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彦根城内の北東部、内濠と琵琶湖の入江(松原内湖)に挟まれた第二郭と呼ばれる曲輪内にあるのが楽々園と玄宮園です。<br />国の特別史跡「彦根城跡」と共に、「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されています。旧藩主の下屋敷で、「槻(けやき )御殿」や「黒門外屋敷」とも称されていました。楽々園・玄宮園共に4代藩主 井伊直興により建立され、現在は建物部分を楽々園、庭園部分を玄宮園と呼び分けています。 <br />楽々園は、大老 井伊直弼の生誕地としても知られ、最盛期には能舞台を備えた広大な建物でしたが、現在では書院や地震の間、雷の間、楽々の間など数分の一ほどが残されているだけです。 しかし、全国的にも城郭御殿建築は珍しく、二条城や高知城、掛川城、川越城に限られ、希少価値があります。<br />玄宮園は、1677年に造営された大池泉回遊式の大名庭園です。園内を見渡す好所に建てられた数寄屋建築「八景亭」の名から、一説には琵琶湖や中国湖南省洞庭湖の風光明媚な風景である瀟湘(しょうしょう)八景に因んで選ばれた近江八景を模して作庭されたとも伝えますが、江戸時代に描かれた「玄宮園図」に八景亭の名はなく、「臨池閣(りんちかく)」と呼んでいたようです。かつては風流な舟遊びの一興を催したこともあり、中央の池に琵琶湖の竹生島や沖の白石を表現した樹木や岩石が配置されています。<br />玄宮園という名は、中国唐時代の玄宗皇帝の離宮にある庭園を「玄宮」と言うことが由来です。庭の敷地は約28700平方mもあり、現在は彦根市が維持管理しています。TVの時代劇や映画のロケ地としても度々使われています。<br />花が香る春、緑に溢れる夏、紅葉に包まれる秋、白銀に輝く冬など、四季を通じて多彩な表情で迎えてくれます。特に、紅葉の時期が素晴らしいそです。<br />彦根城と玄宮園のセット券(600円)が便利です。

松風水月 彦根紀行②楽々園・玄宮園

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2015/05/02 - 2015/05/02

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

彦根城内の北東部、内濠と琵琶湖の入江(松原内湖)に挟まれた第二郭と呼ばれる曲輪内にあるのが楽々園と玄宮園です。
国の特別史跡「彦根城跡」と共に、「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されています。旧藩主の下屋敷で、「槻(けやき )御殿」や「黒門外屋敷」とも称されていました。楽々園・玄宮園共に4代藩主 井伊直興により建立され、現在は建物部分を楽々園、庭園部分を玄宮園と呼び分けています。
楽々園は、大老 井伊直弼の生誕地としても知られ、最盛期には能舞台を備えた広大な建物でしたが、現在では書院や地震の間、雷の間、楽々の間など数分の一ほどが残されているだけです。 しかし、全国的にも城郭御殿建築は珍しく、二条城や高知城、掛川城、川越城に限られ、希少価値があります。
玄宮園は、1677年に造営された大池泉回遊式の大名庭園です。園内を見渡す好所に建てられた数寄屋建築「八景亭」の名から、一説には琵琶湖や中国湖南省洞庭湖の風光明媚な風景である瀟湘(しょうしょう)八景に因んで選ばれた近江八景を模して作庭されたとも伝えますが、江戸時代に描かれた「玄宮園図」に八景亭の名はなく、「臨池閣(りんちかく)」と呼んでいたようです。かつては風流な舟遊びの一興を催したこともあり、中央の池に琵琶湖の竹生島や沖の白石を表現した樹木や岩石が配置されています。
玄宮園という名は、中国唐時代の玄宗皇帝の離宮にある庭園を「玄宮」と言うことが由来です。庭の敷地は約28700平方mもあり、現在は彦根市が維持管理しています。TVの時代劇や映画のロケ地としても度々使われています。
花が香る春、緑に溢れる夏、紅葉に包まれる秋、白銀に輝く冬など、四季を通じて多彩な表情で迎えてくれます。特に、紅葉の時期が素晴らしいそです。
彦根城と玄宮園のセット券(600円)が便利です。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
JRローカル 徒歩
  • 黒門橋を渡ると、中堀沿いに真っ白な築地塀が真っ直ぐに伸びています。<br />石垣の上に白漆喰の土塀と板囲い、瓦屋根を載せた形が実に美しい築地塀です。<br />その手前を左に折れると楽々園への入口があります。<br /><br /><br />

    黒門橋を渡ると、中堀沿いに真っ白な築地塀が真っ直ぐに伸びています。
    石垣の上に白漆喰の土塀と板囲い、瓦屋根を載せた形が実に美しい築地塀です。
    その手前を左に折れると楽々園への入口があります。


  • 楽々園 玄関<br />井伊直興亡き後、倹約令などにより楽々園の建物は縮小されたのですが、1813年の11代藩主 直中の隠居に際して大規模な増改築が行なわれ、その後間もなく最大規模に膨らみ、御書院棟を含む建物群の大きさは現在の10倍にも及んだそうです。御書院と玄関はその際に新築されたものです。<br />1881(明治14)年から1994(平成6)年までは民間業者により旅館「楽々園」として旅館営業されていました。1945(昭和22)年に、隣接する玄宮園と共に井伊家より市が取得し、その後旅館の廃業により市に返還され今日に至っています。

    楽々園 玄関
    井伊直興亡き後、倹約令などにより楽々園の建物は縮小されたのですが、1813年の11代藩主 直中の隠居に際して大規模な増改築が行なわれ、その後間もなく最大規模に膨らみ、御書院棟を含む建物群の大きさは現在の10倍にも及んだそうです。御書院と玄関はその際に新築されたものです。
    1881(明治14)年から1994(平成6)年までは民間業者により旅館「楽々園」として旅館営業されていました。1945(昭和22)年に、隣接する玄宮園と共に井伊家より市が取得し、その後旅館の廃業により市に返還され今日に至っています。

  • 楽々園 玄関<br />玄関車寄せの唐破風屋根には、巴瓦や桟瓦、熨斗瓦等が使われています。<br />中央には「樂」の鬼瓦が輝き、旅館として営業していた時代が偲ばれます。<br />第12代藩主 直亮が文化年間に「楽々之間」を増築して以来、槻御殿という正式名よりはむしろ「楽々園」の名の方が一般的になったそうです。<br />楽々園の名は、「仁者は山を楽しみ、智者は水を楽しむ」 が由来とされますが、民の楽を楽しむという仁政の意を持つとも言われています。

    楽々園 玄関
    玄関車寄せの唐破風屋根には、巴瓦や桟瓦、熨斗瓦等が使われています。
    中央には「樂」の鬼瓦が輝き、旅館として営業していた時代が偲ばれます。
    第12代藩主 直亮が文化年間に「楽々之間」を増築して以来、槻御殿という正式名よりはむしろ「楽々園」の名の方が一般的になったそうです。
    楽々園の名は、「仁者は山を楽しみ、智者は水を楽しむ」 が由来とされますが、民の楽を楽しむという仁政の意を持つとも言われています。

  • 楽々園 玄関<br />玄関天井に見られる匠の技です。<br />天井は棹縁天井とし、斜格子の欄間を3面に配しています。

    楽々園 玄関
    玄関天井に見られる匠の技です。
    天井は棹縁天井とし、斜格子の欄間を3面に配しています。

  • 楽々園 御書院<br />槻御殿と呼ばれるだけあり、総欅(けやき)造の立派な屋敷です。<br />大老 井伊直弼は、1815(文化12)年10月29日にこの屋敷で生まれ、17歳まで過ごしました。14男ゆえに藩主となる道は閉ざされていたものの、直弼にとって槻御殿での生活は、父や母、兄弟らに囲まれた穏やかなものだったようです。諸芸の道に親しんだ父 直中の影響により、文化的素養を身に付けていったのもこの頃でした。<br />御書院の解体修理は2011年に終わり、かつての優美な姿を蘇らせています。<br />尚、現存しない茶室「虎鋸(こきょ)」や長屋門などの復元、地震の間や楽々の間、前庭などの修理が現在行われています。<br />楽々園で興味深いのは、「地震の間」という地震発生の際に避難した特殊な建屋があることです。これは、建屋全体が一枚の大岩盤上にあり、土台を舟底形にして地盤を強固なものとしています。更に上部構造を軽量化するため、杮葺にしたり、土壁を比較的少なくする工夫も見られるそうです。江戸時代に耐震設計を施した建物は珍しく、往時の建築技術の高さを示すものとも言えます。<br />地震の間は耐震構造の建物であるためそのように呼ばれていますが、往時は茶の湯に用いる「茶座敷」だったそうです。

    楽々園 御書院
    槻御殿と呼ばれるだけあり、総欅(けやき)造の立派な屋敷です。
    大老 井伊直弼は、1815(文化12)年10月29日にこの屋敷で生まれ、17歳まで過ごしました。14男ゆえに藩主となる道は閉ざされていたものの、直弼にとって槻御殿での生活は、父や母、兄弟らに囲まれた穏やかなものだったようです。諸芸の道に親しんだ父 直中の影響により、文化的素養を身に付けていったのもこの頃でした。
    御書院の解体修理は2011年に終わり、かつての優美な姿を蘇らせています。
    尚、現存しない茶室「虎鋸(こきょ)」や長屋門などの復元、地震の間や楽々の間、前庭などの修理が現在行われています。
    楽々園で興味深いのは、「地震の間」という地震発生の際に避難した特殊な建屋があることです。これは、建屋全体が一枚の大岩盤上にあり、土台を舟底形にして地盤を強固なものとしています。更に上部構造を軽量化するため、杮葺にしたり、土壁を比較的少なくする工夫も見られるそうです。江戸時代に耐震設計を施した建物は珍しく、往時の建築技術の高さを示すものとも言えます。
    地震の間は耐震構造の建物であるためそのように呼ばれていますが、往時は茶の湯に用いる「茶座敷」だったそうです。

  • 楽々園 御書院<br />襖絵と壁画は、デジタル再製画「伝匠美」にて、約300年を経た御書院棟の建築空間と融合する古色の再現がなされています。<br />右端の上之御間には「竹に亀図」、御上段には「菊蝶燕図」の一部を拝観することができます。<br />御上段は、お殿様と家臣、来客などの対面の間だったそうです。内向きのプライベートな空間でもあり、1間半の床に1間の棚と明床を備えています。床の大壁や小壁は金地の張付壁とし、襖障子は金地に菊や蝶、ツクバネなどの小文様を散らし、豪壮な中にも可憐な趣が配されています。畳敷きの床は隣室より1段高くして黒漆塗りの框を据え、御簾を下げるなど、御上段と他の部屋には身分差があることを示しています。

    楽々園 御書院
    襖絵と壁画は、デジタル再製画「伝匠美」にて、約300年を経た御書院棟の建築空間と融合する古色の再現がなされています。
    右端の上之御間には「竹に亀図」、御上段には「菊蝶燕図」の一部を拝観することができます。
    御上段は、お殿様と家臣、来客などの対面の間だったそうです。内向きのプライベートな空間でもあり、1間半の床に1間の棚と明床を備えています。床の大壁や小壁は金地の張付壁とし、襖障子は金地に菊や蝶、ツクバネなどの小文様を散らし、豪壮な中にも可憐な趣が配されています。畳敷きの床は隣室より1段高くして黒漆塗りの框を据え、御簾を下げるなど、御上段と他の部屋には身分差があることを示しています。

  • 楽々園 庭園<br />御書院の建立と同時に庭園も造園されました。<br />隣の玄宮園を借景に新緑の空間がどこまでも広がっています。

    楽々園 庭園
    御書院の建立と同時に庭園も造園されました。
    隣の玄宮園を借景に新緑の空間がどこまでも広がっています。

  • 楽々園 庭園<br />御書院から望む庭園は、玄宮園の池泉を借景とする枯山水です。しかし、古絵図を見ると、かつては庭園と御書院の間に満々と水を湛えた蓮池が広がる池泉式庭園だったことが判ります。<br />蓬莱山を表現したと思しき築山には石の架け橋が見られ、また、その先にある滝を彷彿とさせる石組から滔々と水が流れ落ちていたことが窺われます。

    楽々園 庭園
    御書院から望む庭園は、玄宮園の池泉を借景とする枯山水です。しかし、古絵図を見ると、かつては庭園と御書院の間に満々と水を湛えた蓮池が広がる池泉式庭園だったことが判ります。
    蓬莱山を表現したと思しき築山には石の架け橋が見られ、また、その先にある滝を彷彿とさせる石組から滔々と水が流れ落ちていたことが窺われます。

  • 楽々園 庭園<br />庭園の中ほどには、大きな石燈籠が佇みます。その先は窪んだ地形となっており、かつて蓮池だった面影を偲ばせます。<br />昔は庭石ももっと沢山配置されていたのでしょうが、築山なども含めて明治以降かなり失われてしまったようです。

    楽々園 庭園
    庭園の中ほどには、大きな石燈籠が佇みます。その先は窪んだ地形となっており、かつて蓮池だった面影を偲ばせます。
    昔は庭石ももっと沢山配置されていたのでしょうが、築山なども含めて明治以降かなり失われてしまったようです。

  • 楽々園 庭園<br />こちらは奥にある火袋が6角形をした大燈籠です。<br />この形の燈籠は、桃山時代から庭園に用いられるようになったそうです。今では6角と言えば春日燈籠がその代表格ですが、その種類は多々あるそうです。<br />

    楽々園 庭園
    こちらは奥にある火袋が6角形をした大燈籠です。
    この形の燈籠は、桃山時代から庭園に用いられるようになったそうです。今では6角と言えば春日燈籠がその代表格ですが、その種類は多々あるそうです。

  • 玄宮園 <br />楽々園を離れ、有料の玄宮園エリア(西入口)へ入ってきました。<br />玄宮園から見る御書院です。<br />右側には地震の間など軒を連ねているのですが、ご覧のように修復工事中です。<br />予定では2015年3月末には完了するはずでしたが、工期が長引いているようです。<br /><br />

    玄宮園
    楽々園を離れ、有料の玄宮園エリア(西入口)へ入ってきました。
    玄宮園から見る御書院です。
    右側には地震の間など軒を連ねているのですが、ご覧のように修復工事中です。
    予定では2015年3月末には完了するはずでしたが、工期が長引いているようです。

  • 玄宮園 <br />右回りで庭園回遊を開始すると、はじめに目にする景観です。<br />左手前に架かるのが七間橋、その右には亀の形にも見える小島、その右が「臨池閣(りんちかく)=八景亭」です。<br />玄宮園の「玄」は北を意味し、神獣としての亀(玄武)を象徴しています。城の北にある園という意味と蓬莱園の2つの意味を持ち、自ずと作庭の様式を物語っています。作庭は、井伊家家臣 香取氏が担いました。<br />「臨池閣」は、現在は老舗料理旅館「八景亭」として営業しています。<br />http://www.hakkeitei.com/japanese/h/top.htm

    玄宮園
    右回りで庭園回遊を開始すると、はじめに目にする景観です。
    左手前に架かるのが七間橋、その右には亀の形にも見える小島、その右が「臨池閣(りんちかく)=八景亭」です。
    玄宮園の「玄」は北を意味し、神獣としての亀(玄武)を象徴しています。城の北にある園という意味と蓬莱園の2つの意味を持ち、自ずと作庭の様式を物語っています。作庭は、井伊家家臣 香取氏が担いました。
    「臨池閣」は、現在は老舗料理旅館「八景亭」として営業しています。
    http://www.hakkeitei.com/japanese/h/top.htm

  • 玄宮園 <br />七間橋から見る「臨池閣」です。<br />玄宮園図には「「臨池閣」、「鳳翔台(ほうしょうだ い)」、「魚躍沼(ぎょやくしょう)」、「龍臥橋(りゅうがばし)」、「鶴鳴渚(かくめいなぎさ)」 、「春風埒 (しゅんぷうれつ)」、「鑑月峯(かんげつほう)」、「薩埵林(さったりん)」、「飛梁渓(ひりょうけい)」、「涵虚亭(かんきょてい)」の十景が付箋によって示され、往時は「玄宮園十勝」と呼ばれていたことが確認されています。

    玄宮園
    七間橋から見る「臨池閣」です。
    玄宮園図には「「臨池閣」、「鳳翔台(ほうしょうだ い)」、「魚躍沼(ぎょやくしょう)」、「龍臥橋(りゅうがばし)」、「鶴鳴渚(かくめいなぎさ)」 、「春風埒 (しゅんぷうれつ)」、「鑑月峯(かんげつほう)」、「薩埵林(さったりん)」、「飛梁渓(ひりょうけい)」、「涵虚亭(かんきょてい)」の十景が付箋によって示され、往時は「玄宮園十勝」と呼ばれていたことが確認されています。

  • 玄宮園 <br />正面手前には、穏やかな「魚躍沼」に岩島が浮かび、その左奥に蓬莱島の入江となる「鶴鳴渚」があります。豪快に護岸石が組まれ、群れた鶴が天を仰いでいる姿を彷彿とさせ、大名庭園の風格を湛えています。<br />「鶴鳴渚」の石組は、この反対側から見ると鶴が天に向かって一声あげた時の姿が良く判るそうです。正面が「観月峯」、その右側の鬱蒼とした樹林帯が「薩埵林」です。<br />伝統的な日本庭園は、神仙蓬莱山思想が深く影響し、仙人が住むとされる蓬莱・方丈・瀛(えい)州の3島を池泉に配し、鶴や亀の石を組んでいます。玄宮園はまさにその典型とも言え、「魚躍沼」には、3島を池泉に配し、壺梁(こばり)を加えると4島、さらに鶴亀の石を組む左の島が蓬莱島となっています。

    玄宮園
    正面手前には、穏やかな「魚躍沼」に岩島が浮かび、その左奥に蓬莱島の入江となる「鶴鳴渚」があります。豪快に護岸石が組まれ、群れた鶴が天を仰いでいる姿を彷彿とさせ、大名庭園の風格を湛えています。
    「鶴鳴渚」の石組は、この反対側から見ると鶴が天に向かって一声あげた時の姿が良く判るそうです。正面が「観月峯」、その右側の鬱蒼とした樹林帯が「薩埵林」です。
    伝統的な日本庭園は、神仙蓬莱山思想が深く影響し、仙人が住むとされる蓬莱・方丈・瀛(えい)州の3島を池泉に配し、鶴や亀の石を組んでいます。玄宮園はまさにその典型とも言え、「魚躍沼」には、3島を池泉に配し、壺梁(こばり)を加えると4島、さらに鶴亀の石を組む左の島が蓬莱島となっています。

  • 玄宮園<br />武蔵野と呼ばれるスポットから「臨池閣」を振り返ると、彦根城の天守が顔を覗かせています。<br />この辺りから借景に彦根城天守が加わり、箔を付けます。

    玄宮園
    武蔵野と呼ばれるスポットから「臨池閣」を振り返ると、彦根城の天守が顔を覗かせています。
    この辺りから借景に彦根城天守が加わり、箔を付けます。

  • 玄宮園<br />「飛梁渓(ひりょうけい)」の手前から天守を見ると、「魚躍沼」に逆さ天守がきれいに映り込んでいます。玄宮園からの一番の撮影ポイントは、彦根城の天守を借景としたこの景観ではないかと思います。<br />手前のこんもりした蓬莱島には「鶴鳴渚」があり、その奥が「臨池閣」、一番奥の建屋が「鳳翔台(ほうしょうだい)」になり、この辺りは映画『大奥』のロケ地にもなりました。<br />桜花が咲き誇る春、池に浮かぶ蓮や花菖蒲が咲く初夏、紅葉、雪景色と、ここを訪れれば四季折々の風情が存分に味わえそうです。

    玄宮園
    「飛梁渓(ひりょうけい)」の手前から天守を見ると、「魚躍沼」に逆さ天守がきれいに映り込んでいます。玄宮園からの一番の撮影ポイントは、彦根城の天守を借景としたこの景観ではないかと思います。
    手前のこんもりした蓬莱島には「鶴鳴渚」があり、その奥が「臨池閣」、一番奥の建屋が「鳳翔台(ほうしょうだい)」になり、この辺りは映画『大奥』のロケ地にもなりました。
    桜花が咲き誇る春、池に浮かぶ蓮や花菖蒲が咲く初夏、紅葉、雪景色と、ここを訪れれば四季折々の風情が存分に味わえそうです。

  • 玄宮園<br />武蔵野の高台の一角にあるタブノキの根です。血管のように力強く地表に張り出していますが、木は根元から切られ、今は切株だけが往時の姿を偲ばせます。枯れてしまったのでしょうか?<br />玄宮園は照葉樹が多いのが特徴で、タブノキや楠、葉書の樹など彦根城とは異なる植生が見られるのも魅力です。<br />

    玄宮園
    武蔵野の高台の一角にあるタブノキの根です。血管のように力強く地表に張り出していますが、木は根元から切られ、今は切株だけが往時の姿を偲ばせます。枯れてしまったのでしょうか?
    玄宮園は照葉樹が多いのが特徴で、タブノキや楠、葉書の樹など彦根城とは異なる植生が見られるのも魅力です。

  • 玄宮園<br />彦根城天守のズームアップです。<br />池を手前にして丘の上の天守を望む構図は、玄宮園を代表する景色と言えます。<br />天守をこの角度から望むには絶好のポイントになります。<br />手前の櫓が天守への登城口となる多聞櫓です。正午過ぎですが、登城に待ち時間が発生しているようです。

    玄宮園
    彦根城天守のズームアップです。
    池を手前にして丘の上の天守を望む構図は、玄宮園を代表する景色と言えます。
    天守をこの角度から望むには絶好のポイントになります。
    手前の櫓が天守への登城口となる多聞櫓です。正午過ぎですが、登城に待ち時間が発生しているようです。

  • 玄宮園 飛梁渓<br />全く水の無い「飛梁渓」に架けられた反橋です。<br />往時は、橋の下には白い小石が敷き詰められ、借景となる伊吹山と共に「伊吹山からの雪解け水が池に注ぎ込む」という早春の情景を表現していたそうです。池泉回遊式庭園に枯山水を配するとはなんと風流なことでしょう。これを贅の極みと言うのかもしれません。<br />現在はすぐ後ろに県営球場ができたことと、樹木の成長に伴って伊吹山の姿が見られなくなっており残念です。想像の域で風流を愉しんでください。<br />「鶴鳴渚」も同様ですが、樹木の成長に伴って景観が隠されてしまっていますので、早春の時期がこの庭園を最大限に満喫できるのでは…。<br />この反橋の奥に茶室「涵虚亭(かんきょてい)」跡があります。中国北宋代の詩人 蘇東坡の詩の一説から名付けられたようです。現在は、だたの更地で何もありませんが…。

    玄宮園 飛梁渓
    全く水の無い「飛梁渓」に架けられた反橋です。
    往時は、橋の下には白い小石が敷き詰められ、借景となる伊吹山と共に「伊吹山からの雪解け水が池に注ぎ込む」という早春の情景を表現していたそうです。池泉回遊式庭園に枯山水を配するとはなんと風流なことでしょう。これを贅の極みと言うのかもしれません。
    現在はすぐ後ろに県営球場ができたことと、樹木の成長に伴って伊吹山の姿が見られなくなっており残念です。想像の域で風流を愉しんでください。
    「鶴鳴渚」も同様ですが、樹木の成長に伴って景観が隠されてしまっていますので、早春の時期がこの庭園を最大限に満喫できるのでは…。
    この反橋の奥に茶室「涵虚亭(かんきょてい)」跡があります。中国北宋代の詩人 蘇東坡の詩の一説から名付けられたようです。現在は、だたの更地で何もありませんが…。

  • 玄宮園<br />「飛梁渓」越しに見た天守です。

    玄宮園
    「飛梁渓」越しに見た天守です。

  • 玄宮園<br />「鑑月峯」から見た「臨池閣」方面です。<br />「鶴鳴渚」の護岸には石組みや石積み、州浜などが配されて変化に富み、見る者を飽きさせることがありません。舟着場のような場所も見受けられます。<br />

    玄宮園
    「鑑月峯」から見た「臨池閣」方面です。
    「鶴鳴渚」の護岸には石組みや石積み、州浜などが配されて変化に富み、見る者を飽きさせることがありません。舟着場のような場所も見受けられます。

  • 玄宮園<br />「龍臥橋」から見る「臨池閣」です。<br />緑が主体なので、どうしても「臨池閣」へ目が向いてしまいます。

    玄宮園
    「龍臥橋」から見る「臨池閣」です。
    緑が主体なので、どうしても「臨池閣」へ目が向いてしまいます。

  • 玄宮園 臨池閣<br />不思議に思うのは、臨池閣=八景亭の雨樋です。茅葺屋根の裾に桧皮葺のような庇があり、その下に雨樋を設けています。池に落ちる雨だれが静寂な池の景観を邪魔をしないようにとの配慮かとも思いましたが、楽々・玄宮園内の他の建物に雨樋は設けられていないので違和感を覚えます。<br />何故、この建物だけに雨樋が取付けられているのか調べてみました。<br />旅館「八景亭」の土地建物は市の所有物になっていますが、市に寄贈される以前から旅館業を営んでおり、その経営者により建物に手が加えられたそうです。<br />夢京橋キャッスルロードなど積極的に景観整備を進めている彦根市ですから、70年近くも八景亭を放置したというのは釈然としません。

    玄宮園 臨池閣
    不思議に思うのは、臨池閣=八景亭の雨樋です。茅葺屋根の裾に桧皮葺のような庇があり、その下に雨樋を設けています。池に落ちる雨だれが静寂な池の景観を邪魔をしないようにとの配慮かとも思いましたが、楽々・玄宮園内の他の建物に雨樋は設けられていないので違和感を覚えます。
    何故、この建物だけに雨樋が取付けられているのか調べてみました。
    旅館「八景亭」の土地建物は市の所有物になっていますが、市に寄贈される以前から旅館業を営んでおり、その経営者により建物に手が加えられたそうです。
    夢京橋キャッスルロードなど積極的に景観整備を進めている彦根市ですから、70年近くも八景亭を放置したというのは釈然としません。

  • 龍臥橋<br />映画『源氏物語 千年の謎』ではこの橋の上で光源氏が藤壺に恋心を抱くシーンの撮影が行われました。<br />この橋が選ばれたのは、玄宮園が唐の6代皇帝 玄宗の離宮が手本となっているとの言い伝えと、玄宗が溺愛した楊貴妃と桐壺帝の妻 藤壺とが重なり合っていることから、鶴橋康夫監督からの指示があったものと窺われます。

    龍臥橋
    映画『源氏物語 千年の謎』ではこの橋の上で光源氏が藤壺に恋心を抱くシーンの撮影が行われました。
    この橋が選ばれたのは、玄宮園が唐の6代皇帝 玄宗の離宮が手本となっているとの言い伝えと、玄宗が溺愛した楊貴妃と桐壺帝の妻 藤壺とが重なり合っていることから、鶴橋康夫監督からの指示があったものと窺われます。

  • 玄宮園 鳳翔台<br />高台となる築山には鄙びた趣のある「鳳翔台」が建てられ、かつては彦根藩の賓客をもてなすための客殿として使われていました。<br />「鳳翔台」の名の由来は、鳳凰が大空に向かって舞い上がる場所という意味で名付けられています。 <br />現在は茶店として一般開放されており、有料ですが、抹茶と、いと重銘菓「埋もれ木」がいただけます。

    玄宮園 鳳翔台
    高台となる築山には鄙びた趣のある「鳳翔台」が建てられ、かつては彦根藩の賓客をもてなすための客殿として使われていました。
    「鳳翔台」の名の由来は、鳳凰が大空に向かって舞い上がる場所という意味で名付けられています。
    現在は茶店として一般開放されており、有料ですが、抹茶と、いと重銘菓「埋もれ木」がいただけます。

  • 玄宮園 鳳翔台<br />茶席から庭園に目を落とすと、池にある「鶴鳴渚」が正面に見えます。もてなす心を庭の景観で表現していたのでしょう。雪華が池に舞い散る様子を見ながらの宴は格別だったに違いありません。<br />よく見ると、「鳳翔台」には意外にも細い柱が使われています。ですから、とても華奢に見えます。これで300年以上も倒壊しなかったのは、不思議なほどです。茅葺屋根を軽くする工夫がなされているのかもしれません。因みに、建築基準法ではこうした基準を満たさない建物は筋交い等の耐力壁を設けなければならないことになっていますが、茶室やあずまやは除外されています。<br />部屋の奥には記念写真と英語の詩が掛けられており、2010年にEU(欧州連合)ヘルマン・ファン・ロンパイ大統領が来訪された時のものです。詩の内容は、「日本では太陽が昇っているが、ヨーロッパでは眠っている。しかし同じ太陽である」という俳句です。

    玄宮園 鳳翔台
    茶席から庭園に目を落とすと、池にある「鶴鳴渚」が正面に見えます。もてなす心を庭の景観で表現していたのでしょう。雪華が池に舞い散る様子を見ながらの宴は格別だったに違いありません。
    よく見ると、「鳳翔台」には意外にも細い柱が使われています。ですから、とても華奢に見えます。これで300年以上も倒壊しなかったのは、不思議なほどです。茅葺屋根を軽くする工夫がなされているのかもしれません。因みに、建築基準法ではこうした基準を満たさない建物は筋交い等の耐力壁を設けなければならないことになっていますが、茶室やあずまやは除外されています。
    部屋の奥には記念写真と英語の詩が掛けられており、2010年にEU(欧州連合)ヘルマン・ファン・ロンパイ大統領が来訪された時のものです。詩の内容は、「日本では太陽が昇っているが、ヨーロッパでは眠っている。しかし同じ太陽である」という俳句です。

  • 玄宮園 鳳翔台<br />軒下もシンプルで鄙びた感じを醸しています。

    玄宮園 鳳翔台
    軒下もシンプルで鄙びた感じを醸しています。

  • 玄宮園 臨池閣<br />こうして「臨池閣」を改めて眺めてみると、桂離宮の書院御殿で見られるような粋な雁行配置が採られていることが判ります。

    玄宮園 臨池閣
    こうして「臨池閣」を改めて眺めてみると、桂離宮の書院御殿で見られるような粋な雁行配置が採られていることが判ります。

  • 玄宮園 シャガ<br />アヤメ科アヤメ属の多年草。原産地は中国で、かなり古くに日本に入ってきた帰化植物です。花期は4〜5月で、白っぽい紫のアヤメに似た花をつけます。花弁に濃い紫と黄色の模様があるのが特徴です。野山でよく見かける印象がありますが、東京都では準絶滅危惧種に指定されているそうです。<br />名の由来は、漢名の「射干(ヒオウギ)」を日本読みしたもの。シャガの葉がヒオウギに似ているところから間違って名付けられたとも言われています。<br />花言葉は、「反抗」「抵抗」「決心」「私を認めて」「友人が多い」。常緑、日陰を好む、実を作らず地下茎で増えるなど、アヤメ科としては特異な生態をもつ点が花言葉の由来とされています。

    玄宮園 シャガ
    アヤメ科アヤメ属の多年草。原産地は中国で、かなり古くに日本に入ってきた帰化植物です。花期は4〜5月で、白っぽい紫のアヤメに似た花をつけます。花弁に濃い紫と黄色の模様があるのが特徴です。野山でよく見かける印象がありますが、東京都では準絶滅危惧種に指定されているそうです。
    名の由来は、漢名の「射干(ヒオウギ)」を日本読みしたもの。シャガの葉がヒオウギに似ているところから間違って名付けられたとも言われています。
    花言葉は、「反抗」「抵抗」「決心」「私を認めて」「友人が多い」。常緑、日陰を好む、実を作らず地下茎で増えるなど、アヤメ科としては特異な生態をもつ点が花言葉の由来とされています。

  • 玄宮園 <br />樹木や岩石、池、建屋などを巧みに配し、情趣豊かな庭園になっています。<br />中国湖南省の洞庭湖にある玄宗皇帝(唐時代)の離宮庭園「瀟湘八景」を模しながら、近江八景や竹生島、沖の白石などを配した「近江八景」を作庭しているようにも窺えます。

    玄宮園
    樹木や岩石、池、建屋などを巧みに配し、情趣豊かな庭園になっています。
    中国湖南省の洞庭湖にある玄宗皇帝(唐時代)の離宮庭園「瀟湘八景」を模しながら、近江八景や竹生島、沖の白石などを配した「近江八景」を作庭しているようにも窺えます。

  • 玄宮園<br />広大な池水を中心に、池中の島や入江に架かる9つの橋などにより、変化に富んだ回遊式庭園となっています。池の水は、湧水の豊富な外堀からサイフォンの原理により導水して供給し、小島の岩間から水を落として滝に仕立てていたそうです。かつては池に船小屋があり、園内で風流に舟遊びの一興を催すこともあったそうです。また、庭園の北側には水門が開き、大洞弁財天堂や菩提寺の清凉寺や龍潭寺への参詣への御成りには、そこから御座船で出向いたようです。

    玄宮園
    広大な池水を中心に、池中の島や入江に架かる9つの橋などにより、変化に富んだ回遊式庭園となっています。池の水は、湧水の豊富な外堀からサイフォンの原理により導水して供給し、小島の岩間から水を落として滝に仕立てていたそうです。かつては池に船小屋があり、園内で風流に舟遊びの一興を催すこともあったそうです。また、庭園の北側には水門が開き、大洞弁財天堂や菩提寺の清凉寺や龍潭寺への参詣への御成りには、そこから御座船で出向いたようです。

  • 玄宮園<br />玄宮園の「玄」が北を意味し、亀を象徴しているからではないでしょうが、亀が天守を見上げながらのんびりと甲羅干しの真っ最中です。<br />亀の目にはどんな風景が映っているのでしょうか?<br />いつかは、あの天守まで登ってやろうとでも思っているのでしょうか?

    玄宮園
    玄宮園の「玄」が北を意味し、亀を象徴しているからではないでしょうが、亀が天守を見上げながらのんびりと甲羅干しの真っ最中です。
    亀の目にはどんな風景が映っているのでしょうか?
    いつかは、あの天守まで登ってやろうとでも思っているのでしょうか?

  • 玄宮園 正門<br />こちらが玄宮園の正門になります。この長く伸びた築地塀の内側が玄宮園となります。<br />園内には紅葉が沢山植えられており、見頃は紅葉する11月の中頃から12月初旬と思われます。しかし、作庭された当初は「春」をイメージしており、時代の流れと共に趣向も変化していったことが窺われます。その恩恵で四季折々の情景を愉しむことができます。<br />思ったより人数も少なく、ゆっくりと日本庭園を鑑賞できる「穴場」ではないかと思います。ファミリーや若い方々は、彦根城登城後、夢京橋キャッスルロードへ直行しているようです。

    玄宮園 正門
    こちらが玄宮園の正門になります。この長く伸びた築地塀の内側が玄宮園となります。
    園内には紅葉が沢山植えられており、見頃は紅葉する11月の中頃から12月初旬と思われます。しかし、作庭された当初は「春」をイメージしており、時代の流れと共に趣向も変化していったことが窺われます。その恩恵で四季折々の情景を愉しむことができます。
    思ったより人数も少なく、ゆっくりと日本庭園を鑑賞できる「穴場」ではないかと思います。ファミリーや若い方々は、彦根城登城後、夢京橋キャッスルロードへ直行しているようです。

  • 彦根城 腰巻石垣<br />美しいカーブを描いて湾曲している内堀の腰巻石垣です。<br />城郭の石垣とは思えないほど優美な姿をしています。城内の景色とは思えないほどです。

    彦根城 腰巻石垣
    美しいカーブを描いて湾曲している内堀の腰巻石垣です。
    城郭の石垣とは思えないほど優美な姿をしています。城内の景色とは思えないほどです。

  • 金亀児童公園<br />公園内に安置された大老 井伊直弼の銅像です。明治時代に直弼の遺徳を顕彰しようとする旧彦根藩士らによって建立されたものです。 <br />直弼は、安政の大獄が基で一般的にはダートなイメージが払拭できませんが、開国と言う日本のグローバル化を体現した人物として評価する向きもあります。実際、直弼のものの考え方の基本には、禅を通して身につけた強い精神力や決断力が見られます。それは、彼の生い立ちによって反骨精神として培われた素養です。<br />直弼は、11代藩主 直中の14男として生まれました。1858(安政5)年、幕府の大老となった直弼は「日米友好通商条約」に調印して開国を断行しました。しかし、偉業を成し遂げた直弼も、大老の信条を組むことのできなかった人々によって1860(万延元)年3月3日、桜田門外で春雪に血を染めて横死しました。<br />この銅像は、最後の官職だった正四位上左近衛中将の正装をうつしたものだそうです。銅像は、直弼没後50年に護国神社近くの尾末公園に建立されました。その後、公会堂前(金亀児童公園付近)に移築されましたが、戦時中に銅供出のため一度取り壊され、1949(昭和24)年に護国神社境内に再建され、1958年に現地に移されました。 <br />直弼に興味がある方は、彦根紀行①彦根城で解説していますので参照してください。<br />http://4travel.jp/travelogue/11007425

    金亀児童公園
    公園内に安置された大老 井伊直弼の銅像です。明治時代に直弼の遺徳を顕彰しようとする旧彦根藩士らによって建立されたものです。
    直弼は、安政の大獄が基で一般的にはダートなイメージが払拭できませんが、開国と言う日本のグローバル化を体現した人物として評価する向きもあります。実際、直弼のものの考え方の基本には、禅を通して身につけた強い精神力や決断力が見られます。それは、彼の生い立ちによって反骨精神として培われた素養です。
    直弼は、11代藩主 直中の14男として生まれました。1858(安政5)年、幕府の大老となった直弼は「日米友好通商条約」に調印して開国を断行しました。しかし、偉業を成し遂げた直弼も、大老の信条を組むことのできなかった人々によって1860(万延元)年3月3日、桜田門外で春雪に血を染めて横死しました。
    この銅像は、最後の官職だった正四位上左近衛中将の正装をうつしたものだそうです。銅像は、直弼没後50年に護国神社近くの尾末公園に建立されました。その後、公会堂前(金亀児童公園付近)に移築されましたが、戦時中に銅供出のため一度取り壊され、1949(昭和24)年に護国神社境内に再建され、1958年に現地に移されました。
    直弼に興味がある方は、彦根紀行①彦根城で解説していますので参照してください。
    http://4travel.jp/travelogue/11007425

  • 彦根城 表門橋<br />スタート地点の表門橋が見えます。場内を一周してきたことになります。<br />内堀に新緑が映り込み、何とも言えない初夏の雰囲気の情景です。<br /><br />この続きは、彦根紀行③埋木舎・街ある紀(エピローグ)でお届けします。

    彦根城 表門橋
    スタート地点の表門橋が見えます。場内を一周してきたことになります。
    内堀に新緑が映り込み、何とも言えない初夏の雰囲気の情景です。

    この続きは、彦根紀行③埋木舎・街ある紀(エピローグ)でお届けします。

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