2014/08/31 - 2014/09/07
492位(同エリア1205件中)
azianokazeさん
- azianokazeさんTOP
- 旅行記450冊
- クチコミ0件
- Q&A回答12件
- 805,856アクセス
- フォロワー30人
観光初日(9月1日)の続き
マラッカは海運の要衝として栄え、またそれ故に列強の支配を受けた街です。
そんなマラッカと海の関係を示す、鄭和文化館や海洋博物館などをまわります。
途中、マラッカ川のクルーズなども。
写真は、鄭和文化館に置かれていた“宝船(ほうせん)”の模型
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
ジョンカー・ストリート終点に掲げられた鄭和(テイワ)の宝船(ホウセン)を模したモニュメント・・・と言うか広告塔。
鄭和(ていわ)・・・中国・明の永楽帝の命を受けて、1405年から1433年、大船団を率いて7回に及ぶ遠征を行った人物で、その遠征先は東南アジア・インドは言うに及ばす、インド洋を渡り、アラビア(メッカなど)や東アフリカ(ソマリアのモガディシオなど)にまで及んでいます。
鄭和船団の中核となった宝船(ホウセン)は、全長が120mを超えるような巨大船で、大きなものは150mほどにも及んだとも言われています。
時代的には、日本は室町幕府第4代将軍足利義持の頃です。
鄭和の船団は、交通の要衝であるマラッカ海峡を抜けて、遠くインド洋、アラビア海に至りますが、鄭和は1405年の第1回航海を含め、5回マラッカを訪れたと言われています。 -
上記広告塔があるあたりを、マラッカ川上流方向に入ったところに「鄭和文化館」があります。
鄭和に関する文物を集めた博物館で、入場料は10RM(約330円) -
正面ホールに置かれた、鄭和船団を率いた巨大帆船「宝船(ほうせん)」の模型
現在の8000トン級に相当するまさに史上最大の巨大帆船でした。
1405年の第1次航海にあっては、こうした巨大な宝船62隻を中心に、軍船や食糧運搬船などを含めて200隻で船団は編成され、総乗組員は2万7800名にも及んだとされています。
約百年後の1497年、喜望峰をまわったバスゴ・ダ・ガマの船団は120トン級が3隻170名、1492年に新大陸に達したコロンブスの船団は250トン級が3隻、88名の乗組員だったことと比べても、これらに先立つ鄭和の船団がいかに大規模なものだったかがわかります。【Tony Kansai(トニー寛斎)氏のサイト“Melaka Guide”などから 細かい数字は資料により若干の差があります】
宝船(ほうせん)模型の後ろに見えるのは鄭和の像ですが、もちろん想像の産物です。 -
鄭和の7回に及ぶ大航海の航路を示す地図
鄭和の航海は、その後のヨーロッパ列強とは異なり、軍事的侵略や植民地獲得を目的としたものではありませんでした。
明の永楽帝がどのような意図でこのような大事業をおこなったのかについては諸説ありますが、おそらく大帝国明の威信を広く世界に知らしめたいという想いが根底にはあったと推察されます。
なお、鄭和が航海した航路は、すでにアラビア商人などが広く利用していたもので、その意味では、未知の航路開拓に挑んだバスコ・ダ・ガマやコロンブスなどとは性格が異なります。 -
鄭和の大船団のイメージ
明・鄭和の側は“大帝国明の威信を知らしめたい”ということであったとしても、このような大船団を受け入れる側にとっては大問題です。
直接的利害関係のないインド・スリランカ・アラビア・東アフリカの国々は「遠路はるばるようこそ」で済みますが、中国の影響が直接及ぶ東南アジア諸国はそれでは済みません。
日本は幕末に4隻の黒船で上へ下への大騒ぎとなり、時代を動かす歯車が大きく回った訳ですが、鄭和の大船団を目にした東南アジア諸国の驚きはもっと大きかったでしょう。
見たこともない巨艦、海を埋め尽くす大船団が突如現れたのですから、明の威光に逆らうような選択肢はなかったでしょう。
マラッカ王国もそのひとつですが、この機会を国際政治にうまく利用しました。
鄭和のとりなしでマラッカ王国は明に朝貢使を派遣し、1409年には明・永楽帝によって正式に認知されました。
これにより、 北方の大国シャム王国(タイ)の度重なる攻撃を受けていたマラッカ王国は、明との同盟を盾にシャムに対抗し、更に 、西隣のアチェ(インドネシア・スマトラ島)などの外国勢力からの攻撃を牽制することが可能となりました。 -
迷路のような館内を歩いていると、突然キリンが。
博物館というものはいろんな文物がコレクションされており、この「鄭和文化館」も鄭和に関するもの以外に、鄭和が訪れたインドネシアやスリランカやインドなど各地の文化・風土を紹介するものなど、その展示品は多岐にわたっています。
「それにしても、どうしてキリンが? しかも2階に頭を出すような実物大にも近い巨大なものが?」と訝しく思ったのですが・・・・ -
おそらく答えはこれではないでしょうか。
鄭和は分遣隊を東アフリカにも派遣しています。
***************
明の鄭和による南海遠征により、分遣隊が到達したアフリカ東岸諸国から実在動物のキリンをはじめ、ライオン・ヒョウ・ダチョウ・シマウマ・サイなどを帰国時の1419年に運び、永楽帝に献上した。
永楽帝はとくにキリンを気に入り、伝説上の動物「麒麟」に姿が似ていたこと、また現地のソマリ語で「首の長い草食動物」を意味する「ゲリ」の音に似ていたこともあり、“実在の麒麟”として珍重したと言われる。【ウィキペディア】
***************
そういう訳で、鄭和とキリンは深い関係があるようです。 -
こちらはシマウマ
-
これはちょっと判別しづらいかもしれませんが、ゾウです。
頭、耳、鼻がちょっと縮んでしわくちゃになった感があります。
全く未知のものを正確に把握するのは難しいことで、単に描き移すだけでも既存の概念が邪魔してうまくいかなかったのでしょうか。
それとも絵師は現物を見ていないのでしょうか。 -
先述のように、鄭和が訪れたエリアの文化・風土を紹介するものなども展示されています。
鄭和船団は世界各地の珍しい産物を持ち帰りましたので、その船「宝船」は文字通り宝の船だったことでしょう。 -
焼き物は全くその価値がわかりません。
-
-
当時の時代を紹介したものも展示されています。
-
詳しく解説を読んでいませんので、マラッカなのか、明なのか・・・そのあたりすら定かではありませんが、昔の風俗は非常に興味深いものがあります。
写真は農耕に関するものです。 -
鉱物の製錬技術や兵器に関するもの
-
“大砲を備えた潜水艦”とありますが、実在したのでしょうか?
勝手に想像したものでしょうか?
よくわわかりませんが、見ていると興味がつきません。
興味はつきませんが、見ているうちに蚊にあちこち刺されてしまいました。
日本ではデング熱を騒いでいますが、本場マレーシアでも大流行で、しかも強毒化して重傷者が増えているとか。
とにかくかゆくなったので退散。 -
鄭和文化館2階から眺めた街並み
文化館を出て、昼食できる店を探したのですが、オランダ広場近くの店はお昼時で混んでいたり、なんとなく入りづらかったりで、結局、文化館付近にもどり、近くのお店で昼食。 -
昼食後、オランダ広場からマラッカ川下流方向へ。海洋博物館なるものがあるようです。
しばらく行くと一般公開されている船が見えてきました。 -
観光クルーズ船はあのあたりから出るようです。
海洋博物館を見学したら乗ってみましょう。 -
公開船の手前の建物も博物館。
ここが海洋博物館だろうか・・・と入ってみましたが・・・・ -
でも館内の展示は、「一体これ何?」と首をかしげるものばかり。
押収された密輸品とか、関税の計算に使用した計算機や秤・・・。
はっきり言って、一般の人間には見ても仕方がない品ばかりです。
ここは、税関を管轄する役所が運営している、管轄業務に関する博物館のようです。確かに表の表示もそのようになっていたような・・・・
何か1枚だけでも写真を・・・ということで、密輸船摘発の様子を描いた絵を撮影
ただ、館内は涼しく、しばらく中で汗が引くのを待ちました。
料金はいらなかったような気がします。当然です。(海洋博物館とこみこみになっているようでもありました)
とにかくマラッカは、特にオランダ広場一帯は博物館だらけで、ここみたいに政府機関が管轄業務関するものを集めた博物館も多数あります。
各政府機関は博物館をつくるように・・・といった政府方針でもあるのでしょうか? -
結局、この船自体が「海洋博物館」でした。
入館料は6RM(約200円)
****************
その昔、マラッカの貴重な財宝を積み母国へ帰る途中、マラッカ海峡に沈んだポルトガルの交易船「フロール・デ・ラマール丸」を復元した人目を引く博物館です。
海運都市として栄華を極めたマラッカ港の歴史、貿易に関する写真、海図、船舶模型が展示されています。【Tony Kansai(トニー寛斎)氏のサイト“Melaka Guide”】
***************** -
館内と言うか船内には、海洋国家マラッカの歴史をたどる交易や列強の植民地支配などに関するジオラマ、模型、絵画などが展示されています。
写真は、薄暗いせいでうまくとれていませんが、往時の交易の様子を再現したものです。 -
船も、ポルトガル、オランダ、イギリス、アラビア、中国・・・・様々国の船の模型が展示されています。
帆船マニアは必見です。そういう方がいらっしゃれば。 -
ポルトガルのマラッカ支配を描いたものでしょう。
そのポルトガルはオランダに駆逐され、更にイギリスに変わり・・・欧州列強(の東インド会社)による植民地支配と、それへの抵抗運動が続きました。 -
イギリス支配当時の写真
変遷する歴史の過程は面白いのですが、いかんせん長文の英語の解説を読む気力も能力もないので、ざっと展示品を眺めるだけで。 -
昔の人々の世界観を知るうえで、当時の地図は参考になります。
いつの時代のものだか忘れましたが、この地図などはかなり正確です。
18世紀だったような気がしますが・・・。
床に置かれた地図をしゃがんで眺めていたら足の指がつりました。疲れもたまってきたようです。
この地図が置かれていたエリアは本館とは別で冷房もありません。
いったん外にでましょう。 -
海洋博物館の向いにはマーケットがありました。
昔の生活を知るなら博物館ですが、今の生活を知るにはマーケットです。 -
マッラカでは、お菓子を三角錐の包装に包んで売っていることが多い・・・ということがわかりました。だからどうした・・・という話ではありますが。
-
鄭和文化館や海洋博物館など、今日は室内で時間を過ごしてきましたので、ここはクルーズ船で川風に吹かれてみましょう。
「行った先でどうしようか?」とも考えていたのですが、15分ほど川をさかのぼり、また出発地点にもどってくるという往復コースでした。
料金は15RM(約500円) -
川風が気持ちいい・・・と言いたいのですが、座った場所がボートの先端で、ボートの向きによっては日が差し込んできます。
ただ、視界を遮る人影などもありません。 -
川岸の家々の壁には大胆な絵が描かれています。
あとで知ったのですが、これは市当局の観光政策の一環だそうです。
写真のような女性を描かれるのはいいとしても・・・ -
レンコンや月餅を自宅に描かれるのはどうでしょうか・・・。
歴史遺産の街マッラカの風情を台無しにする愚策との批判もあります。 -
30分ほどの船旅を終え、オランダ広場付近に戻ってきました。
写真は砲台ですが、オランダ時代もものだったか・・・定かではありません。 -
オランダ広場周辺の模型
左手上部がオランダ広場 丘の上にセント・ポール教会など 丘の反対側(右手)にはスルタン・パレス(王宮博物館)やサンチャゴ砦。
丘の麓(写真下部)に並ぶ建物のいくつかも博物館です。 -
オランダ広場からサンチャゴ砦に向かう途中にあったいくつかの博物館のうち、「民族と美の美術館」に入ってみました。
入館料は3RM(多分)
あとで「歩き方」を見ると、“世界各地の民族の奇習、美意識がテーマ。装身具や入れ墨、骨の変形などが、写真や模型でマニアックに紹介されている。バックハッカーに人気の穴場スポットだ。2階は凧の展示室になっている。”と紹介されていました。
ただ、そういうマニアックな展示(マレーシアにはボルネオ先住民がいる関係でしょう)は一部で、むしろ伝統文化の紹介などがメインです。
写真はマレーシアの各民族の衣装 左から中国系、プラナカン(ババ・ニョニャ)、ポルトガル系、マレー系、インド系でしょうか。 -
展示写真から
女の子遊び
以前、マレーシア北東部のコタバル(マレー文化の伝統が強く残る地域)に行った際に見たことがあります。 -
こちらは人形で、やはりマレー文化のひとつ、コマ回し。
コタバルで見るつもりでしたが、機会がありませんでした。 -
同じく凧揚げ
左上のような凧がオーソドックスなもののようです。 -
なかには「モスラ」凧も
-
なぜか「板橋区 親子たこ揚げ大会」の凧も
-
こちらは「長崎パークサイドホテル」
長崎では、国際的なたこ揚げ大会が開催されているようです。 -
凧のいろいろ
-
博物館を出て、やってきたのが有名な「サンチャゴ砦」(ファモサ要塞)
1511年にマラッカ王朝を駆逐し植民地経営に乗り出した大航海時代の覇者ポルトガルによって建造された砦です。
当時は、このあたりが海岸線だったそうです。
***************
マラッカ海峡から攻め込んでくる外敵の侵入を防ぐため、司令本部を含むセントポールの丘の周囲をグルリと囲む高さ5メートルもの城壁が築かれました。ポルトガル軍進駐当時、城内に出入りする通用門として4ヶ所の門(ゲート)が設置されました。サンチャゴ砦はその4つの門のうち現存するたった一つのゲートです。【(Tony Kansai(トニー寛斎)氏のサイト“Melaka Guide”】
***************
観光客が必ず訪れるマラッカを代表するスポットで、史跡的な価値もあるものですが、非常に小規模で、個人的には「なんだ、これだけ?」というのが正直な感想でした。 -
この日の観光を終えてホテルに帰る途中、ジョンカー・ストリートで飲んだ「黄梨水」
***************
黄梨水はフレッシュなパイナップルを砂糖水とともに煮込み、そのままキーンと冷やしたもの。
パイナップルの甘い香りとともに、さわやかな酸味が喉をすり抜け、思わずウマイー!とうなってしまう。【「マッラカ ペナン 世界遺産の街を歩く」(ダイヤモンド社)】
****************
私の飲んだ「黄梨水」はなまぬるく、いまいちの感がありましたが、パイナップルと砂糖水ですからまずくはありません。
2RMしなかったと思います。 -
夕食をとった、ジョンカー・ストリートがヒーレン・ストリートに交差するあたりにある中華系のお店
-
単なる豚肉料理ですが、とても美味でした。ミネラルウォーター含みで9RM(約300円)
明日は「ヒーレン・ストリート」を歩き、「ババ・ニョニャ」文化に触れてみようか・・・・と思っています。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
azianokazeさんの関連旅行記
マラッカ(マレーシア) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
47