海島(クルーズコース・島上陸コース・金子みすゞ記念館コースから選択)
---秋吉台---瑠璃光寺---湯本観光ホテル西京(オプション:大谷山荘宿泊)
<3日目>
湯本観光ホテル西京---宮島口===宮島(昼食+散策:3時間)===宮島口
---尾道===千光寺公園(ロープウェイ)---千光寺公園(山頂)
---福山駅(新幹線)===新大阪駅
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 観光バス 新幹線
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
PR
-
萩城下町 久坂玄瑞進撃像
尊皇攘夷の先頭に立った、若き久坂玄瑞の立像です。
2015年1月、城下町の近くにある「中央公園」の一角に建立されました。 吉田松陰から「防長年少第一流の才気ある男」と絶賛され、松陰の妹 文と結婚しました。松下村塾の双璧と称され、尊皇攘夷派を牽引して国事に奔走し、今から152年前の1864(元治元)年の禁門の変(蛤御門の変)にて25歳の生涯を閉じました。
銅像の高さは1.8m、台座を含めて3mあります。玄瑞の立像は、右手を上げて力強く東を指す勇ましくも凛々しい姿を切り取っています。 -
萩城下町
江戸屋横町のコーナーです。
一般的な萩城下町のレポは、前回訪問した時の旅行記を参照ください。
今回は、菊屋家にフォーカスしたレポになっています。
http://4travel.jp/travelogue/10797845 -
萩城下町 伊勢屋横町
初めて歩く伊勢屋横町からアプローチします。3本有名な筋があり、その真ん中の筋になります。
晋作広場の北側にある古民家です。
伊勢屋横町は呉服商の伊勢屋があった所ですが、伊勢屋は菊屋に吸収されて今はありません。また、松陰の妹 文(改名して美和)の再婚相手になった初代群馬県令 楫取素彦が12歳の時に養子入りした小田村伊之助の旧宅があった町筋でもあります。 -
萩城下町 伊勢屋横町
なかなか雰囲気のある小路です。
これといった史跡が存在しないためアピールする点も少ないのですが、どこも賑やかな萩観光地にあって静寂感が味わえる素晴らしい小路と言えます。
白壁塀が傷んでいるのが気になるところです。 -
萩城下町 伊勢屋横町
菊屋の東門です。
菊屋家の塀には「忍び返し」が張り巡らされています。泥棒よけとして尖った木や竹、クギなどを施した昔の防犯ツールです。
この左手後方には菊屋の庭園の敷地が広がっています。 -
萩城下町 菊屋家住宅(重文)
皇室をも招いたという白壁と連子が並んだ豪商菊屋は「萩城下町」のハイライトです。
菊屋家は摂津国(大阪)住吉大社の摂津守 国量朝臣を祖とし、中世期大内氏に随身して山口に住み、同氏滅亡後は武士を捨てて町人となりました。その頃、山口四十八町の惣町支配を勤め、1569(永禄12)年に大友宗燐の後押しで大内輝弘が山口に乱入した時は四十八町の人を連れ、高嶺城に籠った防戦に功があり、毛利元就から感状を授かっています。
また、毛利輝元が関ヶ原の戦いの直後、京都伏見から広島へ帰る路で金銭が不足していることを聞いて急場の難を救ったこともあります。この頃までは津守姓でしたが、後に石川姓と菊屋姓に改めています。
慶長9年(1604)輝元の萩入国に従って山口から萩に移り、城下の町造りに尽力して呉服町に屋敷を拝領しました。また、阿古ヶ浜に藩士や足軽衆のための惣固屋を建てて住まわせたため、阿古ヶ浜を菊ヶ浜と称するようになりました。その後、菊屋家は、代々大年寄格に任命され、藩の御用達を勤めました。また度々、御上使の本陣を命ぜられ、その他御究場所や恵民録役所等、時には藩の御用宅に借り上げられ、幕府巡見使の宿として本陣に当てられました。従って先祖代々「我家は私有であって然様でなし」と常に御用屋敷としての体面整備に配慮し、屋敷建物を大切に維持し てきたことから、全国でも最古に属する町家として重要文化財の指定を受けています。
現在の菊屋家住宅の当主は、山口大学教授 菊屋吉生氏です。 -
萩城下町 菊屋家住宅
500点余りの美術品、民具、古書籍等を保持し、往時の御用商人の暮らしぶりが窺われます。土蔵部分には長い海鼠壁が施されています。白と黒の碁盤目が斜めに交差するなまこ壁は、土蔵の腰壁に用いられ、平瓦を貼り付け、格子型になった目地を漆喰で馬乗り型や四半型に盛り上げて塗るものです。更に、菊屋横丁は「日本の道百選」にも選ばれています。
余談ですが、江戸幕府からの使者は、萩城で応接されることはなく、常にこの菊屋家で行われたそうです。関ヶ原の戦いで西軍の総大将 毛利輝元が吉川広家や小早川秀秋らに裏切られたという思いが、そうさせたようです。他藩が幕府からの使者を丁重にもてなしたのとは雲泥の差です。毎年正月に殿様が発した言葉があり、「今年はどうしますか」という問いに「まだ早い」と答えたそうです。何のことか言えば、今年こそ幕府を倒しに攻め上がりますかと問う慣習で、江戸時代を通し毎年続けられたそうです。長州藩はその気概と矜持を持ち続け、維新へと連綿と続く原動力となったのでしょう。また、こうした豪商が、長州軍の活躍を豊富な資金で後押ししたのは間違いありません。 -
萩城下町 菊屋家住宅 御成門
長屋門を潜って中に入ると右前方に御成門があります。
正門となる長屋門から入った御上使は、次に御成門を潜って直接書院に入ったそうです。つまり格式の高い門ですので、我々一般人が潜れる門ではないということです。
門の手前からは書院の庭を見ることができます。
御成門の右側にある井戸の側には、水が入れられた枡が沢山積まれています。古来からの防火に備えるためのものと思われます。 -
萩城下町 菊屋家住宅 書院の庭
御成門から覗いた書院の庭です。
ここからは一部しか見渡せませんが、それでも充分に風情を湛えています。
御成門から真っ直ぐ伸びる一枚岩の延段も見事です。
中央左には駕篭置石という大きな平たい石が置かれています。御上使等は御成門を経てこの石に駕篭を置き、縁側から入室したと伝えられています。庭の向こうには東蔵があり、庭の右手先には大きな庭園が構えているそうですが、年2回しか公開されていません。 -
萩城下町 菊屋家住宅 大式台
通常、一般公開されている多くの重要文化財では格式の高い玄関を使わずに見学者用に通用口を設けていますが、ここでは大式台から上がることができます。
入口と出口が異なるため、履物はビニール袋に入れて持参します。
主屋座敷の木材は400年前のもので、造りは数寄屋造です。柱は、角材と丸太が交互に使われているのが特徴です。 -
萩城下町 菊屋家住宅
長屋門から辿ってきた路を振り返ると飛び石畳がリズミカルに並んでいます。
菊屋家へ来ただけでも萩の雰囲気が味わえる、そんな見事なお屋敷です。 -
萩城下町 菊屋家住宅 主屋座敷
綺麗な内掛けが展示されています。その艶やかさに豪商の証しを垣間見ることができます。
菊屋の表通りは「呉服町通り」と称しますから、かつてこの当たりには呉服屋さんが軒を連ねていたのかもしれません。因みに、菊屋も呉服商の伊勢屋を吸収して大きくなっています。 -
萩城下町 菊屋家住宅 主屋座敷 有職雛(ゆうそくびな)
江戸時代に一般庶民に雛飾りが広く普及するようになると、公家の監修の下、貴族たちの約束事だった「有職故実」に基づいて公家の装束を雛人形の衣装に忠実に再現したそうです。
因みに、有職とは、平安時代の宮中の儀式や行事などに関する知識やそれに詳しい知識人のことを言いました。 -
萩城下町 菊屋家住宅 主屋座敷
有職雛の上には、掛け軸雛人形が飾られています。
素朴なものですが、それ故に赴き深いものがあります。 -
萩城下町 菊屋家住宅 主屋座敷
昔の道具の展示品の一部です。
左から、鉄扇、遠眼鏡、馬柄杓、陣笠、短筒の順です。 -
萩城下町 菊屋家住宅 主屋座敷
中央に控えるは、 鎌倉時代の福岡一文字派の刀工 吉平の短刀「一文字吉平(備前)」です。鞘自体も華麗なものです。
その下にあるのは、江戸時代の鍔です。長州は金工が盛んで、刀に使われる長州「鍔」も沢山作られていました。 -
萩城下町 菊屋家住宅 主屋座敷 享保雛
享保年間といえば1716〜35年ですから、少なくとも280年前の雛人形になります。享保時代は、バブル期のように豪華絢爛な時代だったため、お雛様も「寛永雛」や「元禄雛」を基にして豪華で高級なものを作っていたそうです。しかし、その後バブルがはじけ、不況下での緊縮財政の影響もあり、8代将軍 吉宗の命による贅沢禁止令を受けて、雛人形にも寸法の制限が設けられ、小ぶりな物が多く作られるようになっていきました。
享保雛は、京都で生まれて各地に広まっていったもので、現在の雛人形と比べると少し面長でのっぺりした能面にも似た静かな表情がユニークです。また、全体に比べて手足が小さく、首がひょろりと長くなっています。
女雛は赤い袴を着せ、その中には綿を入れて膨らませています。これは、公家の正装が朝鮮半島から流入したこともあり、朝鮮のしきたりとして、女性の正式な座り方が片膝を立てる形だったため、これを隠すために敢えて綿を入れて膨らませた雛人形にしたようです。 -
萩城下町 菊屋家住宅 書院の庭
書院から眺める庭は、築山式枯山水という作庭方式です。
毛利輝元が萩城(指月城)を築城した際に出た石が潤沢に使われており、それが往時のままの姿で残されています。左端にある手水鉢は背が高く、地面を掘り下げて程よい高さに調整しています。正面に見えるのが御成門です。
司馬遼太郎氏が「長州人のもつ品のいい軽快な美意識を存分に感じる」と絶賛した住宅だけのことはあります。 -
萩城下町 菊屋家住宅 書院の庭
見所満載の庭で何処を観てよいのか迷ってしまいますが、祠をお守りしている素朴な狛犬の姿も一興です。 -
萩城下町 菊屋家住宅 主屋座敷 立姿有職雛
男雛は立ち上がって舞う姿、女雛も手先や顔に動きが見られる珍しい雛人形です。
表情も豊かです。
明治時代末期の作品だそうです。 -
萩城下町 菊屋家住宅 主屋座敷
藩が贅沢を禁止するために庶民に禁止していた床の間も、賓客を接待する菊屋家には例外でした。幕府からの使者がここに座り、応接したそうです。
手前左にある格子状の籠のようなものは、説明書きによれば「御紋付 御伏籠」とあります。つまり、炉の上にこれを伏せ置いてその上に衣服をかけ、香を焚いて匂いを衣服に焚き染めたり、衣服を乾かしたりするために用いられた籠だそうです。 -
萩城下町 菊屋家住宅 主屋座敷 孔雀図
この掛け軸の絵は、松陰を描いた松下村塾門下生の松浦松洞が描いたものです。
上方に山桜、中央に孔雀が2羽、下方には牡丹を配しています。羽1本1本の細部まで非常に丁寧に、かつ色彩豊かに描かれた見事な孔雀と、それを挟むかのような淡いピンク色の大きな牡丹と山桜の花のコントラストが印象的です。 -
萩城下町 菊屋家住宅 主屋座敷
雪舟派の方が描かれた金屏風図です。
作者の名前を教えてもらったのですが、聞き慣れない名でしたので、すっかりスリップしてしまいました。申し訳ありません。 -
萩城下町 菊屋家住宅 主屋座敷 柱時計
明治時代に伊藤博文が海外視察で米国へ渡航した際、お土産として買ってきた掛け時計だそうです。米国コネチカット州セット・トーマス社製です。
現在でも現役で動いており、週一回ゼンマイを巻いているとのことです。100年以上に亘り時を刻んでいるとは吃驚ポンです!
12時には情緒ある音で時報を響かせるそうです。 -
萩城下町 菊屋家住宅 主屋座敷
雰囲気のある「電話室」です。
1879(明治30)年に設置されたデルビル磁石式乙号電話機です。 -
萩城下町 菊屋家住宅 主屋座敷
萩藩きっての豪商 菊屋家の雰囲気が味わえる「みせの間」の帳場風景です。
この番台の上でソロバンをパチパチしていました。 -
萩城下町 菊屋家住宅 主屋座敷
土間の敷居には、家紋が入った提灯箱(提灯を収納する箱)が置かれています。
この家紋は、恐れ多くも「杏葉菊(ぎょうようぎく)」と言い、明治4年以降敗戦までは皇族以外は使用できなかった高貴な菊紋のひとつです。 -
萩城下町 菊屋家住宅 主屋座敷 土間 小屋組
主屋は、上から殿様を見下ろすことがないようにとの配慮から平屋で、二階建てではありません。しかし、架構は、水平に通された梁組の上に半間に束を立て、縦横に貫を通して小屋組にしており、巧みの業がキラリと光ります。
地震等の揺れで束が落ち、その落ち具合で地震の規模を計測したと言われています。菊屋にはそうした役割も与えられていたそうです。 -
萩城下町 菊屋家住宅 主屋座敷 御殿雛
御殿雛は、江戸時代から京都や大阪で流行したそうです。
100年以上前、11代当主が長女の誕生を祝うために特注で作らせた御殿雛です。芥子雛の表情や仕草、精巧な細工や愛らしい道具類、牛車などは極めて珍しいものだそうです。最近、修繕されたそうですが、京都御所の紫宸殿を模した御殿に渡り廊下が配されているのは超レアだそうです。
こうした御殿飾りを見るのは初めてですが、色使いがシックで年代を感じます。 -
萩城下町 菊屋家住宅 主屋座敷 七段雛
旧家の七段飾りはさすがに絢爛豪華で、ため息ものです。 -
萩城下町 菊屋家住宅 主屋座敷 狆(ちん)引き官女
大正期の丸平(大木平蔵)作です。
七段飾りの場合、三人官女は 上から2段目に飾られる宮仕えの女官です。通常は、長柄銚子、三宝に乗せた盃、加え銚子を持っていますが、それら以外に珍しいものとして「狆引き官女」があります。
襷(たすき)掛けに大腰袴(おおこしはかま)の官女が 座敷犬の狆を引いている人形で、明治中期から昭和初期まで 雛人形に添えられて飾られていたそうです。
犬はお産が軽い事、また幼児の死亡率が高かった時代に子供の健やかな成長を願う親の思いが育ち易い犬に結び付き、縁起物として好まれて飾られていたそうです。
余談ですが、狆は日本古来の犬種として江戸時代〜明治時代にかけて上流階級で飼われていました。そのため、狆の形と色は高価な振袖を着た女性が畳の上で飼う事を考慮して改良された犬種であり、豪華な色柄の着物姿を引き立たてるために「白黒」の犬だったそうです。江戸時代、犬将軍と言われた5代将軍 綱吉に飼われたり、明治天皇の愛犬も「六号」という名の狆でした。
また、「狆」という字は、犬は外、猫は家の中で飼うのが常識だった頃、狆は部屋で飼う抱き犬だったため、猫と犬の中間と考えられ、部首をけものへんとして「中」と書いて「狆」という字になったそうです。 -
萩城下町 菊屋家住宅 主屋座敷 琴弾き人形
表情と動きがある人形です。
先に見た立姿有職雛の女雛も琴を爪弾いていたのかもしれません。 -
萩城下町 菊屋家住宅
主屋から本蔵へ向かう途中にある大きな井戸とソテツです。
ソテツは、一種の財力や権力を表すシンボルだったそうです。ですからソテツを植えることができたのは一握りの屋敷だけだったそうです。 -
萩城下町 菊屋横町
本蔵の所蔵品である円山応挙筆「懸崖瀑布図」や雪舟画「溌墨山水図」などを堪能してこの西門から出てきました。
尚、本蔵の展示作品は撮影禁止になっています。 -
萩城下町 菊屋横町
萩城下町と言えば、やっぱり白壁と海鼠壁の腰壁の風景が欠かせません。
不思議なことに、前回訪れた時と同じような空模様です。
まるで同じ写真のようです。
2013年7月の写真です。
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=30019872 -
萩城下町 菊屋横町
ダイダイ(夏みかん)が白壁塀に映える姿は、萩の風物詩です。
夏みかんと言いますが、盛夏にはほとんど実っていませんのでご注意ください。 -
萩城下町 菊屋横町
白壁塀は、このように地形のアップダウンに合わせて段付になっています。 -
萩城下町 晋作広場 高杉晋作立志像
銅像は、晋作が明倫館や松下村塾に通っていた20歳頃の凛々しい顔をイメージしており、珍しい「髷」姿で、両刀を差した羽織、袴の立ち姿です。銅像を制作された彫刻家 江里敏明氏は、「萩に立つ晋作の銅像ならば、立志を立てた20歳頃の髷姿でなければならない」と語られています。晋作は「散切り頭」で有名ですが、自らを「東行」と名乗って出家したために髷を落としたのです。
晋作が見つめる先には毛利藩主がいらっしゃり、そして前に向かって進もうとする彼を松陰が後押ししていると捉えることができます。
傍らでは、晋作が好きだった梅の花が仄かなやさしい香りを漂わせています。 -
萩城下町 萩焼陶雅苑
普段使いのマグカップを買い求めました。
使い込むうちに侘びた味を醸してゆく、「七化け」の面白さを愉しみたいと思います。 -
村田蒲鉾店
長門市に向かう前にショッピングタイムです。 -
村田蒲鉾店
村四朗とふく天が売りです。 -
村田蒲鉾店
蒲鉾は買いませんでしたが、その代わりに特製「萩夢小町」というカスタード・シュークリームを買いました。
小腹がすいていたので、とても美味しくいただきました。 -
海鮮村北長門
萩を発って次の目的地「青海島」へと向かいます。
途中、海鮮村北長門ドライブインにある「花津浦」で昼食です。
ここは、前回の西国ツアーでも利用させていただきました。500名収容できる大規模なレストランです。
花津浦とは、青海島にある高さ20mの小岩島群のことを言います。そこにある洞門の直径は8mあり、比較的波の静かな島の西側で洞穴の穿たれた岩はここだけです。この岩が牛の鼻ぐりに似ているため「鼻繰岩」とも呼ばれています。また、須佐之男命が青海島の王泊(大泊)から朝鮮へ進攻する際、愛しい我が子を抱いて朝鮮半島を眺めながら、「離れづらい」と言ったことから花津浦と名付けられたとも伝わります。 -
海鮮村北長門
メニューは、定番の海鮮料理「花津浦」名物の海鮮丼です。
しっかり腹ごしらえした後は、主人は青海島へ上陸して海上アルプスを俯瞰、当方は千崎で金子みすゞを偲びます。
この続きは、早春賦 西国放浪記⑦青海島・金子みすゞ記念館・秋吉台でお届けいたします。
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