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埋木舎は、彦根城佐和口多聞櫓の向かい側に佇む鄙びた武家屋敷で、1759 年に藩の公館(北御屋敷)として建築されました。井伊直弼が17歳の時から江戸に上るまでの15年間、青春時代を過ごした舎です。表玄関を入ると1本の柳の老木が聳え、風に揺れながらも倒れることのない佇まいに直弼は自分の生き方を重ね、雅号を「柳王舎(やぎわのや)」と称しました。その後、直弼は「世の中をよそに見つつも埋もれ木の 埋もれておらむ心なき身は」と和歌を詠みました。第11代藩主 直中の14男だった直弼には藩主の座を望むすべもなく、かといって他家への養子の話もなく、「埋もれ木である」と自ら「埋木舎」と名付け、文武両道の修練に日夜励みました。<br />豊かな草木に囲まれた庭や客人をもてなした表座敷、日常生活や勉学に励んだ奥座敷、自ら建てた茶室などを展示資料と照らし合わせながら見ることができ、往時の直弼の生活ぶりを偲ぶことができます。<br />街歩きでのお勧めは、商店街「夢京橋キャッスルロード」と「西四番町スクエア」です。今回は、「夢京橋キャッスルロード」と「彦根美濠の舎」をレポいたします。ファミリーや若い方たちに人気のスポットです。<br />埋木舎を紹介しているHPです。<br />http://kojodan.jp/castle/2/memo/990.html<br />夢京橋のHPです。<br />http://yumekyobashi.jp/<br />彦根美濠の舎にある「たねや」のHPです。<br />http://taneya.jp/shop/shiga_mihori.html

松風水月 彦根紀行③埋木舎・街ある紀(エピローグ)

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2015/05/02 - 2015/05/02

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

埋木舎は、彦根城佐和口多聞櫓の向かい側に佇む鄙びた武家屋敷で、1759 年に藩の公館(北御屋敷)として建築されました。井伊直弼が17歳の時から江戸に上るまでの15年間、青春時代を過ごした舎です。表玄関を入ると1本の柳の老木が聳え、風に揺れながらも倒れることのない佇まいに直弼は自分の生き方を重ね、雅号を「柳王舎(やぎわのや)」と称しました。その後、直弼は「世の中をよそに見つつも埋もれ木の 埋もれておらむ心なき身は」と和歌を詠みました。第11代藩主 直中の14男だった直弼には藩主の座を望むすべもなく、かといって他家への養子の話もなく、「埋もれ木である」と自ら「埋木舎」と名付け、文武両道の修練に日夜励みました。
豊かな草木に囲まれた庭や客人をもてなした表座敷、日常生活や勉学に励んだ奥座敷、自ら建てた茶室などを展示資料と照らし合わせながら見ることができ、往時の直弼の生活ぶりを偲ぶことができます。
街歩きでのお勧めは、商店街「夢京橋キャッスルロード」と「西四番町スクエア」です。今回は、「夢京橋キャッスルロード」と「彦根美濠の舎」をレポいたします。ファミリーや若い方たちに人気のスポットです。
埋木舎を紹介しているHPです。
http://kojodan.jp/castle/2/memo/990.html
夢京橋のHPです。
http://yumekyobashi.jp/
彦根美濠の舎にある「たねや」のHPです。
http://taneya.jp/shop/shiga_mihori.html

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 彦根城天守〜楽々・玄宮園を経由して佐和口多聞櫓まで戻ってきました。<br />東側に翼を伸ばした多聞櫓と内堀を挟んで対面した場所に埋木舎があります。<br />開国記念館は、この多聞櫓の一角にあります。<br />

    彦根城天守〜楽々・玄宮園を経由して佐和口多聞櫓まで戻ってきました。
    東側に翼を伸ばした多聞櫓と内堀を挟んで対面した場所に埋木舎があります。
    開国記念館は、この多聞櫓の一角にあります。

  • 開国記念館<br />季節はずれの「ひこにゃん」のポスターにつられ、埋木舎を訪ねる前に少し道草です。<br />開国記念館があるのは、明治時代に陸軍省が解体した佐和口多聞櫓の一部を復元した場所です。開国の大偉業を成し遂げた直弼が桜田門外に倒れた時から数えて100年目に当たる1960(昭和35)年に大老開国百年祭記念事業として再建されたものです(石垣だけは、築城当時のもの)。<br />その後、開国記念館として、2008年に展示施設として再オープンしています。常設展では展示ケースとパネルを使って「彦根の歴史」について詳しく紹介しており、企画展は戦国時代をテーマにしたものが多く、充実した内容となっています。入館無料です。

    開国記念館
    季節はずれの「ひこにゃん」のポスターにつられ、埋木舎を訪ねる前に少し道草です。
    開国記念館があるのは、明治時代に陸軍省が解体した佐和口多聞櫓の一部を復元した場所です。開国の大偉業を成し遂げた直弼が桜田門外に倒れた時から数えて100年目に当たる1960(昭和35)年に大老開国百年祭記念事業として再建されたものです(石垣だけは、築城当時のもの)。
    その後、開国記念館として、2008年に展示施設として再オープンしています。常設展では展示ケースとパネルを使って「彦根の歴史」について詳しく紹介しており、企画展は戦国時代をテーマにしたものが多く、充実した内容となっています。入館無料です。

  • 開国記念館 井伊直弼像<br />一部の展示ルームのみ撮影が許可されています。フラッシュ禁止のものもありますので注意書きをチェックしてください。<br />この木像は、かつて米国スミソニアン博物館に所蔵されていた直弼像です。<br />米国にとっては、日米国交の祖という特別な扱いだったのでしょうか?<br />説明書には、「この木像は明治26年(1893)のシカゴ万博に出品され、その後、ワシントンのスミソニアン博物館に保存されていたもので、昭和41年(1966)1月、70数年ぶりに故郷の彦根市に返ったものです」と記されています。<br />

    開国記念館 井伊直弼像
    一部の展示ルームのみ撮影が許可されています。フラッシュ禁止のものもありますので注意書きをチェックしてください。
    この木像は、かつて米国スミソニアン博物館に所蔵されていた直弼像です。
    米国にとっては、日米国交の祖という特別な扱いだったのでしょうか?
    説明書には、「この木像は明治26年(1893)のシカゴ万博に出品され、その後、ワシントンのスミソニアン博物館に保存されていたもので、昭和41年(1966)1月、70数年ぶりに故郷の彦根市に返ったものです」と記されています。

  • 開国記念館 紙本金地著色風俗図(彦根屏風)<コピー><br />本物は国宝に指定されており、彦根城博物館に所蔵されています。<br />代々彦根藩主であった井伊家に伝わったために「彦根屏風」の名が付き、江戸時代寛永期の風俗図における代表的な名作です。華やかな衣装を着けた異風の男と女、洋犬を連れた女、恋文を渡す文使いの少女、三味線をひく男女、双六遊びをする男女、恋文を書く女などの15人の男女が描かれています。筆者は不明ですが、画中画の山水図や見事な画面構成から、かなりの筆力を持った狩野派の人物であることが窺われます。

    開国記念館 紙本金地著色風俗図(彦根屏風)<コピー>
    本物は国宝に指定されており、彦根城博物館に所蔵されています。
    代々彦根藩主であった井伊家に伝わったために「彦根屏風」の名が付き、江戸時代寛永期の風俗図における代表的な名作です。華やかな衣装を着けた異風の男と女、洋犬を連れた女、恋文を渡す文使いの少女、三味線をひく男女、双六遊びをする男女、恋文を書く女などの15人の男女が描かれています。筆者は不明ですが、画中画の山水図や見事な画面構成から、かなりの筆力を持った狩野派の人物であることが窺われます。

  • 開国記念館<br />精巧な彦根城のジオラマが置かれています。<br />こちらは、手前にある彦根駅から表門橋を渡って天守へ登城するルートを確かめることができます。<br />お子さま連れなら、ここでお城の予備知識を学んでから登城するとより理解が深まると思います。

    開国記念館
    精巧な彦根城のジオラマが置かれています。
    こちらは、手前にある彦根駅から表門橋を渡って天守へ登城するルートを確かめることができます。
    お子さま連れなら、ここでお城の予備知識を学んでから登城するとより理解が深まると思います。

  • 開国記念館<br />こちらは、先ほどとは反対側から見た様子です。<br />西の丸 三重櫓が手前に見えています。<br />

    開国記念館
    こちらは、先ほどとは反対側から見た様子です。
    西の丸 三重櫓が手前に見えています。

  • 開国記念館<br />忍者窓から覗き見た「埋木舎」です。<br />これからあそこまで歩いて行きます。

    開国記念館
    忍者窓から覗き見た「埋木舎」です。
    これからあそこまで歩いて行きます。

  • 彦根城 内堀<br />内堀沿いでは、風になびく柳並木が涼しげです。<br />右の築地塀は護国神社のものです。<br />実はこの道、山田洋次監督 映画『武士の一分』のロケで主演 木村拓哉さんが歩いた所でも知られている道です。

    彦根城 内堀
    内堀沿いでは、風になびく柳並木が涼しげです。
    右の築地塀は護国神社のものです。
    実はこの道、山田洋次監督 映画『武士の一分』のロケで主演 木村拓哉さんが歩いた所でも知られている道です。

  • 彦根城 内堀<br />黒鳥と白鳥がまるでつがいのように寄り添っています。<br />まるでどこかの保険会社のCMみたいで、思わず頬が弛みます。<br />桜田門外の変で直弼を暗殺された事件の確執で、襲撃した水戸とは未だに不仲なのかと思いきや、50年ほど前の1968年に友好都市になっています。<br />実は、内堀に棲んでいるこの黒鳥は、彦根市と水戸市が親善都市提携を結んだ際に記念に水戸の「偕楽園」から贈られたものだそうです。直弼を巡る水戸と彦根の軋轢を乗り越えたのは、直弼の曾孫さんで46年間も彦根市長を務めた井伊直愛氏だったそうです。因みに、敦賀市が仲立ちに入ったそうです。

    彦根城 内堀
    黒鳥と白鳥がまるでつがいのように寄り添っています。
    まるでどこかの保険会社のCMみたいで、思わず頬が弛みます。
    桜田門外の変で直弼を暗殺された事件の確執で、襲撃した水戸とは未だに不仲なのかと思いきや、50年ほど前の1968年に友好都市になっています。
    実は、内堀に棲んでいるこの黒鳥は、彦根市と水戸市が親善都市提携を結んだ際に記念に水戸の「偕楽園」から贈られたものだそうです。直弼を巡る水戸と彦根の軋轢を乗り越えたのは、直弼の曾孫さんで46年間も彦根市長を務めた井伊直愛氏だったそうです。因みに、敦賀市が仲立ちに入ったそうです。

  • 埋木舎(うもれぎのや) 門扉<br />屋敷の門扉です。こうして見ると武家屋敷に相応しい門構えです。<br /><br />門の屋根を覆うかのような大きな柳の木があります。直弼はその柳をことさら愛し、柳が風に逆らわない姿を範として、号にも「柳王舎」を使うことが多かったそうです。 <br />また、外出先で立腹する事があった時、帰宅して庭に植えられた柳を見て「むっとして 戻れば庭に 柳かな」という句を読んで心を落ち着け、座右の銘としたと言われています。

    埋木舎(うもれぎのや) 門扉
    屋敷の門扉です。こうして見ると武家屋敷に相応しい門構えです。

    門の屋根を覆うかのような大きな柳の木があります。直弼はその柳をことさら愛し、柳が風に逆らわない姿を範として、号にも「柳王舎」を使うことが多かったそうです。
    また、外出先で立腹する事があった時、帰宅して庭に植えられた柳を見て「むっとして 戻れば庭に 柳かな」という句を読んで心を落ち着け、座右の銘としたと言われています。

  • 埋木舎 門扉<br />直弼は、第11代藩主 直中の14男として生まれ、5歳で母を、17歳で父を失い、藩の掟に従って300俵の捨扶持でこの中流藩士クラスの屋敷で32歳までの15年間に及ぶ青春時代を送りました。<br />藩主の座を望むすべもなく、他家への養子の話もなく、「埋もれ木である」と自ら「埋木舎」と名付け、文武両道の修練に日夜励みました。1日の睡眠時間はわずか4時間だったそうです。因みに、かのナポレオンは3時間だったそうですが、その分執務中に居眠りしていたそうです。<br />若くして将来の見えないポジションに置かれた状況は、腐っても当然の厳しい立場だったことは想像に難くありません。徳川幕府の大老として開国の父となった才能は、こうした逆境を撥ね退けようとした反骨精神によって培われたと言っても過言ではありません。ですから皆さんも逆境に陥っても、決してエネルギーの使い道を誤らないようにしてください。努力すれば必ず報われます!<br /><br />表玄関に掲げられた表札には「大久保」とあるので混乱してしまうのですが、直弼の側近 大久保小膳に明治維新に際して藩文書の保存や彦根城天守閣の保存運動の功績によって埋木舎が与えられたことによるものです。

    埋木舎 門扉
    直弼は、第11代藩主 直中の14男として生まれ、5歳で母を、17歳で父を失い、藩の掟に従って300俵の捨扶持でこの中流藩士クラスの屋敷で32歳までの15年間に及ぶ青春時代を送りました。
    藩主の座を望むすべもなく、他家への養子の話もなく、「埋もれ木である」と自ら「埋木舎」と名付け、文武両道の修練に日夜励みました。1日の睡眠時間はわずか4時間だったそうです。因みに、かのナポレオンは3時間だったそうですが、その分執務中に居眠りしていたそうです。
    若くして将来の見えないポジションに置かれた状況は、腐っても当然の厳しい立場だったことは想像に難くありません。徳川幕府の大老として開国の父となった才能は、こうした逆境を撥ね退けようとした反骨精神によって培われたと言っても過言ではありません。ですから皆さんも逆境に陥っても、決してエネルギーの使い道を誤らないようにしてください。努力すれば必ず報われます!

    表玄関に掲げられた表札には「大久保」とあるので混乱してしまうのですが、直弼の側近 大久保小膳に明治維新に際して藩文書の保存や彦根城天守閣の保存運動の功績によって埋木舎が与えられたことによるものです。

  • 埋木舎 (国の特別史跡)<br />直弼といえば、舟橋聖一著『花の生涯』や諸田玲子著『奸婦にあらず』などで描かれた開国のリーダー的逸材です。教科書や日本史では将軍継嗣問題や安政の大獄などの政策で人道卑劣なダートなイメージが先行する直弼ですが、とても勤勉で茶の湯で一派を創設するほど芸術的なセンスも抜群だった人物です。また、往時としては破天荒にグローバルな思想の持ち主だったようです。直弼の開国を「日本を救った政治家」と呼ぶか、「天皇の勅許を得ずに調印した無謀な政治家」と呼ぶか、未だに意見は分かれているようですが…。

    埋木舎 (国の特別史跡)
    直弼といえば、舟橋聖一著『花の生涯』や諸田玲子著『奸婦にあらず』などで描かれた開国のリーダー的逸材です。教科書や日本史では将軍継嗣問題や安政の大獄などの政策で人道卑劣なダートなイメージが先行する直弼ですが、とても勤勉で茶の湯で一派を創設するほど芸術的なセンスも抜群だった人物です。また、往時としては破天荒にグローバルな思想の持ち主だったようです。直弼の開国を「日本を救った政治家」と呼ぶか、「天皇の勅許を得ずに調印した無謀な政治家」と呼ぶか、未だに意見は分かれているようですが…。

  • 埋木舎<br />直弼32歳の時、青天の霹靂で藩主 直亮から江戸へ参上するようにと命が下りました。直亮の後継ぎの予定だった兄 直元が急逝したため、直弼を後継ぎとするためでした。江戸へ赴いた直弼は、大勢の御供を従えて江戸城に登城し、将軍 徳川家慶に対面しました。この時、直弼は、江戸藩邸に向かう駕籠の中で思わず落涙したと自筆の書簡に吐露しています。埋木舎での誰にも認められなかった苦労が漸く報われることが嬉しかったのでしょう。<br />こうして大名見習いとして江戸で暮らしましたが、直弼36歳の時に直亮が亡くなり、埋木舎に15年間埋もれていた男がとうとう本丸御殿の主人に成り上がったのです。<br />不遇な環境にもかかわらず、諦めずに心身の鍛練を怠らなかったことが天の認めるところとなり、江戸幕府の大老にまで上り詰めたのです。<br /><br />玄関の右横(写真右端)に少し出っ張った梁が見えます。その梁に載せられた屋根は、「沢山の人が入ってきますように」という願いを込めて『入』という文字になっています。これも、直弼の芸術的センスのひとつです。

    埋木舎
    直弼32歳の時、青天の霹靂で藩主 直亮から江戸へ参上するようにと命が下りました。直亮の後継ぎの予定だった兄 直元が急逝したため、直弼を後継ぎとするためでした。江戸へ赴いた直弼は、大勢の御供を従えて江戸城に登城し、将軍 徳川家慶に対面しました。この時、直弼は、江戸藩邸に向かう駕籠の中で思わず落涙したと自筆の書簡に吐露しています。埋木舎での誰にも認められなかった苦労が漸く報われることが嬉しかったのでしょう。
    こうして大名見習いとして江戸で暮らしましたが、直弼36歳の時に直亮が亡くなり、埋木舎に15年間埋もれていた男がとうとう本丸御殿の主人に成り上がったのです。
    不遇な環境にもかかわらず、諦めずに心身の鍛練を怠らなかったことが天の認めるところとなり、江戸幕府の大老にまで上り詰めたのです。

    玄関の右横(写真右端)に少し出っ張った梁が見えます。その梁に載せられた屋根は、「沢山の人が入ってきますように」という願いを込めて『入』という文字になっています。これも、直弼の芸術的センスのひとつです。

  • 埋木舎<br />玄関を入るとそこは全面が展示室になっています。<br />一部埋木舎の天井の丹精な梁組みを仰ぎ見ることもできます。<br />ここからは見えませんが、左側の奥が表座敷、右側の奥が女中などの控えの間となっています。<br />屏風図の後ろの木戸を開けると隠し部屋があるそうです。女中たちが集まるとどうしても賑やかになり、どんなに囁くように話しても声が漏れてしまいます。直弼は怒らないやさしい性質だったため、やむを得ず「声が届かないスペース」を自ら造ったのだそうです。下は土間で屋根まであり、小さな空間ですが声は遮断され、勉学に勤しむことができたのだとか。

    埋木舎
    玄関を入るとそこは全面が展示室になっています。
    一部埋木舎の天井の丹精な梁組みを仰ぎ見ることもできます。
    ここからは見えませんが、左側の奥が表座敷、右側の奥が女中などの控えの間となっています。
    屏風図の後ろの木戸を開けると隠し部屋があるそうです。女中たちが集まるとどうしても賑やかになり、どんなに囁くように話しても声が漏れてしまいます。直弼は怒らないやさしい性質だったため、やむを得ず「声が届かないスペース」を自ら造ったのだそうです。下は土間で屋根まであり、小さな空間ですが声は遮断され、勉学に勤しむことができたのだとか。

  • 埋木舎 玄関 彦根藩武術乗馬調練の図<br />かつて埋木舎の前は入り江になっており、そこで乗馬訓練が行われていたようです。<br />恐らく、その光景を描いた屏風図ではないかと思います。

    埋木舎 玄関 彦根藩武術乗馬調練の図
    かつて埋木舎の前は入り江になっており、そこで乗馬訓練が行われていたようです。
    恐らく、その光景を描いた屏風図ではないかと思います。

  • 埋木舎 玄関 駕籠(かご)<br />直弼が埋木舎時代に使用したとされる駕籠が復元されて展示されています。<br />長い歳月のため経年変化が著しく、部材によっては朽ち果てた状況だったようですが、彦根仏壇の伝統工芸技術を活用して修復がなされたそうです。<br />復元時に判ったことですが、一般に駕籠は担ぎ棒が抜けるようになっていますが、この駕籠は担ぎ棒と駕籠本体が金具で固定されている珍しい構造だそうです。 また、担ぎ棒は、重量を軽くするために空洞にする細工がなされていたそうです。因みに、この復元を担ったのは、NPO法人 Linksです。

    埋木舎 玄関 駕籠(かご)
    直弼が埋木舎時代に使用したとされる駕籠が復元されて展示されています。
    長い歳月のため経年変化が著しく、部材によっては朽ち果てた状況だったようですが、彦根仏壇の伝統工芸技術を活用して修復がなされたそうです。
    復元時に判ったことですが、一般に駕籠は担ぎ棒が抜けるようになっていますが、この駕籠は担ぎ棒と駕籠本体が金具で固定されている珍しい構造だそうです。 また、担ぎ棒は、重量を軽くするために空洞にする細工がなされていたそうです。因みに、この復元を担ったのは、NPO法人 Linksです。

  • 埋木舎<br />左側にある表座敷への入口の上には「花迎」の扁額が掛けられています。<br />「花迎」とは、花の心でもてなすという意味です。今風に言えばズバリ「お・も・て・な・し」と言うことです。<br /><br />「門を入ると、右に下男と下女の住居があった。そして玄関をはいって右に仏間、座禅の間、御産の間、湯殿があり、左側とその奥に座敷と居間があった。六百坪の土地に百拾坪の家であった。自分がそこに移ってから建て増したのは澍露軒と名づけた四畳半台目の茶室だけであった」。これが立原正秋著『雪の朝』で描かれた埋木舎の佇まいの一節です。

    埋木舎
    左側にある表座敷への入口の上には「花迎」の扁額が掛けられています。
    「花迎」とは、花の心でもてなすという意味です。今風に言えばズバリ「お・も・て・な・し」と言うことです。

    「門を入ると、右に下男と下女の住居があった。そして玄関をはいって右に仏間、座禅の間、御産の間、湯殿があり、左側とその奥に座敷と居間があった。六百坪の土地に百拾坪の家であった。自分がそこに移ってから建て増したのは澍露軒と名づけた四畳半台目の茶室だけであった」。これが立原正秋著『雪の朝』で描かれた埋木舎の佇まいの一節です。

  • 埋木舎 門扉<br />門扉を内側から見ると、外側から見た武家屋敷の風情とは趣が異なります。<br />実は、現在の門は、旧い門が老朽化したために、あるお寺から移設されたリサイクル品だそうです。

    埋木舎 門扉
    門扉を内側から見ると、外側から見た武家屋敷の風情とは趣が異なります。
    実は、現在の門は、旧い門が老朽化したために、あるお寺から移設されたリサイクル品だそうです。

  • 埋木舎 門扉<br />内側の2本の柱は、元々あった門の柱で、現在の門とは繋がっていません。よく見ると柱の先端と門の間には隙間があります。<br />つまり、現在の門は、外側にある2本の柱で建っていることになります。(横梁はつなげられています)

    埋木舎 門扉
    内側の2本の柱は、元々あった門の柱で、現在の門とは繋がっていません。よく見ると柱の先端と門の間には隙間があります。
    つまり、現在の門は、外側にある2本の柱で建っていることになります。(横梁はつなげられています)

  • 埋木舎 門の飾瓦<br />門の内側にだけこのように菊の花の飾瓦が取り付けられています。<br />仏教も学んで得度も受けた直弼は、外側から見れば武家屋敷、内側から見れば寺門のような趣にするため、外側の菊の花の飾瓦を外したのでしょう。これも直弼の美の哲学です。

    埋木舎 門の飾瓦
    門の内側にだけこのように菊の花の飾瓦が取り付けられています。
    仏教も学んで得度も受けた直弼は、外側から見れば武家屋敷、内側から見れば寺門のような趣にするため、外側の菊の花の飾瓦を外したのでしょう。これも直弼の美の哲学です。

  • 埋木舎 門扉<br />門の柱の下部を見てみるとジグザグにして接いであります。<br />これは、旧い門の基礎を活かし、その上に寺門を移築したことを窺わせます。

    埋木舎 門扉
    門の柱の下部を見てみるとジグザグにして接いであります。
    これは、旧い門の基礎を活かし、その上に寺門を移築したことを窺わせます。

  • 埋木舎 門扉<br />旧い門の柱は、2本とも下部が朽ち果て、途中で石材で接いでいます。<br />旧いものを遺していくのは、大変なことだというのが伝わってきます。

    埋木舎 門扉
    旧い門の柱は、2本とも下部が朽ち果て、途中で石材で接いでいます。
    旧いものを遺していくのは、大変なことだというのが伝わってきます。

  • 埋木舎 中庭<br />門を潜った先、庭のほぼ中央に大きな井戸があります。<br />これは、騎馬訓練を行うための馬たちが水を呑むための井戸だったそうです。

    埋木舎 中庭
    門を潜った先、庭のほぼ中央に大きな井戸があります。
    これは、騎馬訓練を行うための馬たちが水を呑むための井戸だったそうです。

  • 埋木舎 中庭<br />中庭の左側にある簡素な木戸を潜ると、庭伝いに建屋の内部を見ることができます。

    埋木舎 中庭
    中庭の左側にある簡素な木戸を潜ると、庭伝いに建屋の内部を見ることができます。

  • 埋木舎 <br />左の建屋の奥が表座敷になります。

    埋木舎
    左の建屋の奥が表座敷になります。

  • 埋木舎 表座敷<br />彦根藩井伊家歴代藩主の肖像画などが展示されています。また、現所有者である大久保家所有の逸品も陳列されています。<br />彦根藩は、江戸後期に始まった湖東焼で潤っていたのですが、桜田門外の変が起こるとそれどころではなくなったようです。陶器にもあの大事件が影を落としていたとは吃驚です。

    埋木舎 表座敷
    彦根藩井伊家歴代藩主の肖像画などが展示されています。また、現所有者である大久保家所有の逸品も陳列されています。
    彦根藩は、江戸後期に始まった湖東焼で潤っていたのですが、桜田門外の変が起こるとそれどころではなくなったようです。陶器にもあの大事件が影を落としていたとは吃驚です。

  • 埋木舎 表座敷<br />ショーケースには、直弼が埋木舎時代に客人の接待に用いた漆器類が陳列されています。<br />面白いのは、2種類の家紋が見られることです。<br />井伊家の家紋は橘紋です。橘はみかんの仲間で、白い花が咲いた後に実がなります。この実と葉をデザインしたものが家紋となっています。金色の家紋が「彦根橘」と呼ばれるものです。赤い家紋は、井桁と橘をあしらったもので見たことのない家紋です。 直弼の創作品でしょうか?<br /><br />井伊家と橘紋の関係を調べてみました。<br />井伊家の祖 共保が出生した時、近くに橘があったことから産着に橘の紋を付け、そこから家紋に発展したというのが一般論のようです。<br />個人的には、源・平・藤原・橘氏の家紋が橘紋であることから、井伊家の初代当主共保が藤原氏後裔の氏族の養子で、元は藤原姓を名乗っていたことに因んでいるためと思っていたのですが、高野澄著『井伊直政』(PHP文庫)によれば、これは一般論ではないようです。「あなた(共保)さまがお生まれになったのは、あの井戸の中と聞いておりますよ…ならば幕紋は井桁にきめることにしよう」、「あなたが神主の手に抱きあげられたとき、井戸の傍には橘の木が生えていました。そこで神主はあなたの産着に橘の模様をつけたそうです」。こうした神がかった伝説から、井伊家の幕紋は井桁、衣紋は橘と決まったと記されています。<br />恐らく、養子という事実を隠したかったのでしょう。共保の出生には「捨て子」という伝承もあり、出生の秘密を隠匿しようと言う意図が窺えます。

    埋木舎 表座敷
    ショーケースには、直弼が埋木舎時代に客人の接待に用いた漆器類が陳列されています。
    面白いのは、2種類の家紋が見られることです。
    井伊家の家紋は橘紋です。橘はみかんの仲間で、白い花が咲いた後に実がなります。この実と葉をデザインしたものが家紋となっています。金色の家紋が「彦根橘」と呼ばれるものです。赤い家紋は、井桁と橘をあしらったもので見たことのない家紋です。 直弼の創作品でしょうか?

    井伊家と橘紋の関係を調べてみました。
    井伊家の祖 共保が出生した時、近くに橘があったことから産着に橘の紋を付け、そこから家紋に発展したというのが一般論のようです。
    個人的には、源・平・藤原・橘氏の家紋が橘紋であることから、井伊家の初代当主共保が藤原氏後裔の氏族の養子で、元は藤原姓を名乗っていたことに因んでいるためと思っていたのですが、高野澄著『井伊直政』(PHP文庫)によれば、これは一般論ではないようです。「あなた(共保)さまがお生まれになったのは、あの井戸の中と聞いておりますよ…ならば幕紋は井桁にきめることにしよう」、「あなたが神主の手に抱きあげられたとき、井戸の傍には橘の木が生えていました。そこで神主はあなたの産着に橘の模様をつけたそうです」。こうした神がかった伝説から、井伊家の幕紋は井桁、衣紋は橘と決まったと記されています。
    恐らく、養子という事実を隠したかったのでしょう。共保の出生には「捨て子」という伝承もあり、出生の秘密を隠匿しようと言う意図が窺えます。

  • 埋木舎 表座敷<br />後に腹心となる国文学者 長野主膳と文学論などを3日3晩かけて熱く語り明かしたのも、この表座敷でした。

    埋木舎 表座敷
    後に腹心となる国文学者 長野主膳と文学論などを3日3晩かけて熱く語り明かしたのも、この表座敷でした。

  • 埋木舎 表座敷<br />これは歴代藩主の図です。直弼は、右側の一番下です。直弼は13代、直弼の子の直憲が14代です。井伊家は徳川幕府の中でも名門中の名門で、酒井、榊原、井伊、本田と言えば「徳川四天王」です。<br />その中でも、彦根藩は歴代藩主の内7人までが大老を勤めた重鎮でした。桜田門外の変の後は幕府から冷遇され、これが原因で徳川を見切って明治政府側についたとも言われています。

    埋木舎 表座敷
    これは歴代藩主の図です。直弼は、右側の一番下です。直弼は13代、直弼の子の直憲が14代です。井伊家は徳川幕府の中でも名門中の名門で、酒井、榊原、井伊、本田と言えば「徳川四天王」です。
    その中でも、彦根藩は歴代藩主の内7人までが大老を勤めた重鎮でした。桜田門外の変の後は幕府から冷遇され、これが原因で徳川を見切って明治政府側についたとも言われています。

  • 埋木舎 表座敷<br />庭に置かれた味わいの深い蹲踞です。<br />その先の茶室の壁に四角い窓のようなものが見られます。これは、茶室に必ずある「にじり口」を造ろうとしたものだそうです。しかし、柱があったために断念したのだそうです。それでこんな小さな窓しかないのですが、これはこれで茶殻などを捨てるために重宝したそうです。<br />「転んでもただでは起きない」直弼の一面が窺われる逸品です。

    埋木舎 表座敷
    庭に置かれた味わいの深い蹲踞です。
    その先の茶室の壁に四角い窓のようなものが見られます。これは、茶室に必ずある「にじり口」を造ろうとしたものだそうです。しかし、柱があったために断念したのだそうです。それでこんな小さな窓しかないのですが、これはこれで茶殻などを捨てるために重宝したそうです。
    「転んでもただでは起きない」直弼の一面が窺われる逸品です。

  • 埋木舎 表座敷<br />今にも倒れそうな石燈篭です。<br />庭の草や花、木は、かつて直弼が植えたものだそうです。枯れてしまったものは、同じものを同じ場所に植えて古の姿を今に伝えているそうです。

    埋木舎 表座敷
    今にも倒れそうな石燈篭です。
    庭の草や花、木は、かつて直弼が植えたものだそうです。枯れてしまったものは、同じものを同じ場所に植えて古の姿を今に伝えているそうです。

  • 埋木舎 表座敷<br />珍しい蚊取り線香のように渦を巻いた蜘蛛の巣です。<br />こに棲む蜘蛛は、直弼のアート感覚のDNAを引き継いでいるようです。

    埋木舎 表座敷
    珍しい蚊取り線香のように渦を巻いた蜘蛛の巣です。
    こに棲む蜘蛛は、直弼のアート感覚のDNAを引き継いでいるようです。

  • 埋木舎 茶室「澍露庵(じゅろあん)」<br />直弼が埋木舎時代に茶道の奥義を窮めた茶室「樹露軒」です。<br />茶室の名は、法華経の「甘露の法雨を澍(そそ)ぎて煩悩の焔を滅除す」の文から引用したものです。茶号を「宗観」と名乗り、石川流を学んでやがて独自の茶道を開拓しました。<br />母屋の瓦葺の切妻屋根を茶室に差しかけるように葺き下ろした外観は、一見片流瓦葺のように見えます。<br />このように書くと立派な茶室をイメージされるかもしれませんが、実は資金が無く、直弼自ら倉庫を茶室にDIYしたものだそうです。しかし、貧乏ではありましたが、茶の湯に対する哲学は立派でした。直弼の考える茶の湯を一言で表したのが「一期一会」という言葉です。一度の茶会での出会いは一生に一度だけのものだから、心を尽くして出会いの時を大切にしようという意味です。<br />朝な夕な茶室に籠り、和敬静寂の奥義を究め、茶道の極意『茶湯一会集』を編み出した心意気が偲ばれます。

    埋木舎 茶室「澍露庵(じゅろあん)」
    直弼が埋木舎時代に茶道の奥義を窮めた茶室「樹露軒」です。
    茶室の名は、法華経の「甘露の法雨を澍(そそ)ぎて煩悩の焔を滅除す」の文から引用したものです。茶号を「宗観」と名乗り、石川流を学んでやがて独自の茶道を開拓しました。
    母屋の瓦葺の切妻屋根を茶室に差しかけるように葺き下ろした外観は、一見片流瓦葺のように見えます。
    このように書くと立派な茶室をイメージされるかもしれませんが、実は資金が無く、直弼自ら倉庫を茶室にDIYしたものだそうです。しかし、貧乏ではありましたが、茶の湯に対する哲学は立派でした。直弼の考える茶の湯を一言で表したのが「一期一会」という言葉です。一度の茶会での出会いは一生に一度だけのものだから、心を尽くして出会いの時を大切にしようという意味です。
    朝な夕な茶室に籠り、和敬静寂の奥義を究め、茶道の極意『茶湯一会集』を編み出した心意気が偲ばれます。

  • 埋木舎 茶室<br />4畳半台目の質素な茶室です。床は壁床とし、点前座の勝手付に吹き抜けをつくり、1畳の水屋を備えるなど、直弼の茶室に対する哲学が窺えます。天井は薄板を羽重ねに張り、竹と木で交互に押さえています。天井の一部は掛け込み風になっていますが、これは屋根の形状に沿って自然に傾斜が付いたものです。いわば屋根構造の欠点ですが、それを巧みに使って単純な天井に変化を持たせています。<br />最大の特徴は、茶庭を持たないことです。敢えて持たないことでより高い次元の精神的な「茶庭」を希求したとも言えるのではないでしょうか?

    埋木舎 茶室
    4畳半台目の質素な茶室です。床は壁床とし、点前座の勝手付に吹き抜けをつくり、1畳の水屋を備えるなど、直弼の茶室に対する哲学が窺えます。天井は薄板を羽重ねに張り、竹と木で交互に押さえています。天井の一部は掛け込み風になっていますが、これは屋根の形状に沿って自然に傾斜が付いたものです。いわば屋根構造の欠点ですが、それを巧みに使って単純な天井に変化を持たせています。
    最大の特徴は、茶庭を持たないことです。敢えて持たないことでより高い次元の精神的な「茶庭」を希求したとも言えるのではないでしょうか?

  • 埋木舎 <br />茶室脇にある蹲踞です。<br />写真では判り難いのですが、長方形の一部が凸凹に刻まれています。

    埋木舎
    茶室脇にある蹲踞です。
    写真では判り難いのですが、長方形の一部が凸凹に刻まれています。

  • 埋木舎 奥座敷<br />井伊直弼が15年間勉強や生活をしていた部屋です。<br />この座敷の明かり欄間の桟は、井伊家の「井桁」の意匠になっています。(判り難いのですが、少しだけ見えています)<br />直弼の美学の面目躍如といったところでしょうか。

    埋木舎 奥座敷
    井伊直弼が15年間勉強や生活をしていた部屋です。
    この座敷の明かり欄間の桟は、井伊家の「井桁」の意匠になっています。(判り難いのですが、少しだけ見えています)
    直弼の美学の面目躍如といったところでしょうか。

  • 埋木舎 御居間・奥座敷<br />1983年に秋篠宮様が学校の研修旅行中に訪問されています。当時の秋篠宮様は埋木舎時代の直弼に近い境遇にあったと思われ、自分に重なるものがあって共感されたのかもしれません。<br />しかし、現在は皇太子殿下に皇位継承権を持つお子様がおらず、秋篠宮様には悠仁殿下がおられる今では、立場も変わってきていると思います。これも直弼に似ているような…。

    埋木舎 御居間・奥座敷
    1983年に秋篠宮様が学校の研修旅行中に訪問されています。当時の秋篠宮様は埋木舎時代の直弼に近い境遇にあったと思われ、自分に重なるものがあって共感されたのかもしれません。
    しかし、現在は皇太子殿下に皇位継承権を持つお子様がおらず、秋篠宮様には悠仁殿下がおられる今では、立場も変わってきていると思います。これも直弼に似ているような…。

  • 埋木舎 御居間<br />この居間で、国学の師でありブレーンであり、安政の大獄を裏で操った長野主膳と出会い、濃密な関係を築き上げました。<br />密室で語り合う直弼と主膳のディスプレイですが、どことなく昭和を感じさせる2Dの世界です。これはこれで趣がありますが…。<br />扁額「埋木舎」の明かり欄間の桟が「井桁」の意匠になっています。

    埋木舎 御居間
    この居間で、国学の師でありブレーンであり、安政の大獄を裏で操った長野主膳と出会い、濃密な関係を築き上げました。
    密室で語り合う直弼と主膳のディスプレイですが、どことなく昭和を感じさせる2Dの世界です。これはこれで趣がありますが…。
    扁額「埋木舎」の明かり欄間の桟が「井桁」の意匠になっています。

  • 埋木舎 仏間<br />解説によると、直弼は出家も考えたようです。出家しても還俗はできますが、もしかしたら藩主にはなれていなかったかったかもしれません。<br />直弼の日常の世話は、千田高品の養女 志津と西村本慶の娘 里和というふたりの側室が担っていました。里和は、直弼が大老になった時に江戸に呼ばれ、その後、世継ぎの直憲を産みました。<br />右にある箪笥と小物入れは志津の愛用品です。<br />左の押絵は、志津が制作したもので、右側にある絵は押絵の参考した豊国作「観桜遊興の図」です。

    埋木舎 仏間
    解説によると、直弼は出家も考えたようです。出家しても還俗はできますが、もしかしたら藩主にはなれていなかったかったかもしれません。
    直弼の日常の世話は、千田高品の養女 志津と西村本慶の娘 里和というふたりの側室が担っていました。里和は、直弼が大老になった時に江戸に呼ばれ、その後、世継ぎの直憲を産みました。
    右にある箪笥と小物入れは志津の愛用品です。
    左の押絵は、志津が制作したもので、右側にある絵は押絵の参考した豊国作「観桜遊興の図」です。

  • 埋木舎 座禅の間<br />埋木舎は、船橋聖一著『花の生涯』で井伊直弼が青春時代を暮らした館として登場し、1963(昭和和38)年にNHK大河ドラマ第1号ともなりました。それまでの日本史における最強悪役というイメージを完全に覆すことになった、記念碑的なドラマだったそうです。因みに、舟橋聖一氏は、彦根市の名誉市民第1号となっています。<br />その時の関係者の喜びを表す印として、往時のロケなどの写真パネルが所狭しと並べられています。<br /><br />小説『花の生涯』は、埋木舎での国学者 長野主膳との運命的な出会いに始まり、妖艶な三味線の師匠 村山たか女をめぐる色模様を絡めて展開します。確か、直弼とたか女が結ばれたのもこの埋木舎だったような…。<br />後に尊王攘夷の嵐に立ち向かう直弼を助け、主膳と共に女スパイとなって働く彼女に「たか、私はもとの埋木舎に戻りたいよ」と直弼に吐露させています。いつの間にか時代の潮流に進路を決められて生きている我身を振り返り、青春の血と汗と涙が染み込んだ埋木舎を懐かしむ真情の語りは、直弼の人物像を近しく伝えてくれています。<br />京都の圓光寺にある村山たか女のお墓です。<br />http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=36313065

    埋木舎 座禅の間
    埋木舎は、船橋聖一著『花の生涯』で井伊直弼が青春時代を暮らした館として登場し、1963(昭和和38)年にNHK大河ドラマ第1号ともなりました。それまでの日本史における最強悪役というイメージを完全に覆すことになった、記念碑的なドラマだったそうです。因みに、舟橋聖一氏は、彦根市の名誉市民第1号となっています。
    その時の関係者の喜びを表す印として、往時のロケなどの写真パネルが所狭しと並べられています。

    小説『花の生涯』は、埋木舎での国学者 長野主膳との運命的な出会いに始まり、妖艶な三味線の師匠 村山たか女をめぐる色模様を絡めて展開します。確か、直弼とたか女が結ばれたのもこの埋木舎だったような…。
    後に尊王攘夷の嵐に立ち向かう直弼を助け、主膳と共に女スパイとなって働く彼女に「たか、私はもとの埋木舎に戻りたいよ」と直弼に吐露させています。いつの間にか時代の潮流に進路を決められて生きている我身を振り返り、青春の血と汗と涙が染み込んだ埋木舎を懐かしむ真情の語りは、直弼の人物像を近しく伝えてくれています。
    京都の圓光寺にある村山たか女のお墓です。
    http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=36313065

  • 埋木舎 座禅の間<br />左隅には、達磨図と思しき掛け軸があります。<br />直弼は、信仰心の篤い父 直中の影響を受け、幼少期から仏道に関心を示しました。清凉寺で禅の修養を始めたのは13歳頃からです。参禅道場には、直弼が使っていた座禅を組むための椅子が遺されているそうです。<br />17歳からは師虔に学び、埋木舎に座禅の間を設けるほどでした。師虔が死去した時は「誠に闇夜のとぼし火をうしない、盲人の杖なきここち」という書状を福田寺の摂専に送っています。直弼にとって師虔は心の支えであり、その存在を失ったことで悲嘆に暮れていた様子が窺えます。

    埋木舎 座禅の間
    左隅には、達磨図と思しき掛け軸があります。
    直弼は、信仰心の篤い父 直中の影響を受け、幼少期から仏道に関心を示しました。清凉寺で禅の修養を始めたのは13歳頃からです。参禅道場には、直弼が使っていた座禅を組むための椅子が遺されているそうです。
    17歳からは師虔に学び、埋木舎に座禅の間を設けるほどでした。師虔が死去した時は「誠に闇夜のとぼし火をうしない、盲人の杖なきここち」という書状を福田寺の摂専に送っています。直弼にとって師虔は心の支えであり、その存在を失ったことで悲嘆に暮れていた様子が窺えます。

  • 埋木舎 中庭<br />塀の瓦の横面に絵柄が入れられています。<br />2羽の鳥と波をあしらっています。

    埋木舎 中庭
    塀の瓦の横面に絵柄が入れられています。
    2羽の鳥と波をあしらっています。

  • 埋木舎 中庭<br />熱心に写真を撮っていると、受付の方がバックヤードの扉を開けて入れてくれました。この庭には夏咲きの萩が植えられているそうです。<br />ここは、普段は立ち入れない場所だそうです。

    埋木舎 中庭
    熱心に写真を撮っていると、受付の方がバックヤードの扉を開けて入れてくれました。この庭には夏咲きの萩が植えられているそうです。
    ここは、普段は立ち入れない場所だそうです。

  • 埋木舎 中庭<br />正面は、左から仏間、座禅の間、御産の間、湯殿のバックヤードとなります。<br />

    埋木舎 中庭
    正面は、左から仏間、座禅の間、御産の間、湯殿のバックヤードとなります。

  • 埋木舎 中庭<br />手前にあるのは屋根付きの井戸です。

    埋木舎 中庭
    手前にあるのは屋根付きの井戸です。

  • 埋木舎 中庭<br />井戸は、今でも使えるそうです。

    埋木舎 中庭
    井戸は、今でも使えるそうです。

  • 埋木舎 中庭<br />こちらの建屋は、門に向かって右側にある下男や下女たちが暮らした部屋です。<br />内堀側には一切窓が無く、白壁となっています。

    埋木舎 中庭
    こちらの建屋は、門に向かって右側にある下男や下女たちが暮らした部屋です。
    内堀側には一切窓が無く、白壁となっています。

  • 埋木舎 中庭<br />護国神社との結界には、小さなお墓らしきものがあります。<br />「寛延三歳」の文字が読み取れます。<br />直弼の跡を継いだのは直憲でしたが、実は彼は次男であり、長男は生後間もなく夭逝したと言われています。<br />屋敷には御産の間もあります。ひょっとしたら直弼の長男のお墓なのかも知れないと思いながら手を合わせました。<br /><br />大老まで登り詰めた直弼ですが、青春時代は半端ではない逆境の中で過ごしてきたことを埋木舎への訪問で実感することができました。直弼の新たな一面に触れられた思いです。<br />直弼の精神哲学が「自分の目の高さ(目標)をどこに置くか」を導いてくれたような気がします。

    埋木舎 中庭
    護国神社との結界には、小さなお墓らしきものがあります。
    「寛延三歳」の文字が読み取れます。
    直弼の跡を継いだのは直憲でしたが、実は彼は次男であり、長男は生後間もなく夭逝したと言われています。
    屋敷には御産の間もあります。ひょっとしたら直弼の長男のお墓なのかも知れないと思いながら手を合わせました。

    大老まで登り詰めた直弼ですが、青春時代は半端ではない逆境の中で過ごしてきたことを埋木舎への訪問で実感することができました。直弼の新たな一面に触れられた思いです。
    直弼の精神哲学が「自分の目の高さ(目標)をどこに置くか」を導いてくれたような気がします。

  • 埋木舎を後にして、「夢京橋キャッスルロード」へ向かうため表門橋まで戻ります。<br />表門橋近くの二の丸駐車場の端には、彦根城天守をデザインしたおちゃめな郵便ポストがあります。

    埋木舎を後にして、「夢京橋キャッスルロード」へ向かうため表門橋まで戻ります。
    表門橋近くの二の丸駐車場の端には、彦根城天守をデザインしたおちゃめな郵便ポストがあります。

  • 彦根城 表門橋<br />藩主が領内の視察や大名の公家の接待、びわ湖上での鷹狩りなどに使った屋形船が彦根城の内堀を運行しています。彦根藩主井伊家に伝来した屋形船を、当時の寸尺で復元したものだそうです。玄宮園前の船着場より出航し、表門橋を潜って大手橋下を経て、山崎郭手前で折り返し、再び玄宮園前の船着場へ戻る約3kmのコースをのんびりと巡ることができます。

    彦根城 表門橋
    藩主が領内の視察や大名の公家の接待、びわ湖上での鷹狩りなどに使った屋形船が彦根城の内堀を運行しています。彦根藩主井伊家に伝来した屋形船を、当時の寸尺で復元したものだそうです。玄宮園前の船着場より出航し、表門橋を潜って大手橋下を経て、山崎郭手前で折り返し、再び玄宮園前の船着場へ戻る約3kmのコースをのんびりと巡ることができます。

  • 彦根城 石垣<br />藤堂高虎が関わったお城によく見られる犬走りが、表門橋から大手門橋にかけての鐘の丸の下辺りの内堀で見られます。上段の石垣を「鉢巻石垣」、下段の石垣を「腰巻石垣」と呼び、この2つが重なる石垣があるのは非常に珍しいものです。<br />美しいカーブを描き、日本のお城ではないような印象です。ここの犬走りは結構角度があり、本当に犬が走ったら堀に落ちそうです。<br />因みに、犬走りとは、城の石垣と堀の間の空き地を言います。敵に侵入の足掛かりを与えてしまうなど、防御の面からは不利な構造ですが、石垣や土塁の崩落を防ぐための構造的な理由で設けられたと考えられています。

    彦根城 石垣
    藤堂高虎が関わったお城によく見られる犬走りが、表門橋から大手門橋にかけての鐘の丸の下辺りの内堀で見られます。上段の石垣を「鉢巻石垣」、下段の石垣を「腰巻石垣」と呼び、この2つが重なる石垣があるのは非常に珍しいものです。
    美しいカーブを描き、日本のお城ではないような印象です。ここの犬走りは結構角度があり、本当に犬が走ったら堀に落ちそうです。
    因みに、犬走りとは、城の石垣と堀の間の空き地を言います。敵に侵入の足掛かりを与えてしまうなど、防御の面からは不利な構造ですが、石垣や土塁の崩落を防ぐための構造的な理由で設けられたと考えられています。

  • 旧(家老)西郷屋敷<br />道なりに内堀を離れてすぐの所にある、旧西郷屋敷 長屋門です。説明板によると、今は裁判所が建つこの辺り一帯は当時の上級武士の屋敷が建ち並らびますが、彦根城下では現存する武家屋敷の長屋門中最大のものです。<br />1742(寛保2)年に建立され、1833(明治16)年に現在の位置に移築されたと考えられています。長屋門は、桁行44m、梁間5mの入母屋瓦葺の長大な建物で、2本の鏡柱を立てて冠木を渡し、その内に両開きの板扉を配し、両側に潜戸を設けています。門の両脇には、出窓があり、高い格式を示す豪壮な造りとなっており、城下町の歴史的景観を先導する建物です。<br />高麗門とのことなので、閉じた扉の内側に小屋根が付いていると思われます。<br />西郷家は遠州の出身で「34家」のひとつで家老職でした。初代は徳川家康に仕えていましたが、家康の命で1582(天正10)年に井伊直政の付家老となり、幕末まで仕えました。

    旧(家老)西郷屋敷
    道なりに内堀を離れてすぐの所にある、旧西郷屋敷 長屋門です。説明板によると、今は裁判所が建つこの辺り一帯は当時の上級武士の屋敷が建ち並らびますが、彦根城下では現存する武家屋敷の長屋門中最大のものです。
    1742(寛保2)年に建立され、1833(明治16)年に現在の位置に移築されたと考えられています。長屋門は、桁行44m、梁間5mの入母屋瓦葺の長大な建物で、2本の鏡柱を立てて冠木を渡し、その内に両開きの板扉を配し、両側に潜戸を設けています。門の両脇には、出窓があり、高い格式を示す豪壮な造りとなっており、城下町の歴史的景観を先導する建物です。
    高麗門とのことなので、閉じた扉の内側に小屋根が付いていると思われます。
    西郷家は遠州の出身で「34家」のひとつで家老職でした。初代は徳川家康に仕えていましたが、家康の命で1582(天正10)年に井伊直政の付家老となり、幕末まで仕えました。

  • 京橋<br />こちらが中堀に架けられた京橋です。<br />「夢京橋」の名前の由来にもなっている情緒ある橋ですが、外観は木造のようにも見えますがコンクリート製の橋になっています。<br />この先に「夢京橋キャッスルロード」が真っ直ぐに伸びています。

    京橋
    こちらが中堀に架けられた京橋です。
    「夢京橋」の名前の由来にもなっている情緒ある橋ですが、外観は木造のようにも見えますがコンクリート製の橋になっています。
    この先に「夢京橋キャッスルロード」が真っ直ぐに伸びています。

  • 夢京橋キャッスルロード<br />江戸時代の街並みを再現する計画が1985年に持ち上がり、1999年に完成したのが東西に伸びる350mの通り「夢京橋キャッスルロード」です。<br />白壁と紅殻に煤を混ぜた黒格子窓、風格あるいぶし瓦に切妻屋根の軒庇を揃え、景観を重視した暮らしの見え隠れする古くて新しい街並みが続いています。<br />電信柱もなく情緒ある街づくりがなされていて、江戸時代にタイムスリップしたような感じでのんびりと過ごすことができます。

    夢京橋キャッスルロード
    江戸時代の街並みを再現する計画が1985年に持ち上がり、1999年に完成したのが東西に伸びる350mの通り「夢京橋キャッスルロード」です。
    白壁と紅殻に煤を混ぜた黒格子窓、風格あるいぶし瓦に切妻屋根の軒庇を揃え、景観を重視した暮らしの見え隠れする古くて新しい街並みが続いています。
    電信柱もなく情緒ある街づくりがなされていて、江戸時代にタイムスリップしたような感じでのんびりと過ごすことができます。

  • 夢京橋キャッスルロード<br />手前が人気の「夢京橋あかり館」です。<br />彦根の伝統工芸である和ろうそくをはじめ、暮らしの中で癒しのひとときを演出してくれる「あかり」と「香り」に関する様々なアイテムが揃います。また、世界にひとつだけ、自分だけのオリジナルキャンドルを作る「 夢工房」も愉しめます。<br />あかり館のHPです。<br />http://www.akarikan.co.jp/craft/

    夢京橋キャッスルロード
    手前が人気の「夢京橋あかり館」です。
    彦根の伝統工芸である和ろうそくをはじめ、暮らしの中で癒しのひとときを演出してくれる「あかり」と「香り」に関する様々なアイテムが揃います。また、世界にひとつだけ、自分だけのオリジナルキャンドルを作る「 夢工房」も愉しめます。
    あかり館のHPです。
    http://www.akarikan.co.jp/craft/

  • 夢京橋キャッスルロード<br />どこまで歩いても金太郎飴のように景色が変わらないのが面白いです。<br />白いのぼり旗の所に人が並んでいますが、そこが「近江牛肉うどん麺匠ちゃかぽん」。ここでは、うどん屋の軒先で近江牛のにぎり寿司を販売しています。お皿代わりのえびせんと一緒にいただく新食感が魅力です。<br />お店のHPです。<br />http://www.sennaritei.jp/site/tyakapon/

    夢京橋キャッスルロード
    どこまで歩いても金太郎飴のように景色が変わらないのが面白いです。
    白いのぼり旗の所に人が並んでいますが、そこが「近江牛肉うどん麺匠ちゃかぽん」。ここでは、うどん屋の軒先で近江牛のにぎり寿司を販売しています。お皿代わりのえびせんと一緒にいただく新食感が魅力です。
    お店のHPです。
    http://www.sennaritei.jp/site/tyakapon/

  • 夢京橋キャッスルロード 千成亭本町売店<br />近江牛コロッケ(100円)や近江牛串ステーキ(500円)など、滋賀特産の近江牛がテイクアウトで気軽に味わえます。<br />夢京橋キャッスルロードの左側にあります。

    夢京橋キャッスルロード 千成亭本町売店
    近江牛コロッケ(100円)や近江牛串ステーキ(500円)など、滋賀特産の近江牛がテイクアウトで気軽に味わえます。
    夢京橋キャッスルロードの左側にあります。

  • 彦根美濠の舎(みほりのや)<br />夢京橋キャッスルロードを左へ折れ、目指すはお濠端に佇む彦根美濠の舎です。<br />一番手前にあるのが、「彦根藩湖東焼 たねや美濠美術館」です。旧い屋敷の外観を損なわずに改装されています。<br />井伊家の御庭焼として知られ、江戸後期彦根で隆盛を極めた「湖東焼」の歴史を彩る名工の逸品を一堂に会し展示しています。

    彦根美濠の舎(みほりのや)
    夢京橋キャッスルロードを左へ折れ、目指すはお濠端に佇む彦根美濠の舎です。
    一番手前にあるのが、「彦根藩湖東焼 たねや美濠美術館」です。旧い屋敷の外観を損なわずに改装されています。
    井伊家の御庭焼として知られ、江戸後期彦根で隆盛を極めた「湖東焼」の歴史を彩る名工の逸品を一堂に会し展示しています。

  • 彦根美濠の舎 たねや美濠美術館<br />湖東焼は、彦根を中心とする焼物の総称ですが、主体は幕末の彦根藩の御庭焼を指します。前後の民窯時代を含めても約60年ほど、藩窯となると20年ほどで途絶えた幻の焼き物を、たねや近江文庫が収集してその一部を常設展示しています。<br /><br />1829年(文化12)年に、彦根城下の古着商 絹屋半兵衛らが伊万里の陶工を雇い開窯したことが湖東焼の始まります。1842年12代藩主 直亮の命により、藩窯として召上げられ、京焼、九谷、瀬戸から多くの陶工が招かれ優品が焼成されました。 文化人であった13代藩主 直弼の代には、窯の規模の拡大などが計られて黄金時代を迎えたましたが、 直弼が桜田門外の変に倒れた2年後に民間に払い下げられ、藩窯としての短い歴史を閉じています。 その後、民窯湖東焼も1895(明治28)年頃に廃窯となっています。

    彦根美濠の舎 たねや美濠美術館
    湖東焼は、彦根を中心とする焼物の総称ですが、主体は幕末の彦根藩の御庭焼を指します。前後の民窯時代を含めても約60年ほど、藩窯となると20年ほどで途絶えた幻の焼き物を、たねや近江文庫が収集してその一部を常設展示しています。

    1829年(文化12)年に、彦根城下の古着商 絹屋半兵衛らが伊万里の陶工を雇い開窯したことが湖東焼の始まります。1842年12代藩主 直亮の命により、藩窯として召上げられ、京焼、九谷、瀬戸から多くの陶工が招かれ優品が焼成されました。 文化人であった13代藩主 直弼の代には、窯の規模の拡大などが計られて黄金時代を迎えたましたが、 直弼が桜田門外の変に倒れた2年後に民間に払い下げられ、藩窯としての短い歴史を閉じています。 その後、民窯湖東焼も1895(明治28)年頃に廃窯となっています。

  • 彦根美濠の舎 たねや<br />和菓子店舗「たねや」の2階にある茶屋では、近江路の和スイーツを堪能することができます。

    彦根美濠の舎 たねや
    和菓子店舗「たねや」の2階にある茶屋では、近江路の和スイーツを堪能することができます。

  • 彦根美濠の舎 クラブハリエ<br />目的地の洋菓子「クラブハリエ」に到着です。メルヘンチックな建物が「クラブハリエ」、右手が「たねや」になっています。1Fのショップと2Fのカフェは共に建物の中で行き来できるようになっています。<br />彦根美濠の舎のHPです。<br />https://taneya.jp/shop/shiga_mihori.html<br />

    彦根美濠の舎 クラブハリエ
    目的地の洋菓子「クラブハリエ」に到着です。メルヘンチックな建物が「クラブハリエ」、右手が「たねや」になっています。1Fのショップと2Fのカフェは共に建物の中で行き来できるようになっています。
    彦根美濠の舎のHPです。
    https://taneya.jp/shop/shiga_mihori.html

  • 彦根美濠の舎 クラブハリエ<br />人気のあるカフェと聞いていたので、もっと騒々しい店内を想像していましたが、意外に静まりかえっていてびっくりしました。<br />これならゆっくりと腰を落ち着けて寛ぐことができます。<br />テーブル席も常に空きがあるように配慮されています。その分、待ち時間が長くなるのがご愛嬌ですが…。20分ほど待ったでしょうか?<br />

    彦根美濠の舎 クラブハリエ
    人気のあるカフェと聞いていたので、もっと騒々しい店内を想像していましたが、意外に静まりかえっていてびっくりしました。
    これならゆっくりと腰を落ち着けて寛ぐことができます。
    テーブル席も常に空きがあるように配慮されています。その分、待ち時間が長くなるのがご愛嬌ですが…。20分ほど待ったでしょうか?

  • 彦根美濠の舎 クラブハリエ<br />案内された席から窓の外を見るとこんな感じです。

    彦根美濠の舎 クラブハリエ
    案内された席から窓の外を見るとこんな感じです。

  • 彦根美濠の舎 クラブハリエ<br />お隣の「たねや」を見下ろせます。

    彦根美濠の舎 クラブハリエ
    お隣の「たねや」を見下ろせます。

  • 彦根美濠の舎 クラブハリエ<br />窓辺にはシックな四角いブリキ缶がレトロな椅子にそれとなく置かれ、旧き佳き時代を演出しています。

    彦根美濠の舎 クラブハリエ
    窓辺にはシックな四角いブリキ缶がレトロな椅子にそれとなく置かれ、旧き佳き時代を演出しています。

  • 彦根美濠の舎 クラブハリエ<br />主人のチョイスは、抹茶パフェ(918円)。<br />濃厚な抹茶アイスやふわふわの抹茶スポンジ、香ばしいほうじ茶ゼリーなどが入った多彩なお茶の風味や食感が楽しめるパフェです。<br />

    彦根美濠の舎 クラブハリエ
    主人のチョイスは、抹茶パフェ(918円)。
    濃厚な抹茶アイスやふわふわの抹茶スポンジ、香ばしいほうじ茶ゼリーなどが入った多彩なお茶の風味や食感が楽しめるパフェです。

  • 彦根美濠の舎 クラブハリエ<br />当方のチョイスは、ケーキセット(1101円)。<br />ドリンクと好きなケーキ2個を選ぶことができます。

    彦根美濠の舎 クラブハリエ
    当方のチョイスは、ケーキセット(1101円)。
    ドリンクと好きなケーキ2個を選ぶことができます。

  • 彦根美濠の舎 <br />クラブハリエの全景です。<br />県道25号線の大通り側から見るとこの景観が迫ってきます。

    彦根美濠の舎
    クラブハリエの全景です。
    県道25号線の大通り側から見るとこの景観が迫ってきます。

  • おいでやす商店街<br />彦根駅へ向かう途中、見かけた壁のレリーフです。「なまこ壁」と「平瓦貼り」でファサードを統一しています。キャラクターは「彦助」と言うそうです。あきんどの街に相応しい、丁稚奉公の少年がモチーフです。町屋風の建物の軒先に「彦助」のレリーフを取り付け、「『あきんど』のまち彦助通り」として城下町の景観に花を添えています。

    おいでやす商店街
    彦根駅へ向かう途中、見かけた壁のレリーフです。「なまこ壁」と「平瓦貼り」でファサードを統一しています。キャラクターは「彦助」と言うそうです。あきんどの街に相応しい、丁稚奉公の少年がモチーフです。町屋風の建物の軒先に「彦助」のレリーフを取り付け、「『あきんど』のまち彦助通り」として城下町の景観に花を添えています。

  • おいでやす商店街<br />街角の花壇には、このような西洋オダマキの姿も見られます。<br />造形的で個性的な花姿が魅力的な花です。花色が豊富で、ピンクからパープル、イエロー、ブルー、ホワイトにブラックまでと多彩で、花形も大輪や八重咲きなどバリエーション豊富です。<br />現在西洋オダマキと呼ばれているものは、ヨーロッパ原産のアクイレギア・ブルガリスと北米産の大輪の花を咲かせる数種との交配種を指すようになっています。オダマキの仲間は元々雑種をつくり易いこともあって、多数の園芸品種がありますが、多くの場合、国内では個々の品種名を明記せずに色別や混合種子の形で流通しています。<br />

    おいでやす商店街
    街角の花壇には、このような西洋オダマキの姿も見られます。
    造形的で個性的な花姿が魅力的な花です。花色が豊富で、ピンクからパープル、イエロー、ブルー、ホワイトにブラックまでと多彩で、花形も大輪や八重咲きなどバリエーション豊富です。
    現在西洋オダマキと呼ばれているものは、ヨーロッパ原産のアクイレギア・ブルガリスと北米産の大輪の花を咲かせる数種との交配種を指すようになっています。オダマキの仲間は元々雑種をつくり易いこともあって、多数の園芸品種がありますが、多くの場合、国内では個々の品種名を明記せずに色別や混合種子の形で流通しています。

  • おいでやす商店街<br />商店街の一部ですが、こうした旧い町並みも保存されています。<br /><br />直弼が天皇の許可を得ずに開国の条約を締結したことには賛否両論ありますが、結果だけを眼目にすれば正解だったような気がします。締結をむやみに引き伸ばせば、諸外国の逆鱗に触れたことは火を見るより明らかであり、砲撃などによる庶民への被害を最小限に留めた裁量は評価されるべきと思います。そして、現在もこのように世界に誇れる日本が存続している訳ですから…。歴史にもしもはありませんが、下手をすれば日本が欧米の植民地になっていたかもしれないのです。<br />では、何故、開国に踏み切れたのでしょうか?<br />こうして彦根を巡って考え付いたのは、直弼は往時の「世界の中の日本の立ち位置」を正しく理解していたからではないかということです。つまり、直弼は、小さく貧弱な日本をかつての埋木舎時代の自分にオーバーラップさせていたのです。如何にストイックに日々修練に励もうとも、出るところに出なければそれは活かされることなく悶々とした自己満足で終始します。直弼の場合は、数奇な運命で幕府へ登用されたのですが、同様に開国は日本に与えられた千載一遇のチャンスと考えたのではないでしょうか?しかし、開国で最も恐れるべきことは植民地化です。それを跳ね除けるだけの力量を日本人が持っていることを見抜けたのでしょう。ですから外国から技術を導入してもそれを改良してオリジナルを凌駕するものが作れたのです。その源流は、日本人の勤勉さにあるのかもしれません。ピンチをチャンスと捉えるにはそれなりの政策が求められますが、直弼は日本人を信じたのでしょう。それは、埋木舎時代の反骨精神の自分を日本人の中に重ねることができたからではないでしょうか…。

    おいでやす商店街
    商店街の一部ですが、こうした旧い町並みも保存されています。

    直弼が天皇の許可を得ずに開国の条約を締結したことには賛否両論ありますが、結果だけを眼目にすれば正解だったような気がします。締結をむやみに引き伸ばせば、諸外国の逆鱗に触れたことは火を見るより明らかであり、砲撃などによる庶民への被害を最小限に留めた裁量は評価されるべきと思います。そして、現在もこのように世界に誇れる日本が存続している訳ですから…。歴史にもしもはありませんが、下手をすれば日本が欧米の植民地になっていたかもしれないのです。
    では、何故、開国に踏み切れたのでしょうか?
    こうして彦根を巡って考え付いたのは、直弼は往時の「世界の中の日本の立ち位置」を正しく理解していたからではないかということです。つまり、直弼は、小さく貧弱な日本をかつての埋木舎時代の自分にオーバーラップさせていたのです。如何にストイックに日々修練に励もうとも、出るところに出なければそれは活かされることなく悶々とした自己満足で終始します。直弼の場合は、数奇な運命で幕府へ登用されたのですが、同様に開国は日本に与えられた千載一遇のチャンスと考えたのではないでしょうか?しかし、開国で最も恐れるべきことは植民地化です。それを跳ね除けるだけの力量を日本人が持っていることを見抜けたのでしょう。ですから外国から技術を導入してもそれを改良してオリジナルを凌駕するものが作れたのです。その源流は、日本人の勤勉さにあるのかもしれません。ピンチをチャンスと捉えるにはそれなりの政策が求められますが、直弼は日本人を信じたのでしょう。それは、埋木舎時代の反骨精神の自分を日本人の中に重ねることができたからではないでしょうか…。

  • おいでやす商店街<br />商店街の名称は、「おじゃまします」、「おいでやす」で始まるお客様との会話を大切にしたいという思いから生まれたそうです。<br />手前の道から先は「佐和町商店街」に変わります.<br /><br />直弼は、桜田門外の変で横死しましたが、死して名を残しました。直弼は暗殺の企てがあることは承知しており、幕府の責任を全てひとりで背負った覚悟の死だったようです。<br />その後、彦根城が明治時代に解体されずに済んだのも、彼の死を大義名分にして明治政府側に覆ることができたおかげです。また、彦根城に限らず、その城下町や伝統工芸など、城とその城下町という裾野までも救済するという偉業が成し遂げられたのです。<br />まさしく郷土の英雄ですが、同じことが日本国に対しても言えるのではないでしょうか?<br /><br />今年は直弼生誕200年目に当たります。そのお祭りが、7月10日から12月23日まで開催されるそうですので、この機会に彦根を訪れて直弼を偲ばれてみてはいかがでしょう。楽々園もその時期までには修復工事を完了していると思います。

    おいでやす商店街
    商店街の名称は、「おじゃまします」、「おいでやす」で始まるお客様との会話を大切にしたいという思いから生まれたそうです。
    手前の道から先は「佐和町商店街」に変わります.

    直弼は、桜田門外の変で横死しましたが、死して名を残しました。直弼は暗殺の企てがあることは承知しており、幕府の責任を全てひとりで背負った覚悟の死だったようです。
    その後、彦根城が明治時代に解体されずに済んだのも、彼の死を大義名分にして明治政府側に覆ることができたおかげです。また、彦根城に限らず、その城下町や伝統工芸など、城とその城下町という裾野までも救済するという偉業が成し遂げられたのです。
    まさしく郷土の英雄ですが、同じことが日本国に対しても言えるのではないでしょうか?

    今年は直弼生誕200年目に当たります。そのお祭りが、7月10日から12月23日まで開催されるそうですので、この機会に彦根を訪れて直弼を偲ばれてみてはいかがでしょう。楽々園もその時期までには修復工事を完了していると思います。

  • 無事、JR彦根駅へ帰還しました。<br />彦根駅を出発したのが10時前でしたので、5時間強の愉しい散策でした。<br /><br />今までは井伊家については漠然とした知識しかなく、直弼についても授業で教えてもらった通り一遍の見地だけでダートな人物と評価していたので反省しきりです。こうして彼らが生き抜いてきた証を目の当たりにすることで、新たな歴史の一面を知ることになり、目から鱗が落ちた思いです。人を評価するには多面で捉え、それを総合的に評価する力量が必要なことを教えられました。今まで悶々としていてものがすっきりしたような気がします。これで帰りの列車では熟睡できることでしょう。<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

    無事、JR彦根駅へ帰還しました。
    彦根駅を出発したのが10時前でしたので、5時間強の愉しい散策でした。

    今までは井伊家については漠然とした知識しかなく、直弼についても授業で教えてもらった通り一遍の見地だけでダートな人物と評価していたので反省しきりです。こうして彼らが生き抜いてきた証を目の当たりにすることで、新たな歴史の一面を知ることになり、目から鱗が落ちた思いです。人を評価するには多面で捉え、それを総合的に評価する力量が必要なことを教えられました。今まで悶々としていてものがすっきりしたような気がします。これで帰りの列車では熟睡できることでしょう。

    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

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