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観光初日(9月1日)の続き<br /><br />マラッカは海運の要衝として栄え、またそれ故に列強の支配を受けた街です。<br />そんなマラッカと海の関係を示す、鄭和文化館や海洋博物館などをまわります。<br />途中、マラッカ川のクルーズなども。<br /><br />写真は、鄭和文化館に置かれていた“宝船(ほうせん)”の模型

マラッカ2014・・・(2)遥か海を越えて 鄭和とキリン

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2014/08/31 - 2014/09/07

309位(同エリア939件中)

    47

    観光初日(9月1日)の続き

    マラッカは海運の要衝として栄え、またそれ故に列強の支配を受けた街です。
    そんなマラッカと海の関係を示す、鄭和文化館や海洋博物館などをまわります。
    途中、マラッカ川のクルーズなども。

    写真は、鄭和文化館に置かれていた“宝船(ほうせん)”の模型

    同行者
    一人旅
    交通手段
    徒歩
    利用旅行会社
    個別手配
    旅行の満足度
    4.5

    PR

    • ジョンカー・ストリート終点に掲げられた鄭和(テイワ)の宝船(ホウセン)を模したモニュメント・・・と言うか広告塔。<br /><br />鄭和(ていわ)・・・中国・明の永楽帝の命を受けて、1405年から1433年、大船団を率いて7回に及ぶ遠征を行った人物で、その遠征先は東南アジア・インドは言うに及ばす、インド洋を渡り、アラビア(メッカなど)や東アフリカ(ソマリアのモガディシオなど)にまで及んでいます。<br /><br />鄭和船団の中核となった宝船(ホウセン)は、全長が120mを超えるような巨大船で、大きなものは150mほどにも及んだとも言われています。<br /><br />時代的には、日本は室町幕府第4代将軍足利義持の頃です。<br /><br />鄭和の船団は、交通の要衝であるマラッカ海峡を抜けて、遠くインド洋、アラビア海に至りますが、鄭和は1405年の第1回航海を含め、5回マラッカを訪れたと言われています。

      ジョンカー・ストリート終点に掲げられた鄭和(テイワ)の宝船(ホウセン)を模したモニュメント・・・と言うか広告塔。

      鄭和(ていわ)・・・中国・明の永楽帝の命を受けて、1405年から1433年、大船団を率いて7回に及ぶ遠征を行った人物で、その遠征先は東南アジア・インドは言うに及ばす、インド洋を渡り、アラビア(メッカなど)や東アフリカ(ソマリアのモガディシオなど)にまで及んでいます。

      鄭和船団の中核となった宝船(ホウセン)は、全長が120mを超えるような巨大船で、大きなものは150mほどにも及んだとも言われています。

      時代的には、日本は室町幕府第4代将軍足利義持の頃です。

      鄭和の船団は、交通の要衝であるマラッカ海峡を抜けて、遠くインド洋、アラビア海に至りますが、鄭和は1405年の第1回航海を含め、5回マラッカを訪れたと言われています。

    • 上記広告塔があるあたりを、マラッカ川上流方向に入ったところに「鄭和文化館」があります。<br /><br />鄭和に関する文物を集めた博物館で、入場料は10RM(約330円)

      上記広告塔があるあたりを、マラッカ川上流方向に入ったところに「鄭和文化館」があります。

      鄭和に関する文物を集めた博物館で、入場料は10RM(約330円)

    • 正面ホールに置かれた、鄭和船団を率いた巨大帆船「宝船(ほうせん)」の模型<br /><br />現在の8000トン級に相当するまさに史上最大の巨大帆船でした。<br /><br />1405年の第1次航海にあっては、こうした巨大な宝船62隻を中心に、軍船や食糧運搬船などを含めて200隻で船団は編成され、総乗組員は2万7800名にも及んだとされています。<br /><br />約百年後の1497年、喜望峰をまわったバスゴ・ダ・ガマの船団は120トン級が3隻170名、1492年に新大陸に達したコロンブスの船団は250トン級が3隻、88名の乗組員だったことと比べても、これらに先立つ鄭和の船団がいかに大規模なものだったかがわかります。【Tony Kansai(トニー寛斎)氏のサイト“Melaka Guide”などから  細かい数字は資料により若干の差があります】<br /><br />宝船(ほうせん)模型の後ろに見えるのは鄭和の像ですが、もちろん想像の産物です。

      正面ホールに置かれた、鄭和船団を率いた巨大帆船「宝船(ほうせん)」の模型

      現在の8000トン級に相当するまさに史上最大の巨大帆船でした。

      1405年の第1次航海にあっては、こうした巨大な宝船62隻を中心に、軍船や食糧運搬船などを含めて200隻で船団は編成され、総乗組員は2万7800名にも及んだとされています。

      約百年後の1497年、喜望峰をまわったバスゴ・ダ・ガマの船団は120トン級が3隻170名、1492年に新大陸に達したコロンブスの船団は250トン級が3隻、88名の乗組員だったことと比べても、これらに先立つ鄭和の船団がいかに大規模なものだったかがわかります。【Tony Kansai(トニー寛斎)氏のサイト“Melaka Guide”などから  細かい数字は資料により若干の差があります】

      宝船(ほうせん)模型の後ろに見えるのは鄭和の像ですが、もちろん想像の産物です。

    • 鄭和の7回に及ぶ大航海の航路を示す地図<br /><br />鄭和の航海は、その後のヨーロッパ列強とは異なり、軍事的侵略や植民地獲得を目的としたものではありませんでした。<br /><br />明の永楽帝がどのような意図でこのような大事業をおこなったのかについては諸説ありますが、おそらく大帝国明の威信を広く世界に知らしめたいという想いが根底にはあったと推察されます。<br /><br />なお、鄭和が航海した航路は、すでにアラビア商人などが広く利用していたもので、その意味では、未知の航路開拓に挑んだバスコ・ダ・ガマやコロンブスなどとは性格が異なります。

      鄭和の7回に及ぶ大航海の航路を示す地図

      鄭和の航海は、その後のヨーロッパ列強とは異なり、軍事的侵略や植民地獲得を目的としたものではありませんでした。

      明の永楽帝がどのような意図でこのような大事業をおこなったのかについては諸説ありますが、おそらく大帝国明の威信を広く世界に知らしめたいという想いが根底にはあったと推察されます。

      なお、鄭和が航海した航路は、すでにアラビア商人などが広く利用していたもので、その意味では、未知の航路開拓に挑んだバスコ・ダ・ガマやコロンブスなどとは性格が異なります。

    • 鄭和の大船団のイメージ<br /><br />明・鄭和の側は“大帝国明の威信を知らしめたい”ということであったとしても、このような大船団を受け入れる側にとっては大問題です。<br /><br />直接的利害関係のないインド・スリランカ・アラビア・東アフリカの国々は「遠路はるばるようこそ」で済みますが、中国の影響が直接及ぶ東南アジア諸国はそれでは済みません。<br /><br />日本は幕末に4隻の黒船で上へ下への大騒ぎとなり、時代を動かす歯車が大きく回った訳ですが、鄭和の大船団を目にした東南アジア諸国の驚きはもっと大きかったでしょう。<br /><br />見たこともない巨艦、海を埋め尽くす大船団が突如現れたのですから、明の威光に逆らうような選択肢はなかったでしょう。<br /><br />マラッカ王国もそのひとつですが、この機会を国際政治にうまく利用しました。<br /><br />鄭和のとりなしでマラッカ王国は明に朝貢使を派遣し、1409年には明・永楽帝によって正式に認知されました。<br /><br />これにより、 北方の大国シャム王国(タイ)の度重なる攻撃を受けていたマラッカ王国は、明との同盟を盾にシャムに対抗し、更に 、西隣のアチェ(インドネシア・スマトラ島)などの外国勢力からの攻撃を牽制することが可能となりました。 <br /><br />

      鄭和の大船団のイメージ

      明・鄭和の側は“大帝国明の威信を知らしめたい”ということであったとしても、このような大船団を受け入れる側にとっては大問題です。

      直接的利害関係のないインド・スリランカ・アラビア・東アフリカの国々は「遠路はるばるようこそ」で済みますが、中国の影響が直接及ぶ東南アジア諸国はそれでは済みません。

      日本は幕末に4隻の黒船で上へ下への大騒ぎとなり、時代を動かす歯車が大きく回った訳ですが、鄭和の大船団を目にした東南アジア諸国の驚きはもっと大きかったでしょう。

      見たこともない巨艦、海を埋め尽くす大船団が突如現れたのですから、明の威光に逆らうような選択肢はなかったでしょう。

      マラッカ王国もそのひとつですが、この機会を国際政治にうまく利用しました。

      鄭和のとりなしでマラッカ王国は明に朝貢使を派遣し、1409年には明・永楽帝によって正式に認知されました。

      これにより、 北方の大国シャム王国(タイ)の度重なる攻撃を受けていたマラッカ王国は、明との同盟を盾にシャムに対抗し、更に 、西隣のアチェ(インドネシア・スマトラ島)などの外国勢力からの攻撃を牽制することが可能となりました。

    • 迷路のような館内を歩いていると、突然キリンが。<br /><br />博物館というものはいろんな文物がコレクションされており、この「鄭和文化館」も鄭和に関するもの以外に、鄭和が訪れたインドネシアやスリランカやインドなど各地の文化・風土を紹介するものなど、その展示品は多岐にわたっています。<br /><br />「それにしても、どうしてキリンが? しかも2階に頭を出すような実物大にも近い巨大なものが?」と訝しく思ったのですが・・・・

      迷路のような館内を歩いていると、突然キリンが。

      博物館というものはいろんな文物がコレクションされており、この「鄭和文化館」も鄭和に関するもの以外に、鄭和が訪れたインドネシアやスリランカやインドなど各地の文化・風土を紹介するものなど、その展示品は多岐にわたっています。

      「それにしても、どうしてキリンが? しかも2階に頭を出すような実物大にも近い巨大なものが?」と訝しく思ったのですが・・・・

    • おそらく答えはこれではないでしょうか。<br /><br />鄭和は分遣隊を東アフリカにも派遣しています。<br /><br />***************<br />明の鄭和による南海遠征により、分遣隊が到達したアフリカ東岸諸国から実在動物のキリンをはじめ、ライオン・ヒョウ・ダチョウ・シマウマ・サイなどを帰国時の1419年に運び、永楽帝に献上した。<br /><br />永楽帝はとくにキリンを気に入り、伝説上の動物「麒麟」に姿が似ていたこと、また現地のソマリ語で「首の長い草食動物」を意味する「ゲリ」の音に似ていたこともあり、“実在の麒麟”として珍重したと言われる。【ウィキペディア】<br />***************<br /><br />そういう訳で、鄭和とキリンは深い関係があるようです。

      おそらく答えはこれではないでしょうか。

      鄭和は分遣隊を東アフリカにも派遣しています。

      ***************
      明の鄭和による南海遠征により、分遣隊が到達したアフリカ東岸諸国から実在動物のキリンをはじめ、ライオン・ヒョウ・ダチョウ・シマウマ・サイなどを帰国時の1419年に運び、永楽帝に献上した。

      永楽帝はとくにキリンを気に入り、伝説上の動物「麒麟」に姿が似ていたこと、また現地のソマリ語で「首の長い草食動物」を意味する「ゲリ」の音に似ていたこともあり、“実在の麒麟”として珍重したと言われる。【ウィキペディア】
      ***************

      そういう訳で、鄭和とキリンは深い関係があるようです。

    • こちらはシマウマ

      こちらはシマウマ

    • これはちょっと判別しづらいかもしれませんが、ゾウです。<br />頭、耳、鼻がちょっと縮んでしわくちゃになった感があります。<br /><br />全く未知のものを正確に把握するのは難しいことで、単に描き移すだけでも既存の概念が邪魔してうまくいかなかったのでしょうか。<br /><br />それとも絵師は現物を見ていないのでしょうか。

      これはちょっと判別しづらいかもしれませんが、ゾウです。
      頭、耳、鼻がちょっと縮んでしわくちゃになった感があります。

      全く未知のものを正確に把握するのは難しいことで、単に描き移すだけでも既存の概念が邪魔してうまくいかなかったのでしょうか。

      それとも絵師は現物を見ていないのでしょうか。

    • 先述のように、鄭和が訪れたエリアの文化・風土を紹介するものなども展示されています。<br /><br />鄭和船団は世界各地の珍しい産物を持ち帰りましたので、その船「宝船」は文字通り宝の船だったことでしょう。

      先述のように、鄭和が訪れたエリアの文化・風土を紹介するものなども展示されています。

      鄭和船団は世界各地の珍しい産物を持ち帰りましたので、その船「宝船」は文字通り宝の船だったことでしょう。

    • 焼き物は全くその価値がわかりません。

      焼き物は全くその価値がわかりません。

    • 当時の時代を紹介したものも展示されています。

      当時の時代を紹介したものも展示されています。

    • 詳しく解説を読んでいませんので、マラッカなのか、明なのか・・・そのあたりすら定かではありませんが、昔の風俗は非常に興味深いものがあります。<br /><br />写真は農耕に関するものです。

      詳しく解説を読んでいませんので、マラッカなのか、明なのか・・・そのあたりすら定かではありませんが、昔の風俗は非常に興味深いものがあります。

      写真は農耕に関するものです。

    • 鉱物の製錬技術や兵器に関するもの

      鉱物の製錬技術や兵器に関するもの

    • “大砲を備えた潜水艦”とありますが、実在したのでしょうか?<br /><br />勝手に想像したものでしょうか?<br /><br />よくわわかりませんが、見ていると興味がつきません。<br />興味はつきませんが、見ているうちに蚊にあちこち刺されてしまいました。<br /><br />日本ではデング熱を騒いでいますが、本場マレーシアでも大流行で、しかも強毒化して重傷者が増えているとか。<br /><br />とにかくかゆくなったので退散。<br /><br />

      “大砲を備えた潜水艦”とありますが、実在したのでしょうか?

      勝手に想像したものでしょうか?

      よくわわかりませんが、見ていると興味がつきません。
      興味はつきませんが、見ているうちに蚊にあちこち刺されてしまいました。

      日本ではデング熱を騒いでいますが、本場マレーシアでも大流行で、しかも強毒化して重傷者が増えているとか。

      とにかくかゆくなったので退散。

    • 鄭和文化館2階から眺めた街並み<br /><br />文化館を出て、昼食できる店を探したのですが、オランダ広場近くの店はお昼時で混んでいたり、なんとなく入りづらかったりで、結局、文化館付近にもどり、近くのお店で昼食。<br /><br />

      鄭和文化館2階から眺めた街並み

      文化館を出て、昼食できる店を探したのですが、オランダ広場近くの店はお昼時で混んでいたり、なんとなく入りづらかったりで、結局、文化館付近にもどり、近くのお店で昼食。

    • 昼食後、オランダ広場からマラッカ川下流方向へ。海洋博物館なるものがあるようです。<br /><br />しばらく行くと一般公開されている船が見えてきました。

      昼食後、オランダ広場からマラッカ川下流方向へ。海洋博物館なるものがあるようです。

      しばらく行くと一般公開されている船が見えてきました。

    • 観光クルーズ船はあのあたりから出るようです。<br />海洋博物館を見学したら乗ってみましょう。

      観光クルーズ船はあのあたりから出るようです。
      海洋博物館を見学したら乗ってみましょう。

    • 公開船の手前の建物も博物館。<br /><br />ここが海洋博物館だろうか・・・と入ってみましたが・・・・

      公開船の手前の建物も博物館。

      ここが海洋博物館だろうか・・・と入ってみましたが・・・・

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