2015/11/12 - 2015/11/12
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belleduneさん
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お墓参りを済ませた後、京都文化博物館でやっている「アンギアーリの戦い」展を見に行きました。平日なのに物凄く混んでいて驚きました。8月9日までは、東京富士美術館でやっていたのですが、八王子からバスで行く遠さから、京都ヘ行く折に見ようと思っていたのです。この頃の美術史を夏によく勉強したので、見たいところでさっと見て満足でした。国内の展覧会はどうしても混むので、離れてじっくり鑑賞したいということは、なかなか出来ませんね。この後、春に行きたかった京都市考古博物館(旧西陣織物館)へ向かいました。バスでと思ったのですが、食後の運動にと、烏丸通りを歩いて行きました。京都御苑の向かい側をずっと進むと、大丸ヴィラ、聖アグネス教会があります。その後、今出川通りを左手に曲がって行くと、新築の上京総合庁舎があります。ここもちょっと気になる建物でした。もう少し行くと、やっと目指す京都市考古資料館があります。今年6月まで、当館竣工100周年を記念して、本野精吾氏の展示がありました。春に来たかったのですが、やっと来ることが出来ました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- JALグループ 私鉄 徒歩
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西大谷でのお墓参りを済ませ、庭の木々は少し色付いたというところでした。修学旅行生や中国人観光客で、街は混んでいました。最近は、東京でも中国人観光客が特に増えましたね。神戸のホテルも以前より料金が上がっていて、予約が取り難くなっています。ビジネスマンの方も泊まるところがなくて、大変らしいです。
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京都文化博物館での展覧会を見た後、烏丸通りを歩いて行くと、大丸ヴィラ(旧中道軒)がありました。内部を見ることはできなので、外観を門越しに見るだけです。昭和7年に建てられたヴォーリズ設計の建物です。大丸百貨店第11代社長である下村正太郎氏のチューダー様式の自邸です。建築家協会等の見学が出来たこともあったようですが、内部の写真は公開されていませんでした。想像するに、恐らく大山崎山荘に近いものではないかな...
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もう少し行くと、日本聖公会京都教区・聖アグネス教会があります。聖堂は、明治31年(1898)に竣工し、聖三一大聖堂と命名されました。設計は、米人ジェームズ・マグドナルド・ガーディナー。外観は煉瓦造りのゴシック様式、三廊式バジリカ型で袖廊の小さな左右非対称の礼拝堂と烏丸通りに面する東北角にある三層の鐘楼が特徴となっています。
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内部は、小屋組の梁がむき出しで、南東角に礼拝準備室があります。南西角の八角形に張り出した洗礼室が明治期のキリスト教会の特色だそうです。
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聖堂内には西バラ窓の他に、30以上のステンドグラス窓があり、その殆どが竣工当時のものだそうです。煉瓦造りの聖堂として、歴史的に貴重であるため、昭和60年に京都市指定有形文化財に指定されています。このステンドグラスのデザインもガーディナーで、製作したのは日本人とのことです。
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大正12年(1923)に平安女学院の生徒・教職員による教会として認可されました。昭和5年に聖三一教会が聚落廻中町へ移転した後、聖堂を受け継いできました。戦時中、軍需資材置場となったり、戦後は占領軍将兵の礼拝に使用されることがありましたが、礼拝は絶えることなく、続けられていたそうです。現在は、京都教区の中心となる主教座聖堂、聖アグネス教会、平安女学院の礼拝堂という3つの役割を持っています。
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今出川通りにある上京区総合庁舎は、今年1月に開館したもので、設計は梓設計大阪支社。コンクリートの壁には木目仕上げで木材の温かみある外観に仕上げられています。
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京都らしい桟と庇と木目を出したコンクリートの打ちっ放しがなかなか面白いです。
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木目がよく出ています。何年か経過してから、また見に来ましょう。
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内部も材木が使われています。照明器具も材木が使われています。
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エレベータの扉は何と漆塗り蒔絵となっています。豪華ですね。
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一部3階までの吹き抜けとなっています。
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寄り道を楽しんで、やっと目的の考古資料館に着きました。今年で100年を迎えました。本野精吾氏が、ベルリン留学から帰国して、最初に設計した西陣織物館です。建物前に、西陣織物館の碑が建っています。
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本野精吾氏は、鍋島藩の出身で、大蔵省にいた後、読売新聞社の創業者だった本野盛亨(もりみち)という上流階級育ちでした。精吾は五男で、明治15年(1882)東京で生まれ、東京帝国大学建築家に進みます。同級生には、岡田信一郎、横浜勉、松井貴太郎等がいました。卒業後は、三菱合資会社地所部(現・三菱地所)に入社。保岡勝也氏の元で設計をします。本野精吾も担当した「丸の内第12号館」などにも、当時主流だった様式主義が見られます。今年1月に見に行った三菱1号館のある一丁倫敦と呼ばれたところで、馬場先通りに面した三菱第12号館(三菱仲8号館)です。昭和31年(1950)に取り壊されて、「新東京ビルヂング」となりました。
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明治42年(1909)、ベルリンに2年間留学し、ベーレンスの建築に魅了されて、工業化を前提としたデザイン革新活動に影響を受けています。帰国後最初の設計が当館でした。日本のモダニズム建築の先駆者の1人。
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歩道が狭い上、建物前にバスの停留所があるため、正面全体を撮るには向かい側からが良いですね。
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大正3年10月、西陣織物館として竣工しました。当時、入り口には「NISHIJIN MUSEUM」の看板があったそうです。西陣織の新製品展示会、図案作家の特別展、古今東西の織物の優品や京都市内の寺社仏閣・個人所蔵の美術工芸品の陳列会などが催されていました。その後、昭和51年(1976)に堀川通に現在の西陣会館が建設されて、移転となりました。
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跡地を京都市が買い上げ、建物の補強、改修がされて、昭和54年(1979)11月28日に現在の資料館として開館しました。
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本野精吾氏が設計した建築は、当館の他、彼の自邸、鶴巻鶴一邸(現・栗原邸)、京都高等工芸学校本館(現・京都工芸繊維大学3号館)の4つで、国指定有形文化財に登録されています。
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本野氏は建築だけでなく、室内装飾、客船室内、船内のデザイン、家具、服飾、舞台デザインなども行い、広告印刷物、ローマ字の普及等にも努めたという。多趣味だったらしく、ヴァイオリン演奏や社交ダンス、エスペラント語なども嗜み、ハイカラなモダンボーイと見られていたそうです。当時、関西で発足した最大の建築運動団体だった「日本インターナショナル建築会」では、設立メンバーの1人として活躍しました。
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竣工当時、地元の人には、マッチ箱のようだと驚かれたそうです。
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階段の手摺のデザインもモダニズムらしい。
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この辺りから、階段フェチの写真が続きます。
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本野精吾自邸には、耐震性、不燃性、建設の合理化のため、初めて中村鎮式鉄筋コンクリートブロックを採用しています。この年に関東大震災がありましたが、この中村式ブロック造が崩壊しなかったので、以後、中村氏との共作が始まったそうです。次回、行って見たいと思います。中村鎮(1890〜1933)は、中学卒業後、台湾総督府土木局に雇われて、台北水道水源地で鉄筋コンクリート造の倉庫等の設計をしていました。帰国し、早稲田大学理工学部建築科で勉強した後、1919年、日本セメント工業技師となります。この頃、鎮ブロックと言われた「中村式鉄筋コンクリート構造」を考案しました。大正10年(1922)に鎮ブロック造の専売特許を取得。日本鉄筋コンクリート技術の先駆者の1人です。
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2階への階段部分。ボランティアの方が2階の展示を詳しく説明してくださいました。縄文時代竪穴住居から各時代の出土品など。一番興味のあるお話は、京都市内の火山灰でした。約3万年前の九州鹿児島の大噴火で吹き上げられた火山灰が偏西風に乗って、京都まで運ばれ、断続的に数センチの厚さで堆積しているということでした。
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3階への階段ですが、6月の展示では、3階の会議室を見ることができたそうです。貴賓室(現・会議室)には、幾何学形態の暖炉、天井、壁面等がモダニズムらしいデザインとなっているそうです。パンフレットで見ることができました。
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