1975/01/17 - 1975/01/27
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ノスタルジアさん
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今から41年前の昭和49年7月23日から3月7日までの225日間かけて
ナホトカ航路、シベリア鉄道を往復して
ヨーロッパ、モロッコを船、列車、バス、ヒッチハイクで旅しました。
高所恐怖症なので飛行機には現在まで一度も乗った事がありません。
乗り物による移動距離は60,806.8キロ、地球1.52周でした。
観光白書によると昭和49年の日本人の海外旅行者数が200万人、
平成24年度は1849万人、40年ほどで10倍近くなりました。
そんな当時の旅行の資料と写真を少しづつアップして行きます。
今回はトルコ イスタンブール
1月18日
20時発のイスタンブール行に乗った。
アテネからイスタンブールまで1,372キロ、2泊3日39時間の予定だった。
寝台列車はなく2等車だけでコンパートメントの8人席はいっぱいで
横になるのも出来なかった。
18日の夜はほとんど眠れなかった。
日本人のAさん、Iさんと一緒だったので何とか耐えられた感じ。
1月19日
ギリシャの国境駅で3人降り、これで少しは楽になるかと思ったら、
トルコの国境駅で3人乗って来たので、結局同じだった。
当時、冬期間はアテネ発イスタンブール行きは土曜日発1本のみ
だったのでいつも満員になるらしい。
国境駅で停車時間が長いのでホームに降りて3人でラジオ体操していたら、
面白いのか、珍しいのか乗客が集まって来て真似しだした。
1月20日
19日の夜より昨晩の方がよく眠れたが、疲れがピークという感じ。
列車は予定より1時間遅れて12時にようやくイスタンブール駅に着いた。
Aさん、Iさんは22日にソフィアに向かった。
カメラの事を心配してくれたが、イスタンブールではイスラム圏で
モスク内や人々の写真は撮れないのでカメラは無くても大丈夫、
と言って別れた。
https://www.youtube.com/watch?v=Tt6_DWH8GCI
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス タクシー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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旅行記の周辺地図
昭和50年1月17日
アテネ アクロポリスの丘で大半を過ごす
1月18日
アテネ?
1月19日
ギリシャ?トルコ
1月20日
イスタンブール
1月21日
イスタンブール グランドバザールで大半を過ごす。
1月22日
イスタンブール トプカプ宮殿
1月23日
イスタンブール ブルガリア大使館ビザ取得
1月24日
イスタンブール バザールで大半を過ごし、コート、お土産品を買う。
1月25日
イスタンブール 黒海を見に行く。
タクシーで行ったが往きは10トルコリラ206円、帰りは別のタクシーで
5トルコリラ103円、この国もいい加減さはイタリア並みか。
夕方、街を歩いていたらバスターミナルに行きついて、
バグダッド行、アンマン行、カイロ行、テヘラン行き、ダマスカス行きの
長距離バスが排気ガスと砂埃を巻き上げながら、次々に出発して行くのを
とりとめなく眺めていたら、行きたくなった。
一方で遊び疲れて、会社は休職扱いにしてくれていたので、
早く仕事に復帰したいという気持ちも強かった。
ベンチに座りながら、1時間程思案した結果、日程が足りないので、
中東には行かない事にした。
当時、中東情勢はそんなに悪化していなかったので、
今から思えば行っておけば良かった、という気持ちも大いにある。
1月26日
オリエント急行
イスタンブール?ブルガリア ソフィア オリエント急行 -
昭和50年1月17日
アテネ 100ドル28,501円を両替 -
昭和50年1月17日
アテネ 30ドル8,550円を両替 -
昭和50年1月17日
アテネ アクロポリスの丘 入場券 5ドラクマ48円
ここは、丘の上からただアテネの街を眺めているだけなのに、
何度来ても全然飽きない。
物思いに耽るのも良し、人生について考えるのも良し、
縁側に座ってひなたぼっこをしている感じである。 -
昭和50年1月18日
アテネ アクロポリスの丘 入場券 5ドラクマ48円
アテネはここ数日、快晴に恵まれ、過ごしやすい暖かさであった。
アテネも今日限り、見納めと思ってアクロポリスの丘に登った。 -
昭和50年1月19日
ギリシャ 出国スタンプ -
昭和50年1月19日
トルコ入国スタンプ -
昭和50年1月20日から25日まで6泊した
トルコ イスタンブールのホテル グンゴー
ホテルといっても相部屋のドミトリータイプ。
日本人が多く泊まる事で有名だった。 -
昭和50年1月20日
トルコ イスタンブール
イスタンブール駅で10ドル2,850円を両替 1トルコリラ20.58円 -
昭和50年1月20日
トルコ イスタンブール
食事代12.75トルコリラ262円のレシート -
昭和50年1月22日
トルコ イスタンブール
イスタンブール駅で30ドル両替8,550円 1トルコリラ20.58円 -
昭和50年1月21日
トルコ イスタンブール グランドバザールで買ったアフガンコート
旅先で売る為に持っていた腕時計と22ドル6,270円で買った。
腕時計の評価だが、こちらは出来るだけ高値でのもくろみがあったが、
さすがイスラム商人、SEIKOのカタログを持って交渉してくるのである。
安かったのか、高かったのか、結局は分からず仕舞い。 -
昭和50年1月22日
トルコ イスタンブール
食事代8トルコリラ165円のレシート -
昭和50年1月22日
トルコ イスタンブール
トプカプ宮殿入場券750クルシュ15円 -
昭和50年1月22日
トルコ イスタンブール
トプカプ宮殿入場券5トルコリラ103円 -
昭和50年1月22日
トルコ イスタンブール
トプカプ宮殿入場券 -
昭和50年1月23日
トルコ イスタンブール
ブルガリア大使館へビザ申請に行った時の市内バス切符
175クルシュ36円
-
昭和50年1月23日
トルコ イスタンブール ブルガリア大使館で ビザ取得
大使館に着くとトルコ人の長蛇の列、皆、ブルガリアに出稼ぎに行くらしい。
ビザ取得まで3時間近く掛かったが、これが駅の旅行代理店に頼むと
11ドル掛かるところ、60トルコリラ5ドル弱で買えたのである。 -
昭和50年1月23日
トルコ イスタンブール
ブルガリア大使館へビザ申請から帰った時の市内バス切符
175クルシュ36円 -
昭和50年1月23日
トルコ イスタンブール
グランドバザールで牛革のスエードのコートをオーダーメードで買った店。 -
昭和50年1月23日
トルコ イスタンブール
オーダーメードコートの手付金として20ドル払い、その後35ドル払うという
メモ書き。 -
昭和50年1月23日
トルコ イスタンブール
出来上がったコートを試着すると実に軽くてすぐに気に入った。
今は長男が着ているが、譲らなければ良かったと後悔している。 -
昭和50年1月24日
トルコ イスタンブール
スエードのオーダーメードコートの領収書
2日間で仕上げてくれた。
オーダーメードで55ドル15,676円、実に良い買い物だった思っている。 -
昭和50年1月23日
トルコ イスタンブール
パズルリング 指から外すと指輪が崩れてしまいます。
今まで教えずに指輪に戻すことが出来た人はほんの数人だけ。
グランドバザールでお土産用に70個買うと言ったら、店のオヤジは、
ファクトリーに在庫があるから一緒に行こうと言われ、付いていくと、
ファクトリーといってもアパートの狭い一室だった。
そこには小学生の低学年くらいの男の子が型に金属を流し込む作業をしていた。
父子2人で細々とやっていて、学校も行ってないようだった。
これでは値引き交渉は出来ないと思った。いい値で1個40円だった。
当時、パリ、ロンドン、東京原宿の露店で1個1,000円で売られていた。
問題は指輪の組み立てであった。レクチャーは子供がしてくれたが、
何度も手順をやって貰わないと覚えられないのである、
覚えられないでいると、「昨日、買って行ったアメリカ人はすぐ出来た。
日本人はいつまでやっても覚えない。」なんて、この小僧、憎たらしい事を
云うではないか。
これでは日本人の沽券に関わるので「覚えたからもういい。帰る!」と
言ったが勿論、信じてはいないようで、「明日、また来たら。」と言われた。
ホテルグンゴーに帰ってから出来る日本人から特訓を受けて出来るように
なった。
お土産としてのパズルリングは大うけだった。
それなのに友達なんかリングを指から外して簡単に復元できると思って
崩してしまい、それが復元出来ず、困り果て、ついには
「教えてくれ、教えてくれ、」とばかり低姿勢で泣きついて来たので
仕方なく教え、それが出来るようになった途端
「なあーんだ、簡単ではないか、こんなんなら訊かなきゃ良かった。」
言い出す始末、
先ほどまでの低姿勢、「飛んでイスタンブール」になった。
それからは安易に教えない事にした。
このパズルリング見る度にあの親子の事を思い出す。 -
昭和50年1月25日
トルコ イスタンブール スルタンアフメト・モスク
スルタンアフメト・モスクは、トルコのイスタンブールを代表するモスクで、
オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって1609年から1616年の7年の
歳月をかけて建造された。
設計はメフメト・アー。「世界で最も美しいモスク」と評される。
世界で唯一優美な6本のミナレットと直径27.5mの大ドームをもち、
内部は数万枚のイズニク製の青い装飾タイルやステンドグラスで彩られ、
白地に青の色調の美しさからブルーモスクとも呼ばれる。 -
昭和50年1月25日
トルコ イスタンブール スレイマニエ・モスク
スレイマニエ・モスクはオスマン帝国の旧都イスタンブールにあるモスクで
1557年完成、オスマン建築の最高傑作のひとつと言われる。
イスタンブルの旧市街にある7つの丘のひとつの頂上に位置し、オスマン帝国の
第10代君主スレイマン1世が1550年に着工し、7年の歳月をかけて完成した。 -
昭和50年1月25日
トルコ イスタンブール スレイマニエ・モスク
スレイマニエ・モスクは礼拝堂のほか、マドラサ、医学学校、病院、給食所、
宿泊所、商業施設、ハンマームなど、多くの付属施設を持ち、
礼拝堂の北側は墓地になっており、建設者スレイマン1世とスレイマンの妃が
眠っている。
建物は1660年に火災の被害を受け、すぐにメフメト4世によって修復されたが、
バロック様式を取り入れた形状に改変された。
19世紀の修復で創建当時の様式が復元されたが、第一次世界大戦中に武器庫に
使われたのが原因で再び火災の被害を受け、1956年に修復されて元の姿を
取り戻した。 -
昭和50年1月25日
トルコ イスタンブール ミナレット(尖塔)とアヤソフィア
アヤソフィアは、トルコのイスタンブールにあって東ローマ帝国
(ビザンティン帝国)時代に正統派キリスト教の大聖堂としての
建設を起源とし帝国第一の格式を誇る教会、コンスタンティノープル総主教座の
所在地であったが、1204年から1261年まではラテン帝国支配下において
ローマ・カトリックの教徒大聖堂とされていた。
その後は1453年5月29日から1931年までの長期間にわたりモスクとして
改築を繰り返し使用されて現在の特徴的な姿となり、後に世俗化された。
東ローマ帝国の代表的な遺構であり、しばしばビザンティン建築の最高傑作と
評価される。その歴史と威容から、オスマン帝国の時代においても
第一級の格式を誇るモスクとして利用された。
正教会では「アギア・ソフィア大聖堂」と呼ばれ、「ハギア・ソフィア大聖堂」
と表記されることも多い。 -
昭和50年1月25日
トルコ イスタンブール ボスポラス橋
ボスポラス橋は、イスタンブルでボスポラス海峡に架かる吊り橋で、
完成は1973年10月30日、トルコ共和国建国50周年記念日の翌日のことである。
全長 1,510m、高さ64m。
ボスポラス海峡は。南北に細長く、北は黒海、南はマルマラ海で、マルマラ海とエーゲ海を繋ぎ、ダーダネルス海峡とあわせて黒海と地中海を結ぶ海上交通の要衝である。
長さは南北約30km、幅は最も広い地点で3700m、最も狭い地点で僅か800m程で
水深は36m〜124m。 -
トルコ 昭和50年1月27日出国スタンプ
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