2016/03/03 - 2016/03/05
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montsaintmichelさん
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啓蟄が近づいた3月3~5日、焦燥感に駆られて西国再訪の旅に出てみました。2013年にも津和野に憧れて似たコースを回るツアーに参加しましたが、津和野に向かう当日の豪雨により道路が寸断されるというハプニングに遭遇し、リベンジを誓っていました。昨年は萩城下町が世界文化遺産に登録され、また、NHK大河ドラマ『花燃ゆ』の影響で人が押し寄せていたため、通常は津和野と萩がセットになる西国を再訪するタイミングを逸していました。
ツアーのスタートは、2度目の訪問になる錦帯橋。昼食を含めて1時間30分の滞在でしたが、今回は趣向を変えて城下町の旧家を訪ねてみました。また、「岩国 内裏ひなまつり」の最終日とも重なり、旧商家に伝えられてきた明治時代以降の雛飾りを愛でることもできました。次回は、岩国城に登城してみたいと思います。つまり、錦帯橋付近は見所が満載で、1度のツアーで回れる範囲は限定的と言えます。
尚、錦帯橋の基本情報については、重複を避けるため前回の西国周遊記 錦帯橋編「http://4travel.jp/travelogue/10797559」を参照いただければ幸甚です。
今回お世話になったのは、C社の「山陽まるごと周遊3日間」でした。見所盛り沢山でリーズナブルでしたので、北辰バスのガイドさんはいませんでした。ブログのネタになる薀蓄が聞けなくて残念でしたが、その代わりに添乗員さんが基本的なところを説明されました。現地ではボランティアやショップの方がガイドされるためこれで充分と思いました。おかげでバスの中で煩くされず、熟睡できたとのたまわれる方も多かったような!?
<1日目>
新大阪駅(新幹線)===福山駅---錦帯橋(昼食+散策)
---津和野(案内人と一緒に散策)---萩グランドホテル天空
<2日目>
萩グランドホテル天空---松陰神社(ボランティアの方と一緒に散策)
---旧萩藩校明倫館(同じ)---萩城下町(同じ)
---蒲鉾店(ショッピング)---海鮮村北長門(昼食)
---青海島(クルーズコース・島上陸コース・金子みすゞ記念館コースから選択)
---秋吉台---瑠璃光寺---湯本観光ホテル西京(オプション:大谷山荘宿泊)
<3日目>
湯本観光ホテル西京---宮島口===宮島(昼食+散策:3時間)===宮島口
---尾道===千光寺公園(ロープウェイ)---千光寺公園(山頂)
---福山駅(新幹線)===新大阪駅
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 観光バス 新幹線
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
-
錦帯橋
山は富士、滝は那智、橋は錦帯とまで称され、1922(大正11)年には国の名勝に指定されています。しかし、この「錦帯」という美名は、宝永年間(1704年〜)以降に文学的な表現として定着したとの説が有力です。錦帯橋の名前の変遷については、橋が完成して以降、「五龍橋」「城門橋」「龍雲橋」など、様々な名前で親しまれてきました。確かにイマジネーションを膨らませる橋ではあります。
調べたところ、「錦帯橋」の呼び名は、創建から30年後に付けられた呼称です。その由来もご多分に洩れず、岩国藩の儒学者 宇都宮遯庵(とんあん)の随筆にある「錦見の里に帯で結んだ橋」という表現から定着したという説や、漢詩から来ているという説など諸説伝えられています。
錦帯橋自体は詩句などに頻繁に使われ、四季を通じて多彩な姿を魅せる優美な5連の木橋は、清流 錦川と調和して美しい風景を詠まれてきました。また、その美しさは、歌川広重や葛飾北斎、司馬江漢などが絵画に描きました。そして現在は、その華麗な姿だけでなく、それを造形した技術が世界的に評価されています。先人の知恵と情熱がつくりだした錦帯橋が、日本文化のシンボルとして未来に受け継がれて行くことを願ってやまみません。
錦帯橋の基本情報については、重複を避けるため載せておりません。前回の西国周遊記 錦帯橋編を参照いただければ幸甚です。
http://4travel.jp/travelogue/10797559 -
錦帯橋 しらため別館「岩国寿司」
錦帯橋の正面にお店を構える「しらため別館」で岩国寿司をいただきます。
岩国市周辺で作られる押し寿司の仲間で、城内で食べられていたことから「殿様寿司」とも呼ばれています。寿司飯の上に、鯛のすり身のおぼろや季節の山菜、岩国レンコン、卵焼き、椎茸、このしろ、青葉などの具が載せてあり、郷土の味が満載です。
今から400年程前に始まり、岩国藩で収穫された米とレンコンに山菜を配し、近海の魚の身を入れ、保存食として寿司にしたのが起源です。保存食とした理由は、山城であり、水が確保できない岩国城での合戦に備えるためだったそうです。大阪の箱寿司に似ていますが、見た目はちらし寿司であり、目に鮮やかです。 -
錦帯橋 しらため別館
しらため別館の魅力は、食通の舌をうならせる味覚だけではなく、2階から望むこの景色もプレミアムです。程よい高さから橋を見下ろせるため、一味違った錦帯橋の姿を堪能できます。
1922年に錦帯橋は国の名勝に指定されましたが、まだ重要文化財には指定されていません。一方、一足飛びに世界遺産に登録しようという活動が活気を帯びています。現在、木橋の世界遺産は存在しませんから、チャンスでもあります。単独の橋が世界遺産に登録された事例は、フランスの水道橋「ポン・デュ・ガール」、スペインのスチール製「ビスカヤ橋」、ボスニア・ヘルツェゴビナの石橋「ドリナ橋」の3例だけです。
錦帯橋を世界遺産にするに当たっての最大の課題は、木材の寿命が短いことにあり、1000年間維持保存できないことです。頻繁に架け替えが行われていることが委員会で指摘されているようです。構造設計の解明も急ピッチで進められているのですが、錦帯橋を世界遺産にするのはなかなか難しいものがあるようです。
今回お世話になった史跡散策マップです。(中段にPDFがあります)
http://kankou.iwakuni-city.net/%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88-%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89 -
錦帯橋 しらため別館
2004年に中国 杭州にある西湖に架かる錦帯橋と姉妹橋となり、錦帯橋の畔には友好の石碑が建立されています。実は、錦帯橋は、杭州錦帯橋をヒントにデザインされたのです。偶然同じ名前だっただけではなく、アーチが連続する独創的な構造で、日本の伝統的橋梁技術の傑作のひとつとされる岩国の錦帯橋の誕生には、西湖の橋が深く関与していることを顕彰しています。
また、錦帯橋と言った貴重な文化遺産を世界にアピールするため、2014年に「錦帯橋を世界文化遺産に推す会」が設立されています。杭州西湖に続いて岩国の錦帯橋も世界遺産に登録されれば、日中文化交流の長い歴史を象徴する興味深いケースになること間違いなしです! -
錦帯橋
食後、早速橋を渡ります。
入橋料 (渡橋料)300円はツアー料金に含まれています。チケットは往復ですので、なくさないようにして下さい。
アーチ部に用いられた木材は、アカマツ、ヒノキ、ケヤキ、ヒバ、クリ、カシの6種類にのぼり、各々の木材は腐食し難い中心部の赤身の部位だけを使う拘りようです。また、木材をその性質によって適材適所に使い分けているのが奥深いところです。
アカマツは柔軟性を生かして変形し易い桁や梁部などの曲げモーメントのかかる部位、ケヤキは強固なため圧縮力が加わる部位、そしてヒノキは耐久性があり手触りがよく見栄えがするため歩行面などの化粧材として使われています。クリは耐水性に富むことから桁材を漏水から守る雨覆い、カシは桁材が接する部分のダボと呼ばれるズレ防止材に使われています。こうした木材の使い分けは、記録が残されている1699(元禄12)年の架け替え以降変わっていないそうです。
ただし、両側の5脚柱部分には、かつてアカマツが使われていましたが、腐り易い箇所のため、現在は水に強いヒバに代えられています。このようにそれぞれの木材の性質を十分に理解し、適材適所に用いられている橋は他に類を見ないと思います。 -
岩国城
1608(慶長13)年に毛利氏から3万石を与えられた初代岩国藩主 吉川広家が、蛇行した錦川に囲まれた天然の要害の地である横山の山頂に築城しました。しかし幕府の一国一城令により、築城より僅か7年後に取り壊しとなり、その後の政務は山麓の居館で行われました。
現在の天守は1962(昭和37)年に「天守構造図」という絵図を元に外観復元されたもので、四重六階の桃山風南蛮造です。南蛮造(唐造)とは最上階をその下階の平面より大きく造り、その間の屋根を省略した様式です。
一国一城令による取り壊し後、幕府より石垣も破却するよう命じられ、無惨にも天守台も破壊されました。しかし下部約1/4が地中に埋まって残っており、1995年に古式穴太積 (あのうづみ)の石垣が発掘復元されました。また北ノ丸の石垣や空堀などの遺構が現存しています。 -
錦川
清流「錦川」は透明度でも知られています。今回、PLフィルタを使った撮影にチャレンジしています。ですから川面の反射の影響が少なくなり、肉眼で見る以上に澄んだ様子が写っています。太陽の位置によっては効果がないこともありますが、ここはひとまず成功のようです。
江戸時代の錦帯橋の架け替えは、橋脚部の木材の腐食等による構造上の観点から20年毎に行われてきました。その後、昭和の再建で橋脚の構造が見直され、今回の平成の架け替え(2001〜4年)は48年ぶりの架け替えになりました。その中で課題も見つかりました。今回の架け替えでは、昭和再建に携わった職人が1人しかおらず、また当時は中学生だったため実作業の経験がなかったのです。つまり、課題とは技術の伝承でした。しかし、奇跡的に大工で培った技量と多くの資料を基に中心的な役割を果たし、錦帯橋を無事再建させたそうです。
江戸時代の技術の伝承は一子相伝と言われ、親から子あるいは親方から弟子へと受け継がれました。しかし、この先50年毎の架け替えでは、一子相伝はおろか最も重要な実績や経験という面で人材育成ができず、将来この橋を架け換えるための本質の技術伝承が難しくなります。
こうした危惧から、現在岩国市は、錦帯橋を末永く保存していくために20年サイクルに戻すことを決議しています。奇しくも伊勢神宮などの式年遷宮と同年数です。
単なる偶然と言われるかもしれませんが、ソロバン勘定もできています。平成の再建にかかった費用は26億円でした。年間50万人が渡橋すると仮定すれば、毎年1.5億円の収入になります(入橋料:現在300円)。ですから20年で30億円になり、消費税がアップしたとしても自力で造り直せる計算になります。 -
錦川
橋脚の傍らに大きな魚影発見。ニジマスでしょうか?
「何故、部材数が多いと地震に強いのか?」という研究が世界中で進められていますが、確固たる解は未だに見出されていません。しかし錦帯橋は、これまで幾度も地震を受けながら、全く問題がないのは事実です。錦帯橋の部材は小物材を含めると2万点を超え、個人的には2万点にも及ぶ部材が互いに力を分散させる、また寺院の斗栱のように摩擦熱に変換して衝撃を吸収する構造が奏功していると思っていますが、これを科学的に証明するのは難しいことです。
現在、国の名勝に指定されている木橋は、山梨県大月市に架かる猿橋と錦帯橋だけですが、猿橋は鋼で補強されているのに対し、錦帯橋の上部構造は創建時のままというのも優位性があります。 -
岩国石人形ミニ資料館 大名行列
館内には石人形の伝説やお土産品としての石人形の歴史、石人形を使った大名行列のジオラマなどが展示されています。錦川に生息するニンギョウトビケラという昆虫が小石や砂を集めて作った巣は、人の形をしていることから石人形(人形石)と呼ばれています。
石人形は、その昔、錦帯橋を洪水から守るために人柱になった乙女たちの化身とも伝えられ、信仰を集めました。伝説では、最初に橋が流された時、貧しい武士が人柱になろうと名乗り出ましたが、父を失うことを悲しんだ姉妹が白装束で現れ、橋台深く身を投げたそうです。こうして、人柱が橋や城、家などを守るとされたことから事故や災害、厄除けのお守りとなり、七福神や地蔵尊、仏像などに見立てられました。江戸時代から、吉川家から他家への贈り物とされ、錦帯橋土産として知られていたそうです。
それまで大雨ごとに流失していた橋が1674(延宝2)年にできた錦帯橋に限って大水にも流されず、立派に風雪に耐えた。その摩訶不思議を、往時の人々は石人形が持つ功徳に結び付け、帰依したのかもしれません。 -
岩国石人形ミニ資料館 七福神
玩具としては「日本三大珍品玩具(鹿児島県「鈴懸け馬」、北海道「十勝達磨」)」のひとつに数えられ、素朴ながら漢詩や和歌、俳句などの題材にされるなど、岩国独自の文化として古くから根付いています。時には小説に登場したり、単なるお土産物ではなく、人と自然を繋ぐ存在として現在まで親しまれています。
因みに、石人形は江戸時代から来日外国人の間で珍しい呪物として喜ばれたそうです。それを知ったある博士が、石人形は七福神になぞらえてつくられたものと学会で講演したという話もあります。
ニンギョウトビケラの幼虫が蓑虫のように口から糸を出して小石や砂を集めて筒巣(石人形)を作った巣ですから中身は空っぽです。しかし、ニンギョウトビケラは本州以南のどの川にも棲んでいます。何故錦帯橋だけで話題になったのでしょうか?実は川の流れや川底の様子などでその形は大きく変わり、錦帯橋周辺では不思議と人形っぽいものが採れるそうです。世界唯一の民芸品と言え、制作しているのは今や錦堂工芸社だけだそうです。言われも知らない観光客がこぞって買う代物ではないような気がしますが、これが現在まで生き残ったという奇跡、あるいは希少価値の方に感動します。そうした価値観で買い求めるものなのかもしれません。 -
岩国石人形ミニ資料館
錦川における石人形の分布図です。
錦川以外では、高知県四万十川や近年仁淀ブルーのキャッチフレーズで脚光を浴びている仁淀川でも採取できるようです。
館長さんはとても気さくな方で色々説明してくだり、長らく石人形の資料収集と研究を続けられている館長さんの思いが詰められた施設と言えます。
石人形をモチーフにした文学作品なども展示されており、当方が思い出したのは荒俣宏著『帝都物語2』に登場した石人形の話です。「雪子は、母と自分を守るために川原で七福神の形をした小石を探して集めました。その石人形が7つ揃うと幸運に恵まれるという・・・」。こんな感じの件だったと思います。 -
佐々木小次郎像
錦帯橋を渡って徒歩3分程の所にもの静かに佇み、背後には菖蒲園が広がっています。傍らに咲き誇る梅の香りに、つい誘われてしまいます。
吉川英治著『宮本武蔵』によれば、武蔵の宿敵 佐々木小次郎は、岩国に生まれ、錦帯橋の畔の柳や燕を相手に「燕返し」を編み出したとしています。錦帯橋が巌流島の決闘の61年後に造られた史実を鑑みれば、吉川氏の創作の域を超えるものではないのですが、時流に便乗したということなのでしょう。
小次郎については、細川藩の剣術指南役であったこと、物干竿と呼ばれる長剣で必殺技「燕返し」を駆使したこと、巌流島の決闘で武蔵に敗れたことしか分かっていないそうです。 -
昌明館付属屋
吉川史料館の正門として使用されている「昌明館付属屋及び門」は、1793(寛政5)年に7代藩主 吉川経倫の隠居所として建造された昌明館に付属する建物の一部です。昌明館は、経倫死去後、8代 経忠夫人や喬松院の居所でしたが、廃藩置県の際に岩国県庁が置かれ、以後一時子孫の方が入居されていましたが、後に解体され現存していません。 -
昌明館付属屋
建物が大きすぎると細部に目が行き届かないのが常ですが、この長屋門の瓦には目加田家邸宅と同様、独特の特徴ある両袖瓦と平瓦を用いた二平葺(にひらぶき)が見られます。
二平葺の説明は、目加田家邸宅の所でさせていただきます。 -
昌明館付属長門
長屋2棟と門1棟は江戸時代に一部改造されていますが、往時の建築様式をよく留め、岩国市の有形文化財に指定されています。 -
吉川史料館 木菟の手水鉢(みみずくのちょうずばち)
昌明館付属長門を潜ると、そこは吉川史料館の一画です。
これは、広島藩浅野家の家老で安土桃山時代の茶人 上田宗箇(うえだそうこ)から枝垂れ桜の返礼として1625(寛永2)年に広家に贈られたと伝わる、手水鉢のレプリカです。本物は紅葉谷にある 岩国藩主 吉川家墓所にあります。
この手水鉢が宗箇から広家に贈られた時には既に没後であったため、使者は止むを得ず今津(岩国市)浄念寺の庭に置いて帰ったそうです。2代 広正から浄念寺に寄贈され、1907(明治40)年に吉川家がこれを譲り受け、現在の墓所に移したようです。
高さ143cmある石柱の表側に木菟が浮き彫りにされ、手水鉢の意匠に木菟が使われるのは珍しいとされています。手水鉢ですので上面には窪みがあり、水が入れられていますが、高すぎて使い勝手が気になるところです。
因みに、宗箇は、上田宗箇流茶道という一派を立ち上げています。また、造園家としては、淡路島と和歌山に彼が手掛けた見事な庭が存在するようです。名古屋城の二の丸庭園や広島の縮景園の作庭も担当されたそうです。
左奥にある建屋が、木菟亭です。茶室のようですが、集会室としても使われているようです。 -
吉川史料館
吉川家に伝来した歴史資料や美術工芸品などが展示されています。中でも吉川家文書、吾妻鏡、太平記など2500点の歴史資料は、国の重要文化財に指定されています。また、国宝の刀なども展示されています。
門構えに圧倒されて門を潜るのが憚られるのですが、この庭までは無料で見ることができます。ですから時間がなくてもちょっとだけ立ち寄られてください。 -
岩国徴古館
戦時中に建造されたという珍しい博物館です。吉川報効会が1942(昭和17)年に起工し、終戦直前の1945年(昭和20)年3月に竣工。その6年後に岩国市に寄贈されています。
現在は民族資料館的な施設になっており、吉川家ゆかりの文書、歴史資料、美術工芸品などの他、錦帯橋コーナーとしてキジア台風で流失した当時の錦帯橋の欄干や精巧に作られた模型などが常設展示されています。
入場無料ですので時間があれば是非立ち寄ってください。 -
岩国徴古館
戦時中は灯火管制があったため、天窓から自然光を採光するなどの工夫がなされています。時代を感じさせない、往時としては斬新なデザインは素晴らしく、岩国市の登録有形文化財となっています。
建物の前庭はボタン園となっており、例年4月末〜5月初旬には色とりどりに咲き乱れるそうです。 -
岩国徴古館
石造風の重厚荘厳な建物です。設計者は、建築工学や音響学分野で名を馳せた佐藤武夫氏です。パリのエトワール凱旋門に代表される新古典主義建築の影響を受けた、モダンなデザインです。正面ファサードは、6本の列柱による新古典主義的な外観を呈し、溶鉱炉のくずを原料とした鉱滓ブロック板を貼ったもので仕上げられています。主なる構造体は煉瓦ですが、資材調達に制約がある中、不足する鉄に代えて竹を用いた「竹筋コンクリート」が使われたとも言われています。 -
岩国徴古館
無骨なコンクリート壁にピンク色の窓枠がアクセントになっています。内部は白色の漆喰で仕上げられた柔らかいアーチ状の太い柱で構成されているようですが、時間の都合で断念します。
佐藤武夫著『火燈窓』では次のように語られています。現代の建築家に噛みしめていただきたい、創造の真髄を射抜いています。
「クラシカルな建築の中には今も脈々として生きている建築精神というものがあります。それはいつまで経っても変わるものでもないし、いつまで経っても古くなるものではないのです。創造という美しい言葉に追いまくられていたずらに異常なもの、珍奇なものに食いつくのを、私は自ら押さえたいと思っているんです。全人間的な立場から、古い建築を偏見なしに見たり学んだりしなければならない、というのが私の考えなんです」。
東京五輪のメインスタジアムのデザインが漸く決まったと思ったら、今度はシンボルとなる聖火台で揉めるとは・・・。箍が弛んでしまっているようです。 -
錦雲閣
吉香公園の堀に面し、城山を借景に立つその姿には風情があり、一幅の日本画を見るようです。
岩国藩邸が廃藩置県によって取り壊された後、1886年に藩邸にあった3階建の南矢倉の跡地に、矢倉に似せて「絵馬堂」として建てられました。
錦雲閣とは、この絵馬堂の雅びた呼び方だそうです。 -
錦雲閣
お堀の内側は、歴代藩主を祀る吉香神社の境内になります。
入母屋造、桟瓦葺、楼閣風の建築様式ですが、矢倉を模して造られ、館跡に設けられた水堀を活かしてその一角に聳え立つ偉容はまさに大矢倉と言えます。
2000年には岩国市の登録有形文化財となっています。 -
錦雲閣
階上は、板敷で高欄付切目縁を廻してあります。 -
錦雲閣
入口の虹梁の上の蟇股には、吉川元春の家紋「丸に三つ引き両紋」が添えられています。吉川家家紋といえば「蛇の目の九曜紋」が有名ですが、別の家紋がこれです。
吉川元春は、毛利元就の次男であり、毛利両川を弟の小早川隆景と共に構築し、毛利家発展の基礎を築き上げた名将です。生涯で76回の合戦に臨み、64回の勝利を収めています。TVドラマ『下町ロケット』で渋い技術系重役を演じた吉川晃司氏は子孫に当たるそうです。
毛利元就とその子 元春がここで登場することから、今回の西国放浪の旅のテーマが見え隠れしています。つまり、大寧寺の変に発する大内家滅亡、毛利元就によるその仇討ちの厳島合戦、関ヶ原の戦いでの敗走からの毛利家の防長滅封、長州藩士を核にした倒幕・明治維新といった歴史のうねりを3日間に圧縮して回ることになります。 -
錦雲閣
奉納された絵馬を掲げておくための建物ですので、階下は土間敷で腰掛縁が設けられています。
正面にあるのは、色褪せてしまった芦野文亀筆「鍾馗(しょうき)」の絵馬です。鍾馗は中国で魔よけや疫病神を追い払う神様として知られ、岩国では当時疫病神の一種とされていた疱瘡(ほうそう)を追い払うために掲げられたものとされています。
木楯間にあるのは、公爵 毛利元昭揮毫の扁額(レプリカ)です。本物は市立図書館に所蔵されています。 -
錦雲閣
お堀に架けられた石橋から眺めると、とても絵馬堂には見えない重厚な建物です。
何か他に秘匿された用途があったのはないかと想像力が掻き立てられます。 -
吉香神社(東鳥居)
旧岩国藩主 吉川家の先祖を祀る三社を統合し、1884(明治17)年に旧居館跡に建立されました。 -
吉香神社
始祖 吉川経義から、13代岩国藩主 吉川経健まで、吉川氏歴代23人の神霊を祀る神社で、現社殿は1727(享保13)年に横山の白山比咩神社内に造営され、1885(明治18)年に旧城跡の現在地に移築されています。 -
吉香神社 神門(重文)
小ぶりの四御門で、冠木中央には金色に輝く吉川家家紋「蛇の目の九曜紋」があります。 -
吉香神社 神門
丁寧な彫刻細工が施されています。 -
吉香神社 社殿
社殿は、吉川興経を祀る治功大明神として1728 (享保13)年に造営されたものです。建物は当初の形式をよく保存しており、岩国藩大工の高い技術力が窺えます。
本殿、拝殿および神門が同一時期の建築で揃い、また、本殿、拝殿および幣殿が建立当時のまま残されているのは大変貴重と言え、1988年に県の有形文化財に指定されています。
拝殿は、入母屋造、妻入で背面に幣殿が張り出しています。
尚、本殿は、三間社流造で正面に軒唐破風、千鳥破風が付されています。 -
藤岡市助博士の銅像
麗らかな春の日差しを浴びながら、目を細めて咲き誇る梅の花を見上げているのでしょうか?
岩国出身の藤岡博士像がロープウェイ駅の手前にあります。岩国出身の東京造形大学教授・彫刻家 小川幸造氏が制作された像は、傍らに立つアーク灯を見上げるポーズで「世の中を明るく照らし、豊かになってもらいたい」との博士の願いが込められています。
実業家としては東京電気株式会社(後の東芝の弱電部門)の創業者として名を残し、「日本のエジソン」とも称され、国産初の電球製造や国内で初めて電車を走らせた偉人です。2014年3月25日(電気の日)の除幕式には、当時の東芝 田中久雄社長をはじめとする多くの役員も参列されたようです。
藤岡博士は、岩国藩士の家に生まれ、8歳の頃から錦帯橋を渡り、12代藩主 吉川経幹が開設した藩校「養老館」で学びました。その後、岩国兵学校や岩国英国語学所に学び、やがて上京して英国に密航した「長州ファイブ」が創立した工部大学校(東京大学工学部)で電気の知識を学びました。そして米国に渡って偉大な発明家エジソンと会い、日本で電気事業を作り上げることを約束したのです。
1882年、銀座に我が国最初の市街電灯を灯し、その眩いまでの明るさに市民は驚嘆したそうです。1890年、浅草「凌雲閣」にエレベータを設置し、屋上にはアーク灯、室内には白熱灯を灯して運転を始めました。また、上野公園の博覧会では日本初の電車を走らせ、1909(明治4)年には岩国でも走らせました。現在は、この電車を模した「いちすけ号」と呼ばれるレトロなバスが岩国駅と錦帯橋を結んでいます。
その後も東海道新幹線の基礎となる高速鉄道の計画を練るなど、電気の研究に生涯を捧げ、日本の電気の歴史を語る上では欠かせない人物です。 -
藤岡市助博士の銅像
不正会計処理で揺れる東芝は、2016年3月期業績予想を下方修正し、連結赤字が7100億円になると発表しました。東芝と言えば、誰もが知る電機メーカの雄。それが過去3代の社長による不正会計で2千億円以上の架空利益が明らかになり、1万人規模のリストラを迫られています。ほぼ全部門が赤字、将来どの部門が稼ぎ頭になるのか社長のコメントにも覇気がありません。また、自己資本比率は2.6%にまで落ち込み、事業と財務の両面で抜本的な出直しを迫られています。
注力分野の稼ぎ力が弱まり、リストラ費用の工面など、財務をさらに悪化させる負のスパイラルに陥っています。打開策のひとつが事業の切り売りです。白物家電とパソコン事業の再編を模索し、シャープ同様に海外メーカへの売却も選択肢にあります。相手次第では、拠点閉鎖など追加リストラもあり得ます。
この凋落ぶりには目を覆いたくなります。過去の不正処理のツケを清算するために閉鎖する事業所に勤める社員とその家族の心情を推して知るべしです。企業の使命のひとつには、社員の生活を守ることがあります。大企業は安泰という神話は過去の遺物です。大企業ほどフットワークが重く、業界の変化について行けません。ソニーやシャープしかり、少し前のパナソニックしかりです。経営に真摯に真正面から立ち向かう覚悟が必要です。
藤岡博士は、忸怩たる思いで東芝の再建を見守られているのではないでしょうか?
余談ですが、東芝は、藤岡博士が製造を開始した白熱電球の生産を他社に先駆けて中止しました。地球温暖化対策の一環ですが、CMのキャッチフレーズは心揺さぶるものでした。「電球への思いは強い。でも地球への思いは、もっと強かった。いちばん最初に電球をつくった会社として、つくらないという決断も、いちばんに」。
東芝とすれば、白熱電球を最初に作り、市場シェアも高く、思い入れのある製品だったはずです。表向きは地球を守るとのスタンツですが、商品戦略的に見れば破壊的イノベーションを画策したと言えます。つまり、LED電灯を投入して稼ぎ頭である白熱電灯を駆逐し、更に市場シェアを拡大する路線を採ったのです。これは利益を享受している王者ならではの戦略です。
一方、政府は昨年、水銀を用いる蛍光灯の国内製造と輸出入を2020年度を目途に禁ずる方針を固め、LEDへの置き換えを促しています。これは、COP21へのリップサービスでもありましたが、国際的な水銀規制「水俣条約」が50数ヶ国で批准される機運にあり、製造・輸出入が禁じられることが背景にあります。2016年2月2日に閣議決定されています。 -
目加田家邸宅(重文)
江戸中期、18世紀中頃に建てられた中級武士 目加田家(禄高170石)の武家屋敷で国の重要文化財に指定されています。建ちが低いために平屋建のように見えますが、錦川の氾濫に備えて2階建になっています。往時の岩国城下町でよく用いられた、両袖瓦と平瓦を使った二平葺が特徴で、素朴な中にもどこか品格が漂う建物です。
2階建ながら平屋に見えるという構造は、藩主が屋敷の近くを通る際に見下ろすことがないようにという配慮からです。 -
目加田家邸宅
この建物は、瓦が最大の見所です。
丸瓦を置く本瓦葺と平瓦が一定のリズムで繰り返し葺かれた様は、不思議な感覚に捉われます。それに加え、両袖瓦と平瓦を使った二平葺にもなっています。つまり、上に乗る瓦と下に潜る瓦を交互に組み合わせた葺き方です。普通は桟瓦葺(さんがわらふき)なる葺き方が用いられ、片袖瓦の片側が上、もう片側が下に潜ります。 -
目加田家邸宅
二平葺は、岩国の瓦師が重量のある丸瓦を置く本瓦葺を軽量化した発明で、岩国城下町特有の地方色豊かな瓦葺です。ここ以外では、昌明館付属屋など極一部の建造物に見られるだけです。
二平葺は、1703(元禄16)年の『上使御馳走留書』に初めて文献に登場するのですが、実際にはそれ以前からあり、桟瓦葺とほぼ同時期に発明されたものと考えられています。同じ瓦が使えてコストが抑えられる桟瓦葺の合理性には勝てず、次第に駆逐された技術遺産と言えます。 -
目加田家邸宅
目加田家の発祥は、藤原氏の流れを汲む、愛知郡八木庄などに点在する藤原氏の荘園を管理する荘官の後裔と伝えられています。しかし、次第に勢力を拡大し、鎌倉時代中期には六角氏の居城 観音寺城の北尾根の先端にある目加田山(現 安土山)に城を築き、目加田家を名乗りました。
鎌倉時代中期〜室町時代中期にかけて佐々木六角氏の被官となり、旗頭の一旗として権力を振るいました。六角氏の観音寺騒動の後、江北の浅井長政に従うも、織田信長の近江進攻時に他の六角氏家臣等と共に信長に降伏し、その配下となって所領を安堵されました。
やがて信長が安土城を築くに当たって不運にも目加田山が選ばれ、42代当主 貞政はやむなく所領地の光明寺野に質素な新城を築きました。所領は愛知川、中宿など2万石でした。
その後、本能寺の変が起こり、山崎の戦いで明智方に与した43代当主 堅政の所領は没収され、一族は離散の憂き目をみました。信長が目加田山を気に入ったばかりに、名前を安土山に変えられた挙句、城を退去させられたことを心底恨んでのことだったのでしょう。しかし、この決断が目加田家に悲惨な運命を招いたのです。
因みに、岩国藩主 吉川家も元々は目加田家の一族です。何が明暗を分けたのか・・・。 -
目加田家邸宅
実に味のある石燈篭です。
庭にいた小さな子供たちが「ハンバーガーだ!」と騒いでいたので何のことか気になっていたのですが、この石燈篭のことだったとは!
子供の想像力には敵いませんね〜! -
目加田家邸宅
2階へ採光を取り入れるための窓の構造が、浮かせた屋根瓦でそれとなく判ります。
目加田家は、元々は近江の生まれでしたが、吉川元春に召し抱えられ、吉川氏が岩国に移封された際に一緒に移り住んだそうです。江戸時代後期には側用人役となり、岩国藩では客分として高禄の家柄だったようです。
柱が細く、建ちの低い入母屋造の家屋ですが、簡素ながら端正な意匠を残し、往時の武家屋敷形式をよく伝えているそうです。因みに、1階の部屋数は茶室を含めて11室もあり、敷地は300坪を超えましたが、空き地では作物を作っていたそうです。質素である事を求められた、往時の武士の生活を垣間見ることができます。 -
目加田家邸宅
「楮(こうぞ)」と書かれた立て札があります。岩国半紙という高名な和紙があり、岩国藩は、財政の立て直しの一環として和紙産業を促すため「軒別三株楮」なるお触れ書を発効し、各戸にクワ科の楮を三株植えることを義務付けたそうです。その名残の一株のようです。 -
吉香公園 大噴水
公園の中央にある大噴水では、お城の石垣のような所から勢いよく水が噴射されています。放水時には大きなアーチを連ね、爽快な気分に浸れます。
また、大噴水の前は浅く広い「ちゃぷちゃぷ池」になっており、夏場は子供たちが水浴びをするには格好の場所になります。
因みに、この大噴水は、1992年に国土交通省「手づくり郷土(ふるさと)賞」を受賞しています。 -
香川家邸宅
香川家は、元は芸州(広島県)の八木城主であり、吉川広家が岩国へ移封された際、客分から家老にとりたてられた名家です。
元々香川家は桓武平氏の一族と伝わり、鎌倉に住み「後三年の役」で活躍した鎌倉権五郎景正を祖としています。後に、経高が相模国香川村(神奈川県茅ヶ崎市)に住んだことから、地名の「香川」を姓として改めました。その後、経高は源頼朝に仕えて源平合戦などで活躍し、鎌倉幕府の御家人となりました。「承久の変」では経景に戦功があり、安芸国佐東郡八木村の地頭職を賜り、その子 景光が釈迦山(現 城山)に八木城を築いて領地を治め、安芸守護 武田氏の重鎮として活躍しました。しかし有田川の合戦において、武田元繁が毛利・吉川連合軍に敗北して討死。時の当主 香川行景は主の仇を討てないのは無念と敗残の兵を纏めて共に討死しました。香川家は、最後は毛利氏に服属し、一族は吉川氏にも仕えました。 -
香川家邸宅
香川家長屋門の設計・建設は、大工 大屋嘉左衛門と伝わっています。長屋門が建築されたのは、嘉左衛門が円熟期を迎えた38歳の時でした。長年の風雪に耐えた重厚で頑丈な造りは、往時の城下町に在住していた大工たちの技巧の秀逸さを物語っています。
因みに、嘉左衛門は、錦帯橋架橋事業で大車輪の活躍をした人物です。18歳で吉川広嘉の架橋事業に参加し、元禄時代の大橋(錦帯橋)の架替では頭領を務めました。1699(元禄12)年に嘉左衛門が描いた錦帯橋の図面は現存する最古の設計図で、平成の架替事業はこの設計図を規範として行われました。 -
錦帯橋
何度見ても惚れ惚れとする艶姿です。
次は、橋を渡って城下町界隈へ繰り出し、「岩国 内裏ひなまつり」を愉しみます。
錦帯橋の素晴らしさを物語るエピソードを紹介しましょう。
錦帯橋は1950年のキジア台風で流失しましたが、直後に実施された観光地百選切手シリーズの人気投票において、建造物部門で錦帯橋が1位になったことがあります。この時、流出して存在しないものが1位となるのはあり得ないと日本中で物議を醸したそうです。一部では、1位の取り消しという意見もあったそうです。
また、復旧に関しては、原型復旧にすべきかどうかで大議論になったようです。岩国市民の方々は是非とも昔のままの形に復元することを望みましたが、流されてしまった橋脚の弱点をどう補うかが論点になりました。結局、基礎にはRCケーソン工法を用いて原型に戻すという折衷案に落ち着き、現在の姿があるようです。市民の方々の関心の高さを物語っています。 -
大明小路 菓子工房「緑の里」
錦帯橋に真っ直ぐ通じる旧名「大明小路」を少し下ると、旧商家の前に雛人形を飾っている目印となるピンク色ののぼり旗が立てられています。
そのひとつ、三度笠のおじさんで人気の菓子工房「緑の里」で雛飾りを愛でさせていただきます。
この古民家ギャラリーは、1階はお食事処「緑の里」ですが、2階の大広間へは一声掛ければ自由に上がることができます。今回巡った中では、一番規模が大きかったのがここです。 -
大明小路 菓子工房「緑の里」
お店の2階にある大広間では、豪華な七段飾りの雛壇をはじめ、多彩な変わり雛が所狭しと飾られています。
市松人形も数体いらっしゃるのですが、とてもリアルな表情で年季が入っているため、アップで写すのは憚りました。 -
大明小路 菓子工房「緑の里」
これらの七段飾りは、三度笠のおじさんの実家から節句を祝うために贈られたものだそうです。健やかな優しい女性に育つようにと親の願いが込められた豪華な飾り雛ですが、贈られた娘さんはすでに40歳を越えておられるようです。 -
大明小路 菓子工房「緑の里」
明治時代後期〜昭和の時代までの人形師が1体1体手作りした逸品が並んでいます。
比べてみると、微妙な時代背景が見えてくるような気がします。 -
大明小路 菓子工房「緑の里」
写真の左側にある七段飾りは明治時代後期のもので、100年以上も大切に保存されてきたものです。
雛人形の配置は、西洋式の関東雛タイプ(向かって左に男雛)です。これには次のような由来があります。日本では古来から左は右より格が高いとされ、お殿様はお姫様の左側、つまり向かって右側に座していました。しかし、明治時代に西洋文化の流れを受け、国際儀礼である「右が上位」の考え方が取り入れられるようになりました。大正天皇が即位の礼で、洋装の天皇陛下が西洋スタイルで皇后陛下の右に立たれた事からこの風習が広まったとされています。 -
大明小路 新上家
江戸時代に武家屋敷として建てられた家屋です。
昭和時代には医院として使用されていたそうです。 -
大明小路 新上家
こちらは玄関先に飾られています。
雛飾りは、明治時代後期の作品のようです。 -
大明小路
道端でも三人官女や五人囃子が出迎えてくれます。飾り雛のような豪華さはありませんが、竹筒(ポンポラ)雛も風情があります。
実は、錦川の畔には竹林が広がっており、竹細工が盛んです。竹林は、錦川の護岸のために藩政時代に植えられたものと伝えられています。錦帯橋より上流数Kmに亘って竹林が続き、京都の嵯峨野、岐阜の揖斐川と共に日本三大美竹林のひとつに数えられています。 -
大明小路
旧家の軒下や門前には、割り竹に載せられた飾り雛が並べられています。
竹筒を一所懸命に切り刻んでいるお父さんの姿が目に浮かんでくるようです。 -
玖珂町界隈
大明小路から1本右筋に入った玖珂町界隈では、珍しい折り紙の雛人形が飾られています。 -
玖珂町界隈
暖簾なのか壁飾りなのか、手づくりの味がよくでていて和ませていただけます。
こちらは幼稚園児たちの作品になるそうです。
こうしたイベントに地域の方々がこぞって参加されるのが、地域復興の原点と言えます。これからもこうした良い伝統を引き継いで行っていただければと思います。 -
錦帯橋
名残惜しく、もう一度錦帯橋の雄姿を瞼に焼き付けます。
出発時間の5分前にはバスへ乗車するのが団体行動の基本マナーです。出発が遅れると後の工程に影響が生じます。今回のツアーでは皆さんマナーを遵守され、気持ち良く旅行させていただけました。添乗員さんとツアー参加者に感謝です!
バスはゆっくりと走り始め、次の目的地「津和野」へと駒を進めます。
この続きは早春賦 西国放浪記②津和野でお届けいたします。
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