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上武境目を流れる神流川(かんながわ)は天下布武を推し進める織田信長の四天王の一人と言われる宿老滝川一益(たきがわ・かずます、1525~1586)にとって絶頂の時期から奈落の底に突き落とされた因縁の河川と言えます。<br /><br />天正10年(1582)信長嫡男信忠(のぶただ、1557~1582)を司令官とする徳川軍との連合軍が武田領を攻めたてこれに軍監として随身、結果として天目山における勝頼討伐に並々ならぬ戦功を挙げた一益はめったに誉めない信長より最大の賛辞を得ます。<br /><br />武田氏滅亡後の恩賞について一益が信長秘蔵の「珠光の小茄子の茶器を所望」に対し信長は「まだまだ隠居する歳ではあるまい」としてこれを退け上野国と信濃国の佐久・小諸の2郡を与え引き続き関東統治の取次役として関八州の鎮撫と奥州の支配化を勤めるよう大役を与えます。<br /><br />これを受け一益は気持ちを切り替えてまず箕輪城に居城し西上野の諸城を手なずけたのち上野国厩橋(うまやばし)城(現在の前橋城)に入城することになります。<br /><br />しかしながら同年6月2日京都本能寺滞在の信長は明智光秀謀反を受け信忠と共に自刃、一益にとっては冷水を浴びせられた凶報が6月7日届きます。<br /><br />信長横死の報に接した一益は熟慮した結果でしょうか重臣を説得、新参の各国主武将らを招集し「信長公の恩顧を受けた立場故この際明智光秀と一戦に及び遺児の織田信雄公及び信孝公の安泰を計りたい。関東の案件を討ち捨てて上洛する事本意ではないがこれをかえりみるには忍びない。貴公らがこの機に乗じて戦いを挑み自分の首級を小田原北条氏に差し出したいなら当方受けて戦う次第である。」と言い放ちますと一同感心し「上洛されるのであれば道中お見送り致したし」との一益を支持協力する態勢が生まれます。<br /><br />事情を伝えるべく鉢形城主北条氏邦(ほうじょう・うじくに、1541~1597)あて使者をたてる一方関東勢1万騎に上方から率いてきた8千騎を加えた計1万8千騎で17日早朝に厩橋を出立、18日には和田に着陣し小田原北条勢の動きを見定まます。<br /><br />他方一益の上洛を伝え聞いた氏政(うじまさ、1538~1590)は上野計略の好機と捉え息子氏直を大将とする軍勢を派遣、弟氏邦には手持ちの軍勢で一益対応を命じます。<br /><br />神流川合戦の詳細について上里町ホームページによれば下記の状況になります。<br /><br />『神流川合戦は6月18・19日の2度にわたって行われています。初戦は、6月18日巳の刻(御前10時頃)よりはじまり、深谷・忍衆を含む鉢形城主北条氏邦(3千騎)と上野国衆(8千騎)がたたかいました。この初戦では、石山大学・保坂大炊助などの武将をはじめ300騎が討たれた北条氏邦の敗北で終わりました。伝承によれば、この敗北によって金窪城が焼失したと伝えられています。<br /><br />2度目の戦いは、6月19日未明、小田原より到着した北条氏直と滝川一益による総力戦が展開されました。数万(3万騎)の北条軍に対して、半分(1万8千騎)程の軍勢であった滝川軍はよく戦い、前半は滝川軍優勢のうちにすすみましたが、北条軍の迂回作戦によって工法を攪乱された滝川軍は軍を乱し、倉賀野方面へ敗走しました。<br />この乱戦の中で、滝川一益の重臣笹岡平右衛門は、敗走する上野軍を後目に旗本衆とともに北条軍の本陣をめざして進み、討ち死にをとげています。こうして、神流川合戦は、北条軍勝利のうちに終わりを告げました。』<br /><br />敗戦を見た一益は倉賀野城を経て厩橋に戻り城下の長昌寺において戦死者の供養を行い20日に上州衆を箕輪城に招き別離の酒宴を開き、太刀、金銀、秘蔵の懸物等を参席の上州国人に与え同夜箕輪城を去ります。<br /><br />一益は碓氷峠を越えて小諸を経て7月1日に本領の伊勢に帰り着きましたがいわゆる織田家の跡目相続や信長・信忠の遺領の分配を決めた清州会議(6月27日)に出席できず織田家における一益の地位は急落してします。<br /><br />影響力を失った一益の晩年の働きは歴史のごく脇役しか与えられず、しかもその結末はみじめなものでした。<br /><br />天正11年(1583)の賤ヶ岳(しずがたけのたたかい)の戦いで柴田勝家に与した結果勝家の北ノ庄自害で豊臣秀吉に降伏、伊勢の本領をすべて没収、次に天正12年(1584)小牧・長久手の戦いでは秀吉に隠居地の越前から呼び出され秀吉方として家康・織田信雄と戦いますが蟹江城から信雄方を追放するもその後家康らに包囲され敗走するに至ります。<br /><br />同年7月秀吉は一益の二男一時(かずとき、1568~1603)に1万2千石を与えて家督を継がせ、一益には3千石の隠居料を与え、一益と共に蟹江城に立て籠もった長男一忠は追放処分とされます。<br /><br />天正14年(1586)9月9日 62年の生涯を閉じます。』<br /><br />

武蔵上里 本能寺の変で関東支配の道筋が狂い天下の清洲会議出席を阻止された重臣滝川一益が宿敵小田原北条氏と争い破れた『神流川合戦跡』散歩

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2014/07/06 - 2014/07/06

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滝山氏照

滝山氏照さん

上武境目を流れる神流川(かんながわ)は天下布武を推し進める織田信長の四天王の一人と言われる宿老滝川一益(たきがわ・かずます、1525~1586)にとって絶頂の時期から奈落の底に突き落とされた因縁の河川と言えます。

天正10年(1582)信長嫡男信忠(のぶただ、1557~1582)を司令官とする徳川軍との連合軍が武田領を攻めたてこれに軍監として随身、結果として天目山における勝頼討伐に並々ならぬ戦功を挙げた一益はめったに誉めない信長より最大の賛辞を得ます。

武田氏滅亡後の恩賞について一益が信長秘蔵の「珠光の小茄子の茶器を所望」に対し信長は「まだまだ隠居する歳ではあるまい」としてこれを退け上野国と信濃国の佐久・小諸の2郡を与え引き続き関東統治の取次役として関八州の鎮撫と奥州の支配化を勤めるよう大役を与えます。

これを受け一益は気持ちを切り替えてまず箕輪城に居城し西上野の諸城を手なずけたのち上野国厩橋(うまやばし)城(現在の前橋城)に入城することになります。

しかしながら同年6月2日京都本能寺滞在の信長は明智光秀謀反を受け信忠と共に自刃、一益にとっては冷水を浴びせられた凶報が6月7日届きます。

信長横死の報に接した一益は熟慮した結果でしょうか重臣を説得、新参の各国主武将らを招集し「信長公の恩顧を受けた立場故この際明智光秀と一戦に及び遺児の織田信雄公及び信孝公の安泰を計りたい。関東の案件を討ち捨てて上洛する事本意ではないがこれをかえりみるには忍びない。貴公らがこの機に乗じて戦いを挑み自分の首級を小田原北条氏に差し出したいなら当方受けて戦う次第である。」と言い放ちますと一同感心し「上洛されるのであれば道中お見送り致したし」との一益を支持協力する態勢が生まれます。

事情を伝えるべく鉢形城主北条氏邦(ほうじょう・うじくに、1541~1597)あて使者をたてる一方関東勢1万騎に上方から率いてきた8千騎を加えた計1万8千騎で17日早朝に厩橋を出立、18日には和田に着陣し小田原北条勢の動きを見定まます。

他方一益の上洛を伝え聞いた氏政(うじまさ、1538~1590)は上野計略の好機と捉え息子氏直を大将とする軍勢を派遣、弟氏邦には手持ちの軍勢で一益対応を命じます。

神流川合戦の詳細について上里町ホームページによれば下記の状況になります。

『神流川合戦は6月18・19日の2度にわたって行われています。初戦は、6月18日巳の刻(御前10時頃)よりはじまり、深谷・忍衆を含む鉢形城主北条氏邦(3千騎)と上野国衆(8千騎)がたたかいました。この初戦では、石山大学・保坂大炊助などの武将をはじめ300騎が討たれた北条氏邦の敗北で終わりました。伝承によれば、この敗北によって金窪城が焼失したと伝えられています。

2度目の戦いは、6月19日未明、小田原より到着した北条氏直と滝川一益による総力戦が展開されました。数万(3万騎)の北条軍に対して、半分(1万8千騎)程の軍勢であった滝川軍はよく戦い、前半は滝川軍優勢のうちにすすみましたが、北条軍の迂回作戦によって工法を攪乱された滝川軍は軍を乱し、倉賀野方面へ敗走しました。
この乱戦の中で、滝川一益の重臣笹岡平右衛門は、敗走する上野軍を後目に旗本衆とともに北条軍の本陣をめざして進み、討ち死にをとげています。こうして、神流川合戦は、北条軍勝利のうちに終わりを告げました。』

敗戦を見た一益は倉賀野城を経て厩橋に戻り城下の長昌寺において戦死者の供養を行い20日に上州衆を箕輪城に招き別離の酒宴を開き、太刀、金銀、秘蔵の懸物等を参席の上州国人に与え同夜箕輪城を去ります。

一益は碓氷峠を越えて小諸を経て7月1日に本領の伊勢に帰り着きましたがいわゆる織田家の跡目相続や信長・信忠の遺領の分配を決めた清州会議(6月27日)に出席できず織田家における一益の地位は急落してします。

影響力を失った一益の晩年の働きは歴史のごく脇役しか与えられず、しかもその結末はみじめなものでした。

天正11年(1583)の賤ヶ岳(しずがたけのたたかい)の戦いで柴田勝家に与した結果勝家の北ノ庄自害で豊臣秀吉に降伏、伊勢の本領をすべて没収、次に天正12年(1584)小牧・長久手の戦いでは秀吉に隠居地の越前から呼び出され秀吉方として家康・織田信雄と戦いますが蟹江城から信雄方を追放するもその後家康らに包囲され敗走するに至ります。

同年7月秀吉は一益の二男一時(かずとき、1568~1603)に1万2千石を与えて家督を継がせ、一益には3千石の隠居料を与え、一益と共に蟹江城に立て籠もった長男一忠は追放処分とされます。

天正14年(1586)9月9日 62年の生涯を閉じます。』

旅行の満足度
3.5
交通手段
JRローカル 徒歩
  • 神流川鉄橋<br /><br />JR高崎線新町駅方向の鉄橋を捉えます。

    神流川鉄橋

    JR高崎線新町駅方向の鉄橋を捉えます。

  • 神流川流域<br /><br />河原は草に覆われ足を入れることが困難な状況です。

    イチオシ

    神流川流域

    河原は草に覆われ足を入れることが困難な状況です。

  • 河川標識版<br /><br />「かんな川」の国土交通省標識版が建っています。

    河川標識版

    「かんな川」の国土交通省標識版が建っています。

  • 「神流川古戦場と渡場」説明板<br /><br /><br />「 神流川古戦場と渡し場 (説明板上部渡し場絵画は掲載略)<br /><br />神流川合戦は、天正10年(1582)6月18-19日の両日にわたって、武蔵・上野国境の神流川を舞台としておこなわれた織田信長の武将厩橋城主滝川一益と鉢形城主北条氏邦・北条氏直との戦いです。別名金窪原の戦いとも云われ、金久保・毘沙吐周辺が神流川古戦場跡として伝えられています。<br /><br />また、ここには中山道神流川の渡し場がありました。その様子は渓斎英泉によって描かれた「本庄宿神流川渡場」で見ることができます。そこに描かれている燈籠は、埼玉県側と群馬県側に1基ずつあって、「見透灯籠」と呼ばれていました。<br /><br />この見透燈籠は、文化12年(1815)本庄宿の戸谷半兵衛が、寄進したもので、正面には大窪詩仏による「常夜燈」、と桑原北林による「金毘羅大権現」の文字が、右側面には、「燈に背かざりせば凋路にも遠わせまじ行くも帰りも」と田口秋因の和歌が、刻まれています。しかし、せっかくの建立されたこの燈籠も文政5年(1822)秋の洪水で倒れ、その後、安静4年(1857)に発見されて現在は大光寺へ移転されています。<br />                     上里町教育委員会 」<br />

    「神流川古戦場と渡場」説明板


    「 神流川古戦場と渡し場 (説明板上部渡し場絵画は掲載略)

    神流川合戦は、天正10年(1582)6月18-19日の両日にわたって、武蔵・上野国境の神流川を舞台としておこなわれた織田信長の武将厩橋城主滝川一益と鉢形城主北条氏邦・北条氏直との戦いです。別名金窪原の戦いとも云われ、金久保・毘沙吐周辺が神流川古戦場跡として伝えられています。

    また、ここには中山道神流川の渡し場がありました。その様子は渓斎英泉によって描かれた「本庄宿神流川渡場」で見ることができます。そこに描かれている燈籠は、埼玉県側と群馬県側に1基ずつあって、「見透灯籠」と呼ばれていました。

    この見透燈籠は、文化12年(1815)本庄宿の戸谷半兵衛が、寄進したもので、正面には大窪詩仏による「常夜燈」、と桑原北林による「金毘羅大権現」の文字が、右側面には、「燈に背かざりせば凋路にも遠わせまじ行くも帰りも」と田口秋因の和歌が、刻まれています。しかし、せっかくの建立されたこの燈籠も文政5年(1822)秋の洪水で倒れ、その後、安静4年(1857)に発見されて現在は大光寺へ移転されています。
                         上里町教育委員会 」

  • 神流川渡場絵(「神流川古戦場と渡し場」より抜粋)

    神流川渡場絵(「神流川古戦場と渡し場」より抜粋)

  • 武蔵国上里勅使河原<br /><br />トラック中心にひっきりなしに往来する神流川橋を渡る国道17号線沿道は上里町勅使河原でまだ武蔵国に位置します。

    武蔵国上里勅使河原

    トラック中心にひっきりなしに往来する神流川橋を渡る国道17号線沿道は上里町勅使河原でまだ武蔵国に位置します。

  • 神流川橋詰<br /><br />武蔵国側橋詰の向うは神流川流域となります。

    神流川橋詰

    武蔵国側橋詰の向うは神流川流域となります。

  • 神流川橋<br /><br />多数の車輛が容赦なく往来して橋はいつも地響きがします。他方、歩行者は誰もいません。

    神流川橋

    多数の車輛が容赦なく往来して橋はいつも地響きがします。他方、歩行者は誰もいません。

  • 神流川<br /><br />神流川橋歩道から神流川を見渡します。滝川一益軍と小田原北条氏(氏直・氏邦)が戦った往時の神流川の戦場の姿を思わず想像してしまいます。

    イチオシ

    神流川

    神流川橋歩道から神流川を見渡します。滝川一益軍と小田原北条氏(氏直・氏邦)が戦った往時の神流川の戦場の姿を思わず想像してしまいます。

  • 神流川橋車道<br /><br />かつての中山道は現在でも武蔵と上野を繋ぐ大動脈であることは今昔拘わらず普遍です。<br />

    神流川橋車道

    かつての中山道は現在でも武蔵と上野を繋ぐ大動脈であることは今昔拘わらず普遍です。

  • 神流川橋歩道<br /><br />JR(高崎線)新町駅方向へは相当に時間かかるので引き返しJR神保原駅方向に向かいます。

    神流川橋歩道

    JR(高崎線)新町駅方向へは相当に時間かかるので引き返しJR神保原駅方向に向かいます。

  • 見透灯籠(模擬)<br /><br />神流川は夜間に火を灯し夜道を往来する旅人の標準とする役割をします。

    見透灯籠(模擬)

    神流川は夜間に火を灯し夜道を往来する旅人の標準とする役割をします。

  • 見透灯籠説明

    見透灯籠説明

  • JR高崎線<br /><br />高崎線車輛がJR新町駅方向へ走り抜きます。

    JR高崎線

    高崎線車輛がJR新町駅方向へ走り抜きます。

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