2014/09/27 - 2014/09/27
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k.sさん
鸕野皇女とは、持統天皇のことである。
今回は、明日香の秋の花を楽しみながら、鸕野皇女のことを考え、できれば彼女を描きたい、と思う。
私の敬愛する人は、60歳になったのを機に、水彩画を習い、個展を開き、画集を発行するまでに上手になられた。最初の画集が私の手元にある。明日香に出向く前に久し振りに取り出して眺めたが、彼の願いは、うまく描くことではなく、絵に品位が漂うこと。ドロドロとした人間関係に惹かれる私には、その絵は別世界といえるものだが、不思議と理解できる。
それらの絵に触発されて、私も絵を描きたくなったが、絵筆ではなく、文章で、若き日の持統天皇 - 鸕野皇女を描こう。ただし、姿かたちを描くのは、私の手に余る。その眼ならば、なんとか描けそうだ。
人は若いとき、自分が何者であるか、知らない。その時期の彼女の眼 - 孤独で憂いを湛えた瞳の奥に、鋭く才知が光る瞬間を描けたらと思うのだが...。
明日香に行ったのが、9月27日(土曜日)で、里山を真っ赤に染める彼岸花を期待していたが、一週間程遅かったようだ。ハギも盛りを過ぎていた。秋の草花を愛でるのならば、彼岸までに明日香に行った方がよさそうだ。
歩いた道順は、下記の通り。
甘樫丘駐車場->真神原->伝飛鳥板蓋宮跡->石舞台->祝戸地区->朝風峠->男綱->南淵山の麓->石舞台->伝飛鳥板蓋宮跡->甘樫丘駐車場
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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甘樫丘駐車場
いつものように甘樫丘駐車場に車を置き、スタート。 -
甘樫丘と飛鳥川
鸕野皇女の父は、天智天皇で、母は遠智娘(おちのいらつめ)といい、母方の祖父が蘇我倉山田石川麻呂である。
蘇我倉山田石川麻呂は、蘇我蝦夷の末弟、倉麻呂の長男で、入鹿の従兄弟にあたる。乙巳の変では、中大兄皇子や藤原鎌足に加担し、「三韓の上表文」を読み上げた人物だ。改新政権では、右大臣にまでなったが、謀反の疑いをかけられ、自ら首をくくって死んだ。石川麻呂の遺体は、首をはねられ、さらに太刀で死体を切り刻まれたといわれる。妻子ら8人が殉じ、連座して斬殺された者14人、絞首刑は9人、流罪は15人に上った。後に無罪がはっきりしたが、中大兄と鎌足は、初めから無罪を知りながら殺した、ともいわれている。
母の遠智娘は、父の死を嘆き、三人の子供を残し、やがて病死した。鸕野贅野皇女は、真ん中の子供で、上に姉である大田皇女、下に耳が聞こえず、言葉を発することもなく、8歳で亡くなった建皇子(たけるのみこ)がいる。父方の祖母である斉明天皇は、幼くして母を亡くしたこの3人の孫を哀れに思い、殊のほか可愛がったという。
だだし、母が注ぐ愛情と祖母のそれとは、別物だ。親からの愛情には、感謝の念など必要としないが、祖母のものには、注がれれば注がれるほど、息苦しい悲しみを感じる。また、建皇子が耳が聞こえなかったので、祖母の愛情が上の姉妹に十分に回らなかったと推測される。恐らく愛情に飢え、父である天智天皇に反発する眼を鸕野皇女は持っていたと考える。 -
真神原
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真神原
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真神原
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石舞台の休憩所近くの小道
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石舞台の休憩所近くから飛鳥川を撮る
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玉藻橋から(石舞台から祝戸地区への途中)
斉明3年(657年)、?贅野皇女13才のときに、父である中大兄皇子は、弟の大海人皇子(後の天武天皇)に嫁がした。中大兄皇子は彼女だけでなく大田、大江、新田部皇女の娘4人を弟の大海人皇子に与えた。
何故中大兄皇子は、弟の大海人皇子に自分の娘4人を嫁がせたか?このことを考えるのも面白いが、今回は割愛する。ともあれ、叔父である大海人皇子と結婚したことは、?贅野皇女にとって良かったと思う。
策略家で、神経質な父の手元を離れ、鷹揚で、男らしい決断力を持つ大海人皇子と結婚したことによって、鸕野皇女は、これまで感じてきた心の渇きをいくぶんかは慰められたと思う。ただし、幼い頃受けた心の傷は、一生消えない。眼のどこかに暗い影が残っていた筈だ。 -
祝戸地区で見つけたハギ (遠方に見えるのは多武峰)
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祝戸地区から見る南淵山
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祝戸地区から見る棚田
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祝戸地区から見る棚田
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祝戸地区から見る棚田
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祝戸地区のヒガンバナ
斉明7年(661年)、新羅征討の時には、夫とともに天皇に随行し、九州まで行った。その地で鸕野皇女は草壁皇子を産んだ。翌年に姉の大田皇女が大津皇子を産んだが、大田皇女が大津遷都(667年)以前に亡くなったので、鸕野皇女が大海人皇子の妻の中でもっとも身分が高い妻となった。
地位が人を作るといわれるが、ほんとうのことだと思う。姉の大田皇女が亡くなって、改めて自分の立場を見つめ直し、彼女の眠っていた才能、父親譲りの策略家といおうか、政治家としての才能が目覚めた、と思う。 -
祝戸地区のムクゲ
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朝風峠から見る稲淵
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朝風峠近くの展望台から見たヒガンバナの群落
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朝風峠近くの展望台付近
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案山子ロードに生えるヒガンバナ
古代最大の争いである壬申の乱(672年)の時の?贅野皇女の動きを見ていると、獲物を狙う鷹の眼が連想される。
壬申の年の6月24日、僅か40人程で吉野を進発。25日鈴鹿山脈、26日桑名、27日今日の関が原に進み、そこを大本営にし、近江に攻め込む。近江が全滅したのが、7月23日だから、わずか1ヶ月程で、近江朝廷を滅ぼしたことになる。
壬申の乱の主人公は、夫の大海人皇子である。だが、?贅野皇女もこの行軍に同行している。何故?贅野皇女を同行させたのか?この作戦の要である、関が原を押さえ、近江朝廷と東国との連絡を遮断することを進言したのは、妃である鸕野皇女ではなかったか、と密かに考えている。いずれにせよ、?贅野皇女は、この作戦に深く関わっていることは疑いようもない。
吉野を進発した時は、僅か40人足らずだったものが、夫の大海人皇子に同調する者が増え、関が原に陣取って、尾張の兵2万人が帰順したときは、勝利を確信したのではないだろうか。 -
案山子ロードに生えるヒガンバナ
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案山子ロードに生えるヒガンバナ
持統天皇は、在位中に吉野に31回も行幸している。異常に多い回数だが、自らの知力を試され、その試練に打ち勝ち、新しい自分を見出した地として、吉野があるからではないだろうか?
今回、私は、鸕野皇女が、夫の大海人皇子に同行し、吉野を進発するときの眼を描きたかった。憂いを湛えた瞳の奥に、鋭く光るものがある。
同じ眼を大津皇子を謀殺した時もしていただろう、と思う。天皇にならなければ、生きてゆけない、と唆し、謀反の罪で、処刑した。夫である天武天皇の多くの皇子の中で、一番夫に似た、文武両道に秀でた皇子。また、姉である大田皇女の息子でもある大津皇子の存在を許すことができなかった。冷静沈着に策を弄し、罠にかかれば一気に襲い掛かる。まさにそれは、鸕野皇女が嫌おうとした父・天智天皇と同じ眼だった。 -
南淵山の麓からみる風景(道は飛鳥駅に通じている)
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石舞台のススキ
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真神原 (向かって右に見える山が香具山)
大津皇子を謀殺したにも拘わらず、頼みの息子、草壁皇子は、天皇にならずに亡くなってしまった。ただし、鸕野皇女は天皇の位を他の皇子に回さなかった。一旦、自らが天皇に即位し、孫である軽皇子(かるのみこ)が15歳になったのを機に天皇の位を軽皇子に譲った。文武天皇である。
時代が変わり、鸕野皇女も変わった。
最後に、持統天皇の歌1首を紹介しよう。藤原宮の大極殿あたりから、香具山を見て、詠まれた歌ではないか、といわれている。その歌には、若き日の鸕野皇女の面影はない。張り切った、格調高い歌で、堂々としている。(巻1-28)
春過ぎて
夏来(きた)るらし
白たへの
衣干したり
天(あめ)の香具山
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