2015/04/16 - 2015/12/07
2040位(同エリア4467件中)
サンフランさん
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4月16日
桂離宮には2010年12月下旬に見学させていただきました。これが2回目です。この庭園は、世界に誇る天皇陛下のお庭です。宮内庁の管理によりよく維持されていると思います。それは見るものを例外なく感嘆の中に引き込みます。
桂離宮のある下桂の里に、いつ離宮が建てられたのかはっきりしていない。
宮内庁は、「桂離宮は、初代八条宮智仁親王により、宮家の別荘として創建されたものである。17世紀初頭にこの地を得られて後、1615年頃に山荘の造営を起こされ、数年ほどの間に簡素のなかにも格調を保った桂山荘を完成されている。親王の40歳台前半の時期にあたり、古書院が建てられたものとみられる。」(1)
但し、「親王が没せられて後10年余の間は山荘も荒廃期であったが、二代智忠親王は加賀藩主前田利常の息女富姫と結婚されて財政的な裏付けもでき、山荘の復興、増築などに意欲的に取り組まれた。智忠親王は父譲りの研ぎすまされた美的感覚をもって、1662年頃までに在来の建物や庭園に巧みに調和させた中書院、さらに新御殿、月波楼、松琴亭、賞花亭、笑意軒等を新増築された。池や庭園にも手を加え、ほぼ今日に見るような山荘の姿に整
えられた。特に桂棚及び付書院で知られる新御殿や御幸道などは、後水尾上皇を桂山荘にお迎えするに当たって新改造されたものと伝えられている。
桂離宮の総面積は付属地も含め約6万9千?余りである。中央には複雑に入り組む汀線をもつ池があり、大小五つの中島に土橋、板橋、石橋を渡し、書院や茶室に寄せて舟着きを構え、灯籠や手水鉢を要所に配した回遊式庭園と数寄屋風の純日本風建築物とで構成されている。苑路を進むと池は全く姿を消したり、眼前に洋々と広がったり、知らぬ間に高みにあったり、水辺にあったりしてその変化に驚かされる。また切石と自然石を巧みに利用し、それに
より真、行、草にもたとえられる延段や、あるいは飛石の変化を楽しむことができ、入江や洲浜、築山、山里等もあり、それぞれが洗練された美意識で貫かれ、晴雨にかかわらず四季折々に映し出される自然の美には感嘆尽きること
を知らない。」(1)
1933年に来日したドイツの建築家ブルーノ・タウトは桂離宮を賞賛した。彼は日記に桂離宮の建物や庭について『泣きたいほど美しい印象』としている。(タウト全集、桂離宮) そのタウトの発言が後に大きな影響を与えた。タウトは桂離宮が小堀遠州の設計であると信じていた。」(2)
そのころは、作庭は小堀遠州(1579-1647)によるものであるとされていたと思われるが、現在宮内庁は、「作庭に当たり小堀遠州は直接関与していないとする説が有力であるが、庭園、建築ともに遠州好みの技法が随所に認められることから、桂離宮は遠州の影響を受けた工匠、造園師らの技と智仁親王及び智忠親王の趣味趣向が高い次元で一致して結実した成果であろう。」 (1) としている。
桂離宮は昭和51年7月から平成3年3月にかけて各書院及び茶室の解体大修理が行われている。そのため今日見学者にとってどこも見るものの目を奪う。修復を行った 安井 清氏は、「御殿が格式ある建物としたら御茶屋のほうは気楽な建物ということになる。わび、さびの数奇の世界、特に松琴亭は小堀遠州が関わっていた『遠州好み』になっている。小堀遠州の影響は、桂離宮のいろんなところに現れている。土のそり橋でも直線的な御幸道から斜めにかかっている。園林堂の脇で、まっすぐの敷石を、正方形の飛び石が斜めに横切っている。笑意軒のところで、半分だけ格子を抜いた忘れ窓など、あれっと思わすようなことをあちこちでやっている。そういう破調の美意識で変化を持たすというのは、日本独特の美学だと思う」(3)
12月7日
3回目の桂離宮参観
11月中の参観には申し込み損ねた。その結果、12月上旬になったが、紅葉も終わりの時期に紅葉が! でも今年の紅葉は少し異変が! 真っ赤にはなっていない?
参考資料・文献
(1)宮内庁案内パンフレット
(2) 西和夫・桂離宮物語
(3) 笠井一子著・今日の職人が語る桂離宮
(4) 西和夫、京都で建築に出会う
(5) 和辻、1991 pp.447 - 481、渡辺2010 pp.83 - 86)
(6) 中根金作、京都の庭と風土
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.5
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄
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今日は阪急電車の桂駅へやって来ました。駅ビルの立派な駅です!
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行き先表示を頼りに桂離宮へ
但し、ここからずうーと進むと離宮の横を通って桂川に突き当たってしまいます。入り口までは離宮を一周することになります。 -
次の交差点を左へ行くと、離宮へつながる細い道があります。
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桂離宮へ到着。
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八重桜がまだ咲いています。
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こちらが桂離宮の表門です。皇族方、賓客、VIPのお通りになるご門です。
「離宮の北側にある表門は桂離宮の正門である。表門は、檜丸太を門柱とし、磨き竹を縦に隙間なくうち並べてある。その少し奥に茅葺切妻屋根を棈(アベマキ)という自然木の皮付丸太で支えた御幸門がある。この門は、後水尾上皇をお迎えするのに当たり智忠親王が造られたと伝えられるが、その後失われ、家仁親王の時に再建された。」(1) -
門の右側に1メートルほどの切り石がある。ガイドの説明はなく、何に使われたかは分からない。
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表門から、御幸門へは、このような道が造られています。遠近法を利用したお道です。ルネッサンスのヨーロッパから入った手法とされています。ここが最初のガイドポイントです。
ヨーロッパと文化の交流があったとは思えない時代になぜこのような手法が取られたかはミステリーです。 -
御幸門を抜けて右へ石畳を進みます。石畳は水はけが良くなるように中央が盛り上がっています。石畳は小石を敷き詰めたもので、石の平らな面を上に並べられています。
この桂離宮にはたくさん遊び心が盛り込まれているとのことです。前方の橋はなぜ曲がっているのか?これがまたミステリーです。桂離宮 名所・史跡
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目隠しの松です。まだ、お庭はお客様には見せません。橋の上からならチラッと見れます。
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お客様は御輿寄と呼ばれる書院の玄関へ導かれます。
「御輿寄のアプローチにある敷石は『真の飛び石』と呼ばれる。真は真・行・走の真で、整ったきり石で構成されている」(2)
左は塀でやはりお客様にお庭は見せません。このように、いたずらが一杯盛り込まれたお庭だそうです。お客様は書院で休まれてから小船でお庭を遊ばれたそうです。
「書院の玄関であり、前庭は杉苔で覆われている。中門から切り石を敷き詰めた延段が御輿寄に向けて延びているが、今までの苑路には見られなかった切り石の堅さのある構成で更に石段を四段上がると一枚石の大きな沓脱がある。六人の沓を並べられることから『六つの沓脱』という。」(1)
参観者には書院への入場は許されません。 -
こちらが一般の参観入り口です。
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宮内庁の参観事務所で一休止
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30人ぐらいのツアーで宮内庁のガイドが案内してくれます。
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現在、桂離宮の庭は、参観者にとっては回遊式になっている。御幸道を左に折れると外腰掛がある。松琴亭の待合として使われたものと言われている。
参観者はこの小道からお庭に案内されます。 -
まずは外腰掛
「御幸道の中ほどから左に折れ、離宮苑内に入ると、外腰掛がある。茅葺寄棟造りの深々とした感じの屋根を皮付丸太で支えるだけの吹き放しであり、雪隠(便所)が付いている。茶室松琴亭の待合の腰掛である。腰掛の前に自然石と切り石を巧みに配した延段が長く延び、両端を二重桝形の手水鉢と丈の低い灯籠で引き締めている。対面は蘇鉄山であり、その蘇鉄は薩摩島津家から献上されたと伝えられている。」(1) -
雪隠は左へ
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前にはソテツの木が!
桂離宮を絶賛したブルーノタウトは見落としていた桂離宮の欠点として、外腰掛について、「見事な芝生のそばに数株の蘇鉄が植えられている。これは本来の美しい環境にふさわしからぬ後年の作為に違いない」 (ブルーノタウト、日本の家屋と生活、永遠なるもの)
「この蘇鉄については桂離宮の造営時に八条宮とキリシタンの関係から南国から取寄せたものと至る」(宮元健次 ブルーノタウトは証言する桂離宮) -
二十枡形手水鉢と小さな灯篭
灯篭は足元を照らすために庭園のあちこちに置かれています。手水鉢の前にあるくの字の石は、小堀遠州の好みであったとか? -
外腰掛から茶室へ向かう経路を参観者も案内される。外腰掛から飛び石伝いに進むと、すぐに池が見えてくる。池には桂川から水が引かれている。
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少し進むと池に面して石を並べて突き出した州浜が見られる。このような州浜は京都御所の仙洞御所の庭にも見られる。
「黒く扁平な石が敷き詰められ池に突き出している。先端に灯籠を据えて岬の灯台に見立てて海を演出している。また、その先の中島と石橋のつながりは、天の橋立に見立てたものと言われている。」(1) -
その先にある茶室は松琴亭
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「松琴亭は、桂離宮で最も格の高い茅葺入母屋造りの茶室である。一本の切石を渡した橋を渡ると松琴亭である。橋を渡る手前から松琴亭屋根の妻に「松琴」の扁額が見える。後陽成天皇の宸筆で、銘は拾遺集巻八雑上の『琴の音に峯の松風通ふらし………』の句から採られている。にじり口の内側は三畳台目(茶室用の畳)の本格的な茶室で、遠州好みの八窓(やつまど)の囲いである。松琴亭外観は、東、北、西の三方から眺めるとそれぞれに異なる風情が楽しめる。北側土席の竈(かまど)構えと一の間の床や襖の青と白の市松模様は大胆かつ柔軟な発想と創意によるもので、そのデザインは現代になおいきいきと相通ずる斬新さをもっている。」(1)
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州浜と松琴亭
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目隠しもあるけれど、書院の建物が遠くに見える。
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待合の外腰掛から飛び石伝いに進み。州浜を眺めて白川石の橋を渡り、東側から松琴亭のにじり口に至る。
この石橋から参観者が良く落ちるそうだ! -
松琴亭のにじり口
八つ窓囲いは窓がおおくて明るい茶室。通常、茶室の外は見えなくて良い。ここは合計8つの窓から外が見えるようになっている。当時としては斬新な意匠であったのではないか? 「八つ窓の茶室は、桂離宮松琴亭だけではない。小堀遠州は1627年頃から南禅寺金地院の方丈など茶室を含めた建物の造営を行っている。金地院八窓の茶室は実際は窓が6つであるが、三畳台目の広さなど明るい茶室である。」(4)
つまり、小堀遠州の金地院八窓の茶室をみて造られたと考えうる。 -
刀掛けがにじり口の左にあります。
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松琴亭の内部
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内部のふすまには市松模様です。そのころヨーロッパからこのような図柄が入ったものとされています。
これもミステリー -
かまどが表に出ているのは珍しいつくりだそうで、ここで主人自らが客に茶をもてなしたのではないかとされています。
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右側の部分は懐石を温めた炉があったらしいです。
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左側のフックには小さな鐘がっていた。その鐘は上の参観事務所に陳列されていましたが撮影禁止でした。
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わたりきった石橋を振り返る。どなたも落ちなかったようだ。
「重要な見学ポイントはにじり口、額縁になってそこから見える庭の景色が絵になっていること」( 安井 清−3)
残念ながら茶室に上がることは許されない。 -
こちらは天橋立
「1941年に丹後へ旅したときに見た景色を桂の庭に再現したい。天橋立、若狭の国の海岸、天橋立を見立てた小さい半島を作ろう。桂の庭の花はどうしよう?花はやめて舟遊びを中心にしたほうがよいかもしれない。桜はどうだろう? 数本あれば季節を楽しむことができる。1615年妙心寺山名豊国の振舞があり、妙心寺山内の塔頭の方丈を見て、桂の別荘の室内の意匠がきめられた」(2)(原典‐智仁親王御年暦)
「1616年智忠親王は丹後の宮津から京極氏の娘、常子を妻に迎える。親王がこのへんを旅した時の印象を庭に再現したかったのであろう。また。その辺りから嫁いだ妻を喜ばせたいという意図があったのではないか?」(2)
宮内庁のガイドは後者の理由を説明に採用していた。 -
「松琴亭へは他にもアクセスがあった。第2は船に乗り、船着きから石段を上がる」(4)
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橋はすべて太鼓橋になっています。下を船が通るためだそうです。
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そして松琴亭のアクセス「もう一つは、今はないが、紅葉の馬場から松琴亭へのすぐ前にかけられていた橋を渡るルート、この橋は朱塗りの欄干付きで、橋がかけられていた頃は池がここで分断されていたわけで、この辺りの景色は現在とは異なる。」(4)
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次の茶室は賞花亭
「中島の一つで小高い丘の斜面を飛石に導かれて登ると、途中に水螢の名を
持つ石灯籠があり、登りきった所に峠の茶屋風の賞花亭がある。苑内で最も
高い位置にある。松琴亭と同じようにほぼ北に向かい、消夏のための小亭で
あり、茅葺切妻屋根に皮付きの柱を用いている。南側の竹の連子窓を通して
みる景色は深山幽蓬(しんざんゆうすい)の趣きを備えている。」
数奇屋の醍醐味は軽みにある。
賞花亭は軽みの好例である。
池の中島の上に建ち、峠の茶屋の風情、軒下には「龍田や」と染め抜いた暖簾が掛けられた。二方を吹流しにして、風が通り抜けるようにして柱を細くして軽快さを演出している。(4) -
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園林堂です。園林堂を正面から見たところです。庭園の中にこのような仏を置く場所を設置したのも遊び心のひとつだそうです。これもミステリー?
「賞花亭の山裾にあり、本瓦葺宝形造り屋根の持仏堂である。今は安置されているものはなく建物だけが残っている。離宮全体の雰囲気と異質ではあるが、またそれなりの景観でもある。扁額は後水尾上皇の宸筆である。」(1) -
園林堂は瓦葺である!
神道が宗教であったはずの宮家においてこのような持仏堂が設けられていたのか? 疑問であるが、...。「1788年、京の大火で桂の宮家のお屋敷が焼けた。8代目の当主、公仁(きんひと)親王は桂離宮を仮の住居としている。その際園林堂には初代、智仁親王とその和歌の師であった細川幽斎を祀っていた。」(2) 「その間、6代文仁(あやひと)親王、7代家仁(いえひと)親王の時代には別荘として使用された。現在みる桂離宮の姿は、家仁(いえひと)親王の時代に手が加えられてその後維持管理されてきたものである。」(4)
一般家庭で言えば仏壇のような存在かとも思う。位牌などが置かれていたのであろう。 -
書院はほとんど目隠しの木で見えません。
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たどり着くのは、笑意軒です。
「笑意軒は、切り石を直線的に畳んだ人工的な汀線に面した田舎屋風の茶室である。茅葺寄棟造りの屋根に柿葺(こけらぶき)の廂(ひさし)を付けた問口の長い建物である。縁側のある口の間の腰高障子の上に横並びに六つの丸い下地窓を設けているが、下地の組み合せをそれぞれに違えてある。その上方に掛けられている笑意軒の扁額は曼殊院良恕法親王の筆である。内部は襖で区切られるが、天井は一つのつながりをもっており、室内を広く見せる配慮と考えられる。樽踊(茶庭の手水鉢)には『浮月』の名がある。舟着場の照明用に火袋に蓋のような笠を載せた三光灯籠が置かれている。」(1) -
右側手前は7畳半の間です。この建物が建てられたころは、武士が政治的に台頭した時代で、武士の嫌う7畳半の間を造ったのではないか?
左の中の間の腰壁にはビロードの縞模様と金紙がはってある。 -
7畳半の間から見た外
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この丸窓はそれぞれが違うそうです。意味不明?
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襖の引き手は船の櫂(かい)の形、杉戸の引き手は矢の形になっている。
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櫂の取って
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笑意軒はここだけが外と接触のある建物です。窓の向こうには畑が見えます。そのへやから
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庭を振り返りながら
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参観者は書院へ案内されます。
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玄関のある古書院から
参観者には内部の参観は許されない。 -
「桂離宮の中枢をなす書院群は、東から古書院、中書院、楽器の問、新御殿と、雁行形に違なって立ち並んでいる。古書院には、池に面して月見台が設けられ、中書院は、一の問、二の問、三の問からなり、楽器の問は楽器などを格納していたところである。新御殿は、智忠親王が後水尾上皇をお迎えするために増築された建物である。一の間の南に櫛型窓の付書院をそなえ、その脇に棚板、地袋、袋棚を巧みに組み合わせた桂棚(写真)と呼ばれる違い棚がある。この棚は、修学院離宮の霞棚、三宝院の醍醐棚とともに天下の三棚と称されている。」(1)
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古書院の上部にあるおしるしです。 古書院の懸魚(げぎょ)は金箔に包まれて空に輝いている。
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正面は中書院
中書院の増築は1641年ごろとされている。古い御殿には、霧の紋様を木版で刷りだした紙を張ってある。これは親王のお気に入りで今出川の本邸の壁や建具にもこの唐紙が使われた。江戸の小堀遠州がデザインを指示してくれた。格式ばった雰囲気が一変して軽やか、華やかなものとなる」(2)「ちょうど同じく名正天皇の御所(内裏)が小堀遠州が造営奉行に就任して1640年から1642年にかけて建設中、内裏は八条宮家のすぐ南、1642年に天皇は内裏に移動した。同じく智忠親王と前田利常の娘、富子(ふうこ)との婚礼の儀が1642年に行われているので、八条宮家も本邸の整備、御殿の建設に忙しかった。庭の拡張工事もこの次期に行われたと思われる」人手不足は否めなかったはずではあるが、「工事の重複が幸いした面もあった。狩野探幽などが上洛したため八条宮家の御殿の絵も狩野派の画家が担当した。」(4)
宮内庁のガイドは「小堀遠州は直接関与していないとする説が有力である」理由として桂離宮の建設時、小堀遠州は江戸にいたとしていたが、智忠親王と小堀遠州が一時期、すぐ近くにいて親交があったことは間違いない。 -
その後、後水尾院の桂への御幸に備えて、楽器の間と新御殿が増築された。新御殿は後水尾院の桂への御幸を迎えるために智忠(としただ)親王によって建てられた。完成は1663年ごろと考えられている。庭に立てられた万波楼、松琴亭、賞花亭、園林堂、笑意軒もこのときには建てられていた」(4)
楽器の間、新御殿とつながっている。 -
「月を観賞するために、古書院二の問の正面、広縁から池に突き出すように竹賛子で作られている。月見はいうまでもないが、苑内の主要な景観が一望でき、納涼の設備としても申し分ない。」(1)
月見台ー池の対岸に中秋の名月を見た?
古書院は月を見るために建てられた? 「月の桂」と呼ばれる名所で月見を楽しむように設計された。江戸時代初期の公家たちの遊び心がこの月見台に見られる。」(4)
従って、古書院は中秋の名月の月を見るために、南東をむいている。南向きではない。中秋の名月は9月に南東の空に上る。その後に増築された中書院、楽器の間、新御殿はそれに従って雁行形の形態をとって接続したのは自然であろう。それぞれから、庭が見えるようになっている。
古書院の中の材料には松の角材が使われている。250年経つと漆を塗ったように黒くなり木目しか見えない。専門家はツガではないかとしらべてみたら、それは細かい柾(まさ)の松であった。おそらく西山のいい材料を切って取ったのではと思う。中書院、新御殿には北山杉が使われている。くせのある節の多い材料が使われているが、それは節を見せるための木取りがなされた意匠である」(渡辺節夫−3)
桂離宮は柱取りがいいー数奇屋建築の感覚ー棟梁、材料、意匠、部材のプロポーションを良く見る。材料の太さ、それの持って行きかた、それから構図のよさ。どこも見てもいいと思われるのは、バランスが良く保たれている証拠」(安井−3)
中を見れないのは残念! -
最後の案内されるお茶室は、月波楼です。
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船底天井です。
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「月波楼は古書院に近い池辺の高みに建つ茶亭で、正面中央を広い土問にして開放的である。月を見るのによい位置にあり、土間の右手の部屋は、池を眺めて見晴らしが良く、土間の奥の座敷から北を見ると池は隠れて見えない趣向である。化粧屋根裏の竹の垂木が舟の底のような形に組んである。」(1)
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月波楼から見るお池
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参観者は前掲の書院の玄関のほうへ案内されます。一周はそれで終わります。書院の内部が見れないのは残念です。
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最後に御輿寄
「御輿寄のアプローチにある敷石は『真の飛び石』と呼ばれる。真は真・行・走の真で、整ったきり石で構成されている」(2)
西和夫氏は「桂離宮物語」の中で、「親王は本邸や別荘の造営で、普請に詳しくなり、建築も庭も自分好みを大工や庭師に伝えて、....」としているところから丸投げではなく、暗に親王自信が桂離宮の施工、造園に直接関わったとも読める。
また、Wikipedia では作者は不詳であるが、「実際に作庭に携わった可能性のある人物としては、遠州の義弟である中沼左京、遠州の門下である玉淵坊などの名前が挙げられている」 (5) -
『真の飛び石』真は真・行・走の真で、整ったきり石で構成されている」(2)
この延段も遠州好み? -
お帰りはまた元きた道で、...
「桂離宮は江戸時代から見学希望者が多く、所司代が「貸し座敷」のようだと非難してから簡単には見学ができなくなった。(原典は桂御殿拝見之記ー宮内庁書陵部蔵)優れた建築と庭を目で確かめ、楽しむという点では現代と共通。拝見之記には離宮がいつ、誰によって造られたか? どのように使われたか? の説明はない。四季折々の自然を楽しむことで能舞台などの施設は造られなかった」(2) それは現代の宮内庁の管理下でも続いている。 -
いただいたパンフレットの裏にある参観コース
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12月8日
参観は11時からなのに、まだ10時。
中村やさんは明治初期からの老舗! とりあえずこちらで休憩して、抹茶をいただく。 -
店内の奥座敷には坪庭が見える。
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天気がいい!桂川沿いをゆっくりと正門へ
まだ時間はある。桂川沿いを離宮の笹垣を左に見ながら歩く。垣根の内側には尖った竹が上に向けられているらしい。昔は監視カメラもなかったので、ちょっとした知恵? -
30分前に離宮に到着。
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正門の脇の紅葉が見ごろだ!
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正門付近の垣根は桂垣。
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参観者の通用門はまだ開いていない。
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仕方なく前庭の紅葉を拝見する。日が当たる部分は、どうも白茶けている。褐色の葉も見られる。
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御幸道は見事に紅葉した。春の参観ではどれがもみじかまでは見ていられない。
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参観スタート、御幸門前で参観者は説明を受ける。
桂離宮参観はこれで3回目なので、紅葉と見逃したところを中心に見ることにした。 -
正門を望む
正門から御幸門までは遠近法が使われている。 -
御幸門のアベノキ
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アベノキはコルクの材料になるやわらかい材質だとか!
御幸門では構造材としても使われている。 -
御幸門手前の切り石は?
桂離宮を訪れた賓客は、表門を入り、御幸門をくぐり、御幸道を進み、土橋をわたり、中門を通って、御輿寄せに至ったと思われるが、御輿寄を見ると、くつ脱ぎ石がある。西和夫氏は著書(4)のなかで、「輿に乗って訪れるわけであるが、御輿寄にまで御輿で乗り付けるのは不自然である。御輿寄というよりは玄関と呼ぶほうがふさわしい」としている。当初はそのように御輿で乗り付けられたことも考えるが、庭の造園とともに御幸道の目隠しの潅木、また御輿に乗ったままでは御幸門をくぐれないなどを考えると、訪れた賓客は御幸門の手前の切り石で御輿を降りて玄関である御輿寄まで歩かれたものとする。
この切り石は、お越しら降りた場所と推論でりる。宮内庁ガイドもそのように説明していた。 -
参観者は外腰掛のほうへ案内される。
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外腰掛へはこの途中で左に折れる。直進は?
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外腰掛から松琴亭へ
蘇鉄山の路地と腰掛待合ーその構成の要素と基調が路地の形態を持つ。路地の巨大な飛び石、路地を2分する長大な延段、延段の両端に据えられた二重枡形の手水鉢と灯篭の意匠はすばらしい。」(6)
下に並べられた石の通路が延段であろう。 -
その灯篭を振り返る。
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州浜のあたりには大きな灯篭も配されている。
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松琴亭を見ながら池の反対側の書院を望む。目隠しが、….
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松琴亭
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「松琴亭の軒桁には、アベノキが使われている。長さは12m、太さが22センチで太さが差異がないもので、曲がり方も形の同じもんを2本も捜した。方々手を尽くして、広島県の営林署から三次の奥でみつけたものの山から出すのは大変だった」(渡辺節夫−3)
これだ! なるほどなるほど -
これが2本のアベノキ。修復のご苦労が伺える。
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ここには橋が架かっていたと思われる。「今はないが、紅葉の馬場から松琴亭のすぐ前へとかけられていた橋を渡るルートがあった。この橋は朱塗りの欄付きで池はここで分断されていた」(4)
そしてその脇にあった円形の灯篭。 -
池の対岸に書院が見え出した。
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「天橋立を模したという岬と島を眺めつつ松琴亭にわたる。左上築山には卍亭がある。茶事のときの中立待合である。」(6)
左側、ガイドが案内しないところに、あずまやがある。宮内庁の案内パンフレットに書かれていない。どうもこれが卍亭のようだ。 -
賞花亭へ
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この軒先に「龍田や」とかかれた暖簾がかけられた。その暖簾は、参観者の待合室にあってけれど、撮影禁止!
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賞花亭は離宮で最も高いところに位置する。池を見下ろす。
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園林堂にも紅葉が!
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園林堂の真新しい額は複製だそうだ。
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笑意軒へ
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前回見損ねたビーロード
窓の下の腰壁にはビロードの金箔を組み合わせて張りこめられている。 -
太鼓橋が3つ重なっているとのガイドの説明!
一つはどうも見えにくい。舟からならもちろん見えると思う。 -
書院方面へ移動する。
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6角灯篭
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宮内庁のガイドによると、ここの直線は弓の射場だったそうだ。
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月見台の前から島へ通じる回遊路!
参観者には通行禁止 -
こちらも通行禁止
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観月に際して、中島のかなたに月を見たと思われるが、この中島、禅寺によくある神仙思想を映したものである。
「八条宮智仁親王は次の和歌を残している。
仙人の蓬が島ねうつしおきて
千々の秋みん秋の月かな
浮かんだ島が蓬莱・方丈・えい州の三神山を配置していることを意味している。」
(6)
大仙院などの庭園が作庭されてから桂離宮の造庭までにはかなりの年数がたっている。 -
月波楼へ
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月波楼からみる
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こちらには蘇鉄山
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御輿寄から中門をでて、ツアーは終わる。
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ここがどうやら
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離宮の隣にある小さな社の紅葉は見ごろだった。
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春日神社
まだ日も高いので、嵐山でも
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この旅行記へのコメント (1)
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- 墨水さん 2015/05/05 00:01:08
- 初めまして。
- 初めまして、サンフランさん今晩は。
日本庭園を理解したいのなら、「礼記」と「老子・莊子」を読む事です。
この世に於いて、石と自分自身とどちらが尊いかを知れば、おのずと庭園は理解出来る。
日本庭園は、表面的な見た目の美しさを観賞する場所ではないんです。
墨水。
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