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白石城南方徒歩約20分に在する傑山寺(けっさんじ、宮城県白石市南町)は正式には臨済宗妙心寺派常英山傑山寺といい伊達政宗の名参謀である片倉小十郎景綱(かたくら・こじゅうろう・かげつな、1557~1615)が慶長13年(1608)に建立した寺院で、景綱を始め代々の城主とその室らの墓があります。<br /><br />15歳で当主伊達輝宗(だて・てるむね、1544~1585)の小姓になった景綱は19歳で嫡男梵天丸(ぼんてんまる、政宗の幼名、1567~1636)の教育係に抜擢され、病を患った政宗の右目を治療して暗い性格を正し、前向きで活発な少年に変えたことはつとに有名です。<br /><br />天正12年(1584)政宗が家督を継いだ後は景綱は軍師的な役割を務め、天正13年(18585)の人取橋の戦い(常陸佐竹氏との戦い)や天正17年(1589)の摺上原合戦(会津蘆名氏との戦い)など伊達家の決戦場で冷静な戦略を駆使し政宗を勝利に導きます。<br /><br />その知将ぶりは戦国の大器として豊臣秀吉は勿論の事徳川家康からも高い評価を得ますが、奥州仕置の時譜代の臣を持たない秀吉から直臣になるよう誘いがありますが、辞退してひたすら政宗に仕える姿勢を貫きあっぱれな武将として益々景綱への評価が高まります。<br /><br />また小田原征伐に際しては遅まきながら豊臣秀吉側として参陣すべきと強く説得して結果政宗を小田原に向かわせる決意をさせ、結果秀吉の機嫌を損ねることなく伊達家の安堵を勝ち得ます。<br /><br />景綱は秀吉時代でも政宗と共に朝鮮出兵(文禄・慶長の役)や慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いなどにも参加して伊達家の存在を知らしめます。<br /><br />特筆すべきは関ヶ原の戦い後の慶長7年(1602)、徳川幕府により一国一城令が発給され全国の大名がその命に従って大名居住の城郭以外は破却をすることになりますが、白石城については例外として1万3千石を以て景綱に与えられことになります。<br /><br />元和元年(1615)景綱は病気により59歳で死去、景綱の墓は敵にあばかれないよう敢えて墓石を造らず一本の杉を墓標としています。<br /><br /><br />2023年9月21日追記<br /><br />現地入手のパンフレットには下記の通り当該寺の由来が記載されています。<br /><br />『 傑 山 寺 の 由 来<br /><br />常英山傑山寺は初代片倉小十郎景綱公が1608年(慶長13年)に建立した寺であり、片倉家の菩提寺として景綱公始め、代々の城主とその奥方らが弔われています。本尊は釈迦如来立像で開山し、二世松厳和尚と三世霞山和尚によって末寺13ヶ寺(現在は8ヶ寺)が建立されました。<br /><br />景綱公(1615年没)の墓は敵にあばかれぬように敢えて墓標つくらず、一本杉をその印にしたとされています。その老木は、まさに小十郎の実直な人柄を表すかのように山内にひときわ高く、堂々とそびえ立っています。境内には十一面観音菩薩(子安観音)がまつられている観音堂や、角界に今もなおその名を轟かせている初代谷風の墓、井伏鱒二の書いた文学碑、そして片倉家とゆかりの深い北海道松前藩の松前安広とその子孫の墓所などがあります。<br /><br />秋には紅葉の巨木たちが傑山寺山を囲み、圧倒的な美しさで訪れる人々の目を楽しませています。』<br />

陸奥白石 幼少から伊達政宗の傅役で最大の信頼を受けた白石城主の知将片倉小十郎景綱の菩提寺とされる『傑山寺』散歩

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2014/08/27 - 2014/08/27

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滝山氏照

滝山氏照さん

白石城南方徒歩約20分に在する傑山寺(けっさんじ、宮城県白石市南町)は正式には臨済宗妙心寺派常英山傑山寺といい伊達政宗の名参謀である片倉小十郎景綱(かたくら・こじゅうろう・かげつな、1557~1615)が慶長13年(1608)に建立した寺院で、景綱を始め代々の城主とその室らの墓があります。

15歳で当主伊達輝宗(だて・てるむね、1544~1585)の小姓になった景綱は19歳で嫡男梵天丸(ぼんてんまる、政宗の幼名、1567~1636)の教育係に抜擢され、病を患った政宗の右目を治療して暗い性格を正し、前向きで活発な少年に変えたことはつとに有名です。

天正12年(1584)政宗が家督を継いだ後は景綱は軍師的な役割を務め、天正13年(18585)の人取橋の戦い(常陸佐竹氏との戦い)や天正17年(1589)の摺上原合戦(会津蘆名氏との戦い)など伊達家の決戦場で冷静な戦略を駆使し政宗を勝利に導きます。

その知将ぶりは戦国の大器として豊臣秀吉は勿論の事徳川家康からも高い評価を得ますが、奥州仕置の時譜代の臣を持たない秀吉から直臣になるよう誘いがありますが、辞退してひたすら政宗に仕える姿勢を貫きあっぱれな武将として益々景綱への評価が高まります。

また小田原征伐に際しては遅まきながら豊臣秀吉側として参陣すべきと強く説得して結果政宗を小田原に向かわせる決意をさせ、結果秀吉の機嫌を損ねることなく伊達家の安堵を勝ち得ます。

景綱は秀吉時代でも政宗と共に朝鮮出兵(文禄・慶長の役)や慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いなどにも参加して伊達家の存在を知らしめます。

特筆すべきは関ヶ原の戦い後の慶長7年(1602)、徳川幕府により一国一城令が発給され全国の大名がその命に従って大名居住の城郭以外は破却をすることになりますが、白石城については例外として1万3千石を以て景綱に与えられことになります。

元和元年(1615)景綱は病気により59歳で死去、景綱の墓は敵にあばかれないよう敢えて墓石を造らず一本の杉を墓標としています。


2023年9月21日追記

現地入手のパンフレットには下記の通り当該寺の由来が記載されています。

『 傑 山 寺 の 由 来

常英山傑山寺は初代片倉小十郎景綱公が1608年(慶長13年)に建立した寺であり、片倉家の菩提寺として景綱公始め、代々の城主とその奥方らが弔われています。本尊は釈迦如来立像で開山し、二世松厳和尚と三世霞山和尚によって末寺13ヶ寺(現在は8ヶ寺)が建立されました。

景綱公(1615年没)の墓は敵にあばかれぬように敢えて墓標つくらず、一本杉をその印にしたとされています。その老木は、まさに小十郎の実直な人柄を表すかのように山内にひときわ高く、堂々とそびえ立っています。境内には十一面観音菩薩(子安観音)がまつられている観音堂や、角界に今もなおその名を轟かせている初代谷風の墓、井伏鱒二の書いた文学碑、そして片倉家とゆかりの深い北海道松前藩の松前安広とその子孫の墓所などがあります。

秋には紅葉の巨木たちが傑山寺山を囲み、圧倒的な美しさで訪れる人々の目を楽しませています。』

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル 徒歩
  • 傑山寺入口全景<br /><br />橋詰には伊達氏家紋である「三つ引両」が描かれており、政宗の絶大なる信頼を得ている片倉景綱は伊達一族と同格の扱いを受けていることが判ります。<br /><br />

    傑山寺入口全景

    橋詰には伊達氏家紋である「三つ引両」が描かれており、政宗の絶大なる信頼を得ている片倉景綱は伊達一族と同格の扱いを受けていることが判ります。

  • 片倉家代々の墓説明

    片倉家代々の墓説明

  • 傑山寺入口石柱<br /><br />右側石柱には「傑山寺」、左側には「臨済宗」の表札が埋め込まれています。

    傑山寺入口石柱

    右側石柱には「傑山寺」、左側には「臨済宗」の表札が埋め込まれています。

  • 傑山寺参道<br /><br />参道の左側は片倉氏墓、右側は相撲力士の初代谷風墓の案内板が設置されています。

    傑山寺参道

    参道の左側は片倉氏墓、右側は相撲力士の初代谷風墓の案内板が設置されています。

  • 傑山寺本堂<br /><br />壁で境内が囲まれ、本堂に至る参道手前には片倉小十郎景綱の坐像が控えています。

    傑山寺本堂

    壁で境内が囲まれ、本堂に至る参道手前には片倉小十郎景綱の坐像が控えています。

  • 片倉小十郎景綱座像<br /><br />この銅像は平成24年4月に建立されています。

    イチオシ

    片倉小十郎景綱座像

    この銅像は平成24年4月に建立されています。

  • 傑山寺本堂<br /><br />藩主伊達氏家紋と同一の紋が屋根の中央部に設置されています。

    傑山寺本堂

    藩主伊達氏家紋と同一の紋が屋根の中央部に設置されています。

  • 本堂彫刻

    本堂彫刻

  • 境内風景<br /><br />本堂から境内を眺めます。正面には景綱座像の後ろ姿が見えます。

    境内風景

    本堂から境内を眺めます。正面には景綱座像の後ろ姿が見えます。

  • 境内風景<br /><br />白い小石を敷き詰めた庭園の手入れが行き届いています。

    境内風景

    白い小石を敷き詰めた庭園の手入れが行き届いています。

  • 本堂前に見せる景綱座像<br /><br />伝えられるように実直な人柄を表しています。

    イチオシ

    本堂前に見せる景綱座像

    伝えられるように実直な人柄を表しています。

  • 景綱と片倉家・松前家墓案内<br /><br />先ず景綱が眠る墓を参拝し、その後に片倉家の墓をめざします。

    景綱と片倉家・松前家墓案内

    先ず景綱が眠る墓を参拝し、その後に片倉家の墓をめざします。

  • 片倉小十郎景綱墓案内

    片倉小十郎景綱墓案内

  • 景綱墓標<br /><br />景綱の墓は敵に暴かれないように、敢えて墓石を造らずその代わりに一本杉を墓標とします。

    イチオシ

    景綱墓標

    景綱の墓は敵に暴かれないように、敢えて墓石を造らずその代わりに一本杉を墓標とします。

  • 一本杉墓標<br /><br />大木となった一本杉墓標の傍らには室の五輪塔が建立されています。<br /><br /><br /><br />

    一本杉墓標

    大木となった一本杉墓標の傍らには室の五輪塔が建立されています。



  • 片倉小十郎景綱と墓表の一本杉説明板

    片倉小十郎景綱と墓表の一本杉説明板

  • 景綱墓標周辺風景<br /><br />あいにくの雨天のなか墓標から前方を眺めます。

    景綱墓標周辺風景

    あいにくの雨天のなか墓標から前方を眺めます。

  • 佐藤孝郷の墓案内<br /><br />幕末の片倉藩家老を勤めた人物で、戊辰戦争後家中を説得し士族として北海道に入植し、札幌最月寒(現在の札幌市白石区)開発に尽力します。

    佐藤孝郷の墓案内

    幕末の片倉藩家老を勤めた人物で、戊辰戦争後家中を説得し士族として北海道に入植し、札幌最月寒(現在の札幌市白石区)開発に尽力します。

  • 佐藤孝郷墓<br /><br />佐藤は現在の札幌市白石区の基礎を築き上げ、明治7年初代札幌区長に登用され、死去後故郷の地で葬られます。

    佐藤孝郷墓

    佐藤は現在の札幌市白石区の基礎を築き上げ、明治7年初代札幌区長に登用され、死去後故郷の地で葬られます。

  • 佐藤孝郷説明板

    佐藤孝郷説明板

  • 片倉氏墓所標柱

    片倉氏墓所標柱

  • 片倉氏歴代墓

    片倉氏歴代墓

  • 片倉氏歴代墓

    片倉氏歴代墓

  • 松前氏墓標柱

    松前氏墓標柱

  • 松前安広・広国墓<br /><br />伊達騒動で重要な働きをして62万石の伊達家を救った松前藩城主慶広の五男安広とその子広国の墓があります。

    松前安広・広国墓

    伊達騒動で重要な働きをして62万石の伊達家を救った松前藩城主慶広の五男安広とその子広国の墓があります。

  • 松前氏墓<br /><br />松前安広は元和9年(1623)仙台藩主政宗に請われて仙台に仕え隼一家の家格を与えられ、その後白石城主片倉重長娘を妻とし、以降岳父所領に居館を構え、明暦2年(1656)家督を広国に譲って隠居、寛文8年(1668)に63歳で死去します。

    松前氏墓

    松前安広は元和9年(1623)仙台藩主政宗に請われて仙台に仕え隼一家の家格を与えられ、その後白石城主片倉重長娘を妻とし、以降岳父所領に居館を構え、明暦2年(1656)家督を広国に譲って隠居、寛文8年(1668)に63歳で死去します。

  • 松前氏墓

    松前氏墓

  • 初代谷風之墓標柱

    初代谷風之墓標柱

  • 初代谷風墓全景

    初代谷風墓全景

  • 初代谷風墓

    初代谷風墓

  • 初代谷風説明板

    初代谷風説明板

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