2015/10/15 - 2015/10/21
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ペコちゃんさん
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今治から「しまなみ海道」を通って福山に到着し、鞆の浦を観光した後は仙酔島に渡ってホテルで宿泊しました。
鞆の浦といえば、宮崎駿監督の「崖の上のポニョ」の舞台で有名ですが、最近は、TVドラマ「流星ワゴン」の舞台としても知られています。
また仙酔島は、高校時代に友達とよくきました。
結婚してからは子供達を海水浴に連れて来たたことがありますが、宿泊するのは初めてです。
島での楽しみは8月終わりの旅番組で紹介された「江戸風呂」・・・何しろ胎内と同じ濃度の塩分だそうで、母の胎内にいるように、体が浮くお風呂があるそうですが、果たして私の体は浮いたかどうか・・・?
写真は、鞆港から仙酔島までを5分で行き来する「平成いろは丸」と弁天島、その奥は仙酔島。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 高速・路線バス
-
福山駅前から鞆鉄バスに乗り、約30分で鞆の浦に到着。
海岸にはカモメが群がり、その先には日本鋼管(現・JFEスチール西日本製鉄所)の工場が見えます。 -
瀬戸内海国立公園は、昭和9年に雲仙国立公園(現・雲仙天草国立公園)、霧島国立公園(現・霧島錦江湾国立公園)とともに、日本初の国立公園として指定されました。
当初は、小豆島の寒霞渓、香川県の屋島、岡山県の鷲羽山、広島県の鞆の浦・沼隈町周辺の一帯だけでしたが、現在は、和歌浦から国東半島にまで及ぶ広大な国立公園となっています。 -
鞆の浦がある沼隈半島の観光マップ。
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仙酔島への渡船場のすぐ近くにある「むろの木歌碑」・・・万葉秀歌と言われるこの歌は、730年(天平2年)に大伴旅人が大宰府の役人の任期を終えて鞆の浦に寄った時の歌です。
『吾妹子が 見し鞆の浦の むろの木は とこ世にあれど 見し人ぞなき』
大伴旅人は妻を伴って大宰府に赴任しますが、三年の任期を終え奈良の都に帰るときには妻を亡くしていました。
行く時には、夫婦で神木のむろの木に海路の安全などを祈ったのに、もう妻はいないと嘆いています。 -
歌碑の上にある福禅寺・對潮楼に向かいます。
石垣と坂道と古い家並み・・・いい感じです。 -
福禅寺は、平安時代の950年頃、空也による創建と伝えられている真言宗大覚寺派の寺院・・・鞆の浦一番の景勝地として、昔から愛されてきたお寺です。
現在の本堂と客殿の對潮楼は江戸時代の元禄年間(1690年頃)に建立されました。 -
朝鮮王朝は、日本が鎖国時代に正式な国交を結んだ唯一の国でした。
朝鮮通信使は、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮より日本へ派遣された外交使節団です。
福禅寺の本堂に隣接する對潮楼は、朝鮮通信使をもてなす客殿として利用され、1748年、第10回朝鮮通信使の正使・洪啓禧によって「對潮楼」と名付けられました。
この扁額は、その正使の息子・洪景海が書いた書を扁額にしたものだそうです。 -
對潮楼の窓からは、坂本龍馬率いる海援隊が乗り込んだ蒸気船「いろは丸」を再現した渡船「平成いろは丸」と弁天島、その奥に仙酔島が見えました・・・對潮楼の大広間から見る海上の眺めは、本当に素晴らしい!
宮城道雄の『春の海』の琴の音が聞こえてくるよう・・・宮城道雄は、父親の故郷であり自身が幼少期を過ごした鞆の浦を思って、この名曲を創作したと言われ、私も若い頃、NHKテレビに出て『春の海』を弾いたことがあります。
琴の街でもある福山は、お琴を習う人が多かったのです。 -
朝鮮通信使が鞆の浦の寄港で最も楽しみにしていたのが、ここ對潮楼からの眺望で、「寺は高い崖の上に海を臨んで建っている。島々は大小遠近さまざまに並び地勢奇しく絶景これに勝るものはない。」とこの眺めを絶賛しました。
部屋には「日東第一形勝」(朝鮮より東で一番美しい景勝地)の扁額が掲げられていますが、これは1711年に、第8回朝鮮通信使の従事官・李邦彦がしたためた書を木彫し、扁額にしたものです。 -
平成6年には、通信使が訪れた当時の建物やゆかりの文物が特によく保存されているということで、「朝鮮通信使遺跡 鞆福禅寺境内」として国の史跡に指定されました。
同時に指定されたのが、岡山県瀬戸内市の「牛窓本蓮寺境内」と静岡市清水区の「興津清見寺境内」です。
欄間には、菊の御紋の透かし彫りが施されています。 -
また、坂本龍馬の「いろは丸」と紀州の「明光丸」が衝突し、鞆の港に全員たどり着いた後に談判を行った場所が對潮楼です。
朝鮮通信使だけでなく、坂本龍馬にまで縁のある地とは知りませんでした。 -
鞆の浦の街並み・・・路地には素敵な風景が広がっています。
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江戸末期に建てられた「鞆の津の商家」。
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「龍馬談判の町屋」・・・ここ魚屋萬蔵宅でも紀州藩との談判が行われました。
最終的に龍馬は紀州藩から損害賠償を勝ち取り、近代海難裁判の先駆けとなりました。 -
住吉神社には「鞆ノ津の力石」があります。
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力石は吉凶を占う事から始まりましたが、江戸から明治時代にかけて鞆港の仲仕が祭礼の時などに力比べをし奉納したそうです。
花崗岩製の力石の重さは、140~200kgもあります。 -
秋空に恵まれて、散歩には最高です。
ここ鞆の浦には、幕末~昭和初期の街並みが広範囲にわたって、そのまま残っています・・・江戸期の建物が80棟、明治期が91棟、大正・昭和期が301棟もあり、奇跡的ですね。 -
「太田家住宅」は、1659年に漢方薬酒の保命酒の製造・販売を始めた中村家の屋敷でしたが、明治に入って廻船業を営んでいた太田家に継承された屋敷です。
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玄関には杉玉掛けもあり、造り酒屋の構えをよく残しています。
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美しい鞆の浦の風景をスケッチする人が沢山います。
この「いろは丸展示館」の建物は、江戸時代末期に建てられた土蔵です。 -
展示館の1階では、慶応3年(1867年)に沈んだ「いろは丸」の引き揚げ物などを展示しています。
坂本龍馬はピストルを所持していましたが、これはそのレプリカ。 -
2階には坂本龍馬の隠れ部屋が再現され、等身大の龍馬の蝋人形が置かれています。
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鞆の浦のシンボル「常夜燈」・・・安政6年(1859年)に建てられた船の出入りを誘導してきた燈台で、燈の高さは5.5m。
船が風と潮の流れを利用していた時代、瀬戸内海の潮の分かれ目となる鞆の浦には、潮の満ち引きを待つ船が集っていました。
潮待ち港として、鞆の浦は二千年に渡って繁栄したのです。 -
常夜燈のすぐそばには「雁木」があります。
潮の干満に関らず船着けができる石階段が雁木で、雁が飛ぶさまに似ていることから「雁木」と呼ばれるようになりました。
雁木といっても石造りなんですね。 -
常夜燈から先ほどの福禅寺が見えます。
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歴史が息づく 小さな港町の散策でした。
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福山市営渡船の「平成いろは丸」で今夜のお宿がある仙酔島へ・・・仙酔島への乗船時間は5分ほどで、料金は往復で240円、1時間に3本就航しています。
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船内には、龍馬ゆかりのものが展示されています。
これは、妻・お龍に送った書簡。 -
坂本龍馬が京都の近江屋で暗殺される僅か半年前の慶応3年(1867年)に「いろは丸事件」は起こりました。
坂本龍馬が伊予大洲藩から借り受けた西洋式の蒸気船「いろは丸」は、最初の航海で物資(鉄砲)を運ぶために長崎から大阪に向かっている途中、紀州藩の明光丸に2度にわたって衝突され沈没しました。
その場所(現在の岡山県笠岡市)が船内に写真で示されてます。 -
渡船乗り場の目の前の弁天島には「弁財天福寿堂」があります。
祠の創建時期は不詳ですが、正保元年(1644年)鞆奉行・荻野新右衛が再建し、その美観を今日に残しています。
その昔、近江の藤原正道が宮島へ参拝した帰りに弁天島へ船を寄せ、誤って家伝の宝刀を海に落としてしまいました。
正道はその刀を拾ってくるよう土地の人に頼み、一人の若者が海に飛び入り刀を咥えて上がってきましたが、既に足はサメに食いちぎられ、刀を渡すと息絶えてしまいました。
正道はこの有様を見て悲しみ、弁天島に十一重の石塔を建て供養したと言われています。 -
仙酔島の桟橋に接岸すると、小高い所に今日のお宿が見えます。
その昔、仙酔島に住んでいた仙人が美しい景色に見とれ、景色を肴に酒を飲み、酔ってうたた寝をした姿を人に見られてしまったという伝説から「仙酔島」と呼ばれるようになったとか。 -
七福神が宿る島と言われる仙酔島・・・この島全体がパワースポットです。
桟橋から続く遊歩道にある海食門(侵食されて出来た岩の門)をくぐって数分歩くと・・・ -
坂道を登った所に建物が見えてきました・・・今日お世話になる「人生感が変わる宿 ここから」です。
心と体の再生復活・充電の宿・・・ ” 心と体 ” を縮めると「ここから」、勿論 ” ここから ” 新たな人生が始まる、と言えるほど人生観が変わるという意味もあるのでしょう。 -
この宿は、日本初の洞窟蒸し風呂「江戸風呂」や直接海水をくみ上げて湧かした海水風呂などのお湯処と、地元の漁師さんから仕入れた旬の新鮮素材を使った料理がウリです。
予約した後、 ” 江戸風呂の受け付けは16時30分までなので、早目に到着してゆっくり入浴して下さい ” とのメールを宿からもらったので、15時20分に着きました。 -
『当館は大人専用の宿』・・・お子様連れの方は、すぐそばにある国民宿舎へどうぞ・・・その理由は、気づきと再生復活、新しい出発の宿ですので、大人の方を対象としているからです。
そのせいか、館内・客室にはテレビ・新聞などはありません。 -
チェックインの際にフロントでお風呂や島の説明を受け、宿が用意するポロシャツと短パンに着替えたら外に出て、青竹踏みのような竹の通路を通り、早速、江戸風呂へ・・・目の前に広がる海を眺めながらの入浴は、とても開放感があり、癒されること間違いなしです。
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江戸風呂は入る順序があって、①海藻の蒸し風呂 → ②胎内風呂 → ③ヨモギの蒸し風呂 → ④海岸に出て海に浸かる → ④砂浜を歩く → ⑤ビワの葉の蒸し風呂 → ⑥薬草風呂 とゆっくり楽しみます。
3つあるサウナのような蒸し風呂は、毎朝3時から松の薪を焚きあげ、その余熱で海藻・ヨモギ・ビワの葉を蒸して、その効果を体内に取り入れるような感じです。 -
2番目は「母親の胎内風呂」・・・高濃塩度の海水を使用した潮風呂ですが、母親の羊水に限りなく近く、浮きまくらを頭にあてて目を閉じるとプカプカ浮いて、何とも言えない心地良さで心も体も癒されます。
私はしっかり浮きましたが、一緒に入った太めの夫はどうしても浮きません・・・体に悪い所があるのかな? -
3番目に「ヨモギの蒸し風呂」に入り、4番目は「世界一の露天風呂」(=瀬戸内海)へ。
蒸し風呂で体を温めた後、冷水に入る事で体中の細胞が目覚める・・・などという説明書きを見て勇気を出して入りました。
真冬でも海に入るのでしょうか? -
5番目は砂浜を素足でお散歩・・・仙酔島の満干差4mのパワーを体ごと感じる砂浜です。
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6番目はシャワーで砂を洗い流し、7番目が「薬草歳時記露天風呂」・・・季節の薬草が入った風呂(10月は柿の葉)から、瀬戸の絶景を眺めます。
最後の8番目「ビワの蒸し風呂」に入って完了。 -
江戸風呂が終わったら、大浴場で汗を流します。
一気に体が軽くなって(?)気持ち良かったですよー! -
鞆の浦を見ながらの贅沢なひと時でした。
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部屋から見た17時17分の瀬戸内海・・・本当に穏やかな海が広がります。
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17時51分、トワイライトの幻想的な風景。
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17時57分、左上に三日月が出ています。
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18時からの夕食は、国民宿舎の隣にある「洗心の間」で。
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「活きたままの海鮮鍋コース」の美味しい食事。
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食事が終わったら建物の外に出て、カツオのタタキのように藁で炙った瀬戸内名物のシャコを楽しみます。
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仙酔島で採れた塩で食べるシャコは、風味があって美味しい。
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食後は和太鼓のパフォーマンス・・・大黒様も楽しそうです。
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食事の後、国民宿舎のお風呂に入って帰ります。
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この泡風呂やよもぎ風呂、潮風呂のほかに露天風呂もあり、楽しめます。
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3日目の朝、日の出を見たくて朝食前に仙酔島の散策に出かけました。
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遊歩道はきれいに整備されていて・・・
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遠くには四国の山々が霞んで見えます。
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朝早くから、多くの漁船が忙しそうに走っています。
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この辺りは彦浦、その先の山の頂上あたりに見えているのは「鳥の口展望台」・・・そこからの朝日を見るために登って行きました。
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山登りの途中、彦浦と下加手島を見下ろすビュースポットで・・・下加手島は干潮時には、このように地続きになります。
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鳥の口展望台に登ると、そこには見事なご来光が待っていました。(6時25分)
ここで拝むご来光は、日本で最もエネルギーが高いと言われています。 -
反対側の鞆の浦も朝日を受けて、より美しく見えます。
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仙酔島では、シーカヤック・カヌーも体験できます。
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この辺りの岩石は、流紋岩質凝灰岩の風化により、様々な色を帯びていることから「五色岩」と呼ばれ、黒・赤・青・黄・白の五色に彩られた岩が海岸沿いに約1kmに渡り続いています。
その中でも、赤みを帯びたものが赤色岩。
5色の色が揃っている場所は世界に55ヶ所しかなく、日本ではここだけ。
これら5色の岩がある所は、天地の気が集まってエネルギーが高く、様々なパワーが秘められているとのことです。 -
これは、地盤の変動などによって岩盤がずれ動いた断層。
このような断層や節理(割れ目)は海の波で浸食されやすく、現在も海食洞が作られつつあります。 -
鞆の浦には、カモメやトンビなどの鳥がいます。
これはアオサギ。 -
海岸から見た「ここから」・・・以前は「ニュー錦水国際ホテル」でした。
昨日の江戸風呂が階段を降りた所に見えます。 -
眼の前ある「皇后島」・・・神功皇后が当地へ立ち寄った際に船をつないだことから、皇后島と名付けられたと言われています。
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仙酔島にはタヌキが多く、宿の前にも朝食のおねだりで現れました。
結構、可愛いのですが、絶対エサを与えてはいけません!
でも、まるまると肥っていました。 -
朝日を受けた弁天島と鞆の浦の眺め。
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宿に戻り、朝食会場に向かう途中のロビーにお琴が置いてありました。
福山は日本一の琴の生産地で、全国の生産量の約7割を占めています。
歴史は古く、水野勝成が福山藩主だった時代に始まり、歴代の藩主が奨励したことから城下町・福山ではお琴が盛んになりました。
私も小さい時から始め、今もまだ続けています。
ホテルの人にお願いして、チョッと弾かせてもらえばよかったかな。 -
朝食は、リンゴ・人参・バナナのジュースに、湯豆腐やアジの開き等。
ご飯は五穀米のお粥で、一見物足りなさそうでしたが大丈夫・・・夫はシッカリおかわりをして満腹に。
仙酔島に泊まって、沢山パワーを頂きました! -
平成いろは丸で鞆の浦に戻り、バスが来る前に港を散策しました。
多くの漁船は早朝の仕事を終えて港に戻っています。 -
漁港の街なので猫ちゃんも多く、ノンビリとした感じです。
毎日美味しいお魚を食べてるんでしょうね・・・ -
バスで福山市街に戻り、実家の法事も終わって、今日の宿泊は福山駅南口前にあるリッチモンドホテル・・・フロントは2階にあります。
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4日目の朝。
朝食の前に、福山駅北口を出た所にある福山城に行ってみました。 -
朝日を受けて紅葉も輝いています。
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坂道を登って行き・・・
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伏見櫓を見上げながら進みます。
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「伏見櫓」は元和8年(1622年)築城の際に、京都伏見城の「松の丸東やぐら」であった遺構を徳川秀忠が移建させたもので、白壁三層の豪華な櫓です。
筋鉄御門と同じく戦災を免れており、国重要文化財に指定されています。 -
「筋鉄御門」は福山城の築城に際して、伏見城から移築したものといわれています。
柱の角に筋鉄を施し、扉に数十本の筋鉄を打ちつけているため、その名が生まれました。 -
福山城は、徳川幕府の西国鎮護の拠点として、徳川家康の従兄弟である水野勝成が築いた城で、元和8年(1622年)に完成しました。
大規模な新規築城としては、江戸時代最後の城です。
歴代の藩主は、水野氏5代・松平氏1代・阿部氏10代と続き、廃藩置県に至るまで福山城が藩治の中心になっていました。 -
明治6年に廃城となり、多くの城の建物が取り壊され、更に昭和20年8月の福山大空襲で天守閣と御湯殿も焼失しました。
現在の建物は、市制50周年事業として昭和41年に復興された鉄筋コンクリート製です。
現在、福山城天守閣は福山城博物館として運営され、1階~4階までは藩主の書画・甲冑などの展示室、最上階は市街地を一望できる展望台になっています。
広場では、毎朝6時半に市民が元気よくラジオ体操。 -
昭和20年に焼失した「湯殿」は、昭和41年に天守閣とともに復原されました。
娘時代、お琴のお弾き初めはこの湯殿で行われ、その様子が広島テレビで放送されました。 -
昭和54年に修理・復興された「鐘櫓」・・・本丸内に鐘櫓があるのは珍しいことです。
現在は、8時・12時・18時・22時に自動で鐘が鳴ります。 -
阿部 正弘(1819~1857)は、第7代の福山藩主・・・江戸幕府の老中首座を務め、幕末の動乱期にあって「安政の改革」を断行した人物です。
また人材育成のため、1853年には福山藩の藩校「弘道館」を「誠之館」に改め、身分にかかわらず教育を行いました。 -
リッチモンドホテルに戻って朝食をとり、新幹線で京都から近江八幡に向かいます。
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福山駅の新幹線ホームからは、堂々たる福山城がよく見えました。
この後は、近江八幡の観光が楽しみです。
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