2015/05/11 - 2015/05/11
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junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
午後の一番暑い時間帯にサン・ピエトロに到着。入場を待つ長い行列に一瞬げんなりしましたが、列は割とすいすい進みます。ブラジル人で、今はフランスの修道院にいるという修道女さんと片言のスペイン語で会話を楽しみました。聖職者でも行列に並ぶ必要があるのかと尋ねたら、「誰にでも公平に」なのだそうです。ふむふむ・・・
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
サン・ピエトロに入場するための列から撮った写真なので、イマイチのアングルです。
えっ いつもイマイチだって? はい。おっしゃる通りです・・・ -
今回のたびで、私が見た8本目のオベリスクは、その名もズバリ、オベリスコ・ヴァティカノ。高さ25.36m、土台と頂の十字架を入れると41mあります。ラテラーノ広場の物に次いでローマで2番目の高さを誇ります。このオベリスクだけは、一度も地下に埋もれたことはなく、常に「立っていた」のだそうですよ。
元々は紀元前1992年〜1985年頃、エジプトのヘリオポリスで作られたもののようです。紀元前40年ごろ、アウグストゥス治世下のアレキサンドリアの知事コーネリアス・ガルスによって、アレクサンドリアのフォロ・ルリウムIuliumに立てられましたが、どうもその組み立て中に2つに折れたみたいです。元々は52.5mもあったんですって。 -
今、見ているのは、その時の上部のオベリスクです。37年頃、エジプト産レンズマメをバラストにした大きな船に乗せられて、ローマに運ばれてきました。オベリスクは、ヴァティカンの丘そばの第3代カリグラ帝の私的な広場ヒッポドロームの中央に、アウグストゥスとティベリウスに捧げる碑文と共に置かれました。
オベリスクの根元にあるブロンズ製の4頭のライオンは、1580年から1592年にかけてブレシアーノにより追加されたものです。
このオベリスク、たった一度、移動したことがあるそうです。シクストゥス5世の時代の1585年、ドメニコ・フォンターナが40の巨大なウインチ、907人の人間と75頭の馬を使って、13か月かけて、広場の中央へ移動させたそうです。なにせ重量290トンですからねえ。 -
逆光で、ファサードがまともに撮れているのがありませんので、なにとぞご容赦を。
現在のファサードは、1607年〜1614年にかけて、お馴染みカルロ・マデルノにより作られたもので、幅は117.7m、高さは45.5mあります。中央の2本の柱はアフリカ産の大理石で、古い聖堂でも使われていたものです。この2本の柱は教会のシンボル、ピエトロとパオロを表すと考えられていたようです。
新しく選ばれた教皇は、あの2本の柱の間に位置する2階のバルコニーから、聴衆に向かって手を振るんでしたね。
屋根の上には、キリストを中心に11人の使徒と洗礼者聖ヨハネの彫像が並んでいます。 -
修道女さんとおしゃべりを楽しんだおかげで、案外早く入場することが出来ました。多分20分は並ばなかったと思います。
こちらはマデルノが1612年に完成させたポルティコです。豪華絢爛なスタッコのヴォールトには、ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチ・ダ・ノバラがデザインしたピエトロの生涯の場面を描いた32個のレリーフパネルが嵌め込まれています。
また壁際には、初期の教皇により聖人とされた31人の彫像が並んでいます。 -
1枚しか撮っていない扉は、何故か中央の一番格式のある扉ではなく、一番右の1950年の聖年に合わせて作られた「聖なる扉」でした。トホホ・・・
扉には16枚の新旧聖書からのパネルと、その間に、これまで26回祝われてきた聖年に聖なる扉を開けた教皇の紋章が彫られています。紋章のパネルは全部で36個分ありますので、下の列はまだ2つしか使われていません。
扉の周りのピンク色の大理石は、ギリシャのキオス島産。珍しい色で大変美しいです。 -
中に入りましたよ。わあ〜大きい! やはり圧倒的な広さを感じます。
大聖堂の内部は三廊式。身廊を中心に、マデルノの時代には側廊にそれぞれ3つずつ礼拝堂があったはずですが、現在は小さな礼拝堂が後付で作られた結果、数えるのが困難になってしまいました。
エンタブラチュアに延々と書かれている福音書からの碑文は、全てモザイクだそうです。大聖堂は、フレスコや油絵を可能な限り排除して、耐久性のあるモザイクに変えているんですって。今まで気が付かなかった私の目は節穴か?
壁柱のプットが支えているトンドの中には、初期の教皇の肖像がレリーフで彫られていました。33年の初代教皇ピエトロから、575年に即位したベネディクトゥス1世までの教皇56名だそうです。なぜ56名なのかは??? -
身廊のニッチェに祀られている「創設者の彫像」Statue di Fondatoriは39。翼廊や階上廊のものを合わせればとてつもなく多い数になるので、ここでは作者と作られた年、作品名のみ書いていきますね。
身廊内低い位置にあったニッチェの彫像から好みの像を撮りました。高い位置にある彫像は、どうしても足が短く写ってしまうので、今回オミットしました。
「アヴィラの聖テレサ」1754年 フィリッポ・デッラ・ヴァッレ Filippo Della Valle 。 -
「聖ヴァンサン・ド・ポール」1754年 ピエトロ・ブラッチ Pietro Bracci。
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「聖フィリッポ・ネリ」1737年 ジョヴァンニ・バッティスタ・マイニG.B. Maini 。この人の彫刻は、サン・タンドレア・デッレ・フラッテ教会のマリアの母アンナに捧げられた礼拝堂で見ましたよ。
http://4travel.jp/travelogue/11046463 -
この教会の主、サン・ピエトロの像は1296年から98年頃のアルノルフォ・カンビオの作とされています。いつもながら、天国の鍵を大事そうに握りしめています。彼の足は、毎日の巡礼者や来訪者に触られ、キスをされて銀色に光っていますね。
大理石の玉座は、1757年に作られたものです。 -
「聖イグナチオ・デ・ロヨラ」ご存知イエスズ会の創立者の一人です。1733年 カミッロ・ルスコーニCamillo Rusconi。最期に仕上げたのは、彼の弟子のジュゼッペ・ルスコーニ。同じ苗字ですが、親戚ではないそうです。
踏んづけられているのはだあれ? -
「聖カミロ・デ・レリス」1753年 ピエトロ・パチッリ Pietro Pacilli。
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「アルカンターラの聖ペドロ」 1753年 フランシスコ・ヴェルガーラ・イ・バルトゥアル。
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「聖ジュリアナ・ファルコンニエリ」1740年 ピエトロ・パオロ・カンピPietro Paolo Campi。
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「神のヨハネス(または聖フアン・デ・ディオス)」1745年 フィリッポ・デッラ・ヴァッレFilippo Della Valle 。
最後の二人はまるっきり存じ上げないのですが、日本語版ウィキペディアがあってちょっとびっくり! -
ニッチェの写真を撮っている最中に見つけた、大変キュートな聖水盤。プット達のあまりの可愛らしさに、別々の方向から2枚撮ってしまいました。1722年〜1725年にかけての作品。
右側は、ジョヴァンニ・バッティスタ・デ・ロッシの作。悪戯っ子と言う顔をしています。 -
左側はただただ、愛くるしい。フランチェスコ・モデラティの作品。
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身廊から聖域に近づいて参りました。こちらは中央のドームを支えるとてつもなく大きなアーチ状の4本の柱の1本ですが、確か祭壇の手前にあったものだったと思います。
設計はベルニーニ。4つの柱ともに、同じ装飾が施されていました。各面とも飾り柱の間に2つずつのニッチェがあり、聖人像が置かれていました。 -
こちらも、祭壇手前の柱。両方のアーチの中に、オルガンが見えますね。
そして、柱がドームに面している壁 つまり中央の祭壇を向いている側には、それぞれに、ウルバヌス8世(在位 1623年〜1644年)が1643年に特別にオーダーした彫像が置かれています。
彫像は、サン・ピエトロが保管する第一級の聖遺物、聖ロンギヌスの聖槍の一部、真の十字架、聖アンデレの頭蓋骨、聖ヴェロニカのベールが関係する人物です。 -
まずはこちらの「聖ロンギヌス」。1635年〜1638年にかけて作られたベルニーニ自身による彫像です。
wikipediaによると、聖ロンギヌスは、ローマ帝国の百卒長で、キリストがゴルゴタの丘で磔になった際に、生死を確かめるためにその左脇腹に槍を突き刺したと言われる人。どうしてそのような人が聖人になったかと言うと、脇腹を槍で刺した際にキリストの血が眼に入り、不自由だった視力を取り戻した事から改心し、洗礼を受けたからだというのです。どう考えても、聖人とは思えない輩だし、目の不自由な人が百卒長を務めるのもおかしな話ですよねえ。
聖ロンギヌスについて、「キリストの神性の啓示によって光を与えられた偉大なる罪人」と形容する学者もいるそうです。わっからねえ〜! -
そして、こちらは、真の十字架を見つけた聖ヘレナ。コンスタンティヌス帝の母です。伝説によれば、へレナは320年頃ゴルゴダに巡礼に行き、キリストが磔になった十字架を見つけ出した人物です。
彫像は1629年〜1639年にかけて、アンドレア・ボルギ Andrea Bolgiにより作られました。 -
3番目の聖アンデレ。X型の十字架にかけられて殉教した、ピエトロの兄弟です。ピエトロとアンデレは共に漁師で、二人が漁をしているときにキリストに声をかけられ、弟子になったという伝説が残っていますね。
彫像は、フランドル生まれのフランソワ・ドゥケノワFrançois Duquesnoy。こちらも1626年〜1639年の間の作品です。 -
お終いは、聖ヴェロニカ。ゴルゴダの丘に向かうキリストに、汗をぬぐうようヴェールを差し出したエルサレムのご婦人です。フランチェスコ・モキの作品で、年代はやはり1629年から1639年とされています。
4つの聖遺物は、聖週間(聖枝祭から復活祭の前日までの一週間を指す)の間、
4つの彫像の上にあるバルコニーに掲げられますが、普段はヴェロニカの像の中にある「金庫」に保管されているのだそうです。 -
サン・ピエトロの建設は、1452年、教皇ニコラウス5世(在位 1447年〜1455年)の命によるものですが、実際に工事が開始されたのは1506年、教皇ユリウス2世(在位 1503年〜1513年)の治世下、ドナーテ・ブラマンテの設計によるものでした。しかし、彼は以前の聖堂の翼廊を壊した後、図面や資料等を残さないまま、たくさんの作品を廃棄。そして隣の教皇の宮殿工事にかかりっきりとなり、聖堂に関しては進捗を見ないまま1514年に亡くなってしまいます。彼のやったことを「犯罪だ!」と非難する学者もいますよ。
ミケランジェロが仕事を前任者のアントニオ・ダ・サンガッロから引き継いだのは1543年のこと。彼はそれから1564年に亡くなるまで、ずっとプロジェクトの中心を担いました。ブラマンテが計画していたギリシャ十字型聖堂を単純化したプランを採用したミケランジェロは、現在の大聖堂の主要な部分の建設に取り組みました。
前置きが長くなりましたが、そのミケランジェロが作り上げたのがこのドーム。前述のとてつもなく大きな、4本のアーチ状の柱に支えられています。 -
正確に言えば、ドームはミケランジェロによって設計され、1593年頃にジャコモ・デッラ・ポルタとドメニコ・フォンターナによって完成しました。ミケランジェロの意図したとおりにドームは完成しましたが、楕円形としたのはデッラ・ポルタです。
ドームの内側表面には、1600年の聖年に間に合うよう、モザイクが施される予定でしたが間に合わず、カヴァリエレ・ダルピーノが完成させたのは1613年のことです。 -
16枚のリブには、天使、大天使、6枚の白い羽を持つ「熾天使」、6枚の青と白の羽根を持つ「智天使」、キリスト、洗礼者ヨハネ、聖母、12使徒、そして総大司教や司教達総勢96名が登場します。テーマはズバリ、「聖なる天界」。
ドームの四隅には、大きなトンドの中に4人の福音記者たちのモザイクの肖像がありました。聖ルカと聖ヨハネは、ジョヴァンニ・デ・ベッキ、聖マルコと聖マタイはチェーザレ。ネッビアとパオロ・ロゼッティによるものです。 -
そして、そのドームの真下にあるのが、この大きな青銅製の大天蓋です。
大天蓋は、1624年〜1636年にかけて、ウルバヌス8世の命を受けた、ベルニーニが設計、制作しました。まだ弱冠25歳だったベルニーニにとっては、最初の大仕事となりました。高さ29m、重量93tあり、世界一の大きさを誇ります。 -
ソロモンの神殿を思い起こさせる4本の柱は12回ねじれており、これは古い聖堂の12使徒を祀る礼拝堂に使われていた円柱を再現したものだと言われています。但し、古い円柱はブドウの葉で飾られていましたが、ベルニーニは下部を溝付きに彫り、残りの部分にはオリーヴの葉を金箔であしらっています。
よくよく見ると、ウルバヌス8世の紋章、蜂がどこかに飛んでいるらしいのですが、私は気が付きませんでした。
台座の白い大理石には、勿論蜂の紋章がいやでも目につきましたけれど・・・ -
あっ天井付近に蜂が止まっていましたよ!
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写真を見直すと、あちこち蜂だらけでした! 太陽の顔もありますね。
大天蓋の上は、金の羽根をつけた天使達のステージです。 -
主祭壇は、パロス島産の白大理石製。1594年、ネルヴァのフォロにあったミネルヴァの神殿から「頂いて」きた物です。この祭壇でミサを行えるのは教皇のみです。
この大天蓋の真下のコンフェッシオに、初代教皇そして、この教会が捧げられているピエトロが眠っています。 -
大天蓋の天井を(ヴォールト)を飾るステンドグラスは栄光の「聖霊のハト」を表しています。ジョヴァンニ・パオロ・ショールのオリジナルデザインですが、今見えているのは、1911年ドイツのガラスメーカー ハーゲルHagelから寄贈されたものです。
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そして、大天蓋の奥に見えるのが・・・
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後陣です。
光が強すぎて、聖霊のハトが見えませんが、先ほど見た大天蓋のヴォールトのハトと同じハーゲルからの寄贈品のステンドグラスが中央で輝いているはずです。オリジナルは、ジョヴァンニ・パオロ・ショール。
その下に見える「ピエトロの司教座」と、ステンドグラスを取り囲むレリーフは、教皇アレキサンデル7世 (在位 1655年〜1667年)時代のベルニーニの傑作。
聖ピエトロが、初代教皇(在位33?年〜 67?年)としてこの司教座を使用したという誤った伝説がまかり通っていますが、これは9世紀、西フランク王シャルル2世が教会に寄付したという説が有力です。何度も手を加えられている司教座は、まるで空中に浮いているように見えます。台座はフランス製の黒と白の大理石から作られています。教皇の彫像は左パウルス3世 (在位 1534年〜1549年)、右ウルバヌス8世(在位 1623年〜1644年)。実質的な工事を始めた教皇と完成させた教皇ということでしょうか?
背後のレリーフは、遠めなのでよく見えませんでしたが、「キリストがピエトロに教会を委託する」場面、「天国の鍵を渡す」場面、「キリストがピエトロの足を洗う」場面から成っているそうです。このレリーフを完成させるのに、ベルニーニは35人以上の彫刻家の手助けを受けたとか。 -
天井の半円形部分は、ルイジ・ヴァンヴィテッリによる金メッキのスタッコで飾られていて、中に3つの大きなトンドが見えます。こちらは前述のジョヴァンニ・バッティスタ・マイニによる「聖ピエトロと聖パオロの物語」が嵌め込まれています。
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お次は、駆け足で、翼廊の礼拝堂廻りに参りましょう。
まずは、聖なる扉の上にあるモザイク「聖ピエトロ」。1675年。チーロ・フェッリの作と言われています。 -
最初の礼拝堂、ピエタの礼拝堂です。一番見たかった場所に来てしまいました。お久しぶりです! 作られたのは1488年〜89年にかけてということですので、なんと!ミケランジェロ23歳の時の作品です。彫像の台座はボッロミニ作ですよ!
以前は合唱隊のための礼拝堂に置かれていましたが、1749年ここに移されました。1971年に精神障害のある男にハンマーで襲われて以来、防弾ガラスの中での展示となりました。 -
犯人の男性は、「私はイエス・キリストだ! 今死から蘇ったのだ! 」と叫びながら、制止されるまで15回彫像を叩いたそうです。余計なことですが、彼は2年間病院に拘束された後、オーストラリアに行き、今もそこで生活しているそうですよ。
もう一つ面白い話を聞きました。ミケランジェロがこの像を仕上げた時、彼があまりにも若いために、本当に彼が作ったのかと疑いのまなざしを向ける輩が大勢いたのだそうです。そのため、ミケランジェロはある夜聖堂に忍び込み、聖母の右手にMと署名を残したのだそう。これは、彼の生涯で唯一の署名だと言われています。本当の話かしら??
彫刻の説明は一切不要ですね。これを見ただけで満足で、一瞬帰ろうかなと思いました。 -
サン・ピエトロでは床に目がいかなかったなあ・・・と今更ながら後悔。
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通路上のモニュメントから、スウェーデンの女王クリスティーナ(1626年〜1689年)の記念碑。彼女はわずか6歳の時にスウェーデンの女王に即位しましたが、女王の生活になじめず、結婚を拒否し、密かにカトリックに宗旨替えします。後年女王を自ら退位し、亡くなるまでローマで生活しました。彼女の墓は、聖堂内のクリプトにあります。
そういえば、先ほど見たポポロ門に、彼女のローマ訪問を歓迎する碑文が書かれていたような記憶・・・ -
右翼廊2番目の聖セバスティアーノの礼拝堂です。
祭壇画は「聖セバスティアーノの死」のモザイク。オリジナルは1614年、ドメニコ・ザンピエーリ通称ドメニキーノのフレスコ画です。
左手にある黒っぽい像は、 20世紀の作品。教皇ピウス12世(在位 1939年〜1958年)のモニュメントです。1961年〜64年。フランチェスコ・メッシーナ作。 -
ご覧のように、サン・ピエトロで所蔵する絵は殆どがモザイク化されているようです。いつ、また「自分はイエスだ! 生まれ変わった!」と言って侵入する輩が出ないとも限りませんからね。
オリジナルのフレスコ画は現在サンタ・マリア・デッリ・アンジェリにあります。そうそう、デッリ・アンジェリではミケランジェロの後を継いだヴァンヴィテッリが、バチカンから譲り受ける絵画のために礼拝堂をこしらえたんでしたね。
http://4travel.jp/travelogue/11043515 -
ベルニーニ作の「カノッサの伯爵マチルダ」の記念碑。1634年〜1637年。
4人の天使たちは、天使の中では熾天使に次ぐ階級の「智天使」と呼ばれているそうです。いわゆる日本語で言う「キューピーさん」。元々のケルビム(智天使)は人面時には獣面のこともある翼を持つ超人的存在で、怖くて近くに寄りたくない感じ。全くイメージが異なるのですが・・・
マチルダは1046年生まれ。北ローマのラツィオから北イタリアのガルダ湖までの領土を支配した人物で、ドイツ皇帝ヘンリー四世に対する叙任論争で、教皇グレゴリウス7世を支援したことで知られているそうです。 -
3番目の聖体拝領に捧げる礼拝堂の前面にあったドームです。ドームのモザイクがとても美しかったので1枚。
ピエトロ・ダ・コルトーナのモザイクです。1652年〜62年。題名がものすごく長いので、訳してみたけれど、さっぱりわからん!
聞きたいですか? えっ聞きたくない。 まあ、そうおっしゃらずに!
「天使たちによってお香、聖人達によって香ばしいアロマを振りかけられた、聖体拝領の犠牲の象徴としての、燔祭のための黄金色をした中央祭壇のある黙示録の場面」。なんじゃこれは???やっぱり聞きたくなかったでしょう。 -
聖餐の礼拝堂。
この礼拝堂は、信者オンリーで、入場することが出来なかったのですが、注目は入り口の錬鉄製のゲート。目立たないので、もう少しで見逃すところでした。ボッロミニの1629年〜30年にかけての作品です。中央にはウルバヌス8世の蜂が止まっていましたよ! -
グレゴリウス13世 (在位 1572年〜1585年)のモニュメント。左右の寓話像は左が法と福音書のタブレットを携えた「宗教」で、こちらは面白くもなんともないのですが、右はちょっと変わっていますよ。ミネルバの扮装をした「不屈の精神」・・・どうしてローマの神がここに? おまけに、棺の下から羽の生えたガイゴールのような怪物がはい出してきて、上の様子を伺っていますよ。
グレゴリウス13世は1582年にユリウス暦を廃止し、現在世界中で使われているグレゴリオ暦を採用した人。石棺には新暦の採用をテーマにしたレリーフが彫られていて、ミネルバはそのレリーフが良く見えるよう、垂れ下がったドレープを右手で持ち上げているように見えます。蛇足ですが、グレゴリオ暦により、1582年の10月4日は10日と11分14秒一挙に進んで10月15日になったそうですよ。ご存知でした?
1720年〜23年 カミッロ・ルスコーニ Camillo Rusconi。 -
現在地から入り口方面を写した1枚。カウンターファサード(入り口側の壁)にピエトロのモザイクが見えますね。
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前述のグレゴリウス13世に捧げられた礼拝堂です。この礼拝堂は、1561年にミケランジェロにより工事が始められ、1583年にジャコモ・デッラ・ポルタが完成させました。新聖堂になって初めて礼拝に使われた、そして最初にモザイクが施された礼拝堂でもあります。
祭壇には11世紀の絵画は救いの聖母「マドンナ・デル・ソッコルソ」。古い聖堂時代に最も愛され、崇拝された聖母なのだそうです。 -
「聖ジェロームの聖体」。ドメニコ・ザンピエーリ通称ドメニキーノの作品を1730年にピエトロ・パオロ・クリストファーリがモザイク化したものです。オリジナルは現在ヴァチカン美術館にあります。
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「グレゴリウス16世(在位 1831年〜1846年)の墓」1854年。ルイジ・アミチLuigi Amici。二人の寓話像は知性と思慮分別。脇の2本の柱は、昨日行ったコロッセオ近くのローマの女神神殿からの略奪品で、エジプト産の灰色がかった大理石が使われています。
グレゴリウス13世の物と比べると、おとなしくて目立たない感じです。 -
右翼廊への通路にあったベネディクトゥス14世(在位1740年〜1758年)の墓。1769年。ピエトロ・バラッチ Pietro Bracci 。ウィキペディアによると、ベネディクトゥス14世が最終的に選ばれたコンクラーベは難航し、6か月もかかったとか。その席上、彼は名言を吐いています。「聖人がいいなら○○を、政治家がいいなら○○を選ぶといい。だが誠実な男を選びたければ私に票を入れてほしい。」
本当に誠実な教皇だったようで、墓の下にいる二人の寓話像は、左が「聖なる知恵」、右は「無関心」。天使が提供しようとしている富に全く関心を示していません。 -
右翼廊です。サン・ピエトロの翼廊は左右とも、同じデザインに設計されています。同じような半円形の後陣とギザギザの列柱を持つ祭壇が3つ並んでいます。ここは割愛しました。
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今回、サン・ピエトロで撮った数少ない床の写真です。大聖堂のマンホールとでも言うべきですかね。美しいデザインです。
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右奥の聖ミカエルの礼拝堂に行く通路上にあった「クレメンス13世(在位1758年〜1769年)のモニュメント」。1784年〜92年。アントニオ・カノーヴァAntonio Canova。
左右の寓話像は、左「宗教」、右「死の天才」。寓話像の下には2頭のライオンが寝そべっていますが、こちらも意味があって、左は力を緩和する「柔和」、右は眠ることのない「強い力」を表しているのだそう。どこからそう読み取るのか、見ただけでは分かりませんね。 -
翼廊の一番左の隅にある礼拝堂は、柱に描かれた中世の聖母のイコンに捧げられています。とても小さなものなので気が付かなかったのですが、どうやら写真左端に小さく写っているみたいです。
正面のレリーフは、レオ・ザ・グレートと呼ばれるレオ1世(在位 440年〜461年)の「レオ1世、アッティラ・ザ・フンに会う」。アレッサンドロ・アルガルディの傑作です。祭壇の周りの装飾はボッロミニ。彼の個性が見え隠れしていますよ。
レオ1世の遺骸は、初めから埋葬されていたバチカン内の洞窟の中で、1607年に無傷で発見されたそうです。 -
礼拝堂内にあって、ひときわ目に付くのが、ベルニーニ作のキージ家出身「アレクサンデル7世の墓」。1671年〜1678年。教皇の甥枢機卿フラビオ・キージの依頼によるものです。
石を見ただけでも、唸りたくなるような、豪華なものをふんだんに使用しています。これは聖堂内でのベルニーニの最後の作品。跪いている教皇の足元左には「正義」と「思慮分別」の寓話像。右には「慈愛」と「真実」。このうちベルニーニ自身が作ったのは一番右に見える「正義」だけです。
赤と白が混ざったシシリア産碧玉の中から、今にも出てきそうな、砂時計を持った黒い骸骨は一体何を表すのでしょう? -
左翼廊です。ここは、まだミケランジェロが生きていた時代に完成をみた聖堂の一番最初の部分です。この翼廊のレイアウトは、1558年頃に行われており、多少の変更はあったものの、その後の聖堂全体の装飾のモデルとされてきました。
中央の祭壇画(モザイク)は、幼子キリストを抱く聖ヨセフ。1962年 アキッレ・フーニ。右側は「トマスを疑え」。オリジナルはヴィンチェンツォ・カムッチーニ。 -
クレメンスの礼拝堂への通路にあったこちらのモザイクは、「アナニアとサッピラの処罰」。私物は売り払い、全てを共有していた初期のキリスト教信者たちの中に、その一部を自分たちのために隠した夫婦がいて、たちまち神の罰が下ったという聖書から採った話がテーマになっています。
オリジナルは1606年、クリストフォロ・ロンカッリ通称ポマランチアの作品。 -
同じく「ピウス8世(在位 1829年〜1830年)のモニュメント」1829年〜1830年。ピエトロ・テネラーニの作品。下のニッチェにある寓話像左「正義」、右「思慮分別」も同じテネラーニ作です。中央の扉の奥は聖具室になっていました。
ピウス8世は、教皇の縁故主義を廃止したいとして、ヴァチカンの秘密組織や活動をおおっぴらに非難しました。彼が即位から20か月後に急病で亡くなった時、人々は毒殺ではないかと噂したそうです。 -
クレメンティーナの礼拝堂
1592年から1605年にかけて、ジャコモ・デッラ・ポルタがクレメンス8世(在位 1592年〜1605年)のために設計しました。
こちらは、「偉大なるグレゴリウス1世(在位590年〜604年)の奇跡」のモザイク。オリジナルはアンドレア・サッキの1625年〜27年の作品。彼は盛期バロックの代表的画家ですね。
モザイクは、殉教者の遺物を求めてコンスタンティノープルからやってきた皇帝の使者を描いています。グレゴリウス1世は彼らにコロッセオで採取した砂を提供したため、使者は皇帝に対して失礼な!と怒っています。そこで教皇が砂の入った袋を絞ってみせると、袋から殉教者の血が流れだしたのです。
多分、教皇は手品が得意だったに違いありません。
半分欠けてしまいましたが、画面下にあるのがグレゴリウス1世の墓です。 -
同じくクレメンティーナの礼拝堂にあった「ピウス7世(在位 1800年〜1823年)の墓」巨大なネオクラシック様式の墓です。上部にいる寓話像の天使は、左が「歴史」、右が「時間」。前面の大きな彫像は、左が「神の力」、右が「天の知恵」。1800年〜1823年にかけて、枢機卿エルコーレ・コンサルビのために、ベルテル・トルバルセンが制作しました。
トルバルセンはデンマークの彫刻家。多分サン・ピエトロで働いた唯一のプロテスタントだと言われています。右の「天の知恵」の手のしぐさがプロテスタントっぽいと、「批判」を浴びたのだそうですよ。 -
クレメンス8世の紋章が入った床のモザイク発見!
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「キリストの変容の祭壇」
こちらも、楽しみにしてきたサン・ピエトロの見どころの一つ、こちらはモザイク画ですが、オリジナルはラファエロの「キリストの変容」です。彼は完成前に亡くなっているため、彼自身の筆によるのは、上部のキリストとモーゼ、エリヤの部分のみ。後の部分は彼の筆遣いを詳しく知っている弟子たちが描いたものです。
オリジナルはヴァチカン美術館にあります。このモザイクは、出来が悪いことで有名?らしいので、やはり本物を見た方が良いと思います。 -
「キリストの変容の祭壇」遠景です。
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「レオ11世(在位 1605年)のモニュメント」メディチ家出身の教皇であることを、頭上の紋章が教えてくれます。1634年〜1644年。アレッサンドロ・アルガルディが教皇の甥、枢機卿ロベルト・ウバルディーニのために制作しました。この教皇、わずか26日間しか教皇の座につかず、亡くなってしまいました。これでも最短ではなく、一番短い在位期間の教皇はウルバヌス7世の13日(在位 1590年9月15日〜9月27日)。話が逸れました・・・
寓話像は左が「寛大」、右が「公平無私」を表しています。 -
続いて、「インノケンティウス11世(在位 1676年〜1689年)のモニュメント」
設計は1697年〜1701年 カルロ・マラッタCarlo Maratta、制作はピエールーエティエンヌ・モンノPierre-Étienne Monnotと言われています。寓話像は「正義」と「宗教」。
実は、このモニュメント、以前は聖セバスティアーノの礼拝堂に置かれていましたが、日本でもなじみのある教皇ヨハネ・パウロ2世のモニュメントが置かれたために、「追い出されて」来たそうですよ。大聖堂と言えど、広さに限界があるわけですから、そのうち満杯になることは目に見えていますね。 -
左側廊入り口に近い通路にあったドームです。「音楽を通じて神の栄光に捧げるドーム」なのだそうです。
モザイクのタイトルはまた長いですよ。「永遠の神の玉座をとり囲み、あがめている天使達、選ばれし者達、4頭の獣たちがいる黙示録のヴィジョン」。わからなかったような、わからなかったような・・・
スパンドラルのモザイクは、ジョゼッペ・コンティによる「神の栄光の4人の歌い手」。 -
「合唱隊の礼拝堂」
旧大聖堂の時代、この辺りには、1477年に教皇シクストゥス4世(在位 1471年〜1484年)が作り、ピエトロ・ペルジーノの絵で飾られたシスティーナ礼拝堂があったことで知られていました。現在の礼拝堂はカルロ・マデルノの作。
祭壇の聖母の像は、ピウス9世(在位 1846年〜1878年)による「無原罪のお宿りの教義の公布」の際に戴冠したそうです。これも無宗教の凡人にはなかなか意味が理解できない部分ではありますが、聖母は、神の恵みの特別なはからいにより、原罪の汚れを存在の初めから一切受けていなかったとする、カトリック教会における教義なのです。これを公式に宣言したのが1854年。
その時、絵には王冠が加えられ、さらに1904年、裕福な女性達から成る国際委員会が、9つのダイヤモンドで作られた☆を寄贈したんですって。 -
壁面には、バルトロメオ・デ・ロッシとジョヴァンニ・バッティスタ・ソーリによる美しい合唱隊の席がずらりと並んでいます。
オルガンは、1626年製ですが、ドイツのルートヴィヒスブルクにあるオルガン・メーカーWalcker-Orgelbauにより、リメークされています。 -
反対側の壁もご覧の通り。音色を聴いてみたくなりました。
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「イノケンティウス8世(在位 1484年〜1492年)の墓」は1498年、アントニオ・ベンチによるものです。教皇の甥機卿ロレンツォ・チーボのために制作しました。この教皇はウィキペディアによると良い噂を聞きません。魔女狩り、異端審問、聖職売買、そして親族登用に派手な女性関係・・・
にもかかわらず、寓話像は左に「正義」と「不屈」、右に「節制」と「思慮分別」。とても凝った造りです。こんなもの信じちゃあいけませんね。 -
「聖母の神殿でのお披露目の礼拝堂」。「聖母のプレゼンテーション」は日本語では「生神女進堂祭」となるそうですが、こんな言葉聞いたことありません。しょうしんじょしんどうさい…舌を噛みそうですね。
祭壇画のマリアは三歳児くらいに見えますね。オリジナルは1642年、ジョヴァンニ・フランチェスコ・ロマネッリの作品で、現在ミラノサン・マルコ教会の所蔵です。
左の彫像は、「ベネディクトゥス15世(在位 1914年〜1922年)のモニュメント」。ピエトロ・カノニカの1928年の作品です。設計はヴァチカン美術館の絵画館ピナコテーカを作った建築家のルカ・ベルトラミ。 -
同じ礼拝堂の祭壇右には、「ヨハネ23世(在位 1958年〜1963年)のモニュメント」。黒い浅浮彫で目立ちませんが、彼の教皇在位時代の一場面を再現しています。エミリオ・グレコの作品。地味ですが、教皇の表現がとてもユニークで気にいりました。
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こちらも同じ礼拝堂の床で見つけましたよ。ヨハネ・パウロ2世(在位 1978年〜2005年)の紋章です。彼の治世下に行われた、1998年の聖堂床の大規模修繕の際に作られたものだそうです。
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入口に一番近い通路にあったのは、「最後のスチュワート王朝のモニュメント」カトリックのイギリス国王ジェームズ2世を退位させた、いわゆる名誉革命後、追放された王室の記念碑です。これまた、カトリック対プロテスタントの争いですね。最期のカトリック王朝の王子たちジェームス3世(ジェームス2世の息子)、アルバニー伯チャールズ・エドワード(孫)、司教フラスカーティ(孫)の3人のポートレートが浅浮彫で描かれています。イングランドのジョージ5世(ウインザー朝初代)のために、1817年〜19年にかけてアントニオ・カノーヴァが制作しました。
残念ながら歴史に(も)疎く、スチュアート朝のこともウインザー朝のこともよくわかりませんが、カノーヴァのモニュメントは、大変斬新。下方にいる墓を守る羽の生えた二人は天使ではなく、「死のジェニイGenii」と呼ばれるローマ神話上の創造物だそうです。 -
ボケていますが、ご容赦を。こちらは洗礼堂です。中央に置かれたブロンズメッキの「三位一体とアニュス・デイ」はカルロ・フォンターナの作品。赤エジプト斑岩の「石棺」はおそらくハドリアヌス帝のために作られたものだったようですが、後に神聖ローマ皇帝オットー2世の墓として用いられ、1697年以来ここに安置されています。
中央のモザイクは、「キリストの洗礼」。オリジナルは1696年〜98年にかけて 描かれたカルロ・マラッタの作品で、サンタ・マリア・デランジェリ・エ・デイ・マルティーリ聖堂にあります。 -
サン・ピエトロ大聖堂の見学はこれにて終了。これから長くて広い聖具室へと入ります。一瞬で雰囲気ががらりと変わるのが不思議。とびっきりのローマから普通のローマに戻ったみたい・・・なんのこっちゃ!?
聖具室は聖堂の南側にあり、古い教会サンタ・マリア・デッラ・フェッベの建物を利用しています。1784年にピウス6世の命により、カルロ・マルキオンニが建築しました。 -
内部には、聖堂に葬られている148人の教皇の名前のリストがありました。2005年のヨハネ・パウロ2世が最新です。次のベネディクト16世は2013年に生前退位なさったので、まだご存命ですよね。
今回何人の教皇の墓を紹介できたんだろう?? -
流石はヴァチカン。2001年の記憶は殆どなく、再訪というよりは初めてに近い新鮮な気持ちで歩き回ることが出来ました。
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お馴染みのヴァチカンのスイス衛兵隊の歴史は1506年から始まります。教皇領の警備が手薄になることを懼れたユリウス2世(在位 1503年〜1513年)が、初めて常備軍を創設したのです。当時勇猛果敢であることが知られていたスイスの傭兵部隊がその任務に採用されて以来500年以上経ちました。この派手な制服も16世紀に遡るのだそうですよ。、
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ヴァチカンのスタンプを期待する方は、こちらのポストにどうぞ。
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オベリスクのある広場に戻ってまいりました。284本のドーリア式の柱と88本の付け柱で囲まれた広場は楕円形に台形が2つくっついたような形をしていて、楕円形部分の一番長い部分は240mあります。
2001年には、そういえばクーポラに上って、高いところから広場を見下ろしたんでした。絶景を見る前に、同行した母が階段の途中でエンコして、「私はここで待っている」と言うので、「一方通行だからここは帰りに通らないよ。ゆっくりでいいからね。大丈夫だよ」と、なだめながら一歩ずつ上った苦労も蘇ってきました。 -
イチオシ
柱廊の先に、ポポロ門でも見たキージ家の紋章発見! ポポロ門の内側のベルニーニによる装飾の完成は1665年。サン・ピエトロ広場のベルニーニによる広場の完成は1667年。同じ時代なんですね。共にキージ家出身アレクサンデル7世の命によるものでした。
オベリスク ここから見ると一段とシャープに、空を切り裂いているかのように見えます。 -
最後にオベリスクに隣接する二つの噴水を見ていきましょう。同じ形をした二つの噴水は、共にパウルス5世時代のブラッチャーノ湖から引かれた水路アックア・パオラを利用しています。
今見ている方(大聖堂に向かって右側)は、カルロ・マデルノによるデザインで1613年に作られました。 -
ベルニーニは、噴水を広場の楕円の長軸上に移動させ、もう一つ対称的な位置に噴水を置きたいと提案。二つ目(大聖堂に向かって左側)の噴水は1677年、ドメニコ・フォンタナによって完成をみています。
オベリスクと噴水の間のどこかに、楕円広場の焦点があって、そこから見ると、柱廊の4本ずつの柱が重なって見えると聞いたことがあるのですが、ご覧の通り、広場は椅子で占拠されていて、この日は探す気が失せてしまいました。でも、お昼休みの時間、大変有意義に過ごすことが出来ましたよ。
長くなりましたので、この続きは、「イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その28 ローマ サンタ・マリア・デル・ポポロ〜サン・ロレンツォ・イン・ルチナ」で
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この旅行記へのコメント (2)
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- オカンカンさん 2016/08/09 22:14:47
- ワクワクして読みすすめています。
- junemayさん 初めまして
オカンカンと申します。沢山のイタリア旅行記、今日はこれを読もうと、
ワクワクしなからゆっくり読み進めさせていただいています。
本当に色々な事を教えていただいて、ありがとうございます。
この夏33年ぶりにローマに行きました。
初めて行った時は若さだけで、何も知らなかった。
今も何も知りません。日々の仕事に疲れきっていて、何も調べて行かなかった。
でも・・・junemayさんに色々な事を教えていただいて、いつか又、いけたらと思います。
ありがとうございました。
オカンカン
- junemayさん からの返信 2016/08/10 17:06:16
- RE: ワクワクして読みすすめています。
- オカンカンさま こんにちは
初めまして
沢山読んでいただき、ありがとうございました。
私もあまり多くのことを調べて行きません。現地のインフォメーションでお勧めを聞いてから、街歩きに出発します。その時に興味を持ったものは写真に撮って、後から調べます。2015年の旅は、教会巡りのようになってしまいましたが、イタリアの文化はキリスト教がベースにあるので、絵画でも彫刻でも、それらに相応しい場所はやはり教会なんだと実感しています。一人旅故勝手気ままに回れるのは良いのですが、個人的な趣味の世界なので、他の方にも楽しんでいただけるのかなと、いつも心配になります。
またご訪問いただけましたら、大変嬉しいです。もうじきオカンカンさまが行かれたフェラッラにも参りますよ。工事中、修復中の所が多かったですが、昨年のフェラッラはセーフでした。
junemay
junemayさん 初めまして
>
> オカンカンと申します。沢山のイタリア旅行記、今日はこれを読もうと、
> ワクワクしなからゆっくり読み進めさせていただいています。
> 本当に色々な事を教えていただいて、ありがとうございます。
> この夏33年ぶりにローマに行きました。
> 初めて行った時は若さだけで、何も知らなかった。
> 今も何も知りません。日々の仕事に疲れきっていて、何も調べて行かなかった。
> でも・・・junemayさんに色々な事を教えていただいて、いつか又、いけたらと思います。
> ありがとうございました。
>
> オカンカン
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