2015/04/25 - 2015/04/25
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montsaintmichelさん
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ゴールデンウィークのお楽しみにとっておいた神戸観光ですが、天気も上々でしたので、何もわざわざ混雑のピークに行くこともないと思い直して一足先に出かけることにしました。
コースを紹介しますと、海岸通り(近代建築鑑賞)~北野異人館~布引きの滝~相楽園(庭園、他)~兵庫県公館(近代建築、美術鑑賞)とバリエーション豊かな逍遥ルートです。
普通なら1日半ほどのコースですが、日帰りで何とかクリアすることができました。今回は、海岸通りのレポです。
さわやかな潮風に吹かれながら、現在の神戸の町並み基盤を造ったと称される、旧居留地~海岸通りに並ぶ近代建築を探訪してまいりました。
神戸税関前を東西方向に伸びる通りが海岸通り(国道2号)です。名称そのままに海岸線沿いに敷かれた大通りで、かつてはこの道のすぐ傍が波打ち際となっていました。
神戸開港時、この海岸通りに面した一角に芽生えた外国人居留地は、やがて神戸の街の中枢へと育ち、大正期には整然と区画割された街区に日本資本による巨大な近代西洋建築が建てられ、一大ビジネス・ホットスポットに発展していきました。
海岸通りには現在も多くの戦前に建てられた近代建築が並んでいますが、日本を代表する錚々たる海運会社などのビルが一同に揃っているのは如何にも「ミナト神戸」に相応しい景観と言えます。
今回紹介する近代建築群も、国際貿易都市として繁栄した神戸を象徴する歴史の生き証人のひとつであり、神戸の歴史と文化を語る上で欠かせない存在です。近代建築の意匠の変遷をこの目で確かめることができるのは、神戸観光の醍醐味です。しかし、かろうじて戦禍を逃れた近代建築も阪神淡路大震災で2度目の試練を受けました。その中で現実と正面で向き合い、如何に「再発見」して近代遺産として後世に受け継いでいくべきか、近代建築が背負わされた十字架のような悪戦苦闘の軌跡を垣間見ることもできます。技術者や職人たちが思い描いた夢とロマンに浸れるのが近代建築鑑賞の醍醐味です。
前口上が長くなりました。それでは海岸通りへご案内いいたしましょう。
今回活用させていただいた近代建築マップです。
http://www.aij.or.jp/taikai/2014/archimap/
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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-
神戸花時計
神戸と言えば、「花時計」は欠かせません。
神戸市役所北側にある花時計は、日本で初めて1957年(昭和32年)に造られた花時計です。宮崎市長の提案に基づき、スイス・ジュネーブのイギリス公園に設置されていた花時計をモデルにしています。現在ある花時計は1976年に改装された2代目です。
直径6m、高さ2.25m、傾斜角度15度で、地下に機械室があり、盛土の上に設置されています。現在使用されている時計の針はグラスファイバー製です。時針の長さが260cm、分針と秒針の長さは310cmあります。
文字盤は季節毎に神戸をモチーフにした様々なデザインで彩られ、神戸の時を刻み続けています。
現在の図案は、時節柄、神戸まつりPRキャラクターの「元気くん」です。
マリーゴールドやペチュニア、シロタエギク、パセリなど3000株で構成されています。
今ではありふれた花時計ですが、往時は国内には参考になる資料もなく、課題山積状態からのスタートだったそうです。文字盤が例を見ない6mもあり、傾けた文字盤の上を花壇にすることもあり、時計としての時間精度の維持はもちろん、針軸部分の防水や機械室の防水防湿構造、針への風圧の影響等々の難問を克服して誕生しました。設置費も市民や民間企業からの寄付で賄い、市民有志から市に寄贈される形で時を刻み始めました。
現在も進化を続けており、2002年から、花時計の電源には市役所2号館屋上にある太陽光ソーラー発電で作られた電気を使用し、環境にも配慮しています。 -
新クレセントビル
花時計の北側の道に沿ってフラワーロードを右に折れ、西南西方面(大丸方面)へ進みます。
京町筋の交差点でふと見上げると、ビルの玄関口に上品なアジサイのステンドグラスがさりげなく吊り下げられています。
このビルは、新クレセントビルと言い、旧居留地のランドマーク的な街並みと溶け合い、「第7回 神戸景観・ポイント賞」を受賞したハイスペック・オフィスビルです。
因みに、旧クレセントビルは横浜の洋館などを設計した米国人建築家ジェイ・ハーバート・モーガン氏によるものだったそうです。新ビルの低層部のアーチ部分には、旧ビルのメダリオンやキーストーンを復元して飾っています。 -
旧神戸証券取引所 (神戸朝日ビル)
1994年に竣工した、ガラス・カーテンウォールを身に纏った地上25階、地下2階の壮観な高層ビルです。しかし、低層部へ目をやると、緩やかに優美な弧を描く列柱が印象的なレトロ建築となっています。復元された旧神戸証券取引所の外観がここに活かされています。低層部の旧神戸証券取引所は、1934(昭和9)年に渡辺節氏の設計により建造された近代建築です。
このように新旧建築を融合させたスタイルになったのは、高層ビルへの建て替えの際に旧建物のファサードを後世に遺すために発足した復元プロジェクトの産物です。旧い建物の最大の特徴だったアールを描くイオニア式オーダーの角柱部を中心に復元し、スリムな高層部とは対照的に、低層部に重厚でどっしりとした印象を与えながらも開放感のある空間を構成し、ビル全体の調和を図っています。 -
旧神戸証券取引所 (神戸朝日ビル)
神戸証券取引所は、東京や大阪に次ぐ全国3番目の証券市場として1883(明治16)年に創設されました。地理的には大阪に近い神戸ですが、1967年に廃止されるまで独自に証券取引所が置かれていました。国際貿易港として発展を遂げた神戸とは言え、証券市場は東証や大証に比べて小規模なものでしたが、この建物は東京や大阪の証券取引所を凌ぐ程大きくかつ豪華な建物だったそうです。竣工当時の神戸経済界には、相応の勢いや先行きの期待感があったのかも知れません。
とにかく、パッションでこれだけの近代建築を建ててしまう往時の神戸の気概を感じずにはいられません。 -
旧神戸証券取引所 (神戸朝日ビル)
目立った装飾は、唯一エンタブラチュアの中央にあるさりげないメダリオンだけです。渡辺節氏の装飾としては物足りないような気もしないでありませんが、戦災や後世の修正によるものかもしれません。
現在の前面部分は角柱がオブジェの様に建ち並んでいますが、かつてはこの柱の間に外壁が巡らされていたそうです。旧建物を残して建替える場合、オリジナルの姿を忠実に復元するのが常道なのですが、この建物は割り切って印象的な列柱部分だけを再利用しています。建物保存の趣旨からは全体保存が望ましいのですが、ユニークな部分を切り出した結果、よりインパクトが高められた好例ではないでしょうか? -
旧神戸証券取引所 (神戸朝日ビル)
重厚感に溢れた角柱の間を通り抜けると、そこには高い天井が印象的なピロティが広がっています。
1〜2階ピロティは、毎年、震災復興イベントの「神戸ルミナリエ」の会場になり、この神戸朝日ビルが「神戸ルミナリエ」の出発点、終点は神戸役所横の東公園となります。 -
旧神戸証券取引所 (神戸朝日ビル)
1934(昭和9)年に竣工したこの建物は、僅か10年程で証券取引所としての使命を終えています。1945年の終戦と同時にGHQに接収され、1953年に返還された後は映画館「朝日会館」として市民に長く親しまれてきました。その後再開発によって高層オフィスビルに建替えられる運命となったのですが、元の建物を低層部として残し、内側に高層棟を組み込む形で保存されることとなりました。後ほど紹介するNOF神戸海岸ビルの再建と同じような手法ですが、年代的にはこちらが先輩になります。解体は避けたいが、前例が無いだけに賛否両論があり、断腸の思いで決断されたことでしょう。
尚、神戸証券取引所は、戦後別の場所で再開されていましたが、1967年に正式に廃止されて大阪証券取引所に吸収されています。 -
旧神戸証券取引所 (神戸朝日ビル)
いきなりこのような長大なスケールの近代建築と遭遇し、いったいどこを見てよいのか錯乱状態に陥ってしまいます。
大きな建物は、どうしても細部を見逃してしまいがちです。気を取り直して全体を見回すと、角柱の基部に幾何学模様が彫まれているのに気付きました。
浅学の当方には、ラーメンの丼に描かれた模様に見えてしまうのですが…。 -
旧神戸証券取引所 (神戸朝日ビル)
東西に配された矩形の建屋の意匠は、アメリカン・ルネッサンスを彷彿とさせます。
コーナーの石積みや最上階の下にある浅い軒、基底部のラスティカ積みは、渡辺節氏の世界を忠実に再現しています。 -
この石柱は、1929(昭和4)年に旧三菱銀行三宮店として建造されたコリント式オーダーの柱頭です。
ユリの花のようですが、下方部はアカンサスの葉の意匠かと思われます。 -
旧神戸証券取引所 (神戸朝日ビル)
柱頭の展示場所と神戸朝日ビルの位置関係が判ると思います。 -
大丸神戸店
目の前に伸びるクラシックなアーケードに惹かれてしまいますが、欲望を呑み込んでその手前を左折して南へ進みます。
大丸はこの一角をクラッシックスタイルで統一しています。百貨店が先導して街づくりをしている例は全国でも珍しいケースではないでしょうか?
ですから、神戸市民御用達というのも頷けます。
日本における近代建築の歴史は、開国が起点です。幕府は1858年、神奈川(横浜)、長崎、箱館(函館)を開港。神戸は10年遅れて開港し、外国人居留地には紛争を避けるために往時の兵庫の町から3.5km東の砂地 神戸村が選ばれました。北は西国街道、東は旧生田川(現フラワーロード)、西は鯉川、南は海に囲まれ、周囲から隔絶された神戸村は好都合な立地条件でした。
欧州の近代都市計画技術を基に、英国人土木技師ジョン・ウイリアム・ハート氏が設計を担い、初代兵庫県知事 伊藤俊輔(博文)と協議して格子状の街路や街路樹、公園、街路灯、下水道など整然とした126区画もの西洋街が造られ、現在の町並みの骨格を創り上げました。往時の英字新聞『THE FAR EAST』は、「東洋における居留地として最もよく設計された美しい街」と絶賛したほどです。
居留地制度は神戸開港の30年後に解消されますが、外国商館とその後の日本資本による近代西洋建築は同地に親しく軒を連ね、神戸という街の独特な雰囲気を醸成してきました。 -
旧居留地
この辺りにはこうした花壇があちらこちらに設置され、花のある街づくりを実践されています。ボックスの模様も凝っており、シックな感じで見入ってしまうほどです。
第二次世界大戦の戦禍がかつて欧米人たちで賑わった町並みの7割ほどを破壊し、また、高度成長期に市の中心が東へ拡張したことも災いし、戦災を逃れた近代建築もいつしか忘れ去られた存在になっていました。時代の潮流に翻弄されながら、神戸の近代建築が「再発見」されたのは昭和50年代のことでした。神戸市が全国に先駆けて「都市景観条例」を制定したのと時を同じくして、旧居留地を中心とする近代建築も新たな視点から見直されました。街並みを愛する多くの人々の手で守り育てられ、近代建築を活かしたカフェやショップとして新しい生命が吹き込まれ、神戸らしいお洒落で洗練された街に再生されました。こうして旧き佳き神戸を伝える西洋館や近代建築は、丁重に保存され、夜には美しくライトアップされた姿が往時を偲ばせます。
そして2度目の試練である1995年の阪神淡路大震災からの復興への鼓動を共有しながら、伝統と新しさを融合させた、華やかでときめきの感じられる新しい旧居留地が誕生しています。 -
大丸神戸店
闊歩するコリドールの上には、大丸のシンボル「孔雀」のレリーフが嵌められています。これは、大丸の旗艦店ともなる心斎橋店の心斎橋筋玄関に掲げられているテラコッタ製のものを模ったものです。
この「孔雀」に関する面白いエピソードがあります。
当初設計者ヴォーリズ氏からは、焼失した店舗再建の願いを託して「不死鳥(フェニックス)で」という指示が出されたそうです。ところがテラコッタを受注した米国メーカは、愛と幸福の象徴である孔雀を逆提案し、それが採用されたのだそうです。メーカ側がフェニックスという神話上の鳥に戸惑ったからだと伝えられています。
心斎橋店の孔雀のレリーフは、青や緑色の釉が艶やかな光沢を放ち、植物を象ったレリーフに囲まれて目の覚めるような美しさだそうです。 -
旧居留地38番館(旧ナショナル・シティバンク神戸支店)
神戸大丸の敷地の南東角に、旧居留地38番館と呼ばれる近代建築が残されています。
仲町通りに面した南正面に配された4本のイオニア式オーダー(円柱)と入口のチェッカーフラッグ(写真では時間帯が早いのでまだ掲げられていません)が印象的なアメリカン・ルネッサンス様式の石造意匠ビルです。決して大きくはありませんが、目地を強調した石積みで引き締めた、雰囲気のある外壁の色合いが絶妙です。
1929(昭和4)年に竣工され、設計者はウイリアム・メレル・ヴォーリズ建築事務所のW.E.ハインズ氏です。イオニア式オーダーや石積みの外観は、ヴォーリズ派の作品としては珍しく新古典主義的な重厚感を帯びていますが、これは銀行建築を意識したための意匠と言えます。しかし、石積みの色彩感覚や表面の仕上げなどに他の銀行建築にはない優しさが滲んでいます。 -
旧居留地38番館(旧ナショナル・シティバンク神戸支店)
シティバンク神戸支店として建設され、1階をシティバンクが使用し、2階を独逸染料とバイエル薬品、3階を帝国酸素が使用していました。しかし銀行は、日米関係の険悪化を発端にビル創建から12年で閉鎖の憂き目に遭います。戦後も同行の店舗に復されることはなく、暫く倉庫として使われていました。1980年以降、旧居留地一帯は、古い歴史的建築物が多かったがために衰退していきましたが、1988年にブティックとして再生したことをきっかけに神戸のファッション・エリアとして話題になりました。
現在は「神戸大丸 南一号館]」として利用されています。
「ひょうご建築100選」に選定されています。 -
旧居留地38番館(旧ナショナル・シティバンク神戸支店)
東面には7本のラピスター(付け柱)が配され、軽快なリズムを刻んでいます。
ニューヨーク・ナショナル・シティ・バンクは、戦前に日本に進出した海外銀行の中で唯一の米国系銀行です。積極的に海外進出を果たした同行は、日本国内に東京や大阪、横浜、神戸の4支店を有し、外国系銀行の中では最大規模を誇っていました。
昭和4年に神戸支店を新築したものの、米国資本の同行は日米関係の険悪化に伴って徐々に業務が制限されていきます。やがて日米開戦の昭和16年には閉鎖となり、銀行として使われたのは築後僅か12年ほどの短い期間に終わりました。 -
旧居留地38番館(旧ナショナル・シティバンク神戸支店)
前面に並ぶ4本のイオニア式オーダーや目地の大きな壁面の貼石、入口上部のペディメント(三角破風)飾り等、ニューヨークやシカゴに建てられたオフィスビルを彷彿とさせる意匠です。
同時期に建てられた同じく外資系銀行のチャータード銀行神戸支店も同じ様式に分類されますが、石材の素材感が異なるため印象も随分違って見えます。 -
旧居留地38番館(旧ナショナル・シティバンク神戸支店)
ヴォーリズ氏は、宣教師として来日し、数多くの洋式建築を残しています。現在、この建物は大丸百貨店の別館として活用されていますが、京都四条や大阪心斎にある大丸店舗もヴォーリズ氏が手掛けています。
その他、関西学院大学、や神戸女学院大学等の学舎の設計者としても知られ、神戸でもフロインド・リーブ本店(旧神戸ユニオン教会)や解体された室谷邸等の優れた建築に携わりました。
一方、メンソレータムを広めた近江兄弟社の創始者でもあり、建築家だけでなく実業家の顔も併せ持ち、後に帰化して一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と名乗ったほどです。 -
三井銀行神戸支店
38番館の南面に沿う仲町通りを東へ2ブロック戻り、次のターゲットを目指します。
途中にある三井銀行神戸支店の敷地内には、このようなミラーボールが水を張った枠の中にポツンと置かれています。
このオブジェに映り込んだ景色が撮影ポイントなのだそうです。
当然ながら、写真を撮影している当方の姿もその中心にあります。 -
旧居留地15番館(重文)
ビルの谷間に忽然と姿を現す一軒の木骨煉瓦造の西洋館。
15番館と呼ばれたこの洋館は、旧居留地時代の姿を偲ばせる現存する唯一の貴重な建物です。神戸最古の「異人館」でもあり、日本最古の「商館」でもあります。初代は1870(明治3)年頃の竣工とされていますが、1878年に火災で焼失、1880年頃に再建されて暫く米国領事館が置かれ、その後は商館として使われました。北野地区の異人館「萌黄の館」を建てた米国総領事シャープ氏が、一時期ここを住居兼オフィスにしていたこともあります。設計者は不明です。
北野異人館でよく見かける典型的な開放的コロニアルスタイルの洋館ですが、コリント式の角柱と円柱を前後に並べ、両端にペディメント(三角破風)を載せている2階バルコニーに特徴があります。 -
旧居留地15番館
木骨煉瓦造、外壁にはモルタルが塗られていますが、表面には石を積んだかのような目地が入れられています。「リージェンシー・スタッコ」と呼ばれ、英国で流行った技法を米国で復活させたものです。
シャープ氏が暮らして以降、幾多の変遷を経て1966年にそれまでの持ち主の江商(現兼松)からノザワに移りました。ノザワはこの建物を本社事務所として使っていましたが、築後100年以上経て老朽化が激しくなり、89年の重文指定を機会に全面改修しています。
後方に聳えるのはノザワの本社ビルです。 -
旧居留地15番館
建物は南側に吹き抜けの柱廊やベランダを持つ、東南アジア地帯でよく見られるコロニアルスタイルです。ギリシャ建築風のコリント式の角柱と円柱の組み合わせが斬新です。
全体的に見ると、ヨーロッパ古典様式+コロニアル(植民地)様式のべランダ+米国式木骨石造(煉瓦造)を折衷した類稀なる華やかな建物と言えます。 -
旧居留地15番館
震災の6年前に修復工事を終えたばかりでしたが、儚くも全壊し、瓦礫の山と化しました。しかし、震災の3年後には不死鳥のようにかつての姿に蘇り、併せて免震工事も加えられています。
米国の日本建築研究家ダラス・フィン女史が、震災の報道の中で15番館の惨状を知り、米国国立公文書館所蔵のかつての15番館の写真のコピーを野澤氏に送ってこられたそうです。復旧の際、この写真を参考にし、より明治時代の姿に復元するために役立てられました。
今ある姿は被災後に再建されたものですが、崩れ落ちた木片を繫ぎ合わせ、実にその7割を元の部材により修復するという気の遠くなるような緻密な作業が行なわれたそうです。再建というよりは、復元あるいは修復と呼ぶべきものでした。
外国人居留地はわずか30年余りでその使命を終え、民間に払い下げられてオフィス街へと変貌を遂げていきました。この過程で旧居留地時代の建物の多くが取り壊され、一部の西洋館は北野の高台へ移設されています。残った西洋館もその後の戦災と戦後の都市開発で次第に失われ、時代の潮流とは言え、唯一この建物が往時の居留地の姿を伝えるものだというのはどこさ寂しいものがあります。 -
煉瓦造下水道遺構 卵形管(15番館南東角)
開港場の都市基盤整備として外国人居留地に敷設された煉瓦造の下水渠がモニュメントとして展示されています。英国人技師ハート氏の設計により1872(明治5)年に竣工、近代下水渠としては横浜と並び国内最初期のものです。
2004年、旧帝国生命保険神戸出張所と同時に国有形文化財に登録されました。 -
煉瓦造下水道遺構 円形管
口径約90cmの円形管(写真のもの)と径46×60cmの卵形管からなり、使用された煉瓦は兵庫県明石方面で焼成された国産品です。
南北方向の道路に沿って6本、総延長約1880mが敷設されました。このように15番館の東面道路に一部が現存しており、そのうち延長約90mの間は雨水幹線として現在も供用されているそうです。 -
旧横浜正金銀行神戸支店 (神戸市立博物館) 国登録有形文化財
居留地15番館から南北に走る道路を挟んだ左手(東側)に「国際文化交流−東西文化の接触と変容」を基本テーマにした市立博物館があります。戦前に横浜正金銀行神戸支店として竣工された建物を転用した施設です。因みに、居留地時代、この場所には神戸の近代造船業の祖とされるキルビー氏が運営する貿易会社キルビー商会がありました。
旧横浜正金銀行神戸支店は、1935(昭和10)年に居留地に建てられた銀行です。設計者は、ジョサイア・コンドル氏の薫陶を受け、日本人初の英国公認建築士A.R.I.B.Aの称号を授かった桜井小太郎氏です。博物館への転用時の1982年、坂倉建築研究所の設計で大規模な増改築工事が行われています。
銀行建築として手堅くまとめられ、正面にある6本のドリス式のジャイアントオーダー(半円柱)が特徴の新古典主義の建物です。全て御影石製の外装石貼りの重厚感溢れる銀行建築は、博物館や美術館に転用しても全く見劣りしていません。
昭和初期の名建築と称され、神戸における古典主義様式の建築物としては最後期の作品となります。 -
旧横浜正金銀行神戸支店 (神戸市立博物館)
往時の銀行建築の意匠には様々なスタイルがありましたが、大正初期に古典主義の第2世代となる長野宇平治氏が旧三井銀行神戸支店で6本のオーダーを正面に配置して以来、銀行建築のデファクト・スタンダードとして定着したと言われています。
横浜正金銀行は、外国貿易金融を専業とする特殊銀行として横浜に設立されました。往時、横浜正金銀行とチャータード銀行、香港上海銀行は共に外為銀行としてアジア各地で覇権を競う関係でした。横浜正金銀行は、後発でしたが、政府や財界の庇護の下で積極的に海外に支店を設け、日本企業の海外進出を支えました。
その神戸支店だったこの建物は、西側を増築して博物館として再生されていますが、奇しくも横浜本店も同様に神奈川県立博物館となっています。
因みに、神奈川県立博物館の会館は1967年ですので、神戸市立博物館がこの成功事例を参考にして企画したのかもしれません。 -
旧横浜正金銀行神戸支店 (神戸市立博物館)
設計者の桜井小太郎氏は、海軍建築技官から三菱地所勤務を経て独立し、大手企業の社屋を中心に各地に作品を残しています。有名なところでは、丸の内ビルディングや銀行建築を数多く手掛けた他、成蹊学園本館や静嘉堂文庫、東洋文庫も設計しています。因みに、桜井氏はこの作品で有終の美を飾っています。
数多くの銀行を手掛けただけあり、晩年のこの作品も手馴れた銀行建築の基本を堅実に守ったオーソドックスな構造を踏襲しています。丁度新しい建築様式の潮流が広がりつつあった昭和10年の築ですが、新しいスタイルに食指を伸ばさず、しっかりと古典主義の孤塁を守っているような、そんな気概が伝わってきます。 -
旧横浜正金銀行神戸支店 (神戸市立博物館)
玄関先では、ロダン作「ジャン・ド・フィエンヌ(カレーの市民より)」のブロンズ像が出迎えてくれます。
その像は、立ち止まり、振り返り、そして「さあ!」と後に続く者たちを促しています。進もうとするその先にあったのは、希望でしょうか?約束された自由でしょうか?それとも…。
英吉利と仏蘭西が戦った100年戦争で英国王エドワード3世の軍隊がフランスの港町カレーを包囲した時の出来事です。英国王は町の代表6名が城門の鍵を持って投降することを条件に攻撃の中止を約束します。フィエンヌは、選ばれた6人の中で最年少でしたが、ためらう5人に「さあ行こう!」と促しました。
500年の時を経て、カレー市はこの6人を町の勇気ある英雄と讃え、その像の制作をロダンに依頼しました。しかしロダンは英雄としてだけではなく、死を前にした人間が恐怖に向かい合う心象も表現したかったようです。両者の思いにはギャップがあり、カレー市が6人の像を市庁舎前に設置したのは作品が完成した1890年頃からずっと後、ロダンの死後だったそうです。
このエピソードは、政治的な立場から見ると思い通りにならない芸術の真価のようなものを感じさせます。
フィエンヌの像は往時のロダンの思いをその表情に湛えながら、来館者を迎えています。開館に際し、これからの神戸文化の発展を願って個人の篤志家から寄贈されたものだそうです。
「さあ!入ってじっくりご覧下さい」と言っているかのようです。
ロダンが表現したフィエンヌが呈する複雑な表情は、是非現地でご確認ください! -
旧横浜正金銀行神戸支店 (神戸市立博物館)
西面にあるステンドグラスです。
反対側から見ているので判り難いのですが、同博物館所蔵の南波・秋岡古地図コレクションの中の世界地図をモチーフに制作された図案と思われます。インド洋に帆船が数隻浮かんでいます。世界中に貿易で繋がっている神戸に相応しいステンドグラスと言えます。
館内から見たらもっと綺麗でしょうね! -
公衆電話ボックス
博物館の前にある白いエキゾチックな公衆電話ボックスです。
ミナト神戸ということで、灯台を象ったデザインのようです。
最近は携帯電話の普及で公衆電話を見かける機会が減りましたが、こんなかわいらしいボックスなら思わず電話してみたくなるのではないでしょうか? -
旧チャータード銀行神戸支店(チャータードビル)
海岸通り(国道2号)沿いにあるチャータードビルは、今日の旧居留地海岸通りを代表する近代建築のひとつです。1938(昭和13)年に竣工、地上4階建の鉄筋コンクリート造です。設計者は、ジェイ・ハーバート・モーガン氏。このビルの建設中、竣工の1年目前にモーガン氏は急逝し、友人の建築家スワガー氏に引き継がれて完成したと伝えられています。
建物正面の豪壮なイオニア式巨大オーダーとその上壁にある5つの飾り壺の浮き彫り、両脇の出入口に載せられたぺディメントが、かつての英国系銀行建築の面影を偲ばせます。
銀行支店として使われた後、暫くは荒れた状態でしたが、現在は「ザ・チャータードスクエア」と称したテナントビルとして活かされ、1階にカフェやブティックが入居するファッショナブルな商業ビルとして再生されています。
因みに、居留地時代、この場所には英・スペイン・オーストリアの領事館がありました。 -
旧チャータード銀行神戸支店(チャータードビル)
モーガン氏は、米国最大の建築施工会社フラー社の設計技師長を務めていましたが、1920(大正9)年に「丸ビル」の施工を担うために来日しました。日本郵船ビルなどの建設にも携わり、1922年に日本郵船ビル内に事務所を開設。その後自ら設計したユニオンビルディングの2階に事務所を構え、エリスマン邸を設計したA.レーモンド氏や山手カトリック教会を設計したスワガー氏らと共に在留外国人建築家として活躍しました。全国に30以上手がけた建物のうち、学校や銀行、商社、領事館、個人住宅など幅広い分野の建築設計に携わり、その半数が横浜に建てられています。ですから神戸エリアに残された彼の作品には希少価値があります。そしてチャータード銀行神戸支店は、モーガン氏の最期の作品でもあります。肺炎のためゼネラルホスピタルで亡くなったモーガン氏は、最期の作品を眼にすることなく山手外国人墓地で安らかに眠っています。
作品の特徴は、重量感のあるどっしりとした作風です。その存在感ゆえに大きな安心感を醸し出しています。 -
旧チャータード銀行神戸支店(チャータードビル)
かつて銀行ロビーだった空間は、カフェ「E・H・Bank」として活かされています。装飾が施された折れ天井と全面大理石貼りの高さ8mの天井は効果的に活かされ、広大な吹き抜け空間が演出されています。
南西と南東の角にはレトロな木製の回転ドアが残され、往時を偲ばせます。旧金庫室もそのまま利用され、エントランスからトイレに至るまで、レトロと華麗さが混ざった驚きの空間が創られています。まさに「神戸らしさ」に溢れたお洒落な建物です。 -
旧チャータード銀行神戸支店(チャータードビル)
北西の角から見上げるとこんな感じです。
チャータード銀行は1853年、ビクトリア女王からの特許状交付に基づき設立された由緒ある銀行です。往時、欧米資本の銀行支店が置かれていたのは、東京を除くと横浜と神戸に限られていました。欧米諸国にとっての日本市場は両港の貿易を通じた関係が主で、神戸も多くの外国企業の活動拠点となっていました。外資系銀行が置かれていたことは神戸が世界規模の経済拠点であった証でもあります。 -
旧川崎汽船本社ビル(神港ビルヂング)
海岸通りに面して建つ神港ビルヂングは、1939年竣工、設計者は木下益次郎氏です。海岸通に面して建つ中では1区画を占める一番巨大なビルで、奥行きは70m近くあります。
鉄筋コンクリート造、石貼りの外観は、海岸通りに建ち並ぶ他のビルに共通した意匠です。しかし、チャータードビルのわずか1年後の竣工にも関わらず、見違えるほどモダンでスマートな印象に仕上がっています。
壁面から荘厳な趣のオーダーはなくなり、装飾を控えているために簡素美さえ感じられます。1〜2階と7〜8階の間に控え目に胴縁を巡らし、古典主義の特徴である基壇・胴部・頂部という3層構成がかろうじて見て取れます。
建築様式が変遷する大きなうねりを感じずにはいられない作品です。 -
旧川崎汽船本社ビル(神港ビルヂング)
このビルの最大の特徴は、アール・デコ調の薄彫りや隅飾りで美しくデザインされた、屋上にあるガラス張りの塔屋です。どこか米国マンハッタン摩天楼の近代ビルの意匠を彷彿とさせます。つまり、往時米国で浸透しつつあった新しい潮流「モダニズム」の影響を色濃く残した作品であることが窺われます。この搭屋が最もアール・デコの雰囲気を漂わせる要素です。
アール・デコ調の建物は、神戸では恐らくこのビルしか現存しないように思います。近代建築と現代建築の中間に位置する貴重な様式とも言えます。
このエリアにある他の華麗なる古典主義の近代建築の外観と比較するとのっぺらとした地味な印象を受けてしまうのですが、建築デザインの流れ的には竣工当時は時代の最先端を走っていたことになります。また、震災でもこれといった被害がなかったというのも構造設計の巧みさを窺わせます。
現在もオフィスビルとして利用され、川崎汽船の登記上の本店所在地となっています。 -
旧川崎汽船本社ビル(神港ビルヂング)
日本の3大海運会社(日本郵船・商船三井・川崎汽船)のひとつに数えられる川崎汽船は、川崎造船を母体として設立された会社です。3大海運会社の中で唯一神戸を本社(登記上)としており、この建物も本社ビルに相応しい壮大なスケールの堂々たる構造となっています。 -
旧川崎汽船本社ビル(神港ビルヂング)
設計者の木下益次郎氏は、自分の設計事務所を設立した神港ビルの他、甲南病院や川崎病院といった川崎造船所(現川崎重工)系列の医療機関の設計を手がけています。
近代建築を紹介しているブログを拝見すると、このビルの屋上に上って直下から搭屋を撮影された写真が載せられていることがあります。しかし、このビルはオフィスビルですので、無断で建物内に侵入すれば住居侵入罪に問われることもありますので注意してください。専門家と共に近代建築を巡る有料セミナー以外では屋上へ上ることはできないと思います。 -
旧川崎汽船本社ビル(神港ビルヂング)
搭屋の装飾は御影石を彫刻したもので、最頂部の4隅にある扇状のデザインは神戸港がかつてその形状から「扇港」と呼ばれていたことをイメージしたものと言われています。扇に描かれた模様は、「朝日」でしょうか…。
全体的なデザインは、アメリカン・アール・デコですが、扇状の間の中央部にある波形模様(+五角形の突起)部は、キュビズムも混じっているのでは…。恐らく、設計者の木下氏のオリジナリティの産物であり、キユビズムを意識したものではなかったのでしょうが…。後世には何らかの様式に照合されて無理やり解説されてしまうという、不条理な世界がアートです。木下氏レベルの設計者であれば、日本伝統芸能で言う「守・破・離」の内の「破・離」の境地でしょうね!恐らく、後世にアール・デコとか形容されているのを忸怩たる想いで聞いておられるのではないでしょうか。 -
神戸 海岸通り
近代建築が海岸通りに沿って密集しているのも神戸ならではの魅力です。
1ブロック毎に情景がリセットされ、リフレッシュさせてくれます。
ですから、歩き回ってもそれほど疲れません。
手前にあるのは、事務所ビル1階の壁を丸くくり抜いてガラス張りにしたケンゾー・パリのショー・ウインドウです。 -
旧大阪商船神戸支店 (商船三井ビルディング)
手前のブロンズ像は、峯田義郎作「THE HORIZON '88」と題されています。
海岸通りの旧居留地5番に屹立する、一際優美な姿の鉄筋コンクリート造、7階建ビルが商船三井ビルディングです。この建物も「神港ビルヂング」と同じく1区画総てを貫く巨大な建物です。この一帯に建ち並ぶ近代建築のランドマーク的存在であり、1922(大正11)年に関西の名建築を数多く手がけた渡辺節氏の設計により建てられました。このビルを設計するに当たり、欧米を視察して日本初となる技術を数多く導入することに成功しました。大正期の高層オフィスビルの傑作として、また設計者 渡辺節の名を高めた代表作として神戸の誇る近代化産業遺産です。 -
旧大阪商船神戸支店 (商船三井ビルディング)
白っぽい御影石とアイボリー色のタイルの色彩の組合わせが気品を漂わせます。往時流行していたアメリカン・ルネッサンス・スタイルを巧みに織り込んだ、全体的に優美な曲線を強調したデザインが最大の特徴です。重厚な様式美と洗練された合理性を併せ持ち、曲線と直線が織り成す流麗なフォルムがとても美しい。
しかし見た目とは裏腹に、往時の技術では角を正面玄関にした際の古典様式の納め方は難題だったそうです。通常、ぺディメントとオーダーで回避するところ、渡辺氏は果敢にもスワンネック(白鳥の首)とメダリオンで独創的な世界を構築しています。
内部の設備面でも、最新エレベータや暖房設備などが採用され、オフィスビルとして往時の最先端を駆け、以降のスタンダードの奔りとなった建物です。ですから、改築を加えることなく、今もほぼ竣工時の姿のままテナントビルとして活躍する類稀なる近代遺産です。
居留地時代、この場所にはドイツ・ロシア・スイスの領事館がありましたが、現在、1階には大丸神戸店のインテリア館「ル・スティル」が入っています。この建物は、関東大震災以前に建てられた高層建築の中で現存する唯一の存在であり、最初期の高層オフィス建築として重要文化財に匹敵するとも称されています。 -
旧大阪商船神戸支店 (商船三井ビルディング)
手前のブロンズ像は、淀井敏夫作「ローマの公園」です。アンニュイなアバンギャルド風の雰囲気がぴったりですね!
低層部は重厚感漂うルスティカ仕上げで素材感を活かした荒石積み、2〜6階部は縦目地を目立たせない「二面切り」のシンプルなデザイン、7階からルーフ・トップにかけては装飾性の高いシンボリックな意匠とコーニス(帯状の装飾)が配されています。このようにベース、躯体、コーニスと3つのアクセントを持つ外観の仕上げは、アメリカン・クラシック・ビルの系統を引くアメリカン・ボザール様式と言われています。
それ以外にも、外壁には、曲線的な優美なデザイン、最頂部の優雅な半円形ペディメントやテラコッタ(浮き彫り感のある大型タイル)のメダリオンをあしらっています。最上階には連なるアーチ窓が耽美な世界を創り上げ、窓と窓の間にも小さな縦長の装飾を施こし、すっきりした中にもさりげなく装飾を配しています。往時、銅板葺きの屋根とドームが載っていたそうですが、それらがなくても全く違和感がなくバランスがとれています。
内装にはプラスターを使用する等など細部にも様々な工夫を施した建物であり、まさに王者の風格と言えます。
貨物用として一台のみ残されているクラシカルな手動式エレベーターは米国A.B.SEE社製、自動着床装置なしの完全手動駆動、扉は外扉が窓付き鋼製、籠扉が真鍮製伸縮扉、イン ジケーターも半円形時計式という創建時のスタイルそのままだそうです。 -
旧大阪商船神戸支店 (商船三井ビルディング)
大正時代に入ると鉄筋コンクリート構造が普及し始め、7〜9階建の往時の高層建築が建ちはじめるのですが、関東大震災以前は建築構造の主流は煉瓦や石などによる組石造でした。
もう少し早く鉄筋コンクリート造が普及していれば、関東大震災の犠牲者の数も減らせたかもしれません。あるいは、大震災が鉄筋コンクリート造の普及を加速させたと言えるのかもしれません。ともかく、大震災は、建築技術に関しては大きな変化点だったことは間違いありません。人の役に立ってはじめて「技術」と言えるのですから! -
旧大阪商船神戸支店 (商船三井ビルディング)
大阪商船は、正式には「 大阪商船三井船舶」と言い、住友系大阪商船と三井物産船舶部門が戦後に統合して設立された会社です。戦前の大阪商船は東の日本郵船(三菱財閥の基幹会社)に対する西の大阪商船として日本の海運業界を2分していました。関西を基盤とした大阪商船だけに、社運をかけたこの建物は支社とは思えないほど豪奢な社屋となっています。
第一次世界大戦による大戦景気に沸いた時期の神戸では、多くの船会社や貿易商社が神戸の一等地や旧居留地及びその周辺に続々とオフィスビルを建てて社格を競い合いました。旧大阪商船ビルはその中でも最後期の建築と言えます。「大物は遅れてやってくる」の典型です。 -
旧三井物産神戸支店 (NOF神戸海岸ビル)
「海岸ビル」と呼ばれていましたが、現在はNOF神戸海岸ビルと呼ばれています。大阪商船神戸支店ビルと通りを隔てて建つこのビルは、1918(大正7)年に旧三井物産神戸支店として建てられました。設計者の河合浩蔵氏は、ジョサイヤ・コンドル氏の薫陶を受け、司法省技官として各地の庁舎の設計に携わった後、神戸で独立して兵庫県を中心に多くの建築を手がけました。相楽園の小寺家厩舎も河合氏の手によるものです。ドイツ留学の経験を活かした重厚な古典様式の建築を得意としていましたが、この建物は往時の新しい潮流「表現派」の影響を色濃く残した大正モダンの魁といえる作品となっています。「気骨の建築家」と呼ばれる彼の気質が如実に表現されています。
現在のビルは再生後の姿です。震災によって崩壊した部材をリサイクルするまでは前例があるのですが、この建物は跡地に新造された高層ビルの下層部を取り巻く飾り壁のように旧ファサードを復元したため、近代建築の上に高層ビルを載せたような奇抜なデザインになっています。個人的にはこうしたリサイクルもありだと思います。この建物は本来なら解体される運命でしたが、このような形で残されたことで、過去の歴史や記憶を繋ぐと共に、後世への近代産業遺産として連綿と受け継がれることでしょう。因みに、再建時の設計は、昭和飛行機工業と竹中工務店が請負いました。
隣の商船三井ビルディングと比較すると、こちらの方が4年早い竣工ですが、装飾的要素は全体的に直線を強調し、クールでより現代的な印象を受けてしまいます。 -
旧三井物産神戸支店 (NOF神戸海岸ビル)
このように歴史ある建造物のファサードだけ残して新たなビルを建てる手法は、都市部を中心に多く選択されており、その度にその是非が話題なります。しかし神戸海岸ビルには関しては、震災で建物の存続が不可能になってしまったビルのかつての雄姿を正しく後世に伝えようという気持ちが感じられる復元がなされています。扉やディテールのひとつ一つが残されたものをリサイクルして緻密に復元され、その誠意が感じられます。
国有形文化財、近代化産業遺産に指定されています。 -
旧三井物産神戸支店 (NOF神戸海岸ビル)
神戸地方裁判所庁舎も河合氏が設計した作品なのですが、不思議なことにその庁舎も低層部の赤煉瓦外壁だけが復元保存されており、上層部にはこのように真新しいビルが載せられています。
「類は類を呼ぶ」ということでしょうか? -
旧三井物産神戸支店 (NOF神戸海岸ビル)
歩道橋から望む海岸通りの景観です。
下を走るのは国道2号線ですが、近代建築ファンとしては心憎い位置に歩道橋が架けられています。 -
旧三井物産神戸支店 (NOF神戸海岸ビル)
東面と南面の中央上部はパラペット(屋根などに設置された低い壁)を―段高くし、そこになだらかな唐破風曲線を載せるなど和風の要素も巧みに融合させています。
藤森照信著『日本の近代建築』では、「土台、柱、軒回り、窓、といった各部ごとの形の文節が無くなり、かつ、各部ごとの固有の造形も消えて、下から上まで幾何学模様の凹凸が続く。歴史様式の基本である、造形、関係、比例の三つがいずれも崩れ、壁面には石のカケラがバラまかれている。一つの原理が崩れながら、しかし、代わる原理が現れていない」と酷評されています。
様式の枠や型に当て嵌めて評価すればそうとも言えなくもありませんが、アートは様式で縛られるものではありません。20世紀に入って俄かに勢いを増した反歴史、反装飾のモダンデザインの潮流の最中、古典主義とモダンデザインの間でもがき苦しみながら生み出した傑作と言えるのではないでしょうか?ましてや、往時の建築技術や設備は、今ほど発達していないのですから、やりたくても物理的な限界はあります。
因みに、藤森照信氏は、元東京大学教授であり、日本建築学会の建築歴史・意匠委員会委員を歴任された重鎮です。ユニークな高床式茶室「高過庵」などで注目を集め、2006年ヴェネチア・ビエンナーレ日本館のコミッショナーも務められました。作品は多彩ですが、奇抜なデザインが特徴です。 -
旧三井物産神戸支店 (NOF神戸海岸ビル)
南正面玄関の扉も竣工時のものを再利用されています。 -
旧三井物産神戸支店 (NOF神戸海岸ビル)
外壁に繰り返し使われているシンプルな意匠です。
光と影が新しい造形美を織りなしています。
海岸通側の1階外壁には穴をセメントで塞いだような痕跡がいくつも見られます。第二次世界大戦末期の米軍グラマン機による機銃掃射の痕跡と言われています。三井物産神戸支店の建物は、戦時中は海軍が使用していたため、機銃掃射の標的にされたものと思われます。また、郵船ビル(旧日本郵船神戸支店)など周囲の建物でも同様の痕跡を見ることができます。 -
旧三井物産神戸支店 (NOF神戸海岸ビル)
旧ビルの外観を残す部分は全面的にこのような吹き抜けになっており、白い壁と広いスペースはモダンな雰囲気が漂っています。
1階エレベーターホールには立ち入らなかったのですが、そこにはかつて南正面玄関ホールを飾った6本の御影石製の円柱が据えられているそうです。 -
旧三井物産神戸支店 (NOF神戸海岸ビル)
角部の納め方も、段差を付けてシンプルながら優美な直線美を強調しています。 -
旧日本郵船神戸支店(神戸郵船ビル)
日本を代表する海運会社であり、三菱重工の基礎を築いた日本郵船の神戸支店として1918(大正7)年に竣工しました。メリケン波止場のすぐ北の初代米国領事館の跡地に建てられたビルで、世界に名だたる大企業の社屋に相応しい品格を感じさせる威風堂々たる造りです。
設計は曾禰達蔵氏と中條精一郎氏の手になり、落ち着いた、尖った所がないデザインに統一されています。海岸ビルと同年の竣工ですが、往時新しい素材として注目されていた鉄骨・鉄筋コンクリート造に古典主義様式を意識した外観設計が施され、東側エントランス周りやその上部の3階に設けられた半円アーチの開口部、他の3階開口部に設けられているイオニア式の小オーダーなどにその特徴が見て取れます。
竣工当時は、柱は円柱で、銅葺屋根に円形ドームが載せられ、今以上に装飾の多いデザインだったそうです。神戸大空襲で内装は焼失したものの、外壁はほぼかつての姿を留めているそうです。
戦後に改修コンペがあり、村野藤吾氏や東畑謙三氏、安井武雄氏が参加し、安井氏の案が採用されました。円柱を角柱にするなどの改修が行われ、装飾的な華やかさを控えたモダンなデザインに変えられています。
奇遇にも阪神淡路大震災の前年、日本設計や大林組、藤本工務店による耐震補強工事が完了していたため、大きな損傷を免れたそうです。因みに、このリフォームは第5回BELCA賞を受賞しています。
現在はテナントビルとなっており、1階に商業施設、2階以上はオフィスになっていますが、日本郵船の名はビル名に留められています。 -
旧日本郵船神戸支店(神戸郵船ビル)
戦後に改修されたとはいえ、石貼りの外観は今も様式主義の色合いを濃く残しています。
東側正面の唐破風を載せた玄関やその上部の巨大な半円アーチ、左右に2本ずつ配されたピラスター、中央に突出させた双角柱のオーダー、2階上部の軒蛇腹、3階窓の両側にあるイオニア式の小オーダーなど見所満載です。 -
旧日本郵船神戸支店(神戸郵船ビル)
この建物を設計した曾禰・中条設計事務所は、元々三菱社で建築設計技師を務めた曾禰氏が独立して開業した事務所です。大手企業の建物や官公庁を中心に全国に多くの作品を残し、戦前の日本を代表する設計事務所でした。 -
旧日本郵船神戸支店(神戸郵船ビル)
大きな半円アーチの見込みは、このように深い重厚なものになっています。 -
旧日本郵船神戸支店(神戸郵船ビル)
3階の窓に配されたコリント式小オーダーがお洒落です。 -
旧日本郵船神戸支店(神戸郵船ビル)
まだ、9時過ぎですのでビルの扉は閉じられたままです。 -
海岸通り
旧居留地内の地名は一部を除き、東から西へ江戸町→京町→浪花町→播磨町→明石町と江戸時代の都市名や国名が地名に使われています。
もちろん、開港に伴う居留地設置に際して付けられた名称です。 -
旧日本郵船神戸支店(神戸郵船ビル)
かつてはドームが載せられていたとされる屋上には、このようなテラス風サンルームのような建屋が増築されています。 -
海岸ビルヂング(旧日濠会館) 国登録有形文化財
貿易会社 兼松商店(現兼松)の本店「日濠館」として、神戸と縁の深い建築家 河合浩蔵氏の設計により、1911(明治43)年に竣工しました。
旧日濠館は、海岸通において日本人貿易商が日本人建築家に建てさせた最初の建物だそうです。それまでは外国人貿易商が外国人建築家に建てさせたものばかりでした。故に、創建者や建築家、設計者共に日本の国威を背負い、矜持と気概を込めた建物であったことは想像に難くありません。
技術者冥利に尽きますが、日本人にやらせてみようと英断された当時の社長さんにも感謝しなくてはなりません。なんせ、日本近代建築の生みの親なのですから…。
現在はテナントビルとして使用されています。 -
海岸ビルヂング(旧日濠会館)
海岸通り側の外観は、タイルと御影石貼りを併用した古典様式主義。各所に大きな石のレリーフがあしらわれ、一際目を惹き付けます。古典様式にドイツ・ルネッサンス様式を加味しながらも、様式の枠に捉われない独自の斬新なデザインであり、海岸通りで1、2を争う壮麗な名建築であったと伝えられています。戦災で正面中央のコーニス上にあった巨大なペディメントが崩壊したため、ルーフ・トップのデザインが竣工当時とは異なるそうですが、全く違和感がないのが不思議です。
大正モダン風の河合スタイルが孵化する寸前の作品と言えますが、重厚な風格ある外観は明治という時代を如実に体現しているように思います。こうして時期が異なる同じ設計者の作品を見比べることで、その時代に伴う意匠の変遷の一端を垣間見ることができます。
「神戸建築百選」神戸市景観形成重要文化財にも選ばれています。 -
海岸ビルヂング(旧日濠会館)
2階の窓上部の曲線を描く装飾は、日本建築における寺社仏閣等によく用いられる唐破風のモチーフを織り込んでいます。
兼松商店は、兼松房治郎氏が明治中期に神戸で興した貿易商社で、オーストラリアとの貿易を主力事業としていました。そのため本店ビルは、「日濠館」と名付けられました。
1945年に戦災のため外壁を残して焼失、戦後間もなく兼松から現所有者に売却され、修復の上「海岸ビルヂング」と名を改めて現在に至っています。
現在は陸屋根ですが創建当初はマンサード(腰折れ)屋根で正面中央には巨大なペディメントが載せられていたそうです。
創建当時の日濠館の写真は次のサイトを参照してください。
http://www.kanegold.com/page49.html -
海岸ビルヂング(旧日濠会館)
ドイツ・ルネッサンス様式を彷彿とさせる荘厳な玄関ファサード。 -
海岸ビルヂング(旧日濠会館)
ネームプレートの「ビルヂング」と色彩が時代を感じさせます。 -
海岸ビルヂング(旧日濠会館)
開店前でしたが、掃除をしていた方に断って内部へ入れていただきました。
玄関を潜ると、その先にある1〜3階まで真っ直ぐ伸びる階段に思わず吃驚です。
戦災前は、2〜3階に至る部分はガラスブロックでできていたそうです。 -
海岸ビルヂング(旧日濠会館)
階段の途中で振り返るとこんな光景が待ち受けています。 -
海岸ビルヂング(旧日濠会館)
階段の途中で上を見上げると、吹き抜け天井には色彩鮮やかなステンドグラスの天窓が設けられ、やわらかな陽光が舞い降りてきます。 -
海岸ビルヂング(旧日濠会館)
内部もレトロ感のある空間が活かされ、お洒落なショップが多数入っています。 -
海岸ビルヂング(旧日濠会館)
このステンドグラスには、100年以上前のビル建立時を偲ばせる、ドイツ・アンティーク・グラスが使われているそうです。南ドイツの工房に制作を依頼し、周囲に葡萄の実と葉をデザインしてあります。実や葉の所々がグラデーションになっているのがとても綺麗でした。 -
海岸ビルヂング(旧日濠会館)
裏に回ると全く異なるビルかと思ってしまうのですが、これも海岸ビルヂングです。
ご覧のように南正面以外は御影石の飾り貼りが施されておらず、この建物が煉瓦造であることを教えてくれます。
この隅の1階にあるのがカフェ「アリアンス・グラフィック」です。
かつてフランスにあったというアトリエの名前が由来です。オーナーさんがデザイナーということもあり、店内は様々なアンティークに囲まれ、ここにしかない個性が溢れてたカフェです。 -
旧第一銀行神戸支店(みなと元町駅北西入口)
かつて元町〜神戸駅へ繋がる栄町通りは、多くの銀行が建ち並ぶ金融街でした。現在はその数も減り、往時を偲ぶ唯一の建物が地下鉄駅の一部として再生利用されています。それが、神戸市営地下鉄海岸線「みなと元町」駅の地上1番出入口です。
阪神淡路大震災で大きなダメージを受けた、旧第一銀行神戸支店の南および西面のファサードを再生したものです。内部を更地にし、煉瓦壁の裏側を鉄筋コンクリートで補強しています。更にフライング・バットレス架構で支持し、瓦タイルを貼り、屋根を銅板葺にして保存修復しています。
旧第一銀行神戸支店は、東京中央停車場(東京駅)の設計で名を馳せた明治建築界きっての法王 辰野金吾氏の設計により、1908(明治41)年に竣工しました。赤煉瓦に白い御影石を添えてアクセントとする「辰野式フリークラシック」と呼ばれる氏の円熟期の専売特許的なデザインです。
第一銀行神戸支店の後、1966(昭和41)年から20年間、大林組神戸支店として使用されていました。
第2回「近畿の駅百選」に選ばれ、近代化産業遺産でもあります。 -
旧第一銀行神戸支店(みなと元町駅北西入口)
建物の西端(左端)にある出入口の2本のオーダーの上には石造の大きなペディメントが載せられ、前方へ突き出した形で玄関口を構成しています。
2階の窓は、半円アーチを持つ縦長窓になっていますが、実は戦前は円形の窓だったそうです。銀行時代は吹き抜けで実質飾り窓だったものが、戦後の修理で2階にも部屋を造ることになり、採光が得られ易いように改造されています。
この窓と窓の間には、石造りのバットレス風の角柱が付けられ、半円部分にも放射状に白御影石が配置され、外壁の煉瓦の赤と石材の白とが織り成すコントラストで構成された壁面はとても華やいで見えます。 -
旧第一銀行神戸支店(みなと元町駅北西入口)
惜しむべきは、天下の旧大林組神戸支店であったことから、修復時にもう少しファサードを竣工当時の姿に近づける復元がなされていたならばということです。
将来的には煉瓦壁の内側に高層ビルが建つ予定とのことですので、戦災・震災といった幾多の困難と100年にまたがる星霜を乗り越えた煉瓦壁を残した意味を観る者が直感的に感じられる創意工夫を更に加えていただければと思います。 -
旧第一銀行神戸支店(みなと元町駅北西入口)
辰野氏の建築意匠は、白い御影石と赤い煉瓦のツートンカラーがトレードマークになっています。構造美だけでなく、色彩まで建築デザインに織り込んだのが氏の真骨頂と言えます。
氏の薫陶を受けられた方々のデザインも伝統のように「辰野フリークラシック」を連綿と受け継がれていることから、この様式の縛りは相当強烈なものであったことが窺われます。例えば、過去に大ヒットを生んだ歌手が、いつまでもその歌ばかり歌わされるようなものです。大ヒットで慢心した成れの果てと評する方もおられるのですが、技術者であれば常に新しいことにチャレンジし、自己研鑽したいものです。しかし、大ヒットがいつまでも尾を引いて足かせとなり、その欲望を抑えながら同じ世界観の中で斬新さを創生しようともがき苦しんでいたとは考えられないでしょうか?
歴史に「もしも」はありませんが、こうした呪縛から開放されていたら、どんな作品が創生されていたことでしょう。 -
旧第一銀行神戸支店(みなと元町駅北西入口)
西側(左側)の玄関口です。
重厚な佇まいが出迎えます。
日常的にこの出入口を使われる方々は、どのような思いでアーチを潜られるのか興味深いところです。 -
旧第一銀行神戸支店(みなと元町駅北西入口)
ペディメントの内側には、第一銀行の行章である星状のマークが燦然と輝いています。
第一銀行は、日本最初の商業銀行として設立された第一国立銀行が改称した銀行で、後の第一勧業銀行、現みずほ銀行の源流のひとつです。 -
旧第一銀行神戸支店(みなと元町駅北西入口)
東側(右側)の入口はエレベータの出入口になっているのですが、エレベータに乗るのに少しだけ勇気が必要です。
左側にある白御影石による角部の面取りとシャープエッジの切り替えしが巧妙です。このスタイルは、この建物の中で繰り返し使われています。 -
旧第一銀行神戸支店(みなと元町駅北西入口)
東側(右側)の玄関口です。
アーチはこのように見込みが深く、威厳に満ちています。 -
旧第一銀行神戸支店(みなと元町駅北西入口)
西側(左側)の入口の先は、地下鉄の出入口になっています。
一歩中へ入ると壁の内側には鉄製のフライング・バットレスが立ち並び、その先には青空が見えます。外観とのギャップに吃驚です。 -
旧第一銀行神戸支店(みなと元町駅北西入口)
こちらが西面の北端になります。こんな具合に鉄筋コンクリートとフライング・バットレスが外壁をバックアップしています。
内部は駐車場だと聞いていましたが、再開発が始まったのか遮蔽板で覆われて内部は確認できません。
どんなビルのファサードに再生されるのか、とても楽しみです。 -
旧帝国生命保険神戸出張所 (フットテクノビル) 国登録有形文化財
旧外国人居留地の西に接する栄町通りは、かつては神戸のビジネスの中心街でした。周囲には神戸新聞社や中央郵便局、中央電話局等が建ち、かつてこのビルにはNHK神戸支局も置かれていました。まさに経済と情報の発信基地でした。この鉄筋コンクリート造4階建のモダンなオフィスビルは、活気溢れるこの通りにしっくりなじんでいたことでしょう。
1921(大正10)年に帝国生命保険神戸出張所として建設されました。設計は清水組(現清水建設)です。このビルは、アール・ヌーヴォーからアール・デコに移行する芸術の変遷期の建造物であり、丸味を帯びた意匠はミナト神戸を象徴する船をイメージしています。神戸における数少ない大正モダニズムの奔りの洋風建築のひとつとして貴重な存在です。
1949年に戦災部分を改修し、2004年には竣工当時の大正ロマン風の原形に近い外観に復元されています。同時に、保存と補強の理論をベースに、元の内装に近代的ハイセンスな意匠を加味し、旧き伝統の中に新しい生命を吹き込んだフットテクノビルとして再生されています。 -
旧帝国生命保険神戸出張所 (フットテクノビル)
1階は腰の部分が御影石張りのルスティカ積み、腰から上が擬石仕上げで石を用いた重厚感がありますが、2階以上はモルタル仕上げで全体的に軽快な印象があります。
コーナー部や4階の開口部に設けられた曲線部が、単調になりがちなファサードを優美に見せています。コーナー上部の破風もさりげないアクセントになっています。 -
旧帝国生命保険神戸出張所 (フットテクノビル)
正面玄関は南面の東側に寄せた位置に設けられ、玄関の右上にある船体を彷彿とさせる小丸窓がよいアクセントになっています。 -
旧三菱銀行神戸支店 (ファミリアホール)
ハーバーロードと栄町通りが交差する大きな交差点に一際目立つルネッサンス様式の巨大な建物が聳えています。三菱銀行神戸支店として1900(明治30)年に辰野金吾氏と並ぶ明治建築界の重鎮 曽禰達蔵氏の設計により建てられた地上3階建の近代建築です。曾禰氏は、東京丸の内の三菱オフィス街など多くの作品を世に送り出してきましたが、現存するものではこの建物が最古の作品です。曾禰・中條建築事務所の名義ではない時代の作品であり、曾禰氏単独の手によるところが多い作品です。また、神戸では最初期の近代洋風建築でもあり、ルネサンス様式の重厚感溢れる銀行建築に相応しい建物と称されています。
現在は乳幼児用品で知られるアパレルメーカ「ファミリア」が所有し、銀行建築の用途変更としては珍しく、本社ならびに250名収容のホールとして利用されています。 -
旧三菱銀行神戸支店 (ファミリアホール)
1階はラスティカ積み、2〜3階にかけてペアのコリント式大オーダーを配しています。建物の両翼は、2階部分の柱がピラスター(付け柱)になっています。
竣工当時、正面のオーダー上には巨大なペディメントがあったそうですが、戦災で失われたそうです。 -
旧三菱銀行神戸支店 (ファミリアホール)
さすがに辰野氏と雌雄を競い合った曽禰氏の迫力が感じられる重厚さです。 -
旧三菱銀行神戸支店 (ファミリアホール)
2階の窓の周りの高欄に見せかけた飾りや上部の半円アーチ型の装飾がアクセントになっています。
3階の3連窓にも装飾が凝らされています。
ところで窓に白っぽいものが目立つのですが、何なのでしょうか?
文化財には指定されていないものの、歴史的建造物には違いないのですから、もう少し外観に気を遣っていただけると大丸のように市民からも愛される企業になれるのでは…。 -
旧三菱銀行神戸支店 (ファミリアホール)
南面の玄関には小さなぺディメントが載せられています。
明治30年代の近代建築は、古典主義の第1世代が学んだ様式をしっかりと踏襲した建物が目立ちます。この旧三菱銀行神戸支店もこ同時期の建物ですので、ルネッサンス様式を忠実に具現化しています。例えば、2〜3階の大オーダーと窓脇に付けられた小オーダーの比例関係、大オーダーの柱頭はコリント式で小オーダーの柱頭をイオニア式で統一している点などが挙げられます。 -
旧三菱銀行神戸支店 (ファミリアホール)
ファミリアと言えば、スヌーピーは欠かせません。
ビルの角にはこうしたオブジェがそれとなく置かれています。
調べてみて分かったのですが、驚くことにスヌーピーのキャラクター商品の製造販売が開始されたのは1970年(大阪万博の年)のことだそうです。 -
南京町 海栄門
ぐるりと一週して南京町まで戻ってきました。
2006年に、「南楼門」の名称が「海栄門」に改められています。
総距離:5km、所要時間:2時間弱(含、写真撮影)の近代建築を堪能した散策でした。
ここからカミさんとの待ち合わせ場所へ向かい、そこで合流します。 -
南京町広場
日本三大中華街のひとつに数えられる南京町。その中心にあるのが南京町広場で、そのまた中央に鎮座するのが「あづまや」です。
高さ6.8m、直径3mの6角堂で、2層式の屋根に朱色の柱と天上に描かれた龍が異国情緒を漂わせます。
手前に設置されている2体の人形が「小財神人形」です。この人形はお金の神様とされ、撫でると幸せになれるという言い伝えがあります。
女の子は「来来」ちゃんで男の子は「財財」くんです。確かにふたり並ぶと「もうかりまっせ!」な名前になるのですが…。
大勢の人が並んでいますが、人気店では10時のオープン前から行列ができるほどです。 -
南京町 長安門
南京町には東西南に3つの門があります。
東が長安門、西が西安門、そして南には先ほどの海栄門。東西に長い街で、長安門と西安門の間は280mあります。
ところで長安とは現在の西安のことです。中国内陸部で最も発展している西安は、昔は長安と呼ばれた古都です。そうなると、東から西へ、つまり長安門から西安門へは、過去から未来へタイムトラベルすることになるのでしょうか???
近代建築を早回りで観てきた感想は、「『坂の上の雲』を読み遂げた後の清々しい気分」に近いです。夢とロマンを抱いて果敢にチャレンジした、往時の技術者や職人たちの矜持と気概、前に進む勇気をお裾分けしてもらったような気分に浸っています。
加えて、近代建築に携わった方々は、石や建物の先にあるものをしっかりと見つめながら仕事をしていたような気がしました。つまり、建物の中で人々が嬉しそうに働く姿や笑顔を思い浮かべながら、高いモチベーションを抱いて建造していたということです。言い換えれば、本質的なお客さんの顔を見ながら心を込めて仕事を進めていたと言うことです。
これが、無機質に見えてしまう現代建築との大いなる相違点ではないでしょうか?
次回は神戸逍遥 ②北野異人館をお届けいたします。
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