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JR予讃線と土讃線を分かつ多度津駅駅から徒歩で西方へ約20分、多度津港を臨む標高約93mの山岳から延びた東端に築かれた多度津城(たどつじょう、香川県仲多度郡多度津町桃山)は別名本台山城(もとだいやまじょう)と称され、西讃守護代の天霧城主香川氏が居館で今では桃陵(とうりょう)公園となっています。<br /><br />築城者は貞治3年(1364)讃岐守護細川氏に従って本貫地の相模国高座郡香川荘より西讃岐に下向した鎌倉権五郎景政の後裔である香川景則(かがわ・かげのり)で、守護代として多度・三野・豊田の三郡を所領とし、戦時の詰城としての天霧城(あまぎりじょう、香川県仲多度郡多度津町吉原)に対し平時の居館として使用されていました。<br /><br />土佐統一を果たした長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか、1539~1599)による阿波進攻、更に伊予及び讃岐へ軍勢を進めるなか讃岐攻略に際し抗戦した三好氏の後継である十河存保(そごう・まさやす、1554~1587)は地元国人の奈良氏や長尾氏に連携を求めますが時の当主香川之景(かがわ・ゆきかげ、1527~1600)はこれに同調せず逆に長宗我部氏に降り、元親二男親和(親政)を娘の養子に迎えて世嗣とし本領の安泰を受け、以降元親の四国統一に協力し元親の同盟軍として連戦に従事し数々の軍功を挙げ遂に天正12年(1584)長宗我部元親は晴れて四国統一を果たします。<br /><br />然しながら翌年豊臣秀吉の四国征伐によって元親は敗れて秀吉に降伏、従来の土佐一国を安堵され秀吉の一臣下となり、臣従してきた香川之景及び親和も居城の天霧城を離れ土佐に退去する事になります。<br /><br />天正14年(1586)秀吉は薩摩大隅及び日向の一部を有する島津氏勢征伐を画し四国諸大名に豊後出兵を命じ、長宗我部元親を始め十河存保ら讃岐の国人は出陣するも、戸吹川の戦いにおいて迎え撃つ島津家久(しまづ・いえひさ、1547~1587)率いる島津軍勢の巧みな戦術にあい決定的な敗北を喫しこの合戦で元親嫡男信親(のぶちか、1565~1587)や十河存保等の有力武将らはことごとく討死、嫡男信親を失った元親は末子盛親(もりちか、1575~1615)を後継者に指名、これによって親族内に反発が生ずる中失意の香川親和は死去、後継ぎを失った香川氏は名実ともに滅亡するに至ります。<br /><br /><br />多度津町資料館で入手した「天霧城跡」に掲載の「城主香川氏」と題した説明内容は次の通りです。<br /><br />「城主香川氏<br /><br />香川氏は、相模国香川荘の出身で鎌倉権五郎景政の後裔であるという。14世紀半ば過ぎに讃岐の守護細川氏に従って入部し、多度津本台山に居館を構え、天霧山に詰めの城を築いて西讃岐地方に勢力を広げていった。その嫡流の系譜について、諸文献を検討した『善通寺市史』では「頼景?和景?満景?元景?之景?親景」としている。<br /><br />応永7年(1400)頃に西讃の守護代としてその地位を得ており、明応2年(1493)頃には讃岐13郡のうち6郡を領有するようになった。時に、阿波三好氏が長慶以来急速に勢力を伸ばし、讃岐をも併領しようと動き出した。永禄元年(1558)9月長慶の弟実休は阿波・東讃の連合軍を率いて丸亀平野に進み、善通寺を本陣として天霧城攻略にかかった。<br /><br />しかし、香川氏は寡兵ながら要害無比の城を利して動ぜず、ついに三好方の派遣した香西氏の仲介で和議を結んだ。降って、天正6年(1578)土佐長宗我部元親の讃岐進攻が始まり、香川氏属城の藤目城(観音寺市)・本篠城(三豊郡財田町)などが相次いで落城。<br /><br />翌7年、香川氏は降伏勧告を受けて、元親の二男親政を養子に迎え世嗣とした。以降、香川氏は長宗我部の庇護下に数年を経るが、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐により元親が降伏すると土佐へ退いた。牙城の天霧城も主を失い、荒廃の途をたどることになった。」

讃岐本台山 鎌倉景政後裔と伝えられ南北朝期には西讃守護代として勢力拡大するも長宗我部氏の侵攻に臣従した香川氏居城『多度津城』訪問

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2015/11/06 - 2015/11/06

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR予讃線と土讃線を分かつ多度津駅駅から徒歩で西方へ約20分、多度津港を臨む標高約93mの山岳から延びた東端に築かれた多度津城(たどつじょう、香川県仲多度郡多度津町桃山)は別名本台山城(もとだいやまじょう)と称され、西讃守護代の天霧城主香川氏が居館で今では桃陵(とうりょう)公園となっています。

築城者は貞治3年(1364)讃岐守護細川氏に従って本貫地の相模国高座郡香川荘より西讃岐に下向した鎌倉権五郎景政の後裔である香川景則(かがわ・かげのり)で、守護代として多度・三野・豊田の三郡を所領とし、戦時の詰城としての天霧城(あまぎりじょう、香川県仲多度郡多度津町吉原)に対し平時の居館として使用されていました。

土佐統一を果たした長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか、1539~1599)による阿波進攻、更に伊予及び讃岐へ軍勢を進めるなか讃岐攻略に際し抗戦した三好氏の後継である十河存保(そごう・まさやす、1554~1587)は地元国人の奈良氏や長尾氏に連携を求めますが時の当主香川之景(かがわ・ゆきかげ、1527~1600)はこれに同調せず逆に長宗我部氏に降り、元親二男親和(親政)を娘の養子に迎えて世嗣とし本領の安泰を受け、以降元親の四国統一に協力し元親の同盟軍として連戦に従事し数々の軍功を挙げ遂に天正12年(1584)長宗我部元親は晴れて四国統一を果たします。

然しながら翌年豊臣秀吉の四国征伐によって元親は敗れて秀吉に降伏、従来の土佐一国を安堵され秀吉の一臣下となり、臣従してきた香川之景及び親和も居城の天霧城を離れ土佐に退去する事になります。

天正14年(1586)秀吉は薩摩大隅及び日向の一部を有する島津氏勢征伐を画し四国諸大名に豊後出兵を命じ、長宗我部元親を始め十河存保ら讃岐の国人は出陣するも、戸吹川の戦いにおいて迎え撃つ島津家久(しまづ・いえひさ、1547~1587)率いる島津軍勢の巧みな戦術にあい決定的な敗北を喫しこの合戦で元親嫡男信親(のぶちか、1565~1587)や十河存保等の有力武将らはことごとく討死、嫡男信親を失った元親は末子盛親(もりちか、1575~1615)を後継者に指名、これによって親族内に反発が生ずる中失意の香川親和は死去、後継ぎを失った香川氏は名実ともに滅亡するに至ります。


多度津町資料館で入手した「天霧城跡」に掲載の「城主香川氏」と題した説明内容は次の通りです。

「城主香川氏

香川氏は、相模国香川荘の出身で鎌倉権五郎景政の後裔であるという。14世紀半ば過ぎに讃岐の守護細川氏に従って入部し、多度津本台山に居館を構え、天霧山に詰めの城を築いて西讃岐地方に勢力を広げていった。その嫡流の系譜について、諸文献を検討した『善通寺市史』では「頼景?和景?満景?元景?之景?親景」としている。

応永7年(1400)頃に西讃の守護代としてその地位を得ており、明応2年(1493)頃には讃岐13郡のうち6郡を領有するようになった。時に、阿波三好氏が長慶以来急速に勢力を伸ばし、讃岐をも併領しようと動き出した。永禄元年(1558)9月長慶の弟実休は阿波・東讃の連合軍を率いて丸亀平野に進み、善通寺を本陣として天霧城攻略にかかった。

しかし、香川氏は寡兵ながら要害無比の城を利して動ぜず、ついに三好方の派遣した香西氏の仲介で和議を結んだ。降って、天正6年(1578)土佐長宗我部元親の讃岐進攻が始まり、香川氏属城の藤目城(観音寺市)・本篠城(三豊郡財田町)などが相次いで落城。

翌7年、香川氏は降伏勧告を受けて、元親の二男親政を養子に迎え世嗣とした。以降、香川氏は長宗我部の庇護下に数年を経るが、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐により元親が降伏すると土佐へ退いた。牙城の天霧城も主を失い、荒廃の途をたどることになった。」

旅行の満足度
4.0
交通手段
JR特急 徒歩 ジェットスター
  • 多度津観光案内図<br /><br />多度津城跡が現在では桃陵公園となってます。

    多度津観光案内図

    多度津城跡が現在では桃陵公園となってます。

  • 桃陵公園入口<br /><br />JR多度津駅から徒歩で約15分、桃陵公園入口に達します。<br />

    桃陵公園入口

    JR多度津駅から徒歩で約15分、桃陵公園入口に達します。

  • 桃陵公園<br /><br /><br /><br />

    桃陵公園



  • 石垣<br /><br />城郭を思わせる石垣ですが後世に積まれた石垣の様です。<br /><br />

    石垣

    城郭を思わせる石垣ですが後世に積まれた石垣の様です。

  • 香川県観光案内図<br /><br />展望台には香川県観光案内板が掲示されています。

    香川県観光案内図

    展望台には香川県観光案内板が掲示されています。

  • 一太郎やあーい像

    一太郎やあーい像

  • 一太郎やあーいの像説明

    一太郎やあーいの像説明

  • 桃陵神社

    桃陵神社

  • 駐車場<br /><br />

    駐車場

  • 桃陵公園案内板<br /><br />駐車場の道路に面した所に当該公園の案内板があります。

    桃陵公園案内板

    駐車場の道路に面した所に当該公園の案内板があります。

  • 桃陵公園案内板(近景)<br /><br />概要には「桃陵公園は中世の豪族香川氏が居館を構えた本台山(多度津城)一帯でその面積は10.06haである。」と記載されています。<br /><br />

    桃陵公園案内板(近景)

    概要には「桃陵公園は中世の豪族香川氏が居館を構えた本台山(多度津城)一帯でその面積は10.06haである。」と記載されています。

  • 公園散歩道<br /><br />更に頂上に向かって歩き続けます。

    公園散歩道

    更に頂上に向かって歩き続けます。

  • 休憩所<br /><br />頂上には休憩所が設置されています。

    休憩所

    頂上には休憩所が設置されています。

  • 休憩所内部

    休憩所内部

  • 休憩所周辺風景

    休憩所周辺風景

  • 休憩所周辺風景

    休憩所周辺風景

  • メロディ−時計「カリヨン」

    メロディ−時計「カリヨン」

  • メロディー時計「カリヨン」説明板

    メロディー時計「カリヨン」説明板

  • 市街展望

    市街展望

  • メロディ−時計周辺風景

    メロディ−時計周辺風景

  • 多度津町立資料館

    多度津町立資料館

  • 資料館玄関

    資料館玄関

  • 資料館

    資料館

  • 旧多度津藩士 浅見邸宅

    旧多度津藩士 浅見邸宅

  • 多度津駅前

    多度津駅前

  • 機関車車輪

    機関車車輪

  • 四国鉄道発祥の地説明

    四国鉄道発祥の地説明

  • 多度津駅舎

    多度津駅舎

  • 多度津駅<br /><br />当該駅は予讃線と土讃線との分岐駅となっています。

    多度津駅

    当該駅は予讃線と土讃線との分岐駅となっています。

  • JR多度津駅時刻表

    JR多度津駅時刻表

  • 高松駅ホ−ム<br /><br />終着駅の高松駅は車両止めが配されています。

    高松駅ホ−ム

    終着駅の高松駅は車両止めが配されています。

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