長門市・長門湯本温泉旅行記(ブログ) 一覧に戻る
ツアーでは青海島観光のオプションとして海上クルージングが設定されていました。しかし、事前にツアー会社に確認した所、天候に関係なく島を半周して戻る「観音洞」コースということで断念しました。どうせなら、「象の鼻」「十六羅漢」「変装行列「仏岩」などのハイライトが沢山見られる島一周コースを体験したかったからです。クルージングは、次回のお楽しみにとっておきます。<br />という訳で、散策時間50分を使って、主人は青海島に上陸して島から海上アルプスを俯瞰しました。当方は、かねてより訪ねてみたかった「金子みすゞ記念館」で彼女を偲びました。実は、金子みすゞ記念館はオプションではありませんが、観光船乗り場から徒歩圏内ですので添乗員さんにお願いして許可をいただきました。添乗員さん曰く、通常「金子みすゞ記念館」を希望される方は数名おられるようですが、今回は奇しくも当方だけでした。観光船乗り場ではなく、青海大橋への途中で降車させていただけました。ただし、集合場所は観光船乗り場の駐車場でした。<br /><1日目><br />新大阪駅(新幹線)===福山駅---錦帯橋(昼食+散策)<br />---津和野(案内人と一緒に散策)---萩グランドホテル天空<br /><2日目><br />萩グランドホテル天空---松陰神社(ボランティアの方と一緒に散策)<br />---旧萩藩校明倫館(同じ)---萩城下町(同じ)<br />---村田蒲鉾店(ショッピング)---海鮮村北長門(昼食)<br />---青海島(クルーズコース・島上陸コース・金子みすゞ記念館コースから選択)<br />---秋吉台---瑠璃光寺---湯本観光ホテル西京(オプション:大谷山荘宿泊)<br /><3日目><br />湯本観光ホテル西京---宮島口===宮島(昼食+散策:3時間)===宮島口<br />---尾道===千光寺公園(ロープウェイ)---千光寺公園(山頂)<br />---福山駅(新幹線)===新大阪駅

早春賦 西国放浪記⑦青海島・金子みすゞ記念館・秋吉台

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2016/03/03 - 2016/03/05

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

ツアーでは青海島観光のオプションとして海上クルージングが設定されていました。しかし、事前にツアー会社に確認した所、天候に関係なく島を半周して戻る「観音洞」コースということで断念しました。どうせなら、「象の鼻」「十六羅漢」「変装行列「仏岩」などのハイライトが沢山見られる島一周コースを体験したかったからです。クルージングは、次回のお楽しみにとっておきます。
という訳で、散策時間50分を使って、主人は青海島に上陸して島から海上アルプスを俯瞰しました。当方は、かねてより訪ねてみたかった「金子みすゞ記念館」で彼女を偲びました。実は、金子みすゞ記念館はオプションではありませんが、観光船乗り場から徒歩圏内ですので添乗員さんにお願いして許可をいただきました。添乗員さん曰く、通常「金子みすゞ記念館」を希望される方は数名おられるようですが、今回は奇しくも当方だけでした。観光船乗り場ではなく、青海大橋への途中で降車させていただけました。ただし、集合場所は観光船乗り場の駐車場でした。
<1日目>
新大阪駅(新幹線)===福山駅---錦帯橋(昼食+散策)
---津和野(案内人と一緒に散策)---萩グランドホテル天空
<2日目>
萩グランドホテル天空---松陰神社(ボランティアの方と一緒に散策)
---旧萩藩校明倫館(同じ)---萩城下町(同じ)
---村田蒲鉾店(ショッピング)---海鮮村北長門(昼食)
---青海島(クルーズコース・島上陸コース・金子みすゞ記念館コースから選択)
---秋吉台---瑠璃光寺---湯本観光ホテル西京(オプション:大谷山荘宿泊)
<3日目>
湯本観光ホテル西京---宮島口===宮島(昼食+散策:3時間)===宮島口
---尾道===千光寺公園(ロープウェイ)---千光寺公園(山頂)
---福山駅(新幹線)===新大阪駅

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
観光バス 新幹線
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
  • 青海島観光基地シーサイドスクエア 大海原と親子の愛情モニュメント<br />微笑ましい親子鯨のモニュメントが目印となるのが、シーサイドスクエアの入口です。この先に観光船乗り場があります。<br /><br />青海島は、古くから大陸との交通の中継地として栄え、また江戸時代には捕鯨の島と呼ばれ、古式捕鯨で栄えました。北東部に位置する通(かよい)は捕鯨を生業とする港町であり、北浦最大の捕鯨地でした。<br />古来より漁をする者は信心深く、祈りや弔いが生活に根ざしています。漁の無事を祈り、海の恵みを生活の糧とする感謝の気持ちがあります。金子みすゞにもそのDNAが宿っていたように思います。それを偲ばせるのが向岸寺です。こには珍しい鯨位牌や戒名を授けた鯨鯢過去帳が残され、境内にある捕獲された鯨の胎児を埋葬する「鯨墓(清月庵)」(1692(元禄5)年建立:国の史跡)は、往時の島民たちの鯨に対する思いを伝えています。約70体の鯨の胎児を埋葬し、奪った命を弔っています。<br />「南無阿弥陀仏 業尽有情 雖放不生 故宿人天 同証佛果」と刻まれています。これは、諏訪の勘文と呼ばれる「慈悲と殺生は両立する」という教えであり、作家 寺山修司氏も『くじら霊異記』と題する青海島紀行で住職の説明として紹介されています。<br />「業尽きし有情 放つと雖も生ぜず 故に人天に宿して 同じく仏果を証せしめん」と読み、「鯨としての生命は母鯨と共に終わり、我等の手によって捕まえられたが、我々の目的は本来胎児を捕るつもりはない。むしろ海中に逃がしてやりたい。しかし、汝独りを海へ放っても、生き得ない。憐れな子等よ、我々人間と共に人間世界の習慣によって念仏回向の功徳を受け、諸行無常の諦観を悟るようお願いする」という意味です。

    青海島観光基地シーサイドスクエア 大海原と親子の愛情モニュメント
    微笑ましい親子鯨のモニュメントが目印となるのが、シーサイドスクエアの入口です。この先に観光船乗り場があります。

    青海島は、古くから大陸との交通の中継地として栄え、また江戸時代には捕鯨の島と呼ばれ、古式捕鯨で栄えました。北東部に位置する通(かよい)は捕鯨を生業とする港町であり、北浦最大の捕鯨地でした。
    古来より漁をする者は信心深く、祈りや弔いが生活に根ざしています。漁の無事を祈り、海の恵みを生活の糧とする感謝の気持ちがあります。金子みすゞにもそのDNAが宿っていたように思います。それを偲ばせるのが向岸寺です。こには珍しい鯨位牌や戒名を授けた鯨鯢過去帳が残され、境内にある捕獲された鯨の胎児を埋葬する「鯨墓(清月庵)」(1692(元禄5)年建立:国の史跡)は、往時の島民たちの鯨に対する思いを伝えています。約70体の鯨の胎児を埋葬し、奪った命を弔っています。
    「南無阿弥陀仏 業尽有情 雖放不生 故宿人天 同証佛果」と刻まれています。これは、諏訪の勘文と呼ばれる「慈悲と殺生は両立する」という教えであり、作家 寺山修司氏も『くじら霊異記』と題する青海島紀行で住職の説明として紹介されています。
    「業尽きし有情 放つと雖も生ぜず 故に人天に宿して 同じく仏果を証せしめん」と読み、「鯨としての生命は母鯨と共に終わり、我等の手によって捕まえられたが、我々の目的は本来胎児を捕るつもりはない。むしろ海中に逃がしてやりたい。しかし、汝独りを海へ放っても、生き得ない。憐れな子等よ、我々人間と共に人間世界の習慣によって念仏回向の功徳を受け、諸行無常の諦観を悟るようお願いする」という意味です。

  • 青海島 船越<br />青海島に上陸して自然研究路を時計回りに進むと数分で船越の砂浜に辿り着きます。<br />海岸の眺めが魅力の青海島は、面積14平方km、周囲約40kmにおよぶ美しい島です。北長門海岸国定公園の中核をなし、国内外から年間25万人の観光客が訪れます。青海島北側の景色は、萩出身の評論家 横山健堂氏が「海上アルプス」と称したほどの類稀なる景勝地です。<br />東西北の三面は日本海の荒波を浴びて浸食された岩礁や海食崖が変化に富む豪壮雄大な荒々しい景観をつくりだし、奇岩群は「日本百景」に選定され、国の名勝および天然記念物にも指定されています。冬季には北西の風に乗った濤波が岩に砕け散り、一面を白海に変える豪快な光景が繰り返されるそうです。<br />島といっても、いわゆる離島ではなく、本土とは橋長260mの青海大橋一本で繋がれています。<br /><br />自然研究路マップです。<br />http://www.nanavi.jp/_nanaviwp/wp-content/uploads/2015/08/%E9%9D%92%E6%B5%B7%E5%B3%B6%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E8%B7%AF%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%97.pdf

    青海島 船越
    青海島に上陸して自然研究路を時計回りに進むと数分で船越の砂浜に辿り着きます。
    海岸の眺めが魅力の青海島は、面積14平方km、周囲約40kmにおよぶ美しい島です。北長門海岸国定公園の中核をなし、国内外から年間25万人の観光客が訪れます。青海島北側の景色は、萩出身の評論家 横山健堂氏が「海上アルプス」と称したほどの類稀なる景勝地です。
    東西北の三面は日本海の荒波を浴びて浸食された岩礁や海食崖が変化に富む豪壮雄大な荒々しい景観をつくりだし、奇岩群は「日本百景」に選定され、国の名勝および天然記念物にも指定されています。冬季には北西の風に乗った濤波が岩に砕け散り、一面を白海に変える豪快な光景が繰り返されるそうです。
    島といっても、いわゆる離島ではなく、本土とは橋長260mの青海大橋一本で繋がれています。

    自然研究路マップです。
    http://www.nanavi.jp/_nanaviwp/wp-content/uploads/2015/08/%E9%9D%92%E6%B5%B7%E5%B3%B6%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E8%B7%AF%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%97.pdf

  • 青海島 船越<br />シーサイドスクエアからバスで10分以上走った所に目的の自然研究路入口があります。そのため、正味の観光時間が30分程しかとれず、やむなく添乗員さんに先導されての散策となりました。<br />自然研究路を碧濤台(へきとうだい)まで上り、そこから同じルートを引き返します。距離的にはさほどありませんが、島から俯瞰できるハイライトが凝縮されています。普通に歩けば駐車場から片道10分かかりませんが、年配の方もおられますのでペースは超スローです。添乗員さんにお断りして、お先に行かせてもらいます。<br /><br />岬の先端にあるポツンと尖った岩が「筍(たけのこ)岩」です。<br />赤瀬の西北端にある岩島で、その形がタケノコに似ているためにこの名があります。高さは40mあります。

    青海島 船越
    シーサイドスクエアからバスで10分以上走った所に目的の自然研究路入口があります。そのため、正味の観光時間が30分程しかとれず、やむなく添乗員さんに先導されての散策となりました。
    自然研究路を碧濤台(へきとうだい)まで上り、そこから同じルートを引き返します。距離的にはさほどありませんが、島から俯瞰できるハイライトが凝縮されています。普通に歩けば駐車場から片道10分かかりませんが、年配の方もおられますのでペースは超スローです。添乗員さんにお断りして、お先に行かせてもらいます。

    岬の先端にあるポツンと尖った岩が「筍(たけのこ)岩」です。
    赤瀬の西北端にある岩島で、その形がタケノコに似ているためにこの名があります。高さは40mあります。

  • 青海島 船越<br />筍岩をズームアップしたものです。<br />筍と言うよりも、色も形も鮫の歯に似ています。<br />空が一面雲に覆われていますので、美しい海の色がでていないのが残念です。<br /><br />壮観な眺望の素材をなす岩石は、日本列島が現在の場所になく、遠くアジア大陸の東端にあった約1億年前の中生代白亜紀後期の太平洋プレートの沈み込みで起きた大規模な珪長質マグマ活動によってつくられました。現在見られる洞門や奇岩の景勝は、約1500万年前に日本海ができ上がり、波や風、潮流によって岩盤が浸食されて造形されたものです。<br />日本海の島としては、佐渡島、隠岐島に次いで3番目に大きく、主に阿武層群から構成され、島の北西端である筍島付近に花崗岩、大泊山付近に関門層群が分布しています。元々は真ん中にある船越を境に2島に分かれていたそうですが、砂州で繋がってひとつの島になっており、現在は東側が長門市通(かよい)、西側は本土から続く仙崎という地名に分かれています。<br />1965(昭和40)年に青海大橋(橋長260m)が開通したことで、船に頼る生活から陸伝いに手軽に行き来ができる島へと変わり、島内にはキャンプ場や散策路が造られ、長門市を代表する観光地になっています。島内から海岸の絶景を愉しむには長浜群洞付近から十六羅漢にかけての景観が望める自然研究路(メモリア ルロード)がお勧めです。

    青海島 船越
    筍岩をズームアップしたものです。
    筍と言うよりも、色も形も鮫の歯に似ています。
    空が一面雲に覆われていますので、美しい海の色がでていないのが残念です。

    壮観な眺望の素材をなす岩石は、日本列島が現在の場所になく、遠くアジア大陸の東端にあった約1億年前の中生代白亜紀後期の太平洋プレートの沈み込みで起きた大規模な珪長質マグマ活動によってつくられました。現在見られる洞門や奇岩の景勝は、約1500万年前に日本海ができ上がり、波や風、潮流によって岩盤が浸食されて造形されたものです。
    日本海の島としては、佐渡島、隠岐島に次いで3番目に大きく、主に阿武層群から構成され、島の北西端である筍島付近に花崗岩、大泊山付近に関門層群が分布しています。元々は真ん中にある船越を境に2島に分かれていたそうですが、砂州で繋がってひとつの島になっており、現在は東側が長門市通(かよい)、西側は本土から続く仙崎という地名に分かれています。
    1965(昭和40)年に青海大橋(橋長260m)が開通したことで、船に頼る生活から陸伝いに手軽に行き来ができる島へと変わり、島内にはキャンプ場や散策路が造られ、長門市を代表する観光地になっています。島内から海岸の絶景を愉しむには長浜群洞付近から十六羅漢にかけての景観が望める自然研究路(メモリア ルロード)がお勧めです。

  • 青海島 長浜群洞<br />島の周りは波の浸食で断崖や洞穴が多く見られ、左側150m先に見える断崖の付け根は、約60個の洞穴があることから長浜群洞と呼ばれています。岩が白っぽく見えるのは「みさご」という鳥の糞のためです。<br />みさごは崖の上に巣を作ります。魚を捕食することから「魚鷹(うおたか)」の異名を持ち、『日本書紀』では覚賀鳥と記されています。風貌は鷹によく似ていますが、ミサゴ科ミサゴ属とされ、足の外側にある魚を捕らえるための棘や反転する第1趾、鼻孔の弁、密生し油で耐水された羽毛があるのが特徴です。

    青海島 長浜群洞
    島の周りは波の浸食で断崖や洞穴が多く見られ、左側150m先に見える断崖の付け根は、約60個の洞穴があることから長浜群洞と呼ばれています。岩が白っぽく見えるのは「みさご」という鳥の糞のためです。
    みさごは崖の上に巣を作ります。魚を捕食することから「魚鷹(うおたか)」の異名を持ち、『日本書紀』では覚賀鳥と記されています。風貌は鷹によく似ていますが、ミサゴ科ミサゴ属とされ、足の外側にある魚を捕らえるための棘や反転する第1趾、鼻孔の弁、密生し油で耐水された羽毛があるのが特徴です。

  • 青海島 瀬叢(むらせ)<br />この付近の標高は40mあり、眼下に見える岩礁群は岩が沢山あることから瀬叢と呼ばれています。<br />青海島の景色の荘厳さを表現した絵画が皇居の長和殿「波の間」に大壁画として飾られ、世界中からの来訪者に日本屈指の景色として紹介されています。この壁画は、青海島にあるこの瀬叢から眼下に見た岩礁をモデルにしたとされる東山魁夷画伯筆『朝明けの潮』です。縦3.8m、横14.3mもある渾身の大壁画です。<br />画伯は、この絵の制作に当たり、日本の海のイメージを求めて1年に亘り全国の海を回られたそうです。そしてその中から厳選されたのがこの青海島の風景でした。<br />『朝明けの潮』を描いて2年後、奈良唐招提寺にある襖絵『濤声(とうせい)』の制作をされていますが、日本の海の集大成と称されるその絵にも青海島の風景が随所に窺えます。よほどのインパクトを享受されたのか、画伯にとって日本の海のイメージはこの青海島そのものであったのかもしれません。<br /><br />宮内庁ホームページ<br />http://www.kunaicho.go.jp/about/shisetsu/kokyo/kyuden-ph.html<br />唐招提寺ホームページ<br />http://www.toshodaiji.jp/about_mieidoh.html

    青海島 瀬叢(むらせ)
    この付近の標高は40mあり、眼下に見える岩礁群は岩が沢山あることから瀬叢と呼ばれています。
    青海島の景色の荘厳さを表現した絵画が皇居の長和殿「波の間」に大壁画として飾られ、世界中からの来訪者に日本屈指の景色として紹介されています。この壁画は、青海島にあるこの瀬叢から眼下に見た岩礁をモデルにしたとされる東山魁夷画伯筆『朝明けの潮』です。縦3.8m、横14.3mもある渾身の大壁画です。
    画伯は、この絵の制作に当たり、日本の海のイメージを求めて1年に亘り全国の海を回られたそうです。そしてその中から厳選されたのがこの青海島の風景でした。
    『朝明けの潮』を描いて2年後、奈良唐招提寺にある襖絵『濤声(とうせい)』の制作をされていますが、日本の海の集大成と称されるその絵にも青海島の風景が随所に窺えます。よほどのインパクトを享受されたのか、画伯にとって日本の海のイメージはこの青海島そのものであったのかもしれません。

    宮内庁ホームページ
    http://www.kunaicho.go.jp/about/shisetsu/kokyo/kyuden-ph.html
    唐招提寺ホームページ
    http://www.toshodaiji.jp/about_mieidoh.html

  • 青海島 碧濤台(へきとうだい)<br />碧濤台(青海島船越第一展望台)からは青海島観光のハイライトが一望できます。<br />碧濤台の名は高松宮殿下が命名されたもので、ここから見る日本海の荒波が岩に砕け散る眺めは勇壮そのものです。<br />波に浸食された青海島北岸や海上アルプスを見下ろせば、それらの岩礁にはカモメ岩や十六羅漢、変装行列等の奇妙な名前が付けられています。<br />展望台から見える浜一帯は中の浦です。<br />1989年後期のNHK連続テレビ小説「和っこの金メダル」の舞台となり、ロケが行われたことを記念し、ヒロインの愛称に因んで和っこの浦と呼ばれています。

    青海島 碧濤台(へきとうだい)
    碧濤台(青海島船越第一展望台)からは青海島観光のハイライトが一望できます。
    碧濤台の名は高松宮殿下が命名されたもので、ここから見る日本海の荒波が岩に砕け散る眺めは勇壮そのものです。
    波に浸食された青海島北岸や海上アルプスを見下ろせば、それらの岩礁にはカモメ岩や十六羅漢、変装行列等の奇妙な名前が付けられています。
    展望台から見える浜一帯は中の浦です。
    1989年後期のNHK連続テレビ小説「和っこの金メダル」の舞台となり、ロケが行われたことを記念し、ヒロインの愛称に因んで和っこの浦と呼ばれています。

  • 青海島 碧濤台<br />左側にある一番高い岩礁がカモメ岩です。命名は、カモメがよく留まっていることからきています。また、松の木が姿よく生えている右端にある小島は、山島と言います。<br />断崖絶壁などの奇岩の景勝と天空に聳え立つアルプスの雄姿を結び付けた「海上アルプス」という造語の発想力には吃驚ポンですが、そもそも誰が言い出した表現なのでしょうか?<br />横山健堂著の地誌『長周遊覧記』には、「わたくしは、『アルプスは陸上にのみあるとは限らぬ、海上にもある。この風景が即ち海上アルプスである』と言った。満船の人々、皆、共鳴した。爾来、海上アルプスの名が初めて世に現われることになった」という一節があり、この方が名付け親のようです。<br />横山氏は、1872(明治5)年に萩に生まれ、松下村塾出身の父 幾太の薫陶を受け、東京帝国大学国史科で近世教育史を専攻しました。黒頭巾のペンネームで読売新聞に『新人国記』を連載した他、『維新史』などの著書もある評論家の傍ら、駒沢大学や国学院大学教授として教壇にも立たれました。また、長男 横山白虹氏は俳人で、青海島船越にはその句碑があります。<br />「黒潮へ 没る日の上を 鵜が翔くる」。

    青海島 碧濤台
    左側にある一番高い岩礁がカモメ岩です。命名は、カモメがよく留まっていることからきています。また、松の木が姿よく生えている右端にある小島は、山島と言います。
    断崖絶壁などの奇岩の景勝と天空に聳え立つアルプスの雄姿を結び付けた「海上アルプス」という造語の発想力には吃驚ポンですが、そもそも誰が言い出した表現なのでしょうか?
    横山健堂著の地誌『長周遊覧記』には、「わたくしは、『アルプスは陸上にのみあるとは限らぬ、海上にもある。この風景が即ち海上アルプスである』と言った。満船の人々、皆、共鳴した。爾来、海上アルプスの名が初めて世に現われることになった」という一節があり、この方が名付け親のようです。
    横山氏は、1872(明治5)年に萩に生まれ、松下村塾出身の父 幾太の薫陶を受け、東京帝国大学国史科で近世教育史を専攻しました。黒頭巾のペンネームで読売新聞に『新人国記』を連載した他、『維新史』などの著書もある評論家の傍ら、駒沢大学や国学院大学教授として教壇にも立たれました。また、長男 横山白虹氏は俳人で、青海島船越にはその句碑があります。
    「黒潮へ 没る日の上を 鵜が翔くる」。

  • 青海島 碧濤台 十六羅漢<br />海岸に大小の岩島が立ち並ぶのが「十六羅漢」です。奇岩群が列をなして海の中に立ち、これらが仏像に見えることから付けられた名称です。色々な方向から眺めれば眺めるほど、仏像に見えてくるそうです。<br />こうした光景は、中生代の地層を基盤として、幾度となく隆起と沈降を繰り返して浸食されてできたものです。水平線に近い所には背の高い羅漢、その右側には背の低い羅漢が居られます。背の低い羅漢は凝灰岩、背の高い羅漢は凝灰岩の間を通り抜けてきたマグマが固まった流紋岩からできています。流紋岩は凝灰岩よりも固いので、雨や浪、風に浸食される量が少ないため背が高いそうです。<br />因みに、羅漢とは「阿羅漢」を略した言葉で、尊敬・供養を受ける価値があるという意味です。そのことから仏教の修行の最高段階やそこに到達した人(仏僧)を羅漢と呼んでいます。

    青海島 碧濤台 十六羅漢
    海岸に大小の岩島が立ち並ぶのが「十六羅漢」です。奇岩群が列をなして海の中に立ち、これらが仏像に見えることから付けられた名称です。色々な方向から眺めれば眺めるほど、仏像に見えてくるそうです。
    こうした光景は、中生代の地層を基盤として、幾度となく隆起と沈降を繰り返して浸食されてできたものです。水平線に近い所には背の高い羅漢、その右側には背の低い羅漢が居られます。背の低い羅漢は凝灰岩、背の高い羅漢は凝灰岩の間を通り抜けてきたマグマが固まった流紋岩からできています。流紋岩は凝灰岩よりも固いので、雨や浪、風に浸食される量が少ないため背が高いそうです。
    因みに、羅漢とは「阿羅漢」を略した言葉で、尊敬・供養を受ける価値があるという意味です。そのことから仏教の修行の最高段階やそこに到達した人(仏僧)を羅漢と呼んでいます。

  • 青海島 碧濤台 変装行列<br />島内にはいくつかの撮影スポットがありますが、その中で最もカメラマンが集まる場所が自然研究路から海岸へ降りた所にあります。それが、変装行列と呼ばれる奇岩群が目の前で見られる中の浦海岸です。碧濤台から徒歩5分程の所に中の浦海岸に降りる道があります。しかし、海岸へ降りる時間的余裕もなく、展望台から俯瞰するだけでに留めます。<br />夕景ではこの2つの屹立した小岩島が名高く、高さ15m程の岩の間に沈む夕陽は、金色の影絵の世界を演出します。しかし、2本の奇岩の間に夕陽を入れられる撮影ポイントは限られており、陣取りが大変のようです。昼間から太陽が沈む位置を予測するのは困難ですから、前日にでも下見されて陣取られているのでしょうか?

    青海島 碧濤台 変装行列
    島内にはいくつかの撮影スポットがありますが、その中で最もカメラマンが集まる場所が自然研究路から海岸へ降りた所にあります。それが、変装行列と呼ばれる奇岩群が目の前で見られる中の浦海岸です。碧濤台から徒歩5分程の所に中の浦海岸に降りる道があります。しかし、海岸へ降りる時間的余裕もなく、展望台から俯瞰するだけでに留めます。
    夕景ではこの2つの屹立した小岩島が名高く、高さ15m程の岩の間に沈む夕陽は、金色の影絵の世界を演出します。しかし、2本の奇岩の間に夕陽を入れられる撮影ポイントは限られており、陣取りが大変のようです。昼間から太陽が沈む位置を予測するのは困難ですから、前日にでも下見されて陣取られているのでしょうか?

  • 青海島 碧濤台 象の鼻<br />変装行列の少し先には「象の鼻」と呼ばれる、陸地と繋がった岩礁群があります。<br />遊覧船から見ると、象を斜め前方から見た感じになり、左から鼻、頭、前足、後足の各パーツが全て揃ったビッグなナウマン象の姿を彷彿とさせるそうです。<br />ここから見て象の鼻のように見えるのが、実は後ろ足です。鼻に見立てると、象が水を飲んでいる姿に見えないこともありませんが・・・。ここはロールシャッハ・テストの領域になってしまいます。<br /><br />余談ですが、ここ長門市は武将 大内義隆の最期の地です。義隆が家臣 陶晴賢のクーデターに遭い、青海島に落ち延びてきた際、上利和泉らが逃亡のための船を用意するなど便宜を図ったことから、義隆より千手観音像を授けられています。その像が現在も西円寺に遺されているそうです。郷土史研究家は、上利家は平家の落人の末裔と説えていますが、詳細は不明のようです。<br />石見へ向かうための船は準備されましたが、折からの嵐で出航できずに深川の大寧寺に逃げ込み、義隆父子はそこで自刃して果てました。

    青海島 碧濤台 象の鼻
    変装行列の少し先には「象の鼻」と呼ばれる、陸地と繋がった岩礁群があります。
    遊覧船から見ると、象を斜め前方から見た感じになり、左から鼻、頭、前足、後足の各パーツが全て揃ったビッグなナウマン象の姿を彷彿とさせるそうです。
    ここから見て象の鼻のように見えるのが、実は後ろ足です。鼻に見立てると、象が水を飲んでいる姿に見えないこともありませんが・・・。ここはロールシャッハ・テストの領域になってしまいます。

    余談ですが、ここ長門市は武将 大内義隆の最期の地です。義隆が家臣 陶晴賢のクーデターに遭い、青海島に落ち延びてきた際、上利和泉らが逃亡のための船を用意するなど便宜を図ったことから、義隆より千手観音像を授けられています。その像が現在も西円寺に遺されているそうです。郷土史研究家は、上利家は平家の落人の末裔と説えていますが、詳細は不明のようです。
    石見へ向かうための船は準備されましたが、折からの嵐で出航できずに深川の大寧寺に逃げ込み、義隆父子はそこで自刃して果てました。

  • 青海島 船越<br />青海島は猫の島としても知られています。<br />「の」の字になった2匹の猫が、春らしい陽気に誘われて惰眠を貪っています。<br />青海島に伝わる昔話を紹介しておきましょう。<br />昔々、青海島と仙崎は陸続きで、歩いて行き来ができました。その頃、青海島には沢山の猿が棲み、仙崎に行っては畑に悪戯をしてお百姓さんたちを困らせていました。<br />ある、昼下がりの事です。一匹の猿が仙崎への道を歩いていると、畳一畳敷もあろうかという大きな海亀が気持ちよさそうに昼寝をしていました。悪戯好きな猿は、海亀の甲羅に乗って海亀の首を引っぱると、「こら、おきろ!おきろ!」とわめきました。<br />すると目を覚ました亀が吃驚して首を引っ込めたので、猿は手を甲羅の中に挟まれてしまいました。「あいたた!」。猿は仲間に助けを求めました。するとその声を聞きつけて、2百匹もの猿たちが集まって来ました。「みんな、力を合せて仲間を助けるんだ!それ、手を繋げ!」。猿たちは手を繋ぐと、綱引きの様に手を挟まれた猿を引っ張りました。「よいしょ!よいしょ!」。しかし亀の力は強く、猿たちは海に引きずられていきます。手を挟まれた猿は、溺れる寸前です。「後ろのやつ、あの松の木につかまるんだ!」。一匹の猿が言うと、後ろにいた猿たちが岩から生えている松の木に抱きつきました。「絶対に、放すなよ。放したら、海に引きづり込まれるぞ!」。猿たちが松の木にしがみついてがんばったので、ようやく亀の動きが止まりました。<br />急に動けなくなった亀は、何だろうと思って首を伸ばして後方を見ました。その時、甲羅に挟まれていた猿の手が、スルっと抜けたのです。<br />「抜けた!」。ドシーン!!バランスを崩した猿たちは一斉に尻もちをつき、いやというほどお尻の皮を擦り剥いてしまいました。<br />この事があってから、青海島の猿のお尻は他の猿よりも赤くなったのです。また、青海島が今のように仙崎から遠く離れてしまったのも、猿たちが尻もちをついたはずみで動いてしまったのだと言われています。<br />

    青海島 船越
    青海島は猫の島としても知られています。
    「の」の字になった2匹の猫が、春らしい陽気に誘われて惰眠を貪っています。
    青海島に伝わる昔話を紹介しておきましょう。
    昔々、青海島と仙崎は陸続きで、歩いて行き来ができました。その頃、青海島には沢山の猿が棲み、仙崎に行っては畑に悪戯をしてお百姓さんたちを困らせていました。
    ある、昼下がりの事です。一匹の猿が仙崎への道を歩いていると、畳一畳敷もあろうかという大きな海亀が気持ちよさそうに昼寝をしていました。悪戯好きな猿は、海亀の甲羅に乗って海亀の首を引っぱると、「こら、おきろ!おきろ!」とわめきました。
    すると目を覚ました亀が吃驚して首を引っ込めたので、猿は手を甲羅の中に挟まれてしまいました。「あいたた!」。猿は仲間に助けを求めました。 するとその声を聞きつけて、2百匹もの猿たちが集まって来ました。「みんな、力を合せて仲間を助けるんだ!それ、手を繋げ!」。猿たちは手を繋ぐと、綱引きの様に手を挟まれた猿を引っ張りました。「よいしょ!よいしょ!」。しかし亀の力は強く、猿たちは海に引きずられていきます。手を挟まれた猿は、溺れる寸前です。「後ろのやつ、あの松の木につかまるんだ!」。一匹の猿が言うと、後ろにいた猿たちが岩から生えている松の木に抱きつきました。「絶対に、放すなよ。放したら、海に引きづり込まれるぞ!」。猿たちが松の木にしがみついてがんばったので、ようやく亀の動きが止まりました。
    急に動けなくなった亀は、何だろうと思って首を伸ばして後方を見ました。その時、甲羅に挟まれていた猿の手が、スルっと抜けたのです。
    「抜けた!」。ドシーン!!バランスを崩した猿たちは一斉に尻もちをつき、いやというほどお尻の皮を擦り剥いてしまいました。
    この事があってから、青海島の猿のお尻は他の猿よりも赤くなったのです。また、青海島が今のように仙崎から遠く離れてしまったのも、猿たちが尻もちをついたはずみで動いてしまったのだと言われています。

  • 青海島 <br />山口県のガードレールの色はオレンジ色です。<br />1963年、第18回国体が開催されるに当たり、当時の橋本県知事の下、山口県の特色をアピールしようとガードレールを特産品の夏みかん色に塗り替えたそうです。現在でも山口県管理の県道及び一部の国道は黄色のガードレールが標準となっているそうです。<br />夏ミカンの正式和名は「ナツダイダイ」言いますが、青海島が原産地だそうです。青海島には日本の夏ミカンの起源とされる樹齢300年の源樹があり、1927(昭和2)年に国の天然記念物に指定されています。<br />江戸時代中期、黒潮に乗って南方から青海島の大日比の海岸に漂着した文旦系の柑橘の種を地元に住む西本於長(女性)が播いて育てたものと伝わっています。実が成るようになると、その実を宇樹橘(ウジュキツ)、ばけもの、ばけだいだいなどと呼んでいたようです。 <br />萩には、200年前に楢崎十郎兵衛(江向)が大日比の知人から数個の実を送られ種を蒔いたという記録や、熊谷家(今魚店)で料理に使われていた記録が残っています。夏ミカンは江戸時代の終わり頃には、萩の武士や大きな商人の家などに植えられていたそうです。しかし、売ってお金を儲けるためではなく、自家消費のためだったようです。吉田松陰の松下村塾の周りにも夏ミカンが植えられていたことが古い図面に記されているそうです。 <br />因みに、夏ミカンの皮を使って日本で初めてマーマレードを作ったのは福沢諭吉だそうです。南方の国から遥か海の旅を経て青海島に辿りついた夏ミカンは、今では山口県、特に萩の名産品として愛好されています。

    青海島
    山口県のガードレールの色はオレンジ色です。
    1963年、第18回国体が開催されるに当たり、当時の橋本県知事の下、山口県の特色をアピールしようとガードレールを特産品の夏みかん色に塗り替えたそうです。現在でも山口県管理の県道及び一部の国道は黄色のガードレールが標準となっているそうです。
    夏ミカンの正式和名は「ナツダイダイ」言いますが、青海島が原産地だそうです。青海島には日本の夏ミカンの起源とされる樹齢300年の源樹があり、1927(昭和2)年に国の天然記念物に指定されています。
    江戸時代中期、黒潮に乗って南方から青海島の大日比の海岸に漂着した文旦系の柑橘の種を地元に住む西本於長(女性)が播いて育てたものと伝わっています。実が成るようになると、その実を宇樹橘(ウジュキツ)、ばけもの、ばけだいだいなどと呼んでいたようです。
    萩には、200年前に楢崎十郎兵衛(江向)が大日比の知人から数個の実を送られ種を蒔いたという記録や、熊谷家(今魚店)で料理に使われていた記録が残っています。夏ミカンは江戸時代の終わり頃には、萩の武士や大きな商人の家などに植えられていたそうです。しかし、売ってお金を儲けるためではなく、自家消費のためだったようです。吉田松陰の松下村塾の周りにも夏ミカンが植えられていたことが古い図面に記されているそうです。
    因みに、夏ミカンの皮を使って日本で初めてマーマレードを作ったのは福沢諭吉だそうです。南方の国から遥か海の旅を経て青海島に辿りついた夏ミカンは、今では山口県、特に萩の名産品として愛好されています。

  • 青海島観光基地シーサイドスクエア<br />青海島観光汽船は、鯨をイメージした愛称「シータス」や「ピンクシータス」に乗って、青海島を海から探訪する観光船です。通常、一周コース(所要時間:1時間20分)ですが、風や波の状態によりショートカットされることがあります。奇岩群の間を縫うように走るというスリリングなクルージングが愉しめます。<br />この「ピンクシータス」は、降船後に潮を噴出しますのでお見逃しなく!<br /><br />遊覧コースのマップです。<br />http://www.omijimakankoukisen.jp/%E9%81%8A%E8%A6%A7%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/

    青海島観光基地シーサイドスクエア
    青海島観光汽船は、鯨をイメージした愛称「シータス」や「ピンクシータス」に乗って、青海島を海から探訪する観光船です。通常、一周コース(所要時間:1時間20分)ですが、風や波の状態によりショートカットされることがあります。奇岩群の間を縫うように走るというスリリングなクルージングが愉しめます。
    この「ピンクシータス」は、降船後に潮を噴出しますのでお見逃しなく!

    遊覧コースのマップです。
    http://www.omijimakankoukisen.jp/%E9%81%8A%E8%A6%A7%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/

  • 青海島観光基地シーサイドスクエア 金子みすゞの銅像<br />金子みすゞが暮らした千崎の町を訪ねてみました。<br />みすゞはこの町に生まれ、26歳の若さで逝った詩人です。本名はテル。20歳で童謡を書き始め、西條八十に「イギリスのクリスティナ・ロゼッティを彷彿とさせる」と絶賛されましたが、能に溢れながら不幸な結婚を経て早逝し、幻の童謡詩人と称されました。その短い生涯に珠玉の詩512編を綴り、その全てが生命の尊さや自然や生物への慈愛に満ちた日本人の琴線に触れる詩でした。また、詩に登場する海や町の風景は、どれも仙崎のものを詠んでいます。仙崎の豊かな自然と風土が、彼女の繊細な心を育んだであろうことは想像に難くありません。<br /><br />みすゞは、船の発着地である仙崎の出身です。<br />『鯨法会(くじらほうえ)』<br />「鯨法会は春のくれ、海に飛魚採れるころ。<br /><br />浜のお寺で鳴る鐘が、ゆれて水面をわたるとき、<br />村の漁夫が羽織着て、浜のお寺へいそぐとき、<br />沖で鯨の子がひとり、その鳴る鐘をききながら、<br />死んだ父さま、母さまを、こいし、こいしと泣いています。<br /><br />海のおもてを、鐘の音は、海のどこまで、ひびくやら」。<br />静かで豊かな海は、人々に豊かな恵みをもたらしましたが、それとてもこの繊細過ぎる童謡詩人には、悲しい出来事に映ったのかもしれません。<br /><br />金子みすゞ散策マップです。<br />http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/kanko/chousyuuji/kankouressya/misuzu/pdf/senzaki.pdf

    青海島観光基地シーサイドスクエア 金子みすゞの銅像
    金子みすゞが暮らした千崎の町を訪ねてみました。
    みすゞはこの町に生まれ、26歳の若さで逝った詩人です。本名はテル。20歳で童謡を書き始め、西條八十に「イギリスのクリスティナ・ロゼッティを彷彿とさせる」と絶賛されましたが、能に溢れながら不幸な結婚を経て早逝し、幻の童謡詩人と称されました。その短い生涯に珠玉の詩512編を綴り、その全てが生命の尊さや自然や生物への慈愛に満ちた日本人の琴線に触れる詩でした。また、詩に登場する海や町の風景は、どれも仙崎のものを詠んでいます。仙崎の豊かな自然と風土が、彼女の繊細な心を育んだであろうことは想像に難くありません。

    みすゞは、船の発着地である仙崎の出身です。
    『鯨法会(くじらほうえ)』
    「鯨法会は春のくれ、海に飛魚採れるころ。

    浜のお寺で鳴る鐘が、ゆれて水面をわたるとき、
    村の漁夫が羽織着て、浜のお寺へいそぐとき、
    沖で鯨の子がひとり、その鳴る鐘をききながら、
    死んだ父さま、母さまを、こいし、こいしと泣いています。

    海のおもてを、鐘の音は、海のどこまで、ひびくやら」。
    静かで豊かな海は、人々に豊かな恵みをもたらしましたが、それとてもこの繊細過ぎる童謡詩人には、悲しい出来事に映ったのかもしれません。

    金子みすゞ散策マップです。
    http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/kanko/chousyuuji/kankouressya/misuzu/pdf/senzaki.pdf

  • JR千崎駅舎<br />JR千崎駅舎の佇まいは、まるで大正時代のまま取り残されたかのようです。<br />みすゞが生きていた時代に一気にタイムスリップした錯覚に陥ります。<br />駅前から北側に一直線に伸びる道が「みすゞロード」です。

    JR千崎駅舎
    JR千崎駅舎の佇まいは、まるで大正時代のまま取り残されたかのようです。
    みすゞが生きていた時代に一気にタイムスリップした錯覚に陥ります。
    駅前から北側に一直線に伸びる道が「みすゞロード」です。

  • JR千崎駅舎 プロジェクトM仙崎駅<br />仙崎駅の無人改札口の先では、構内に飾られたモザイク画「プロジェクトM仙崎駅」が目に飛び込んできます。全て蒲鉾板でできており、壮観です。<br />みすゞの詩『汽車の窓から』をモチーフに、みすゞの顔と田園風景を描いた夕焼けの情景が描かれています。<br /><br />『汽車の窓から』<br />「お山であかいは あれはなに。<br />あれは櫨(はじ)の木、櫨紅葉、<br />なにか怖いな 黒い赤。<br /><br />お里であかいは あれはなに。<br />あれは熟れてる 柿の實(み)よ、<br />見てもうまそな、黄いな赤。<br /><br />お空であかいは あれはなに。     <br />あれはお汽車の 燈のかげよ、<br />さみしい赤よ、亡い赤よ」。

    JR千崎駅舎 プロジェクトM仙崎駅
    仙崎駅の無人改札口の先では、構内に飾られたモザイク画「プロジェクトM仙崎駅」が目に飛び込んできます。全て蒲鉾板でできており、壮観です。
    みすゞの詩『汽車の窓から』をモチーフに、みすゞの顔と田園風景を描いた夕焼けの情景が描かれています。

    『汽車の窓から』
    「お山であかいは あれはなに。
    あれは櫨(はじ)の木、櫨紅葉、
    なにか怖いな 黒い赤。

    お里であかいは あれはなに。
    あれは熟れてる 柿の實(み)よ、
    見てもうまそな、黄いな赤。

    お空であかいは あれはなに。  
    あれはお汽車の 燈のかげよ、
    さみしい赤よ、亡い赤よ」。

  • JR千崎駅舎 プロジェクトM仙崎駅<br />蒲鉾板には、このように一枚ずつ観光客や市民らのメッセージが記されています。<br />制作に協力された方々の熱い思いが伝わってきます。

    JR千崎駅舎 プロジェクトM仙崎駅
    蒲鉾板には、このように一枚ずつ観光客や市民らのメッセージが記されています。
    制作に協力された方々の熱い思いが伝わってきます。

  • みすゞロード おもかる石<br />みすゞロードを歩いていると、おもかる石なるものを発見。<br />願い事を思いつつこの石を持ち上げると、その願いが叶うなら軽く持ち上がり、願いが叶いづらい場合は重くて持ち上がらないと言われています。

    みすゞロード おもかる石
    みすゞロードを歩いていると、おもかる石なるものを発見。
    願い事を思いつつこの石を持ち上げると、その願いが叶うなら軽く持ち上がり、願いが叶いづらい場合は重くて持ち上がらないと言われています。

  • みすゞロード<br />金子みすゞは、西条八十によって発掘され「若き童謡詩人の中の巨星」と讃えられましたが、没後に作品は散逸し、幻の童謡詩人と語り継がれてきました。しかし、1982年に遺稿集が見つかり、この世に甦りました。<br /><br />彼女の自殺の原因は次のように記されています。<br />書店の番頭 宮本啓喜と結婚し、娘をもうけます。しかし、夫から童謡を書くことを禁じられ、更に遊郭の梅毒を夫からうつされて心身共に傷付いてゆきます。みすゞは自分が子供を育てることを条件に離婚を決意しますが、夫は子供を返せと詰め寄り、ついには娘を連れ出そうとします。娘を守るために命をかける事を決意し、娘が幸せになれるように祖母に預けてもらえうよう遺書に認めて睡眠薬を多量に飲んだそうです。<br />こんなやさしい詩を書いた人が、このような悲哀の人生を送っていたとは…。こうした背景を知ればこそ、彼女の詩に秘められた優しさが改めて溢れんばかりに伝わってきます。

    みすゞロード
    金子みすゞは、西条八十によって発掘され「若き童謡詩人の中の巨星」と讃えられましたが、没後に作品は散逸し、幻の童謡詩人と語り継がれてきました。しかし、1982年に遺稿集が見つかり、この世に甦りました。

    彼女の自殺の原因は次のように記されています。
    書店の番頭 宮本啓喜と結婚し、娘をもうけます。しかし、夫から童謡を書くことを禁じられ、更に遊郭の梅毒を夫からうつされて心身共に傷付いてゆきます。みすゞは自分が子供を育てることを条件に離婚を決意しますが、夫は子供を返せと詰め寄り、ついには娘を連れ出そうとします。娘を守るために命をかける事を決意し、娘が幸せになれるように祖母に預けてもらえうよう遺書に認めて睡眠薬を多量に飲んだそうです。
    こんなやさしい詩を書いた人が、このような悲哀の人生を送っていたとは…。こうした背景を知ればこそ、彼女の詩に秘められた優しさが改めて溢れんばかりに伝わってきます。

  • 金子みすゞ記念館<br />みすゞの生家跡には、彼女の実家が営んでいた本屋「金子文英堂」が生誕百年を機に再現されています。父親の死後、下関の上山文英堂の世話で、母親が書店を営みました。<br />保証被りで破産した金子文英堂の後には、3店舗程の店の変遷があったそうですが、その途上で元の文英堂は消滅しています。最後の寿司屋「魚秀」が1997年に営業を終了した後、暫くして長門市の管理下に入り、映画「みすゞ」撮影のロケセットとして「金子文英堂」風に復元されたものです。<br /><br />金子みすゞ記念館を紹介しているHPです。<br />https://www.city.nagato.yamaguchi.jp/site/misuzu//list12-44.html<br />HISの割引クーポンです。<br />http://his-coupon.com/ja/shop_8000117.html<br />

    金子みすゞ記念館
    みすゞの生家跡には、彼女の実家が営んでいた本屋「金子文英堂」が生誕百年を機に再現されています。父親の死後、下関の上山文英堂の世話で、母親が書店を営みました。
    保証被りで破産した金子文英堂の後には、3店舗程の店の変遷があったそうですが、その途上で元の文英堂は消滅しています。最後の寿司屋「魚秀」が1997年に営業を終了した後、暫くして長門市の管理下に入り、映画「みすゞ」撮影のロケセットとして「金子文英堂」風に復元されたものです。

    金子みすゞ記念館を紹介しているHPです。
    https://www.city.nagato.yamaguchi.jp/site/misuzu//list12-44.html
    HISの割引クーポンです。
    http://his-coupon.com/ja/shop_8000117.html

  • 金子みすゞ記念館 入口<br />当時、全く無名だったみすゞは、児童文学者 矢崎節夫氏に掘り起こされ、素朴で心あたたまる童謡は人々の心をとらえて瞬く間に広がっていきました。<br />そんな縁もあり、矢崎節夫氏は金子みすゞ記念館の館長になられています。

    金子みすゞ記念館 入口
    当時、全く無名だったみすゞは、児童文学者 矢崎節夫氏に掘り起こされ、素朴で心あたたまる童謡は人々の心をとらえて瞬く間に広がっていきました。
    そんな縁もあり、矢崎節夫氏は金子みすゞ記念館の館長になられています。

  • 金子みすゞ記念館 店舗<br />書架に本が並べられ、みすゞが働いていた本屋「金子文英堂」が再現されています。お店の雰囲気は、大正〜昭和時代を映しています。<br />童謡雑誌「赤い鳥」などの本がそれとなく並べられ、それを手にしてみると表紙だけコピーしたものでがっかりしましたが、みすゞが店番をしながらこうした本を手にしている姿が目に浮かぶようです。<br /><br />児童文学作家 矢崎節夫氏による「みすゞ探し」の結果、みすゞ甦りが始まりました。その集大成がこの「金子みすゞ記念館」です。<br />見学者は、みな寡黙に説明書きを読んでおられます。

    金子みすゞ記念館 店舗
    書架に本が並べられ、みすゞが働いていた本屋「金子文英堂」が再現されています。お店の雰囲気は、大正〜昭和時代を映しています。
    童謡雑誌「赤い鳥」などの本がそれとなく並べられ、それを手にしてみると表紙だけコピーしたものでがっかりしましたが、みすゞが店番をしながらこうした本を手にしている姿が目に浮かぶようです。

    児童文学作家 矢崎節夫氏による「みすゞ探し」の結果、みすゞ甦りが始まりました。その集大成がこの「金子みすゞ記念館」です。
    見学者は、みな寡黙に説明書きを読んでおられます。

  • 金子みすゞ記念館 帳場<br />店の奥には帳場が再現されています。<br />帳場には、時代考証よろしく5つ玉のソロバンなどが置かれています。<br />2階にはみすゞの部屋が再現されていますが、時間に追われて見ることができませんでした。

    金子みすゞ記念館 帳場
    店の奥には帳場が再現されています。
    帳場には、時代考証よろしく5つ玉のソロバンなどが置かれています。
    2階にはみすゞの部屋が再現されていますが、時間に追われて見ることができませんでした。

  • 金子みすゞ記念館<br />桃の節句ということで、豪華な雛壇も飾られています。

    金子みすゞ記念館
    桃の節句ということで、豪華な雛壇も飾られています。

  • 金子みすゞ記念館<br />常設展示室の入口前には、大きな写真が飾ってあります。背景が、再現されたみすゞの部屋です。<br />何か違和感を覚えたので近づいて見てみると、写真はドットで描かれ、そのドットが全て顔写真でできています。実に12万枚の写真が使われているそうです。<br /><br />『わたしと小鳥とすずと』<br />「わたしが両手をひろげても、お空はちっともとべないが、<br />とべる小鳥はわたしのように、地面(じべた)をはやくは走れない。<br /><br />わたしがからだをゆすっても、きれいな音はでないけど、<br />あの鳴るすずはわたしのように たくさんのうたは知らないよ。<br />すずと、小鳥と、それからわたし、みんなちがって、みんないい」。

    金子みすゞ記念館
    常設展示室の入口前には、大きな写真が飾ってあります。背景が、再現されたみすゞの部屋です。
    何か違和感を覚えたので近づいて見てみると、写真はドットで描かれ、そのドットが全て顔写真でできています。実に12万枚の写真が使われているそうです。

    『わたしと小鳥とすずと』
    「わたしが両手をひろげても、お空はちっともとべないが、
    とべる小鳥はわたしのように、地面(じべた)をはやくは走れない。

    わたしがからだをゆすっても、きれいな音はでないけど、
    あの鳴るすずはわたしのように たくさんのうたは知らないよ。
    すずと、小鳥と、それからわたし、みんなちがって、みんないい」。

  • 金子みすゞ記念館<br />『蜂と神さま』<br />「蜂はお花のなかに、<br />お花はお庭のなかに、<br />お庭は土塀のなかに、<br />土塀は町の中に、<br />町は日本の中に<br />日本は世界の中に<br />世界は神さまの中に。<br /><br />そうして、そうして、神さまは、<br />小ちゃな蜂の中に」。<br /><br />みすゞのミクロ・スケールとマクロ・スケールが見事に融合した詩ですが、言葉の繰り返しでひとつのサイクル詩にもなっています。つまり、最後までいったら、また最初に戻るエンドレスに詠め、詩の中で「こだま」を遊ばせています。<br />そして、蜂=みすゞと置き換えると、「自他不二の哲学」が浮かび上がってきます。自己を没して、自己が他者(相手)の世界を自己に包み映す姿。つまり、蜂(みすゞ)の中に神(絶対者)があり、神(絶対者)の中に蜂(みすゞ)があります。言葉を繰り返した詩ですが、実に奥が深い詩です。

    金子みすゞ記念館
    『蜂と神さま』
    「蜂はお花のなかに、
    お花はお庭のなかに、
    お庭は土塀のなかに、
    土塀は町の中に、
    町は日本の中に
    日本は世界の中に
    世界は神さまの中に。

    そうして、そうして、神さまは、
    小ちゃな蜂の中に」。

    みすゞのミクロ・スケールとマクロ・スケールが見事に融合した詩ですが、言葉の繰り返しでひとつのサイクル詩にもなっています。つまり、最後までいったら、また最初に戻るエンドレスに詠め、詩の中で「こだま」を遊ばせています。
    そして、蜂=みすゞと置き換えると、「自他不二の哲学」が浮かび上がってきます。自己を没して、自己が他者(相手)の世界を自己に包み映す姿。つまり、蜂(みすゞ)の中に神(絶対者)があり、神(絶対者)の中に蜂(みすゞ)があります。言葉を繰り返した詩ですが、実に奥が深い詩です。

  • 金子みすゞ記念館<br />みすゞが詩を書き綴った3冊の手帳の直筆原稿が展示されています。<br />東日本大震災後、『こだまでしょうか』という詩を取り上げたACジャパンのCMが多く放送され、全国的に知られるようになりました。一人ひとりがこの震災がもたらした被害を自分のこととして感じるきっかけを提供したのがこの詩だと思います。<br />暗かったのでピンボケですが、字体の雰囲気はつかんでいただけると思います。<br /><br />『こだまでしょうか』<br />「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう。<br />「ばか」っていうと「ばか」っていう。<br />「もう遊ばない」っていうと「遊ばない」っていう。<br />そうして、あとでさみしくなって、<br />「ごめんね」っていうと「ごめんね」っていう。<br />こだまでしょうか、いいえ、誰でも。

    金子みすゞ記念館
    みすゞが詩を書き綴った3冊の手帳の直筆原稿が展示されています。
    東日本大震災後、『こだまでしょうか』という詩を取り上げたACジャパンのCMが多く放送され、全国的に知られるようになりました。一人ひとりがこの震災がもたらした被害を自分のこととして感じるきっかけを提供したのがこの詩だと思います。
    暗かったのでピンボケですが、字体の雰囲気はつかんでいただけると思います。

    『こだまでしょうか』
    「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう。
    「ばか」っていうと「ばか」っていう。
    「もう遊ばない」っていうと「遊ばない」っていう。
    そうして、あとでさみしくなって、
    「ごめんね」っていうと「ごめんね」っていう。
    こだまでしょうか、いいえ、誰でも。

  • 金子みすゞ記念館 出口<br />金子文英堂の隣にある休憩棟が出口になります。<br />みすゞの詩には、普通の人には見えないものが見え、感じないものを感じてしまう研ぎ澄まされた五感を持つ詩人の孤独や苦悩が浮遊しているように思えました。物質だけではなく、見えない心象風景にまで共鳴し、その思いを素直な言葉で表現しているからこそ、彼女の詩は時代を越えて人々の心に響きます。<br />辛いことも多かったからこそ、純粋に優しさを見つめ、それらを無心に綴ったのではないでしょうか?思いやりが言動に表れている人は、必ずそれなりの辛い経験をしていらっしゃいますよね!?<br />記念館を出る時には、童心に戻ったような、何とも言えない清々しい気持ちになっていました。

    金子みすゞ記念館 出口
    金子文英堂の隣にある休憩棟が出口になります。
    みすゞの詩には、普通の人には見えないものが見え、感じないものを感じてしまう研ぎ澄まされた五感を持つ詩人の孤独や苦悩が浮遊しているように思えました。物質だけではなく、見えない心象風景にまで共鳴し、その思いを素直な言葉で表現しているからこそ、彼女の詩は時代を越えて人々の心に響きます。
    辛いことも多かったからこそ、純粋に優しさを見つめ、それらを無心に綴ったのではないでしょうか?思いやりが言動に表れている人は、必ずそれなりの辛い経験をしていらっしゃいますよね!?
    記念館を出る時には、童心に戻ったような、何とも言えない清々しい気持ちになっていました。

  • みすゞロード 角の乾物屋<br />幸町にある白井酒食品店は、『角の乾物屋』の詩の冒頭に出てくる「乾物屋」が前身です。ここの角には「角の乾物屋」の碑が立てられています。<br />みすゞは店先の米俵を眺めながら、夕暮れの情景を切り取って描きました。<br /><br />『角の乾物屋』<br />「角の乾物屋の塩俵、日ざしがかっきりもう斜。<br />二軒目の空屋の空俵、捨て犬ころころもぐれてる。<br />三軒目の酒屋の炭俵、山から来た馬いま飼葉。<br />四軒目の本屋の看板の、かげから私はながめてた」。<br />

    みすゞロード 角の乾物屋
    幸町にある白井酒食品店は、『角の乾物屋』の詩の冒頭に出てくる「乾物屋」が前身です。ここの角には「角の乾物屋」の碑が立てられています。
    みすゞは店先の米俵を眺めながら、夕暮れの情景を切り取って描きました。

    『角の乾物屋』
    「角の乾物屋の塩俵、日ざしがかっきりもう斜。
    二軒目の空屋の空俵、捨て犬ころころもぐれてる。
    三軒目の酒屋の炭俵、山から来た馬いま飼葉。
    四軒目の本屋の看板の、かげから私はながめてた」。

  • みすゞロード プロジェクトM2014+<br />青海島の夕景を背景に、みすゞが描かれています。<br />その左側に建っているのは、『郵便局の椿』 に詠まれた仙崎郵便局です。<br />最初は1876(明治9)年に瀬戸崎郵便局として開業し、みすゞの生まれた1903(明治36)年には電信業務、大津高女入学の年には電話業務を開始しました。開局以来の局舎は1962(昭和37)年に新築されましたが、詩の中にも「椿と黒い御門が無くなってペンキ塗装された」とあるように、それ以前にも少しづつ改築がなされていたようです。<br />現在の局舎は1989年3月の建造で3代目となります。<br /><br />『郵便局の椿』 <br />「あかい椿が咲いていた、郵便局がなつかしい<br />いつもすがって雲を見た、黒い御門がなつかしい。<br />ちいさな白い前かけに、赤い椿をひろっては、<br />郵便さんに笑われた、いつかのあの日がなつかしい。<br />あかい椿は伐られたし、黒い御門もこわされて、<br />ペンキの匂うあたらしい、郵便局がたちました。」 <br /><br />言葉の色彩やリズムが美しく、どこか哀しい内容がひとつになって響いてくる素敵な詩です。

    みすゞロード プロジェクトM2014+
    青海島の夕景を背景に、みすゞが描かれています。
    その左側に建っているのは、『郵便局の椿』 に詠まれた仙崎郵便局です。
    最初は1876(明治9)年に瀬戸崎郵便局として開業し、みすゞの生まれた1903(明治36)年には電信業務、大津高女入学の年には電話業務を開始しました。開局以来の局舎は1962(昭和37)年に新築されましたが、詩の中にも「椿と黒い御門が無くなってペンキ塗装された」とあるように、それ以前にも少しづつ改築がなされていたようです。
    現在の局舎は1989年3月の建造で3代目となります。

    『郵便局の椿』
    「あかい椿が咲いていた、郵便局がなつかしい
    いつもすがって雲を見た、黒い御門がなつかしい。
    ちいさな白い前かけに、赤い椿をひろっては、
    郵便さんに笑われた、いつかのあの日がなつかしい。
    あかい椿は伐られたし、黒い御門もこわされて、
    ペンキの匂うあたらしい、郵便局がたちました。」

    言葉の色彩やリズムが美しく、どこか哀しい内容がひとつになって響いてくる素敵な詩です。

  • みすゞロード プロジェクトM3D<br />蒲鉾板2万個を使って作られた立体モザイクアートです。正面、左右からの3方向でそれぞれ違ったモザイクアートが愉しめます。<br />正面は女学校時代と20歳のみすゞの肖像画です。右から見ると王子山から見た仙崎の風景と20歳のみすゞ、左から見ると青海島夕日に染まる変装行列と女学校時代のみすゞが映し出される趣向です。

    みすゞロード プロジェクトM3D
    蒲鉾板2万個を使って作られた立体モザイクアートです。正面、左右からの3方向でそれぞれ違ったモザイクアートが愉しめます。
    正面は女学校時代と20歳のみすゞの肖像画です。右から見ると王子山から見た仙崎の風景と20歳のみすゞ、左から見ると青海島夕日に染まる変装行列と女学校時代のみすゞが映し出される趣向です。

  • みすゞロード モザイクアートM20000<br />蒲鉾板2万枚を使って作れられたモザイクアートで、『大漁』をモチーフに、その詩の世界観を表現しています。一網打尽に捕らわれた鰮(いわし)に感情移入してしまいます。<br />ここには仕掛けがあり、部屋の中にあるスイッチを押すと、ブラックライトに照らされた大羽鰮(おおばいわし)の大群が浮かび上がります。<br /><br />『大漁』<br />「朝焼 小焼だ 大漁だ。大羽鰮の大漁だ。<br />濱は祭りのやうだけど 海のなかでは何萬の鰮のとむらひするだらう」。<br /><br />前半は、大漁に賑わう港の騒ぎを目の前で見ているような臨場感が伝わってきます。後半は、人の営みの罪深さと業、物事の裏表に想いを馳せています。全体を通して、感情のコントラストを表現しています。

    みすゞロード モザイクアートM20000
    蒲鉾板2万枚を使って作れられたモザイクアートで、『大漁』をモチーフに、その詩の世界観を表現しています。一網打尽に捕らわれた鰮(いわし)に感情移入してしまいます。
    ここには仕掛けがあり、部屋の中にあるスイッチを押すと、ブラックライトに照らされた大羽鰮(おおばいわし)の大群が浮かび上がります。

    『大漁』
    「朝焼 小焼だ 大漁だ。大羽鰮の大漁だ。
    濱は祭りのやうだけど 海のなかでは何萬の鰮のとむらひするだらう」。

    前半は、大漁に賑わう港の騒ぎを目の前で見ているような臨場感が伝わってきます。後半は、人の営みの罪深さと業、物事の裏表に想いを馳せています。全体を通して、感情のコントラストを表現しています。

  • 秋吉台<br />秋吉台はツアーコースに含まれていますが、近所まで来たから一寸寄りましょうといったスタンツですので滞在時間は僅か20分です。勿論、秋芳洞に入洞することは叶わず、左端に写っている展望台から景色を俯瞰するだけです。<br />これはツアー会社への事前確認で知っていましたが、どうせなら他の場所に時間を分配していただければと願うのは、当方だけではないように思います。<br />秋芳洞に入洞なされたい方は、ツアー詳細に「入洞」と記載されているツアーを選んでください。

    秋吉台
    秋吉台はツアーコースに含まれていますが、近所まで来たから一寸寄りましょうといったスタンツですので滞在時間は僅か20分です。勿論、秋芳洞に入洞することは叶わず、左端に写っている展望台から景色を俯瞰するだけです。
    これはツアー会社への事前確認で知っていましたが、どうせなら他の場所に時間を分配していただければと願うのは、当方だけではないように思います。
    秋芳洞に入洞なされたい方は、ツアー詳細に「入洞」と記載されているツアーを選んでください。

  • 秋吉台<br />ラッキーなことに、この日の午前中には悪天候のために順延されていた山焼きが行なわれました。バスで登ってくる途中、まだ燃え盛っている場所もありました。<br />そのため、白いカルスト台地がくっきりと浮かび上がっています。前回訪れた夏場は、緑一色でこのような景観は望めませんでした。<br />ここも季節によって表情を変えるようです。

    秋吉台
    ラッキーなことに、この日の午前中には悪天候のために順延されていた山焼きが行なわれました。バスで登ってくる途中、まだ燃え盛っている場所もありました。
    そのため、白いカルスト台地がくっきりと浮かび上がっています。前回訪れた夏場は、緑一色でこのような景観は望めませんでした。
    ここも季節によって表情を変えるようです。

  • 秋吉台 展望台<br />展望台からの景色です。<br />秋芳洞を「しょうほうどう」と読むか「あきよしどう」と読むかで、その人の生まれた年代を知ることができます。<br />「しょうほうどう」と読まれる方は、1950年代以前の生まれだそうです。<br />これは、昭和天皇(当時は皇太子)がまだ滝穴と呼ばれていた時代に観光に来られ、秋芳洞を「あきよしどう」と読まれたそうです。当時の標識は全て「しょうほうどう」となっていたそうですが、これを受けて全て「あきよしどう」に書き換えたそうです。<br /><br />秋吉台を後にして、バスは一路 瑠璃光寺に向けて走り出しました。<br />この続きは、早春賦 西国放浪記⑧瑠璃光寺でお届けいたします。

    秋吉台 展望台
    展望台からの景色です。
    秋芳洞を「しょうほうどう」と読むか「あきよしどう」と読むかで、その人の生まれた年代を知ることができます。
    「しょうほうどう」と読まれる方は、1950年代以前の生まれだそうです。
    これは、昭和天皇(当時は皇太子)がまだ滝穴と呼ばれていた時代に観光に来られ、秋芳洞を「あきよしどう」と読まれたそうです。当時の標識は全て「しょうほうどう」となっていたそうですが、これを受けて全て「あきよしどう」に書き換えたそうです。

    秋吉台を後にして、バスは一路 瑠璃光寺に向けて走り出しました。
    この続きは、早春賦 西国放浪記⑧瑠璃光寺でお届けいたします。

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