2015/05/01 - 2015/05/01
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SUOMITAさん
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0832 早めにホテルを出て,KDライン観光船の船着場へ.速めに乗船券を買うつもりで出発.Koblenzまで36.4ユーロ.あまり天気がよくないが,明日もそれほど期待できないかもしれないので決行した.待ち時間は踏切で通り過ぎる列車を見て時間をつぶす.0900乗船,0915出発.BingenとAssmannshausenに停泊しながら,ライン川を下る.確かに城が多い.ねずみ塔,Ehrenfels城,Rheinstain城,Rheichenstein城,Sooneck城,Heinburg城,Furstenberg城と続いていく.このうちRheinsteinとSooneck城はラインの城にぴったりのたたずまいだ.このブログでは1007 Niederheimbach,Rheindiebachを過ぎるまでを記録.観光船は悠々とライン川を下っていく.しかし曇っていて時おり雨が降り,風が強く,セーターとジャンパーを着ていたが寒い寒い.
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 船
- 航空会社
- ANA
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0832 少し早めに今日のKDライン観光船の当日切符を買うためにホテルを出る.ライン通りから見たホテル側
リューデスハイム(ライン)駅 駅
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KDライン
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地下道を通ったがむこうの踏切でも良かった
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左の建物が切符売り場だ
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切符売り場 まだ数人しかいなかった
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時刻表
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0841 発行 Koblenzまで36.4ユーロ 0915発1310までの3時間55分の船旅だ
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巨大な機関車に引かれた長大編成の貨物列車
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延々と続く 日本では見なくなった風景だ
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後ろからも機関車が押している
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定期電車も来た.VIAの列車だ.
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通過していった
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イチオシ
0901乗船
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今日は曇りで寒いかもしれないが展望デッキに座る.この後結構乗客が乗ってくる.Bingenなどからも乗り次第に混雑.日本の団体客も乗ってきた.この人たちはSt.Goarshausenにて下船.バスが待っていた.
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0915いよいよ出航
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前にはRudesheimの背後のぶどう畑が
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良く見える
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ゲルマニアの女神像.リフトで行くことができるが今回は行かなかった
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イチオシ
RudesheimのBromserburg ブレムザー城,近くで見るよりかっこいい
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Rudesheimの街並み
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下流側 Rudesheim-Bingenのフェリーが見える 明日乗船することになる
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Bingen側
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対岸
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Bingenの街
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イチオシ
St Rochuskapelle
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イチオシ
Burg Klopp 1240年
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Bingen 0928
ビンゲンシュタット駅 駅
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出航してすぐにMeause Turm ねずみの塔 修理中
ねずみの塔 モニュメント・記念碑
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10世紀中ごろ、マインツ大司教ハットー2世によって築かれたとする「伝説」がある。ハットー2世は、飢饉にあって民を救済せず、それどころか施しを求めた民を穀物庫に押し込めて火をつけた。苦しむ人々を前に、なおも嘲りの言葉を吐いたところ、突如鼠の大群が現れてハットー2世に襲い掛かった。驚いたハットー2世はこの塔に逃げ込んだが、鼠たちは川を渡って彼の体を生きたまま貪ったといわれる。
この伝説から、ねずみの塔と呼ばれるようになったといわれるが、実際は「関所」を意味する古高ドイツ語の"muta"、ないしは「待ち受ける」という意味の中高ドイツ語の"musen"が転訛したものと考えられている。
近年では、14世紀前半ごろに、対岸のエーレンフェルス城の徴税能力を補うためにマインツ大司教によって築かれたとされている。エーレンフェルス城同様、17世紀の三十年戦争ならびにプファルツ継承戦争を通じて著しく破壊された。
1856年〜58年にかけて、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世によって、塔は再建された。ケルンの宮大工棟梁エルンスト・フリードリヒ・ツヴィルナーの計画にしたがい、塔はネオ・ゴシック様式に改められた。
この後、1974年までねずみの塔はライン川航行の船の信号塔として利用された。19世紀以降、貨物汽船の航行が増大したが、エーレンフェルス城と塔の間はビンガー・ロッホ(Binger Loch)と呼ばれ、ローレライとならぶ船の難所であった。川幅が狭まり、90度近くカーブしている上暗礁が多く、重積載の汽船は航行不能であったためである。しかし、レーダーの発達や岩礁の爆破による航路の確保により、監視塔としての役目も終えることになった.http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.mauseturm.htm -
Burg Ehrenfels
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イチオシ
マインツ大司教ジークフリート2世の意を受けて、フィリップ・フォン・ボーランデンが1208年から1220年の間に築城したとされる。エーレンフェルス
城はねずみの塔とセットでマインツ大司教の徴税用の城となった。
三十年戦争以降、エーレンフェルス城も他の城の御多分にもれず、包囲と占領を繰り返した。1631年から35年にはスウェーデンに占領され、その後奪還されたものの、1636年にマインツ大司教アンゼルム・ヴァムボルト・フォン・ウムシュタットは城を焼き払って退却した。プファルツ継承戦争が始まると、1688年から翌年にかけてフランス軍に占領された。こうしてエーレンフェルス城は荒廃し、城の外郭はぶどう畑に転用するために削られていった。http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.ehrenfels.htm -
廃墟だね
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0943 Assmannshausen
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列車のむこうに古城
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Rheinstein城
ホテル ラインシュタイン ホテル
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イチオシ
築城者と築城年代については良く分かっていない。1241年にボーランデン公ヴェルナー4世によって築かれたとも、1260年にフィリップ・フォン・ホーエンフェルスによって築かれたともいわれる。記録に初めて現れるのは1323年、マインツ大司教ペーター・フォン・アシュペルトの所有としてである。近年の科学調査によって、築城がはじまったのは1316年ないし17年と推定され、ペーターによる築城であるとの見方が強まっている。 築城年代の不確実さに対して築城の理由は明らかであり、ラインシュタイン城の北わずか2km弱のところにある
ライン宮中伯のライヒェンシュタイン城に対抗するためであった。「ラインシュタイン城」というのは後世の呼び名であり、築城当初はマインツ大司教のパトロンの名をとって「ボニファティウスベルク城」と呼ばれていた。
しかし、14世紀半ばにはライン宮中伯がライヒェンシュタイン城から撤退したため、ラインシュタイン城の戦略的価値は、早々に失われてしまった.http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.rheinstein.htm
その後廃墟,19世紀修復,買い手がつかず,やっとオペラ歌手のヘルマン・ヘッヒャーが購入.今ではお荷物の城のようだ. -
しかしライン川らしい城だよね
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すぐに対抗の城.Burg Rheichenstein ライヘンシュタイン城が見えてきた.手前はClemenskapelle
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手前にキャンピングカーの駐車場
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ライヒェンシュタイン城周辺は、中世にはアーヘンのコルネリミュンスター修道院の領地であった。城は、1213年に築かれたとされている。しかし、この年にこの地の代官がゲルハルト・フォン・ラインボートからフィリップ・フォン・ボーランデンに代わっているため、どちらが築城したのかは不明である。フィリップの子ヴェルナーによって、城はライヒェンシュタイン城と命名された。1253年にライン都市同盟との争いで、攻められ落城したともいわれているが確かではない。1270年に城と領地は、マインツ大司教領となった。1282年、ライヒェンシュタイン城は神聖ローマ皇帝ルドルフ1世に攻められ、落城した。城主ディートリヒ
・フォン・ホーエンフェルス=ライヒェンシュタインは捕えられ、斬首された。その後しばらく廃墟となっていたが、1290年に周辺の土地がライン宮中伯の領地となるに及んで、境目の城として再建された。これに対して、南隣するマインツ大司教はラインシュタイン城(当時はボニファティウスベルク城)を築いて対抗した。1344年には、皇帝ルートヴィヒ4世の仲介によって、ライヒェンシュタイン城はマインツ大司教の要望を容れて放棄されることになった。その後所有者は度々代わったが、城は次第に朽ちていき、16世紀初頭にはすでに倒壊寸前になっていた。1834年、プロイセンの陸軍少将フランツ・フォン・バルフスが城を買い取り、自身の居住用に改築した。1899年に所有者となったニコラウス・フォン・キルシュ=プリツェリは、1902年にかけて大規模な城の復元工事を行った。現在目にしているフォルムは、このときの改修によるものであるhttp://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.rheichenstein.htm -
Trechtingshausenの街
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下流を見る,次の城が見えてきた.このあたり城は,ライン川西岸に集中している
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Burg Sooneck ゾーネック城
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イチオシ
アーヘンのコルネリミュンスター修道院によって遠隔地支配のために築かれた。築城年代には、11世紀初頭から13世紀後半まで諸説ありはっきりしない。
1270年に、城と領地はマインツ大司教領となった。1282年、ゾーネック城は神聖ローマ皇帝ルドルフ1世に攻められ、落城した。このとき、城は徹底的に破壊され、以後の再利用を禁止された。1349年に、この禁は皇帝カール4世によって解かれ、ゾーネック一帯の封建領主ヨハン・フォン・ヴァルデックによってゾーネック城は再建された。...
城は徐々に朽ちていった。プファルツ継承戦争さなかの1689年、廃墟となっていたゾーネック城は、周辺の他の城と同様フランス軍によってさらに破壊された。
城は、1843年から修復工事がはじまった。http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.sooneck.htm -
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このような背が低く長い輸送船がライン川の特徴
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Niederheimbach
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539kmポスト
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Heinburg城 低い位置にある またの名をHohneck城
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13世紀末、ハイムブルク城の建つニーダーハイムバッハ周辺は、南北をライン宮中伯領に挟まれたマインツ大司教の飛び地であった。このため、マインツ大司教は、1290年もしくは94年にニーダーハイムバッハでの築城を命じた。城は1305年に完成し、当初はホーエンエック城やハインエック城、ハーネック城などと呼ばれていた。1438年までは、マインツの下級裁判所(Untergericht)の所有となっていたが、その後は荒れるに任せて朽ちていった。プファルツ継承戦争さなかの1689年、周辺の他の城と同じく、ハイムブルク城もフランス軍によって著しく破壊された。
19世紀後半にエドゥアルト・ラーベネックが買い取り、城を修築した。また、1920年にはフーゴー・シュティンネスが所有者となり、城をネオ・ゴシック様式に改築した。現在は個人所有となっており、公開はされていない。
http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.heimburg.htm -
Rheindiebachの街の上にFrustenberg城
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1219-フュルステンベルク大主教ベルク エンゲル ベルトにより建設
プファルツ継承戦争さなかの1689年、周辺の他の城と同じく、ハイムブルク城もフランス軍によって著しく破壊された。
現在も廃墟のようだ.1007 ライン遊覧船は悠々と進む.
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