2015/10/15 - 2015/10/21
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ペコちゃんさん
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滋賀県は、海はないけど日本一の琵琶湖がある人口141万5千人の県・・・琵琶湖周辺を中心に名所旧跡など、多くの見どころがあります・・・近江八幡~安土と回って彦根と長浜に行き、この旅の最後には大津も行ってみました。
彦根は、何といっても国宝の彦根城・・・その美しさは記憶に残ります。
そして、城下町の佇まいを残す夢京橋キャッスルロードなどの街並みは、歩いて散策するだけでも楽しい気分になります。
長浜は、羽柴秀吉が築城した長浜城の城下町として栄えた街ですが、今や観光スポットとして人気が高まっています。
レトロな街並みにショップやギャラリーが立ち並ぶ黒壁スクエアは、多くの観光客を惹きつけていました。
写真は、夕陽を受けて美しく輝く彦根城。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- レンタカー
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近江八幡~安土城と回り、16時に彦根に到着。
この日は『ご当地キャラ博 in 彦根 2015』が開催されていて、大賑わい。 -
現在の「夢京橋キャッスルロード」がある彦根市本町は、彦根城築城の慶長8年(1603年)に城下町の町割りがこの本町から始められた、という歴史ある町です。
昭和60年に始まった街路整備で、通りの風情を壊すことなく伝統的な町並みを再生して活性化を図る取り組みを進め、平成11年にすべての整備を終えて、歴史と伝統を活かしながら、建物の形態と色彩を新しい時代にマッチした城下町に生まれ変わりました。 -
キャッスルロードに隣接した「四番町スクエア」・・・再開発されずに、かつてアーケードが残っていた場所ですが、平成18年に大正時代の町並みをイメージした商店街として生まれ変わりました。
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手前の店は、キャッスルロードにある「酒売処 林屋」。
近江の地酒・地ビール・地焼酎等、特に彦根の地酒「金亀」を中心に、滋賀県に拘ったお酒を取り扱っています。 -
今年は井伊直弼の生誕から200年目・・・「井伊直弼公生誕200年祭」を、ひこにゃんも応援しています。
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城下町の伝統を継承した格子窓、袖壁、白壁、軒庇が続く町並み・・・古くて新しい街の「夢京橋キャッスルロード」を通って彦根城に向かいます。
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彦根城は、徳川家康の命により、琵琶湖を見下ろす彦根山に井伊家の拠点として築城された平山城です。
彦根城と城下町の建設は1603年に始まり、井伊直継・直孝兄弟によって18年の歳月をかけて1622年に完成しました。 -
彦根城は豊臣家や西国大名を押さえ込む拠点ともなり、多くの大老を輩出した譜代大名・井伊家14代に亘る居城でした。
中堀を見ながら進みます。 -
明治初期の廃城令で、彦根城は解体の危機に瀕し、一時は解体の足場まで組まれました。
しかし、北陸巡幸を終えて彦根に立ち寄った明治天皇の勅命で破壊を免れ、そのお蔭で今も優美な姿を目にすることが出来ます。 -
近世の城で当初の天守が残っているのは、弘前・松本・犬山・丸岡・彦根・姫路・備中松山・松江・丸亀・松山・宇和島・高知の12城・・・このうち、松本・犬山・彦根・姫路の4城の天守は国宝です。
内堀を見ながら・・・ -
表門橋を渡ります。
表門橋は、明治初期の写真や当時の文献を参考にし、平成16年に復元されました。
橋の奥には櫓跡の美しい石垣が見られます。
この先の管理事務所で入城券を求めて奥へ進むと、表門山道の長い石段があります。 -
石段を登り切ると、目の前に石垣と廊下橋が見えてきます。
左の天秤櫓は築城当時から残っている建物で、国重要文化財に指定されています。
廊下橋には「落とし橋」としての機能があり、非常時にはこの橋を落下させ敵の侵入を防ぐようになっています。 -
廊下橋の下をくぐって石段を上がった所にある「鐘の丸」の広場。
夕方なので、ひこにゃんはいませんが、四番町スクエアのキャラクター・やちにゃんがいました。
やちにゃんは、井伊直弼の次女・弥千代姫をモデルにした、ゆるキャラ。
「性格:お転婆、好物:いちご大福、特技:どんな時も笑顔」だそうです。 -
先ほどの廊下橋を渡って天秤櫓に向かいます。
天秤櫓は豊臣秀吉が造った長浜城の大手門を移築したと言われ、ちょうど天秤の形をしている所から、天秤櫓と呼ばれました。 -
1844年に鋳造された「時報鐘」(じほうしょう)・・・元々置かれていた「鐘の丸」から、城全体に鐘の音が響くようにとこの地へ移されたものです。
今も1日5回、3時間毎に鐘が撞かれ、環境庁「日本の音風景百選」にも選ばれている名鐘です。 -
更に階段を登った所にある、最後の門が「太鼓門櫓」・・・この先は本丸で、まさに最後の砦・・・城内に合図する太鼓を置いたことから付いた名前です。
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「雅を感じさせる優しさを持っている」と司馬遼太郎が讃えた城は、牛蒡積みと呼ばれる石垣の上に3層3階・地下1階の天守が堂々と建っています。
天守には正面がなく、どこから見ても美しく見えるように造られており、4種の破風による華麗な装飾が印象的です。
破風とは屋根の妻(端)にある三角形の外壁部分・・・彦根城天守には「切妻破風」「入母屋破風」「唐破風」「千鳥破風」がバランスよく巧みに施されており、このような複雑な屋根(破風)を持つ天守は他に例がないということです。
東側から見る天主の2層と3層は入母屋破風、1層は切妻破風になっています。 -
ひこにゃんのパネルと記念撮影・・・ひこにゃんは、毎日登場します。
10:30~11:00 彦根城天守前
13:30~14:00 彦根城天守前
15:00~15:30 彦根城博物館前(冠木門) -
彦根城の規模は小さいですが、白亜三層の天守は今もなお気高い雄姿を誇り、屋根の曲線の調和が美しく華麗な雰囲気を漂わせています。
右側の入り口から入城し、2階に上がります。 -
天守の2層にある「狭間(ざま)」・・・天守内に75箇所設けられ、敵を鉄砲や矢で攻撃するための狭間は、外側に蓋をして漆喰を塗って、見た目には分からないようにしてあり、戦いの時には壁を破って使う「隠狭間」。
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井伊直弼公の木像。
井伊直弼(1815~1860)は、幕末の譜代大名で彦根藩の第15代藩主・・・幕末期の江戸幕府で大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を進めました。
しかし、安政の大獄で幕政を批判する政治運動に関わった吉田松陰などの名士を処刑したため、桜田門外で尊王攘夷急進派の水戸藩士達に44歳で暗殺されます。 -
破風の屋根瓦が、とても美しく組まれています。
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2層と3層の登り下りは、こんな急階段でした・・・係りのおじさんの話では ” 角度はたった67度しかありません。高さもたった50cmしかありませんよ ”
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天守の3層から望む琵琶湖・・・素晴らしい景色でした。
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ユニークな形の窓から彦根市内を望む。
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写真では分かり難いのですが、引違い板戸の奥は「隠し部屋」・・・中に4~5人が入れる広さがあり、2層・3層に計4カ所あります。
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時間がなくて行けなかった「玄宮園」もよく見えます。
4代藩主・井伊直興が造営した大名庭園です。 -
井伊家の橘紋があしらわれた大棟積み飾り瓦。
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内部の見学を終えて城の南側に行くと、夕陽を受けた天守が輝いています。
最初に見た東面からと違って南面から見ると、3層は唐破風、2層は千鳥破風、1層は入母屋破風で重厚な安定感を感じます。 -
帰りがけに上を見上げると、天守の鯱も夕陽で美しい。
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彦根城の見学後、再び夢京橋キャッスルロードへ・・・水路には綺麗な鯉が。
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浄土宗・宗安寺は、井伊家の初代藩主の菩提寺・・・佐和山城の正門を移築した朱塗りの門が目印です。
江戸時代に、徳川の将軍が替わるごとに祝賀のため朝鮮国から来朝した朝鮮通信使の彦根での宿泊所であり、朝鮮王像が残されています。
今回の旅行は、鞆の浦・近江八幡に続き、朝鮮通信使の史跡によく出会います。 -
賑やかな通りから山門を一歩入ると、空気が変わって落ち着きます。
本堂は元禄14年(1701)の大火で焼失し、翌年再建されました。 -
今日の夕食は、息子のマンションの近くにある居酒屋・長崎食堂。
『長崎ちゃんぽん』の本場で修業をした料理人が作る長崎の名物料理や、滋賀近江牛の料理が堪能できるお店です。 -
滋賀の地酒や日本各地のプレミアム焼酎なども豊富。
店内は、木を基調にした落ち着ける空間が広がり、笑顔いっぱいの温かみ溢れるお店です。 -
左から、近江牛特上タン刺し・近江牛ステーキ・揚げ出し風イチジク。
他にもいろいろ注文し、仕上げは皿うどん・・・いっぱい食べて、いっぱい飲んで、お財布に優しい金額・・・いい店でした。 -
息子の所に泊まり、4日目からはレンタカーで夫婦二人旅。
マンションを出て、1時間ほどで長浜に着きました。
長浜市は、湖北地方ある人口12万人の街・・・羽柴秀吉が築城した長浜城の城下町として整備され、長浜城廃城後は大通寺(長浜御坊)の門前町として、また北国街道や琵琶湖水運の要衝として発展しました。 -
8時に着き、まだどこも開いていないので、豊公園の駐車場に車を停めます。
長浜城主だった豊臣秀吉に因んで名付けられた「豊公園」は、江戸時代前期に廃城となった長浜城の城跡に明治42年に作られ、現在の長浜城もこの公園の中にあり、テニスコートなどのスポーツ施設や噴水などがある広い公園です。
琵琶湖に沿った遊歩道もあるので、水鳥を見ながら琵琶湖の水辺をのんびり散策します。 -
現在の長浜城は「長浜城歴史博物館」となっており、開館は9時からなので外観だけ見ることにしました。
長浜城本丸跡の見事な枝ぶりの松を、植木屋さんが剪定しています。 -
長浜城は1573年に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が最初に築いた居城・・・当時、今浜と呼ばれていたこの地を、信長の名から一字拝領して長浜に改名しました。
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その後、山内一豊が城主になりましたが、1586年(天正13年)の天正地震により城が全壊・・・「大坂の陣」後の1615年に長浜城は廃城になり、資材の大半は彦根城の築城に流用されました。
彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられています。 -
現在の天守は、昭和58年に犬山城や伏見城をモデルにして復元されたもので、市立長浜城歴史博物館として運営されています。
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5層の天守は、1~4階が展示室などになっており、5階は展望台です。
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この後、長浜の旧市街を散策・・・ここは、天正年間から明治12年まで金谷新町と言われた所です。
秀吉の時代には、多くの金物商人が住んでいました。 -
また、長浜は北国街道の宿場町でもありました。
9時前なので、殆どの店はまだ閉まっています。 -
大通寺に続く「ながはま御坊表参道」の商店街には、地元に伝わる「お花ギツネ」に因んだ人形の看板が、各店の前におかれています。
《長浜市伝説・お花ギツネ》 最初は長浜城の跡にあった大通寺を江戸時代の初めの頃、長浜の町の中に移そうという話がおきた。便利になるという賛成と反対の人が半分ずつで、なかなか話しが決まず、とうとう本山である京の東本願寺へ行って、決めてもらおうという事になった。反対派の人達が歩いて野洲川まで来ると、川は大水が出て渡る事が出来ず、水が引くまで待つ事にした。川の傍に一軒の茶屋があり、お花さんというかわいい女中がいて、もてなしてくれた。川止めが解けるとすぐに川を渡って京へ急いだが、反対派の人達は本山に着いてビックリ。賛成派の人達が一日前に着いて話をし、大通寺を町の中に移す事はすっかり決まってた。
みんなはゲッソリして、来た道を戻って野洲川の近くまで来た時、川の辺りに茶屋が見当たらず、川止めになるほどあった水もからからになっていた。近くの人に聞いてみると、そんな茶屋は見たこ事も無いし、お花さんという娘も知らないと言う。
「これは、きっと大通寺のお花ギツネの仕業や」
「大通寺のキツネが賛成なら仕方ない あきらめようや」
お花ギツネは、いつまでも大通寺の大広間の天井に住んでいて、お寺を守っているそうです。 -
大通寺は真宗大谷派(東本願寺)の別院で、「長浜御坊」「ごぼうさん」 の名で親しまれています。
1602年に長浜城跡に創建され、1652年に現在地に移転しました。
総ケヤキ造りの山門は1808年に起工し、33年後の1841年に落成。 -
山門を下から見上げると、龍などの見事な彫刻があります。
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手水舎の龍も、まるで生きているようです。
寺社の手水舎は、なぜ龍(龍神様)が多いのか調べてみました。
《龍神様は雲や雨を司る水の神様 生きていく上で、水は命の源 その龍神様から出るお水(ご神水)で手や口を清めて、自身を祓って清々しい気持ちで参拝する》
こんな理由があるわけです。 -
山門をくぐると、そこは桃山文化の世界・・・本堂や大広間は伏見城の遺構と伝わる重要文化財で、含山軒庭園と蘭亭庭園という2つの庭園のほか、円山応挙や狩野山楽・狩野山雪らの障壁画など、絢爛豪華な桃山文化を随所に垣間見られます。
本堂・阿弥陀堂(重文)は、もともと伏見桃山城の殿舎でしたが、徳川家康の発意で大谷派本願寺が分立した際に御影堂として寄進され、その後、1652年に本願寺が改築された時に当寺に移し、本堂となりました。 -
本堂正面には阿弥陀如来(本尊)が安置され、右に親鸞聖人、左に蓮如上人の絵像があります。
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玄関横にあるこの梵鐘は南北朝時代(1,363年)のもので 元は若狭国・多太寺の鐘でした。
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大広間(重文)は本堂と共に伏見城の遺構を移築したした建物です。
書院造りの構成要件である床・帳台構・違棚・附書院などを、上段の間に正面一列に並べてあります。
伏見城にあった頃は、公式の対面所(謁見の間)として使用されていました。
極彩色で描かれた花鳥図や人物図は作者不詳ですが、桃山風御殿の豪華な趣を良く伝えています。 -
黒漆塗牡丹唐草蒔絵の櫛台(左側)の中にあった砂千代の調度品・・・砂千代は井伊直弼の七女で、1857年に大通寺の養女になりました。
中央の白粉刷毛など、今でも使えそうです。 -
新御座にある、下段十二面の「金地墨画梅之図」は、京都画檀で活躍した岸駒(がんく)の筆による雄大な老梅の襖絵。
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「含山庭園」は江戸時代前期の枯山水で、手前の砂地を池に見立てて造られています。
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小さい池に反橋がかかる「蘭亭庭園」。
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1675年に建築された鐘楼。
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大通寺を見て旧市街を散策した後は、楽しみにしていた「黒壁スクエア」に向かいます。
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長浜大手門通りは、秀吉公が町を開いて以来の長浜のメインストリート・・・黒壁スクエアに続く商店街で、土産物屋や飲食店も沢山あります。
ちょっと横に入ると風情のある建物などもあって、散策するのにも良い所です。 -
商店街入口のアーケードには、迫力満点の歌舞伎のオブジェ・・・長浜では子ども歌舞伎を祭りで演じるそうで、その一コマがモチーフになっています。
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黒壁スクエアは、伝統的建造物群を生かした観光スポット・・・江戸時代~明治時代の建物が連なり、情緒ある街並みとその古建築を活用したギャラリー、ガラス工房等の文化施設、レストラン、カフェ等が集積するエリアです。
また西日本最大のガラス芸術の展示エリアとして知られ、年間約200万人の観光客が訪れます。 -
明治33年に建てられた第百三十銀行・長浜支店は、洋風土蔵造りに黒漆喰の壁という和洋折衷の姿から「黒壁銀行」の愛称で親しまれていました。
昭和29年には長浜カトリック教会となりましたが、昭和の終わりに解体の危機に遭い、市民の間から貴重な文化遺産を守ろうという気運が高まって、平成元年に黒壁スクエアとしてオープンしました。 -
黒壁スクエアは伝統的建造物群を生かして、雑貨店や工房など約30店舗が軒を連ねるた観光スポットです。
この黒壁1號館(黒壁ガラス館)の一階は生活雑貨中心、二階はヨーロッパを中心とした世界各国の伝統あるガラス製品から特色あるモダンなものまで展示販売しています。 -
そして黒壁1號館の周囲の古建築も、次々と美術館・ガラスショップ・工房・ギャラリー・カフェ・レストランへと再生・活用され、町おこしの成功例として、日本各地から視察が絶えないそうです。
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黒壁オルゴール館。
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黒壁5號館(札の辻本舗)は和ガラスや湖北の名産物を集めた店舗。
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黒壁スクエアを通る北国街道は、中山道・鳥居本宿(彦根市)を起点として、近江と北陸を結ぶ重要な街道でした。
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この看板は、児童の飛び出し事故を防止するために、ドライバーに注意を促す「飛び出し坊や」の看板・・・飛び出し坊やは、昭和48年に滋賀県八日市の社会福祉協議会が発案して作ったのが始まりです。
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右側の「かわ重」は陶磁器のお店。
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黒壁11號館のステンドガラス館・・・表のベンチが面白い。
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私もステンドグラスと七宝焼をやっていますが、今度はこんなアクセサリーを作ってみようかな。
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ガラスの街・黒壁スクエアは、街灯もステンドグラス。
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近江牛の牛まんが美味しそうなので、お買い上げ・・・出来立てのアツアツを、歩きながら「モグモグ」・・・美味しい!
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駐車場に向かう途中、裏手に水路がありました・・・街中を流れる水路って、風情ありますね。
長浜の観光を終えて10時半に出発・・・次は、福井県・敦賀です。
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