2014/08/13 - 2014/08/13
157位(同エリア928件中)
k.sさん
今年に入ってから明日香へは、4度足を運んでいる。後2回ほど明日香を訪ね、旅行記を書くかどうかは別にして、それで万葉集とは一旦距離をおこう、と考えていたが、”そう言わずに後暫く付き合え”と言われたように感じることが起こった。
これも何かの縁と思い、それならば、全国の万葉集ゆかりの地を巡るのも悪くない、と思い、資料作りに励んでいる。
最初のスタートは、中大兄皇子(天智天皇)で、最後の締めは、民謡の調べが濃厚な、私の一番好きな山上憶良の九州・博多”志賀島漁民秘話”。勿論、万葉集のトリである大伴家持の歌も紹介する積りだ。
アルバイトで仕事をしているが、春休み、夏休み、冬休みと学生みたいに長期休暇があるので、2〜3年で回れる筈だ。
さて、一昨日、明日香を歩き回った。今回は、中大兄皇子の万葉歌の紹介と、何故長く天皇に即位しなかったのかを探ってみようと思う。
自宅から明日香までは、車で行き、甘樫丘の駐車場に車を置いた。歩いた時間は、8時半から3時くらいまでだ。
歩いた道順は、下記の通り。
甘樫丘->飛鳥坐神社->飛鳥寺->万葉文化館->藤原鎌足誕生地->伝飛鳥板蓋宮跡->稲淵->飛鳥川の飛石->南淵請安の墓->朝風峠->高松塚古墳->飛鳥駅->牽牛子塚古墳->甘樫丘
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
PR
-
甘樫丘駐車場
ここからスタートします。 -
甘樫丘 − 飛鳥古都
-
甘樫丘
左手に見える、こんもりとした山が香具山。右手の奥に見えるのが、耳成山です。
中大兄皇子の歌1首を紹介しよう。新羅征討(661)の折り、播磨で詠んだ三山妻争いの歌だ(巻1-13)。
香具山は
畝傍ををしと
耳梨と
相争ひき
神代より
かくにあるらし
古(いにしへ)も
然(しか)にあれこそ
うつせみも
妻を
争ふらしき
最初、この歌を知った時、額田王と弟である大海人皇子との三角関係を詠ったものと早合点したが、全く関係がないらしい。新羅征討の時期では、早すぎるということだろう。
しかし、この歌は問題。これから勇ましく新羅を征伐しようとするとき、なよなよと妻争いの歌など詠みますか?実際にこの時期に中大兄皇子が三角関係に悩んでいないと詠まないと思う。歌の調べから、中大兄皇子自身、かなり心が弱っており、相手が中大兄皇子にとって、とても特別な人だと推測されます。 -
甘樫丘
畝傍山です。展望台からは、左手(西側)に見えます。 -
飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)
甘樫丘から10分ほどで到着。本日は、鳥居に挨拶し、次を急ぎます。 -
飛鳥寺
中大兄皇子と生涯全幅の信頼を置いた藤原鎌足の出会いは、ここ飛鳥寺だったと伝えられている。
たまたま飛鳥寺の西側の槻の木の下であったけまりの会で、脱げ落ちた中大兄皇子のくつを拾い、恭しく奉って以来、二人は意気投合するようになった、と伝えられる。
頭が良くて、豪胆な鎌足を傍に置くことが出来たことは中大兄皇子にとって、幸せだったと思う。才気煥発で、我が強い中大兄皇子だが、鎌足の言葉だけは、素直に受け入れることができたようだ。 -
万葉文化館
万葉文化館を訪れるのは、これで2度目だが、生憎10時からの開館で、30分ほど時間があるので、今回は外から眺めるだけにする。
最初訪れた時は、一般展示室の万葉劇場の椅子に腰掛け、山部赤人、額田王などを映像と音声で説明するのを楽しく観賞させてもらった。それと、私の目を釘付けにさせた展示物は、皇族系図だ。
皇族系図は、近い親族同士の婚姻があるので、かなりややこしいが、天智天皇(中大兄皇子)を中心に見てゆくと、”立派な系図”といった印象が持てなかった。
皇后である倭姫王との間には子供ができず、遠智娘(蘇我倉山田石川麻呂ノ女)との間にできた建皇子(たけるのみこ)は、耳が聞こえず、言葉を発することもなく、8歳で亡くなっている。
手相と同じように、系図が中大兄皇子の多難な人生を暗示しているように思えてならない。 -
万葉文化館の玄関口
-
小原の里
飛鳥時代は、大原と呼ばれ、藤原鎌足の里。万葉文化館からは、徒歩
5分といたって近い。 -
小原神社
この奥に、藤原鎌足産湯の井戸がありますよ。今回は見に行きます! -
真神原(まかみのはら)
何度歩いても”まかみのはら”は私のお気に入りです。気持ちがいいです。 -
伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみやあと)
奥のこんもりした丘が甘樫丘です。
ところで、大化の改新(645)の口火を切る乙巳の変が起こったのは、ここ飛鳥板蓋宮だが、まず、大化の改新前夜の時代を考えてみよう。
皇極2年(643)聖徳太子の皇子である斑鳩の山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)を蘇我入鹿が襲い、皇子だけでなく、妃妾、子弟全員を自害に追いやり、太子の血脈を絶えさせた。これに対し、入鹿が制裁されたかというと、制裁を加えられる者は誰もいなかった。
蘇我氏の国政をほしいままにし、無礼な振る舞いは、目に余るものがあった。葛城の高宮(たかみや)に先祖の廟を建て、「天子の舞」とされていた舞を舞わせたり、蝦夷・入鹿父子のために今来双墓(いまきのならびのはか)を造り、陵(みささぎ)の呼称は、天皇、皇后に限られいるにも拘らず、「大陵・小陵」と呼ばせた。
こうした蘇我氏の横暴に対し、反感が爆発したのが、乙巳の変だ。
皇極4年(645)6月12日、三韓(高句麗、百済、新羅)から、調(みつき)が献上された日に、ここ飛鳥板蓋宮で、皇極天皇の御前にもかかわらず、蘇我入鹿が暗殺された。
三韓の上表文が読み上げ始められた時、中大兄皇子は、十二の宮城門をいっせいに閉鎖させ、長い槍を持って大極殿のわきに隠れたと伝えられる。
誕生月が分からないので、正確な年齢ではないが、中大兄皇子が20歳の時である。
こうして中大兄皇子が華々しく歴史の表舞台に躍り出た。 -
伝飛鳥板蓋宮跡
乙巳の変後、中大兄皇子のお母さんである皇極天皇に退いてもらい、母の弟である軽皇子(かるのみこ)に天皇になってもらい、入鹿を殺したところでは、安定した政治ができないので、都を難波に移した。
ただし、難波で9年間政治をしたが、やはり飛鳥を離れて政治をすることは問題が多いので、白雉4年(653)、皇太子となっていた中大兄皇子は、孝徳天皇に「倭(やまと)の京に移りたい」と申し出たが、天皇はこれを許さなかった。
すると中大兄皇子は、間人(はしひと)皇后を奉じ、大海人皇子など諸皇子を引き連れ、難波から飛鳥に戻った。公卿、百官らもみな中大兄皇子に従った。いわゆる、孝徳帝”置き去り”事件である。ちなみに、間人皇后は、同母妹である。
孝徳天皇は、この事件がもとで亡くなられたが、その翌年(655)宝皇女(元皇極天皇)が斉明天皇となり、再度天皇に即位された。62歳になっていたといわれる。
ちなみに中大兄皇子は、30歳で、年齢も経験も申し分なく、孝徳天皇の時に皇太子になっていたので、この時天皇に即位するのに何等問題はなかった筈である。にも拘らず老いた母に再度天皇となってもらわないといけない何かが中大兄皇子に存在した。
恐らく、難波から飛鳥に戻り、孝徳天皇が崩御される間に、天皇即位に支障をきたす何らかのスキャンダルに巻き込まれた可能性があると想像できる。そして、そのスキャンダルは、公にできない、歴史の闇に葬り去られる性質のものだったのではないだろうか? -
稲淵(棚田)
石舞台で早い昼食(弁当)を食べ、吉野方面の道を選ぶと、稲淵に出る。
今日は、中大兄皇子と藤原鎌足の師である南淵請安の墓まで足を延ばす。 -
稲淵(棚田)
棚田を眺めながら歩いていたら、朝風峠が確認できました。写真中央の山端から左斜めに細い山道が通っていますが、その山頂部が”朝風峠”です。
朝風峠からの眺めも良かったですが、南淵山の麓から峠を見るのも風情があります。 -
飛鳥川の飛石
南淵請安の墓まではあと少しです。 -
南淵請安(みなみぶちしょうあん)の墓
南淵請安は、推古天皇16年(608)遣隋使学問僧として中国に派遣された。一つの国(隋)が滅び、そして律令体制に基づいて新たな国(唐)が興る様を目に焼きつけ、中国で32年勉学に励み、舒明天皇12年(640)に帰国した。没年は不明だが、飛鳥川の上流南淵に居住したと伝えられる。
中大兄皇子と藤原鎌足は、ともに南淵請安のもとで儒学を学び、蘇我入鹿打倒の計略を往復の路上で練ったと言われる。
南淵請安が、儒学を教える合間合間に話す、貴重な体験談は、若い二人にとって、掛け替えのないものとなったことは容易に想像できる。 -
南淵請安の墓
墓から石舞台方面を眺める。 -
男綱(おづな)
ここで下に行く道を選び、橋を渡れば、朝風峠に行けます! -
朝風峠
この峠からの景色には癒されますね!
朝風峠から高松塚古墳までの写真は今回割愛させてもらいます。
それらの写真を見たい方は、5月にアップした旅行記を読んで下さい。 -
飛鳥駅
やっと飛鳥駅に着きました。牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)は、あと少しなので、ここで水分補給と休憩をします。 -
牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)
写真左側のこんもりとした丘が牽牛子塚古墳です。
中大兄皇子の母である斉明天皇の陵は、これまで違うところと考えられていたが、近鉄飛鳥駅の西約500mの尾根上のこの牽牛子塚古墳が斉明陵と2010年報じられた。
斉明天皇は、百済救援のための”新羅征討”(661)に出発した、その年のうちに遠征先の九州で亡くなった。亡骸は海路で飛鳥に戻り、飛鳥の川原で殯(もがり)を行ったという。
二年後の663年、救援軍は、白村江(はくすきのえ)で、唐水軍に惨敗、百済も壊滅した。そして、日本は唐の脅威におびえることになるのである。
白村江の敗戦から4年、中大兄皇子は、やっと母親を葬ることができた。間人(はしひと)皇女は、孝徳帝”置き去り”時に、中大兄皇子とともに飛鳥に戻った孝徳帝の皇后で、同母妹だが、天智4年(665)に亡くなり、斉明天皇と合葬された。同じ日に、大田皇女は陵の前の墓に葬られたと伝えられている。大田皇女とは、中大兄皇子の娘で、大海人皇子の妃であるが、若くして亡くなった。
中大兄皇子は、どのような思いで、母と妹と娘を葬ったのだろうか?
翌月(天智6年10月-667年)、飛鳥を離れ、近江大津宮に遷都するが、即位するのは、天智7年1月3日(668年2月20日)になる。
大化の改新で歴史の表舞台に華々しく登場してから、即位するまで20数年掛かっている。その答えは、難波から飛鳥に戻り、孝徳天皇が崩御される間に、何があったのかに隠されていると思うのだが...。仮に、中大兄皇子と間人(はしひと)皇女との間に、道ならぬ恋愛関係があったとするならば、全てが腑に落ちる。但し、1300年以上も前のことなので、誰も確かめようがない。 -
牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)
この古墳はまだ発掘中らしい。ビニールシートは、斉明陵には似合わない。 -
牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)
古墳より東を望む。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- ryujiさん 2014/08/16 12:34:52
- 興味沸く旅行記です。
- こんにちは、k.sさん。
「万葉ロマン - 中大兄皇子」の旅行記を拝読しました。 小生にとってはわくわく、ぞくぞくの連続でした。 いい〜ですねぇ〜、現在こうした旅行記が少なすぎます。
k.sさんの結論と言うべき「なにゆえ中大兄皇子は天皇に(長い間)ならなかったか?」 所ですが、心憎い旅行記の進行ですね。 一旦は何もなかった様に読者に結論を考えさせておいて最後のしめ、これはお見事です。もっともこの事は(同母兄妹の只ならぬ関係)歴史研究家でも有力ですが、k.sさんが「腑に落ちる」と仰れば小生も同感です。
久しぶりに万葉ロマンを味わいました、ありがとうk.sさん。
ryuji
- k.sさん からの返信 2014/08/16 14:41:39
- RE: 興味沸く旅行記です。
- ryujiさんへ
コメント有難う御座います。
自分の思いが伝わるかどうか不安でしたが、力強い文章を書くryujiさんに理解していただき、安心すると同時に、万葉歌を紹介する旅行記を書き続ける勇気をいただきました。
こちらこそ、有難う御座います。
k.s
> こんにちは、k.sさん。
>
> 「万葉ロマン - 中大兄皇子」の旅行記を拝読しました。 小生にとってはわくわく、ぞくぞくの連続でした。 いい〜ですねぇ〜、現在こうした旅行記が少なすぎます。
>
> k.sさんの結論と言うべき「なにゆえ中大兄皇子は天皇に(長い間)ならなかったか?」 所ですが、心憎い旅行記の進行ですね。 一旦は何もなかった様に読者に結論を考えさせておいて最後のしめ、これはお見事です。もっともこの事は(同母兄妹の只ならぬ関係)歴史研究家でも有力ですが、k.sさんが「腑に落ちる」と仰れば小生も同感です。
>
> 久しぶりに万葉ロマンを味わいました、ありがとうk.sさん。
> ryuji
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