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JR予讃線新居浜駅から徒歩約20分、慈眼寺(じがんじ、愛媛県新居浜市西の土居町)は13世紀末に創建された古刹で、当寺は武蔵国入間郡金子郷から当地に地頭職を得て移住した金子氏の所領で山頂に砦を配し麓に居館を設け城の北側に同氏の菩提寺として建立されます。<br /><br />天正13年(1585)の秀吉による四国平定の際、小早川隆景率いる3万の軍勢の攻撃を受け2千の兵が籠った金子城は落城、その際寺院も兵火に遭い全てが焼失となります。<br /><br />高尾城にて他国人と共に籠城していた金子元宅(かねこ・もといえ、1551~1585)は隆景の攻撃により部下の将兵ともども討死、金子城を預かっていた実弟である金子元春(かねこ・もとはる)は難を逃れた後僧侶となって廃墟となった居館跡に戦禍で亡くなった霊を弔うため寺院を創設するに至ります。<br /><br />境内の一角に立っている「慈眼寺の歴史」と題した説明板には次のように記載されています。<br /><br /><br /><br />「慈眼寺の歴史<br /><br />慈眼寺の歴史は古く、源平合戦の時、源氏に味方して戦った関東武士で、金子十郎家忠がその功績によって伊豫の国の、新居郷と兵庫の「いかるがの庄」の領地を与えられ、約百年後の弘安6年(1283)頃に、金子頼広(家忠より5代目)が当地に来て、館を現在の慈眼寺の地に構えて山上に砦を築きて金子城(別名=橘江城)とします。また、城の北側の山麓に菩提寺を建立します。その後、応永13年(1406)に立派な堂宇が再建されました。当時の宗派は臨済宗(禅宗)で、鎌倉の寿福寺派に属していました。<br /><br />その後、天正13年(1585)に、秀吉の四国攻略が起こり、金子城も落城して、お寺も戦火に遭い焼失します。当寺、金子城を守備していた備後守の弟対馬守元春は、今治の大雄寺に逃れて行き自害しようとした時、住職の宗虎和尚に止められ「お前は生きて僧侶となり、この戦いで死んだ人達の霊を弔え」と諭されます。そして和尚の弟子となり修行の後、和尚の紹介で現在の福島県いわき市平の長源寺の卓眼和尚を訪ねて行き師事し、修業の後に故郷の地に帰り、戦いで生き残りの者や、遺族達と力を合わせて、金子城の館跡へ寺院を建立します。時は慶長18年(1613)です。・・・・これが現在の慈眼寺の始まりです。名称は「松樹林=正法山慈眼寺とし、宗派は漕洞宗です。<br /><br />次に初代=関庵本徹和尚(対馬守元春)は当寺の名僧でした。109代=明正天皇より、御諭旨を賜り、また3世=安祥恩長和尚も賜っています。故に本堂の屋根の棟に16弁の菊の紋章を付ける事を許可されます。尚、現在の慈眼寺は「天正の陣」の400年を記念し、平成4年に総て新しく建替えました。慈眼寺には、金子山古墳、金子城の戦い別子銅山との関係、その他色々の歴史が有ります。<br /><br />          平成15年10月吉日 正法山 慈眼寺」

伊予新居浜 武蔵国入間郡出自で伊予国に所領を得て国人として隆盛を誇った最後の城主金子備後守の実弟が僧侶となって居城跡に創建した『慈眼寺』散歩

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2015/11/06 - 2015/11/06

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR予讃線新居浜駅から徒歩約20分、慈眼寺(じがんじ、愛媛県新居浜市西の土居町)は13世紀末に創建された古刹で、当寺は武蔵国入間郡金子郷から当地に地頭職を得て移住した金子氏の所領で山頂に砦を配し麓に居館を設け城の北側に同氏の菩提寺として建立されます。

天正13年(1585)の秀吉による四国平定の際、小早川隆景率いる3万の軍勢の攻撃を受け2千の兵が籠った金子城は落城、その際寺院も兵火に遭い全てが焼失となります。

高尾城にて他国人と共に籠城していた金子元宅(かねこ・もといえ、1551~1585)は隆景の攻撃により部下の将兵ともども討死、金子城を預かっていた実弟である金子元春(かねこ・もとはる)は難を逃れた後僧侶となって廃墟となった居館跡に戦禍で亡くなった霊を弔うため寺院を創設するに至ります。

境内の一角に立っている「慈眼寺の歴史」と題した説明板には次のように記載されています。



「慈眼寺の歴史

慈眼寺の歴史は古く、源平合戦の時、源氏に味方して戦った関東武士で、金子十郎家忠がその功績によって伊豫の国の、新居郷と兵庫の「いかるがの庄」の領地を与えられ、約百年後の弘安6年(1283)頃に、金子頼広(家忠より5代目)が当地に来て、館を現在の慈眼寺の地に構えて山上に砦を築きて金子城(別名=橘江城)とします。また、城の北側の山麓に菩提寺を建立します。その後、応永13年(1406)に立派な堂宇が再建されました。当時の宗派は臨済宗(禅宗)で、鎌倉の寿福寺派に属していました。

その後、天正13年(1585)に、秀吉の四国攻略が起こり、金子城も落城して、お寺も戦火に遭い焼失します。当寺、金子城を守備していた備後守の弟対馬守元春は、今治の大雄寺に逃れて行き自害しようとした時、住職の宗虎和尚に止められ「お前は生きて僧侶となり、この戦いで死んだ人達の霊を弔え」と諭されます。そして和尚の弟子となり修行の後、和尚の紹介で現在の福島県いわき市平の長源寺の卓眼和尚を訪ねて行き師事し、修業の後に故郷の地に帰り、戦いで生き残りの者や、遺族達と力を合わせて、金子城の館跡へ寺院を建立します。時は慶長18年(1613)です。・・・・これが現在の慈眼寺の始まりです。名称は「松樹林=正法山慈眼寺とし、宗派は漕洞宗です。

次に初代=関庵本徹和尚(対馬守元春)は当寺の名僧でした。109代=明正天皇より、御諭旨を賜り、また3世=安祥恩長和尚も賜っています。故に本堂の屋根の棟に16弁の菊の紋章を付ける事を許可されます。尚、現在の慈眼寺は「天正の陣」の400年を記念し、平成4年に総て新しく建替えました。慈眼寺には、金子山古墳、金子城の戦い別子銅山との関係、その他色々の歴史が有ります。

          平成15年10月吉日 正法山 慈眼寺」

旅行の満足度
4.0
交通手段
JR特急 徒歩 ジェットスター
  • 慈眼寺・寺標

    慈眼寺・寺標

  • 慈眼寺・案内板

    慈眼寺・案内板

  • 慈眼寺・山門

    イチオシ

    慈眼寺・山門

  • イノシシ警告板<br /><br />冶勘にイノシシが進入する旨警告板が立っています。門前で清掃中のお寺関係者に尋ねると周辺に進入を防ぐ手立てがされています。

    イノシシ警告板

    冶勘にイノシシが進入する旨警告板が立っています。門前で清掃中のお寺関係者に尋ねると周辺に進入を防ぐ手立てがされています。

  • 慈眼寺・歴史説明板

    慈眼寺・歴史説明板

  • 慈眼寺・寺紋(全景)

    慈眼寺・寺紋(全景)

  • 慈眼寺・寺紋(近景)

    慈眼寺・寺紋(近景)

  • 慈眼寺・寺額<br /><br />「慈眼禅寺」と書された寺額が掲載されています。

    慈眼寺・寺額

    「慈眼禅寺」と書された寺額が掲載されています。

  • 慈眼寺・庭園

    慈眼寺・庭園

  • 慈眼寺・庭園

    慈眼寺・庭園

  • 慈眼寺・鐘楼堂

    慈眼寺・鐘楼堂

  • 金子氏真鍋氏・墓所案内板

    金子氏真鍋氏・墓所案内板

  • 金子氏墓所・案内板<br /><br />石段を登った正面に金子氏の墓があると案内されています。

    金子氏墓所・案内板

    石段を登った正面に金子氏の墓があると案内されています。

  • 金子備後守元宅供養塔<br /><br />墓所中央部が最後の金子城主である金子備後守元宅の墓となっています。

    金子備後守元宅供養塔

    墓所中央部が最後の金子城主である金子備後守元宅の墓となっています。

  • 金子備後守元宅及び真鍋氏六人衆の供養塔<br /><br />中央部の備後守の他は真鍋氏の墓とのことです。真鍋氏は備後守の母親方の一族で、備後守に仕えていたと思われます。

    金子備後守元宅及び真鍋氏六人衆の供養塔

    中央部の備後守の他は真鍋氏の墓とのことです。真鍋氏は備後守の母親方の一族で、備後守に仕えていたと思われます。

  • 金子氏墓誌<br /><br />傍らの墓誌には金子備後守元宅と真鍋氏六人衆の名前が刻され、後半には「全員高尾城(西条市氷見)の戦で討死をしました。お位牌は慈眼寺に祀られております。真鍋家は金子備後守の母親の出里であります。」が記されています。

    金子氏墓誌

    傍らの墓誌には金子備後守元宅と真鍋氏六人衆の名前が刻され、後半には「全員高尾城(西条市氷見)の戦で討死をしました。お位牌は慈眼寺に祀られております。真鍋家は金子備後守の母親の出里であります。」が記されています。

  • 金子備中守及び真鍋氏六人衆の供養塔

    金子備中守及び真鍋氏六人衆の供養塔

  • 金子対馬守元春公墓碑<br /><br />金子城主の金子備後守元宅の実弟で

    金子対馬守元春公墓碑

    金子城主の金子備後守元宅の実弟で

  • 金子備後守元宅公墓碑<br /><br />明治時代初頭開業した商社で一時は大財閥の三菱・三井の業績を越える程のほどの商社でしたが、昭和2年(1927)に破綻した鈴木商店の大番頭であった金子直吉(かねこ・なおきち、1866~1944)のもともとの先祖は金子備後守であったと言われています。<br /><br />

    金子備後守元宅公墓碑

    明治時代初頭開業した商社で一時は大財閥の三菱・三井の業績を越える程のほどの商社でしたが、昭和2年(1927)に破綻した鈴木商店の大番頭であった金子直吉(かねこ・なおきち、1866~1944)のもともとの先祖は金子備後守であったと言われています。

  • 慈眼寺・本堂

    慈眼寺・本堂

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