2014/06/10 - 2014/06/10
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junemayさん
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個人旅行は何度も経験済みですが、海外の一人旅は久々。友人からフランスのトゥールーズから1時間位の距離にあるロット川のクルーズに誘われたのをきっかけに、その前後にイタリア、スペインを旅しようと計画したのが今回のたび。どこを歩くかは余り深く考えないで、大雑把な計画と宿泊先だけを決めていざ出陣です。スーツケースをなるべく持たなくて良いよう、駅近の安いホテルにこだわりました。ガイドブックも必要な分だけコピーして、途中で捨てられるよう準備。衣類も最低限に抑えたつもりでしたが、旅行中毎日快晴に恵まれたため、結果的には無駄な衣類が随分と出ました。昼はともかく、夜一人でレストランに入る勇気がないため、簡易クッカーを購入。スーパーで購入した食料で自炊もしました。好きな場所に好きなだけいたいという希望が叶った1ヶ月のたびとなりました。
日程表
6月3日(火) 羽田→フランクフルト→ベネチア
6月4日(水) ベネチア
6月5日(木) ベネチア
6月6日(金) ベネチア→フレンツェ
6月7日(土) フィレンツェ→シエナ→サンジミニャーノ→フィレンツェ
6月8日(日) フィレンツェ
6月9日(月) フィレンツェ
6月10日(火) フィレンツェ→ルッカ→ピサ→ラスペチア
6月11日(水) ラスペチア→チンクエテッレ→ラスペチア→ポルトベーネレ→ラスペチア
6月12日(木) ラスペチア→サンレモ
6月13日(金) サンレモ→ベンティミッリヤ→サンレモ
6月14日(土) サンレモ→ニース→トゥールーズ
6月15日(日) トゥールーズ→アルビ→コルドシュルシエル→アルビ近郊
6月16日(月) アルビ近郊→カオール→船旅開始(Le Lot)
6月17日(火) 船中泊(Le Lot)
6月18日(水) 船中泊(Le Lot)
6月19日(木) 船中泊(Le Lot)
6月20日(金) 船中泊(Le Lot)
6月21日(土) ラロックデザルクス→フィジャック→ロカマドール
6月22日(日) ロカマドール→フィジャック→カオール
6月23日(月) カオール→トゥールーズ→フィゲレス
6月24日(火) フィゲレス→カダケス→フィゲレス
6月25日(水) フィゲレス→ファルサ→プボル→ジローナ→フィゲレス
6月26日(木) フィゲレス→バルセロナ
6月27日(金) バルセロナ
6月28日(土) バルセロナ→モンセラ→バルセロナ
6月29日(日) バルセロナ
6月30日(月) バルセロナ→フランクフルト→
7月1日(火) →羽田
町歩きには少々暑いトスカーナですが、雨が降らないだけましと考えなくちゃ。イタリアは、中世の時代、それぞれが独立国だっただけあって、町ごとに印象が全く異なり、教会も、家も皆とても個性的。ルッカは、これまで行ったヴェネチアともフィレンツェともシエナとも違っていて、町自体がそんなに大きくなくて、うろつくのには最高の町でした。さあ、続き、続き・・・
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ルッカのドゥオモ、サン・マルティーノ聖堂に着いたときから気になっていた、ドゥオモ前広場に隣接する教会。とても古そうですし、クーポラがのる四角形のドームはあまり見たことがありません。でも、地球の○きかたには紹介すらなく、名前だけしか載っていないのです。
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教会の名前は、サンティ・ジョヴァンニ・エ・レパラータ教会chiesa dei santi giovanni e reparata。聖ジョヴァンニは、日本語に直すと聖ヨハネ。聖ヨハネは洗礼者ヨハネと福音記者(エバンジェリスタ)ヨハネと二人いらっしゃいますが、この聖ジョヴァンニは福音記者の方。聖レパラータはご存知でしょうか?パレスティナ生まれで、デキウス帝から迫害を受け、11歳で斬首された殉教者です。フィレンツェのドゥオモ サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は、元々あった聖レパラータ教会の上に建てられました。
ルッカのこの古い教会は、このお二人に捧げられた教会でした。
歴史は古く、ローマ人入植地の跡に建てられたのは5世紀のこと。19世紀の初め、当時ルッカを支配していたナポレオンにより、古い共和国の遺物と断定され、教会は家具や調度品を全て剥奪されてしまいましたが、1828年にまた元に戻されて、礼拝が可能となりました。 -
こんな立て札発見。
どうやら、地下に、ローマ時代の遺跡があるようです。ルッカは、古代ローマがイタリアを統一する過程において、BC180年頃にローマの植民都市になっています。このような遺跡は、町中至るところに見ることが出来るのではないかなと、そのときは思いました。 -
ファサードは16世紀、本体部分は12世紀のサンティ・ジョヴァンニ・エ・レパラータ教会です。
そのため、ロマネスク時代の建物でありながら、ファサードにはその面影がないんですね。中央のアーチの下には、グイデットの作品とされる12使徒と二人の天使に囲まれたマリア様の像が彫られています。 -
興味をそそられたので、案内板を覗きに行ってきました。教会というよりは遺跡案内図ですね。床のモザイクや、残っている壁画が割合面白そうなので、時間があったらまた戻ってくることにしました。
後日調べたら、最近の発掘調査で、少なくとも、遺跡が5層になっていることがわかったそうです。
今建っている12世紀の教会の下には、700年頃までルッカのドゥオモだったロンバルディア教会、その下には、4、5世紀に建てられた初期キリスト教の教会、その下には、ローマの寺院、その下にはローマの住宅。それが全て発掘できるのだから、石の文化って凄いですね。 -
町のメインストリートに出ました。この広場は、ジッリオ広場。正面に見える建物は、ジッリオ劇場teatro giglioで、イタリアで最も古い劇場のひとつです。
1805年のナポレオン支配下の時代、ボナパルトは、妹のアンナ・エリーザにルッカを与え、その後ルッカは1847年まで、パルマのブルボン家の支配下にありました。音楽については全く詳しくないのですが、パガニーニPaganiniというオペレッタは、アンナ・エリーザと名ヴァイオリニスト ニコロ・パガニーニとの恋を描いたオペレッタで、ルッカが舞台になっているそうです。
ルッカのオペラの歴史は古く、17世紀初頭から、貴族達の間で流行していたようです。現在の劇場は、1817年から1819年にかけて建築家のジョヴァン二・ラザリー二が建設しました。ジッリオとはイタリア語で百合の意味。これはブルボン家の紋章からとったそうです。 -
ジッリオ劇場から北へ少し歩くと、今度はナポレオーネ広場に出ました。ナポレオンが、北イタリアの小さな町でこんなに存在感があろうとは、思っても見ませんでした。
ヨーロッパの町に行くと、旧市街のどこかに必ずある、移動式のメリーゴーラウンドがここにもありました。 -
ナポレオーネ広場に建つのは、ルッカのドゥカーレ宮殿です。かつてアンナ・エリーザが君臨していた建物で、現在はルッカの県庁となっています。
1316年から1328年までルッカを支配した、カストルッチョ・カストラカーニが、ジョットに設計・建築を依頼し、町の面積の5分の1を占めたという巨大なオーガスタ要塞は、彼の死後に起こった暴動により、1370年に破壊されてしまいました。要塞は一部修復して、その後パオロ・グイニージの住居として使われた時代もありましたが、1429年、跡地に市行政府が建てられ、それ以来700 年近くにわたり、市の政治や行政の中心であり続けています。 -
ナポレオーネ広場の前の道ベッケリア通りを進みます。このあたりは、人通りが多く、町の中心地であるようです。
目の前に、白い鐘楼が見えてきました。 -
ひゃ〜
ここで、思わず立ち止まってしまいました。
鐘楼から想像していたものとは全く違っていて、なんと形容したらよいかわからないような、大きなファサードがついた教会だったからです。
余談ですが、この鐘楼、昔はもっと高かったそうですが、1364年から1368年の間に、ピサの提督(ドッジ)によって、低くさせられたそうです。鐘の音がピサまで聞こえたからというのがその理由だとか。 -
この教会、ファサードと本体との一体感がありません。ファサードだけが、借り物みたいに見えます。余りに高さが異なるせいでしょうか?
また、裏にファサードのてっぺんまで上って行けそうな、危なっかしい階段があるのを見るのも初めてです。
おまけに、ファサードのてっぺんには誰かいます!それも三人! -
ファサードの上にいらっしゃる方のお顔を早く見たいものだと、近づいて行くと、物思いにふける方の銅像がありました。
教会に背を向けて、固くこぶしを握り締めているこの方の名前は、フランチェスコ・ブルラマッキ。ルッカの豊かな商人の家に生まれたブルラマッキは、トスカーナ州の各地でメディチ家の覇権政治に対する反乱を起こし、連邦国家を建設しようとした罪により、1548 年に斬首された方だそうです。
19世紀の半ばになって、イタリアの連邦主義者らが彼の業績が再評価したことがきっかけとなり、1859年トスカーナ州政府により、銅像が建てられたとのことです。
生まれた時代が早すぎた人でしたね。 -
さて、ファサードの正面に回ってみました。こちらが、ルッカの人々の信仰の中心であるサン・ミケーレ・イン・フォロ教会La chiesa di San Michele in Foroです。
名前は、ローマの公共市場の上に建てられた、大天使聖ミカエルに捧げる教会という意味です。
ファサードがあまりにも高い理由は、まだ完成していないから でした。
12世紀に工事が始まりましたが、その後200年たっても完成には至らず、建設費用が尽きたところで建設が中止されたことによります。
聖ミカエル(聖ミケーレ)は、フランスのモン・サン・ミッシェルで見た聖ミッシェルと同一人物ですが、全くイメージが異なります。手に槍を持ち、竜を退治している有名なシーンが再現されていますが、身の丈5頭身位で、何故かユーモアさえ感じてしまったのは、私だけでしょうか?
左右に、二人の天使が角笛を吹いていますが、この二人と比べても、余りにもでかい! -
驚いたのは、ファサードに全部で4段あるロッジアに並ぶ美しいコリント式列柱の数々!全部で44本。柱頭の飾りのデザインまで含めると、同じ柱は二つとありません。柱頭の上、各アーチの付け根、アカンサス辺りに並ぶ様々な顔、顔、顔・・・人間や動物や、想像上の生物の顔も全て違うもの。そして、アーチの上に施された、これも色々な動物がはめ込まれた象嵌細工。
建設費用が底をついたのも頷けます。いやあ凝りすぎです。
口をぽかーんと開けて、暫く見入ってしまいました。 -
一番下の中央アーチ付近の拡大です。
丸い部分にはめ込まれた赤い大理石、素晴らしいですね。大理石が採れる山カッラーラは、ルッカからすぐの距離だそうですよ。その下の彫刻も面白いですよ。二つの尻尾を持つ人魚とケンタウロスのような動物、象に乗っかっているトラ?、翼を持つ竜等々 見えるでしょうか? -
教会の中に入るとすぐに、ああ、これ!とすぐにわかる、アンドレア・デッラ・ロッビアによる聖母子像がありました。
白い施釉テラコッタが素晴らしく綺麗です。1440年〜1460年にかけて作成。 -
上記の作品は、このように大きな祈念碑の一部なのですが、アンドレア・デッラ・ロッビア以外の部分については、殆ど書かれているものが見当たりませんでした。不公平ですよね。
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こちらは、フィリピーノ・リッピの1483年の作品4人の聖人達Pala Magriniです。男性3人のマントの色に圧倒されます。
左から、聖ロッコ、聖セバスティアーノ、聖ジローラモ、そして聖エレーナ皇后というメンバーです。聖ロッコは、ベストの治癒に貢献した守護聖人で、犬に自分の足を食べさせた人と言われています。聖セバスティアーノは、弓矢で射られ殉教した元ローマ軍の兵士。聖ジローラモは聖書をラテン語に訳した人で、ライオンのとげを抜いてあげたと言う逸話が残っています。
そして、聖エレーナ皇后は、コンスタンティヌス帝の母で、真の十字架を発見した人と言われています。
改めて、絵を見ると、誰が誰だかよくわかりますね。 -
ファサードの装飾から想像していたのとは裏腹に、教会内部はいたって簡素で、落ち着いた雰囲気でした。
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黄金色をした天使達が集う礼拝堂がありました。聖ミケーレに仕える天使たちでしょうか?
いつもなら1枚は撮る、教会内部全体を写した写真も見当たりませんでした。
内部よりやはり気になるのはファサード・・・ -
う〜ん。やっぱり凄い!
再び外に出て、ファサードを首が痛くなるまで見つめていました。 -
サン・ミケーレ・イン・フォロの先を右に曲がって、左側廊沿いの道を進みます。
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サン・ミケーレをぐるりと一周してみました。後陣外部には、やはり先ほど見たドゥオモと同じようなロッジアが作られていました。ファサードと後陣外部をロンバルド・ロマネスク様式由来の列柱装飾ロッジアとするのは、ピサに代表される建築様式のようです。
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さあ次はどこに行きましょうか? 方向を北に変えて、狭い旧市街の道を歩きます。「地球の○きかた」の地図に載っていた、「中世の家」というのが、確かこの辺りのはずなのだけれど、見つからない・・・
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旧市街には教会が沢山あります。こちらはサン・サルバトーレ教会 Chiesa di San Salvatore。少なくとも1009年には存在していたと言う記録が残っています。12世紀に再建。右側のアーチの下に、ビディウノBidiunoの手によるとされる、聖ニコラスのレリーフが残っています。ドゥオモの次に訪れたサンティ・ジョヴァンニ・エ・レパラータ教会同様、ナポレオン時代にお上の弾圧を受け、殆どの調度品を没収され、深刻な影響を受けたそうです。
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ここからは、チェザーレ・バッティスティ通りを行きます。
玄関の扉の上の紋章、上のバルコニーを支える柱?が全て重厚感ありますね。 -
ご覧の通り、道幅はとても狭いです。両側に4階、5階建ての建物が並ぶと、地面までは日の光が差し込みません。
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扉の上に、派手なレリーフがあるこちらは、Dumus Romana Lucca という博物館のようです。小さな博物館ですが、ローマ時代に始まるルッカの歴史が辿れるようです。
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道の向こうにまた、鐘楼が見えてきました。サン・フィレディアーノ聖堂の鐘楼です。サン・フレディアーノ聖堂は、北側の城壁のそばのはずですから、これで城壁の南側から北側まで歩いたことになります。
ルッカの城壁は卵型をしており、南北約1km、東西約1.5km位でしょうか? -
鐘楼は何世紀にも渡って積み上げられてきたようで、素材により、色も形状も異なっています。中方立てのある窓は13世紀頃に付け加えられたそうです。下から順に、窓がニ連立、三連立、四連立になっているところが面白いですね。
この辺りは、現在の城壁が出来る前は、町の外にあったため、塔は防衛拠点としても使用されてきました。 -
鐘楼の付け根のところに、小さな祠がありました。祭られているのは、マリア様ではないようですが、どなたかな?
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あれれ?通常、教会は、西を向いて建てられる事が多いのですが、西の部分は後陣でした。珍しいことに、東向きなんですねえ。
サン・フレディアーノの後陣も、やはり、ピサ様式の列柱装飾ロッジアです。 -
サン・フレディアーノ聖堂は、685年にはすでに歴史に登場しています。その頃ここには、3人の聖人 聖ステパノ、聖ヴィンチェンツォ、聖ロレンツォ、そして、ルッカを560年から588年まで治めた司教フィレディアーノに捧げられた教会があったことが発掘調査で明らかになりました。
そして8世紀の終わりには、聖フレディアーノの亡骸を納めたクリプト(地下聖堂)が作られていました。
さてファサード前の広場にやってきました。今まで見たことのないファサードで、内部も是非見たかったのですが、残念ながら12時から15時までの間は参観できないようで、閉まっていました。15時まではとても待てないし、あきらめるほかありません。 -
現在のファサードは、1112年から1147年の間に典型的なローマ様式で建設されました。そして、13世紀から14世紀にかけて、ファサードに上部を付け足して、ベルリニエロ・ベルリニエリBerlinghiero Berlinghieriによるものとされる巨大な黄金のモザイク画が施されました。モザイクはビザンティン様式で、キリストの昇天と12使徒が描かれています。
この画家については、変わった名前を含めてわかっていない部分が多いようです。彼の名前は、ピサとの5年間戦争終結後の1228年3月に、平和を誓ったルッカの住民名簿の中に出てきますが、その原文書は19世紀半ばに行方がわからなくなっており、今日では17世紀に作られた不完全な複製しか残っていません。 -
長いお昼休みがあるとは知らず、はるばるやって来たのに、残念でした。サン・フレディアーノ聖堂から、道を南東にとります。ルッカでは、レンタサイクルが盛んらしく、町の至るところで自転車をみかけます。旅行者の利用も多いようですが、この狭さであれば、徒歩で十分です。
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さて、テレビのふれあい○歩きで、一番印象的だったアンフィテアトロ広場が近づいてきました。サン・フレディアーノ聖堂からは徒歩5分の距離です。
長くなりましたので、この続きは、イタリア、フランス、スペイン勝手気ままな町歩きのたび その28 ルッカ(3)で。
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