2014/08/31 - 2014/09/07
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azianokazeさん
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2014年9月2日 マラッカ観光二日目 「マラッカ・スルタン・パレス」ではマラッカ王国の悲劇的な英雄伝「ハン・トゥア物語」と、「ババ・ニョニャ・ヘリテージ」では優雅なプラナカン文化と出会います。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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この日も「ジョンカー・ストリート」からスタート。
昨日に比べ、随分と人通りも車も少ないようです。 -
マラッカの雰囲気を感じさせる建物もあちこちに。
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街並みの一画には中国風の廟も
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オランダ広場の「スタダイス」
今日(火曜日)は開いているかと思ってきてみたのですが、昨日同様入れません。
裏手にまわると一帯のいくつかの博物館のチケットを扱う場所があり、そこの掲示を見ると「スタダイス」は改装か何かで長期休館のようです。
「スタダイス」にも鄭和資料館があり、背中を向けている写真の像が、その鄭和のようです。 -
仕方がないので、丘の上に立つ「セント・ポール」教会に向かいます。
写真は丘に上がる途中からの眺め。
写真右手の帆船が昨日訪れた「海洋博物館」。
左手のタワーは「ムラナ・タミンサリ(マラッカ・タワー)」
回転式の展望キャビンが上下します。詳しくは別編で紹介します。 -
壁だけが残る「セント・ポール教会」 1521年、ポルトガルによって建てられた教会です。
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マラッカを支配したポルトガルはキリスト教カソリック派。その後支配者となったオランダ、イギリスはプロテスタント派だったため、カソリック教会として建てられたセントポール教会は見放され、メンテナンスされない建物の宿命を背負いやがて朽ち果てる悲運に見舞われたのです。【Tony Kansai(トニー寛斎)氏のサイト“Melaka Guide”】
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朽ちた教会内部には高さ2mを超すような大きな墓石が並んでいます。
墓石はこのカトリック教会信者のものではなく、その後のオランダ統治時代のプロテスタント信者のものだそうです。
マレーシア独立後、マラッカ知事(当然イスラム教徒)の公邸から見下ろす場所のあったのがプロテスタント信者の墓地だったそうで、知事は目障りなこの墓地の撤去を命じたそうです。
行き場に困ったプロテスタント信者に、カトリック教徒が救いの手を差し伸べ、この「セント・ポール教会」の内部に墓石を移したという経緯だとか。 -
上記の話では、イスラム教徒知事のイメージがよくありませんが、この墓石はひとの背丈を超えるような大きなものです。
こんなものがあたりに多数並んでいたら、宗教的に違和感を持つ知事が目障りに感じたのも無理ないかも。 -
教会前に立つフランシスコ・ザビエルの像
日本でカトリック布教活動を行ったフランシスコ・ザビエルは1545〜1552年の期間に定期的にこの「セント・ポール教会」を訪れ、マラッカでも布教活動を行っていました。
中国の布教活動中、熱病に冒され殉教した後、その遺骸が9ヶ月の間この教会で安置されていました。 -
この奥の保護された部分が、フランシスコ・ザビエルの遺骸が安置されていた場所
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覆われた遺骸が安置されていたところを覗くと・・・・。
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セント・ポールの丘から見下ろす「サンチャゴ砦」
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「サンチャゴ砦」方向に丘を下ると、黒々とした「マラッカ・スルタン・パレス」があります。
「マレー王統記」にある記述をもとに復元された重厚な木造建築です。
内部は、マラッカ文化博物館になっています。
入館料は2RM(約70円)ぐらいだったのでは。 -
スルタンへの謁見の場面を再現した人形
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王族が身に着けていた衣装
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この文化博物館で一番興味深かったのは、マラッカ王国の英雄伝説「ハン・トゥア物語」の紹介展示です。
15世紀のマラッカ王国を舞台にした、勇者ハン・トゥアとハン・ジュバなど4人の幼馴染の物語で、ユネスコの世界記憶遺産に登録されています。
「マラッカ ペナン 世界遺産の街を歩く」(ダイヤモンド社)のマイサラ油井氏のコラム(37ページ)と「マレーシア見聞録」(http://www.geocities.jp/hashimnakamura4/experience/129th.html)を参考に、簡単にそのストーリーを簡単に紹介します。
ハン・トゥアは1444年にマラッカのスンガイ・ドゥヨング村に、かつて王宮で優秀な戦士として仕えていた父ハン・マハムッドと、やはり王宮で王妃のお供をする家系の母親ダン・メルドゥ・ワティの子として生まれた実在の人物・・・・と一般には考えられていますが、歴史書に記録がないと実在を疑問視する見方もあるようです。
ハン・トゥアとハン・ジュバなどの幼馴染はマレーシアの伝統武術シラットの鍛錬に励み、当時王国を悩ましていた海賊退治で功をあげました。
国王サルタンに忠義をつくして活躍するハン・トゥアを、サルタンも軍司令官として重用しました。
しかし、ハン・トゥアの破格の出世は、名門貴族らの反感を買うことになり、「ハン・トゥアは王の側室のひとりと関係している」との讒言がなされます。
ろくに調べもせず讒言を信じたサルタンはハン・トゥアに死を命じ、ハン・トゥアも王命を受け入れます。
しかし、彼の死を惜しむ宰相はひそかにハン・トゥアを人知れぬ場所に隠します。
写真の絵は、その身を隠す場面です。 -
一方、ハン・トゥアに代わって任用されたハン・ジュバでしたが、親友ハン・トゥアを讒言で殺したサルタンやその取り巻きに義憤を感じており、反乱を起こします。
追い詰められたサルタンは「ハン・トゥアを殺さずにおけば・・・」と悔やみますが、そのサルタンの耳元で宰相が囁きます。「ハン・トゥアは生きています。ハン・ジュバに勝てるのはハン・トゥアだけです」
かくしてサルタンは、ハン・トゥアにハン・ジュバ討伐を命じます。
ハン・トゥアはかつて自分に死罪を命じた王の、親友を討てとの命を受け入れます。
親友同士のハン・トゥアとハン・ジュバ、死闘の末にハン・トゥアが勝利します。
写真は、両雄の死闘の場面を再現した人形です。 -
ハン・ジュバは親友ハン・トゥアの腕の中で、子供の行く末を託して息を引き取ります。
正義を信じてことを起こしたハン・ジュバと、どこまでもサルタンへの忠誠を尽くしたハン・トゥアの悲劇です。
個人的には、正義の人ハン・ジュバに哀れを感じますが、マレーシア国民の間でも、判官びいきでハン・ジュバへの同情が大きいとか。
忠節の人ハン・トゥアが最後に勝ってしまうのがどうも・・・・。
日本人的には、沈みゆく古い体制の運命と新しい時代の必然を知りつつも、あえて古いものの崩壊にその命を共にして死んでいく・・・・というのが忠義に生きる人の役どころのようにも思えます。
「ジョンカー・ストリート」は現在「ハン・ジュバ通り」と改名されています。
地図を見ると「ハン・トゥア通り」もあるようです。 -
別の物語・歴史をあらわした展示もありますが、こちらは話の内容を知りませんので・・・。
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マラッカで経済活動を行っていたアラビア商人
中国やジャワ(インドネシア)やシャム(タイ)などの商人の人形もあります。 -
こちらは、マレーシア各地の民族衣装
頭部が牛の角のようにとがった写真左端は、インドネシア・スマトラ島のミナカバウの衣装と同じです。
ミナカバウ人はマレーシアにも分布しているようです。位置関係を考えると当然のことではありますが。 -
こちらは、刀剣・武具
マレーシアやインドネシアで広く見られる短剣(クリス)はなぜあのようにクネクネ蛇のように曲がっているのでしょうか?
殺傷能力という実用性では問題がありそうで、あくまで装飾用のように思えます。 -
パレス前は広い庭園になっています。
訪れる人もほとんどいませんが、花が咲き乱れ、きれいな庭です。 -
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ブーゲンビリアでしょうか
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ハイビスカス
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プルメリアも咲いています
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竹のような気根を切り開いてつくったトンネル
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日差しを遮って休めるような所があれば、もっといいのですが。
赤道も近いマラッカですから、日差しはきついです。 -
「セント・ポール教会」でも触れたフランシスコ・ザビエルをを讃えて1849年に建設された教会です。
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ザビエル生誕500年を記念して、2007年7月に鹿児島市ザビエル上陸顕彰会と鹿児島県マレイシア友好協会が、1547年にマラッカでザビエルと会い、鹿児島へ導いた鹿児島の人・ヤジロー(アンジロウともいう)との出会いを記念して寄贈した「ヤジロー」の像もあります。
ただ、現地では知らずにスルーしました。
そう言われれば、そんな像があったような気がします。 -
内部のステンドグラス
しばらく中で休んでいましたが、ミサが始まるような雰囲気でしたので退散。 -
昼食はマラッカ川のリバーサイドのお店で
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普通の酢豚です。
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昼食後に訪れたのは「ヒーレン・ストリート」
「観光客で賑わう「ジョンカー・ストリート」に比べ、落ち着いた雰囲気です。
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現在トゥン・タン・チェンロック通りと改名されたこの通りはオランダ時代にヒーレン・ストリートと名付けられ、オランダ人の富裕層が住む高級住宅地であった。
オランダがマラッカを手放した後、プラナカンの金持ちたちがこの通り
の家々を買い取った。・・・・オランダ時代は税金の徴収額が家の間口の幅で決められたため、これらの家々は「間口は狭いが奥に細長く広がりをもつ」という構造になっている。
その構造はそのままたが、プラナカンたちはここに中国南部に見られる建築様式で家を改築し、独自の建築様式を確立した。
イギリス時代には植民地政府の法に守られて、プラナカンたちは思う存分家を飾り立てることができたという。【「マッラカ ペナン 世界遺産の街を歩く」(ダイヤモンド社)】
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プラナカン(ババ。ニョニャ)とは、商人や船員として早くからこの地に住み着いた中国系移民男性が現地女性と結婚して生まれた家系です。
混血は初期のみで、男性がババ、女性がニョニャと呼ばれます。
イギリス統治時代は支配層でもあった華人で、19世紀以降の中華系肉体労働者移民とは区別されます。
中国系文化に現地マレー系文化が融合した独特の文化を保っており、建築や料理に独特のものがあります。
写真は、「ヒーレン・ストリート」入口のお店の看板 -
通りの中ほどにある、プラナkン文化を紹介するプライベート博物館「ババ・ニョニャ・ヘリテージ」
「チャン・チェン・シウ」さんによって1897年に建てられた家で、子孫の方が一般公開されています。 -
「ババ・ニョニャ・ヘリテージ」玄関に吊るされた提灯
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入館料は・・・・忘れました。10〜15RMぐらいではないでしょうか。
館内では、時間を決めて英語ガイドによる館内案内もやっていますが、大勢でまわるのはウザいし、英語も苦手なのでパス。
ガイドなしで見て回ると言うと、詳しい日本語による解説書を貸してくれました。 -
邸内には、お金をかけた家具(100年ほど前に、お金持ちのプラナカンが中国や欧州からとりよせたもの)が並んでいますが、残念なことに撮影禁止です。
写真は【「マッラカ ペナン 世界遺産の街を歩く」(ダイヤモンド社)】からの転載です。
1階のホールで、衝立の向こうが通りに面した応接室みたいな部屋。
これでもか・・・という感じの装飾で埋め尽くされています。
【Tony Kansai(トニー寛斎)氏のサイト“Melaka Guide”】http://melakajp.com/about/town/t-029g.htmlにも美しい写真があります。
なお、一家の未婚女性が同伴者なしに来れるのはここまでで、外の様子はこのあたりから応接室越しにわずかの隙間から窺うしかなかったとのこと。文字通りの箱入り娘です。 -
同じく【「マッラカ ペナン 世界遺産の街を歩く」(ダイヤモンド社)】からの転載
2階に上がる階段
手すりなどの装飾は当然ですが、階段の裏側などにも装飾が施されており、“マレーシアで最も美しい階段”と言われているとか。
また、階段を上がりきったところには開き戸があり、子供の転落防止の他、帰りの遅い旦那を締め出すのにも役立ったとか。 -
写真は【トリップアドバイザーHP】より
http://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g306997-d450988-i86358466-Baba_Nonya_House_Museum-Melaka_Central_Melaka_District_Melaka_State.html
中庭
美しい調度品もさることながら、結婚した二人が初めてとる食事の際、テーブルの下で、二人が足でつかみあいを行い、うまくつかんだ方が家庭の実権を握るとか、その食事の際に両方に立てられたろうそくが長く残ったほうが長生きする(実際は、家族の者が同時に吹き消すそうですが)・・・といった、プラナカンの暮らしぶりも面白いものがあります。 -
館内見学を終え、「ヒーレン・ストリート」に戻ります。
小学生の社会見学の一団とかも来ていましたが、一緒になると、ちょっと煩いです。 -
通りの別の建物
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骨董屋さんの店先にあった、間口が狭い「うなぎの寝床構造」の概略図
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骨董屋さんの室内
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当時の衣服 特別な行事に使うものでしょう。
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写真右端は、きちんとしたニョニャ料理がいただけるレストラン「プラナカン」
高そうなのでパス。基本的には中華系なので、大勢でたくさんの料理を頼まないと・・・という感もあり、一人旅にはちょっと。 -
かわりにマラッカ名物「チェンドル」を。
まあ、かき氷です。
茶色はヤシ砂糖(グラムカ)で、独特の風味です。
一口、二口はいいですが、普通のミルクの方が食べやすい感も。 -
看板右下の「晶露」というのが、上のチェンドルです。
看板にある小豆と緑のニョロニョロしたものは、実物では氷の下に隠れています。(この店では。別の店では看板のような形で出てきました)
気色悪い緑のニョロニョロしたものは、寒天かゼリーのような食感です。
ちなみに看板の真ん中が、昨日飲んだ「黄梨水」(実物とかなり違いますが)、左上はピーナッツを煮込んだものです。
この日は、この後中国寺院「青雲亭」を訪れましたが、それはまた別編で「ハーモニー・ストリート」の他のスポットと一緒に紹介します。 -
マラッカ旧市街の夜は静かです。お店は殆ど閉まり、昼間通りにあふれていた中華系観光客もどこかに消えてしまいます。
夜になると食事をする場所を探すのにも苦労します。
昼間は中華系に隠れて目立たなかったヨーロピアン観光客が夜のマラッカ中心街を所在無げに歩いています。 -
夜のマラッカ川
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同上(下流方向)
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今夜の夕食 まあ、ビーフンですね。
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夜の「カンポン・クリン・モスク」
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