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功徳山当信寺(とうしんじ、宮城県白石市本町)は正式には「功徳山泰陽院当信寺」と称し、慶長2年(1597)青蓮社良益上人によって開山された浄土宗の寺院を散歩しました。<br /><br />当時の白石は会津城主蒲生氏の支配下にありましたが、伊達政宗重臣である片倉小十郎景綱(かたくら・こじゅうろう・かげつな、1557~1615)が入城後、城下町の整備区画事業に伴い慶長9年(1604)に現在地に移り片倉氏重臣の小片丹波仲知により創建されます。<br /><br />明暦2年(1656)二代当主重長(しげなが、1585~1659)より五百壱文の知行を拝受し、領内四ヶ所寺一の寺格を持つに至ります。<br /><br />安永3年(1774)類焼に遭い、本堂・地蔵堂などすべてを焼失しますが、天保元年(1830)、片倉家ニ代目当主重長の後室である真田阿梅(さなだ・おうめ)百五十回忌を仮堂で営み、十九世智山上人は本堂再建に取り掛かり、翌天保2年に吉見清八郎を作事役として建立して現在に至ります。<br /><br />尚 山号「泰陽院」とは片倉氏二代の重長の後室の真田幸村娘の阿梅の方の法名である「泰陽院殿松源壽清大姉」の菩提寺となったことに由来します。<br /><br /><br />2023年9月20日追記<br /><br />現地入手のパンフレットには下記の通り遠隔が紹介されています。<br /><br /><br />『 功徳山  当 信 寺  沿革<br /><br />当信寺は法然上人によって開かれた浄土宗の寺院である。<br /><br />正しくは、功徳山 泰陽院 当信寺と称し、慶長2年(1597)青蓮社良益上人によって開山された。<br /><br />当時白石は蒲生氏の領地であったが、片倉小十郎が城主となるや、城下町の整備区画にともない、慶長9年現在地に移り、片倉家臣、小片丹波仲知が寺院を建立した。<br /><br />山号の泰陽山とは、片倉家二代、重長公の後室、真田幸村娘阿梅の方、泰陽院殿松源寿清大姉の菩提寺になったことに由来する。<br /><br />明暦2年、重長公より五百壱文の知行を拝受し、領内4ヶ寺の一寺格をもつ寺院となった。<br /><br />安永3年(1774)類焼に遭い、本堂、地蔵堂などすべて焼失してしまったが、天保元年(1830)真田阿梅百五十回忌を仮堂で営み、十九世智山上人はこの用材を受けて本堂再建に取りかかり、天保2年、吉見清八郎を作事役とし建立し現在に至っている。』<br /><br /><br /><br />また同パンフレットには下記のように戦国大名であった真田家に関する紹介されています。<br /><br />『 真田家と当信寺<br /><br />元和元年(1615)大坂夏の陣で豊臣家は滅びるが、真田幸村は討ち死にする覚悟を決め、敵将片倉小十郎重長に子供達の養育を託した。遺児達は白石城の二の丸で密かに養育され、阿梅は重長の妻病死後、その後室となり78才で没す。<br /><br />大八は片倉士郎兵衛守信と名のり、伊達政宗公に仕える三百石武将となり59才で没す。<br /><br />慶安9年(1648)阿梅45才の時、片倉家が真田幸村の菩提寺として森合(白石市郊外)に月心院を開山した。しかし。その翌年阿梅の母大谷氏が亡くなり、京都の名刹竜安寺に葬られた事を知った阿梅が、両親の位牌を当信寺に安置したと寺の記録にある。その位牌は安永3年(1774)の白石大火で焼失したと思われる。東日本大震災での本堂・庫りの修復を機に、2013年その位牌を再現し阿梅の願いを叶えることとした。<br /><br />阿梅は西国生まれであり、西国人の通る街道近くに埋葬されたいという遺言、さらには大阪天王寺から運ばれたご本尊があることから、当信寺に墓所を設けたようである。<br /><br />本堂裏の境内にある頬ずえをして瞑想している石仏が真田幸村の娘、阿梅の墓(泰陽院殿松源寿清大姉)その隣の墓跡が大八の墓、(山誉浄あん居士)これらの墓をとおして、数奇な運命を辿った真田一族の往時を偲ぶことができる。』<br />

陸奥白石 大坂夏の陣で戦況厳しい中討ち死を控え遺児養育を託され後に二代白石城主片倉重長後室となった真田幸村娘菩提寺『当信寺』散歩

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2014/08/27 - 2014/08/27

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滝山氏照

滝山氏照さん

功徳山当信寺(とうしんじ、宮城県白石市本町)は正式には「功徳山泰陽院当信寺」と称し、慶長2年(1597)青蓮社良益上人によって開山された浄土宗の寺院を散歩しました。

当時の白石は会津城主蒲生氏の支配下にありましたが、伊達政宗重臣である片倉小十郎景綱(かたくら・こじゅうろう・かげつな、1557~1615)が入城後、城下町の整備区画事業に伴い慶長9年(1604)に現在地に移り片倉氏重臣の小片丹波仲知により創建されます。

明暦2年(1656)二代当主重長(しげなが、1585~1659)より五百壱文の知行を拝受し、領内四ヶ所寺一の寺格を持つに至ります。

安永3年(1774)類焼に遭い、本堂・地蔵堂などすべてを焼失しますが、天保元年(1830)、片倉家ニ代目当主重長の後室である真田阿梅(さなだ・おうめ)百五十回忌を仮堂で営み、十九世智山上人は本堂再建に取り掛かり、翌天保2年に吉見清八郎を作事役として建立して現在に至ります。

尚 山号「泰陽院」とは片倉氏二代の重長の後室の真田幸村娘の阿梅の方の法名である「泰陽院殿松源壽清大姉」の菩提寺となったことに由来します。


2023年9月20日追記

現地入手のパンフレットには下記の通り遠隔が紹介されています。


『 功徳山  当 信 寺  沿革

当信寺は法然上人によって開かれた浄土宗の寺院である。

正しくは、功徳山 泰陽院 当信寺と称し、慶長2年(1597)青蓮社良益上人によって開山された。

当時白石は蒲生氏の領地であったが、片倉小十郎が城主となるや、城下町の整備区画にともない、慶長9年現在地に移り、片倉家臣、小片丹波仲知が寺院を建立した。

山号の泰陽山とは、片倉家二代、重長公の後室、真田幸村娘阿梅の方、泰陽院殿松源寿清大姉の菩提寺になったことに由来する。

明暦2年、重長公より五百壱文の知行を拝受し、領内4ヶ寺の一寺格をもつ寺院となった。

安永3年(1774)類焼に遭い、本堂、地蔵堂などすべて焼失してしまったが、天保元年(1830)真田阿梅百五十回忌を仮堂で営み、十九世智山上人はこの用材を受けて本堂再建に取りかかり、天保2年、吉見清八郎を作事役とし建立し現在に至っている。』



また同パンフレットには下記のように戦国大名であった真田家に関する紹介されています。

『 真田家と当信寺

元和元年(1615)大坂夏の陣で豊臣家は滅びるが、真田幸村は討ち死にする覚悟を決め、敵将片倉小十郎重長に子供達の養育を託した。遺児達は白石城の二の丸で密かに養育され、阿梅は重長の妻病死後、その後室となり78才で没す。

大八は片倉士郎兵衛守信と名のり、伊達政宗公に仕える三百石武将となり59才で没す。

慶安9年(1648)阿梅45才の時、片倉家が真田幸村の菩提寺として森合(白石市郊外)に月心院を開山した。しかし。その翌年阿梅の母大谷氏が亡くなり、京都の名刹竜安寺に葬られた事を知った阿梅が、両親の位牌を当信寺に安置したと寺の記録にある。その位牌は安永3年(1774)の白石大火で焼失したと思われる。東日本大震災での本堂・庫りの修復を機に、2013年その位牌を再現し阿梅の願いを叶えることとした。

阿梅は西国生まれであり、西国人の通る街道近くに埋葬されたいという遺言、さらには大阪天王寺から運ばれたご本尊があることから、当信寺に墓所を設けたようである。

本堂裏の境内にある頬ずえをして瞑想している石仏が真田幸村の娘、阿梅の墓(泰陽院殿松源寿清大姉)その隣の墓跡が大八の墓、(山誉浄あん居士)これらの墓をとおして、数奇な運命を辿った真田一族の往時を偲ぶことができる。』

旅行の満足度
3.5
交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 当信寺山門全景<br /><br />

    イチオシ

    当信寺山門全景

  • 当信寺山門扉<br /><br />閉ざされた扉の左右には「当信寺」及び「浄土宗」の銘板が附けられています。

    当信寺山門扉

    閉ざされた扉の左右には「当信寺」及び「浄土宗」の銘板が附けられています。

  • 当信寺説明

    当信寺説明

  • 白石城東口門<br /><br />東口門が当信寺の山門として移築されていることが判ります。

    白石城東口門

    東口門が当信寺の山門として移築されていることが判ります。

  • 当信寺本堂<br /><br />天保2年再建されて現在に至ります。

    当信寺本堂

    天保2年再建されて現在に至ります。

  • 当信寺社額<br /><br />本堂上部に山号である「功徳山」の扁額が掲示されています。

    当信寺社額

    本堂上部に山号である「功徳山」の扁額が掲示されています。

  • 境内風景<br /><br />例によって本堂から山門方向を眺めます。

    境内風景

    例によって本堂から山門方向を眺めます。

  • 御本尊阿弥陀如来<br /><br />

    御本尊阿弥陀如来

  • 境内風景<br /><br />本堂右側に真田幸村遺児である阿梅(おうめ)と大八の墓の案内があります。

    境内風景

    本堂右側に真田幸村遺児である阿梅(おうめ)と大八の墓の案内があります。

  • 阿梅・大八の墓案内

    阿梅・大八の墓案内

  • 阿梅・大八兄弟の墓<br /><br />元和元年(1615)大坂夏の陣で豊臣方の真田幸村は討死する覚悟を決め、父景綱に代わり家康軍として参陣した小十郎重長に子供たちの養育を託します。遺児となった子供たちは白石城二の丸にて密かに養育されます。<br />その後阿梅は重長の妻が病没後その後室となり78歳で没し、大八は片倉四郎兵衛守信と名乗り、伊達政宗に仕える300石の武将となり59歳で没します。

    阿梅・大八兄弟の墓

    元和元年(1615)大坂夏の陣で豊臣方の真田幸村は討死する覚悟を決め、父景綱に代わり家康軍として参陣した小十郎重長に子供たちの養育を託します。遺児となった子供たちは白石城二の丸にて密かに養育されます。
    その後阿梅は重長の妻が病没後その後室となり78歳で没し、大八は片倉四郎兵衛守信と名乗り、伊達政宗に仕える300石の武将となり59歳で没します。

  • 阿梅・大八兄弟の墓<br /><br />

    イチオシ

    阿梅・大八兄弟の墓

  • 阿梅・大八墓説明

    阿梅・大八墓説明

  • 子安地蔵堂

    子安地蔵堂

  • JR白石駅舎

    JR白石駅舎

  • 白石駅由来

    白石駅由来

  • 鐘楼塔<br /><br />白石駅舎前広場には鐘楼塔が建てられ歴史の町として観光客の来場を歓迎しています。

    鐘楼塔

    白石駅舎前広場には鐘楼塔が建てられ歴史の町として観光客の来場を歓迎しています。

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