2015/08/03 - 2015/08/06
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倫清堂さん
北海道に上陸するのは、こうして旅の記録を取り始めた最初期に北方領土の色丹島を訪れて以来のこと。
その頃は、全国の一之宮や護国神社を全て参拝するという目標は、まだ立てていませんでした。
そして今、参拝しようとしている全国の護国神社(旧内務大臣指定)のうち残すところ、北海道に鎮座する2社のみとなりました。
北海道には3社の護国神社がありますが、このうち旭川市に鎮座する北海道護国神社には、色丹島上陸よりさらに前に一度、友人の結婚式の際に参拝したことがあります。
それは真冬の最中で、雪が降り積もる中、苦労して参拝したことを覚えています。
実はあの時から、全国の護国神社を参拝することが運命づけられ、その終着点も北海道になることが決まっていたのかも知れません。
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仙台から北海道へは飛行機を使うのが手っ取り早いのですが、あこがれのフェリーで一夜を明かすことにしました。
フェリーは多くの航路を利用していますが、フェリー泊というのはたしか今回が2回目です。
仙台港はアクセスが不便。
近くにアウトレットモールができてからバスの本数は増えたのですが、それでもわずかな本数しかありません。
仙台港に最も近い中野栄駅までJRを利用し、仙台駅から来るバスを待つことにしました。
しかし夕方のラッシュの時間帯とあって、到着予定時刻を20分過ぎてもバスの姿は見えません。
仕方がないのでタクシーに乗ることにしました。
仙台駅前のバス停から乗っていたら、フェリーの出航に間に合わなかったかも知れません。
仙台港に着いてフェリーの写真を撮ろうとした時、カメラの中にSDカードが入っていないことに気付きました。
こういう忘れ物は初めてです。
フェリーの売店で売っていればよいのですが・・・ -
指定されたスペースは、二段ベッドの下段でした。
上段は空席のようです。
荷物を整理し売店へ走りましたが、SDカードは売っていないとのこと。
船内の撮影はスマートフォンのカメラを使うしかなさそうです。
19時40分に仙台港を出航。
まずはコンビニで買ってきた弁当で腹を満たし、特にすることもないのでビールを買って飲みました。
何本か飲んでいるうちに、ショーが始まる時刻となりました。
ショーは女性歌手と女性ピアニストによる歌と語りという内容。
驚いたことに、歌手の女性は高校の後輩でした。
高校生の頃から演奏家になるという夢のために努力していた彼女は、ついに夢を掴んだようです。
それに比べて自分の人生は迷い道ばかり。
ショーが終わり、観客が全員立ち去るのを待って、彼女に声をかけました。
向こうもこちらを覚えていてくれました。
彼女にとって船中での時間は全て仕事のうちなので、ちょっと一杯というわけには行きませんでしたが、久し振りに会話することができてとてもうれしい気持ちになりました。
自作のCDに日付とサインを入れて、プレゼントしていただきました。 -
ベッドに戻り横になると、間もなく眠ってしまったようです。
真夜中に一度目が覚めたので、水分を補給し、改めて寝ることにしました。
次に目が覚めたのは朝の5時近く。
まだ時間的に空いているだろうと思い、風呂に入ることにしました。
なかなか立派な風呂でした。
そして11時に苫小牧港に到着。
苫小牧港からは札幌直通の高速バスを利用することにしました。
発車は11時46分。
12時に苫小牧駅を経由し、道央自動車道で札幌に入ります。
車内にトイレがないと知っていたので、極力水分をとらないようにしていました。
約2時間後に札幌駅前に到着。
近くの電器店でようやくSDカードを手に入れることができたのでした。 -
今回の旅の目的地は、いずれも公共の交通機関を利用すれば訪れることが可能な場所にあるので、レンタカーは使わないことにします。
札幌駅から南へ、まずは北海道庁旧本庁舎を目指します。
札幌の街はまるで京都のように碁盤の目状に整備されています。
地図を見ただけでは今一つ距離感覚が掴めず、実際に歩いてみると思ったよりも時間がかかりました。
しかもキャリーバッグを引きずっての移動なので、なおさら遠く感じます。
道庁旧本庁舎は現在の北海道庁と同じ敷地内にあります。
完成したのは明治21年。
南側から入り建物を見たのですが、こちらは側面だったようです。
南側が正面であるものと思いこんでいました。
実際の旧道庁は東側を向いています。
側面の姿も正面と勘違いされるほどの、格調高いデザインであると言えます。北海道庁旧本庁舎 名所・史跡
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地下鉄東西線に乗り、円山公園駅で下車。
かなり強い日差しの下、キャリーバッグを引きずって丸山公園を目指します。
途中まで舗装された道が続いていましたが、北海道神宮の大鳥居が見えた当りからは砂利道となり、バッグを持って歩かざるを得ませんでした。
森の道を歩いていたところ、野生のキツネが目の前を横切って行くのが見えました。北海道神宮 寺・神社・教会
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新政府によって北海道開拓が本格的に進められることとなった明治初期、明治天皇の勅旨によって東京の神祇官によって開拓の神が祀られることとなりました。
明治2年、大国魂神・大那牟遅神・少彦名神の3神を祀る「北海道鎮座神祭」が斎行され、開拓長官東久世通禧卿が3神を奉じて函館に上陸、12月3日に札幌に入って仮社殿に奉遷されました。
現在地に遷座したのは明治4年。
社名は「札幌神社」を称しました。 -
イチオシ
御社殿には、大正2年の伊勢神宮式年遷宮によって下附された御正殿の古材が用いられています。
昭和39年に明治天皇が合祀され、社名は「北海道神宮」と改められました。 -
神門の左手に銅像が建っています。
狩衣を着た男性で、神話の登場人物かと予想を立てましたが、案内表示を読んだところ北海道神宮の御創建に携わった人物であることが分かりました。
彼は開拓判官、島義勇という人物です。
北海道開拓使として、3神の御魂を一時も離さずに背負いながら未開の険しい道を踏み分け、無事に札幌へ到着した経歴を持つことから、北海道開拓の父とも讃えられます。 -
北海道神宮の境内には、開拓神社など摂社末社も多く鎮座しています。
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東西線から南北線へと乗り継ぎ、次に降りたのは幌平橋駅。
札幌護国神社を参拝しました。
まだ午後4時を過ぎたばかりだというのに、神門は固く閉ざされていました。
社務所らしき建物から女性が出て来たので尋ねてみると、午後4時には業務を終えるのだということ。
いくらなんでも早すぎると思いましたが、札幌時間というものがあるのかもしれません。
札幌護国神社には、日本を守るために亡くなった郷土出身の御英霊の他、北海道開拓に携わって命を落とした方の御魂も祀られています。
徒歩で札幌市電の行啓通電停まで移動し、市電で東本願寺前電停へ。
予約していたカプセルホテルにチェックインしました。札幌護国神社 寺・神社・教会
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あくる日の早朝、すすきの電停まで徒歩で移動し、高速バスに乗りました。
午前中いっぱいかけて、函館に移動します。
JRを使う手もあったのですが、今回は急ぐ旅でもなく、なるべく経費を抑えるためにバスを利用することにしました。
お盆前とあって乗客の数は少なく、4列シートの2人席を独占することができました。
隣に人が乗っているのと乗っていないとでは、5時間の乗車ではかなりストレスの差が出ます。
バスは道央道を南下し、前日に上陸した苫小牧のあたりを通り、内浦湾をぐるりと囲むようにして函館に入って行きます。
途中の八雲パーキングで休憩のために下車。
北海道らしい景色が広がっていました。八雲パーキングエリア 道の駅
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函館駅前に到着したら、まずは市電に乗ってホテルへ向かいます。
函館駅前電停から市電に乗り込むと、本日は港まつりのため午後4時から一部区間で運転をとりやめると、運転士から案内されました。
自分で立てた行程と照らし合わせ、あまり影響がないことを確認したので、一日乗車券を買うことにしました。
しばらく市電にゆられ、五稜郭公園前電停で下車。
ホテルはそこから徒歩7分ほどの場所でした。
まだチェックインの時間ではありませんが、フロントの男性に荷物を預かってくれるよう依頼すると、快く引き受けてくれました。
身軽になったので、いざ函館のシンボル五稜郭へ。五稜郭タワー 名所・史跡
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五稜郭の全体を眺めるために、まずは五稜郭タワーに昇ることにしました。
1階は受付や土産物の店が置かれている他、レストランやテラスがあります。
空腹を覚えましたが、それよりも先に五稜郭を眺めたいという気持ちの方が勝ちました。
テラスには五稜郭にゆかりのある人物の銅像が置かれています。
一人目は武田斐三郎、五稜郭の設計者です。
伊予国(現在の愛媛県)大洲藩士で、甲斐国の武田氏の流れに当たりますが、名をはばかって竹田を名乗っていました。
幼い頃は甘えん坊で馬鹿にされることがしばしばでしたが、頭脳は明晰で、20代で緒方洪庵や佐久間象山などに洋学を学び、幕府に召し抱えられるようになりました。
日本に開国を迫るプチャーチンやペリーとの会談にも臨み、箱館奉行所の研究教育施設とされた箱館諸術調所教授に任命されて、後進の教育にも当たりました。 -
二人目は榎本武揚。
諸術調所で武田斐三郎の薫陶を受けた一人です。
榎本は幕臣の子で、長崎海軍伝習所で航海術を学び、オランダに留学して国際法などを修めました。
帰国後は幕府海軍を率いて江戸を抜け出し、蝦夷地の五稜郭を占領。
新政府軍と激しく戦うも武運拙く敗北し、逮捕・投獄されたのでした。
しかし彼の才能を惜しむ声が新政府内で強まったため、釈放されて開拓使として出仕することになります。
内閣制度が始まると、様々な大臣の職に就任。
旧幕府側の人物としては異例の生涯を送ったのでした。 -
三人目は土方歳三。
言わずと知れた、新選組副長です。
多摩群の農家の末っ子として生まれましたが、幼い頃から武士になることに強い憧れを抱いていました。
10代半ばから江戸の呉服屋に奉公に出て、その後薬売りの行商をしながら各地の剣術道場で修行を積みました。
そして、天然理心流の道場試衛館で近藤勇と運命的な出会いを果たし、道場の仲間らとともに京都へ赴き、浪士組に加わったのでした。
浪士組は14代将軍徳川家茂公の上洛を守護するために結成された組織で、武術に秀でた者であれば犯罪者でも参加することができました。
試衛館の仲間たちは芹沢鴨ら水戸浪士の一派と合流し、浪士組の三番隊に編成されました。
将軍上洛も無事に終わり、浪士組には帰還命令が出されますが、芹沢・近藤グループはそのまま京都に留まり、京都守護職を務めていた会津藩預かりとなり、壬生浪士組として行動するようになったのでした。
これが後の新選組です。
なお、芹沢・近藤グループと別れて江戸に帰還した浪士組は、後に新徴組として江戸の警護に当たることになったのでした。
その後、リーダーである芹沢鴨の傍若無人の振る舞いに嫌気がさした近藤ら試衛館グループは、芹沢の暗殺を決行。
その実行役の中に、土方歳三も含まれていました。
そのように京都で暴れまわった土方歳三の像がなぜ置かれているのか。
ここ函館は、波乱万丈の生涯を送った彼にとって最後の地だからです。 -
イチオシ
受付で入場料を支払い、エレベーターに乗り込みました。
ほどなくタワーの最上階に到着。
目の前には、五稜郭の星形の地形が広がっていました。
五稜郭は日本に数少ない稜堡式城郭ですが、西洋には多くの例があります。
最初に発明されたのはイタリアで、15世紀半ばのこととされます。
砲撃に対する防御を課題として考案された稜堡式城郭ですが、五稜郭が築城された19世紀には、ヨーロッパでは既に過去のものとなっており、発達した火砲には対応できないというのが真実でした。
まさに時代遅れの産物と言わざるを得ませんが、幕府が最後の力を振り絞って築いた五稜郭は、未完成ながらも美しい景観を今に残す重要な歴史遺産となっています。
未完成というのは、中央の星形の土塁において窪んでいる5つの角の外側に、さらに半月堡を築いて二重の星形にすることが計画されていました。
結局、外側の半月堡は一ヶ所しか築かれず、幕府軍は新政府軍と戦うことを余儀なくされたのです。 -
幕府の劣勢が決定的となったのが、慶応4年の鳥羽・伏見の戦いです。
近藤・土方ら新選組もこの戦いで傷つき、甲府を新たな拠点に態勢の立て直しを図りますが、先回りした新政府軍によって甲府は既に占領されており、あえなく敗走させられました。
近藤は新政府軍に投降し、斬首のうえ獄門にされました。
土方は最後まで投降に反対し、宇都宮や会津で幕府軍の指揮官として戦いますが、会津の陥落も間近となった時に仙台に入り、そこで榎本武揚率いる旧幕府海軍に合流します。
彼らは仙台を出航し、最後の決戦のために函館に入ったのでした。 -
タワーからの眺めを楽しみ、内部の歴史回廊をひととおり見学し終えたので、実際に五稜郭の土を踏むことにしました。
大政奉還によって函館奉行は廃され、五稜郭は箱館府によって政庁として使用されていましたが、旧幕府軍は五稜郭を奪うことに成功し、松前城を陥落させるなど善戦しました。
しかし幕府軍の旗艦である開陽丸が暴風のために座礁して沈没し、旧幕府軍は手痛いダメージを受けることとなったのでした。
それでも土方は新政府軍が蝦夷地で最後に籠っていた江差を落とし、旧幕府軍は蝦夷地全域をおさえることに成功しました。
榎本は各国の領事を招待して蝦夷平定祝賀会を催し、ここに独立国「蝦夷共和国」が成立したのでした。
明治元年の暮れのことでした。
しかし年が明けて冬が去った頃から、新政府軍の反撃が開始されます。
陸軍奉行並に就任していた土方は、新政府軍の上陸を阻止しようと八面六臂の活躍を見せますが、一本木関門における戦いで馬上で敵の銃弾を受け、ついに戦塵に散ったのでした。五稜郭跡 名所・史跡
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五稜郭の石垣には、他では見られない工夫が施されています。
石積みの最上部から2段目だけ、外側にせり出しているのです。
外部からの侵入者を防ぐための仕掛けで、刎ね出しと呼ばれます。 -
五稜郭のほぼ中央には、復元された箱館奉行所があります。
函館に奉行所が置かれた最初は安政元年で、その時の場所は函館山麓でした。
しかし港に近いために防衛においては不利であることから、現在の場所に移転され、奉行所を守るために五稜郭が築かれたのです。
奉行所の移築と五稜郭の築造は同時に行われ、元治元年から奉行所としての業務が始まりました。
明治2年5月11日に土方歳三が戦死し、17日には榎本武揚が新政府軍の陣地に出向いて降伏を宣言。
あくる18日に五稜郭は開城となり、箱館戦争は終わりました。
新政府は明治4年に奉行所庁舎を取り壊しました。
復元された奉行所が完成したのは平成22年のことです。 -
入場料を支払って内部を見学。
内部は資料館も兼ねており、五稜郭や箱館奉行所に関わる資料が多数展示されています。
榎本武揚が箱館戦争に敗れ、東京に護送される際に心境を詠んだ漢詩が目に入りました。
健武帯刀して前後を行く
籃輿の羅網窓明を失す
山河百戦恍として夢の如し
独り皇裁を仰がんとして玉城に向う -
奉行所は古写真や文献資料、古図面などの調査をもとに、史実に忠実な姿に復元されました。
鉄筋コンクリートなどは用いず、全国から終結した職人の手によって日本伝統建築の工法で再現されています。 -
まだ完成して間もない建物は、木の香りが漂っています。
かなり大がかりな復元工事ですが、それでも奉行所全体の3分の1しか復元されていません。 -
五稜郭に生い茂る松は、築城当時に植えられたものと、その後に植えられたものとがあります。
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幹に小さなプレートが埋め込まれているのが、築城当時から残る松です。
榎本武揚や土方歳三の戦いを最後まで見つめた時代の証言者です。 -
五稜郭内のほとんどの建物は新政府軍によって解体されましたが、ただ一つ兵糧庫だけは修復が重ねられて現存しています。
五稜郭は明治6年から陸軍省所管となりますが、大正3年からは公園として一般開放されました。
兵糧庫は大正6年、伊予松山藩出身の片山楽天によって箱館戦争の資料館「懐旧館」となりますが、後に閉鎖されます。
その後2度の修復を経て現在に至ります。 -
普段は内部に入ることはできませんが、ちょうど特別公開の日に当たっており、中へ入ることができました。
窓がないため、内部は照明があっても薄暗い状態です。
砲撃を受けて沈没した幕府軍の軍艦の一部などが展示されていました。 -
次に市電で終点の谷地頭電停まで移動し、函館八幡宮を参拝しました。
電停から函館山の方へ坂を上って行くと、函館八幡宮の大鳥居が見えて来ます。函館八幡宮 寺・神社・教会
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大鳥居からさらに石段を上り詰めると、大正式八幡造の社殿が現れます。
函館八幡宮の御創建は文安2年に遡ります。
この頃、一帯を治めていた河野政通公が居館の東南に八幡神を祀ったのが始まりとされます。
なお、政通公の居館は方形であったことから「箱館」と呼ばれ、それが地名になったと言われています。
後に江戸幕府によって鎮座地が箱館奉行所の用地に選ばれたため、八幡宮は会所町に奉遷。
さらに明治13年に現在地に奉遷されました。 -
イチオシ
主祭神の八幡神(応神天皇)も、配祀の住吉大神・金刀比羅大神も、海にゆかりの深い神様です。
参拝を終えて振り返ると、大鳥居の向こうに海が広がっていました。
函館山のふもとで海が見える現在の鎮座地は、函館という土地においてこれらの神々が鎮まるに最も適した場所のように思います。 -
同じく函館山の麓に鎮座する函館護国神社まで歩くことにします。
途中、函館公園でハーバー遭難記念碑を発見。
ハーバーとは、明治7年にドイツ代弁領事に就任したルードヴィッヒ・ハーバーのことです。
彼はその年の8月11日、排外思想を持つ旧秋田藩士の田崎秀親によってこの碑の近くで惨殺されました。
日本側は田崎を処刑するなど適切な対応をとったこと、また田崎が単独犯であったことなどから、重大な外交問題には発展せずに済まされました。
この碑は外国人墓地に葬られたハーバーの墓碑でしたが、没後50年を記念して大正13年に現在地に移転されました。
近頃も排外的な思想が少しずつ広がっているようですが、外国の政府と外国人とは分けて考えなければなりません。
外国政府の外交姿勢が気に食わないことをもって外国人を直接非難するというのは、筋が通らないと思います。 -
同じく函館公園内にある市立函館博物館を見学することにしました。
見学を予定してはいませんでしたが、特別展「千島樺太交換条約とアイヌ」に興味を引かれて決めました。
北海道から北の島々は、日本人・アイヌ・ロシア人などが混じり合って住む地域でしたが、明治8年に日本とロシアの間で締結された千島樺太交換条約によって、両国の間に国境線が画定され、アイヌの日本人への同化政策が進められることになったのでした。
アイヌは松前藩に富を吸い上げられる苦難の歴史を歩んできました。
時にはアイヌの首長が反乱を起こすこともありましたが、結局は武力によって鎮圧され、以前よりも悪い条件を呑まされることの繰り返しでした。
幕府にも最上徳内などアイヌに対し好意的な人物はおりましたが、幕府がアイヌの待遇を改善するまでには至りませんでした。
幕府から政権を奪った明治政府によって千島樺太交換条約が結ばれ、樺太はロシア領に、得撫以北の千島列島は日本領に決まると、樺太に住むアイヌは北海道へ強制的に移住させられました。
移住したアイヌの多くは新たな土地の気候が体に合わず、疫病によって倒れたのでした。
同時にアイヌが育ててきた固有の文化も次々に消滅して行きました。
今日本が置かれている立場は、少数民族であるアイヌが置かれていた立場をそのまま拡大したように見えてしまいます。市立函館博物館 美術館・博物館
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函館公園内には、旧函館博物館の建物が2棟残されています。
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そしてついに函館護国神社に到着しました。
日本全国、旧内務大臣指定護国神社巡礼の旅は、いったんここで閉じられることになります。
戊辰戦争、箱館戦争から先の大戦までに戦争で命を失った郷土出身の御英霊をお祭りしています。
他の護国神社同様、幕府側の戦死者はお祀りしておりません。
結局日本は、先の大戦の戦後どころか幕末から明治に起きた内戦の戦後さえ迎えていないのではないでしょうか。
維新動乱の和解さえ済んでいないのが現実であり、さらに明治維新に本当に大義があったのかも見直される必要があるのではないかと思います。
ともあれ先に見たアイヌ同様、いつも為政者の都合の良いように使い捨てにされるのが弱い存在の方たちです。
名もない英雄たちに感謝する心をなくしてはなりません。函館護国神社 寺・神社・教会
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函館護国神社の参道を、宝来町電停に向けて歩きます。
参道の入り口には、高田屋嘉兵衛銅像が建てられています。
高田屋嘉兵衛は淡路島の貧しい農家に生まれましたが、幼い頃から船に高い関心を持ち、船乗りとして異例の出世を果たしました。
28歳の時に当時最大規模の船を建造し、船持船頭として蝦夷との交易を進め、函館の街の発展や国後・択捉島の開拓にも力を尽くしました。
文化8年、ロシアの軍艦ディアナ号の艦長ゴローニンが、7人の船員とともに国後島で幕府の役人に捉えられました。
あくる文化9年にはディアナ号副艦長リコルドが、報復するかのように高田屋嘉兵衛らを捉え、カムチャッカへと連行しました。
嘉兵衛は幽囚の地で必死にロシア語を習得し、ゴローニンの釈放のために折衝役を果たし、ついに両国は和解するに至ったのでした。
この像は箱館開港100周年を記念し、昭和33年に建てられたものです。高田屋嘉兵衛像 名所・史跡
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宝来町からお隣の十字街電停まで1区間だけ市電に乗り、箱館高田屋嘉兵衛資料館を訪れました。
正面に向かって左側が、明治36年に築造された1号館。
壁には北前船の重石(バラスト)として使用された越前石が利用されています。
船は重石を乗せて箱館に向かい、箱館で石を下ろすかわりに大量の産物を積んで、帰って行ったのでした。
向かって右の2号館は、大正12年に築造された鉄筋コンクリート造。
館内には、武田斐三郎がイギリスのものを参考に作った日本最古のストーブなどが展示されています。箱館高田屋嘉兵衛資料館 美術館・博物館
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全ての目的を果たしてホテルに戻ろうと市電に乗ると、一部区間の運行停止が始まっていました。
市電が走る通りは歩行者天国となり、シニア世代のフォークグループが生演奏を行っていました。
一区間だけを歩き、次の市電に乗ってホテルへ。
夕食は近所の飲み屋さんで食べました。
あくる朝、青函フェリーに乗るためにバスを利用しました。
バス停の場所と時刻表まで確認していましたが、下車するバス停を確認していなかったため、どこで降りればよいものか困ったことになりました。
バスが病院前のバス停に停車した時、病院で客を待つタクシーの姿が見えたため、仕方なくタクシーを使うことにしました。
余計なお金がかかってしまいましたが、フェリーに乗れなくては一大事。
背に腹は代えられません。
無事に受付を済ませ、フェリーは8時10分に函館港を離れました。 -
曇りの天気ですが、波の向こうに函館山がしっかり見えます。
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また、苫小牧沖で火災が発生し乗客が避難する騒ぎとなったさんふらわあ号が、停泊していました。
火は見えませんが、まだ鎮火に至っていない状況です。
この火災事故によって乗員1名が亡くなってしまいました。 -
フェリーの船内に売店などはなく、自動販売機のカップ麺で空腹をしのぎました。
時々デッキに出て風に当たりますが、雲が垂れ込めていて気分も晴れません。
3時間の乗船時間は非常に長く感じられました。
12時10分、無事に青森港に着岸。 -
しかしすぐには下船させてもらえず、自動車が全て出てから人の移動が許されました。
おかげで予定していた青森駅行のバスに乗れず、駅西口を通る別なバスに乗ることに。
駅西口バス停から駅まではかなり距離がありました。
今回の旅はとにかく歩きましたが、それも間もなく終わりです。 -
青森駅から新青森駅までは1駅ですが、本数が少ないのでダラダラ待つことに。
新青森駅に着いてからも、予約した新幹線まではかなり待ち時間があるので、名物の黒石つゆ焼きそばを食べました。
これが2度目ですが、この味は好き。新青森駅 駅
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しばらく待って、ようやく15時17分発のはやぶさ76号へ乗り込みました。
ビールを飲んでうとうとしていると、ほとんどの駅を通過して仙台に到着。
全国の護国神社巡礼をひとまず終えることができましたこと、関係する皆さまに心より感謝申し上げます。
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