2015/07/18 - 2015/07/18
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たびたびさん
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名古屋から東海道線の普通列車に乗り換えて、途中下車の旅は、垂井と関ヶ原。中仙道の旧宿場町と関ヶ原の戦いの古戦場を巡ります。
まず訪れた旧垂井宿は、中山道57番目の宿場。一方で、脇往還美濃路が中仙道から分かれて、西美濃方面へと繋がっていました。そして、この美濃路は脇往還といっても、将軍が上洛の際は使われた道。東海道は伊勢を経由するのですが、宮宿と桑名宿の間には七里の渡しという難所があって、安全に陸路を行こうとするとこの美濃路になるのだそうです。
宿場町は、相川のほとり。西町・中町・東町の3町に分かれていたということですが、今でもそれなりの規模だったことがちゃんと窺えます。逆に、観光地としての手はあまり入っていないので現役の旅籠もまだ残っていたりする。一見普通の生活の場にかつての宿場町の面影がほんのり感じられるという、そのちょうどよさを楽しむ街のような気がしました。
一方の関ヶ原は、垂井の付け足しのつもりだったのですが、実際にはとても広い範囲のあちこちに史跡が点在、展開していて、このスケールは予想外。全体が丘陵地のようにゆるい坂にもなっているし、ふうふう言いながら回ることになりました。
しかし、そうして回ってみると、やっぱりいろんなことが見えてくる。何かのドラマで霧が晴れて関ヶ原全体が見えた時、石田三成がにやりと笑って「勝った」とつぶやくシーンがありましたが、その意味がよく分かったような気がしました。確かに三成渾身の布陣は、東軍を囲い込んだほぼ完ぺきなもの。それが実感できただけでも大収穫だったと思います。
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まずは、垂井駅に到着。これは、駅北口でてすぐの竹中半兵衛像。
凡庸とはいえ、斎藤道三の孫、龍興の居城・稲葉山城をわずか16人の手勢で奪取したという離れ業でなをとどろかすと、その後は秀吉の軍師として抜群の才能を見せたと言われます。しかし、播磨攻略の三木城攻めの途中病で倒れ、亡くなります。享年36歳。
関ヶ原の戦いでは、嫡子、竹中重門が東軍として参戦。黒田長政とともに戦い、小西行長を捕縛するという大功をあげています。 -
その前にあるのが垂井観光案内所。この日は雨だったので仕方なく歩きの観光となりましたが、ここではレンタサイクルをやっているので、垂井の観光としてはこれを使えば便利だと思います。
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グルマン・ヴィタルは、垂井駅から歩いて数分。この辺りではかなり人気のパン屋さんなんですが、国道沿いのドライブインみたいなお店ですね。ここで、朝食をいただきましょう。
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フルーツを使ったケーキっぽいパンとかが並んで、とてもきれいですねえ。
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イチオシ
私は、新作というクロワッサンにオレンジ風味のチョコを仕込んだパンをいただきました。
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奥の方に、喫茶コーナーがあって、これもとっても明るくて気持ちがいい。家族連れがたくさんいましたが、これはうってつけ。人気は当然だと思います。
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タルイピアセンターは、垂井の市街からは少し離れた場所。
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グルマン・ヴィタルから近かったので、垂井の街歩きをする前にこちらから回ったのですが、これが大正解。
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旧垂井宿場町の見どころを宿場町の模型を使って丁寧に解説してくれるコーナーがあって、
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あとになって、これがとても役に立ちました。
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その隣を流れているのは相川。垂井宿の象徴的な川でもあります。江戸側からだと、この相川を渡って垂井宿に入ります。
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垂井追分道標も、垂井宿の東端。垂井宿の奥山文左衛門という人物が建てた石の道標です。地味な感じですが、「是より右東海道大垣みち 左木曽街道たにぐみみち」と書かれて、ここが中山道と美濃路の分かれ道であることを示しています。この二つの街道が関係していたことによって垂井のいっそうの賑わいがあったのでしょう。それに感謝したものではないかと思います。
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相川の河川敷には相川水辺公園という公園が整備されています。たまたま、この日は台風が来ていたので閑散としていて、風情も何もなかったのですが、春の桜の季節には美しい景色が楽しめるようです。
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橋のたもとには、「東の見附」の看板でここが宿場の東の端だったことや
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「相川の人足渡跡」の看板で、基本的には橋がなかったので近隣の百姓が人足渡しをしていたようなことも説明されていました。
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市街に入ってきて。これは和菓子のみどりやさん。
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なんとか大福だとか、牛乳プリンだとかお菓子の種類が多いので、何にしようか迷っていたら、気さくなご主人が勧めてくれたのは草餅。
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いただくと、ヨモギの濃厚な香りがすごいですねえ。もっちりした食感に、ヨモギに負けない餡子の甘さもいい感じ。これぞ正統派の草餅。名店だと思います。
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元気が出たところで、名所のチェックです。
最初の紙屋塚は、垂井の市街地。住宅地の間の細い路地にあるので、ちょっと分かりにくいかもしれません。
垂井は美濃の国府があったことや清らかな水が豊富だったことから、官営の抄紙場が設けられてた美濃紙の発祥の地です。塚はそれを示すものです。 -
そして、これは価値があると思うのですが、中山道垂井宿に今でも残る現役の旅館が亀丸屋旅館。垂井宿のかぎ型に曲がる通りの角にちょうどはまるように建物が建っています。
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旅館としても200年の歴史があって、この建物も、見た目はそんな感じはしないのですが、1777年に建てられた古いものということです。
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実は今日は、台風が接近していて、怪しい雨と風。これ以上、ひどくならないように願います。
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南宮大社は美濃国一宮。南宮山の山麓に位置し、「南宮」は「国府の南に位置する宮」という意味だそうで、それだけでも何やら由緒正しい神社であることが窺われます。
国の重要文化財に指定されている建物があるのでとても気になったのですが、垂井の市街からは少し遠い。しかし、市街に南宮大社の大きな鳥居があって、そこからが参道であることを示していました。 -
この鳥居も家光の時代に400両の費用が掛かったという説明がありました。
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さきほど、亀丸屋旅館という現役の旅館がありましたが、こちらは長浜屋。江戸時代は旅籠で、その後は酒屋となり、平成10年頃まで営業していたということです。
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現在は、単なる休憩所になっていましたが、がらんとした内部はそれなりに人の手が入っていて、荒れているような感じはありません。かつて賑わった大店の雰囲気が残っていて、意外に見応えがあるように思いました。
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本龍寺は、その並び。芭蕉が訪ねた寺でもあるようですが、脇本陣から移築したという山門が目立っています。
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その山門に続く参道の塀には
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獅子を描いた黒い陶板がはめ込まれていて、これも面白い。
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山門入ってすぐの蔵造りの建物も見事な装飾で垂井の豊かさを今に伝えているように思いました。
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その向かいに建つのは、小林家住宅主屋。大きな堂々とした構えの町家です。
外観を見るしかできませんが、表に説明板があって、「油屋を営んでいた宇吉家から小林家が明治14年に譲り受け、昭和初期まで「亀屋」の屋号で旅籠を営んでいた」とありました。 -
さらに進んで、八重垣神社は、垂井町の氏神とされる神社。
ただ、鳥居の脇に「後光厳天皇」の文字。なんだろうと思ったら、後光厳天皇は、北朝の天皇。 -
南朝が京を制圧したため、追われた後光厳天皇は垂井に到着し、ここを仮御所にしたのだそうです。一時はやんごとなき地であった場所だということですね。
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南宮大社の鳥居まで戻ってきて。
これは、垂井の泉。大ケヤキの根本から湧き出し、「垂井」の地名の起こりとされる旧垂井宿のシンボルです。 -
古くから和歌や俳句に詠まれたこともあり、今でも敷地内の掲示板には地元の方の作品がいくつか紹介されていました。
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池には鯉も悠々と泳いでいます。
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そこから少し上がった場所が垂井城跡。「垂井城跡」と大書した石柱があるだけなのですが、傍らに、垂井城の城主であった平塚為広が紹介されていて、ちょっと面白い。
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平塚為広は、関ヶ原の戦いで西軍につき、病であった大谷吉継を助け、実質的に大谷軍への指揮も行い奮戦したというのです。石田三成との友情で知られた大谷吉継ですが、その大谷吉継を助けた平塚為広。いろんなところに男たちのドラマがあったということでしょう。
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専精寺はその奥。垂井の泉を見下ろす高台にある浄土真宗本願寺派の寺。この小高い山全体が垂井城の跡と言われています。
ただ、この寺の境内もうろうろしてみましたが、寺自体は特に見どころはないと思います。 -
垂井の最後は、いっしょう。こちらは垂井の有名店。とんかつ屋さんなんですが、老舗のうなぎ屋さんから引き継いだという秘伝のたれがあって、うなぎ屋さんとしても知られています。
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なので、いただいたのはうな丼。どかんと乗ったウナギの存在感がたまりませんね。しかし、ちょっと焦げ目が味にも影響していて、鰻のおいしさ自体もどうなんでしょう。残念ですが、見た目と違って、基本的なところで、イマイチのような気がしてしまいました。
ここで垂井をおしまいにして、 -
関ヶ原駅に到着です。
関ケ原街角案内所は、関ヶ原駅を出てすぐの駐車場の敷地に建つプレハブ小屋。関ヶ原の観光地図をもらいましたが、これがとても詳しい地図。もともとはそんなに丁寧に回るつもりはなかったのですが、この地図を見て知らず知らずファイトがわいてきましたよ〜 -
ただ、関ヶ原の探索をする前に、松野屋でお菓子を買いました。
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美濃というお菓子なんですが、お菓子博覧会で賞を取ったのだそう。クルミのトッピングに白あんの素直な甘さが確かにいい感じ。何かの隠し味があるんでしょうか、素直な中にもちょっとひねりがある味わいがあるように思いました。
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まずは、不破の関に向かうのですが。。
和牛と書いた看板が目立っているし、何か活気のあるお店ですねえ。 -
ミンチカツをいただきましたが、
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出来上がりを待っている間、ふと店内を眺めていると。。
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ウサギにラクダにカンガルー、果てはサソリにニシキヘビといった肉まで売っているよう。
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これには度肝を抜かされました。
マスコミでも取り上げられた有名なお店のようでした。 -
さらに進んで、これは西首塚。関ヶ原駅から不破の関跡に向かう国道沿いです。塚は、関ヶ原の戦いで亡くなった6千とも8千とも言われる死者を弔うために設けられました。この地の領主であった竹中半兵衛の息子、竹中重門が築いたのですが、竹中家は黒田長政軍に協力して奮戦し、その後は幕府旗本として、この地を安堵されたということです。
ただ、多くの戦死者を弔っている場所であり、じめっとした陰気な感じは否めません。 -
そこから、ちょっとした街並みに入ると、こんな標識。実はこの後、関ヶ原一帯でこうした標識があるんです。意外に、観光地としての取り組みがしっかりしている地域です。
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標識に従って、福島正則陣跡へ。樹齢800年という大杉が立つ神社があったりして、これは6千の兵力で関ヶ原の先陣を勤めた福島正則の史跡として恥ずかしくない構えでしょう。
石田三成への反発心の故に家康に味方し、結局は大恩のある豊臣家を滅亡させてしまうのですが、自らも安芸に49万8千石で封じられたものの、関ヶ原の戦いから20年も経たない1619年には信濃国に4万5千石に減封されてしまいます。ここまでくれば正則がどうというよりも家康が一枚も二枚も上だったということかと思います。菩提寺は小布施の岩松寺。小さいですが大名なりの廟が建っています。 -
不破の関の街並みには、関庁跡と兜掛石の案内があって、これも見てみましょうか。
矢印の方向に辿って行くと、畑の真ん中にその史跡がありました。これは、壬申の乱で勝利した大海人皇子が兜を掛けたという石。そばには、沓脱石という大海人皇子がここでクツを脱いだという石もありました。吉野から逃れた大海人皇子はここで体制を整え、最後の決戦である瀬田橋の戦いへと突き進むことになります。 -
さて、これが第一目的だった不破の関跡。関ヶ原では関ヶ原の古戦場と並んでもう一つのメジャースポットでしょう。
ちなみに、不破関は、東海道の鈴鹿関や北陸道の愛発関とともに、古代三関の一つとされています。街並の一角に、建物があって外から眺めるしかないのかなあと思って裏に回ると小さな日本庭園も含めて公園のように整備された敷地があって、ここならちょっと風情に浸れると思います。 -
その近くにあるのが不破関資料館。
館内では、壬申の乱や壬申の乱の後に設けられた不破関の意味などを解説しています。不破の関は、東国からの外敵を防ぐという意味よりも、都の動乱を外部に波及させないようにする目的もあったのではないかという解説はちょっと興味を引かれました。壬申の乱の反省ということではこの解説の方が説得力があるような気がします。 -
不破の関をチェックしたので、後は関ヶ原の古戦場。国道を越えて、それらしい場所にやって来ました。
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人家も少ないし、開発があまり進んでいない。東西の決戦場となったということは、それなりに交通の要衝だったはずなんですが、そんな利点はその後も活かされなかったようですね。まあ、街道から外れれば、ただの片田舎ということですか。
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さて。
宇喜多秀家陣跡は、関ヶ原のど真ん中といった南天満山のふもと。 -
今でも深い森に覆われた場所です。
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ちなみに、宇喜多秀家は五大老のひとりでもあり、西軍の副大将。石田三成軍は6千に対して、こちらの兵力は1万7千。実質的に西軍の主力部隊です。開戦と同時に福島隊に攻め込まれますが、これをよく防ぎ、当初の西軍優勢の状況を作ります。
しかし、小早川秀秋の裏切りにより、退却。戦場を逃れ、薩摩まで渡って、島津に匿われますが、最後は八丈島に流されて一生を終えています。
ただ、一途な戦いの潔さは心を打つ。さわやかな印象がある武将です。
父の宇喜多直家は、斎藤道三や松永久秀に並ぶ悪人と評されたり、謀略の限りを尽くしたとされる人物ですが、秀家を思うとそうでもなかったようにも思えてきます。 -
標識を見失って、ちょっと迷ってしまいましたが、この道がコースのようです。
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ここが、開戦地。
関ヶ原の戦いの開戦は、南天満山に陣を構える宇喜多隊に対して、先峰の福島隊の先に、抜け駆けで松平・井伊隊が発砲。これに怒った福島正則隊が、一斉射撃を掛けたことから始まります。 -
福島隊の陣と宇喜多隊の陣の間ですが、ここはかなり宇喜多隊の陣に近いように思います。かなり無理をして宇喜多隊に迫ったんでしょう。福島隊の焦りが感じられるような気がしました。
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小西行長陣跡は、開戦地のすぐそば。
宇喜多隊と福島隊が激しくぶつかった辺りで、関ヶ原の戦いでは戦いの中心部に近い場所なのですが、6千の兵力はあまり活躍した評価とはなっていない。初戦で西軍有利の状況を作りだした際の貢献は確かにあったのですが、小早川の裏切りで大谷隊が崩れると一気に退却してしまった粘りのなさが評価を落としているような気がします。三成への同調はしていたのですが、それ以上のものはない。戦いの士気がイマイチだったことも想像されます。
なお、小西行長は、元々は堺の薬商人の息子。その後、宇喜多家の家臣となり、秀吉に見いだされたという人物。宇喜多隊の陣のすぐ脇に陣を構えたのもそういう関係からでしょう。関ヶ原の戦いの後は、六条河原において石田三成・安国寺恵瓊とともに斬首されています。 -
今度は島津隊の陣跡へ。
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島津義弘陣跡は、笹尾山にあった石田三成陣より、約800m下った辺り。戦いの前線にはこちらの方がずっと近い場所です。ただ、東軍の攻撃は、宇喜多隊、小西隊、石田隊に集中していたので、最後まで大きな戦いには巻き込まれずにいたようです。
そして、有名なのは、勝敗がすでに決した中での敵中突破。せいぜい1500人の兵力だったのですが、家康の本陣に迫りながら伊勢路の方へと落ち延びます。追撃は井伊直政や家康の四男でその娘婿でもある松平忠吉ら。しかし、激しい戦いの中で、井伊直政も松平忠吉も傷つき、その傷が元で亡くなったほど。
島津義弘は、当時66歳。この勇猛果敢な行動も、薩摩の所領安堵を認めさせた要因であり、そういう意味では果たすべき役目をしっかり果たしたということでしょう。 -
こうなってくると、やはり三成の陣跡を見ないと始まりませんね。途中の集落を抜けてこの先のはずなんですが。。
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道を間違えて、これは関ケ原ウォーランドですね。
ここは、関ヶ原の古戦場にある関ヶ原の戦いのテーマパーク。関ヶ原の一番奥の方だと思います。関ヶ原駅からまっすぐ来ても、ここまではけっこう遠いでしょう。 -
園内に入ると野外の草地に参戦した武将たちの陣地や戦いの場面が至る所にありました。
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これは南宮山の諸隊。
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イチオシ
南宮山には、吉川広家、
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長曽我部に
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毛利秀元、
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安国寺恵瓊の面々。
吉川広家が東軍に内通し、行く手を阻んだため、南宮山の西軍は戦うことはありませんでした。この中で、安国寺恵瓊は斬首となっています。 -
ここからが戦場ですね。
荒っぽいですが特徴をとらえた人形たちが配置されて、場面場面を再現しています。人形が痛んでいたりしていることもないではないですが、細かいところは気にしなければそれなりに臨場感を伝えているように思います。 -
ここは最前線ですね。
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筒井定次に、
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イチオシ
福島正則は、まさに最前線。ちなみに、筒井定次は筒井順慶の養子。筒井家は大和国に地盤がありましたが、松永久秀や三好三人衆に圧迫されて、信長や秀吉の庇護を得ながら生き延びた家。秀吉にこき使われて、関ヶ原の戦いでは東軍に付いたものの、その8年後には改易となってしまいます。
西軍石田三成のもとで活躍した島左近は、元は筒井家の重臣。定次の将来を見限ったという説もあって、不仲ですから、最前線に配するとはうまい使い方。しかし、使い捨てされた武将の典型的なひとりかと思います。 -
イチオシ
山内一豊は、南宮山の抑えとしての役割。
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イチオシ
京極高知と
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イチオシ
藤堂高虎は、福島正則のすぐ後方です。
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平塚為広は、
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大谷吉継を支えた人物。しかし、小早川秀秋の15千が裏切れば、どうにもなりません。
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イチオシ
宇喜多秀家。
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イチオシ
小西行長。
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イチオシ
島津義弘は西軍の最前線。
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イチオシ
黒田長政は、島左近の正面です。
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石田三成の陣。東軍は、三成、宇喜多の陣に集中して攻めてきます。それでもしばらくは持ちこたえたのは、戦に弱いと言われた三成のせめてもの面目躍如といったところでしょう。
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井伊直正が駆けていますが、島津隊の追撃でしょうか。
なお、館内には、関ヶ原の戦いを解説する放送が絶え間なく流れていて、これも雰囲気を盛り上げています。 -
関ケ原ウォーランドで、また少し頭の整理ができたところで。
いよいよ石田三成陣跡。ここは、笹尾山という関ヶ原でも一番奥の高台です。 -
少し山を登って、
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その山頂に
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関ヶ原古戦場の石碑が建っていました。
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さて、振り返って、関ヶ原全体を眺めてみます。
ここからだと正面の東軍に向かっては緩やかに下って行く地形。西軍にとっては、かなり有利な場所であることが実感されます。家康の陣に対して、前方に最も信頼を置いた宇喜多隊、小西隊を配し、背後の南宮山には毛利隊、側面には小早川隊と関ヶ原を囲むような西軍の陣形であり、そして、ここはこれらの軍勢を鳥瞰するにはもっとも好都合な場所でもある。 -
ただ、結局、南宮山の毛利隊は動かず、小早川は裏切るという最悪の結果とはなったのですが、ここまでの布陣に持って行っただけでも、石田三成の手腕は並々ならないものがあったように感じます。
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パネルには、諸将の兵力が示されています。
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この中で、実際に戦ったのは、特に西軍では一部。一方で、やはり家康旗下の軍勢が3万と突出しているのも目を引きます。
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笹尾山から帰りの関ヶ原駅まではだらだらと下って行くことになります。
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ここは陣場野公園。関ケ原合戦での家康最後の陣地。周辺を土塁が囲み、中央に高台があったりして、それなりに整備されていていますが、これは後世になってから。幕府の命を受けたこの地の領主、竹中家が築いたものだということです。
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徳川家康は、当初、桃配山に陣を構えていましたが、西軍有利の戦況を見て、東軍全軍を鼓舞するためにあえて本陣を前線であるこの地に進めます。戦いの機微を知っていた家康の真骨頂というべき行動です。ここから石田三成の陣、笹尾山へはだらだらと坂を上って行く地形であり、素人から見れば、ある意味危険極まりない場所のようにも思えます。
勝利した後は、諸将を集めここで首実検を行ったということでもあります。大仕事を成し遂げた満足感に浸る家康の姿が想像されるようでした。この時、家康は享年57歳。大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼすのは15年後。家康のしぶとさもちょっと計り知れないものがありますね。 -
隣りは関ケ原町歴史民俗資料館。
見どころは、入ってすぐの関ヶ原の戦いの戦況推移を説明する壁いっぱいに作られた模型。私は、関ヶ原の戦場に展開した諸隊の陣跡の方を先に見たので、ここではそれらを復習するような形になりました。
いずれにしても、誰もが知っている関ヶ原の戦いですから、それなりに分かっていたつもりの内容ではあったのですが、やっぱり個々にはいろんなドラマがある。一日で終わったとはいえ、思うところがとても多い戦いであると思います。 -
ここから関ヶ原駅はもうすぐです。
松平忠吉 井伊直政陣跡は、その途中。
当初はここが東軍の最前線です。家康最後の陣地はこの先だったわけですから、家康がいかに大きく動いたのかが分かります。
ところで、関ヶ原の戦いは、松平忠吉 井伊直政隊の兵力6千が宇喜多隊に鉄砲を打ちかけたことで始まるのですが、それは福島隊の脇を抜けてさらに前に出たということ。しかし、正面にはむしろ島津隊の陣や小西隊の陣があるので、それを避けて迂回したような感じもします。
また、島津隊への追撃では、松平忠吉と井伊直政はともに傷を受け、その傷がもとでほどなく亡くなっています。松平忠吉は、家康の四男であり、かつ、直政の娘婿という関係。井伊家はこの後、彦根藩35万石の藩主として、徳川四天王の中でも破格の待遇を得ることとなるのです。 -
東首塚は、松平忠吉井伊直正直政陣跡の隣りです。
ここも西首塚と同じで、関ケ原の戦いで戦死した兵士たちを埋葬した場所。徳川家康が首実検をした後のの死体もここに埋葬されました。
西首塚と同様に、この地の領主、竹中重門が、家康の命により築きました。ただ、西首塚よりは敷地が広いし、首を洗ったという井戸もあって、こちらの方が比較的見やすいかなあと思います。
さて、以上で関ヶ原は終了です。 -
そして、もう一つ気になっていた京極家の菩提寺、清瀧寺徳源院を訪ねます。
徳源院は柏原駅から歩きましたが、けっこう遠いです。 -
しかし、さすがは北近江を支配した京極家の菩提寺。寺に続く川沿いの参道から始まって、寺を囲う塀の巡った感じだけでも来た甲斐があったように思いました。
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本堂に、
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三重塔の脇を抜けて、
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これが、是非見たかった京極家歴代34基の宝篋印塔が並ぶ京極家墓所。
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ただ、関ヶ原の戦いでは3千の兵を率いて大谷隊と激しく戦った京極高知の墓は見当たらず。高知の墓は舞鶴の本行寺と京都の大徳寺芳春院にあるようです。
とはいえ、ここのメインは高知の兄、京極高次。京極家は湖北を中心に勢力を張る名門だったのですが、浅井氏にその地位を奪われ不遇をかこっていました。それを再興したのは高次です。秀吉に見いだされて才覚を発揮しだすのですが、関ヶ原の戦いでは東軍に付き、大津城の戦いで西軍1万の軍勢を足止めした功績は家康の高く評価されることとなりました。妻は浅井三人姉妹の2番目、お初。関ヶ原の戦いの後は、小浜10万石に栄転しています。なお、高知は、細川忠興に後、丹後に入っています。 -
内部は、こんな感じ。
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宝塔造りのお墓。規模はさほどではありませんが、やっぱり大名家墓所の格式を感じます。
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徳源院から、中山道柏原宿に戻ってきました。
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この宿は、中山道60番目の宿場街。ここまで帰ってきたら柏原駅はもうすぐです。
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高札場跡や
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もぐさの老舗伊吹に
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和宮が下向したことを示す石柱など、街並みのところどころに案内もあって、意外によく整備されているように思いました。
以上で、初日の垂井・関ヶ原はおしまい。これから後半の京都に向かいます。
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