2014/06/09 - 2014/06/09
921位(同エリア3770件中)
junemayさん
- junemayさんTOP
- 旅行記226冊
- クチコミ42件
- Q&A回答0件
- 168,671アクセス
- フォロワー41人
個人旅行は何度も経験済みですが、海外の一人旅は久々。友人からフランスのトゥールーズから1時間位の距離にあるロット川のクルーズに誘われたのをきっかけに、その前後にイタリア、スペインを旅しようと計画したのが今回のたび。どこを歩くかは余り深く考えないで、大雑把な計画と宿泊先だけを決めていざ出陣です。スーツケースをなるべく持たなくて良いよう、駅近の安いホテルにこだわりました。ガイドブックも必要な分だけコピーして、途中で捨てられるよう準備。衣類も最低限に抑えたつもりでしたが、旅行中毎日快晴に恵まれたため、結果的には無駄な衣類が随分と出ました。昼はともかく、夜一人でレストランに入る勇気がないため、簡易クッカーを購入。スーパーで購入した食料で自炊もしました。好きな場所に好きなだけいたいという希望が叶った1ヶ月のたびとなりました。
日程表
6月3日(火) 羽田→フランクフルト→ベネチア
6月4日(水) ベネチア
6月5日(木) ベネチア
6月6日(金) ベネチア→フレンツェ
6月7日(土) フィレンツェ→シエナ→サンジミニャーノ→フィレンツェ
6月8日(日) フィレンツェ
6月9日(月) フィレンツェ
6月10日(火) フィレンツェ→ルッカ→ピサ→ラスペチア
6月11日(水) ラスペチア→チンクエテッレ→ラスペチア→ポルトベーネレ→ラスペチア
6月12日(木) ラスペチア→サンレモ
6月13日(金) サンレモ→ベンティミッリヤ→サンレモ
6月14日(土) サンレモ→ニース→トゥールーズ
6月15日(日) トゥールーズ→アルビ→コルドシュルシエル→アルビ近郊
6月16日(月) アルビ近郊→カオール→船旅開始(Le Lot)
6月17日(火) 船中泊(Le Lot)
6月18日(水) 船中泊(Le Lot)
6月19日(木) 船中泊(Le Lot)
6月20日(金) 船中泊(Le Lot)
6月21日(土) ラロックデザルクス→フィジャック→ロカマドール
6月22日(日) ロカマドール→フィジャック→カオール
6月23日(月) カオール→トゥールーズ→フィゲレス
6月24日(火) フィゲレス→カダケス→フィゲレス
6月25日(水) フィゲレス→ファルサ→プボル→ジローナ→フィゲレス
6月26日(木) フィゲレス→バルセロナ
6月27日(金) バルセロナ
6月28日(土) バルセロナ→モンセラ→バルセロナ
6月29日(日) バルセロナ
6月30日(月) バルセロナ→フランクフルト→
7月1日(火) →羽田
ミケランジェロ広場、サン・ミニアート・アルモンテからのフィレンツェの極上の景色にすっかり心を奪われてしまった私は、別の場所からフィレンツェを眺めたいなと思い始めました。尾根伝いに行くことが出来れば、色々な方向からの町が望めるはず。果たして道はあるかな・・・地図を見ましたが、どうもそんな道はなさそうです。
その時、ベルヴェデーレ要塞という名前が目に飛び込んできました。ベルヴェデーレというのは、「景色の良い、眺めの良い」と言うような意味のはず。よし!決まった!ベルヴェデーレ要塞を目指そう。と言うわけで、私は次の目的地に向かって、山を降り始めました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
山を降りる途中で、サン・サルバトーレ・アル・モンテに寄ってみました。中は静寂そのもの。一人の男性が熱心に祈りを捧げていて、シャッター音さえ憚られる雰囲気。お祈りの邪魔をしてはと、ここではうろつきまわるのをやめ、扉をそっと閉めて出てきました。
-
サン・サルヴァドーレ・アル・モンテを降りると、ミケランジェロ広場に行く道と下る道しかありません。どうやら尾根伝いに行く道はなさそう。一旦城壁のあるところまで降りて、それからまた上っていかなくてはならないようです。
-
見納めになるかもしれないので、もう一度フィレンツェを眺めておきます。
-
ガリレオ通りの階段を下り、城壁に沿って今度は急な坂ベルヴェデーレ通りを上ります。めっちゃきつ〜い!
-
少し考えれば当たり前ですよね。ここはフレンツェの外なのだから、防衛上中の町がそう簡単に見えるわけないと。
でも、どこかで城壁が切れているかもしれないと、かすかな望みを抱いてドピーカンの過酷な道を進みます。 -
振り返ると、遠くに見えるのは、サン・ミニアート門の先にあるサン・ニッコロ門Porta S. Niccolòです。
サン・ニッコロ門は、アルノ川沿いにある城壁の始まりの地点にある門です。最近修復が終わったようです。ミケランジェロ広場からサン・ニッコロ門のほうに下る道を通るのも面白そうでしたね。 -
歩くこと15分。行けども行けども、殺風景な城壁が続いていたのですが、やっと写真の門から出てくる道コスタ・サン・ジョルジョにぶつかりました。
この門が次の門、サン・ジョルジョ門のようです。アーチの部分に、竜を退治するサン・ジョルジョの姿の浮き彫りがありました。
この先がベルヴェデーレ要塞の入り口です。
ところが・・・ -
が〜ん! 入り口の門は固く閉ざされておりました。
これは門の中の写真です。ベルヴェデーレ要塞はサン・ジョルジョ門に添うようにして1590年から1595年の間に建てられました。時はフェルディナンド1世の時代で、主にピッティ宮殿を守るために最適の場所に建設されたようです。
要塞の上に小さな建物があって、そこから見るフィレンツェの町は、ミケランジェロ広場とはかなり雰囲気が異なるはずだったんですが・・・
どうも、今は市が管理しているのですが、イヴェントや展示会が開催されるときにしか、中に入れないようなのです! -
せっかくきつい坂を上ってきたのに・・・あの見張り塔から町を眺められたらさぞかし素敵だろうに・・・と思ってみても、扉は開きません。
ここで、1週間前に会社を辞めてこちらにやってきました という一人旅の日本男子と遭遇。休憩しながらお互いの旅程を披露し、情報を交換し、不運を慰めあったので、まあいっか! -
ベルヴェデーレ要塞の脇をぐるっと回ると、ピッティ宮殿のボーボリ庭園に入ることが出来ます。写真は庭園のベルヴェデーレ口。ただし、庭園だけのチケットはなく、パラティーナ美術館+ 銀器美術館+磁器博物館+衣装博物館+現代美術館+ボーボリ庭園という一括チケットしか購入できません。
もう閉園まで1時間半しかありません!
きちんと見ようと思えば丸1日かかりそうなチケットなので、残念だけれどパス。次回に回します。
この辺りはかなり標高があるはずなので、町の景色は全く見えませんでした。うーん、本当に残念! -
こうして、フィレンツェで残された貴重な時間は消えていったのでした。
今度はベルヴェデーレ要塞が開いているときに、是非再訪したいと思っています。今日は暑すぎたけれど、のんびり、ぶらぶらと歩くには、人も少なくて、とても良いところですよ。 -
先ほどのサン・ジョルジョ門からコスタ・サン・ジョルジョ通りを下ります。両側は城壁なのか、単なる高い塀なのかわかりませんが、視界を思いっきりさえぎっています。
-
途中にあったロベルト・カプッチ博物館 Museo della Fondazione Roberto Capucci。イタリアを代表する有名なデザイナーの方の服飾関係の博物館のようでした。
-
博物館には、ヴィラ・バルディーニという別荘も含まれているようです。こちらからなら、町の良い眺めが得られたかもしれません。しかし、服飾関係の博物館には食指が動きませんでした。
-
今度は、無常なほど、高い建物が続いて、やっぱり町は見えません。哀しいかな。どんどん下ります・・・
-
また、フレスコの描かれた家がありました。上の段の丸の中には人物像、下の段の丸の中にはライオンが描かれていました。これも、Tondoでしょうか?
2016年7月追記
この家、1610年にガリレオ・ガリレイが数学の教授として招かれて、フィレンツェにやってきた時に住んでいた家だそうです。 -
結局、一度も「アングルを変えたフィレンツェの町」を眺めるという望みは叶うことなく、下まで降りてきてしまいました。
まあ町歩きでは良くあることですけれどね。上ったり下りたりが苦手な方にはお勧めできません。 -
ベネチアでは、中世の仮面をつけた人々の絵葉書が売られていましたが、フィレンツェの絵葉書はこちら・・・なんだか、皆、服がボロボロだったり、擦り切れたりしていますね。庶民の暮らしぶりは、こんなものだったのでしょうか?
-
平日のヴェッキオ橋は、両側の宝石店もそろって開店。びっくりするほどの人通りがあります。
-
神父さま3人が町を歩いているのを見かけました。黒い、長い衣服は大変暑そうですね。
-
橋の上からヴァーサリの回廊を眺めます。
あっ 右手の奥に、ここからも、サン・ニッコロ門が見えていましたね。 -
ヴェッキオ橋を渡り終えると、すぐさま、またこういった裏道に入ります。町歩きの一番の楽しみは、裏通り、横丁、路地に転がっています。
-
何か曰くありげな裏道のオリーブの木。説明書きがイタリア語なので、残念ながらどんな事情かはわかりません。
-
アーチの上は、廊下なのでしょうか?それとも部屋?あの窓が開かれることはあるのでしょうか?想像するだけで楽しい裏通りでした。
-
シニョリーア広場に出ました。ここで二つ見ておかなければならないものがあります。一つはロッジア・ディ・ランツィLoggia dei Lanziの彫刻、そして、もう一つは、修道士サヴォナローラが火あぶりの刑に処せられた場所です。
写真は余りにも有名な、ペルセウスが切り取ったメドゥーサの首を掲げている場面。こうやって写すと、首から本当に血が滴り落ちているようで、迫力があります。 -
ロッジア・ディ・ランツィのランツィとは、ドイツ人傭兵ランツクネヒトLandsknechtが訛ったもので、彼らがこの場所を使用したことが由来とされています。
写真はポリュクセネーの陵辱The Rape of Polyxena。少しおぞましい名前ですが、ギリシャ神話の素養がないと、楽しめないですね。この彫像にはこんな話がありました。
ポリュクセネーはトロイの王女。トロイア戦争のとき、彼女の兄弟トローイロスは彼女と一緒に泉に水を汲みに行ったときにギリシャの英雄アキレスに殺されます。アキレスは次第に美しいポリュクセネーに心を惹かれるようになります。彼女はアキレスから彼の弱点(アキレス腱)を聞き出し、それを聞いた彼女のほかの兄弟がアキレスのかかとに毒矢を打ち込み、彼を殺します。そして、今度はそれを聞いたアキレスの息子ネオプトレモスによって、ポリュクセネーはアキレスの墓の前で陵辱され、喉を切り裂かれて殺されるのです。 -
写真は、パトロクロスを抱きかかえるメネラウス。二人は、ホメーロスによって作られたと伝えられている長編叙事詩イーリアスの中に登場する人物です。
この彫像は、1世紀後半にローマで作られましたが、紀元前3世紀ヘレニズム時代のペルガモで作られた作品のコピーだと言われています。1570年頃ローマ近郊で発見された後、コジモ1世が教皇ピウス5世の同意を得て購入。フレンツェに運ばれた後はヴェッキオ橋南端に設置されていました。何度か修復された後、1838年に今の場所に設置されました。 -
こちらは、ケンタウロス・ネッソスを打つヘラクレス。旅の途中、川を渡ろうとしていたヘラクレスが、川の渡しの番人をしていたケンタウロスのネッソスに妻デイアネイラを託すと、ネッソスが彼女をさらおうとします。そこでヘラクレスは、彼を打ち、その後毒矢で彼を殺すという神話からとった場面だと思います。
ギリシャ神話の登場人物は、皆女好き。神様というよりはまさに人間そのものといった行いが多く、読み始めると女性を巡る争いの多いことに驚かされます。 -
サビニの女たちの略奪はマニエリスム時代の作品。これもかなり激しいタイトルですが、こちらにもこんなストーリーが隠されていました。
ローマ建国同時は女性の数が少なく、子孫繁栄のために若い女性が必要だったローマ人は、勇敢な部族であったサビニ人の未婚女性を略奪し、拉致してローマに連れ帰り、妻にしました。ローマ繁栄の元はサビニ人女性だったのですね。考えてみればひどい話ですが、子は鎹。後にサビニ人は女性達を連れ戻すためにローマと戦争を起こしますが、沢山の子供をすでに生んでいたサビニ人の女性達は子供達と引き離されることを拒み、戦争を止めるよう身をもって訴えたそうです。こうして和解したローマはサビニ人の国を合併、結果的にローマ帝国の領土も拡張されることになります。 -
長く突き出した腕が今にも動き出しそうな躍動感を感じます。角度によっても、全く異なったイメージになりますね。
-
入り口付近の派手な彫像に対し、殆ど注目されず、話題にも上らない奥の彫像たちにも、この際スポットを当ててやりたいと思いましたが、なかなか資料が見つかりませんでした。
6体の女性像は、トラヤヌスやハドリアヌスの時代(2世紀)にローマで作られたようです。その後ローマで発掘されました。1584年にはローマのメディチ家別荘に置かれており、その後フィレンツェに移送されました。1789年から現在の場所に設置されています。
この人物は、名前はわかりませんが、サビニ人の女性と呼ばれています。サビニの女達の略奪で、ローマに連れてこられた女性なのでしょうか? -
こちらも、サビニ人としかわかっていません。腕の一部が損傷していますね。
-
ローマ人女性マルキアナMarciana です。本名ウルピア・マルキアナは第13代皇帝トラヤヌスの皇姉に当たります。
-
ローマ人女性サローニア・マティディアSalonia Matidiaです。上記ウルピア・マルキアナの娘で、子供がいなかった弟のトラヤヌス帝にとっては、血筋を受け継ぐ貴重な存在となりました。
-
同じくローマ人女性アグリッピナ・メノール(小アグリッピナ)Agrippina Minor。小アグリッピナとは、正式の名前はユリア・アグリッピナ。カリグラ帝の妹であり、クラウディウス帝の妻。そして有名なネロ帝の母でもあります。
-
三越のライオンではなく、フィレンツェ、メディチ家のライオンです。こちらのペアのライオンは、やはり1598年以来ローマのメディチ家の別荘にあったものを、1789年に現在の場所に移したものです。
こちらは、ファンチェッリの「古代ライオン」と呼ばれています。おそらく2世紀頃の作品で、ジョヴァンリ・ファンチェッリによって再加工されたと言われています。 -
向かって左側のこのライオンは、「ヴァッカのライオン」と呼ばれています。1590年代に「古代ライオン」を見た彫刻家フラミニオ・ヴァッカによって作られ、その署名が残っています。両方とも大理石製。
現在まで、数限りなくコピーされ、模倣されたと言う点では、トラファルガー広場のライオン(三越の親分)と並んで、世界一有名なライオンかもしれません。 -
ロッジアを出て、今度はサヴォナローラ絞首刑の後、火あぶりにされたという場所へ。
こんなに小さな、マンホール位の大きさの銘板しか残っていません。遺骨はアルノ川に捨てられたそうです。 -
場所は、ちょうど顔を上げるとこの位置。ネプチューンの泉のそばでした。
-
ネプチューンの泉のそばには、コジモ1世の騎馬像も。
何事もないように建っていますが、それぞれ、色々な思惑で、沢山の人々が、様々なものを作っていったのでしょう。本当に奥が深いフィレンツェです。 -
沢山歩いたせいでしょうか、この時間にはもう疲れ果てておりました。ヴェッキオ宮に入る気力も萎えておりました。
この町にはまた戻ってくる運命を感じますので、ヴェッキオ宮、ピッティ宮はそのときにとっておくことにしましょう。 -
最後に見たかったところに向かいます。道の向こうに、ドゥオモが顔を現しました。何度見ても、衝撃的です。
-
何度も何度もしつこくて済みません。これが最後のドゥオモです。こちらも、とうとう中に入る時間がありませんでした。
-
最後にやって来たのは、こちら、サンティッシマ・アヌンツィアータ広場。舌を噛みそうな長い名前の広場です。広場の真ん中にある騎馬像は、もう何度も登場したフェルディナンド1世(コジモ大公の息子で、フランチェスコ1世の弟)です。ジャンボロ−ニャGiambolognaによって作られ、後にピエトロ・タッカPietro Taccaによって完成を見ました。
-
この広場が一番ルネッサンスの雰囲気を湛えていて、私は大好き。特に、騎馬像から左に広がるポルティコのある長屋のような建物が素晴らしいです。マリアの下僕信心会のロッジャと書いてあった資料もありましたが、正式名称はわかりませんでした。
-
本当は、双子のような右側の建物「捨て子養育院」も、ブルネレスキのファサードで有名な、素晴らしい建物なのですが、今はご覧の通り!
写したくなかったけれど、仕方ありません。Tondoの中のおしめぐるぐる巻き赤ちゃんのテラコッタも、今は見ることが叶いません。 -
そして、一番奥にあるのが、サンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂です。こちらもポルティコのある、控えめで上品な教会です。今日は、この教会にあるフレスコ画で〆ようと思ったのです。
聖堂は1250年の創設ですが、15世紀には、ミケロッツォにより再建されています。ファサードを飾るポルティコはジョヴァンニ・バッティスタ・カッチーニとアントニオ・ダ・サンガッロの設計。特にサンガッロの作ったと言われる中央部分のアーチの繊細で美しいこと! -
今日はとことんついていないようで、聖堂ではミサの真っ最中でした。中には入れません。
こちらは、入り口のそばにある誓いの回廊Chiostro dei Voti。幸いなことに、ここに沢山のフレスコ画がありました。 -
こちらは、アレッソ・バルドヴィネッティの生誕nativitàです。1460年〜1462年作。彼がこの絵の、フレスコ=乾かないうちに描かなければならない で描いた部分はほんのわずかで、殆どの部分はセッコ=乾いてから 描いたようです。背景はトスカーナの典型的な風景です。
この回廊にある絵は、多かれ少なかれ、長年霧や雨の影響を受けてきたため、現在ではかなり色が剥げ落ちており、下書きが見えている部分もあると聞きました。 -
コジモ・ロッセッリの聖フィリッポ・ベニッツィの生涯の一場面を描いたフレスコです。1475年作成。彼は、聖フィリッポの生涯を数枚ここで描いています。
-
アンドレア・デル・サルトの初期の作品がありました。こちらも聖フィリッポ・ベニッツィの生涯を描いたものとされています。これは、霊フィリッポ ハンセン病を癒す で1510年の作品。
聖フィリッポの生涯については、すでにコジモ・ロッセッリによって描かれていましたが、サルトは1509年から1510年に、さらに5つの場面を追加しました。
フレスコ画の左側には、サルトの胸像が飾られていますね。 -
こちらもアンドレア・デル・サルートの初期の作品ギャンブラーを戒める Punishment of the Gamblers。同じく1510年作成。
-
アンドレア・デル・サルート3枚目は、liberazione di un'indemoniata。日本語にうまく訳せません。同じく1510年作。
-
アンドレア・デル・サルト4枚目は、聖フィリッポの死と子の復活 Morte di san Filippo Benizi e resurrezione di un fanciullo です。こちらも1510年です。
-
アンドレア・デル・サルト最後は、聖フィリッポ・ベニッツィの遺物による奇跡の治癒Miraculous Cure by Relics of Filippo Benizziという作品です。1510年。悪魔に取り付かれた少女が復活すると言うシーンなので、聖フィリッポという方は元祖エクソシストのような方だったのでしょうか?
-
最後がロッソ・フィオレンティーノの聖母被昇天Assumption of the Virginです。1517年。彼は典型的なマニエリスムの画家で、フランスのフランソワ1世に招かれ、フォンテーヌブロー城に王の生涯のフレスコ画を描いたことで有名になりました。後にロッソの影響を受けたフォンテーヌブロー派が誕生しています。
他にもアンドレア・デル・サルトの愛弟子ヤコポ・ダ・ポントルモJacopo da Pontormoの訪問Visitazioneを見たはずなのですが、何故か写真が残っていません。残念です。 -
回廊を何度も見て回りましたが、ミサは待てど暮らせど終わりませんでした。扉の隙間から覗くと、聖堂の中は大変暗いのですが、不思議な色で満ちていました。なんと形容したらよいのかわかりませんが、今までみた教会のどれとも違っていたように見えました。
何時になるかわからない、二度目のフィレンツェ訪問が待ち遠しくなりました。 -
教会から出てくると、サンティッシモ・アヌンツィアータ広場の8割が日陰になっていました。三方ポルティコのある建物に囲まれ、残る一方がご覧のように、ドゥオモへと延びるセルヴィ通りになっている広場が、ゆっくりと暗くなっていく時間もまた格別です。
右側の建物はグリフォニ・ ブディーニ・ガッタイ宮Palazzo Grifoni。なんでも、館の女主人が亡くなってからと言うもの、閉めるとガタガタ家中のものが勝手に揺れ動いたり、落ちたり、割れたりするので、開きっぱなしの窓があるという話で話題を提供してくれている館です。 -
はーい。長い一日でした。今日の疲れは今日のうちに手当てをしなくっちゃ
というわけで、本当の〆は、またまたCarabeでした。
本日万歩計は21000歩を越えました。明日は移動日。早く寝なくっちゃと言うわけで6月9日ようやくお開きです。
この続きは、イタリア、フランス、スペイン勝手気ままな町歩きのたび その26 ルッカ(1)で。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
junemayさんの関連旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
59