2015/04/25 - 2015/04/25
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montsaintmichelさん
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相楽園(そうらくえん)は、神戸が誇る本格的な日本庭園と3つの国指定重要文化財、神戸市の行事と外国からの賓客を迎える迎賓館を配した施設です。元々は元神戸市長 小寺謙吉氏の先代 小寺泰次郎氏の本邸として明治末期に営まれた庭園がはじまりです。
樹木や築山、名石、滝、池、茶室などが配された池泉回遊式庭園は、神戸都心に居ながら深山幽谷の景が愉しめる唯一のものですが、西洋文化の影響を感じさせる広場的な洋風空間もあり、和と西洋の文化が融合した明治・大正期の趣も見られます。
また、蘇鉄園や樹齢500余年の大楠、春に咲き乱れるツツジと秋には紅葉も見所です。重厚な正門と欧風建築が印象的な旧小寺家厩舎や珍しい船屋形、旧ハッサム邸の他、茶室「浣心亭」の佇まいが庭園の景観と見事に調和しています。
2006年に国登録記念物(名勝地)に登録されています。
相楽園のHPです。
http://www.sorakuen.com/
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
-
正門
神戸の山の手に息づいた邸宅文化の面影を今に残す、総欅(けやき)造の堂々たる重厚な正門です。
瓦には、庵木瓜(いおりもっこう)の紋が散らされています。曾我兄弟に打たれた工藤佑経の紋です。木瓜紋自身は、信長の織田瓜などでもお馴染みですが、屋敷の旧主 小寺家の家紋で家の中から鳥が巣立つという縁起のいいものだそうです。
今年3月に屋根改修工事を終えたばかりですので真新しい感じもいいですね!
春の日差しに瓦がキラキラと輝き、瓦葺職人たちの職人技も光り輝いています。 -
正門
この正門は、不思議なことに東南の角から北西を向いて建てられています。
真相は不明ですが、一説には庭に植えられた大楠に向けているとも言われています。実際に門を潜るとその正面に大楠が見えます。
このことより、大楠の存在に重きを置いていることが窺えます。 -
樹齢300年の蘇鉄
正門を入ってすぐ右側で出迎えてくれるのは、鹿児島から取り寄せたとされる樹齢300年の蘇鉄です。
ソテツは、樹勢が衰えた時に鉄屑を肥料としてやり、鉄釘を幹に打ち込むと勢いを取り戻して蘇ることから「蘇鉄」の名が付けられています。 -
蘇鉄園
相楽園は、旧小寺邸の頃は「蘇鉄園」と呼ばれていました。後に神戸市に売却されてから中国の古書『易経』の一節「和悦相楽(わしてよろこびあいたのしむ)」から「相楽園」と命名されて一般公開されるようになりました。
庭園へのアプローチです。
右手にかつて蘇鉄園と呼ばれる由縁となった蘇鉄林が広がり、左手には小高い築山が設けられています。 -
大楠と大燈籠
この大楠は、織田信長に叛旗を翻して滅ぼされた荒木村重が、1567年に信長の命で花隈城を築いた際、鬼門除けとして手植えしたものと伝えられています。
現在は「市民の木」に選ばれており、相楽園の中心的な役割をしています。
幹周4.6m、樹高27m、推定樹齢(伝承)500年。
楠は長寿の木であり、千年はおろか二千年も生き続ける生命力の高い木もあるそうです。その意味ではこの楠もまだ「青年の樹」と言えそうです。葉の緑の艶やかさや枝ぶりの若々しさにそれがよく体現されています。
大燈籠(6角型雪見燈籠)は、庵治石(香川産)で造られており、笠の広さは10平方m、質量11トンもある巨大なものです。 -
ボタン
大楠の木陰には色とりどりのボタンが植えられています。
ツツジの存在の陰に隠れて目立ちませんが、このようなボタンの大輪の花も咲き誇っています。 -
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相楽園を語るには、創始者 小寺泰次郎氏が三田藩九鬼家藩士であったことから、九鬼家の歴史から紐解いていくことになります。そこには、何故三田藩士が遠く離れたこの神戸の地に相楽園の前身となる小寺邸を構えたかが隠されています。
九鬼家の祖先は、紀州志摩国海賊です。織田信長が石山本願寺を攻めあぐんでいた頃、九鬼家藩祖 嘉隆は信長に臣従を誓い、毛利方の村上水軍が運ぶ糧食を絶つために鉄甲船の建造を提案し、天下の村上水軍を破って名実共に織田水軍にのしあがり、その後豊臣秀吉にも使えました。
時代が下った関ヶ原の戦では、九鬼家は戦国の世の習いとして家の存亡を賭け、嘉隆は西軍の豊臣方、息子守隆は東軍の徳川方に別れて戦いました。破れた嘉隆は、守隆の命乞いにもかかわらず許されず、九鬼家存続への影響を思い自刃して果てます。これは家康が嘉隆が行った石山本願寺攻めなどの経験を恐れたためと言われています。その後、鳥羽城主守隆の四男久隆と三男隆季との間に家督争いが起き、それに便乗して九鬼水軍の巨大化を恐れた幕府は久隆の家督相続を摂津三田藩へ転封すると共に隆季を丹波綾部に封じました。これは、九鬼水軍を分断かつ陸の孤島に配して「陸に上がった河童」とする幕府政策でした。 -
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その後も三田藩は海への憧れを捨てず、水軍の備えを怠りませんでした。一方、現実路線の政策として実学的学問を推奨し、藩士教育に注力しました。最後の藩主九鬼隆義は、疲弊した藩財政を立て直すため、儒学者 白州退蔵や足軽 小寺泰次郎を家老格に抜擢しました。そして西欧式兵制を採用して全藩士に鎧甲を拠出させ、価値のない火縄銃や古い大砲などと共に他藩へ売却し、借財を返還して財政を2年で立て直しました。
その後、隆義は福沢諭吉の提言により、近代資本主義に立脚する帰農帰商策を藩の指針としました。そして開港間もない神戸に移住し、白州退蔵や小寺泰次郎等と神戸初の輸入商社「志摩三商会(志摩と三田の意)」を設立しました。
小寺泰次郎は三田藩の足軽の子として生まれ、理財の才から「そろばん侍」と言われて隆義の人材登用により辣腕を振るいました。また、志摩三商会では、執政の白州退蔵の補佐として力を振るい、投機師の活眼と時勢を洞察する卓越した才能を持ち合わせ、事業の発展を担いました。藩侯の屋敷がある花隈に近い相楽園の地は隆義と他一名の所有でしたが、泰次郎は藩侯の仕事をしながらその土地を譲り受け、1886〜87(明治19〜20)年に小寺邸と庭園の造営を始めました。
こうして三田藩士の海への熱い憧れが報われ、相楽園エリアと神戸港を中心に神戸の発展に寄与していったのです。往時の相楽園界隈は、海を通じて世界へ眼を向けていた人々の心の聖地でもあったのかもしれません。 -
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相楽園には戦前までは小寺家本邸をはじめとする多数の建造物がありましたが、神戸大空襲により小寺家厩舎(きゅうしゃ)以外は全て焼失しています。しかし、現存する大楠や蘇鉄園、大灯篭、塀、門などから失われた邸宅の壮大さを窺うことができます。 -
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相楽園は、1941(昭和16)年に国内の不況と貿易商社「小寺洋行」の経営不振などで小寺謙吉氏から神戸市へ売却され、その代金の半分は市へ寄付されたそうです。
栄枯盛衰と言うか、どこかで歯車が狂ってしまったのでしょうか?
しかしその後小寺謙吉氏は、1947年には終戦後初の公選による神戸市長選挙で当選し、第11代神戸市長に選出されています。
まさに波乱万丈の人生でした。 -
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小寺謙吉氏は三田学園の創始者でもあります。三田学園は英国のイートン校に範を採り、設立当初は全寮制の男子校として現在も三田市の名門高校となっています。
因みに、俳優の渡哲也氏や渡瀬恒彦氏の兄弟も三田学園の出身です。兵庫県淡路島出身の2人は寮生活を送っていたそうです。 -
旧小寺家厩舎(きゅうしゃ)
この可愛らしい建物は、なんと厩舎です。
河合浩蔵氏が設計した旧小寺家厩舎は、相楽園に残る創建当初の数少ない遺構のひとつです。明治40年頃に建てられた煉瓦造の2階建て建造物で、2階は木造になっています。様式はドイツ木造ゴシックです。煉瓦の赤と御影石の白とのコントラストが美しく、円形の尖塔がある塔屋や急勾配の寄棟屋根と3連のドーマ窓、ハーフティンバーの切妻飾りなど、ドイツの民家が持つ量感の溢れる変化に富んだ意匠で飾られています。
南側に突出した翼部は、高い吹き抜け天井を持つ馬房となっており、正面1階は馬車庫、2階は厩務員のための宿舎でした。2階を見上げると木の柱や梁や斜め材が露出しています。これをハーフ・ティンバー(木骨構造)と呼んでいます。
この建物は、日本に残る数少ない洋式厩舎建築として貴重な遺構でもあり、国指定重要文化財となっています。 -
旧小寺家厩舎
馬房2階の切妻飾りは、とても馬屋の装飾とは思えないほど手の込んだ美しい意匠で飾っています。白とグレーのツートンカラーに塗り分けたハーフティンバー風の付け柱や奥行のあるアーチ部の破線に見られる装飾は、白色の箇所だけ面取りが施されており、芸がとても細かいです。
こんなに立派な厩舎でしたが、相楽園の鬼門に位置することから、生類を嫌って厩舎としては一度も使われなかったそうです。ですから、もっぱら当時漸く利用され始めた自動車のガレージとして使われていたようです。 -
旧小寺家厩舎
厩務員宿舎部の窓がない部分と同様に、壁板にクロス(×)状の装飾をリズミカルに並べて目を愉しませてくれます。
また、屋根の頂部を一段高くし、大きな通気口を開けて馬房として実用的な機能美を育んでいます。 -
旧小寺家厩舎
ドーマ窓(屋根窓)は、アーチ状の鎧戸が観音開きする凝ったデザインです。
また、通気の他に採光にも考慮し、居住性にも配慮されていたことが判ります。 -
旧小寺家厩舎
円筒形の内部は、螺旋階段が収められた階段室となっています。塔屋の煉瓦は、壁のカーブに沿った形、つまり扇型をしていると思われます。
上段の採光用の窓の上の白石は緩いアーチ状を描いていますが、上げ下げ窓は下段と同じく普通に四角い窓です。上下いずれの窓周りにも、装飾的に要石が設けられ、お洒落です。
入口は隅石のような白石で囲われ、扉は簡素な板戸です。これは、2階が馬を世話する厩務員の宿舎だったからで、一般的な洋館と違って来賓やオーナー自らが出入りする扉ではなかったからです。しかし、その割には気合の入った塔屋です。デザイン性を重んじた結果なのでしょう。
ウロコ状にスレートで葺かれた頂部は、ハット状をしており、通気口のための屋根窓も設けられています。軒を支える木製の持ち送りがぐるりと巡らされ、手が込んだ構造です。
塔上のポール部は、風見鶏だったのかどうかは不明です。 -
旧ハッサム邸(重文)
英国人貿易商J.K.ハッサム氏が英国人建築家A.N.ハンセル氏に設計を依頼し、1902(明治35)年に建てられました。ハンセル氏は由緒ある英国王立建築士会の正会員であり、同時期に正会員であった在日外国建築家はジョサイア・コンドル氏だけでした。
木造2階建、寄棟造棧瓦葺の和洋折衷建築物で、1階がアーケード式、2階がコロネード式です。1961(昭和36)年に所有者だった神戸回教寺院が神戸市に寄贈し、その2年後にこの地へ移築されました。
濃緑色の下見板張りの外壁に、バルコニーやベイウィンドウのサンルームがあり、1階にあるペディメントや鎧戸付きの窓など、細部に凝ったデザインの典型的な明治の異人館です。 -
旧ハッサム邸
ハンセル氏は、本国イギリスにはないべランダコロニアル式の建物を好んで造りました。べランダは日差しのきついインドや香港といった南国でこそ有用でしたが、日本の気候には合いません。ハンセル氏は明治21年に来日していますので、べランダが日本の風土に合わないことは判っていたはずです。まして冬の神戸では「六甲おろし」が吹き付けます。ですからちゃっかりサンルームも併せています。ですから、神戸の外国人はハンセル風の洋館を好んで建てたのでした。本国の寒さに比べれば、神戸は案外住み易かったのかもしれません。 -
旧ハッサム邸
元々は、北野異人館の「ラインの館」の北隣に建てられたものだそうです。
1階の天井の装飾模様は、中央と両側で異なっています。 -
旧ハッサム邸
前庭には、阪神淡路大震災時に屋根から1階の配膳室まで落下した煉瓦積み煙突を「地震の激しさを後世に残すため」にモニュメントとして保存展示しています。
後方にチラリと見えるガス灯は、1874年頃旧居留地の街灯として建てられたものです。往時としては非常に早い時期に街灯用として建てられていたもので、現存する日本最古級のガス灯です。(前庭に2基あります。) -
旧ハッサム邸 玄関ホール
玄関欄間のファンライトは、硝子に模様が入れられています。これは絵入り砂摺り硝子かと思われます。明治期の建築に時折見かけられるガラスですが、和風建築への適用が多く洋館に用いられるのは珍しいと思われます。
ガラスの模様から判断し、このガラスは一枚ものではなく、各ピース毎に独立したガラスを嵌め込んでいます。 -
旧ハッサム邸 1階食堂
1階にはこの食堂と配膳室、応接室、居間、書斎があります。
どの部屋も採光が潤沢で明るい部屋です。 -
旧ハッサム邸
各部屋にはこうした立派な暖炉が備えられています。
暖炉のマントルピースの装飾も見事なものばかりです。 -
旧ハッサム邸
階段周りの装飾は、特に手の込んだ繊細なものです。
玄関ホールに入ってまず目に映るのがこの階段ですので、この洋館の象徴なのかもしれません。 -
旧ハッサム邸 2階ベランダ
ベランダに出ることはできませんが、ホールから景観を堪能することができます。
正面左手に見えるチョコレート色の建物が兵庫県庁です。 -
旧ハッサム邸 2階寝室
天井漆喰の装飾としてシャンデリア用に使われていたものが展示されています。 -
旧ハッサム邸 2階寝室
2階には、3部屋の寝室と子供部屋、バスルームがあります。
寝室は各部屋毎にカーテンの色が変えられ、それぞれ趣の異なる印象で迎え入れてくれます。 -
旧ハッサム邸 2階寝室
窓からは、やわらかな午後の日差しが降り注いでいます。 -
旧ハッサム邸 2階バスルーム
シンプルな浴槽ですが、浴槽以外は意外と広いスペースです。 -
芝生広場
築山に植えられたツツジが満開です。松の緑とのコントラストが絶妙です。
園内では4000株の紫や白が映えるヒラドツツジや真っ赤なキリシマツツジが新緑と競演しています。 -
庭園
庭園に入るといきなり度肝を抜かれる橋に遭遇です。
一見緩いアーチを描いた何の変哲もない丸太橋のように見えるのですが、一枚岩を削りだし、側面に丸太のような形状を刻んだ一枚橋です。
この橋以外にも一枚岩でできた一枚橋がいくつも架けられているのには吃驚です。 -
庭園
4角型燈籠です。
火袋の形がサイコロの目のようになった遊び心いっぱいの珍しい燈籠です。 -
船屋形(ふなやかた)<重文>
緑に包まれた池の畔に、桧皮葺で総漆塗りの家屋が佇んでいます。
江戸時代、姫路藩主が河川での遊覧に使った「川御座船(かわござぶね)」の居室に当たる屋形部分だけを解体し、陸上に移築したものです。建造年代は、飾り金具の本多氏家紋の痕跡から1682〜1704年の本多家が藩主だった時代の建造と推定されています。歴代の姫路藩主も川御座船を領内を流れる加古川などで巡察や遊興、参勤交代時の渡河などに使ったそうです。参勤交代で姫路藩を通過する他藩の大名らにも頻繁に貸し出され、それを運用したのが姫路藩水軍「御船手組」でした。
明治初年、飾磨港付近にあった川御座船から取り外され、高砂市の民家に移築されて茶室として使われていました。1939年に牛尾健治氏に所有が移り、神戸市内の邸宅に移築。1978年に牛尾家から神戸市に寄付され、1980年に保存のためこの地へ移築されています。 -
船屋形
前面にある船泊風護岸は、桂離宮の舟泊を参考にして設計されたと言われています。
築300年ほど経つそうですが、保存状態もよく、全く古さを感じさせない不思議な建造物です。 -
船屋形
木造2階建、切妻造桧皮葺で内部は1・2階とも3室に分かれ、前方より「床机の間」「上段の間」「次の間」となっています。
外観は豪華な書院造と風流を旨とした数奇屋建築の流れをくみ、屋根は切妻の起り屋根に桧皮葺き、外壁の軸部は木肌が透けて見える軽やかな春慶塗り(しゅんけいぬり)と黒漆塗に塗分けて華麗で繊細な造りとなっています。軒や破風板は重厚な黒漆塗りとし、軸部や長押、垂木には金箔を押した錺(かざり)金具を打ち、舞良戸(まいらど)の桟の隙間にも金箔を施すという豪華絢爛なものです。
失われた船体部は推定で全長約27mあり、大名が川で用いた御座船では最大級だったとみられ、現存する川御座船としては国内で唯一のものであり、その希少性と歴史的文化的価値の高さから国重要文化財に指定されています。 -
庭園 青モミジ
新緑のモミジに赤い双葉が生えている???
実は、これはモミジの果実です。秋になると2枚の葉を竹とんぼのようにプロペラ代わりにして風に乗って遠くへ飛んでいきます。 -
庭園 浣心亭(かんしんてい)
瓢箪池に張り出した藤棚を持つ離れだった「浣心亭」は戦災で焼失しましたが、その跡地に茶室「浣心亭」が建てられています。
庭園の景観と茶室の佇まいが見事に調和しています。
借景に高層ビルが写り込んでしまうのは、少し嫌味ですが…。 -
庭園 浣心亭
現在一般公開はされていません。 -
庭園
19566平方mの広大な敷地にある庭園は、池泉回遊式日本庭園で、飛石や石橋を渡り、流れや滝など深山幽谷の風景を堪能することができます。
この池は、元々は農業用の溜池だったものを一部埋め立てて瓢箪型にしたものです。石製の8つの橋が架かり、流れも5箇所あり、高低差を利用した素晴らし日本庭園です。
神戸港からも近いこともあり、外国人で賑わうと言うのも納得です。 -
船屋形
木々の緑に、春慶塗りの軸部と金箔を押した舞良戸、高欄のうねり具合が艶やかです。春のうららかな陽射しに外壁の金箔と漆が輝き、今にも瓢箪池へ漕ぎ出さんばかりの佇まいです。
当時の川御座船は幕府所有の朝鮮通信使など国賓接待用の紀伊国丸が全長30m弱と最大でしたので、それに次ぐ大きな船のものだったことになります。 -
船屋形
この面上には本多氏の後に入った榊原家の金箔の波切車紋が至る所に施されていますが、裏面には本多家の立ち葵紋が残されているそうです。
それにしても、こんな透け透けの華奢な構造ながら、歪みもしないで300年間も存在したのは吃驚です。屋形船として水に浮かんでいた頃は、揺れもあったことだろうに…。 -
庭園
かつて庭園の水は、六甲山地にある再度山(ふたたびさん)を源流とする再度谷川から取水していました。再度谷川とは宇治川の上流のことです。しかし昭和40年代から上流域の開発などによって水質が悪化し、相楽園の池も藻の異常発生などで悪臭が漂い、近隣からの苦情が多くなったそうです。そこで井戸の試掘を行ったものの、浅い鑿井では鉄分が多く、井戸からの取水を諦めざるを得ませんでした。最終的には1997年から96トン/日の工業用水の注水とバイオ浄化装置の併用による水質確保で今日に至っています。都会の池泉回遊式庭園ならではの難しさが窺われます。
そして今、瓢箪池の水が澄み、緋鯉の群れがゆったりと池を周遊していることを科学の発展に感謝すべきでしょう。 -
庭園 石組のトンネル
これも遊び心の一環か、短い石組のトンネルが設けられています。
この先には、小ぶりですが石組滝があります。 -
庭園 石組のトンネル
洞窟のような雰囲気も愉しめます。 -
築山
岩に纏わり付くように美しく咲いたキリシマツツジ。 -
ハクショウ(白松)
松の仲間で、樹皮が白くなるのが特徴です。幹の表面は平滑で、不規則な斑模様に樹皮が剥がれ、その跡が暗緑色や黄白色、青緑色のモザイク状に彩られます。
幹周2.35m、樹高16mあり、これほどのハクショウの大木は珍しいそうです。
場所は、芝公園から正門へ向かう路地の一角です。受付でいただけるパンフレットの地図にも場所が明記されていますのでチェックしてください。
この続きは神戸逍遥⑤兵庫県公館(エピローグ)でお届けします。
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