2014/07/06 - 2014/07/06
59位(同エリア129件中)
滝山氏照さん
国道17号と並行して走る旧中山道(県道392号)に建立する陽雲(よううん)寺から徒歩5分ほど東進し金窪城跡の案内板を左折し保育園を更に左折暫く歩くと金窪城(かなくぼじょう、埼玉県児玉郡上里町)公園が見え、同公園向かい側に城跡の石碑と説明板があります。
金窪城は平安時代末期の治承年間(1177~1180)に武蔵七党の丹党から出た武蔵国高麗郡加治荘の豪族加治家季(かじ・いえしげ)が築城したと伝えられています。家季は鎌倉幕府の御家人として重用され、源頼朝が上洛する際には随兵として名を連ねている武将です。
更に元弘年間(1331~1334)に新田義貞(にった・よしさだ、1300~1338)は幕府撃滅の為鎌倉を目指す途中、家臣の畑時能(はた・ときよし、生誕不明~1341)に城の改修を命じ一時城代とします。
室町時代には斎藤氏の所領となり盛光(もりみつ)の頃は管領山内上杉氏の下で働き、天文15年(1546)の河越の夜戦で山内上杉氏連合軍は大敗して上杉憲政(うえすぎ・のりまさ、1523?~1579)は上野国平井城に敗走、主家の凋落ぶりに失望した斎藤氏は曾孫の定利(さだとし)の代になると小田原北条氏に属することになります。
天正10年(1582)6月織田信長重臣の滝川一益(たきがわ・かずます、1525~1586)と小田原北条氏の北関東方面司令官とも言うべき鉢形城主の北条氏邦(ほうじょう・うじくに、1541~1597)の神流川合戦では北条氏に仕えていた斎藤氏一族はすべて討死しまた城も兵火にかかり焼失して斎藤氏は滅亡します。
天正18年(1590)小田原北条氏が豊臣秀吉の小田原城包囲に戦意を失い降伏し滅亡、徳川家康が旧小田原北条氏の遺領を引継ぎ関東に入封します。
家康の江戸入国に伴いこの地は武田信玄甥で武田氏滅亡後家康の旗本に取立てられ、関ヶ原・大坂の陣で軍功あげた川窪信俊(かわくぼ・のぶとし、1564~1639)の所領となり陣屋が置かれますが、元禄元年(1698)当主武田信貞(たけだ・のぶさだ、寛永4年(1664)武田に復姓許される、1631~1711)の頃丹波国へ転封となりこれを機に陣屋は廃されます。
2023年9月16日追記
現地に建てられたやや古びた説明板には下記の通り記載されています。
『 金 窪 城 跡
館跡は西と東に清水が流れ、帆が死に小溝があり東から南へは平らな地つづきである。今でも土塁が三ヶ所残っており、中央の一区域を太都城あるいは金窪城といい、上野と武蔵国境にあり要害の地であった。
治承年間(約780年前)に加治家季が築城したと伝え、元弘年間(約630年前)新田義貞が築城してその武将畑時能が城主であったとも伝えられている。
後寛正の頃(約500年前)斎藤実盛子孫の居城となりその曽孫定利のとき天正10年6月(約400年前)滝川氏、北条氏の神流川合戦の際、兵火にかかって消失し、北条方の城主斉藤家は没落した 』
- 旅行の満足度
- 3.0
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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金窪城址看板
旧中山道を本庄に向けて歩きますと、道路の右側に案内板が設置されています。 -
外堀に代わる川
城跡北側を流れる川は金窪城の外堀としての役割を果たしています。 -
金窪城跡入口
金窪城跡にはいる目印は稲荷神社の赤い鳥居です。(自分も途中で道が不明となり近隣の人に尋ねました) -
金窪城跡全景
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金窪城跡石標
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金窪城跡石碑
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金窪城跡石碑裏面
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金窪城跡説明板
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金窪城見取図
簡潔な見取図につき本来の城域がわかりません。 -
金窪城跡遺構(写真)
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金窪城跡説明
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城跡土塁
石碑後背地はわずかながら土塁が残っています。 -
城跡土塁
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金窪城跡内部
石碑から道路方向を捉えます。 -
金窪城址公園
城跡石碑から公園方向を捉えます。 -
金窪城址公園正門
昼前に辿り着きましたが公園内には暑さのせいか誰一人として見かけません。 -
金窪城址公園
静かな公園内には高い樹木が見られます。 -
金窪城跡石碑
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金窪城跡土塁
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金窪城跡土塁
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三国道入口
本来はこの石柱を目印として入れば直進して赤い鳥居に出ます。
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