2015/05/11 - 2015/05/11
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junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
コッペデ地区からは、63番、83番のバスがバルベリーニ広場方面に走っています。バスは、ポー通りvia Pohを行きます。レジーナ・マルゲリータ通りを横切り、ボルゲーゼ美術館の前を通り、公園沿いにしばらく走った後、コルソ・ディタリアでしばらくアウレリアヌス城壁に沿って進みます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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逆光ですが、ピンチャーナ門とピア門の間のアウレリアヌス城壁です。ブエノスアイレス広場から随分走りました。
ローマの城壁内って意外と狭いんだと実感。 -
かつてのサラリア門は1921年に取り壊されたそうです。その後にできたフィウメ広場からバスは城壁内に入りました。
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写真撮れなかったけれど、城壁にぺたっと張り付いたような家があったり、「道路拡張のためか、城壁スパッと切断しました」風の箇所があったりで、面白かったですよ。観光地ではないけれど、いつか城壁に沿って歩けるだけ歩いてみたいと思っています。
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バルベリーニ広場到着です。今日二つ目の噴水、すぐに見つかりました。
バルベリーニ広場は、まだその名前がつく前に、カピトリーニ美術館にも沢山の絵があった画家兼建築家のピエトロ・ダ・バルコーニが近くのバルベリーニ宮殿へのゲートウェイとして作ったものですが、19世紀に道路拡張のために大部分が取り壊され、現在残っているのは、この噴水のある広場だけです。 -
広場の中央には、1642年から1643年にかけて作られた、トリトーネの泉があります。噴水は教皇ウルバヌス8世の命により、ベルニーニが制作しました。ベルニーニのパトロンであったウルバヌス8世の本名はマッフェオ・ヴィンチェンツォ・バルベリーニ。要は教皇の自宅のための噴水というわけなんですね。
教皇、いや、バルベリーニ家の紋章はご存知3匹の蜂。噴水の下にちゃんといらっしゃいましたよ! -
4頭のイルカに乗ったトリトーネ(ギリシャ・ローマ神話の海の神)がほら貝を口に当てて、水を噴き出している場面です。
前にも書きましたっけ? ローマのイルカ全く可愛げがないです。なぜかないはずの鱗まで描かれていて、ベルニーニは本物のイルカを見たことがなかったに違いありません。 -
こちらは、トリトーネ筋肉ムキムキがよくわかる背中編です。
そうそう、ベルニーニは噴水だけでなく、教皇の自宅ベルベリーニ宮殿のデザインもボッロミニと一緒に設計を担当しています。 -
「蜂の噴水」はバルベリーニ広場のヴェネト通沿いにありました。こちらも1644年にベルニーニが制作したものです。
こちらは、馬用の水飲み場として作られたものだそうです。ベルニーニはここでもパトロン ウルバヌス8世の出身バルベリーニ家の紋章 3匹の蜂をモデルに使っています。
お〜い、そこのお方! こちらの水は馬用ですよ〜!! -
実はこの噴水はコピー。オリジナルは1665年に道路拡張工事の時に移動させようとしてなんと! 壊してしまったとか。
白い美しいカラッラ大理石だったベルニーニの作品は、石灰岩に変わり(アドルフォ・アポローニ作、1915年)、トリトーネの噴水とのコンビネーションは場所の移動で崩れてしまいました。今はただぽつんと孤立しているように見える噴水となっています。 -
このシルエットの美しさは、オリジナルを引き継いでいますが、もろい石灰岩だから、この先の風化が心配ですね。
背面の貝は帆立貝??? -
今日は珍妙な「顔」によく出会います。扉上の半円形部分についている顔ってもしかしてお猿さん? それとも原始人かな??
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お猿さんにつられて住居侵入。おお〜フレスコ画にモザイクの床に古代ローマの彫像の3点セットがお出迎えです。豪華ですねえ。
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やってきたのはコンヴェント・デイ・カップッチーニ カプチーニ修道院です。サンタ・マリア・インマコラータ・コンチェツィオーネ教会 通称「骸骨寺」併設の修道院ですが、こちらの方が美術館として今や有名になっています。
修道院には、全て人骨で作られた半地下の礼拝堂があるからです。大手の美術館のように整ったカウンターのある受付で8ユーロ(クレジットカードOK)払って中に入ると、カプチン会と言う修道院の団体の沿革・輩出した著名な僧・お宝などを展示しているコーナーを見学した後で、カタコンブ・・・というよりは5つほどの地下礼拝堂(クリプタ)が並んでいるエリアに案内されます。「写真厳禁」「写真厳禁」と2mおきに書かれていて、絶えず見張っている人がいるので、残念ながら写真は1枚もありません。
絵葉書が売られていましたが、買って帰るほどのものでもないと判断し、やめました。ご覧になりたいと思ったら「ローマ 骸骨寺」で画像検索すれば、いくらでも出てきます。 -
内容的には、16世紀から19世紀に亡くなったカプチン会の修道僧の骨3500体〜4000体を集めて作られた「骸骨アート」です。
人骨が集められた理由に関しては、教皇ウルバヌス8世がエルサレムから運んだ荷車300台分の聖なる土を修道院に贈り、その土にそれまでに亡くなった僧の骨を移したこと、以後葬られたい(=復活への期待 いわば特権)という希望の修道僧が多数いたこと等の話が伝えられています。
作られた時期や、装飾の方法などは分かっていませんが、1775年にここを訪れたマルキド・サド侯爵が後日感想を書いていますので、その時期にはすでに存在したと考えられています。
個人的には、人体の骨をすべてバラバラにして装飾に利用しているので、日ごろ目にすることのない部分まで見ることができて、面白かったです。気持ち悪さは全くといっていいほどなく、頭蓋骨以外の色々な形の骨の組み合わせで構成されている装飾は、新鮮な驚きに満ちていました。
ここでの埋葬を含め、城壁内での埋葬行為は19世紀初頭に公式に禁止されましたが、修道院では1873年に全面禁止の措置が取られるまで、「骨」の生産を継続していたようです。 -
この教会も前述のウルバヌス8世と関係があります。彼の弟で枢機卿であったアントニオ・バルベリーニのために1626年に建てられた教会だからです。
教会内部には、優れた絵画が沢山見られたので、ここでは絵画を中心に見ていきます。教会の方は、撮影OKです。
身廊は一廊式。左右に10の礼拝堂があります。内装は白を基本に金メッキのスタッコで装飾されています。 -
ずらりと並んだ礼拝堂の様子。どの礼拝堂も造りが似ていて、大きな祭壇画がその殆どを占めています。
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後陣はありません(?!)。主祭壇は壁にあって、筋のある2本のコリント式柱が中央部分に羽の生えたプットの像のあるペディメントを支えています。
祭壇画は無原罪の御宿り。ジョヴァンニ・ランフランコのオリジナルは1813年の火事で焼けてしまったので、こちらはアンドレア・カマッセイによるコピーです。
主祭壇の左右には聖遺物を納めた戸棚のようなものがありました。このようなものを見るのは初めてです。その下には楕円形のトンドがあって、左にはカプチン会の聖人で教会博士のブリンディチのサン・ロレンツォ、右にはマグダラのマリアのフレスコ画がありました。
その下に見える2つの扉は聖歌隊席に通じています。立ち入りできませんでした。 -
続いて礼拝堂を巡ります。
主祭壇向かって右側の最初の礼拝堂で、グイド・レーニの「悪魔を打ち負かす大天使ミカエル」。1630年の作品。ようやく本物にお目にかかれました。
レーニが一番苦労したのは悪魔の顔。この顔については色々な伝説が生まれています。
レーニが絵を依頼されたのは1600年代前半のこと。その頃バルベリーニ家の宿敵だったのは、パンフィーリ家。バルベリーニ家出身の教皇ウルバヌス8世(在位 1623年〜1644年)と枢機卿の一人ジョヴァンニ・パンフィーリの不仲を知らぬものはおりませんでした。そこでレーニは悪魔の顔にジョヴァンニ・パンフィーリの顔を採用したと言う話です。ところが、そのパンフィーリ卿は、1644年インノケンティウス10世として教皇に選ばれるのですよ。あぶねえ〜 あぶねえ〜! レーニにお咎めがあったかどうかは聞いておりません。
半分欠けてしまいましたが、左側には ヘラルト・ファン・ホントホルストの「嘲笑されるキリスト」。 -
パドヴァのサン・アントニオに捧げられた礼拝堂。右側の祭壇画は少々変わっています。祭壇画の「死んだ若者を蘇らせているアントニオ」はアントニオ・サッキの作品。若者の白すぎる肌がおどろおどろしい雰囲気。
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こちらは、13世紀イタリアの神学者で、枢機卿、フランシスコ会総長でもあったサン・ボナヴェントゥラ・ダ・バーニョレージョBonaventura da Bagnoregioに捧げられた礼拝堂。
祭壇画は、こちらもアンドレア・サッキ作。「聖母からヴィジョンを受けるボナヴェントゥラ」。 -
救い主の礼拝堂。
祭壇画は、アンドレア・カマッセイによる「死せるキリスト」。主祭壇の「無原罪の御宿り」を描いた人です。この人は、ベルベリーニ家専門の画家と言われ、この教会の他、バルベリーニ宮殿にも沢山の絵を残しています。ドメニキーノの手ほどきを受け、前述のアンドレア・サッキやピエトロ・ダ・コルトーナらとも一緒に仕事をしています。 -
こちらはあまり馴染みのない、サン・フェリーチェ・ダ・カンタリチェに捧げる礼拝堂。彼はこの教会を主宰するカプチン会の修道士でした。
カプチン会というのは、フランシスコ会から分かれた修道会で、アッシジのフランチェスコを師と仰ぎ、その原点に帰って、厳格な清貧主義に徹することを目的にしています。名前の由来は、彼らの着ているこげ茶色の頭巾をイタリアではカプッチョと呼ぶことから来ています。日ごろ私たちがよく飲むカプチーノも、この頭巾の色に由来するそうですよ。
この教会では、カプチン会に関する広報活動が盛んで、イタリアとしては珍しく様々なパンフレットが置かれていました。
話が脱線しましたが、カプチン会の教会に来た以上、少しは学んで帰らないとね。
礼拝堂の祭壇画は、アレッサンドロ・トゥルキによる「聖母子からヴィジョンを受ける聖人」。
祭壇左側は彼の生涯からの場面です。 -
祭壇右側もサン・フェリーチェ・ダ・カンタリチェの生涯の一場面です。
前々から思っていた疑問。
祭壇画にはお馴染みの「ヴィジョンを受ける」という行為がいまだにピンときません。お告げがある とか 天の声を聞く とか 啓示を受ける 等とニュアンス的には同じことなのでしょうかねえ・・・ -
早回りでサンタ・マリア・インマコラータ・コンチェツィオーネ教会 骸骨寺を見学して外に出て参りました。
おやっ! 階段の下にも、「無原罪の御宿り」のレリーフ発見。 -
教会のあるヴェネト通りは、かつては往年のフェリーニの名作「甘い生活」の舞台にもなった、流行とファッションの町でした。栄光の日々は過ぎ去りましたが、今はホテルや大使館、居心地の良いカフェがあることで知られています。素敵な並木道が続く、お散歩にはもってこいの道ですね。
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でも、私の足は全くの正反対へ向かいます。バルベリーニ家の本拠地を見ておかないとね。
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今日は月曜日。国立古典絵画館のあるバルベリーニ宮殿は月曜日が定休日であることは百も承知でしたが、とりあえず外側だけでもと潜入。
この土地は1625年にバルベリーニ家のマッフェオ・バルベリーニ(後のウルバヌス8世)が購入、カルロ・マデルノに宮殿の建築を依頼します。マデルノは1627年に彼の甥ボッロミニと共に仕事を始めるのですが、2年後に亡くなってしまいます。するとバルベリーニ家はボッロミニを通り越して、ベルニーニに仕事の引継ぎを依頼したのです。コミックなら、当然、目から火花が飛び散るシーン!!
ともあれ、二人がここで一緒に仕事をしたことは事実の様です。宮殿は1633年、ベルニーニによって無事完成しました。 -
1644年、バルベリーニ家の教皇ウルバヌス8世が亡くなると、グイド・レーニのところで触れた通り、宿敵のパンフィーリ家のジョヴァンニ(のちのインノケンティウス10世)が教皇となると、この宮殿はパンフィーリ家が押収。1653年まで返さなかったそうですよ。いやはや、公私混同も甚だしい方々ですねえ。
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このファサードはベルニーニ、ボッロミニのどちらがデザインしたのか分かりませんが、そんなに特徴あるデザインではありませんね。
中央にある、3匹の蜂の紋章が目立っている位のものです。 -
マデルノが亡くなった時に、もうすでに殆ど出来上がっていたというポルティコのアーチには カラヴァッジョの「ホルフェルネスの首を斬るユディット」(1599年)とラファエロの「ラ・フォルナリーナ」(1518〜1519年)のポスターがおいでおいでをしていましたが、近寄りませんでした。だって今日は見れないんですもの!
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今日見たいのは唯一つだけ。
ファサードから入ったポルティコにあるバルベリーニ・コレクションの彫像?・・・でもない!
階段です。 -
でも、その奥にあった黒い手摺の階段?・・・ではない!
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その先に広がる広大な庭園からこちらまで、馬に乗ったままで降りて来れるという長い階段?・・・でもない!
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諦めて帰ろうかなと思ったときに見つけましたよ!
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こちらの扉の先に、それはありました! ポルティコに近い右翼の扉です。
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ボッロミニによる楕円形の螺旋階段です。
さりげなく、しかし、ここにも蜂はいましたよ。柱頭のあたりに、止まっています。 -
この階段を写そうとすると、頑張ってもこんな写真しか撮れないのが哀しい・・・
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真っ直ぐに立つ2本ずつの柱が立ち並ぶ中を、絶妙なカーヴのスパイラルを描く優美な階段です。余計な飾りが一切なくて、真にシンプルなのに奥深い。ただただうっとり・・・
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太陽が真上にいて、光が入りすぎるので、楕円形のトップライトを写せなかったのが非常に残念です。
美しすぎる階段でした。
左翼には、ベルニーニの四角い階段があったのですが、見る前から勝敗がついていたので、今回はスキップしました。
今回この階段一つだけでしたが、バルベリーニ宮殿でのボッロミニの仕事ぶりが確認できて良かったです。 -
バルベリーニ宮殿での時間を削った理由は、こちらの教会にありました。昨日、日曜のミサのため入場できなかったサン・カルリーノ(カルロ)・アッレ・クアトロ・フォンターネ教会。ボッロミニが初めて単独で建てた教会の内部が見たくて、バルベリーニ宮殿前の坂をえっちらおっちら上って来たのです。
この教会は、スペインの三位一体修道会のために、教皇ウルバヌス8世の甥、フランチェスコ・バルベリーニの後援の下、修道院との複合建築の一部として建てられました。
しかし、バルベリーニ家からの財政支援は長くは続かず、プロジェクトはその後も様々な財政難に陥ります。そのあたりの事情については、過去の旅行記で触れていますので、興味のある方はお読みくださいね。
http://4travel.jp/travelogue/11045688 -
教会の内部は並外れて複雑です。入り口に立った時に、もう、すぐ前にこの主祭壇が臨めます。全体的に菱形の空間が広がっていますが、壁は列柱と曲線の連続で、真っ直ぐな部分が見当たりません。
主祭壇に向かって、左右の壁にも祭壇が設けられていて、入り口から3つの祭壇が見渡せるように設計されています。
壁の柱と柱の間にはニッチェがありましたが、彫像は一つも見当たりませんでした。 -
主祭壇は、上部が後陣の如く半ドーム形になっています。
祭壇画は、フランス人画家Pierre Mignard作で、絵の中心にいるのがこの教会が捧げるサン・カルロ・ボッロメオ。彼はミラノ司教だった人で、1576年のミラノにおけるペストの大流行の際には、私財をなげうって援助を行い、多くの人々の元に駆けつけて励まし続けました。
絵はサン・カルロと三位一体修道会の創始者達マーサのサン・ジョヴァンニとヴァロワのフェリーチェが三位一体を崇拝する場面です。 -
祭壇右から入口付近を撮った1枚です。口で説明するのは大変難しい構造ですが、ご覧の通り、左右共に入口、副祭壇、主祭壇の間に4本ずつの柱があり、その間の壁には、空のニッチェが3つずつ置かれています。右側に見えるのが副祭壇。その対角線上に、もう一つ副祭壇があります。
当初、ボッロミニはニッチェに彫像を置くつもりだったと思いますが、この教会の財政状況がそれを許さなかったのか、それとも現在修復中? -
主祭壇に向かって左側の副祭壇の祭壇画は、1847年に描かれたアマリア・デ・アンジェリスによる「聖ミカエル・デ・サンクティスのビジョン」。
聖ミカエル・デ・サンクティスはカタルーニャ生まれ、三位一体修道会出身の聖人です。 -
向かって右側の副祭壇の祭壇画は、「ファン・バウティスタ・デ・ラ・コンセプシオンの法悦」。彼は三位一体修道会の創立者の一人で、絵は1819年プロスペーロ・マッレリーニの作品です。
両副祭壇とも、祀られている二人が列聖した際に新しく描かれたものです。以前こちらにあったジョヴァンニ・ドメニコ・チェッリーニによる2点は、祭壇裏の回廊へと通じる廊下の壁へと移されていました。 -
なんといっても、この教会の最大の特徴は、このドームにあります。
中央には三位一体修道会のシンボルが置かれ、そこが一番眩しく光り輝くように見えます。ドームは、十字と六角形と八角形が複雑に組み合わさったパターンのスタッコで覆われています。上に行くほど図形は小さくなり、楕円形だから当然でしょうが、ある部分は少し歪んで見えます。 -
これこそが、ボッロミニの世界!
何人もの人が、口をぽかんと開けて天井を見つめています。そういう私も、勿論その一人です。 -
こちらは、教会に置いてあったパンフレットを写真に撮ったものです。光線の入り具合によっては、こんなに眩しい色に光り輝くのでしょうか?
いくら待ってみても、この黄金色にはならなかったので、掲載させていただきました。 -
内陣の左側にある、この教会のスポンサー バルベリーニ家の礼拝堂です。フランチェスコ・バルベリーニはウルバヌス8世の甥。彼は修道院と教会の建設費用を支払うと約束しましたが、教皇が1644年に亡くなると、それが果たせなくなりました。
天井には、ベルベリーニ家の三匹の蜂の紋章が中央に陣取っておりました。こちらの天井も直線のない、きわめて珍しい造りになっています。 -
バルベリーニ礼拝堂は現在、修道女エリザベッタ・カノーリ・モーラに捧げられています。彼女は三位一体修道会の修道女で、彼女の聖遺物は、祭壇下に安置されています。エリザベッタは1994年4月といいますから、つい20年前に教皇ヨハネ・パウロ2世により列福しました。
列聖と列福ですが、ローマ法王庁により詳細な調査により決定されるようです。最低一つの「奇跡」が必要という要件には驚かされました。但し殉教者はその限りではないようです。列聖は全世界的に祝われるということを除けば、両者の間に明確な違いはないようです。
祭壇画は、ジョバンニ・フランチェスコ・ロマネッリ作の「エジプトへの逃避」。差し迫った危機感は全く感じられない、のどかな場面設定になっていて、赤ん坊のキリストがとても可愛い! -
同じく、バルベリーニ礼拝堂のガラスの装飾。これも美しかった・・・
実は中央のトンド部分には、「修道士と修道女の崇拝を受ける聖母子のイコン」が飾られていたのですが、写真には写っていません。もしかしたら、そちらがメインだったかもしれません。 -
主祭壇の裏を通る順路に沿って進むと、今度はボッロミニの作った回廊に出ます。ここも大変狭くて、全体を撮るスペースがありません。
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1階、2階とも同じ位置に、2本ずつペアのドーリア式柱が全部で12本(1階、2階合計で24本)立っています。回廊は、長方形の頂点の部分をカットしたような形の広場を中心とした造りになっています。
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広場の中央には、八角形をした井戸が置かれていました。
日の光がさんさんと差し込む吹き抜けの明るい空間です。この壁のすぐ向こうが交通の激しい往来とは、写真だけでは想像できないと思います。ただ、この狭さだと、瞑想をしながら歩いても1分かからずに1周してしまいます。速足で歩いたら、目が回りそうで心配・・・ -
白い壁の部屋は古くは食堂refettorioでしたが、現在は聖具室となっています。こちらも、面取りをした長方形の形をしています。その面取りをしたコーナーには、6枚の羽根を持つ熾天使のスタッコ・レリーフがあります。
左側には祭壇があり、サン・カルリーノ・ボッロメオを描いた絵が飾られていました。 -
どこに行っても、ついつい天井に注目してしまいますね。
天井のスタッコ装飾も曲線が印象的です。 -
古い聖具室のそばにある鐘楼へと上る階段を逆に下っていくと、クリプト(地下聖堂)に出ます。
教会の真下にあるので、同じような内側に湾曲した菱形の形をしています。 -
真っ白に塗られた空間で、主祭壇と思しきもののほか、何もありません。ボッロミニはここに葬られたいと生前希望していたそうですが、彼が大罪を犯した、つまり「自殺」したために、その希望は叶わなかったと聞いています。
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主祭壇には、かなり傷んだ「磔」のフレスコ画が残っていました。18世紀の作品ですが、多分湿気にやられたのでしょう。
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床は煉瓦が敷き詰められています。どう考えても、ここは使われた形跡はありません。この教会は完成までに50年かかり、その建築中は、常に資金がひっ迫した状態でしたので、実際に祈りの場として使われる前に、お金の問題で、装飾作業が出来なかったように思われます。
こちらは、主祭壇と反対側の写真です。ご覧のように、どこも「未完成」です。 -
クリプトから、古い聖具室を通り抜け・・・
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後陣の後ろの廊下を通って、入口近くへと戻ります。教会のこの部分は古くからあった部分で、以前、副祭壇に飾られていた祭壇画はここに移動していました。
半分ちょん切れてしまいましたが、左が、「聖アニェーゼ(アグネス)、聖カタリナとともにいる聖家族」。右が「聖ウルスラ」Sant'Orsola。共にジョヴァンニ・ドメニコ・チェッリーニによる17世紀の作品です。 -
この廊下部分だけ、妙に生活感のある空間となっています。半円形部分に描かれたフレスコ画には、何の説明もありませんでしたが、教皇に謹んで手紙を渡そうとしている男性の姿が描かれています。
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反対側の半円形部分・・・隠者でしょうか?
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この使い込んだ階段が妙に気になりました。かなりの年代もので、元々ボッロミニが作った教会と修道院の複合建築の見取り図にも描かれています。幅が狭く、一段が高くて上り難そうな階段の手すりは、うねるようにカーヴしながら、2階へと続いています。
もしかして、これもボッロミニ? などと想像しながら上ってみたい衝動を抑えるのに必死でした。 -
ボッロミニが描いたというオリジナルの建築プランの図。こちらもパンフレットを写した1枚です。
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最後にもう一度ドームを仰ぎます。昨日の日曜日、ミサで入れなかったものの、今日は十分時間をとって見ることが出来てラッキー!!でした。
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バロックの奇才と呼ばれるボッロミニですが、バロックと言う様式にとらわれない、独自の様式を持っていると思っています。
心の病を抱え、自分に満足できないまま、最後は自殺してしまった孤独な建築家は、彼にしか表現できない世界を極めることが出来た人でした。
その彼の世界を垣間見ることができて大いに満足 ルンルンです。こんなに楽しくていいのかなあ〜
この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その26 ローマ ポポロ広場への道 で。
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