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第十三章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~沖縄:チビチリガマ編~<br /><br />対馬丸記念館と旭ヶ丘公園慰霊碑群を見学した後、北上し読谷村へとやってきました。そして向かった先は〝チビチリガマ〟です。国道58 号線から県道を残波岬方向に進んで行くと、北上する道路があり、そこに〝チビチリガマ80m 〟と小さく表示されています。〝赤屋根のトイレ〟が目印だと多くの方が書いておられますが正にその通りでした。 <br /><br />沖縄に於ける戦闘が始まって間もない昭和20 (1945)年4月2 日、前日に北谷や読谷村の海岸へと無血上陸を果たした米軍兵士が、上陸地点から僅か800m しか離れていないこの〝チビチリガマ〟へとやってきます。米軍上陸作戦に先立ち3 月23日頃より海上の戦艦より〝艦砲射撃〟が加えられるようになったため、付近一帯の住人約140 名がこのチビチリガマに避難していましたが、米兵の姿を見つけた避難民のうち3名が竹槍を手にしてチビチリガマの外を囲んでいる米兵に立ち向かって行きました。しかし相手は武器を持つ兵士、逆に銃撃されてしまいます。重傷を負った2名の男性はその後亡くなります。米兵の〝コロサナイ デテキナサイ〟という投降を呼びかけにも〝鬼畜米兵〟と教えられている時代、信じることすらできなかったガマにいる避難民はパニックに陥ります。勿論冷静だった方もおられる訳で、火を放っての焼身や、ものを燃やしての窒息による〝死〟を意図したものに対して消火活動をするといったこともありました。しかし多勢に無勢、あちらこちらで目を覆いたくなる惨劇が繰り返されていきます。死ぬ道具として〝青酸カリ〟の注射等があればいざ知らず、ほとんどの避難民は〝死ぬ手段〟すらありません。結果狭い壕の中で火を焚かれたことによる窒息・焼身、そして刃物で切りつけたり刺したり、首を絞めたりと阿修羅のごとき姿を呈します。しかし幸いなことに約60 名程の避難民の方が投降し、命拾いをされます。終戦前に戦局の悪化を伝える内容に関して〝緘口令〟が布かれたことは今となっては周知の事実ですが、このチビチリガマの惨劇は違った意味で語られることがなくなります。それはチビチリガマに避難をされていた方々が同一集落に住んでいたことに起因します。遠くの親戚より近くの他人と言いますが、まさしく家族同様の付き合いをしていた方々たちの集団。言ってみればチビチリガマで起こった惨劇は、身内同士の殺し合いでもありました。戦争を経験し、生きながらえた方々が少なからず異口同音に言われる〝死ぬも地獄 生きるも地獄〟をまさに絵に描いたような出来事だったに違いありません。亡くなられた方々に〝口〟はありませんが、生きながらえた方々にとってチビチリガマでの惨劇は、口にすることすらできなかったことに違いありません。身内や身内同然を手に掛けてしまい、自分自身も後を追う〝はず〟だったが、なんらかの理由で〝死ぬ〟ことが叶わず生き残ってしまった。勿論生存者がいるから惨劇が現在に伝わっていることに違いはないのですが、その全てを知る約60 名の生存者の方々にとって〝真実を明らかにすること〟は自分を含む生存者は勿論のこと、犠牲者の方々の〝死様〟を伝えることが、〝個人の尊厳〟を損なうことになり兼ねないと判断されて当然だと思います。 その結果事件後38 年もの間、チビチリガマでの〝惨劇〟が語られることはありませんでした。<br /><br />波平集落在住の方々も例え知っていることがあったとしても、チビチリガマ遺族の方々が黙っている以上沈黙を続けるといった〝地域の想い〟を優先したことが、この長きに渡る〝隠し事〟になったようにも思います。 昭和58 (1983)年以降少しずつチビチリガマでの惨劇の模様が明らかにされ始め、チビチリガマ遺族会の発足、昭和62 (1987 )年4月2日の金城實氏や地域住民の手によって〝チビチリガマ世代を結ぶ平和の像〟が建立されるなど〝戦争の悲惨さ〟を後世に伝える〝戦後平和の時代〟を迎えたかのよう思われました。しかし〝チビチリガマ世代を結ぶ平和の像〟が建立されてから僅か7ヶ月後の昭和62 (1987)年11 月8 日、静かに〝歴史の生き証人〟として時の流れを見守っていた平和の像は、突然原型を留めないまでに破壊されてしまいます。現場に残されていた〝国旗燃ヤス村ニ平和ワ早スギル、天誅ヲ下ス〟との声明文、これは昭和62 (1987 )年10月6日に読谷村で行われた〝海邦国体〟のソフトボール大会の会場で、掲げられていた〝日章旗〟を示威行為として焼き捨てた事件に対する右翼の報復でした。この平和の像の〝破壊〟を知ったチビチリガマ遺族は〝犠牲者は二度殺された〟と大変怒り嘆き悲しんだコメントを出しておられます。 確かに慰霊のために作った平和の像を〝原型を留めない〟ところまで破壊されてしまったチビチリガマ遺族の落胆と怒りは、筆舌に尽くしがたいものであったと思います。しかし〝仕掛けた〟のはどちらか?という話になると、〝日章旗を焼き払ったこと〟が先になってしまいます。勿論今なお続いている〝沖縄の微妙な立場〟に於いて〝軍国主義〟と〝皇民化主義〟の象徴が〝日章旗〟であるならば、それに対する〝憎しみ〟は計り知れない部分があるようにも思います。しかしかと言って肯定できるものではありません。元となる行為があってこそ報復ということになる訳であって、何もなければ少なくとも報復行為そのものがなくなった、そう思うのです。 日章旗に対する想いをぶつけてしまった。その結果平和の像を破壊されてしまった。勿論この〝日章旗〟を焼いた方に対する報復行為は凄まじく、平和の像だけに留まらず、経営している民宿や商店への放火等にまでエスカレートしていました。そのこともあり後に行われた裁判で〝器物損壊罪〟で起訴されたものの執行猶予付の判決となりました。また平和の像を破壊した右翼の2名は〝暴力行為等処罰法違反〟で起訴、後に有罪が確定することになります。 この判例を見る限り、右翼サイドが行った〝過剰な報復〟の内容が考慮はされているように思います。しかし日章旗が国旗として制定される以前の出来事であれど、形あるものを壊したことは、執行猶予が付いたからとて有罪は有罪です。勿論背景や心中を察するに〝擁護〟の余地はあれど、あくまで刑法第261 条〝器物損壊罪〟での有罪判決は〝日章旗〟という形あるものを〝壊した事実〟を根拠とされた以外何ものでもありません。言うならば破壊行為そのものは〝同罪〟です。 戦争が忌み嫌われる一番の理由として、〝破壊〟と〝殺戮〟、そしてそのことに起因する〝憎しみの無限連鎖〟が挙げられます。30 年近く前の出来事であり、戦後42 年しか経過しておらず〝戦争経験者〟が数多く生存されていたという時代背景を考えると、〝なるべくしてなった〟ことのようにも思えます。しかし〝感情の高揚〟で行ったこととはいえ、〝日章旗の破壊〟をしてしまったことによって報復行為が行われたことを別次元のものとして捕らえるにはあまりにも都合が良すぎるのではないでしょうか。チビチリガマ世代を結ぶ平和の像が、恒久の平和を願う犠牲者遺族の〝心の拠り所〟である象徴とされていることと同様、日章旗を同様に考えている方もおられる〝事実〟を熟慮して、抗議活動を含め慎重に進める必要性を感じます。<br /><br />チビチリガマ世代を結ぶ平和の塔が原型を留めないほどに破壊された後、〝犠牲者は二度殺された〟とのコメントを出した遺族会では、犠牲者を悼むシンボルが壊されることによって受けた怒りや悲しみを二度と受けることがないようにとの考えのもと、平和の像の再建には慎重論が根強くあったとされています。一部外者に過ぎない私にもその考えは痛いほどわかります。しかし事件がメディアに取沙汰され、遺族や住人の怒りや嘆きは日本全国はもとより世界各国へと知られることになります。民族・思想・信条・信教問わず関心を引いたこの〝チビチリガマ世代を結ぶ平和の塔〟の破壊事件は、世界レベルでの支援を取り付け、それに伴って集まった浄財を元手に、チビチリガマでの惨劇が起こってから丁度50 年目の平成7 (1995)年4月2 日、平和の塔は再建されました。紆余屈折した遍歴はあったものの戦争という時代背景のもと、起こった惨劇を後世に伝える役割を静かに果たして今日に至っています。<br /><br />チビチリガマの惨劇が起こったひとつの理由として〝従軍経験〟のある元兵士や看護婦の存在が挙げられます。その方々が語っていた〝鬼畜米英〟に捕らえられるとどうなるか・・・という風評に、軍人ではなく民間人のみで構成されていたチビチリガマの避難民の中に動揺が広まります。この風評の発信者がチビチリガマに於けるリーダー格だった、そう定義付けているものも多く見られますが果たしてそうだったのでしょうか。この元兵士とされる方々は南方戦線での従軍経験があり、満期除隊し予備役に編入されていた者とされています。また看護婦も同様に中国戦線に於いて野戦病院での従軍経験があり、同行していた師団の配置換えによって沖縄の地に戻ってきた際、配属される野戦病院に赴任するまでの 間実家に帰っていたとされています。 避難民としてチビチリガマへと退避している状態で、残念ながら〝命どぅ宝〟の精神を持った〝リーダー〟の器を持った方がいらっしゃらなかったことが、結果として身内や身内同然の住民同士が手を掛け合う悲劇を生むことになりました。<br /><br />そしてこのチビチリガマでの惨劇に対し、比較されることが多いものの知名度では劣る〝イングェーガマ〟〝シムクガマ〟といったいくばくも離れていないガマでは、移民としてハワイへ渡った経験のあるおじぃが米兵との交渉にあたり、結果として避難民の全てが捕虜となったものの生き延びることができました。<br /><br />ひとつ余談ではありますが、英語が話せたから交渉が上手く行ったと書かれているものが多いこの〝シムクガマ〟の一件ですが、実はこの〝ハワイ帰り〟のおじぃの英語は、米兵には通じなかったとされています。勿論意思伝達の手段としての英語ならば、それが伝わらないから意味を成さないといった考えはありますが、避難民側の意見は伝えられなくとも、米兵の話がそれなりに聞き取れて理解できていたこと、それよりなにより巷で言われていた米兵の野蛮行為は実際には行われないという信念のもとで遣り取りをしていた。逆に言うと他の避難民が〝なすすべがない〟状況に置かれていた、そして個別に対応ができる訳もなくただ流れに任せるしかなかったことなど、結果的に個人が暴走することがなかった ことが犠牲者を出さずに済んだ一番の理由だったように思えます。言葉という手段は使えずとも、要所で交えただろうbody language、その合わせ技が功を奏した典型的な例だと思います。<br /><br />話を戻しますが、チビチリガマのケースでリーダー格となったとされる元兵士や看護婦の方々が、戦場で経験した〝日本軍〟が現地人に対して行った数々の惨たらしい仕打ちのことを、〝皇軍兵士ですらそうなので、もし鬼畜米英の捕虜になると・・・〟と説いて回りました。そのことが最終的に〝生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ〟という昭和16(1941)1月8日に当時の陸軍大臣東条英機が示達した訓令(陸訓一号・戦陣訓)を引き合いに出して自死を促したとされています。しかしこのあたりの話は〝辻褄合わせ〟と捉えられなくもないことでもあります。まず陸軍を満期除隊し予備役になった高齢の元兵士という表現ですが、グアム・ サイパンの戦役は昭和19(1944)年・昭和16(1941)年であることから、チビチリガマの惨劇があった昭和20(1945)年4月2日のそれぞれ1年ないし4年前のことになります。その時に〝高齢の元兵士〟が招集されていたことはありうる話なのでしょうか?<br /><br />また看護婦の方も事件当時25歳で、以前中国での野戦病院での勤務経験があり、元兵士の方と同様の発言をした根拠というものが、昭和12(1937)年に起こった〝南京大虐殺〟だとされているようです。単純に時系列で考えても〝チビチリガマでの惨劇〟から遡ること8年となり、当時17歳だったということになります。しかし戦前の看護教育カリキュラムでは、看護婦免許そのものが18歳以上でしか交付されなかったことを考えると辻褄が合わなくなります。そして第二次世界大戦に突入する前の陸軍病院での勤務は、赤十字の看護学校を出て免許取得後、約1年の研修の後志願して配属になるというものでした。しかしこの時期の勤務は原則内地での勤務となっており、成り立ての看護婦がいきなり前線の野戦病院勤務ができたかどうかは、正直ありえないと思います。野戦病院の看護婦という言葉だけで沖縄戦に於ける学徒として女学生がろくな教育も受けずに野戦病院に配属されたことをそのまま当てはめているのではないでしょうか。<br /><br />また諸説はあるものの日本軍が住人を虐殺したとされる〝南京事件〟の引用にも、もし従軍看護婦というほとんど病院にいるなど極めて狭い行動範囲の中で本当に〝その現場〟を知っていたかどうかは確率的に低いように思えてなりません。そのため〝中国戦線で見聞きしたこと〟を鼓舞し、自死を煽ったという修飾もなにかしっくりいかないものを感じます。<br /><br />ただ時系列の問題を抜きにしてその発言の根拠となるものを探せば、同時期に起こった〝通州事件〟を引き合いに出したのではないかと思います。中国北京郊外にある通州で起こった〝通州事件〟とは国民党軍の抗日運動のひとつであり、盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)の後通州に駐屯する日本軍守備隊を攻撃したものです。留守部隊として残っていた日本軍兵士約110名に対し、昭和12(1937)年7月29日未明に冀東保安第一総隊・第二総隊・教導総隊、及び警衛大隊の5,800名が攻め立てました。数で押し切った中国人部隊は日本軍の留守部隊を壊滅させた後、そのまま日本人居留地へと流れ込み居留民への暴虐行為を働きます。結果380名の日本人居留者のうち約260名が殺害されました。この時の殺害の方法等が〝残虐非道なもの〟の代表格として語られるようになるものの戦後の混乱によってもみ消されてしまっています。しかしこの事件は〝裏付け〟がされており事件後の12月、冀東政府政務長官と北京大使館の参事官とが会談し謝罪と賠償金を受け取ったことが記録に残っています。<br /><br />南京事件をはじめとする〝日本軍の関与〟した、もしくはしただろう〝大量虐殺〟に関しては、裏打ちが取れていないものが多々見受けられます。裏打ちが取れていないから虚偽であるとはなりませんが、日本軍が行ったとされる〝暴力的〟なものだけで惨劇を語るより〝暴力的かつ猟奇的〟な殺戮を例に挙げた方が〝生きて辱めを受ける…〟という言葉を修飾し、結果自死に導くには好都合だったように思います。しかし引用が〝南京〟と〝通州〟では日本人の置かれる立場が正反対になってしまうことを考えると、その一連の流れで語るにしてもあまりにもこじつけの要素が強すぎるように思えてなりません。<br /><br />南部とは違う印象を受けるこのチビチリガマですが、現在遺族会の意向によりガマ内部には立ち入りが禁止されています。その隣に聳える〝平和の像〟と〝犠牲者氏名の碑〟、あまり知られてはいないことだそうですが、実はこの碑には追加記銘がありました。なぜ〝追加〟されたのか・・・、当初は犠牲者の中に含まれなかった方が存在したという事実です。それが従軍看護婦だった方でした。従軍経験もあり逆にその時の〝経験〟から〝生きて辱めを受けるより…〟の考えを説き、結果としてパニックに陥っていた避難民を〝自死〟に導いてしまった。身内を失った遺族概念では〝許され難き〟行為をしたと捉えられても仕方がないところはあるでしょう。しかしその根拠とされる〝大陸での見聞〟も今となっては事実がどうかわからないとの指摘もある中なぜ〝蔑視〟されるようになったのでしょうか。これが今尚世界各国で言われる〝風評被害〟であると思います。看護婦という〝特殊技能〟の持ち主だった彼女は、持参していた〝青酸カリ〟を注射して〝身内〟を手に掛けました。そして自分自身も…。チビチリガマの惨劇が、身内同士の〝武器という武器〟もない状況での殺し合いであったことに起因することは先述しました。その中で〝薬物注射〟による手段を〝親戚だけ〟に使ったことが、他とは違うように思われてしまった点はあるかと思います。しかし何故チビチリガマでの犠牲者名簿に記銘されなかったのでしょうか。このことは事件後38年間もの間〝真実〟が口外されなかった事実にありました。僅か32年前に事実がわ かり始めたばかりのチビチリガマでの惨劇は、実はこの〝看護婦〟がすべて行ったと考えられていた時期がありました。勿論それだけの量の〝青酸カリ〟をひとりが持てることなど不可能な時代ではあるものの、看護婦という特殊技能の持ち主であり従軍経験を説いたことなど、表面的なものの見方で判断し、殺戮者のレッテルを張られます。看護婦の家族6名は亡くなりました。しかし本土に行っていた兄弟2人が生き残られます。なぜ本土に居たかと言うと特攻隊への志願をされ、出撃を明後日に控えた日に終戦を迎えられたということでした。戦後集落へと戻ってきた二人を待っていたものが、住人からの冷たい視線でした。看護婦の姉さんが注射をして回り多くの人を殺したと…。<br /><br />人殺しの家族として犠牲者の碑に記銘もされず、そのことで住まいを焼き討ちされたりしたこともあり、2人の兄弟は最終的には集落を出て行かれたそうです。その後チビチリガマの惨劇の模様が少しずつ話されるようになったことで誤解は解け、今では犠牲者の碑に名前も記銘されています。<br /><br />この〝風評被害〟は根拠がないものではあるものの、チビチリガマの惨劇に対し生存者の方や集落の住人が一切口を噤んでしまったことに起因しています。勿論身内同士で殺し合う地獄絵図の如き姿を、好んで口にすることなど誰ができるものかと思います。しかし〝噂〟と言うものはどこがしらから漏れてくるものであり、結局〝ひとり〟で〝全て〟を殺したと〝曲解〟されたことが、チビチリガマの惨劇の姿として語られるようになりました。そして〝事実を知らない者〟があたかも知っているかのように、記述し広がらせていく結果を生むことになります。言い方は悪いですが〝後ろ指〟を指される環境で生きていくことなど死んだも同然、いや死んだ方がましだと良く言われます。確かにそうです。特に自分自身に身に覚えがなければ尚更だと思います。自らも特攻隊に志願され、時の流れに翻弄されながらも生きて終戦を迎えられた。確かに特攻隊の生き残りの方々を、戦後〝戦争色の払拭〟という理由で差別視していた時もありました。しかしそれとはまた違う〝見方〟をされたこの兄弟の気持ちは〝二重の生き地獄〟を味わったのではないでしょうか。<br /><br />何度も繰り返すようですが、私はチビチリガマを含め戦争による犠牲者の方々を冒涜するつもりは毛頭ありません。しかし戦後70年を迎えた今年、戦争経験者の方々の高齢化によって直接戦争を経験されたという事実、それが表立って出てこないようになるのは間違いないことだと思います。勿論戦争経験を〝言わない〟のではなく〝言いたくない〟という気持ちが根底にあるのはわかるものの、その〝直接証言〟に対し諸々の解釈が入ってしまい、結果真実とはかけ離れた内容になってしまっていることを危惧します。解釈は千差万別で十人十色ではあるものの、真実はひとつです。それは過去も未来も変わることのない不変の事実に違いありません。<br /><br />この沖縄戦を含む第二次世界大戦の終結から、戦後統治された島々の日本への復帰や周辺諸国の動きとその弊害について時代の流れを追ってみることにします。<br /><br />昭和20(1945)年8月14日、大日本帝国ポツダム宣言受諾。<br /><br />昭和20(1945)年8月15日正午、昭和天皇の玉音放送をもって大日本帝国の無条件降伏を国民に知らせる。<br /><br />同年9月2日、昭和天皇が〝降伏文書調印に関する詔書〟を発し降伏文書への署名及びその履行等を命じたことに基づき東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリにおいて、日本側を代表して重光葵外相、梅津美治郎参謀総長、連合国を代表して連合国最高司令官のマッカーサーが降伏文書に署名し、大日本帝国が無条件降伏を受け入れる。そして対日戦勝記念日=Victory over Japan Day(VJ.Day)が制定される。<br /><br />対日戦勝記念日<br />《連合国》<br />【アメリカ】9月2日<br />【ロシア】9月2日(~2009年までは9月3日)<br />【中華民国】9月3日<br />【イギリス】8月15日<br />《その他》<br />【大韓民国】9月2日<br />【北朝鮮】9月2日<br />【ベトナム】9月2日<br />【中華人民共和国】9月3日(抗日戦争記念日:2015年より)<br /><br />昭和20(1945)9月7日、陸軍第28師団長納見敏郎中将、独立混成第64旅団長高田利貞少将、海軍沖縄根拠地隊参謀長加藤唯雄少将の3名が南西諸島全日本軍司令官代理として、米国第10軍司令官Josepf Warren Stilwell大将が参加。越来村森根(現沖縄市・米軍嘉手納基地内)にて降伏調印し、正式な沖縄戦の終了となる。<br /><br />昭和20(1945)年10月25日、台湾へ進駐していた中華民国政府がGHQからの委託に基き台北に於いて安藤利吉第10方面軍司令官・台湾総統が降伏文書に署名し、同日の光復式典をもって台湾の実効支配を開始する。しかしこの時は〝行政権〟のみを中華民国に委譲しただけであり、国際法上では以前日本の領土として残っていた。<br /><br />昭和24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国。<br /><br />昭和24(1949)年12月7日、中華民国台湾遷都。<br /><br />昭和26(1951)年9月8日、サンフランシスコ講和条約に署名。<br />翌昭和27(1952)年4月28日発効、これにより第二次世界大戦が終結し、連合国による日本の占領が終了し、独立を回復する。この際台湾島地域に対する権原(領域の支配を正当化する根拠のこと)を放棄したが、それらの帰属先が明言されていないため、台湾島地域の国際法上の領有権は未確定となっている。<br />日本は南樺太に対する権原を放棄したため、現在領域権原を有していないものの、実効支配しているロシア(旧ソ連)はサンフランシスコ講和条約に調印していない。然るに南樺太の帰属は不確定であるとされている。<br /><br />昭和21(1946)年3月22日、伊豆諸島返還。<br /><br />昭和27(1952)年2月10日、トカラ列島返還。<br /><br />昭和28(1953)年12月25日、奄美群島返還。<br /><br />昭和43(1968)年6月12日、小笠原諸島返還。<br /><br />昭和47(1972)年5月15日、沖縄返還。<br /><br />ここで矛盾点が出てきます。戦勝国がVJ.Dayを制定するのはわかるにしても、その他の国として上がっている国々は戦勝国ではありません。植民地政策からの脱却であれば、解放記念日になるのが正しい訳でVJ.Dayにはならない筈です。もうひとつ付け加えるならば、終戦時に国がなかった最寄りの大きな国が、なぜ戦勝国と言い続けられるのか?付け加えるとこの国家主席は1953年6月1日生まれ、つまり〝戦後世代〟である事実。戦争を知らない世代が、戦争が終わった時に〝存在すらなかった国〟が、さも戦争を戦って勝利したかのようにふるまい、それに同調して同じような国々の元首が参列しておちゃらけた〝お祭り化〟する…、それが今のご時世における世界情勢です。根拠もなく所有権が曖昧になっているもの を武力により実効支配をし続けることこそが〝領土問題〟の勝者とばかりにアピールする姿は、武器が飛び交っていないだけであり、数十年前に領土拡張に躍起になっていた〝大日本帝国〟の姿そのものではないでしょうか。<br /><br />歴史を語らずして未来を語れず、まさにその通りだと思います。歴史上の事実を正しく認識し、間違っていた判断により引き起こされた悲劇であるならば、その間違いを再度引き起こさずに結果を導き出すにはどうしたら良いか?それを考えなければならない時期にさしかかっているのではないでしょうか。<br /><br />戦後70年というものは、ただ70年経ってしまっただけのように捉えられがちではあるものの、戦争を直接経験をされた方々が70歳になられたという事実に他なりません。戦後71年という〝言葉そのもの〟がないと考えておられる方々が数多くいらっしゃる事実は、時の流れに人間が逆らえないことを示しておられるように思えます。漠然と〝ひとつの真実〟という言葉は使ってはいますが、現実的には一次的に戦争を経験された高齢の方々がPTSD(Posttraumatic stress disorder・心的外傷後ストレス障害)に悩まされ続けている現実に、〝言わない〟のではなく〝言いたくない〟ことを無理強いすることは、想像を絶する苦痛を伴うことは間違いありません。そのことは言い換えれば今まで語られることのなかった〝真実〟が今後突然明らかになる可能性はないに等しいように思います。しかしなぜか巷に溢れている〝断定された真実〟、これは直接戦争を経験された方々の〝聞き取り〟を又聞きし、それに解釈を加えたものがほとんどです。勿論現在の日本に於いては取り敢えず〝言論の自由〟は憲法の下で保障されているため、それをとやかく言うことはできません。しかしそれによって〝悪人〟にされた者の立場はどうなるのでしょうか。これが即ち〝風評被害〟が起こってしまう一番の理由だと思います。チビチリガマでの看護婦遺族の話もそうですし、日本軍という〝組織〟を悪くいうために、その組織を構成する〝軍人〟までも十把一絡げに悪く言うのはどうかと思います。そして〝力での支配〟、先述した領土問題などは実効支配という国際法上〝根拠のない〟ものを〝力任せ〟でさも当然の如くふるまっていることに他なりませんが、これを言論に置き換えると〝多数意見〟というものに当てはまるのではないでしょうか。歴史上のあるひとつの事象に対し、無限に広がる〝解釈〟を加えて導き出される答え。同じ流れで似たような解釈、しかし明らかに間違っている解釈と〝誤字脱字〟まで同じもの。単純に〝コピペ〟ではあるものの数として多数派に入ってしまう怖さ、それが引き起こす〝風評 〟や〝誤解〟といったものに起因する〝あたり前論〟。大袈裟かもしれませんが主観的意見により考えの統一は〝洗脳〟と言っても過言ではないのかも知れません。<br /><br />大義名分と徹底的な言論弾圧により作り出された多数派意見、それに社会的貧困という背景の下で自然と戦争という暗黒の時代に突入しました。その結果破壊と人の殺し合い、そして憎しみという爪痕を残して迎えた敗戦という現実、それから70年という月日が経ち、高度成長期を経て日本国は先進国のひとつとなりました。しかし利権が絡む国際情勢はきな臭い現実と隣り合わせになっています。私自身も思い当たる節があり反省しなければなりませんが、感情的になっていい結果を生むことはまずありません。メッキで塗り固められた国の姿に一喜一憂したとして、それが本当の狙いなのかどうか・・・。気付かない人たちになにを言っても始まらないと思いつつも、標記のひとつで良くもなったり悪くもなったりする現実を、チビチリガマの悲劇を時代背景と人のこと、そして後に伝える難しさを痛感した次第です。<br /><br /><br />長文にお付き合い頂きありがとうございました。これにて〝第十三章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~沖縄:チビチリガマ編~〟を終わります。

第十三章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~沖縄:チビチリガマ編~

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2015/06/21 - 2015/06/24

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第十三章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~沖縄:チビチリガマ編~

対馬丸記念館と旭ヶ丘公園慰霊碑群を見学した後、北上し読谷村へとやってきました。そして向かった先は〝チビチリガマ〟です。国道58 号線から県道を残波岬方向に進んで行くと、北上する道路があり、そこに〝チビチリガマ80m 〟と小さく表示されています。〝赤屋根のトイレ〟が目印だと多くの方が書いておられますが正にその通りでした。

沖縄に於ける戦闘が始まって間もない昭和20 (1945)年4月2 日、前日に北谷や読谷村の海岸へと無血上陸を果たした米軍兵士が、上陸地点から僅か800m しか離れていないこの〝チビチリガマ〟へとやってきます。米軍上陸作戦に先立ち3 月23日頃より海上の戦艦より〝艦砲射撃〟が加えられるようになったため、付近一帯の住人約140 名がこのチビチリガマに避難していましたが、米兵の姿を見つけた避難民のうち3名が竹槍を手にしてチビチリガマの外を囲んでいる米兵に立ち向かって行きました。しかし相手は武器を持つ兵士、逆に銃撃されてしまいます。重傷を負った2名の男性はその後亡くなります。米兵の〝コロサナイ デテキナサイ〟という投降を呼びかけにも〝鬼畜米兵〟と教えられている時代、信じることすらできなかったガマにいる避難民はパニックに陥ります。勿論冷静だった方もおられる訳で、火を放っての焼身や、ものを燃やしての窒息による〝死〟を意図したものに対して消火活動をするといったこともありました。しかし多勢に無勢、あちらこちらで目を覆いたくなる惨劇が繰り返されていきます。死ぬ道具として〝青酸カリ〟の注射等があればいざ知らず、ほとんどの避難民は〝死ぬ手段〟すらありません。結果狭い壕の中で火を焚かれたことによる窒息・焼身、そして刃物で切りつけたり刺したり、首を絞めたりと阿修羅のごとき姿を呈します。しかし幸いなことに約60 名程の避難民の方が投降し、命拾いをされます。終戦前に戦局の悪化を伝える内容に関して〝緘口令〟が布かれたことは今となっては周知の事実ですが、このチビチリガマの惨劇は違った意味で語られることがなくなります。それはチビチリガマに避難をされていた方々が同一集落に住んでいたことに起因します。遠くの親戚より近くの他人と言いますが、まさしく家族同様の付き合いをしていた方々たちの集団。言ってみればチビチリガマで起こった惨劇は、身内同士の殺し合いでもありました。戦争を経験し、生きながらえた方々が少なからず異口同音に言われる〝死ぬも地獄 生きるも地獄〟をまさに絵に描いたような出来事だったに違いありません。亡くなられた方々に〝口〟はありませんが、生きながらえた方々にとってチビチリガマでの惨劇は、口にすることすらできなかったことに違いありません。身内や身内同然を手に掛けてしまい、自分自身も後を追う〝はず〟だったが、なんらかの理由で〝死ぬ〟ことが叶わず生き残ってしまった。勿論生存者がいるから惨劇が現在に伝わっていることに違いはないのですが、その全てを知る約60 名の生存者の方々にとって〝真実を明らかにすること〟は自分を含む生存者は勿論のこと、犠牲者の方々の〝死様〟を伝えることが、〝個人の尊厳〟を損なうことになり兼ねないと判断されて当然だと思います。 その結果事件後38 年もの間、チビチリガマでの〝惨劇〟が語られることはありませんでした。

波平集落在住の方々も例え知っていることがあったとしても、チビチリガマ遺族の方々が黙っている以上沈黙を続けるといった〝地域の想い〟を優先したことが、この長きに渡る〝隠し事〟になったようにも思います。 昭和58 (1983)年以降少しずつチビチリガマでの惨劇の模様が明らかにされ始め、チビチリガマ遺族会の発足、昭和62 (1987 )年4月2日の金城實氏や地域住民の手によって〝チビチリガマ世代を結ぶ平和の像〟が建立されるなど〝戦争の悲惨さ〟を後世に伝える〝戦後平和の時代〟を迎えたかのよう思われました。しかし〝チビチリガマ世代を結ぶ平和の像〟が建立されてから僅か7ヶ月後の昭和62 (1987)年11 月8 日、静かに〝歴史の生き証人〟として時の流れを見守っていた平和の像は、突然原型を留めないまでに破壊されてしまいます。現場に残されていた〝国旗燃ヤス村ニ平和ワ早スギル、天誅ヲ下ス〟との声明文、これは昭和62 (1987 )年10月6日に読谷村で行われた〝海邦国体〟のソフトボール大会の会場で、掲げられていた〝日章旗〟を示威行為として焼き捨てた事件に対する右翼の報復でした。この平和の像の〝破壊〟を知ったチビチリガマ遺族は〝犠牲者は二度殺された〟と大変怒り嘆き悲しんだコメントを出しておられます。 確かに慰霊のために作った平和の像を〝原型を留めない〟ところまで破壊されてしまったチビチリガマ遺族の落胆と怒りは、筆舌に尽くしがたいものであったと思います。しかし〝仕掛けた〟のはどちらか?という話になると、〝日章旗を焼き払ったこと〟が先になってしまいます。勿論今なお続いている〝沖縄の微妙な立場〟に於いて〝軍国主義〟と〝皇民化主義〟の象徴が〝日章旗〟であるならば、それに対する〝憎しみ〟は計り知れない部分があるようにも思います。しかしかと言って肯定できるものではありません。元となる行為があってこそ報復ということになる訳であって、何もなければ少なくとも報復行為そのものがなくなった、そう思うのです。 日章旗に対する想いをぶつけてしまった。その結果平和の像を破壊されてしまった。勿論この〝日章旗〟を焼いた方に対する報復行為は凄まじく、平和の像だけに留まらず、経営している民宿や商店への放火等にまでエスカレートしていました。そのこともあり後に行われた裁判で〝器物損壊罪〟で起訴されたものの執行猶予付の判決となりました。また平和の像を破壊した右翼の2名は〝暴力行為等処罰法違反〟で起訴、後に有罪が確定することになります。 この判例を見る限り、右翼サイドが行った〝過剰な報復〟の内容が考慮はされているように思います。しかし日章旗が国旗として制定される以前の出来事であれど、形あるものを壊したことは、執行猶予が付いたからとて有罪は有罪です。勿論背景や心中を察するに〝擁護〟の余地はあれど、あくまで刑法第261 条〝器物損壊罪〟での有罪判決は〝日章旗〟という形あるものを〝壊した事実〟を根拠とされた以外何ものでもありません。言うならば破壊行為そのものは〝同罪〟です。 戦争が忌み嫌われる一番の理由として、〝破壊〟と〝殺戮〟、そしてそのことに起因する〝憎しみの無限連鎖〟が挙げられます。30 年近く前の出来事であり、戦後42 年しか経過しておらず〝戦争経験者〟が数多く生存されていたという時代背景を考えると、〝なるべくしてなった〟ことのようにも思えます。しかし〝感情の高揚〟で行ったこととはいえ、〝日章旗の破壊〟をしてしまったことによって報復行為が行われたことを別次元のものとして捕らえるにはあまりにも都合が良すぎるのではないでしょうか。チビチリガマ世代を結ぶ平和の像が、恒久の平和を願う犠牲者遺族の〝心の拠り所〟である象徴とされていることと同様、日章旗を同様に考えている方もおられる〝事実〟を熟慮して、抗議活動を含め慎重に進める必要性を感じます。

チビチリガマ世代を結ぶ平和の塔が原型を留めないほどに破壊された後、〝犠牲者は二度殺された〟とのコメントを出した遺族会では、犠牲者を悼むシンボルが壊されることによって受けた怒りや悲しみを二度と受けることがないようにとの考えのもと、平和の像の再建には慎重論が根強くあったとされています。一部外者に過ぎない私にもその考えは痛いほどわかります。しかし事件がメディアに取沙汰され、遺族や住人の怒りや嘆きは日本全国はもとより世界各国へと知られることになります。民族・思想・信条・信教問わず関心を引いたこの〝チビチリガマ世代を結ぶ平和の塔〟の破壊事件は、世界レベルでの支援を取り付け、それに伴って集まった浄財を元手に、チビチリガマでの惨劇が起こってから丁度50 年目の平成7 (1995)年4月2 日、平和の塔は再建されました。紆余屈折した遍歴はあったものの戦争という時代背景のもと、起こった惨劇を後世に伝える役割を静かに果たして今日に至っています。

チビチリガマの惨劇が起こったひとつの理由として〝従軍経験〟のある元兵士や看護婦の存在が挙げられます。その方々が語っていた〝鬼畜米英〟に捕らえられるとどうなるか・・・という風評に、軍人ではなく民間人のみで構成されていたチビチリガマの避難民の中に動揺が広まります。この風評の発信者がチビチリガマに於けるリーダー格だった、そう定義付けているものも多く見られますが果たしてそうだったのでしょうか。この元兵士とされる方々は南方戦線での従軍経験があり、満期除隊し予備役に編入されていた者とされています。また看護婦も同様に中国戦線に於いて野戦病院での従軍経験があり、同行していた師団の配置換えによって沖縄の地に戻ってきた際、配属される野戦病院に赴任するまでの 間実家に帰っていたとされています。 避難民としてチビチリガマへと退避している状態で、残念ながら〝命どぅ宝〟の精神を持った〝リーダー〟の器を持った方がいらっしゃらなかったことが、結果として身内や身内同然の住民同士が手を掛け合う悲劇を生むことになりました。

そしてこのチビチリガマでの惨劇に対し、比較されることが多いものの知名度では劣る〝イングェーガマ〟〝シムクガマ〟といったいくばくも離れていないガマでは、移民としてハワイへ渡った経験のあるおじぃが米兵との交渉にあたり、結果として避難民の全てが捕虜となったものの生き延びることができました。

ひとつ余談ではありますが、英語が話せたから交渉が上手く行ったと書かれているものが多いこの〝シムクガマ〟の一件ですが、実はこの〝ハワイ帰り〟のおじぃの英語は、米兵には通じなかったとされています。勿論意思伝達の手段としての英語ならば、それが伝わらないから意味を成さないといった考えはありますが、避難民側の意見は伝えられなくとも、米兵の話がそれなりに聞き取れて理解できていたこと、それよりなにより巷で言われていた米兵の野蛮行為は実際には行われないという信念のもとで遣り取りをしていた。逆に言うと他の避難民が〝なすすべがない〟状況に置かれていた、そして個別に対応ができる訳もなくただ流れに任せるしかなかったことなど、結果的に個人が暴走することがなかった ことが犠牲者を出さずに済んだ一番の理由だったように思えます。言葉という手段は使えずとも、要所で交えただろうbody language、その合わせ技が功を奏した典型的な例だと思います。

話を戻しますが、チビチリガマのケースでリーダー格となったとされる元兵士や看護婦の方々が、戦場で経験した〝日本軍〟が現地人に対して行った数々の惨たらしい仕打ちのことを、〝皇軍兵士ですらそうなので、もし鬼畜米英の捕虜になると・・・〟と説いて回りました。そのことが最終的に〝生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ〟という昭和16(1941)1月8日に当時の陸軍大臣東条英機が示達した訓令(陸訓一号・戦陣訓)を引き合いに出して自死を促したとされています。しかしこのあたりの話は〝辻褄合わせ〟と捉えられなくもないことでもあります。まず陸軍を満期除隊し予備役になった高齢の元兵士という表現ですが、グアム・ サイパンの戦役は昭和19(1944)年・昭和16(1941)年であることから、チビチリガマの惨劇があった昭和20(1945)年4月2日のそれぞれ1年ないし4年前のことになります。その時に〝高齢の元兵士〟が招集されていたことはありうる話なのでしょうか?

また看護婦の方も事件当時25歳で、以前中国での野戦病院での勤務経験があり、元兵士の方と同様の発言をした根拠というものが、昭和12(1937)年に起こった〝南京大虐殺〟だとされているようです。単純に時系列で考えても〝チビチリガマでの惨劇〟から遡ること8年となり、当時17歳だったということになります。しかし戦前の看護教育カリキュラムでは、看護婦免許そのものが18歳以上でしか交付されなかったことを考えると辻褄が合わなくなります。そして第二次世界大戦に突入する前の陸軍病院での勤務は、赤十字の看護学校を出て免許取得後、約1年の研修の後志願して配属になるというものでした。しかしこの時期の勤務は原則内地での勤務となっており、成り立ての看護婦がいきなり前線の野戦病院勤務ができたかどうかは、正直ありえないと思います。野戦病院の看護婦という言葉だけで沖縄戦に於ける学徒として女学生がろくな教育も受けずに野戦病院に配属されたことをそのまま当てはめているのではないでしょうか。

また諸説はあるものの日本軍が住人を虐殺したとされる〝南京事件〟の引用にも、もし従軍看護婦というほとんど病院にいるなど極めて狭い行動範囲の中で本当に〝その現場〟を知っていたかどうかは確率的に低いように思えてなりません。そのため〝中国戦線で見聞きしたこと〟を鼓舞し、自死を煽ったという修飾もなにかしっくりいかないものを感じます。

ただ時系列の問題を抜きにしてその発言の根拠となるものを探せば、同時期に起こった〝通州事件〟を引き合いに出したのではないかと思います。中国北京郊外にある通州で起こった〝通州事件〟とは国民党軍の抗日運動のひとつであり、盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)の後通州に駐屯する日本軍守備隊を攻撃したものです。留守部隊として残っていた日本軍兵士約110名に対し、昭和12(1937)年7月29日未明に冀東保安第一総隊・第二総隊・教導総隊、及び警衛大隊の5,800名が攻め立てました。数で押し切った中国人部隊は日本軍の留守部隊を壊滅させた後、そのまま日本人居留地へと流れ込み居留民への暴虐行為を働きます。結果380名の日本人居留者のうち約260名が殺害されました。この時の殺害の方法等が〝残虐非道なもの〟の代表格として語られるようになるものの戦後の混乱によってもみ消されてしまっています。しかしこの事件は〝裏付け〟がされており事件後の12月、冀東政府政務長官と北京大使館の参事官とが会談し謝罪と賠償金を受け取ったことが記録に残っています。

南京事件をはじめとする〝日本軍の関与〟した、もしくはしただろう〝大量虐殺〟に関しては、裏打ちが取れていないものが多々見受けられます。裏打ちが取れていないから虚偽であるとはなりませんが、日本軍が行ったとされる〝暴力的〟なものだけで惨劇を語るより〝暴力的かつ猟奇的〟な殺戮を例に挙げた方が〝生きて辱めを受ける…〟という言葉を修飾し、結果自死に導くには好都合だったように思います。しかし引用が〝南京〟と〝通州〟では日本人の置かれる立場が正反対になってしまうことを考えると、その一連の流れで語るにしてもあまりにもこじつけの要素が強すぎるように思えてなりません。

南部とは違う印象を受けるこのチビチリガマですが、現在遺族会の意向によりガマ内部には立ち入りが禁止されています。その隣に聳える〝平和の像〟と〝犠牲者氏名の碑〟、あまり知られてはいないことだそうですが、実はこの碑には追加記銘がありました。なぜ〝追加〟されたのか・・・、当初は犠牲者の中に含まれなかった方が存在したという事実です。それが従軍看護婦だった方でした。従軍経験もあり逆にその時の〝経験〟から〝生きて辱めを受けるより…〟の考えを説き、結果としてパニックに陥っていた避難民を〝自死〟に導いてしまった。身内を失った遺族概念では〝許され難き〟行為をしたと捉えられても仕方がないところはあるでしょう。しかしその根拠とされる〝大陸での見聞〟も今となっては事実がどうかわからないとの指摘もある中なぜ〝蔑視〟されるようになったのでしょうか。これが今尚世界各国で言われる〝風評被害〟であると思います。看護婦という〝特殊技能〟の持ち主だった彼女は、持参していた〝青酸カリ〟を注射して〝身内〟を手に掛けました。そして自分自身も…。チビチリガマの惨劇が、身内同士の〝武器という武器〟もない状況での殺し合いであったことに起因することは先述しました。その中で〝薬物注射〟による手段を〝親戚だけ〟に使ったことが、他とは違うように思われてしまった点はあるかと思います。しかし何故チビチリガマでの犠牲者名簿に記銘されなかったのでしょうか。このことは事件後38年間もの間〝真実〟が口外されなかった事実にありました。僅か32年前に事実がわ かり始めたばかりのチビチリガマでの惨劇は、実はこの〝看護婦〟がすべて行ったと考えられていた時期がありました。勿論それだけの量の〝青酸カリ〟をひとりが持てることなど不可能な時代ではあるものの、看護婦という特殊技能の持ち主であり従軍経験を説いたことなど、表面的なものの見方で判断し、殺戮者のレッテルを張られます。看護婦の家族6名は亡くなりました。しかし本土に行っていた兄弟2人が生き残られます。なぜ本土に居たかと言うと特攻隊への志願をされ、出撃を明後日に控えた日に終戦を迎えられたということでした。戦後集落へと戻ってきた二人を待っていたものが、住人からの冷たい視線でした。看護婦の姉さんが注射をして回り多くの人を殺したと…。

人殺しの家族として犠牲者の碑に記銘もされず、そのことで住まいを焼き討ちされたりしたこともあり、2人の兄弟は最終的には集落を出て行かれたそうです。その後チビチリガマの惨劇の模様が少しずつ話されるようになったことで誤解は解け、今では犠牲者の碑に名前も記銘されています。

この〝風評被害〟は根拠がないものではあるものの、チビチリガマの惨劇に対し生存者の方や集落の住人が一切口を噤んでしまったことに起因しています。勿論身内同士で殺し合う地獄絵図の如き姿を、好んで口にすることなど誰ができるものかと思います。しかし〝噂〟と言うものはどこがしらから漏れてくるものであり、結局〝ひとり〟で〝全て〟を殺したと〝曲解〟されたことが、チビチリガマの惨劇の姿として語られるようになりました。そして〝事実を知らない者〟があたかも知っているかのように、記述し広がらせていく結果を生むことになります。言い方は悪いですが〝後ろ指〟を指される環境で生きていくことなど死んだも同然、いや死んだ方がましだと良く言われます。確かにそうです。特に自分自身に身に覚えがなければ尚更だと思います。自らも特攻隊に志願され、時の流れに翻弄されながらも生きて終戦を迎えられた。確かに特攻隊の生き残りの方々を、戦後〝戦争色の払拭〟という理由で差別視していた時もありました。しかしそれとはまた違う〝見方〟をされたこの兄弟の気持ちは〝二重の生き地獄〟を味わったのではないでしょうか。

何度も繰り返すようですが、私はチビチリガマを含め戦争による犠牲者の方々を冒涜するつもりは毛頭ありません。しかし戦後70年を迎えた今年、戦争経験者の方々の高齢化によって直接戦争を経験されたという事実、それが表立って出てこないようになるのは間違いないことだと思います。勿論戦争経験を〝言わない〟のではなく〝言いたくない〟という気持ちが根底にあるのはわかるものの、その〝直接証言〟に対し諸々の解釈が入ってしまい、結果真実とはかけ離れた内容になってしまっていることを危惧します。解釈は千差万別で十人十色ではあるものの、真実はひとつです。それは過去も未来も変わることのない不変の事実に違いありません。

この沖縄戦を含む第二次世界大戦の終結から、戦後統治された島々の日本への復帰や周辺諸国の動きとその弊害について時代の流れを追ってみることにします。

昭和20(1945)年8月14日、大日本帝国ポツダム宣言受諾。

昭和20(1945)年8月15日正午、昭和天皇の玉音放送をもって大日本帝国の無条件降伏を国民に知らせる。

同年9月2日、昭和天皇が〝降伏文書調印に関する詔書〟を発し降伏文書への署名及びその履行等を命じたことに基づき東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリにおいて、日本側を代表して重光葵外相、梅津美治郎参謀総長、連合国を代表して連合国最高司令官のマッカーサーが降伏文書に署名し、大日本帝国が無条件降伏を受け入れる。そして対日戦勝記念日=Victory over Japan Day(VJ.Day)が制定される。

対日戦勝記念日
《連合国》
【アメリカ】9月2日
【ロシア】9月2日(~2009年までは9月3日)
【中華民国】9月3日
【イギリス】8月15日
《その他》
【大韓民国】9月2日
【北朝鮮】9月2日
【ベトナム】9月2日
【中華人民共和国】9月3日(抗日戦争記念日:2015年より)

昭和20(1945)9月7日、陸軍第28師団長納見敏郎中将、独立混成第64旅団長高田利貞少将、海軍沖縄根拠地隊参謀長加藤唯雄少将の3名が南西諸島全日本軍司令官代理として、米国第10軍司令官Josepf Warren Stilwell大将が参加。越来村森根(現沖縄市・米軍嘉手納基地内)にて降伏調印し、正式な沖縄戦の終了となる。

昭和20(1945)年10月25日、台湾へ進駐していた中華民国政府がGHQからの委託に基き台北に於いて安藤利吉第10方面軍司令官・台湾総統が降伏文書に署名し、同日の光復式典をもって台湾の実効支配を開始する。しかしこの時は〝行政権〟のみを中華民国に委譲しただけであり、国際法上では以前日本の領土として残っていた。

昭和24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国。

昭和24(1949)年12月7日、中華民国台湾遷都。

昭和26(1951)年9月8日、サンフランシスコ講和条約に署名。
翌昭和27(1952)年4月28日発効、これにより第二次世界大戦が終結し、連合国による日本の占領が終了し、独立を回復する。この際台湾島地域に対する権原(領域の支配を正当化する根拠のこと)を放棄したが、それらの帰属先が明言されていないため、台湾島地域の国際法上の領有権は未確定となっている。
日本は南樺太に対する権原を放棄したため、現在領域権原を有していないものの、実効支配しているロシア(旧ソ連)はサンフランシスコ講和条約に調印していない。然るに南樺太の帰属は不確定であるとされている。

昭和21(1946)年3月22日、伊豆諸島返還。

昭和27(1952)年2月10日、トカラ列島返還。

昭和28(1953)年12月25日、奄美群島返還。

昭和43(1968)年6月12日、小笠原諸島返還。

昭和47(1972)年5月15日、沖縄返還。

ここで矛盾点が出てきます。戦勝国がVJ.Dayを制定するのはわかるにしても、その他の国として上がっている国々は戦勝国ではありません。植民地政策からの脱却であれば、解放記念日になるのが正しい訳でVJ.Dayにはならない筈です。もうひとつ付け加えるならば、終戦時に国がなかった最寄りの大きな国が、なぜ戦勝国と言い続けられるのか?付け加えるとこの国家主席は1953年6月1日生まれ、つまり〝戦後世代〟である事実。戦争を知らない世代が、戦争が終わった時に〝存在すらなかった国〟が、さも戦争を戦って勝利したかのようにふるまい、それに同調して同じような国々の元首が参列しておちゃらけた〝お祭り化〟する…、それが今のご時世における世界情勢です。根拠もなく所有権が曖昧になっているもの を武力により実効支配をし続けることこそが〝領土問題〟の勝者とばかりにアピールする姿は、武器が飛び交っていないだけであり、数十年前に領土拡張に躍起になっていた〝大日本帝国〟の姿そのものではないでしょうか。

歴史を語らずして未来を語れず、まさにその通りだと思います。歴史上の事実を正しく認識し、間違っていた判断により引き起こされた悲劇であるならば、その間違いを再度引き起こさずに結果を導き出すにはどうしたら良いか?それを考えなければならない時期にさしかかっているのではないでしょうか。

戦後70年というものは、ただ70年経ってしまっただけのように捉えられがちではあるものの、戦争を直接経験をされた方々が70歳になられたという事実に他なりません。戦後71年という〝言葉そのもの〟がないと考えておられる方々が数多くいらっしゃる事実は、時の流れに人間が逆らえないことを示しておられるように思えます。漠然と〝ひとつの真実〟という言葉は使ってはいますが、現実的には一次的に戦争を経験された高齢の方々がPTSD(Posttraumatic stress disorder・心的外傷後ストレス障害)に悩まされ続けている現実に、〝言わない〟のではなく〝言いたくない〟ことを無理強いすることは、想像を絶する苦痛を伴うことは間違いありません。そのことは言い換えれば今まで語られることのなかった〝真実〟が今後突然明らかになる可能性はないに等しいように思います。しかしなぜか巷に溢れている〝断定された真実〟、これは直接戦争を経験された方々の〝聞き取り〟を又聞きし、それに解釈を加えたものがほとんどです。勿論現在の日本に於いては取り敢えず〝言論の自由〟は憲法の下で保障されているため、それをとやかく言うことはできません。しかしそれによって〝悪人〟にされた者の立場はどうなるのでしょうか。これが即ち〝風評被害〟が起こってしまう一番の理由だと思います。チビチリガマでの看護婦遺族の話もそうですし、日本軍という〝組織〟を悪くいうために、その組織を構成する〝軍人〟までも十把一絡げに悪く言うのはどうかと思います。そして〝力での支配〟、先述した領土問題などは実効支配という国際法上〝根拠のない〟ものを〝力任せ〟でさも当然の如くふるまっていることに他なりませんが、これを言論に置き換えると〝多数意見〟というものに当てはまるのではないでしょうか。歴史上のあるひとつの事象に対し、無限に広がる〝解釈〟を加えて導き出される答え。同じ流れで似たような解釈、しかし明らかに間違っている解釈と〝誤字脱字〟まで同じもの。単純に〝コピペ〟ではあるものの数として多数派に入ってしまう怖さ、それが引き起こす〝風評 〟や〝誤解〟といったものに起因する〝あたり前論〟。大袈裟かもしれませんが主観的意見により考えの統一は〝洗脳〟と言っても過言ではないのかも知れません。

大義名分と徹底的な言論弾圧により作り出された多数派意見、それに社会的貧困という背景の下で自然と戦争という暗黒の時代に突入しました。その結果破壊と人の殺し合い、そして憎しみという爪痕を残して迎えた敗戦という現実、それから70年という月日が経ち、高度成長期を経て日本国は先進国のひとつとなりました。しかし利権が絡む国際情勢はきな臭い現実と隣り合わせになっています。私自身も思い当たる節があり反省しなければなりませんが、感情的になっていい結果を生むことはまずありません。メッキで塗り固められた国の姿に一喜一憂したとして、それが本当の狙いなのかどうか・・・。気付かない人たちになにを言っても始まらないと思いつつも、標記のひとつで良くもなったり悪くもなったりする現実を、チビチリガマの悲劇を時代背景と人のこと、そして後に伝える難しさを痛感した次第です。


長文にお付き合い頂きありがとうございました。これにて〝第十三章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~沖縄:チビチリガマ編~〟を終わります。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 ジェットスター
旅行の手配内容
個別手配

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この旅行記へのコメント (1)

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  • 琉球熱さん 2015/11/19 00:23:24
    平和の像
    たかティムさん、こんにちは

    茂みに囲まれた小さな広場は、なんとも名状しがたい雰囲気が漂っていますね。
    私はとても厳粛な気持ちにさせられましたが、若干“あちらの気”を感じる友人は、押し潰されそうな感覚があり、気分が悪くなったそうです。

    あの平和の像の台座の内部はご覧になりましたか?
    他の戦跡に見られる、ひたすら鎮魂を願うものとは一線を画す場所であることを痛感させられました。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのトラベラーページ

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