2014/11/08 - 2014/11/08
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ドクターキムルさん
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おしゃぎり会館の一角には慶長2年(1597年)に作成されたとされる瀬波郡絵図の写真が引き伸ばして貼られていた。舞鶴城が「村上ようがい」と記載されており、村上の地名は後年に改められたと考えるべきで、当時は「本庄ようがい」であったはずである。「本庄ようがい」と城主の屋敷があった里本庄とは頻繁な往来があったはずである。
村上ようがいから新丁(しんちょ)の坂を下り、2つの山を越え、まい谷村に抜け、あミだぢ村を通り、ミなくち村、山屋村へと道が続いているが、山屋村で行き止まりのようだ。一方、松山村から二手に別れ、一方は松山村−こくめき村−とりこゑ村−里本庄村へと続き、もう一方は松山村−上助渕村と続いている。上助渕村と下助渕村とに道がなく、上助渕村と川との位置も変だ。川の流れを変えたのであろうか?
お城山の下の国道7号線が通る谷津から高速道が通っている山の尾根を越える道は時代によって何本かあったと地元(前谷)の人はいう。この当時は新丁の坂の上から牛沢を下り、山を越えるとまい谷村があり、あミだぢ村から田圃を横切り、川を渡り、向こう側の山裾をミなくち村、山屋村へと向かう街道が描かれている。実際には山屋村から中屋敷を通り、阿弥陀寺門前を鳥越村に向かい、山を越えて里本庄村に入ったのであろう。あるいは、城の東南側の門から一番低くて幅が狭くなっている部分(現在の国道7号線とブルボン工場前を坪根への道路が通っている高速道のガード辺り)を山越えすれば、平地をミなくち村へと行ける。こうした道を本庄城から里本庄への早馬が駆けたのであろう。
山屋村から里本庄村に出る山道は1本だけ残っており、かじ(鍛冶?火事?)山の左にある青池の谷を進んで行くと里本庄村に出る。かじ山の右を進むと阿弥陀寺墓地を過ぎた辺りで山の勾配がきつくなり道が途絶える。しかし、この小山を越えると里本庄村からの道が開けている。しかし、この小山があるために馬に乗っては通れなかっただろう。
問題は前谷村の東に阿弥陀寺村があることだ。阿弥陀寺は明治2年(1869年)に火事になり、現在地に移転した。向かいの山裾の谷に寺屋敷の地名が残っている。この谷から裏山を越えると墓地がある。ではそれ以前にはこの寺屋敷から1km程度離れた地に阿弥陀寺があったのか?
(表紙写真は越後国瀬波郡絵図の村上ようがい)
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