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JR高崎線神保原駅から徒歩で約25分、陽雲寺は正式には崇栄山・陽雲寺(よううんじ、埼玉県児玉郡上里町金久保)という漕洞宗の寺で、境内の説明板に拠りますと元久2年(1205)の創建と伝えられ当初は唄樹山満願寺と称していました。<br /><br />元弘3年(1333)上野新田荘在の新田義貞(にった・よしさだ、1301~1339)が鎌倉を目指す途中、当寺に立ち寄り鎌倉幕府打倒を祈願して不動堂を造立したと寺伝に認められ、以降は「新田勝軍不動堂」などと呼称されています。<br /><br />室町時代になりますと周辺を支配していた金窪城主の斎藤氏は当寺への帰依が厚く、天文9年(1540)当時の城主斎藤定盛(さいとう・さだもり)により堂宇が修復され、寺名を崇栄寺と改称しますが、天正10年(1582)の滝川一益と小田原北条氏直が死闘を繰り広げた神流川(かんらがわ)の戦いに巻き込ますべてが焼失してしまいます。<br /><br />天正19年(1591)、武田一族の一人として家康に旗本として召し出され関ヶ原の戦い及び大坂の陣での軍功を認められた川窪信俊(かわくぼ・のぶとし・武田信玄の甥、1564~1639)は養母の武田信玄夫人を伴い2千石を以て神流川戦いで荒廃した金窪城跡に陣屋を構え、信玄夫人は同様に廃墟となった崇栄寺に庵を営み元和4年(1618)に97歳の生涯を閉じます。<br /><br />信俊は養母の菩提を弔うためその法号である陽雲院を採って陽雲寺を建立、後に信俊の孫である武田信貞(たけだ・のぶさだ、川窪から本姓武田に戻す、1631~1711)が元禄11年(1698)丹波へ転封、陣屋は廃され保護者を失った陽雲寺は勢いを失います。<br /><br />2022年11月25日追記<br /><br />境内に掲げられた説明板には下記のように紹介されています。<br /><br />『 陽 雲 寺<br />         所在地児玉郡上里町金久保701<br /><br />陽雲寺は曹洞宗の寺で、鎌倉時代初期の元久2年(1205)の創建と伝えられ、初めは唄樹山満願寺と称したという。元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉幕府打倒を祈願して不動堂を造立したことが寺伝にみられ、以来、”新田勝軍不動堂”などと称され、室町時代には金窪城主斎藤氏の帰依が厚かった。天文9年(1540)斎藤定盛が諸堂を修復し、寺名を崇栄寺と改めたが、天正10年(1582)の神流川合戦の兵火で焼失した。<br /><br />天正19年、金窪の城主となった川窪信俊は養母である武田信玄夫人を伴って入封し、信玄夫人は当寺の境内に居住したが、元和4年(1618)に没した。信俊は、夫人の菩提を弔うため、その法号である陽雲院をとって寺号を崇栄山陽雲寺と改称した。元和5年には徳川幕府から御朱印5石が寄せられている。<br /><br />なお、境内には県指定文化財となっている元禄銘のある銅鐘や、県指定旧跡となっている新田義貞の家臣であった畑時能の供養祠などがある。<br /><br />   昭和60年3月<br />              埼玉県上里町 』

武蔵上里 信玄一門の出身ながら武田氏没後家康家臣に取り立てられ領主となった川窪信俊が養母武田信玄夫人の菩提を弔うために創建した『陽雲寺』散歩

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2014/07/06 - 2014/07/06

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24

滝山氏照

滝山氏照さん

JR高崎線神保原駅から徒歩で約25分、陽雲寺は正式には崇栄山・陽雲寺(よううんじ、埼玉県児玉郡上里町金久保)という漕洞宗の寺で、境内の説明板に拠りますと元久2年(1205)の創建と伝えられ当初は唄樹山満願寺と称していました。

元弘3年(1333)上野新田荘在の新田義貞(にった・よしさだ、1301~1339)が鎌倉を目指す途中、当寺に立ち寄り鎌倉幕府打倒を祈願して不動堂を造立したと寺伝に認められ、以降は「新田勝軍不動堂」などと呼称されています。

室町時代になりますと周辺を支配していた金窪城主の斎藤氏は当寺への帰依が厚く、天文9年(1540)当時の城主斎藤定盛(さいとう・さだもり)により堂宇が修復され、寺名を崇栄寺と改称しますが、天正10年(1582)の滝川一益と小田原北条氏直が死闘を繰り広げた神流川(かんらがわ)の戦いに巻き込ますべてが焼失してしまいます。

天正19年(1591)、武田一族の一人として家康に旗本として召し出され関ヶ原の戦い及び大坂の陣での軍功を認められた川窪信俊(かわくぼ・のぶとし・武田信玄の甥、1564~1639)は養母の武田信玄夫人を伴い2千石を以て神流川戦いで荒廃した金窪城跡に陣屋を構え、信玄夫人は同様に廃墟となった崇栄寺に庵を営み元和4年(1618)に97歳の生涯を閉じます。

信俊は養母の菩提を弔うためその法号である陽雲院を採って陽雲寺を建立、後に信俊の孫である武田信貞(たけだ・のぶさだ、川窪から本姓武田に戻す、1631~1711)が元禄11年(1698)丹波へ転封、陣屋は廃され保護者を失った陽雲寺は勢いを失います。

2022年11月25日追記

境内に掲げられた説明板には下記のように紹介されています。

『 陽 雲 寺
         所在地児玉郡上里町金久保701

陽雲寺は曹洞宗の寺で、鎌倉時代初期の元久2年(1205)の創建と伝えられ、初めは唄樹山満願寺と称したという。元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉幕府打倒を祈願して不動堂を造立したことが寺伝にみられ、以来、”新田勝軍不動堂”などと称され、室町時代には金窪城主斎藤氏の帰依が厚かった。天文9年(1540)斎藤定盛が諸堂を修復し、寺名を崇栄寺と改めたが、天正10年(1582)の神流川合戦の兵火で焼失した。

天正19年、金窪の城主となった川窪信俊は養母である武田信玄夫人を伴って入封し、信玄夫人は当寺の境内に居住したが、元和4年(1618)に没した。信俊は、夫人の菩提を弔うため、その法号である陽雲院をとって寺号を崇栄山陽雲寺と改称した。元和5年には徳川幕府から御朱印5石が寄せられている。

なお、境内には県指定文化財となっている元禄銘のある銅鐘や、県指定旧跡となっている新田義貞の家臣であった畑時能の供養祠などがある。

   昭和60年3月
              埼玉県上里町 』

旅行の満足度
3.5
交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 休日おでかけパス<br /><br />今回は「休日おでかけパス」を利用してJR神保原(高崎線)に到着しました。

    休日おでかけパス

    今回は「休日おでかけパス」を利用してJR神保原(高崎線)に到着しました。

  • JR神保原駅舎<br /><br />出口は北口だけで駅前にはタクシーと循環バス(運行本数少ない)があります。

    JR神保原駅舎

    出口は北口だけで駅前にはタクシーと循環バス(運行本数少ない)があります。

  • 上里町周辺地図<br /><br />交番の先の駐輪場の手前に周辺地図が立っています。駐輪場の係りにレンタサイクル店を尋ねますが設置はないそうです。当地は埼玉県境の地で神流川を境に川向うは群馬県となり、かつては武蔵国と上野国を南北に分けるところを東西に中山道が走る交通の要地でその重要性は現在でも不変です。

    上里町周辺地図

    交番の先の駐輪場の手前に周辺地図が立っています。駐輪場の係りにレンタサイクル店を尋ねますが設置はないそうです。当地は埼玉県境の地で神流川を境に川向うは群馬県となり、かつては武蔵国と上野国を南北に分けるところを東西に中山道が走る交通の要地でその重要性は現在でも不変です。

  • 旧中山道説明板<br /><br />車輛が頻繁に走る国道17号の北側に並行した道が旧「中山道」で途中に説明板が立っています。

    旧中山道説明板

    車輛が頻繁に走る国道17号の北側に並行した道が旧「中山道」で途中に説明板が立っています。

  • 陽雲寺・入口<br /><br />旧中山道の南側に陽雲寺入口が見えます。

    陽雲寺・入口

    旧中山道の南側に陽雲寺入口が見えます。

  • 陽雲寺・参道

    陽雲寺・参道

  • 畑時能(はた・ときよし)供養祀<br /><br />畑時能(?~1339)は新田義貞を支える武将で南北朝時代に一時金窪城を支配、新田貞義(にった・よしさだ)が戦死した後も南朝方として戦いを続けるも越前で戦死します。家臣児玉光信(こだま・みつのぶ)が時能の首を持ち帰り当地で供養、光信死後も当地に埋葬され「畑児塚」と呼ばれています。<br /><br /><br /><br />

    畑時能(はた・ときよし)供養祀

    畑時能(?~1339)は新田義貞を支える武将で南北朝時代に一時金窪城を支配、新田貞義(にった・よしさだ)が戦死した後も南朝方として戦いを続けるも越前で戦死します。家臣児玉光信(こだま・みつのぶ)が時能の首を持ち帰り当地で供養、光信死後も当地に埋葬され「畑児塚」と呼ばれています。



  • 畑時能・墓標<br /><br />

    畑時能・墓標

  • 畑時能供養祀(全景)

    イチオシ

    畑時能供養祀(全景)

  • 畑時能供養祀・説明板<br /><br />「県指定旧跡<br />       畑 時 能 供 養 祀 一 基<br />               昭和38年8月27日指定<br /><br />参道際にある石の祀は、新田義貞の家臣で、四天王の随一と呼ばれ金窪城に住した畑時能の供養祀と伝えられているものである。時能は秩父郡長瀞町の出身で義貞戦死後も南朝方のために孤軍奮闘したが、暦王2年(1339)越前国で足利方に討たれた。<br /><br />従臣児玉五郎左衛門光信が時能の首級を携えて敵陣を脱出し、当地に持ち帰り供養したものという。後に光信も時能の墓側に葬られ2石祠が建立されて、両者の姓を取り「畑児塚」と呼ばれている。」

    畑時能供養祀・説明板

    「県指定旧跡
           畑 時 能 供 養 祀 一 基
                   昭和38年8月27日指定

    参道際にある石の祀は、新田義貞の家臣で、四天王の随一と呼ばれ金窪城に住した畑時能の供養祀と伝えられているものである。時能は秩父郡長瀞町の出身で義貞戦死後も南朝方のために孤軍奮闘したが、暦王2年(1339)越前国で足利方に討たれた。

    従臣児玉五郎左衛門光信が時能の首級を携えて敵陣を脱出し、当地に持ち帰り供養したものという。後に光信も時能の墓側に葬られ2石祠が建立されて、両者の姓を取り「畑児塚」と呼ばれている。」

  • 陽雲寺・鐘楼堂<br /><br />境内説明板によれば梵鐘は銅製で頂部の龍頭が上向きで朝鮮式と呼ばれており、井上元峰によって元禄8年(1695)鋳造されています。

    陽雲寺・鐘楼堂

    境内説明板によれば梵鐘は銅製で頂部の龍頭が上向きで朝鮮式と呼ばれており、井上元峰によって元禄8年(1695)鋳造されています。

  • 陽雲寺・本堂

    イチオシ

    陽雲寺・本堂

  • 陽雲寺・説明板<br /><br />説明では陽雲院を信玄室の三条夫人とありますが、夫人は信玄存命中の元亀元年(1570)に亡くなっており甲斐円光院がその墓所となっています。

    陽雲寺・説明板

    説明では陽雲院を信玄室の三条夫人とありますが、夫人は信玄存命中の元亀元年(1570)に亡くなっており甲斐円光院がその墓所となっています。

  • 上里町・指定文化財説明板<br /><br />数多い当寺の文化財の中に武田氏に関する物が多数あります。(陽雲院墓所訪問は実現できませんでした)

    上里町・指定文化財説明板

    数多い当寺の文化財の中に武田氏に関する物が多数あります。(陽雲院墓所訪問は実現できませんでした)

  • 陽雲寺所蔵文書・説明板<br /><br />信玄甥の窪田信俊の中興したことから信玄自筆の起請文等七点の他狩野秀信が描いた信玄と夫人の画像が保管されているそうです。

    陽雲寺所蔵文書・説明板

    信玄甥の窪田信俊の中興したことから信玄自筆の起請文等七点の他狩野秀信が描いた信玄と夫人の画像が保管されているそうです。

  • 鞍間太郎坊大神本堂<br /><br />境内に鎮座する鞍間(馬)太郎大神は金久保地域の守護神として祀られているようです。

    鞍間太郎坊大神本堂

    境内に鎮座する鞍間(馬)太郎大神は金久保地域の守護神として祀られているようです。

  • 陽雲寺・客殿<br /><br />訪問時はたまたま地元関係者の法要が行われるとして三々五々喪服姿を見かけました。

    陽雲寺・客殿

    訪問時はたまたま地元関係者の法要が行われるとして三々五々喪服姿を見かけました。

  • 妖雲寺・境内<br /><br />山門から本堂(右側)を捉えます。

    妖雲寺・境内

    山門から本堂(右側)を捉えます。

  • 陽雲寺・六地蔵<br /><br />山門からの参道に沿って六地蔵が建立しています。

    陽雲寺・六地蔵

    山門からの参道に沿って六地蔵が建立しています。

  • 陽雲寺・石標<br /><br />山門脇に立っている石標に祀られている内容が簡単に刻されています。

    陽雲寺・石標

    山門脇に立っている石標に祀られている内容が簡単に刻されています。

  • 陽雲寺・山門

    陽雲寺・山門

  • 畑時能首塚・石碑(全景)<br /><br />山門から道を隔てた余地に畑時能の首塚石碑が建っています。

    畑時能首塚・石碑(全景)

    山門から道を隔てた余地に畑時能の首塚石碑が建っています。

  • 畑時能首塚・石碑(近景)

    畑時能首塚・石碑(近景)

  • 畑時能首塚石碑(裏面)

    畑時能首塚石碑(裏面)

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