2015/08/11 - 2015/08/11
178位(同エリア324件中)
滝山氏照さん
一関八幡神社(いちのせきはちまんじんじゃ、岩手県一関市字釣山)は旧名館山と称した釣山に戦陣を構えた征夷大将軍坂上田村麻呂や源頼義・義家親子がそれぞれ大勝祈願をした由緒ある神社として知られています。
中世では坂上田村麻呂の後裔と称する三春城主田村清顕(たむら・きよあき、生誕不詳~1586)が四方から攻撃を受け所領安泰を図るべく、一人娘の愛(めが)姫を伊達政宗の正室として送り伊達家の後ろ盾を得ますが秀吉による奥州仕置きにより改易となります。
愛姫は息子である二代藩主忠宗(ただむね、1600~1658)に実家田村家の再興を遺し86歳で亡くなりますが、忠宗はその遺言に従い田村家を再興させ三男を田村宗良(たむら・むねよし、1637~1678)とし、3万石を以て岩沼藩を分地し伊達家の分家大名として遇します。
延宝6年(1678)父宗良の死去によって家督を相続した建顕(たつあき、1656~1708)は3年後の延宝9年(1681)には岩沼から一関に転封、釣山麓に陣屋を構え明治維新に至るまで一関支配を続けます。
一関八幡神社ホームページにある由緒によれば次の記載があります。
「一関八幡神社 相殿 田村神社 由緒
当神社は延暦年間(782~806)坂上田村麻呂が東夷平定の際館山(元釣山公園)に陣営を敷き、諏訪の大神(長野諏訪神社)に勝利を祈願したのが紀元とされ、その後、康平四年(1061)源頼義、源頼家が安倍貞任征伐【前九年の役】の折り、田村麻呂と同じく館山に陣を敷いた際、合戦の祈願のため伊勢の神官、京都の石清水八幡宮へ、中原大夫清房を奉幣使として使わせたところ両宮の大御神のご神託を賜り、この地域の八方に八幡宮を勧請した内のその第一社です。天正二年(1574)相殿に八雲神社、文禄(1593)諏訪神社を再奉し寛文二年(1662)藩主伊達宗勝により現在の地へ遷座され以来現在の地に奉斎されています。
元禄七年(1694)初代田村藩主、田村建顕は一関に赴任した際、この地に坂上田村麻呂を慕う人々が多いことから伊勢へ伊藤惣助を代拝参宮へ使わした折、土山(滋賀県甲賀市)に鎮座する田村社の御分霊を田村神社として当社の相殿へ併せ祀り以来藩主田村氏の崇敬神社また一関(現市街地)の総鎮守としてお祀りされています。また現在千畳敷(釣山公園)へ鎮座している田村神社は、大正時代に田村家江戸屋敷邸内へ祀られていた御社を遷座したものです。明治四年郷社、明治八年村社、昭和五年再び郷社に列します。
昭和四六年十二月、社殿が全焼し貴重な文化財(田村建顕公、射的奉納弓矢、算額等)を焼失してしまいましたが、当寺オイルショックの不況下、氏子崇敬者の篤い奉賛により昭和四八年現在の御社殿が再建されました。」
- 旅行の満足度
- 3.5
- 交通手段
- JRローカル
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水道施設
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釣山公園
一関城跡から離れ釣山公園の南方向に下ってゆきます。 -
一関八幡神社・参道
先に訪問した一関城跡から南方向に降りると神社の参道に至ります。 -
一関八幡神社裏参道
裏参道から神社へ入るようです。 -
一関八幡神社拝殿
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一関八幡神社 相殿田村神社説明板
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一関八幡神社・手洗水鉢
説明によれば元禄十年(1697)藩主田村建顕が幕命により津山城受取の上使として退任を果たし祈願成就を祝って翌十一年手洗水鉢を奉納したものだそうです。 -
一関八幡神社・拝殿(近景)
ご祭神は品陀和気命、相殿として坂上田村麻呂及び坂上輝定で康平4年(1061)の創建と伝えられ由緒ある神社となっています。 -
一関八幡神社・社額
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一関八幡神社・境内
拝殿から境内を見渡します。 -
一関八幡神社・本殿
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一関八幡神社・境内風景
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竹駒神社(境内社)
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八雲神社(境内社)
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境内
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表参道
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一関八幡神社・社標
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一関八幡神社・鳥居
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一関駅舎
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一関市街地図
駅前設置の地図により釣山公園にある一関城跡と八幡神社との位置関係を確認します。
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