糸満・ひめゆり旅行記(ブログ) 一覧に戻る
≪戦後70年沖縄全全戦没者追悼式典 祭壇の様子≫<br /><br />なにも考えずにただ南の島へとやって来て、ぼ~っと時間を過ごすことに始まった沖縄の旅ですが、いつの間にか11回目になりました。中でも一昨年9月に〝初石垣〟を経験してからは実に1年9ヶ月の間に7回目になります。<br /><br />いつもは〝日にち重視パターン〟というより〝値段重視〟なので、LCCのバーゲンを見つけては手配した後に休みを取るパターンでした。しかし今回は初めて〝日にち重視〟でまず〝宿手配〟から始まった沖縄の旅、目的はかねてより一度参列してみたいと思っていた6月23日の〝沖縄慰霊の日〟に沖縄県営平和祈念公園で執り行われる〝戦没者追悼式典〟、そして前日夜から始まる〝沖縄の最も長い一日〟に触れることにありました。<br /><br />今回はいつもの〝沖縄時間〟を過ごすこととは目的が異なるため、手配状況によっては旅行会社のフリープランを使うことも考えていました。しかしたまたま1月にJet Starのバーゲンにて〝この日〟を含む日程でチケットが手配できたため、結局プラン二ングの段階では従来となんら変わらないものにはなっています。ただ内容がかなり〝違った〟ものになるため、展開を変えています。<br /><br />この章〝≪2015.Jun≫あみんちゅ歴史に触れる旅沖縄その壹之③~戦後70年沖縄全戦没者追悼式参列:3日目~〟では、戦後70年沖縄全戦没者追悼式参列に始まり〝沖縄のもっとも長い一日〟を過ごしたことについて書いています。<br /><br />【2015年6月23日火曜日】<br />糸満市大度 10:26<br />沖縄晴明の丘公園 10:48 3.6km<br />         11:00<br />沖縄県営平和祈念公園 11:20<br /><br />〝戦後70年沖縄全戦没者追悼式典〟参列。<br />  11:50~12:59<br /><br />沖縄県営平和記念公園14:41(並び始めは14:00)<br />沖縄晴明の丘公園 14:45<br />         15:09<br />沖縄師範健児之塔 15:13 4.7km<br />         15:44<br />沖縄県営平和祈念公園 15:57 6.0km<br />           19:56<br />糸満市大度 20:16// 10.5km【ADD:193.0km】<br /><br />今回の旅3日目にして〝最大の目的〟である〝戦後70年沖縄全戦没者追悼式〟の日を迎えました。沖縄県の条例で定められている〝休日〟である6月23日ですが、戦後70年の節目の年でもあり、朝から多くの場所で〝慰霊式典〟が行われています。ひとつでも多く参列したい気持ちはあれど、なかなか気持ちがついて行きません(泣)。沖縄県営平和祈念公園の〝追悼式〟は沖縄県の公式行事として〝概要〟が発表されていましたが、その他は〝準非公式〟の扱いのようでした。〝準非公式〟というとあまり聞こえがよくないように思われるのかも知れませんが、慰霊碑を管理されておられる個々の〝組織〟単位にて〝追悼式〟を挙行されているため、〝情報を発信する〟ことまではされておられないようでした。米須霊域の〝魂魄之塔〟は12:30~(同宿者さんからの情報)、〝健児之塔〟は10:00~(現地調査)というところは確認しました。<br /><br />朝食を済ませ、11:50から始まる〝戦後70年沖縄全戦没者追悼式〟に参加するために宿を出発します。大度からだと平和祈念公園へは右折するとすぐですが、飲み物を購入するため〝ファミリーマート糸満米須店〟へと向かいます。国道331号線へと入ってすぐ対向側に〝横断幕〟を持った一団が見えてきます。これが9:00に糸満小学校を出発し、平和祈念公園まで歩く〝平和祈願慰霊大行進〟の一団ですが…、警察車両の護衛はなしのようです。一般財団法人沖縄県遺族連合会の主催で行われているものですが、遺族そのものの高齢化に伴い、その〝関係者〟が主になっているようです。しかしこの〝慰霊の日〟は毎年〝天気が良い〟と言われています。今年も例に漏れず、〝炎天下〟での行進は思いの外〝重労働〟のように見えました。実はヘタレの私も参加を考えましたが、糸満小学校から沖縄県営平和祈念公園まで10.3kmと、結構な距離を歩く自信がなく諦めました。まあ半分強の距離である糸満市米須で、かなり長い列にはなっていましたが、〝大声〟を上げる訳でもなく黙々と歩く姿には賛同はできますが、かと言っていつ来るかわからない〝最後尾〟まで見ることは、時間的に無理でしたが…。<br /><br />行進団は〝赤信号OK〟なので、タイミングよく出て行かないと〝道路〟にすら出られません。そこは十分注意を払って出発し、〝駐車場兼シャトルバス乗場〟である〝沖縄晴明の丘公園〟へと到着します。〝沖縄晴明の丘公園〟というと〝海の見える公園〟の名前のような印象を受けますが、〝霊園〟でした。公式情報で書かれていた〝県庁〟と〝豊崎臨海公園〟の他、〝晴明の丘公園〟と〝糸満観光農園〟が追加されていました。ここに車を停めシャトルバスに乗り換えて、平和祈念公園へと到着します。途中〝平和祈願慰霊大行進〟の一団が〝ショートカットルート(国道までの近道)〟を通るため、道を横断することもあり、普段なら〝所要時間〟すら気にしない距離ですが、結構な渋滞です。勿論それは仕方のないことですが、〝徐行〟して進むバスの車内からは、様々な景色を見ることができます、いや〝見させられる〟といってもいいかも知れません。<br /><br />昨日夜に平和祈念公園を訪れた際、入口の門扉に〝辺野古移設問題〟と〝翁長知事〟について〝バッシング〟する〝両意見〟の横断幕が貼られていました。〝貼るだけ〟であれば〝見る〟も〝見ない〟も自由だと思いますが、〝慰霊式〟の当日に〝遺族〟を含む〝参列者〟に向けての〝シュプレヒコール〟というのは如何なものでしょうか。〝日本国憲法〟のもと〝言論の自由〟は保障されているため、その〝言動〟そのものには問題はないにしても、〝慰霊式〟に参列することを目的にしている方々に敢えてそれを〝見せつける〟必要があるのかどうかは〝疑問〟に思います。〝戦後70年沖縄全戦没者追悼式〟という〝呼称〟が何故付けられたものなのか、遺族の高齢化によって〝戦後71年〟という呼称は〝ないかも〟という意見も少なくない中で、〝今年が最後〟かもしれない・・・という覚悟をされておられる方も少なくはありません。その方々が〝乗っているかも知れないバス〟に向かっての〝抗議活動〟は、沖縄戦に於ける〝全戦没者慰霊〟のために設けられたこの〝式典〟を冒涜するもののようにも思えます。勿論〝政治的解決を図る手段〟としての〝抗議活動〟そのものを否定するつもりはありません。しかしTPOは弁えて頂きたい…。バスの中でも〝言っているよ~〟という意見は出ていました。それがあなた方の〝抗議活動〟に対する〝意見〟であり〝評価〟です。多分すぐ近くの場所で〝行うことが許された場所〟があったこともご存じない方のようでは話になりません…。<br /><br />のっけからヒートアップしてしまいましたが、取り敢えず〝沖縄県営平和祈念公園〟に到着します。年間の〝沖縄県公式行事〟で最も人が集まるといわれるこの日、さすがに人は多いです。昨日写真に収めた〝慰霊式〟の〝祭壇〟前の〝テント〟下に入るには〝金属探知機〟チェックを含む〝手荷物検査〟があります。勿論一般観光客であっても入ることはできるのですが、今回は〝式典〟内部には入らず、ひとりの〝ギャラリー〟として〝式典参加〟をすることにします。〝式典内部〟と〝ギャラリー〟参加となにが違うか?ややこしい話ではありますが、公式発表で当日の参加者が5,400名とされていますが、これが〝式典内部〟の参列者、つまり〝手荷物検査〟を受けて参列された方で、私のように〝式典会場を取り囲む〟ように参列された方は、約20,000名位おられます。いくら広い公園とはいえ25,000名を抱えると大混雑になって当たり前です。遺族の高齢化に伴い、昨年は5,000名を初めて割り込んだと書かれていますが、まだ捨てたものでもありません。<br /><br />そして定刻11:50に〝式典の開会〟宣言され、正午の〝1分間の黙祷〟を挟み、沖縄県内外の著名人による〝慰霊の言葉〟と〝献花〟が行われます。新聞にも書かれていたことですが、この〝戦後70年沖縄全戦没者追悼式〟には、沖縄県知事翁長雄志氏、内閣総理大臣安倍晋三氏、米国駐日大使のキャロラインケネディ氏(Caroline Bouvier Kennedy)が参加されておられます。そのための〝厳戒態勢〟が敷かれていたこともあるのですが、翁長知事の辺野古問題について言及するも、県内外からの追悼式参加者に対し、沖縄戦の表現を〝史上稀に見る熾烈な地上戦〟と変えたことに対しては、〝平和宣言〟としての意味は成しているように感じました。それに対し安部総理は、沖縄戦を〝国内最大の地上戦の場〟としています。〝沖縄戦から70年を迎えた本日〟とか首を傾げたくなる〝文言〟もあれど、〝建前論〟だけではなかったようにも思います。言葉尻を捉えるような話ではあれど、〝全く別次元〟の〝平和宣言〟をされていた訳ではなかったというのが参列者の個人的感想です。<br /><br />しかし〝聞くに堪えない言動〟、それが〝ヤジ〟です。色々な〝書き方〟をされているものに目を通しましたが、〝ヤジの応酬〟だったかというとそうではなかったように思います。平和宣言の読み上げているときに5名、退席時に3名、実はそれ位の〝ヤジ〟しか飛んでいない、もしくは聞こえていない・・・、これが事実です。もしこれが安部総理が平和宣言を読み上げている〝数分間〟続いていたならまた解釈も変わるように思いますが、公式参列者以外も含む〝何万〟という参列者の前での〝散発的なヤジ〟が評価されるものであるわけはありません。寧ろ〝TPOを弁えていない不快なもの〟と捉えられて当たり前と思います。<br /><br />追悼式典という〝厳か〟な雰囲気の中で行われた〝ヤジ〟…、これを肯定する〝マスコミ〟の有り方に対しても疑問を感じます。ただひとつ間違いなく言えることは、マスコミも〝仕事〟でやっているということです。新聞記事のトップを飾る写真を撮ることが彼らの仕事かも知れませんが、あの混雑の中〝報道〟と書かれた〝黄色のリボン〟が〝葵の御紋〟になる訳はありません。前方を見ることに夢中になっている〝一般〟の方の後ろに脚立を持って近づいて撮影する様は、何ら〝追悼式〟の模様を〝正確に伝えよう〟とする意図は感じられません。参列者が追悼式の模様を写真に収めようとしている前に割り込んでカメラを構えている姿…写真に収めておけばよかったと今からすると思います。<br /><br />その〝ヤジ〟こそが〝沖縄の民意〟だったとする意見が多々あるようですが、実際にはどうだったのでしょうか。勿論参列されていない方も多くおられる現実の中で、〝マスコミネタ〟として取り上げられることが果たして〝民意〟なのでしょうか。私が平成27(2015)年6月23日11:50~12:59に体験した〝戦後70年沖縄全戦没者追悼式〟の話を聞いた方は口を噤みます。場違いだと…。<br /><br />〝場を弁えた抗議活動〟ならば、何か〝聴衆に伝わるもの〟はあるようにも思えます。しかしそれを〝逸脱〟してしまうと、〝逆効果〟になるリスクも考えないといけないのではないでしょうか。公園入口での〝辺野古抗議活動〟、式典中の〝ヤジ〟…、これは全く別の人間がやったことなのかも知れませんが、〝戦後70年沖縄全戦没者追悼式〟のことを〝軽視〟した言動の数々を同一視している方が多い…それだけはここで述べておきます。<br /><br />〝戦後70年沖縄全戦没者追悼式〟参列後、久しぶりに平和祈念公園の中を歩きます。〝平和の礎〟、沖縄戦に於ける戦没者のお名前が刻まれているものですが、国・都道府県別に50音順に刻まれているものです(追加記銘者は別)。大多数の民間をも含む犠牲者をだした沖縄に関しては、集落単位で刻まれていることは初めて知りました。私も母方の祖父が沖縄戦で亡くなっているため、今まで3回この〝平和の礎〟を訪れています。前回は1年前の7月に来ているため、なんとなくですが場所を覚えています。見つけました…。ふと気づいたことですが、〝平和の灯〟に続く道の両端に〝平和の礎〟が並んでいますが、向かって左側が〝沖縄〟のご出身者のものだということです。気が付かないとそれまでのことですが、ビジュアルで〝沖縄の犠牲者の多さ〟を誰もが知ることができる〝現実〟なのかも知れません。祖父の名前を見つけ手を合わせた後、〝平和の火〟、そして平和祈念公園の端から見る〝海〟を見に行きます。70年前にはこの海の色が〝赤〟だったのか〝黒〟だったのかはわかりません。また知らなくてもいい平和な時代なのかも知れません。<br /><br />物想いに耽りたい気持ちはありますが、確か最終のシャトルバスが14:30だったので一旦戻らないといけません。〝平和の礎〟内の道を戻って行きますが、その駐車場側の入口付近に〝記銘位置〟を表示するパソコンがあります。場所は覚えていたのと人が多かったので通過しましたが、帰り道に空いていたので寄ってみました。ここでも沖縄の犠牲者の多さを知ることがありました。そこそこご年配の方が操作するのに時間が掛かることは仕方がないことだと思っていました。しかしそれだけの理由ではありません。つまりおひとりが検索される〝人数〟こそが〝身内の犠牲者〟であり、そのトータルが〝沖縄の犠牲者〟だということ。早くやって貰いたいから〝手伝った〟だけの私は、それを知った時自分の無知を恥ずかしく思うしかありませんでした。<br /><br />色々とあった〝戦後70年沖縄全戦没者追悼式〟と〝沖縄県営平和祈念公園〟の第一弾は終了して、一度〝沖縄晴明の丘公園〟へと戻って車を取って来ることにします。シャトルバス乗り場へと並びますが、閉式後1時間程経った時間が一番混んでいるようでした。とはいえバスが来ると半分は乗れるので、だらだらと並び続けて40分…やっと順番が回ってきました。しか~しこの時点で14:30の最終バスの時刻をオーバーしています。周辺の混み具合を考えるとそれなりの時間はかかると思っていましたが、帰りは行きの〝平和行進専用〟とされていた道が解放されており、僅か4分で到着します。さすがに〝あれっ〟と思いましたが、まだ陽が高いので〝行けるところは行こう〟と思い車を走らせます。<br /><br />そして向かった先は、昨年7月に〝黎明之塔〟より必死になって歩いた〝沖縄師範健児之塔〟。車で入れることは昨年12月に確認済みなので、解放された道を人を避けながらちんたら走って行きます。駐車場付近にあるのは〝閉店したお店〟。見た感じ〝お土産物屋〟だったように見えますが、さほど大きな駐車場でもなければ、どれ位の売り上げがあったのだろう…と思いつつ歩いて行きます。そして約1年ぶりの〝沖縄師範健児之塔〟に到着します。こちらではご遺族の方が主体となって6月23日10:00~追悼式典が行われていた〝こと〟が書かれていました。たくさんの献花に囲まれた碑は、70年前砲弾の飛び交う中を右往左往することしかできず、力尽きひとり倒れて行った若者達の無念さと寂しさを〝紛らわせる〟かのように…。今となっては手を合わせることしかできませんが…合掌。<br /><br />こちらの駐車場に車を停めてきたのは初めてです。昨年12月の夜に来ている筈なのですが…、〝沖縄師範健児之塔〟まで行ったと記録していますが、もし行ったのなら〝暗闇の道〟を歩いて行ったことになりますが…、なんか自信がありません。駐車場より5分程度歩かないといけないので…。なので改めてこの一帯を歩いてみることにします。〝沖縄師範健児之塔〟の他、〝南溟の塔〟〝独立臼砲第1連隊戦没英霊之碑〟〝 風部隊之碑〟の4つの慰霊塔を巡りながら歩きます。<br /><br />結構アップダウンのある場所を歩いて回った後、もう一度平和祈念公園へと戻ることにしました。駐車場に車を停めるのに若干時間は要したものの、式典前に比べると〝おや?〟っと首を傾げるくらい空いています。今日〝沖縄慰霊の日〟は、〝平和祈念館〟や〝平和祈念堂〟の入場は無料となっています。入場料位は払いますよ~といいながらも、ちゃっかり恩恵を被ります。<br /><br />まずは〝沖縄平和祈念堂〟、ここは初めての来館です。そういえば〝建物〟はあったかな…くらいの記憶しかないのは、いつも沖縄県営平和祈念公園を訪れるときは、時間に追いまくられており、一時間程で回る範囲でしか行動していません。なので最も〝低い位置〟にある沖縄県営平和記念公園からは、〝ヘタレ〟は常に〝しんどそう…〟と思っていたのかも知れません。しかし今日は意を決して向かいます。中心に〝平和祈念像〟が安置されているこの〝沖縄平和祈念堂〟ですが、美術館的な要素が強いように思います。連作絵画による〝戦争と平和〟など、平和祈念館とはまた違ったニュアンスで平和を語っているように思います。残念ながら私には〝絵〟の良さは分からないためイマイチ理解ができないのが残念でした。<br /><br />そして沖縄県平和祈念資料館、ここには3回目になりますが、前回来たのが2011年3月17日のこと。いきなり脈絡のない話になりましたが、つまり東日本大震災の6日後だった訳です。その時にどういう経緯があって沖縄へ来たのか、恥ずかしながら〝覚えていません〟。どこかへ行くために神戸空港へ着いたものの、すぐに乗れる飛行機が那覇行きだったので〝沖縄〟へ来たというだけのことでした。その頃はまだ〝沖縄病〟に罹患している訳でもなく、街中をドライブしているうちに着いた先がこの〝沖縄県平和祈念資料館〟だったように思います。しかしこの〝沖縄県平和祈念資料館〟で過ごした時間だけは〝鮮明〟に覚えています。じっくり何時間もいたのか、違います。全く逆で僅か30分程で気分が悪くなり退出しました。なにが原因か?これは展示物にある〝人骨の集まり〟を見た瞬間、震災の様子と被ってしまったことにありました。私自身〝感受性〟がそれ程高い訳ではなく、むしろ〝無頓着〟な方だと思っています。ではなぜ急にそうなったのか?実は私自身仙台に住んでいたことがあり、それも含め〝他人事ではない〟ように思っていました。そこで見た〝沖縄戦〟の惨劇の展示物に〝オーバーラップ〟するものを感じたための反応だったと思います。実はこの話〝逆のパターン〟があることは、沖縄では知られている話で、特に学徒隊に参加された方が、テレビの震災報道を見て〝拒否反応〟を示されたことは、当時記事にも書かれていました。PTSD(心理的外傷)に起因するものでしょうが、これは人によりけりとは思うものの、今尚沖縄での〝終わらない戦争〟を物語ることのように思います。ただ〝住んでいた〟だけで〝拒否反応〟を起こす人間もいるのであれば、その〝惨劇そのもの〟を経験した方の心に負った傷の深さは、到底〝知ることができない〟ものだと思います。私は専門家ではないのでどうすればいいのかなどわかる訳もありません。3年の月日が過ぎ、やっと直視ができるようになった時にふと思い出したことだったのでここに記します。<br /><br />炎天下の公園内を避けて涼んでおられる方も少なくはないなか、それなりに〝作成意図〟が伝わってくる〝平和への願い〟には、素直にそうなればいいね…と思います。滋賀県知事〝三日月大造氏〟もコメントを寄せていましたが…。先に遠くから行ったかたちになりますが、本日の沖縄県平和祈念資料館の閉館が18:00だったのでそうしています。<br /><br />夏の日差しが降りそそいだ沖縄島最南端の地も、日が傾き夕暮れが迫ってきたことで歩きやすくなり、自称〝ヘタレ〟もまた歩き始めます。摩文仁の丘でも下の方にあるため〝行くのが容易〟だったはずにも拘らず初めて〝島守の塔〟を訪れます。官選最後の沖縄県知事〝島田叡〟氏、沖縄県警部長〝荒井退三〟氏をはじめとする〝沖縄県職員〟の戦没者を祀っています。自分の身に降りかかる困難をどう捉えていたのか…、ヘタレの私には想像ができませんが、その逸話が今尚健在で、県民から慕われていることは、献花の数からも伺えます。また〝沖縄県民斯く戦ヘり〟の電文を発信した海軍沖縄根拠地隊〝大田實〟司令官が、なぜ〝県知事に代わり〟沖縄県民の戦いざまを発信したのか?実は島田知事と大田司令官は〝肝胆相照らす〟関係であったことから、通信能力のない沖縄県に代わり打電したものこそ〝沖縄県民斯く戦ヘり〟の電文そのものになります。時代背景は戦争中であり、滅私奉公の考えのもとで〝一億総動員〟が叫ばれていました。しかしその中には〝生きる勇気〟を語る〝偉人〟もおられたことは忘れてはならないことだと思います。そしてその隣にある〝栃木の塔〟、こちらもじいちゃんが眠っている場所として私には特別のものです。できることはただ手を合わせることしかできませんが…。<br /><br />辺りが暗くなるにつれ、〝平和の礎〟では〝報道番組〟を撮っているようです。式典そのものに参加し、〝メディア〟の有り方に疑問すら感じた一人としては、興味すらないので素通りします。〝命どぅ宝(ぬちどぅたから)〟の碑の前の池では、沖縄県平和祈念財団主催の〝平和の篭流し〟が始まりました。同宿のご夫婦が〝北海道〟代表として参加を頼まれたとの話をお聞きしていたので、それも含めて見ようとしていたら…いつの間にか〝終了〟宣言が出てしまいました。確かに広島とはまた違う形での〝燈籠流し〟、定番と言ってしまえばそれまでかも知れませんが、子供主体として行われていたことに素直に〝平和への祈り〟を思います。その時間に併せて沖縄の任意団体である〝万国津梁の会〟の主催により、〝キャンドル平和の灯〟7000本をエントランス広場から平和の礎刻銘碑にかけて灯すことが行われていましたが、やはり〝平和の礎〟の〝メイン通り〟の中央部に〝2Lのペットボトル〟を用いた〝キャンドル〟を立てるのは、〝人通り〟のことを考えると無茶なところはあったようにも思います。勿論立てている場所によっては、背景に溶け込み〝いい味〟を出していたと思います。もし継続的に行われるのであれば、悪気なく人が〝引っ掛けてしまう〟ことを考えての設置を望みます。<br /><br />この〝キャンドル〟がしっくりくる頃には、夏至の頃の沖縄の地でもさすがにあたりは暗くなります。約9時間沖縄県営平和祈念公園にいたことは初めての経験であり、様々な問題にも気付かされた貴重な時間でした。大凡20:00にはすべてが終わると聞いていたので、それに合わせ宿へと戻ります。出発から帰着まで10時間出歩いていたわりには、一日の走行距離が10.5kmと、一日あたりの移動距離は過去最低を記録した平成27年(2015)年6月23日のすべてのアクティビティは終了し、途中コンビニ経由して宿に到着します。平和祈念公園に詰めていたため集めてきた〝各紙の号外〟をお土産代わりに渡しながら食事を済ませると、炎天下頑張ってきたため急に眠くなってきます。取り敢えずはシャワーを浴びて汗を流すと、いつも間にか寝てしまったようです。多分日も跨がないうちに…zzz。そして今回の旅最終日を迎えます。<br /><br />【宿泊:直接手配】<br />みん宿ヤポネシア<br />〒901-0334 沖縄県糸満市大度309-42<br />Tel:098-997-2136・070-5581-5986<br />一泊二食付6,000円<br />http://www.yaponesia.com/<br />mail to:info@yaponesia.com<br /><br /><br />〝2015年6月23日火曜日〝沖縄慰霊の日〟~戦後70年沖縄全戦没者追悼式~〟<br />http://4travel.jp/travelogue/11024846<br /><br /><br />これで〝≪2015.Jun≫あみんちゅ歴史に触れる旅沖縄その壹之③~戦後70年沖縄全戦没者追悼式参列:3日目~〟は終ります。<br />次は最終章〝≪2015.Jun≫あみんちゅ歴史に触れる旅沖縄その壹之④~戦後70年沖縄全戦没者追悼式参列:4日目~〟に続きます。

≪2015.Jun≫あみんちゅ歴史に触れる旅沖縄その壹之③~戦後70年沖縄全戦没者追悼式参列:3日目~

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2015/06/21 - 2015/06/24

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

≪戦後70年沖縄全全戦没者追悼式典 祭壇の様子≫

なにも考えずにただ南の島へとやって来て、ぼ~っと時間を過ごすことに始まった沖縄の旅ですが、いつの間にか11回目になりました。中でも一昨年9月に〝初石垣〟を経験してからは実に1年9ヶ月の間に7回目になります。

いつもは〝日にち重視パターン〟というより〝値段重視〟なので、LCCのバーゲンを見つけては手配した後に休みを取るパターンでした。しかし今回は初めて〝日にち重視〟でまず〝宿手配〟から始まった沖縄の旅、目的はかねてより一度参列してみたいと思っていた6月23日の〝沖縄慰霊の日〟に沖縄県営平和祈念公園で執り行われる〝戦没者追悼式典〟、そして前日夜から始まる〝沖縄の最も長い一日〟に触れることにありました。

今回はいつもの〝沖縄時間〟を過ごすこととは目的が異なるため、手配状況によっては旅行会社のフリープランを使うことも考えていました。しかしたまたま1月にJet Starのバーゲンにて〝この日〟を含む日程でチケットが手配できたため、結局プラン二ングの段階では従来となんら変わらないものにはなっています。ただ内容がかなり〝違った〟ものになるため、展開を変えています。

この章〝≪2015.Jun≫あみんちゅ歴史に触れる旅沖縄その壹之③~戦後70年沖縄全戦没者追悼式参列:3日目~〟では、戦後70年沖縄全戦没者追悼式参列に始まり〝沖縄のもっとも長い一日〟を過ごしたことについて書いています。

【2015年6月23日火曜日】
糸満市大度 10:26
沖縄晴明の丘公園 10:48 3.6km
         11:00
沖縄県営平和祈念公園 11:20

〝戦後70年沖縄全戦没者追悼式典〟参列。
  11:50~12:59

沖縄県営平和記念公園14:41(並び始めは14:00)
沖縄晴明の丘公園 14:45
         15:09
沖縄師範健児之塔 15:13 4.7km
         15:44
沖縄県営平和祈念公園 15:57 6.0km
           19:56
糸満市大度 20:16// 10.5km【ADD:193.0km】

今回の旅3日目にして〝最大の目的〟である〝戦後70年沖縄全戦没者追悼式〟の日を迎えました。沖縄県の条例で定められている〝休日〟である6月23日ですが、戦後70年の節目の年でもあり、朝から多くの場所で〝慰霊式典〟が行われています。ひとつでも多く参列したい気持ちはあれど、なかなか気持ちがついて行きません(泣)。沖縄県営平和祈念公園の〝追悼式〟は沖縄県の公式行事として〝概要〟が発表されていましたが、その他は〝準非公式〟の扱いのようでした。〝準非公式〟というとあまり聞こえがよくないように思われるのかも知れませんが、慰霊碑を管理されておられる個々の〝組織〟単位にて〝追悼式〟を挙行されているため、〝情報を発信する〟ことまではされておられないようでした。米須霊域の〝魂魄之塔〟は12:30~(同宿者さんからの情報)、〝健児之塔〟は10:00~(現地調査)というところは確認しました。

朝食を済ませ、11:50から始まる〝戦後70年沖縄全戦没者追悼式〟に参加するために宿を出発します。大度からだと平和祈念公園へは右折するとすぐですが、飲み物を購入するため〝ファミリーマート糸満米須店〟へと向かいます。国道331号線へと入ってすぐ対向側に〝横断幕〟を持った一団が見えてきます。これが9:00に糸満小学校を出発し、平和祈念公園まで歩く〝平和祈願慰霊大行進〟の一団ですが…、警察車両の護衛はなしのようです。一般財団法人沖縄県遺族連合会の主催で行われているものですが、遺族そのものの高齢化に伴い、その〝関係者〟が主になっているようです。しかしこの〝慰霊の日〟は毎年〝天気が良い〟と言われています。今年も例に漏れず、〝炎天下〟での行進は思いの外〝重労働〟のように見えました。実はヘタレの私も参加を考えましたが、糸満小学校から沖縄県営平和祈念公園まで10.3kmと、結構な距離を歩く自信がなく諦めました。まあ半分強の距離である糸満市米須で、かなり長い列にはなっていましたが、〝大声〟を上げる訳でもなく黙々と歩く姿には賛同はできますが、かと言っていつ来るかわからない〝最後尾〟まで見ることは、時間的に無理でしたが…。

行進団は〝赤信号OK〟なので、タイミングよく出て行かないと〝道路〟にすら出られません。そこは十分注意を払って出発し、〝駐車場兼シャトルバス乗場〟である〝沖縄晴明の丘公園〟へと到着します。〝沖縄晴明の丘公園〟というと〝海の見える公園〟の名前のような印象を受けますが、〝霊園〟でした。公式情報で書かれていた〝県庁〟と〝豊崎臨海公園〟の他、〝晴明の丘公園〟と〝糸満観光農園〟が追加されていました。ここに車を停めシャトルバスに乗り換えて、平和祈念公園へと到着します。途中〝平和祈願慰霊大行進〟の一団が〝ショートカットルート(国道までの近道)〟を通るため、道を横断することもあり、普段なら〝所要時間〟すら気にしない距離ですが、結構な渋滞です。勿論それは仕方のないことですが、〝徐行〟して進むバスの車内からは、様々な景色を見ることができます、いや〝見させられる〟といってもいいかも知れません。

昨日夜に平和祈念公園を訪れた際、入口の門扉に〝辺野古移設問題〟と〝翁長知事〟について〝バッシング〟する〝両意見〟の横断幕が貼られていました。〝貼るだけ〟であれば〝見る〟も〝見ない〟も自由だと思いますが、〝慰霊式〟の当日に〝遺族〟を含む〝参列者〟に向けての〝シュプレヒコール〟というのは如何なものでしょうか。〝日本国憲法〟のもと〝言論の自由〟は保障されているため、その〝言動〟そのものには問題はないにしても、〝慰霊式〟に参列することを目的にしている方々に敢えてそれを〝見せつける〟必要があるのかどうかは〝疑問〟に思います。〝戦後70年沖縄全戦没者追悼式〟という〝呼称〟が何故付けられたものなのか、遺族の高齢化によって〝戦後71年〟という呼称は〝ないかも〟という意見も少なくない中で、〝今年が最後〟かもしれない・・・という覚悟をされておられる方も少なくはありません。その方々が〝乗っているかも知れないバス〟に向かっての〝抗議活動〟は、沖縄戦に於ける〝全戦没者慰霊〟のために設けられたこの〝式典〟を冒涜するもののようにも思えます。勿論〝政治的解決を図る手段〟としての〝抗議活動〟そのものを否定するつもりはありません。しかしTPOは弁えて頂きたい…。バスの中でも〝言っているよ~〟という意見は出ていました。それがあなた方の〝抗議活動〟に対する〝意見〟であり〝評価〟です。多分すぐ近くの場所で〝行うことが許された場所〟があったこともご存じない方のようでは話になりません…。

のっけからヒートアップしてしまいましたが、取り敢えず〝沖縄県営平和祈念公園〟に到着します。年間の〝沖縄県公式行事〟で最も人が集まるといわれるこの日、さすがに人は多いです。昨日写真に収めた〝慰霊式〟の〝祭壇〟前の〝テント〟下に入るには〝金属探知機〟チェックを含む〝手荷物検査〟があります。勿論一般観光客であっても入ることはできるのですが、今回は〝式典〟内部には入らず、ひとりの〝ギャラリー〟として〝式典参加〟をすることにします。〝式典内部〟と〝ギャラリー〟参加となにが違うか?ややこしい話ではありますが、公式発表で当日の参加者が5,400名とされていますが、これが〝式典内部〟の参列者、つまり〝手荷物検査〟を受けて参列された方で、私のように〝式典会場を取り囲む〟ように参列された方は、約20,000名位おられます。いくら広い公園とはいえ25,000名を抱えると大混雑になって当たり前です。遺族の高齢化に伴い、昨年は5,000名を初めて割り込んだと書かれていますが、まだ捨てたものでもありません。

そして定刻11:50に〝式典の開会〟宣言され、正午の〝1分間の黙祷〟を挟み、沖縄県内外の著名人による〝慰霊の言葉〟と〝献花〟が行われます。新聞にも書かれていたことですが、この〝戦後70年沖縄全戦没者追悼式〟には、沖縄県知事翁長雄志氏、内閣総理大臣安倍晋三氏、米国駐日大使のキャロラインケネディ氏(Caroline Bouvier Kennedy)が参加されておられます。そのための〝厳戒態勢〟が敷かれていたこともあるのですが、翁長知事の辺野古問題について言及するも、県内外からの追悼式参加者に対し、沖縄戦の表現を〝史上稀に見る熾烈な地上戦〟と変えたことに対しては、〝平和宣言〟としての意味は成しているように感じました。それに対し安部総理は、沖縄戦を〝国内最大の地上戦の場〟としています。〝沖縄戦から70年を迎えた本日〟とか首を傾げたくなる〝文言〟もあれど、〝建前論〟だけではなかったようにも思います。言葉尻を捉えるような話ではあれど、〝全く別次元〟の〝平和宣言〟をされていた訳ではなかったというのが参列者の個人的感想です。

しかし〝聞くに堪えない言動〟、それが〝ヤジ〟です。色々な〝書き方〟をされているものに目を通しましたが、〝ヤジの応酬〟だったかというとそうではなかったように思います。平和宣言の読み上げているときに5名、退席時に3名、実はそれ位の〝ヤジ〟しか飛んでいない、もしくは聞こえていない・・・、これが事実です。もしこれが安部総理が平和宣言を読み上げている〝数分間〟続いていたならまた解釈も変わるように思いますが、公式参列者以外も含む〝何万〟という参列者の前での〝散発的なヤジ〟が評価されるものであるわけはありません。寧ろ〝TPOを弁えていない不快なもの〟と捉えられて当たり前と思います。

追悼式典という〝厳か〟な雰囲気の中で行われた〝ヤジ〟…、これを肯定する〝マスコミ〟の有り方に対しても疑問を感じます。ただひとつ間違いなく言えることは、マスコミも〝仕事〟でやっているということです。新聞記事のトップを飾る写真を撮ることが彼らの仕事かも知れませんが、あの混雑の中〝報道〟と書かれた〝黄色のリボン〟が〝葵の御紋〟になる訳はありません。前方を見ることに夢中になっている〝一般〟の方の後ろに脚立を持って近づいて撮影する様は、何ら〝追悼式〟の模様を〝正確に伝えよう〟とする意図は感じられません。参列者が追悼式の模様を写真に収めようとしている前に割り込んでカメラを構えている姿…写真に収めておけばよかったと今からすると思います。

その〝ヤジ〟こそが〝沖縄の民意〟だったとする意見が多々あるようですが、実際にはどうだったのでしょうか。勿論参列されていない方も多くおられる現実の中で、〝マスコミネタ〟として取り上げられることが果たして〝民意〟なのでしょうか。私が平成27(2015)年6月23日11:50~12:59に体験した〝戦後70年沖縄全戦没者追悼式〟の話を聞いた方は口を噤みます。場違いだと…。

〝場を弁えた抗議活動〟ならば、何か〝聴衆に伝わるもの〟はあるようにも思えます。しかしそれを〝逸脱〟してしまうと、〝逆効果〟になるリスクも考えないといけないのではないでしょうか。公園入口での〝辺野古抗議活動〟、式典中の〝ヤジ〟…、これは全く別の人間がやったことなのかも知れませんが、〝戦後70年沖縄全戦没者追悼式〟のことを〝軽視〟した言動の数々を同一視している方が多い…それだけはここで述べておきます。

〝戦後70年沖縄全戦没者追悼式〟参列後、久しぶりに平和祈念公園の中を歩きます。〝平和の礎〟、沖縄戦に於ける戦没者のお名前が刻まれているものですが、国・都道府県別に50音順に刻まれているものです(追加記銘者は別)。大多数の民間をも含む犠牲者をだした沖縄に関しては、集落単位で刻まれていることは初めて知りました。私も母方の祖父が沖縄戦で亡くなっているため、今まで3回この〝平和の礎〟を訪れています。前回は1年前の7月に来ているため、なんとなくですが場所を覚えています。見つけました…。ふと気づいたことですが、〝平和の灯〟に続く道の両端に〝平和の礎〟が並んでいますが、向かって左側が〝沖縄〟のご出身者のものだということです。気が付かないとそれまでのことですが、ビジュアルで〝沖縄の犠牲者の多さ〟を誰もが知ることができる〝現実〟なのかも知れません。祖父の名前を見つけ手を合わせた後、〝平和の火〟、そして平和祈念公園の端から見る〝海〟を見に行きます。70年前にはこの海の色が〝赤〟だったのか〝黒〟だったのかはわかりません。また知らなくてもいい平和な時代なのかも知れません。

物想いに耽りたい気持ちはありますが、確か最終のシャトルバスが14:30だったので一旦戻らないといけません。〝平和の礎〟内の道を戻って行きますが、その駐車場側の入口付近に〝記銘位置〟を表示するパソコンがあります。場所は覚えていたのと人が多かったので通過しましたが、帰り道に空いていたので寄ってみました。ここでも沖縄の犠牲者の多さを知ることがありました。そこそこご年配の方が操作するのに時間が掛かることは仕方がないことだと思っていました。しかしそれだけの理由ではありません。つまりおひとりが検索される〝人数〟こそが〝身内の犠牲者〟であり、そのトータルが〝沖縄の犠牲者〟だということ。早くやって貰いたいから〝手伝った〟だけの私は、それを知った時自分の無知を恥ずかしく思うしかありませんでした。

色々とあった〝戦後70年沖縄全戦没者追悼式〟と〝沖縄県営平和祈念公園〟の第一弾は終了して、一度〝沖縄晴明の丘公園〟へと戻って車を取って来ることにします。シャトルバス乗り場へと並びますが、閉式後1時間程経った時間が一番混んでいるようでした。とはいえバスが来ると半分は乗れるので、だらだらと並び続けて40分…やっと順番が回ってきました。しか~しこの時点で14:30の最終バスの時刻をオーバーしています。周辺の混み具合を考えるとそれなりの時間はかかると思っていましたが、帰りは行きの〝平和行進専用〟とされていた道が解放されており、僅か4分で到着します。さすがに〝あれっ〟と思いましたが、まだ陽が高いので〝行けるところは行こう〟と思い車を走らせます。

そして向かった先は、昨年7月に〝黎明之塔〟より必死になって歩いた〝沖縄師範健児之塔〟。車で入れることは昨年12月に確認済みなので、解放された道を人を避けながらちんたら走って行きます。駐車場付近にあるのは〝閉店したお店〟。見た感じ〝お土産物屋〟だったように見えますが、さほど大きな駐車場でもなければ、どれ位の売り上げがあったのだろう…と思いつつ歩いて行きます。そして約1年ぶりの〝沖縄師範健児之塔〟に到着します。こちらではご遺族の方が主体となって6月23日10:00~追悼式典が行われていた〝こと〟が書かれていました。たくさんの献花に囲まれた碑は、70年前砲弾の飛び交う中を右往左往することしかできず、力尽きひとり倒れて行った若者達の無念さと寂しさを〝紛らわせる〟かのように…。今となっては手を合わせることしかできませんが…合掌。

こちらの駐車場に車を停めてきたのは初めてです。昨年12月の夜に来ている筈なのですが…、〝沖縄師範健児之塔〟まで行ったと記録していますが、もし行ったのなら〝暗闇の道〟を歩いて行ったことになりますが…、なんか自信がありません。駐車場より5分程度歩かないといけないので…。なので改めてこの一帯を歩いてみることにします。〝沖縄師範健児之塔〟の他、〝南溟の塔〟〝独立臼砲第1連隊戦没英霊之碑〟〝 風部隊之碑〟の4つの慰霊塔を巡りながら歩きます。

結構アップダウンのある場所を歩いて回った後、もう一度平和祈念公園へと戻ることにしました。駐車場に車を停めるのに若干時間は要したものの、式典前に比べると〝おや?〟っと首を傾げるくらい空いています。今日〝沖縄慰霊の日〟は、〝平和祈念館〟や〝平和祈念堂〟の入場は無料となっています。入場料位は払いますよ~といいながらも、ちゃっかり恩恵を被ります。

まずは〝沖縄平和祈念堂〟、ここは初めての来館です。そういえば〝建物〟はあったかな…くらいの記憶しかないのは、いつも沖縄県営平和祈念公園を訪れるときは、時間に追いまくられており、一時間程で回る範囲でしか行動していません。なので最も〝低い位置〟にある沖縄県営平和記念公園からは、〝ヘタレ〟は常に〝しんどそう…〟と思っていたのかも知れません。しかし今日は意を決して向かいます。中心に〝平和祈念像〟が安置されているこの〝沖縄平和祈念堂〟ですが、美術館的な要素が強いように思います。連作絵画による〝戦争と平和〟など、平和祈念館とはまた違ったニュアンスで平和を語っているように思います。残念ながら私には〝絵〟の良さは分からないためイマイチ理解ができないのが残念でした。

そして沖縄県平和祈念資料館、ここには3回目になりますが、前回来たのが2011年3月17日のこと。いきなり脈絡のない話になりましたが、つまり東日本大震災の6日後だった訳です。その時にどういう経緯があって沖縄へ来たのか、恥ずかしながら〝覚えていません〟。どこかへ行くために神戸空港へ着いたものの、すぐに乗れる飛行機が那覇行きだったので〝沖縄〟へ来たというだけのことでした。その頃はまだ〝沖縄病〟に罹患している訳でもなく、街中をドライブしているうちに着いた先がこの〝沖縄県平和祈念資料館〟だったように思います。しかしこの〝沖縄県平和祈念資料館〟で過ごした時間だけは〝鮮明〟に覚えています。じっくり何時間もいたのか、違います。全く逆で僅か30分程で気分が悪くなり退出しました。なにが原因か?これは展示物にある〝人骨の集まり〟を見た瞬間、震災の様子と被ってしまったことにありました。私自身〝感受性〟がそれ程高い訳ではなく、むしろ〝無頓着〟な方だと思っています。ではなぜ急にそうなったのか?実は私自身仙台に住んでいたことがあり、それも含め〝他人事ではない〟ように思っていました。そこで見た〝沖縄戦〟の惨劇の展示物に〝オーバーラップ〟するものを感じたための反応だったと思います。実はこの話〝逆のパターン〟があることは、沖縄では知られている話で、特に学徒隊に参加された方が、テレビの震災報道を見て〝拒否反応〟を示されたことは、当時記事にも書かれていました。PTSD(心理的外傷)に起因するものでしょうが、これは人によりけりとは思うものの、今尚沖縄での〝終わらない戦争〟を物語ることのように思います。ただ〝住んでいた〟だけで〝拒否反応〟を起こす人間もいるのであれば、その〝惨劇そのもの〟を経験した方の心に負った傷の深さは、到底〝知ることができない〟ものだと思います。私は専門家ではないのでどうすればいいのかなどわかる訳もありません。3年の月日が過ぎ、やっと直視ができるようになった時にふと思い出したことだったのでここに記します。

炎天下の公園内を避けて涼んでおられる方も少なくはないなか、それなりに〝作成意図〟が伝わってくる〝平和への願い〟には、素直にそうなればいいね…と思います。滋賀県知事〝三日月大造氏〟もコメントを寄せていましたが…。先に遠くから行ったかたちになりますが、本日の沖縄県平和祈念資料館の閉館が18:00だったのでそうしています。

夏の日差しが降りそそいだ沖縄島最南端の地も、日が傾き夕暮れが迫ってきたことで歩きやすくなり、自称〝ヘタレ〟もまた歩き始めます。摩文仁の丘でも下の方にあるため〝行くのが容易〟だったはずにも拘らず初めて〝島守の塔〟を訪れます。官選最後の沖縄県知事〝島田叡〟氏、沖縄県警部長〝荒井退三〟氏をはじめとする〝沖縄県職員〟の戦没者を祀っています。自分の身に降りかかる困難をどう捉えていたのか…、ヘタレの私には想像ができませんが、その逸話が今尚健在で、県民から慕われていることは、献花の数からも伺えます。また〝沖縄県民斯く戦ヘり〟の電文を発信した海軍沖縄根拠地隊〝大田實〟司令官が、なぜ〝県知事に代わり〟沖縄県民の戦いざまを発信したのか?実は島田知事と大田司令官は〝肝胆相照らす〟関係であったことから、通信能力のない沖縄県に代わり打電したものこそ〝沖縄県民斯く戦ヘり〟の電文そのものになります。時代背景は戦争中であり、滅私奉公の考えのもとで〝一億総動員〟が叫ばれていました。しかしその中には〝生きる勇気〟を語る〝偉人〟もおられたことは忘れてはならないことだと思います。そしてその隣にある〝栃木の塔〟、こちらもじいちゃんが眠っている場所として私には特別のものです。できることはただ手を合わせることしかできませんが…。

辺りが暗くなるにつれ、〝平和の礎〟では〝報道番組〟を撮っているようです。式典そのものに参加し、〝メディア〟の有り方に疑問すら感じた一人としては、興味すらないので素通りします。〝命どぅ宝(ぬちどぅたから)〟の碑の前の池では、沖縄県平和祈念財団主催の〝平和の篭流し〟が始まりました。同宿のご夫婦が〝北海道〟代表として参加を頼まれたとの話をお聞きしていたので、それも含めて見ようとしていたら…いつの間にか〝終了〟宣言が出てしまいました。確かに広島とはまた違う形での〝燈籠流し〟、定番と言ってしまえばそれまでかも知れませんが、子供主体として行われていたことに素直に〝平和への祈り〟を思います。その時間に併せて沖縄の任意団体である〝万国津梁の会〟の主催により、〝キャンドル平和の灯〟7000本をエントランス広場から平和の礎刻銘碑にかけて灯すことが行われていましたが、やはり〝平和の礎〟の〝メイン通り〟の中央部に〝2Lのペットボトル〟を用いた〝キャンドル〟を立てるのは、〝人通り〟のことを考えると無茶なところはあったようにも思います。勿論立てている場所によっては、背景に溶け込み〝いい味〟を出していたと思います。もし継続的に行われるのであれば、悪気なく人が〝引っ掛けてしまう〟ことを考えての設置を望みます。

この〝キャンドル〟がしっくりくる頃には、夏至の頃の沖縄の地でもさすがにあたりは暗くなります。約9時間沖縄県営平和祈念公園にいたことは初めての経験であり、様々な問題にも気付かされた貴重な時間でした。大凡20:00にはすべてが終わると聞いていたので、それに合わせ宿へと戻ります。出発から帰着まで10時間出歩いていたわりには、一日の走行距離が10.5kmと、一日あたりの移動距離は過去最低を記録した平成27年(2015)年6月23日のすべてのアクティビティは終了し、途中コンビニ経由して宿に到着します。平和祈念公園に詰めていたため集めてきた〝各紙の号外〟をお土産代わりに渡しながら食事を済ませると、炎天下頑張ってきたため急に眠くなってきます。取り敢えずはシャワーを浴びて汗を流すと、いつも間にか寝てしまったようです。多分日も跨がないうちに…zzz。そして今回の旅最終日を迎えます。

【宿泊:直接手配】
みん宿ヤポネシア
〒901-0334 沖縄県糸満市大度309-42
Tel:098-997-2136・070-5581-5986
一泊二食付6,000円
http://www.yaponesia.com/
mail to:info@yaponesia.com


〝2015年6月23日火曜日〝沖縄慰霊の日〟~戦後70年沖縄全戦没者追悼式~〟
http://4travel.jp/travelogue/11024846


これで〝≪2015.Jun≫あみんちゅ歴史に触れる旅沖縄その壹之③~戦後70年沖縄全戦没者追悼式参列:3日目~〟は終ります。
次は最終章〝≪2015.Jun≫あみんちゅ歴史に触れる旅沖縄その壹之④~戦後70年沖縄全戦没者追悼式参列:4日目~〟に続きます。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 ジェットスター
旅行の手配内容
個別手配

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