1974/07/23 - 1975/07/29
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ノスタルジアさん
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今から41年前の昭和49年7月23日から3月7日までの225日間かけて
ナホトカ航路、シベリア鉄道を往復してヨーロッパ、モロッコを船、列車、バス、ヒッチハイクで旅しました。
高所恐怖症なので飛行機には現在まで一度も乗った事がありません。
乗り物による移動距離は60,806.8キロ、地球1.52周でした。
観光白書によると昭和49年の日本人の海外旅行者数が200万人、
平成24年度は1849万人、40年ほどで10倍近くなりました。
そんな当時の旅行の資料と写真を少しづつアップして行きます。
今回はシベリア鉄道 ハバロフスク~イルクーツクまで、
移動距離3320.0キロ、横浜港から5680.4キロです。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 3.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
旅行記の周辺地図
-
昭和49年7月29日
13時05分、ロシア号は発車した。日本人乗客は8人と
ボストーク号に比べて随分少なくなってしまった。
次の目的地イルクーツクまでは、3320キロ、3泊4日である。
それにしても列車の中は暑い、30度は超えているだろう。 -
写真撮影について
車内から写真を撮っていると、太ったおばちゃんの車掌が来て
「ニエット!」駄目という。フィルムをを抜く訳でもなく、
反射的、習慣的にに言っているみたいだった。
しょっちゅうなので「ニエットおばさん」と呼んでいた。 -
昭和49年7月26日
アムール河 -
昭和49年7月26日
アムール河 -
昭和49年7月26日
いよいよシベリア平原が始まった。 -
昭和49年7月26日
太陽が輝いているのに午前4時とは!
列車内はモスクワ時間で運行されているので、時差ボケとは違う
時間感覚を感じて頭がおかしくなる。
モスクワとは時差は最大7時間、毎日1時間ずつ修正していく。
2等コンパートメントは、4人部屋で2段ベッドで向かい合い、
ベッド幅は日本の寝台車より少しだけ広い。
落下防止の柵は無いので上の段の自分はロープで身体を結んで寝た。
窓は2重ガラスで天井は高く、コンパートメントの外の通路の上の
部分が奥行きの深い押入れのようになっていた。
デビッド、I、それから大阪から来たというDさんと同室だった。 -
朝食券綴りのカバー 1枚1ルーブルで388円
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カバーの内側に書かれた朝食の説明
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昼食、夕食券綴りのカバー 1枚2.25ルーブルで875円
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カバーの内側に書かれた昼食、夕食の説明
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昭和49年7月27日
シベリアは荒涼とした大地では無く手入れされた農村風景だった。 -
昭和49年7月27日
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昭和49年7月27日
カナダ人家族ドンさんの姉妹です。
彼らは1等車でした。 -
昭和49年7月27日
最初、兄妹か姉弟かと思った。 -
昭和49年7月27日
至る所にレーニンが。 -
昭和49年7月27日
針葉樹林帯タイガが見え始めた。シベリアの夏は何も無い夏かと
思っていたが、想像していたより変化に富んでいてどれだけ見ていても
飽きることはなかった。 -
昭和49年7月27日
広々とした緑の草原は巨大なゴルフ場の様であった。
タイガの原生林、巨大なゴルフ場、白樺の集落、
それぞれが順番を変えながらゆっくりと過ぎ去った。 -
昭和49年7月27日
シベリアは、ソ連のウラル山脈以東、北は北極海から
南はカザフ高原及びモンゴル人民共和国との
国境の間に広がる地域をいう。
東西5千キロ、南北3千キロにわたり面積1135万キロ?、
ソ連全土の半分余りを占める。 -
昭和49年7月27日
シベリアの地名は、16世紀末まで勢力を持っていた
シビル汗国に由来し、ロシア人の東進につれてウラル以東の
広い範囲を指す名称となった。 -
昭和49年7月27日
シベリアの気候は、四季が無く、夏と冬の2つの季節だけである。
冬の寒さは厳しくマイナス40度からマイナス50度にも達するが、
乾燥した無風状態の為生活も困難ではない。
一方、夏は、比較的高温となり東シベリアのヤクート地方では
年較差が60度にもなる。 -
昭和49年7月27日
シベリアの植生は、北極海沿岸部は樹木を欠くツンドラで、
その南は南北の幅千キロに及ぶ針葉樹林帯タイガが覆う。
そこには黒テンをはじめとする高価な毛皮獣が多く生息している。
シベリアにはマンモスがいた後期旧石器時代から
既に人類が生活していた事がアンガラ河岸などの遺跡で
解明されている。 -
昭和49年7月27日
ロシア人到来以前の民族や文化はユーラシア大陸の
南部から北部へ向かって移住或いは伝播したらしい。
ロシア人がシベリアに初めて進出したのは、
11世紀頃のノブゴロド人の毛皮商人らであり、
1581年のエルマクの遠征以来本格化した。
先陣はコサックで冬営地や柵を築きながら東進した。 -
昭和49年7月27日
1598年にはシビル汗国を滅ぼし、クズネーク1618年、1632年には
ヤクーツクが建設され、1661年に建設されたイルクーツクと共に
その後の東方探検の基地となった。
-
昭和49年7月27日
そして1649年、ポロヤコフ・ハバロフのアムール河到達、
ベーリングの2回にわたるベーリング海峡、アラスカ沿岸、カムチャッカ半島、
アリューシャン列島の調査などが行われた。 -
昭和49年7月27日
これらの探検の主目的は毛皮獣や金などの資源の調査にあった。
探検の後には、農民、流刑囚が送られて開発が始められ、
ロシアの勢力図に組み込まれていった。 -
昭和49年7月27日
南東部では清との国境問題が起こり、
1689年にネルチンスク条約、1727年にキャフタ条約、
1858年にアイグン条約、1860年の北京条約を経て、
アムール河流域と沿海州のロシア領が決まった。 -
昭和49年7月27日
革命前は政治犯などの流刑地としても知られたが、
1905年のチェリャビンスク、ウラジオストック間、約7400キロを
結ぶシベリア鉄道の開通は、シベリアがヨーロッパと結びつく事となり、
政治的、経済的に画期的な意味を持った。 -
昭和49年7月27日
1917年のロシア革命後、日本のシベリア出兵があり、
反革命運動が1922年頃まで続いた。 -
昭和49年7月27日
シベリア鉄道は、シベリア南部を東西に横断する鉄道で
本線はウラル山脈東麓のチェリャビンスクと日本海沿岸の
ウラジオストックを結ぶ全長約7400キロである。 -
昭和49年7月28日
1891年シベリアの開拓を目的に着工、1905年一部開通し、
これによってロシア帝国のアジア進出が強化された。
全線開通は1916年で、1936年全線が複線化した。 -
昭和49年7月28日
第二次世界大戦後、ソ連政府によってアンガラ・バイカルコンビナート・
極東コンビナートなど東シベリアの開発が進められており、
この鉄道の担う役割は大きい。
モスクワ、ウラジオストック間は電化されている。 -
昭和49年7月28日
夜ともなれば窓の外は、煌々たる月の光を浴びた
果てしない原野が広がっていた。
空気が澄んでいるのだろう。真夏の様な明るさだ。
鉄道に沿って流れる小川が月光を映して輝いていた。 -
昭和49年7月28日
列車がカーブすると後部車両の窓明かりが、
線路際をくっきりと照らしながら追って来た。
夜半も時折り、目覚めて窓のカーテンを押し上げて外を見た。 -
昭和49年7月28日
月光に輝く果てしない広野に、木立のシルエットが
現われては過ぎ去って行く。
遠くに去って行く丘の連なり、まるで幻想の夢の世界だった。 -
昭和49年7月28日
ロシア号は地平線の彼方に向かって今日も走る。 -
昭和49年7月28日
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昭和49年7月28日
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昭和49年7月28日
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昭和49年7月28日
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昭和49年7月28日
建設中の鉄橋 -
昭和49年7月28日
農村風景 -
昭和49年7月28日
ロシア号を牽いて
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昭和49年7月28日
停車駅で
ここにもレーニンの顔が。 -
昭和49年7月28日
KHILOK駅で事故か車両故障の為か12時18分から16時20分までの4時間余りも停車した。
4人でホームに降りると、我々日本人が珍しいのかたちまち大勢のロシア人に囲まれてしまった。
特にDさんの出で立ちは肩まで伸びたロングヘア、サングラス、黒のランニングシャツ、黒のハイヒール靴だったので、
「お前は男か、女か?」
「男です。」
「男なら女みたいな髪、高い靴は履くな。」と説教されたりした。
次に日本を旅行して来たというイギリス人で靴屋さんをしている身長190センチぐらいの大男クラークさんから
スモウを挑まれた。何でも東京でスモウのテレビを見ていつか日本人とスモウを取りたかったとか。
こちらは相撲は少し自信があったので受けることにして取ると、大男をあっさりとすくい投げで倒したので、
またまた大変な騒ぎ、賞金代りとしてロシア人から手渡されたコップの水を飲むと、喉に火がついたやけどの様な痛み、水だと思ったら
ウオッカだった。酒は全く弱いので咳き込んでいたらロシア人から笑われてしまった。
負けたクラークさんに一人のロシア人が
「お前は大きな図体をしていて何と弱いのだ、実にだらしない、恥ずかしくないのか!」と言い出す始末。
そこへクラーク夫人が出て来て「夫に文句があるのなら私が相手になる。」と叫ぶとそのロシア人は即、退場。それを見て皆大笑いした。
その内ロシア人の誰かがギター、テープレコーダーを持って来て、それに合わせてロシア民謡や
踊りが始まり発車まで続いたのである。
それにはあの車掌のニエットおばさんも踊ったのである。
いやはや大変な楽しいお祭り騒ぎであった。
以上のやり取りの会話はロシア語は全く話せない、分からないので身振り、手振りからの想像で書きました。
写真はオレンジ色の服がクラーク夫人とロシア人が対決しているところ。
私の右横がクラークさん、左横がD、Iさん。 -
昭和49年7月28日
車掌のニエットおばさんも踊っています。
右はDさんの踊っている背中。 -
昭和49年7月28日
「イエー!」スターになった出戸さん。 -
昭和49年7月29日
目覚めた時、朝陽を浴びて輝くバイカル湖が車窓いっぱいに
飛び込んできた。
美しい、大きい、摩周湖と阿寒湖を合わせた様な感じだった。 -
昭和49年7月29日
バイカル湖 -
昭和49年7月29日
バイカル湖 -
昭和49年7月29日
イルクーツクに近い小さな駅に停車するとホームに露店が幾つか並び
茹でたじゃがいも、人参などを売っていた。 -
昭和49年7月29日
生の人参を食べてみると思っていたより美味しかった。 -
昭和49年7月29日
バイカル湖は、ユーラシア大陸最大の淡水湖。
長さ650キロ、幅79〜25キロ、湖岸線の延長は実に約2200キロ。
面積は31500キロ?、琵琶湖の50倍。
標高2400m以上の山脈に囲まれた地溝の中にある。 -
昭和49年7月29日
バイカル湖の最深部は1742m(1940mという説もある)。
湖面の高さ455.4m。深さは世界第一位で、面積は世界七位。
不思議な事には336の川がバイカル湖に流れ込むが、
ここから流れ出るのはアンガラ河だけである。 -
昭和49年7月29日
湖の中にはオルホン島の他、大小約27の小島が浮かび。
中部にはスビヤトーイ・ノース半島が突き出ている。
湖岸からの遠望は湖というより果てしない大海原といった感じである。 -
昭和49年7月29日
夏の表面水温は9〜12度、湖岸では20度に及ぶ事あるから
水泳も楽しめる。
結氷は12月末から1月初め、5月初めには溶ける。
透明度40.5m、摩周湖は41.6m -
昭和49年7月29日
動植物分布の特異さも有名で、バイカル湖に生息する
1800種の動植物の内、四分の三はバイカル湖以外のどこにも
見られないものばかりである。
特にバイカル・アザラシ、バイカル・サケ、バイカル・チョウザメが
どうして海から数千キロ離れた淡水湖に棲みついたかは、学会でも
謎となっている。 -
昭和49年7月29日
午後からは、いよいよバイカル湖観光だ。
次号に続く -
昭和49年7月26日〜29日
ハバロフスクからイルクーツクの移動距離3,320キロ、
横浜港からイルクーツクの移動距離5680.4キロ
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