2015/10/15 - 2015/10/21
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ペコちゃんさん
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秋の旅行も、いよいよ終わりが近づきました。
今治・福山から琵琶湖の東を回って若狭を走り、丹後から京都市内に入って最後の大津に向かいます。
福知山は予定外の観光でしたが、福知山城の立派な天主閣とその歴史は興味を惹かれます。
京都は、夫も私も学生時代に住んでいたことや、これまで何回も訪れているので、今回は観光というよりも旅の通過点のようなものでした。
そして大津は、近江八景のうち、三井寺・瀬田の唐橋・石山寺と3カ所を回り、旅の締めくくりとして良い思い出が出来ました。
特に、石山寺は、季節を変えてまた来たくなる名刹で、印象に残ります。
写真は、昭和61年に復元された福知山城。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- レンタカー 新幹線
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天橋立・伊根の舟屋めぐりと丹後半島の観光を終え、宮津から京都縦貫自動車道を使って、京都へ一直線・・・の予定でしたが、工事のためインターが閉鎖中。
で、京都のホテルをナビにセットし、一般道を走ることにしました。
ナビが案内したのは、国道176号線で福知山を経由し京都に入るルート・・・折角なので、福知山城を見に行くことにしました。 -
福知山城は丹波国を平定した明智光秀によって築かれた城・・・現在は福知山城公園として整備されています。
その昔は無かった昇龍橋を渡って天守に向かいます。 -
明智光秀は在城のわずか3年後に「本能寺の変」をおこし、その後の「山崎の戦い」で豊臣秀吉に敗北して自害しました。
逆賊のイメージがある光秀の人物評価はいろいろありますが、地元では大変愛されています。
お城の向かいには、無料の駐車場も完備・・・ここで福山ナンバーの車発見。
中年のご夫婦が車から降りてこられました。
思い切って声をかけましたら福山・鞆の浦に在住の方でした。
福山の人に福知山で会うなんて、何かのご縁でしょうか。 -
明智光秀は、天正7年(1579年)に丹波を平定し、丹後国も平定しました。
この功績で、信長から34万石を拝領し、亀山城・周山城を築城し、横山城を修築して福智山城に改名しました。
当時の天守は連立式で3重5階(地上4階、地下1階)でしたが、明治6年の廃城令により破却。
現在の復元天守は昭和61年に再建されたもので、内部は福知山市郷土資料館・産業館となっています。
大天守と続櫓で連結している右側の小天守は2重2階。 -
現在の大天守は3重4階・地下1階で、天守の高さは20.2m。
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残念ながら今日(火曜日)は休館日なので、外を見て回りました。
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大天守の左側は銅門番所、右側に小天守。
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福知山城で印象的なのが「転用石」・・・自然石と割石に混じって、石垣のあちこちに宝篋印塔や五輪塔などの石塔類が大量に使用されています。
光秀が、敵対する寺院から集めたとか、石材不足や短期間で築城を急いだからとか、神のご加護を得るためとか諸説ありますが、なんとも言えない光景です。
石塔は、天守台の石垣に使われているもののほか、発掘されたものもあり、その数は合計500余りもあるとか。 -
復元された天守の鯱瓦・・・高さ150cm、縦80cm、横45cm。
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「豊磐井(とよいわのい)」・・・水と食糧がなければ長く戦えないので、多くの城には複数の井戸がありますが、福知山城の本丸にある「豊磐井」は、深くて水量が豊富な井戸として有名です。
海抜43mの場所にある井戸なので、井戸の深さは50m・・・底はすぐそばを流れる由良川の川底より低く、城の内にある井戸では日本一の深い井戸です。 -
福知山城は盆地の真ん中にある小高い丘の上に建っているため、街のどこからでもよく見え、JR福知山線の列車内から見ることもできます。
ちょうど、電車が走って来ました。
福知山には、他にも御霊神社・寺町などの古い街並み・福知山鉄道館などの見どころがありますが、時間がないので省略。 -
福知山から京都に入り、今日宿泊の「スーパーホテル京都・烏丸五条」に夕方到着。
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一休みした後、五条通りを歩いて四条河原町に行ってみました。
夕食は、久し振りの「ミュンヘン」でビールを飲みながら旅の疲れをとります。 -
店内は満席状態。
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京都での学生時代、この辺りはよく歩いたものです。
懐かしい純喫茶「築地」に行ってみたら、店内改装中・・・この店でクラシックを聴きながら友達とおしゃべりをしていた○○年前が蘇ります。
今は周りに韓国料理の店が目立ち、少し興ざめでした。 -
四条大橋から三条の方を見る夜景が綺麗ですね。
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橋を渡ると「南座」・・・初めて歌舞伎を観たのも、ここ南座の顔見世興行でした。
もう何十年も前になります。 -
最近は、外国の観光客も歌舞伎を観に、沢山訪れているのでしょう・・・横断幕も ” WONDER KABUKI THEATER ” です。
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四条通りの突当りにある八坂神社まで歩いて行きます・・・いつ来ても風情のある京都の街並み。
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他の観光地以上に目についたのが白人の観光客。
平成25年の京都の観光客数:5,162万人
うち、宿泊客数:1,308万人
うち、外国人宿泊客数:113万人
(台湾・アメリカ・中国・オーストラリア・フランス・韓国・香港・イギリス・ドイツ・イタリア・スペインの順)
修学旅行生数:110万人 -
「八坂神社」を見ると、京都にいるんだな~、と実感します。
懐かしい思い出が甦ります。 -
神社の向かいにあるローソンの建物も、京都チックな造り。
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帰りは東山四条からバスで四条烏丸まで行き、そこから五条烏丸まで地下鉄に乗りホテルへ。
よく考えたら、明後日(10月22日)は平安神宮の「時代祭」・・・どおりで、四条河原町中心に人混みで混雑していました。
それにしても、この時期、市内の中心地に近いホテルがよく取れたと、後から思いました。 -
7日目・・・いよいよ旅行も最終日になりました。
朝食前に、五条通りを歩いて清水寺まで朝の散歩へ。
これは、五条大橋のたもとにある「牛若丸弁慶像」・・・多くの車が行き交う五条通の中央分離帯にあるので、写真を撮るのも命懸け。
三等身でユーモラスですが、よく見ると、りりしい表情をしています・・・この像は、京人形師の岡本庄三さんが昭和38年に製作しました。 -
東大路通りが近づくと、五条通を挟んで東山郵便局の向かいに「五建ういろ」があります。
安政年間に創業した老舗の和菓子屋さんで、学生時代にこの近くに住んでいたので、よく買いに来たものです。 -
音羽山「清水寺」は、778年に延鎮上人によって開創されました。
その後、広く信仰を得てきた清水寺は、「枕草子」「源氏物語」などの古典文学や能狂言・歌舞伎・落語などにも数多く登場するなど、貴族や武士といった限られた階級だけでなく、庶民にも開かれたお寺として親しまれてきました。
【枕草子】 ” ・・・ さわがしきもの 走り火 板屋の上にて烏の齋の産飯食ふ 十八日に清水に籠りあひたる ・・・ ”
【源氏物語】 ” ・・・ 清水の方ぞ光多く見え、人のけはひもしげかりける ・・・ ” -
「仁王門」・・・応仁の乱(1467~1477)によって焼失しましたが、15世紀末に再建され、平成15年に解体修理されました。
清水寺の正門で、幅約10m、奥行8.4m、棟高約14mの、室町時代再建当時の特徴を示す堂々たる楼門です。
入母屋造り、檜皮葺(ひわだぶき)で、鮮やかな丹塗りのため「赤門」とも呼ばれています。
門の手前の狛犬は、左右とも口を開いた阿形(あぎょう)で珍しい。
後には西門・三重塔が見えます。 -
石段を登り、裏から見ると門というよりは神社の拝殿のように見える「西門(さいもん)」・・・現在の建物は1631年再建のもの。
もとの創建時期は分かっていませんが、平安時代末期にはあったと推測されています。
平成6年に桧皮屋根の葺き替えと、彩色の全面復元がなされました。 -
「鐘楼」・・・1607年の再建で、平成11年に彩色復元され、桃山様式の美しい彫刻が一層華やかに蘇りました。
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「三重塔」・・・847年に創建され、1632年に再建。
現在の塔は古様式に則って昭和62年に解体修理したもので、総丹塗りとともに、桃山様式を示す極彩色文様を復元しました。
三重塔としては日本最大級の高さ(約31m)の塔は、清水寺や京都東山のシンボルになっています。 -
本堂に続く「轟門」は現在解体修理中ですが、清水の舞台には行けます。
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「経堂」・・・1633年の再建で、平成12年に解体修理され、西門、三重塔に続く美しい丹塗りの建物になりました。
安時代中期には一切経を所蔵し、全国から学問僧が集まる講堂として栄えました。 -
ホテルに戻って朝食。
隣では、フランスから来た女性グループも美味しそうにパンを食べていました。
「どこからいらっしゃいましたか?」「フランスです。遠いわよねー」・・・これくらいの会話なら大丈夫(?)
その後、部屋でNHKの朝ドラを見てから出発し、京都市内を車でざっと見て回って大津に向かいます。 -
最初に、琵琶湖の南にある「三井寺」へ・・・天台寺門宗の総本山・三井寺の正式名称は、長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)。
667年に、天智天皇が飛鳥から近江に都を移して近江大津京が開かれました。
大津京の時代、壬申の乱に敗れた大友皇子の子である大友与多王が、父を弔うために寺を創建し、その後天武天皇から「園城」という勅額を賜わったことが園城寺の起源です。
また天智・天武・持統天皇の産湯に用いられたという霊泉があり、「御井の寺」と呼ばれていた事が、三井寺と呼ばれる起源となっています。 -
江戸後期の浮世絵師・歌川広重によって描かれた『近江八景』・・・その中の一つ「三井の晩鐘」でも知られる三井寺。
一度、近江八景の地を訪ねてみたいと思っていました。 -
拝観料(600円)を支払って境内に向かいます。
「仁王門(大門)」は、もとは滋賀県湖南市・常楽寺の門で、豊臣秀吉により伏見城に移されていましたが、1601年に徳川家康によって三井寺に移築寄進されました。
2階建ての楼門は1451年の建立と言われています。 -
仁王門を護っている金剛力士像。
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「釈迦堂(重文)」は仁王門を入って金堂に向かう道の右側にあります。
天正年間(16世紀末)造営の御所清涼殿を下賜され移築したもの、と伝えられています。 -
本尊の釈迦如来。
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正面に金堂が見えてきました。
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「金堂(国宝)」は、三井寺再興を許可した豊臣秀吉の遺志により、北政所(きたのまんどころ)であった秀吉の正室・ねね(高台院)が1599年に再建した建物です。
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「鐘楼(重文)」は、金堂の左手前にあります。
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近江八景の「三井の晩鐘」で知られる梵鐘は1602年の鋳造で、重さは2,250kg・・・日本三名鐘の一つに数えられています。
日本三名鐘とは「姿(形)の平等院」「音(声)の三井寺」「勢の東大寺」。
私が続けているお琴にも、山田流の筝曲で『近江八景』があります。(作曲:山登万和)
♪ ・・・ 眺むるうちに三井寺の 入相つぐるかねの聲 ・・・ ♪ -
手水舎の龍も見事なものです。
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金堂脇にある「閼伽井屋(あかいや、重文)」は、1600年に金堂と同じく北政所によって建立されました。
堂内には、天智・天武・持統天皇の産湯に使われた泉が湧き出しており、これが三井寺の寺名の由来になっています。 -
正面上部には、左甚五郎作の龍の彫刻があります。
昔、この龍が夜な夜な琵琶湖に出て暴れたために、困った甚五郎が自ら龍の目玉に五寸釘を打ち込み鎮めたと伝えられています。 -
「霊鐘堂」にある、奈良時代に鋳造された重要文化財の「弁慶の引摺り鐘」・・・延暦寺と三井寺で争いが起こり、弁慶が鐘を奪って延暦寺に持ち帰ろうとした際に、鐘が「いの~、いの~」(関西弁で帰りたい)と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底に投げ捨てました。
その時のものと思われるにヒビや傷が鐘に残っています。 -
鐘の手前は「弁慶の汁鍋」・・・これも延暦寺と三井寺の抗争の際に、弁慶が置いていったという伝説があるそうです。
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「一切経蔵(重文)」の建物は室町時代の建築で、毛利輝元の寄進により、1602年に山口市の国清寺の経蔵を移築したものだそうです。
堂内にある回転式の八角輪蔵蔵には、高麗版一切経が納められています。 -
「三重塔(重文)」は室町時代初期の建築・・・奈良・吉野の比蘇寺に建っていた東塔を豊臣秀吉が伏見城に移築し、秀吉の死後、徳川家康が三井寺に移築・寄進したものが、現在まで残っています。
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三重塔の隣は「唐院潅頂堂」で、密教を伝承するための道場の役割を持っています。
手前は「園城寺長日護摩堂」で、潅頂堂と渡り廊下でつながっています。 -
1624年に建立された「四脚門」。
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三井寺の次の近江八景は「瀬田の唐橋」。
歌川広重の『近江八景』シリーズのひとつ「瀬多夕照」に描かれた往時の唐橋・・・江戸時代には、風光明媚な景勝地として人気を博しました。
♪ ・・・ はや夕日さす浦々の 景色をみつつわたるには、瀬田の長橋ながからず ・・・ ♪ (筝曲 近江八景) -
瀬田の唐橋は、大津市瀬田の瀬田川にかかる全長260mの橋・・・琵琶湖には119本もの河川が注ぎ込んでいますが、琵琶湖から流れ出る河川は瀬田川だけです。
京都と東域を陸路で結ぶ交通の要衝だったこの橋は、672年の壬申の乱以降、何度も歴史的な合戦の舞台となり、「瀬田橋を制する者は天下を制する」とまで言われました。 -
瀬田の唐橋は日本を代表する歴史のある橋として、宇治の宇治橋、京都府大山崎町の山崎橋とともに「日本三古橋」と称されています。
木造の橋が現在のコンクリート製になったのは昭和54年ですが、橋の特徴である擬宝珠は受け継がれています。
平成25年に唐茶色に塗り替えられました。 -
松尾芭蕉も、旅の途上でこの橋を詠んでいます。
『五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋』
『橋桁の 忍は月の 名残り哉』
瀬田川は朝日レガッタなどが開催され、関西ボート界の一大拠点となっています。
ちょうど、瀬田川クルーズの観光船が川を下って行きました。 -
今回の旅の最後は「石山寺」・・・歌川広重の近江八景「石山秋月図」を見ると、満月がのぼって琵琶湖の湖面を照らし、手前には、石山寺の建つ伽藍山が、月明かりで墨色に照らし出され、岩肌からは本堂がのぞいています。
山上の頂き近くには、国宝の多宝塔が垣間見え、見晴らしのきく崖上に月見台が建っています。
現在でも9月に開催される秋月祭で「石山の秋月」が楽しめます。 -
東寺真言宗の石山寺は、聖武天皇の勅願により、747年に良辨僧正が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのが始まり、とされています。
また、石山寺は『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者・紫式部は石山寺で物語の着想を得たと伝えられています。 -
これは、駐車場のお土産屋の所にある「三鈷の松」・・・今からおよそ千二百年前に弘法大師(空海)が唐の国での学法を終え、日本に帰国する時、 ” 秘密の教法流布に適する地あればそれを示せ ” と手に持った三鈷(法具)を東の空に向かって投げたところ、三鈷は海を渡って高野山まで届き、松の枝にかかっていたと伝えられています。
帰国後、空海は高野山に伽藍を建立しますが、この時の松が「三鈷の松」と名づけられ、今も高野山にあります。
空海は42歳の厄年の時(811年)に、3カ月石山寺に籠もって修行したと言われ、そのゆかりの地という事で、ここにも「三鈷の松」がある、という事です。 -
石山寺は京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場であり、西国三十三所観音霊場の第13番札所となっています。
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「東大門」は1190年に源頼朝の寄進により建てられたとされ、 その後、慶長年間に大修理が行われています。
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東大門は古寺にふさわしい堂々とした造りで、左右には大きな仁王像が立っています。
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右の仁王様は阿形・・・仁王像は鎌倉時代の仏師、運慶とその長男・湛慶の作。
左側は吽形・・・迫力がありますね。 -
東大門からまっすぐに伸びる参道の両側は、春は桜、秋は紅葉で美しく彩られます。
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参道の先にある料金所で入山料(600円)を払い、右手を見ると参道脇に ” くぐり岩 ” があります。
でも、くぐったからといって、特別何かご利益があるわけではないようですが、それでもくぐってみました・・・体をかがめながらくぐりましたが、結構きつかった! -
くぐり岩のそばにある手水舎。
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そこから石段を登って行くと、神木があります・・・幹周りは4.3m、樹高は30m。
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石段を登った所にある「毘沙門堂」・・・1773年に建立されたお堂で、兜跋(とばつ)毘沙門天を本尊としています。
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中には、重要文化財の兜跋毘沙門天、妃の吉祥天、子供の善膩師童子の三体が祀られています。
毘沙門堂の向かいには蓮如堂があります。 -
「蓮如堂」は硅灰石の崖にせり出しで建つ懸造の建物・・・境内にある三十八所権現社本殿を拝むための拝殿として1602年に淀君により建立されました。
明治以降には蓮如上人の遺品を安置したり御影を祀るようになり、蓮如堂と呼ばれるようになったようです。
中を覗くと、正面には蓮如上人の掛け軸が飾られています。 -
蓮如堂の横から更に階段を上り、やっと本堂に辿り着きました。
「本堂」は平安時代中期の建築でしたが、焼失の後、1096年に再建され、「礼堂」と「相の間」は1602 年に淀君によって建て替えられました。
本堂に安置されるのは、 安産・福徳・縁結びの観音さまとして信仰を集める本尊如意輪観世音菩薩。
相の間には、紫式部が『源氏物語』を起筆したことに因む「源氏の間」があります。 -
相の間にある「源氏の間」は、かつて紫式部がその窓から十五夜の月を眺めたときに、霊感をうけ源氏物語の構想を得たと伝えられます。
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机の上には紙が広げられ、硯があり、人形は筆を持っています・・・あたかも紫式部がすぐにでも、物語を書き出しそうな雰囲気。
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石山寺の本堂は大きい上に大きな木々に囲まれていて、なかなか全体を写真に収めることが出来ないので裏に回ってみると、懸造ですね・・・先ほどの表側からは想像できませんでした。
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本堂からさらに山を登るように進み、三十八権現社の先を行った所に、高床倉の「経蔵」があり、その下には ” 腰掛石 ” があります。
昔からこの石に座ると、安産になると言われているそうです。 -
松尾芭蕉の句碑・・・『あけぼのは まだむらさきに ほととぎす』
芭蕉は、たびたび石山寺に仮住まいをして、多くの句を残しています。
この句は1690年の冬の日に作られたものだそうです。 -
「多宝塔」は源頼朝の寄進で1194年に建立されたもので、日本の多宝塔の中でも、最も優れて美しい姿をしていると言われています。
下層が方形、上層が円形の平面に裳階(もこし)をつけ、宝形造(ほうぎょうづくり)の屋根をのせた二重の塔で、上下左右の広がりがきわめて美しく洗練され、均斉のよくとれた建物です。
建築年代が明確ものでは日本最古の多宝塔で、高さは17m。 -
金剛三昧院多宝塔(和歌山県)・浄土寺多宝塔(広島県)とともに「日本三大多宝塔」の一つになっています。
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多宝塔の本尊は大日如来坐像(快慶・作)・・・塔と同時期に制作され、像高は102cm・・・典型的な鎌倉様式の風格を備えた像です。
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「月見亭」は保元年間(1156~58)に後白河天皇が行幸の際、建立したのが始まりとされ、その後、何度も修繕され、現在の建物は1687年に建てられたもの。
多宝塔の東の瀬田川を見下ろせる眺望の良い場所にある月見亭は、名前の通り、月を眺めるのが目的で建てられたものです。 -
後白河天皇をはじめ、歴代の天皇が使われた玉座があります。
明治天皇(明治11年)、大正天皇(明治43年)、昭和天皇(大正7年)など皇室の方々が数多く行幸され、月見亭より雄大な景観を眺められています。
♪ ・・・ 數さへ見えて照る月の 影もさやけき石山や ・・・ ♪ (筝曲 近江八景) -
本堂からかなり離れたところにある紫式部像は、訪れる人も少なく寂しそうに見えました。
『めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな』(百人一首:紫式部) -
石山寺の目の前には瀬田川が流れ、その奥に大津市街と琵琶湖も臨めます。
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多宝塔から石段を下ったところにある「鐘楼」も源頼朝の寄進とされ、均整のとれた美しい建物です。
重層袴腰、檜皮葺の入母屋造で、様式などから鎌倉時代後期の造営と考えられています。 -
ズームで撮ると、大きな梵鐘が中に見えます。
平安時代に造られた梵鐘は「行く年・くる年」で中継される除夜の鐘でお馴染み・・・但し、鐘を撞けるのは、先着108名。 -
硅灰石(けいかいせき)と多宝塔・・・硅灰石は、石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用のために変質したものですが、石山寺のように雄大な硅灰石となっているのは大変珍しく、国の天然記念物に指定されています。
「石山」という名称はこの硅灰石に由来しています。
見応えのある石山寺でした。
駐車場に戻って昼食をとった後、彦根でレンタカーを返し、新幹線で帰路に。
お墓参りをし、城と寺社を見て、天橋立や若狭湾などの自然景観や近江八幡や長浜などの街歩きも楽しんだ7日間・・・天気にも恵まれて、大満足の秋の旅行でした。
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