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白石城周辺を散策。

宮城県に入って最初の町。白石市です。城下町として栄えた白石宿(19)を歩きます。(奥州仙台道No17)

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2015/05/15 - 2015/05/15

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ムッシュ

ムッシュさん

白石城周辺を散策。

旅行の満足度
4.5
  • 甲冑堂

    甲冑堂

  • 田村神社の境内には、【甲冑堂】がある。<br />源義経の家臣、佐藤継信・忠信兄弟の妻女たちが、嘆く老母を慰めるため、亡夫の甲冑を身につけたとの言い伝えがあり、堂内には、妻女たちの木像が安置されている。<br />また、堂の傍らには蕉門桃隣句碑がある。昭和14年12月3日に甲冑堂の再建を記念して建てられたとのこと。 桃隣は芭蕉の縁者で、芭蕉の死後の元禄9年(1696年)、「奥の細道」の旅をなぞって「陸奥鵆」を著わした。碑には、この時詠まれた 「戦めく 二人の嫁や 花あやめ」  の句が刻まれている。<br />

    田村神社の境内には、【甲冑堂】がある。
    源義経の家臣、佐藤継信・忠信兄弟の妻女たちが、嘆く老母を慰めるため、亡夫の甲冑を身につけたとの言い伝えがあり、堂内には、妻女たちの木像が安置されている。
    また、堂の傍らには蕉門桃隣句碑がある。昭和14年12月3日に甲冑堂の再建を記念して建てられたとのこと。 桃隣は芭蕉の縁者で、芭蕉の死後の元禄9年(1696年)、「奥の細道」の旅をなぞって「陸奥鵆」を著わした。碑には、この時詠まれた 「戦めく 二人の嫁や 花あやめ」  の句が刻まれている。

  • 【神社境内の甲冑堂】<br />甲冑堂は、源義経の家来で戦死した佐藤継信・忠信の妻が凱旋装束して老婆を慰めたという故事に因んで、甲冑をおびた女体二像が安置されている。<br />境内に「ふたりが嫁のしるしまずあわれなり 女なれどもかいがいしき名の 世に聞こえつるものかなと 袂をぬらしぬ 芭蕉 おくのほそ道より」と書かれた新しい碑がある。<br />【甲冑堂と芭蕉】 <br /> 元禄二年(1689)五月三日(太陽暦で六月十九日)朝、福島市飯坂温泉を出発した芭蕉と曾良は、宮城・福島の県境付近にあった越河番所を経て、仙台領内に第一歩を踏み入れた。越河番所即ち伊達の大木戸のことで、それから馬牛沼のほとりをすぎ、鐙摺りにさしかかった。鐙摺りは、斎川の入り口にあたった馬のあぶみをこする岩のある一騎立ちの難所であった。今はその面影を偲ぶべくもない。<br /> 甲冑堂については、芭蕉は、奥の細道の中で何もふれていないが、飯坂医王寺の下りで、源義経の家来となって、屋島・京都でそれぞれ義経の身代わりとして戦死した、飯坂の大鳥城 城主佐藤庄司基治の子、佐藤継信・忠信の嫁、楓・初音について、二人の嫁がしるし先ず哀れなり書いている。医王寺と甲冑堂での印象感情が二重写しとなって交じりあって脳裏を去来していたであろう。<br /> 甲冑堂については、曾良の随行日記にまわったと書いている。芭蕉の門人で、元禄九年(1696)この地を訪れた天野桃隣の紀行文、陸奥千鳥や、寛政の頃刊行された橘南鶏の東遊記等によると、この場所に高福寺という寺があり、境内小高い所に二間(四米)四方の小堂があった。甲冑堂とも、故将堂とも呼ばれ甲冑をつけ、長刀を持った婦人像ニ体が安置してあったという。<br /> 甲冑堂は、明治八年消失したが、昭和十四年、小倉強の設計で再建された。婦人像は木彫彩色で、小室建の彫刻。壁画等の装飾は、岡田華郷が彩管をふるったものである。<br /> 堂の傍らにある記念碑には、天野桃隣の<br />    「軍めく 二人の嫁や 花あやめ」の句を堂再建の時に、小倉博の書で刻み立てる。<br />    「うの花や おどし毛ゆゆし 女武者」と山崎北華もこの地でうたっている。

    【神社境内の甲冑堂】
    甲冑堂は、源義経の家来で戦死した佐藤継信・忠信の妻が凱旋装束して老婆を慰めたという故事に因んで、甲冑をおびた女体二像が安置されている。
    境内に「ふたりが嫁のしるしまずあわれなり 女なれどもかいがいしき名の 世に聞こえつるものかなと 袂をぬらしぬ 芭蕉 おくのほそ道より」と書かれた新しい碑がある。
    【甲冑堂と芭蕉】 
     元禄二年(1689)五月三日(太陽暦で六月十九日)朝、福島市飯坂温泉を出発した芭蕉と曾良は、宮城・福島の県境付近にあった越河番所を経て、仙台領内に第一歩を踏み入れた。越河番所即ち伊達の大木戸のことで、それから馬牛沼のほとりをすぎ、鐙摺りにさしかかった。鐙摺りは、斎川の入り口にあたった馬のあぶみをこする岩のある一騎立ちの難所であった。今はその面影を偲ぶべくもない。
     甲冑堂については、芭蕉は、奥の細道の中で何もふれていないが、飯坂医王寺の下りで、源義経の家来となって、屋島・京都でそれぞれ義経の身代わりとして戦死した、飯坂の大鳥城 城主佐藤庄司基治の子、佐藤継信・忠信の嫁、楓・初音について、二人の嫁がしるし先ず哀れなり書いている。医王寺と甲冑堂での印象感情が二重写しとなって交じりあって脳裏を去来していたであろう。
     甲冑堂については、曾良の随行日記にまわったと書いている。芭蕉の門人で、元禄九年(1696)この地を訪れた天野桃隣の紀行文、陸奥千鳥や、寛政の頃刊行された橘南鶏の東遊記等によると、この場所に高福寺という寺があり、境内小高い所に二間(四米)四方の小堂があった。甲冑堂とも、故将堂とも呼ばれ甲冑をつけ、長刀を持った婦人像ニ体が安置してあったという。
     甲冑堂は、明治八年消失したが、昭和十四年、小倉強の設計で再建された。婦人像は木彫彩色で、小室建の彫刻。壁画等の装飾は、岡田華郷が彩管をふるったものである。
     堂の傍らにある記念碑には、天野桃隣の
        「軍めく 二人の嫁や 花あやめ」の句を堂再建の時に、小倉博の書で刻み立てる。
        「うの花や おどし毛ゆゆし 女武者」と山崎北華もこの地でうたっている。

  • 【甲冑堂本堂】<br />田村神社境内にある甲冑堂(六角堂)には、義経の家臣佐藤継信・忠信兄弟の妻楓・初音の甲冑をおびた木造が納められている。<br />  これは、継信・忠信の妻が夫に代わり、凱旋装束して老母を慰めたという故事に因んで安置されたもので、江戸時代から奥州名所の一つとして知られていた。<br />  田村神社と共に焼失したが、堂も木像も再建されている。

    【甲冑堂本堂】
    田村神社境内にある甲冑堂(六角堂)には、義経の家臣佐藤継信・忠信兄弟の妻楓・初音の甲冑をおびた木造が納められている。
      これは、継信・忠信の妻が夫に代わり、凱旋装束して老母を慰めたという故事に因んで安置されたもので、江戸時代から奥州名所の一つとして知られていた。
      田村神社と共に焼失したが、堂も木像も再建されている。

  • 田村神社だ。<br />案内書きによると、昔この辺りは山賊(鬼)が住んでおり、今でも鬼摺石、人喰沢又は人噛沢の名が残っている。坂上田村麻呂が賊を平らげてくれた。その時に体や武器を洗った(清めた)川を禊(みそ)ぎの川、斎川と言うようになった。そして地区の名も斎川としているとのこと。田村麻呂の馬が馬入沼に沈んだので地区住民は白馬を献上して村はずれまで見送った。平和で豊かな里になったとして坂の上田村麻呂を神として田村神社を造りお祭りした。

    田村神社だ。
    案内書きによると、昔この辺りは山賊(鬼)が住んでおり、今でも鬼摺石、人喰沢又は人噛沢の名が残っている。坂上田村麻呂が賊を平らげてくれた。その時に体や武器を洗った(清めた)川を禊(みそ)ぎの川、斎川と言うようになった。そして地区の名も斎川としているとのこと。田村麻呂の馬が馬入沼に沈んだので地区住民は白馬を献上して村はずれまで見送った。平和で豊かな里になったとして坂の上田村麻呂を神として田村神社を造りお祭りした。

  • 斎川宿ルート図

    斎川宿ルート図

  • 宿場の標識<br />斎川大橋を渡ると「斎川宿」と書かれた案内標識がある<br />

    宿場の標識
    斎川大橋を渡ると「斎川宿」と書かれた案内標識がある

  • 現在は無人の廃墟と化し、朽ち掛けた姿の検断屋敷がある

    現在は無人の廃墟と化し、朽ち掛けた姿の検断屋敷がある

  • 「常英山 傑山寺(じょうえいざん けっさんじ)」は、白石城から1km(徒歩約15分)離れた場所にあります。<br />景綱公が片倉家と菩提寺として、慶長13年(1608)に創建しました。<br /><br /> 境内には樹齢約400年の一本杉があり、これは墓を暴かれないようにあえて墓石を建てなかった、と言われています。<br />ほかにも※初代・谷風梶之助(たにかぜ かじのすけ)の墓や、北海道松前城主・松前慶広(まつまえ よしひろ)の5男・安広とその子、広国の墓があります。<br /><br />

    「常英山 傑山寺(じょうえいざん けっさんじ)」は、白石城から1km(徒歩約15分)離れた場所にあります。
    景綱公が片倉家と菩提寺として、慶長13年(1608)に創建しました。

    境内には樹齢約400年の一本杉があり、これは墓を暴かれないようにあえて墓石を建てなかった、と言われています。
    ほかにも※初代・谷風梶之助(たにかぜ かじのすけ)の墓や、北海道松前城主・松前慶広(まつまえ よしひろ)の5男・安広とその子、広国の墓があります。

  • 片倉家小十郎景綱の銅像。笛を手にしている<br /><br />戦国時代末期の慶長7年(1602年)。景綱公は現在宮城県白石市にある「白石城(しろいしじょう)」を拝領され、城主となります。

    片倉家小十郎景綱の銅像。笛を手にしている

    戦国時代末期の慶長7年(1602年)。景綱公は現在宮城県白石市にある「白石城(しろいしじょう)」を拝領され、城主となります。

  • 白石城への登城口

    白石城への登城口

  • 【白石城】<br />白石城は後三年の役(1083~87年)の時、源義家に従った刈田経元(かったつねもと)が、戦功により刈田・伊具両郡を与えられ、白石城を築いたのが始まりと伝承されている。<br />平安時代末期は奥州藤原氏、鎌倉時代は北条氏、南北朝末期以降は伊達氏と変わった。豊臣秀吉の奥州仕置後は蒲生氏の所領となり、益岡城と改称された。この頃に近世の城郭としての体裁が整えられた。<br />関ヶ原の戦い後は伊達領となり、政宗の叔父石川昭光が入ったが、慶長7年(1602年)に伊達家家臣の片倉小十郎景綱が入り、幕末まで11代260年にわたり続いた。幕政下では白石城は、仙台城以外では唯一の城としての扱いを受け、領内南部の要衝として関門的役割を果していた。

    【白石城】
    白石城は後三年の役(1083~87年)の時、源義家に従った刈田経元(かったつねもと)が、戦功により刈田・伊具両郡を与えられ、白石城を築いたのが始まりと伝承されている。
    平安時代末期は奥州藤原氏、鎌倉時代は北条氏、南北朝末期以降は伊達氏と変わった。豊臣秀吉の奥州仕置後は蒲生氏の所領となり、益岡城と改称された。この頃に近世の城郭としての体裁が整えられた。
    関ヶ原の戦い後は伊達領となり、政宗の叔父石川昭光が入ったが、慶長7年(1602年)に伊達家家臣の片倉小十郎景綱が入り、幕末まで11代260年にわたり続いた。幕政下では白石城は、仙台城以外では唯一の城としての扱いを受け、領内南部の要衝として関門的役割を果していた。

  • 白石城三階櫓は、東日本大震災で被災し、修復が行われていたが、やっと工事が終わった。白石城は、後三年の役(1083-1087年)で戦功のあった刈田左兵衛尉経元が白石の地を賜り、築城したのが始まりといわれている。その後、白石氏などの支配の後、伊達氏の勢力下に入ったものの、天正19年(1591年)豊臣秀吉は、この地方を没収し、会津若松城とともに蒲生氏郷に与えた。慶長3年(1598年)上杉領となり、慶長5年関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略、再び伊達領となった。江戸時代は、一国一城令の例外で、代々伊達家の重臣片倉小十郎の居城だった。幕末まで十一代すべて「片倉小十郎」という名前だったそうだ。一国一城令は、例外なく徹底されていたと思っていたが、薩摩街道を歩いた時知った熊本藩の八代城などいくつかの例外がある。<br />

    白石城三階櫓は、東日本大震災で被災し、修復が行われていたが、やっと工事が終わった。白石城は、後三年の役(1083-1087年)で戦功のあった刈田左兵衛尉経元が白石の地を賜り、築城したのが始まりといわれている。その後、白石氏などの支配の後、伊達氏の勢力下に入ったものの、天正19年(1591年)豊臣秀吉は、この地方を没収し、会津若松城とともに蒲生氏郷に与えた。慶長3年(1598年)上杉領となり、慶長5年関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略、再び伊達領となった。江戸時代は、一国一城令の例外で、代々伊達家の重臣片倉小十郎の居城だった。幕末まで十一代すべて「片倉小十郎」という名前だったそうだ。一国一城令は、例外なく徹底されていたと思っていたが、薩摩街道を歩いた時知った熊本藩の八代城などいくつかの例外がある。

  • 城内から市内方面を望む<br /><br />【白石城】<br />白石城は平城で、中世末期頃、地元の土豪白石氏の居城であったが、慶長7年(1602)以降は仙台城の支城として伊達氏の重臣片倉氏が居城し、元和元年(1615)の一国一城令後も例外的に存続が認められた。明治維新時には白石城は奥羽越列藩同盟が結ばれるなど歴史が大きく転換するときに度々登場し重要な役割を果たしてきた。明治7年以降解体された。平成7年に天守閣と大手門を復元。<br />

    城内から市内方面を望む

    【白石城】
    白石城は平城で、中世末期頃、地元の土豪白石氏の居城であったが、慶長7年(1602)以降は仙台城の支城として伊達氏の重臣片倉氏が居城し、元和元年(1615)の一国一城令後も例外的に存続が認められた。明治維新時には白石城は奥羽越列藩同盟が結ばれるなど歴史が大きく転換するときに度々登場し重要な役割を果たしてきた。明治7年以降解体された。平成7年に天守閣と大手門を復元。

  • 城から庭を見る

    城から庭を見る

  • 【本丸跡・片倉小十郎碑】<br />本丸跡には片倉小十郎公頌徳碑がある。小十郎は政宗の守り役で、後に政宗の腹心の部下として活躍した人だ。<br />秀吉や家康からも特別な待遇を受けた武将であった。NHKの連続ドラマ「独眼竜政宗」で、西郷輝彦がこの小十郎を演じた。<br />  

    【本丸跡・片倉小十郎碑】
    本丸跡には片倉小十郎公頌徳碑がある。小十郎は政宗の守り役で、後に政宗の腹心の部下として活躍した人だ。
    秀吉や家康からも特別な待遇を受けた武将であった。NHKの連続ドラマ「独眼竜政宗」で、西郷輝彦がこの小十郎を演じた。
      

  • 【白石城】 別名:益(桝)岡城<br /> 天正十九年(1591)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、会津若松城とともに蒲生氏郷に与えた。蒲生氏家臣蒲生源左衙門郷成は、白石城を築城し城主となった。慶長三年(1598)上杉領となるや上杉氏家臣甘糟備後守清長は白石城の再構築を行い居城した。<br /> 慶長五年(1600)関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となり、伊達氏家臣片倉小十郎によって大改修がなされ、以後明治維新まで260余年間片倉氏の居城となった。<br /> 白石城は標高七六メートルの最頂部には本丸・二ノ丸・中ノ丸・西曲輪、中段には沼ノ丸・南ノ丸・巽曲輪・帯曲輪・厩曲輪を置き丘の上に館堀川を巡らし、南は空堀で斤陵を切断、館堀川を隔てた平地には三ノ丸・外曲輪を配置した平山城である。本丸は高さ九メートル余の石垣の上に土塁を囲み三階櫓・巽櫓・坤櫓・大手門・裏三階門を備え、御成御殿・表・奥の諸建物があった。二ノ丸以下はすべて土塁で囲み、木柵をまわした崖を利用する等中世と近世城郭を併用した縄張であった。<br /> 元和の一国一城令以後も仙台藩は仙台城と白石城の二城が許され、明治維新には奥羽越列藩同盟がこの城で結ばれ、公議府が置かれ輪王寺宮が滞城された。その後按察府の設置、兵部省兵隊屯所になるなど、日本の歴史の変転期には一役を担う重要な城であった。<br />     白石城のパンフレットより

    【白石城】 別名:益(桝)岡城
    天正十九年(1591)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、会津若松城とともに蒲生氏郷に与えた。蒲生氏家臣蒲生源左衙門郷成は、白石城を築城し城主となった。慶長三年(1598)上杉領となるや上杉氏家臣甘糟備後守清長は白石城の再構築を行い居城した。
     慶長五年(1600)関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となり、伊達氏家臣片倉小十郎によって大改修がなされ、以後明治維新まで260余年間片倉氏の居城となった。
     白石城は標高七六メートルの最頂部には本丸・二ノ丸・中ノ丸・西曲輪、中段には沼ノ丸・南ノ丸・巽曲輪・帯曲輪・厩曲輪を置き丘の上に館堀川を巡らし、南は空堀で斤陵を切断、館堀川を隔てた平地には三ノ丸・外曲輪を配置した平山城である。本丸は高さ九メートル余の石垣の上に土塁を囲み三階櫓・巽櫓・坤櫓・大手門・裏三階門を備え、御成御殿・表・奥の諸建物があった。二ノ丸以下はすべて土塁で囲み、木柵をまわした崖を利用する等中世と近世城郭を併用した縄張であった。
     元和の一国一城令以後も仙台藩は仙台城と白石城の二城が許され、明治維新には奥羽越列藩同盟がこの城で結ばれ、公議府が置かれ輪王寺宮が滞城された。その後按察府の設置、兵部省兵隊屯所になるなど、日本の歴史の変転期には一役を担う重要な城であった。
         白石城のパンフレットより

  • 【武家屋敷】<br />武家屋敷旧小関家だ。水路沿いにあり、藤沢周平の小説に出てくる海坂藩下級武士の家のような情緒がある。屋根は茅葺きだ<br /><br />この武家屋敷は、白石城北、三の丸外堀にあたる沢端川に面した後小路に建つ中級家中である旧小関家の屋敷で、享保十五年(1730)の建築であることが確認されている。<br /> 平成三年(1992)に、主屋・門・塀が小関家から白石市に寄贈されたのを機に全面的に修復されて一般公開され、平成五年に宮城県指定文化財となっている。

    【武家屋敷】
    武家屋敷旧小関家だ。水路沿いにあり、藤沢周平の小説に出てくる海坂藩下級武士の家のような情緒がある。屋根は茅葺きだ

    この武家屋敷は、白石城北、三の丸外堀にあたる沢端川に面した後小路に建つ中級家中である旧小関家の屋敷で、享保十五年(1730)の建築であることが確認されている。
     平成三年(1992)に、主屋・門・塀が小関家から白石市に寄贈されたのを機に全面的に修復されて一般公開され、平成五年に宮城県指定文化財となっている。

  • 武家屋敷周りの堀川<br />

    武家屋敷周りの堀川

  • 巨大な馬頭観音碑。高さ3mほど。びっくり!<br />この文字は「菊庵老人書」と刻まれてあった。

    巨大な馬頭観音碑。高さ3mほど。びっくり!
    この文字は「菊庵老人書」と刻まれてあった。

  • 白鳥伝説

    白鳥伝説

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