2016/03/03 - 2016/03/05
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montsaintmichelさん
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藩校「明倫館」の遺構があるのは、萩市内江向にある旧明倫小学校敷地内です。旧明倫小学校の外観は、レトロな風情を湛え、敷地も広大です。因みに、竣工式が行なわれたのは、昭和10年10月10日午前10時だそうです。2014年に新校舎が竣工したため現在は使用されていませんが、この学舎で萩への郷土愛と矜持が育まれたことでしょう。
明倫館は、1867(慶応3)年の廃館まで約150年間に亘って多くの人材を輩出し、水戸の弘道館、岡山の閑谷学校と並ぶ「日本三大学府」と称されていました。明倫館では9歳になった松陰も兵学講師見習いとして教出仕し、その後19歳で講師として教鞭を振るい、高杉晋作や木戸孝允、楫取素彦なども通いました。
明倫館の始まりは、1718(享保3)年に5代藩主 毛利吉元が家臣の子弟教育のために萩城三の丸追廻し筋に開校したもので、その敷地は940坪ありました。その130年後、城下の中心地だった現在地へ移転し、規模を拡大しました。約1万5200坪もの敷地内に、学舎や武芸修練場、練兵場などが置かれましたが、現存する遺構は、南門、明倫館碑、観徳門、聖賢堂、剣槍術場「有備館」、全国で唯一残る藩校の水練場「水練池」だけです。
明倫館跡マップです。
http://hagishi.com/upload/files/meirinkanmap.pdf
<1日目>
新大阪駅(新幹線)===福山駅---錦帯橋(昼食+散策)
---津和野(案内人と一緒に散策)---萩グランドホテル天空
<2日目>
萩グランドホテル天空---松陰神社(ボランティアの方と一緒に散策)
---旧萩藩校明倫館(同じ)---萩城下町(同じ)
---村田蒲鉾店(ショッピング)---海鮮村北長門(昼食)
---青海島(クルーズコース・島上陸コース・金子みすゞ記念館コースから選択)
---秋吉台---瑠璃光寺---湯本観光ホテル西京(オプション:大谷山荘宿泊)
<3日目>
湯本観光ホテル西京---宮島口===宮島(昼食+散策:3時間)===宮島口
---尾道===千光寺公園(ロープウェイ)---千光寺公園(山頂)
---福山駅(新幹線)===新大阪駅
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 観光バス 新幹線
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
-
旧 萩市立明倫小学校 正門
小学校は、2014年春に新しい敷地に移転しています。
因みに、新校舎は、隣接の旧萩商業高校の校舎を県から無償で譲り受け、校舎の一部を解体して跡地に新築しています。つまり、使える物はとことん使うという、地球に優しいリサイクル精神の典型です。 -
明倫館 南門
1848(弘化5)年に明倫館の正門として建立された貫禄充分の門です。明倫館の南にあるため南門と命名されましたが、通称「表御門」と呼ばれています。切妻造、本瓦葺の四脚門の格式ある造りで、蟇股の鳳凰円紋の彫刻は法隆寺宝物の螺鈿唐櫃の円紋を倣ったものだそうです。
藩主が聖廟を拝む春秋の孔子祭や公式行事以外は閉じられた門でした。明倫館正門時代の扁額は、地に黒字で「明倫館」と浮彫されていたそうです。 -
明倫館 南門
威風堂々とした佇まいには感動さえ覚えます。
萩藩士たちは、この明倫館に通うことをさぞや誇りに思ったことでしょう。かつての明倫館は、幕末の志士たちが夢を抱き、それを実現するために通った場所でした。その志を受け継ぐ明倫小学校の卒業生たちが夢や希望などを抱いて巣立って行った思い出の門なのです。こんな学舎で学んだ小学生たちがいるのですから、日本の未来は明るいでしょう! -
明倫館 南門
この南門は、明倫館から本願寺別院の寺門として移築されていたものが、2004年に元の場所に戻されたものです。
扁額の「明」の字の「日」の部首は人の笑顔をデフォルメしたものの様にも見えますが、恐らくは旧字の「朙」と思われます。
その他の見所としては、瓦の家紋も要チェックです。毛利家家紋は「一文字に三つ星」ですが、軒丸瓦にはその一文字が施されています。 -
明倫館 南門(裏側)
この門は特別な行事の時にだけ開けられ、普段この門が使えたのは藩主だけだったそうです。明倫小学校時代には卒業式の日だけ開かれ、卒業生はここを通って颯爽と巣立って行ったそうです。 -
明倫館 聖賢堂
聖廟で行われる釈菜(孔子の祭)の道具などを納めたり、お供え物の用意をするために用いられた建屋です。かつては観徳門の東西に東塾と西塾と呼ばれた小さな建物があり、その2つを合わせて1棟としたものです。 -
明倫館 聖賢堂
切妻造、起り屋根桟瓦葺、大棟の両端には「一文字三星」の毛利家家紋の棟瓦が載せられています。 -
明倫館 聖賢堂
螻羽瓦(けらばがわら)には、桃の飾り瓦を載せています。
実は、桃の飾り瓦には、魔除けの意味合いと長寿への願いが込められています。
その由来は、『古事記』のイザナミとイザナギの話からきています。イザナミは火の神を産む際に大火傷を負い、それが原因で命を落としてしまいます。その時代、命を落とすと黄泉の国の住人になるとされていました。イザナギは、イザナミに会いたくて黄泉の国まで彼女を探しに行きます。ところがあられもない姿を見られた屈辱にイザナミは激怒します。これを見て現世へ逃げ帰ろうとしたイザナギは、黄泉の醜女らに追われます。黄泉の国と地上の境まで来た時、そこに桃の木があり、その実を投げたら追手がひるんで無事に地上に戻れたことから、イザナギは桃の実に「人々が困っている時に助けるように」と使命を与え、神の名を授けたと言われています。
因みに、中国でも桃は縁起の良いものとされています。丸々として水分を大量に含む桃は、昔から不老長寿の果物とされ、霊力を持つ果実とされていました。その甘い香りが持つ魅力に色んな想いを馳せたのでしょう。 -
明倫館 水練池
藩政時代、武芸としての遊泳術や水中騎馬の訓練が行われた、水深1.5m程あるプールです。プールと言うように形はほぼ長方形をしており、東西39m、南北16mに伸び、底と四方は玄武岩の切石で築かれています。
水練場を設けた藩校は全国でも会津藩の日新館と明倫館だけと言われ、藩校の水練池では唯一現存する貴重なものです。
奥に見える建物は、移転後の明倫小学校の校舎です。 -
明倫館 水練池
この水の水源は、地下水を利用しているそうです。
萩の乱では、明倫館にある殉国軍の弾薬をこの水練池に投げ込んだようです。 -
明倫館 水練池
南側にはこのように石段が設けられ、水底へ馬を誘う工夫が見られます。
騎馬のまま乗り入れ、馬の足を鍛えるためにも使っていたそうです。 -
旧 明倫小学校(国の有形文化財)
1935(昭和10)年に建てられた木造4棟は、2017年2月末までの予定で保存整備工事が始められており、旧小学校エリアへ立ち入ることはできません。
ここは、「萩・世界遺産ビジターセンター 学び舎」として世界遺産に登録された19世紀末の世界史の奇跡といわれる日本近代化の原点「萩」を分り易く楽しく学べる施設に生まれ変わるそうです。 -
旧 明倫小学校
校舎を繋ぐ渡り廊下が郷愁を誘います。
木造学校建築の好例と言われ、特に国道側にある本館は文化財的価値が高く、国登録有形文化財山口県第1号で屋根のフランス瓦や連続する窓の意匠が特徴的です。1階は押さえ縁のある簓子(ささらこ)下見板張り(日本建築の英知が産んだ工法)、2階は白漆喰塗りの美しい外観が誇らしげです。昭和初期の大規模な木造校舎が4棟も往時の姿を留めているのは全国的にも珍しいそうです。 -
明倫館 観徳門
藩校時代の学問の神として孔子を祀っていた聖廟の前門です。南門と現在海潮寺本堂になっている孔子廟(聖廟)の中間に建てられています。形式は、木造、瓦棒銅板葺、左右に唐破風を飾備えた平唐門です。
両袖に連子格子の塀が連なっているのが珍しいです。 -
明倫館 観徳門
裏側から見た様子です。
建築年代は、新明倫館が再建された1849(嘉永2)年です。
全般に木鼻繰形の多い装飾的要素が目立ち、構造的にも大仏様、禅宗様の要素を持つ珍しいものです。 -
明倫館 有備館
藩校 明倫館の敷地の東端に建っています。
剣術や槍の稽古を行なった道場で、木造平屋建、入母屋造、桟瓦葺の南北に長い建物です。有備館は、藩士の練武の他、他国からの剣槍術の修業者との試合場、すなわち「他国修業者引請剣槍術場」でもありました。 -
明倫館 有備館
有備館の名は、江戸桜田萩藩邸内にあった文武講習所「有備館」から付けられたもので、旧明倫館にあったものを現地に移転拡張したものです。
明治維新後、明倫館は閉校されて建物の大半は解体されましたが、この建物は幸いにも残され、その後畳の間や土間は板床に改造され小学校の校舎として使用されていました。その後、国の史跡になり、保存修理工事が行われて当初の建物様式に復元されています。 -
明倫館 有備館
玄関を真っ直ぐ奥に行くと藩主の控えの間があります。
その右横のスペースには、厨子のようなものが3基置かれています。かつては有備館に所縁のある方々の位牌を安置していたそうですが、詳細は判らないようです。
現在の有備館は中央で剣術場と槍術場とに分かれていますが、旧明倫館にあった時には、剣術場と槍術場が別々の建物だったそうです。明倫館への移転拡張に伴ない、2つの建物をひとつに合わせたものと伝えられています。 -
明倫館 有備館 剣術場
入口に向かって左側が剣術場、右側が槍術場になっています。
稽古場と称されていますが、実際は試合をする場所だったようです。剣術場にある左側の畳敷きのスペースは、藩主が試合を天覧する場でした。ここがかつて畳敷きだった、藩主上覧場です。
道場に足を踏み入れると、身が引き締まり、自然と背筋が伸びるのが感じられました。
目を閉じて正座すると、激しく竹刀がぶつかる音や掛け声が聞こえてくるような気がします。 -
明倫館 有備館 剣術場
武市半平太から久坂玄瑞宛の書状を預かった坂本龍馬も修行者として来萩した際、ここで試合を行なったと伝えられています。この時、龍馬は少年剣士と3本試合をして負け、「自分が弱いからだ」と語ったという話しが伝えられています。
黒光りする床板には長州藩士たち、そして龍馬の鍛錬の汗がしみ込んでいます。また、剣術場の床を改修した際、音を響かせるための工夫が発見されています。つまり、能舞台のように床下に共鳴用の壺が埋められていたそうです。こうした音響効果に誘われて、剣術の腕もメキメキ上達したことでしょう。年季が入っているだけあり、約39畳ある床がピカピカなのが印象的です。
因みに、諸国文武修行者宿は、藩校明倫館のすぐ近く、現在の萩裁判所の西側にあったそうです。 -
明倫館 有備館 剣術場
梁も立派です。当時のままだそうです。 -
明倫館 有備館 槍術場
畳敷きの間が、槍術場の藩主上覧場です。
明倫館内には他にも剣術場が4棟、槍術場が3棟あり、それぞれ師範がおり、自家道場としていたそうです。これは、複数の流派の道場を作らせ、互いに競わせることによって他の流派に負けたくないと言う精神力を培う役目を果たしていたようです。 -
明倫館 有備館 槍術場
槍術場は、半分が畳の間、半分は畳の間より低くて砂が撒かれた土間になっています。恐らく約54畳の土間で槍術の稽古をし、畳の間から師範や他の生徒たちが見守ったと思われます。
幕末当時の大砲「四斤山砲」の レプリカが置かれています。1859年にフランスで開発された前装ライフル式の青銅製山砲です。自国生産もされ、軽量だったことが野戦に向いていたようです。因みに、「四斤」とは、砲弾質量が4kgであることを意味しています。 -
明倫館 有備館 槍術場
南門の扁額のオリジナルが安置されています。黒字で浮き彫りされていたそうですが、色はすっかり落ちてしまったようです。
現在は小学校校舎が工事中のため敷地内には立ち入れず見学できないのですが、その他の見所としては明倫館碑が挙げられます。2017年3月以降に訪れる際には、見逃さないでください。2基の石碑には、明倫館設立の趣旨や館の規模、教育方針などが記されています。
向かって左側の石碑は、1741(元文6)年に6代藩主 毛利宗広が創建の由来を記して建てたものです。元文年代に建てられたので、「元文碑」と呼ばれ、旧明倫館から移したものです。明倫館が1718(享保3)年に萩城の敷地内に立てられた時のことが書かれています。
右側の石碑は、1849(嘉永2)年に13代藩主 毛利敬親が新明倫館の開校を記念して建てたもので、「嘉永重建碑」あるいは「重建明倫館碑」と呼ばれています。幕府に対する忠心を意味する箇所が何者かによって削られた痕跡があります。「幕命を崇奉して(而)国家の藩屏たる所以なり」と読む「幕命、而(して)」の3文字が削られています。幕末に明倫館で学んだ志士たちの反幕への熱い思いが伝わってくるようです。
また、石碑は亀趺(きふ:亀の甲)の上に載せてあるのも特徴です。左側の亀趺は横長、右側の亀趺は縦長になっています。
この続きは、早春賦 西国放浪記⑥萩城下町(菊屋家住宅)にてお届けいたします。
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