2014/10/24 - 2014/10/26
3512位(同エリア5415件中)
jugiさん
今年のGWに突如マイブームの訪れた平家物語めぐりももう5回目。
今回、京都では清盛の娘にして高倉天皇妃建礼門院に、
奈良ではなんといっても南都焼討の重衡、そして保元の乱で敗死する藤原頼長の、般若寺でつながる二人に、
最終日吉野山は、義経記より義経千本桜やふたり静の義経主従に。
なんとなーくスポットを当てて思いを馳せる旅。
10月23日 夜行バス
10月24日 京都編1日目
☆10月25日 南都奈良編2日目
10月26日 吉野逃避行編3日目
☆旅にあたって読んだ本・追加☆
奥州藤原三代の栄華と没落 武光誠
義経 宮尾登美子
京都・観光文化時代MAP time trip map
奈良時代MAP time trip map
日本仏教史 末木文美士
式子有情 軒端の梅は我を忘るな 中奥英子
平清盛と平家のひとびと 井上辰雄
平家物語の旅 るるぶ別冊愛蔵版
吉村昭の平家物語 吉村昭
ちなみに基本の平家物語関連についてはコチラ☆
→http://4travel.jp/travelogue/10927270
→http://4travel.jp/travelogue/10937923
→http://4travel.jp/travelogue/10940764
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
近鉄奈良駅よりバスに乗って東大寺南大門前で下車。
朝8時くらいですが、すでにもう人がちらほら。
東大寺の開門は7時半なので、奈良をぎっちり回ろうとしたら朝から回れるのでおすすめです。東大寺 寺・神社・教会
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金剛力士像で有名な南大門。
一個修復中でした。東大寺 寺・神社・教会
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東大寺正面から。
東大寺 寺・神社・教会
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だいぶつさん。
平重衡(清盛の息子)の南都焼討のとき、大仏も頭が溶け落ちるほどの大打撃。
焼討のあと奈良の町は、「灰燼は山のごとく、余煙は黒雲の有り様」だったそうで。 -
戒壇堂。
聖武天皇が初めて鑑真より戒を授かり、建立したところ。
その頃、律令制の上では官許と得度を受けたうえで僧侶となれるんですが、奈良では僧になったら税が免除だったので、勝手に僧になっちゃう人たち(私度僧)が多くいた。
でも実は東大寺の行基も最初は私度僧だったそうですよ。東大寺 寺・神社・教会
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一度南大門まで戻り、バスで春日大社へ。
同じエリアにあるとはいえ、意外と遠いです。
奈良のスケール感てすごい。
京都の感覚で歩きとおそうと思うと意外と時間がかかります。春日大社 寺・神社・教会
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春日大社の手水舎。
鹿!
口から出てるから涎かと思いました…。
※口に咥えた竹筒みたいなものから水がでてます。春日大社 寺・神社・教会
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本殿に入る門は3つあって、それぞれ用途が違うそうです。
北側から
内侍門。女性用。今は一般の人用
清浄門。興福寺の僧侶用。今は神職用。
そして、一番南側の慶賀門は藤原氏専用。
藤原氏はいわば身内なので、お勝手口(えらい豪華な勝手口である)にあたる慶賀門を使う。
今でも、例大祭の際の勅使が藤原氏であれば慶賀門を使うそう。 -
春日大社の大杉。
春日権現記に記された頃若木、ということは樹齢700年くらい。
しれっと無表情で説明してくれた神職の方がイケメンすぎて半分くらいきいてなかった。\(^o^)/ -
めがうつろ2。
お買い上げして帰ったら、御神籤(加えてるやつ)英文だったー!
インターナショナルだ…。
※日本語版もあります。 -
東大寺は皇室の、興福寺は藤原氏の氏寺です。
その権力を背景に大衆という兵力を持っていた寺社勢力は、一つの勢力として政治にも食い込んでくるほどの力を持っていました。
当時南都の検断は、南都(寺社勢力)に権利が認められていた。
※検断とは、ざっくり警察みたいなもの。
それを清盛によって奪われ怒りムードのなか、清盛が「できるだけ手を出すな、ややられてもやり返すな」と言い含めて兵500を伴に使者を出したところ、60人くらい問答無用で首を斬られて猿沢池のほとりにさらされた。
その、猿沢池がコチラ。
ちなみにそれが引き金で清盛怒って息子の重衡を総大将に、南都焼討と呼ばれる戦いが起こります。 -
猿沢池を右後方に見て、方向転換すると、興福寺へ続く階段が見えます。
たぶん向かって左側の木の茂みあたりが、左府のもりなんだと思われるのですが、それを明記した看板などは見当たらず…(泣)
左府、とは苛烈な性格で悪左府とよばれた藤原頼長さんのこと。
崇徳上皇と組んで保元の乱を起こし、敗けて死んだ頼長さんです。
敗けて落ちた先の興福寺のこの茂みで追手から身を隠したという左府のもり。
ちなみに、敗けて自身も首に矢を受けながら奈良へ落ちる道の途中で、隠居した父(父は頼長を可愛がった挙句、跡継ぎを長男の忠通から頼長にしたいとめっちゃ贔屓してた)に会いに行ったところ、すげなく門前払い。
怒りのまま、奈良へ至り、般若野あたりで亡くなった。とされています。
そもそも保元の乱とは、皇室と藤原摂家と源氏と平氏それぞれのお家騒動から双方に分かれて戦った非常に爛れた戦いです。
まとめるとこう。
勝者 敗者
皇室 後白河天皇vs崇徳上皇
摂家 藤原忠通(兄)vs藤原頼長(弟)
源氏 源義朝(長男)vs源為義(父)源為朝(八男)
平氏 平清盛(甥)vs平忠正(叔父)
☆皇室の事情
崇徳上皇は系図上は鳥羽と待賢門院璋子の子。
だけど本当は鳥羽の子じゃなく、鳥羽の父白河上皇と鳥羽の妃待賢門院璋子との子供だという限りなく黒にちかいグレーな大人の事情がある。
鳥羽の天皇時代は父の白河上皇の院政時代。
その後いざ白河が死んでみれば今度は上皇となった鳥羽の院政が始まった。
鳥羽には待賢門院とは別に美福門院得子という妃がいて、間に生まれた子供がのちの近衛天皇になる。
崇徳と近衛は系図上では異母兄弟であるはずなのだが、近衛は崇徳の妃聖子の養子になっていて、近衛は崇徳にとって皇太子でもあり、皇太弟でもあった。
しかし崇徳から近衛への譲位が、皇太子への譲位ではなく皇太弟への譲位とされたことにより、崇徳は上皇となりながら院政をとることができなくなった云々。
簡単にまとめると、皇室の偉い人の女関係が色々ひどい。爛れておる。
☆藤原摂家の事情
忠通にはなかなか跡継ぎができなかったので、かわりに頼長を養子にしていたが、忠通に子供が生まれちゃう事件が発生。
当然忠通は弟より自分の子を跡継ぎにしたい。が、とりわけ頼長を可愛がっていた父は怒るよね。
これはもう争いの予感しかしない。 -
興福寺の五重塔。
ならまちを散策しているときにずっと見えていて、いい目印になりました(笑) -
一度奈良駅まで戻り、バスで般若寺へ。
こちらはコスモス寺で有名ですが、丁度タイミングよくコスモス花あかりという夜間参拝イベントをやっていました。(夜まで待てなかったけど) -
一眼レフ風(笑)
デジカメです。 -
コスモスだらけの庭をふらっと歩いていると、頼長様の供養塔が!
般若寺には、重衡ゆかりとして来ていたので、見つけてびっくり。
そう、上でも述べましたが、頼長は保元の乱で負けて奈良に落ちて、般若野あたりで死んだとされています。
頼長は、死のときの事情が事情なので(般若野のあたりに埋葬されたのを掘り返された)墓がどこだかいまいちわからんのですよね…。
京都の相国寺にやっぱり供養塔のようなものがあったと思うのですが、寺のHPにすら書かれていないという…不憫…(泣)
ここでこんなものに出会えるとは…。 -
そして重衡の供養塔。
重衡は一の谷戦いの時、乳母子の裏切りによって鎌倉方に生捕りにされ、暫く鎌倉で捕虜となります。
彼が斬首されるのは、壇ノ浦で平家が滅びた後のことでした。
重衡は南都焼討で大仏や寺を焼いた罪により、木津川で斬首の上、南都へ首を引き渡され、この般若寺の門に梟首されたのでした。
というわけでここ、般若寺は重衡とゆかりの深い寺なのです。 -
立派な門はここしか残っていませんが、こちらは本堂から見ると西側。
基本的に寺は南面なので、これが正門ではありえないと思われます。
ましてやこの辺りを通るのは京都から奈良へ至る奈良坂。
奈良の北の入り口に立つこの寺はきっと奈良の都の守護的な寺として作られて、時代が下って京都へ遷都したのちも奈良の守りとして在った寺なのでしょう。
往時はたぶんもっと大きなお寺だったのかなという印象。
(もっと大きい門だろうけど)こんな感じの門の下で重衡は号令して、南都を焼き、そして全てが終わったとき、首を斬られここでまた晒されたんですねぇー…。
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