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JR中央線大月駅から富士急行線にて12分、谷村(やむら)駅東側を大月方面に戻った平地に都留市役所と谷村第一小学校が隣接しており、これらの敷地を中心として郡内(甲斐国東部地方)を治めていた小山田氏の本拠谷村城(やむらじょう、山梨県都留市上谷)があったとされています。<br /><br />享禄3年(1530)、大幡川支流の河岸段丘に位置する中津森館(都留市金井)が火災により焼失、国人領主小山田越中守信有(おやまだ・えっちゅうのかみ・のぶあり、1488~1541)は桂川に沿った谷村の地に新たな居館造りに着手、天文元年(1532)の完成により谷村に移転、以降出羽守信有、弥三郎信有そして信茂(のぶしげ、1539~1582)と領主の変遷がありました。<br /><br />地勢的には谷村館は大月から河口湖に向かう主要道路・富士道という交通要所にあるものの蟻山と桂川に挟まれた平坦地に築かれており敵の侵入に対し防御性が極めて低くその対応として谷村館と桂川を挟んだ対岸である川棚の山地に詰城として勝山城(海抜571m)が築かれたと言われます。<br /><br />元亀3年(1572)上洛をめざして武田信玄は甲府を出立、徳川家康軍を三方ケ原にて徹底的に敗走させるなど目覚ましい戦功をあげますが、持病が悪化し信濃伊那郡駒場にて53歳で病死します。事実上家督を相続した四男勝頼(かつより、1546~1582)は領国拡大政策を継承する中、天正3年(1575)長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗、父信玄からの宿老を多数失い以降戦略拠点を次々と失います。<br /><br />信玄死後の武田軍凋落に将来を失望した重臣の中で木曽義昌(きそ・よしまさ、1540~1595)は新府城造営に関わる自領の木材拠出を含む重税に反発しこれを機に徳川家康方に寝返り支援を求めます。<br /><br />天正10年(1582)、織田・徳川討伐軍に追いつめられた勝頼は新築したばかりの新府城を焼き捨て郡内・岩殿城籠城をめざすも信茂の裏切りにより天目山にて室や嫡男を始めとする近臣共々自刃し武田氏は滅亡します。<br /><br />やがて信茂も出頭通知があり甲府善光寺に在陣中の織田信忠に出向きますが勝頼を最後に裏切ったという咎を受け信茂は自刃家族及び重臣らは死罪となり小山田氏の郡内支配は終わります。<br /><br />主家を失った郡内地方はその後織田氏の支配地となり甲斐国統治を任された河尻秀隆(かわじり・ひでたか、1527~1582)が入部するも同年6月本能寺の変で信長が明智光秀に殺されると河尻の支配力低下、その後発生した一揆に抗しきれず甲斐脱出の際武田遺臣に殺害されます。<br /><br />織田氏支配後の甲斐を巡っては小田原北条氏と徳川氏とが争うことになり(天正壬午の乱)、小田原北条の氏直は若神子に陣をはり、徳川家康は新府城に陣を張って相対します。一方小田原城の氏直の父氏政は北条氏忠(ほうじょう・うじただ、生誕不詳~1593)に出動を命じ郡内を制圧、その勢いで家康背後を突くべく谷村城を出陣させ御坂(みさか)峠に向かわせます。<br /><br />これに対して家康は家臣鳥居元忠(とりい・もとただ、1539~1600)を甲府から対応させ御坂峠付近の黒駒合戦で小田原北条軍に大勝、北条軍の戦況不利のまま膠着状態が続くなか氏直の申出によって双方和解、信濃と共に甲斐は徳川領、旧武田領の西上野は小田原北条領と双方認め所領割が決定します。<br /><br />こうして甲斐国が徳川氏の支配地となり郡内には壬午の乱で戦功を挙げた鳥居元忠が入部しますが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻めによって小田原北条氏は開門・降伏し北条氏滅亡します。<br /><br />戦後秀吉の命によって家康は東海五か国を放棄し北条氏旧遺領の関東八か国を与えられ江戸に拠点を移します。<br /><br />これにより徳川領であった郡内を含む甲斐国は豊臣領となり国中(甲斐中央部)は羽柴秀勝から加藤光泰、そして浅野長政へと領主の変遷が行われ郡内についても秀勝家臣の三輪近家、光泰家臣加藤光吉、長政家老浅野氏重と領主が替わります。<br /><br />慶長5年(1600)関ヶ原合戦で家康率いる東軍が勝利しその後の戦功による所領配分が行われ、甲斐国は再度徳川領になりかつて同領を治めていた鳥居元忠の三男である鳥居成次(とりい・なりつぐ、1570~1631)が翌年郡内谷村藩1万8千石の初代領主として封ぜられます。<br /><br />そして成次、その子忠房(ただふさ、1606~1637)と鳥居氏による治政が続きますが、秀忠の二男である徳川忠長の改易に関連して付家老の立場であった忠房は責任を追及され寛永10年(1633)領地を召上げられます。<br /><br />改易された鳥居氏を受けて上野国総社藩より秋元泰朝(あきもと・やすとも、1580~1642)が都留郡1万8千石を以て谷村城主として入封し富朝、喬朝と三代続きこの間泰朝による谷村大堰の開削工事や富朝による富士浅間明神本殿等修造そして喬朝による織物産業振興させるなど内政に尽力します。<br /><br />宝永元年(1704)喬朝は武蔵国川越藩に転封、他方川越藩主であった柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす、1658~1714)が甲府領主として移封、これを機に谷村藩は廃藩とされ幕府直轄地(天領)のなか谷村城も破却、一時的に柳沢氏が預かっていた都留郡支配の解除を経て郡内領は谷村に置かれた代官所による支配となります。<br /><br /><br /><br />2023年9月7日追記<br /><br />現地案内板には江戸時代に作成の谷村城の絵図と共に、当該城について説明がなされています。<br /><br />『 谷 村 城<br /><br />谷村城は現在の鶴市役所、谷村第一小学校付近に位置していたと考えられます。「甲斐国志」によれば城の曲輪は「本丸」、「二の丸」、「三の丸」と東へ続くとされ現在の高尾神社くらいまでが城域と考えられています。谷村城は郡内領主の居城として機能していたとされ、桂川に架けられた「内橋」によって勝山城と結ばれていたと伝えられています。谷村城の築城時期は定かではありませんが、谷村藩主であった秋元喬朝が宝永元(1704)年に川越に転封になった際、廃城になったと伝えられています。』<br /><br />更に詰城であった勝山城については当該城の本丸跡に案内板があります。<br /><br />『 史跡 勝 山 城<br />             平成8年 山梨県指定史跡第21号<br /><br />勝山城は地元で「お城山」と呼ばれる標高571・234の山城です。山頂の「本丸」を中心に、北、東、南の尾根にそれぞれ曲輪が見られ、一部で遺構が確認できます。勝山城では平成17年から21年にかけて発掘調査を含む学術調査を行いました。本丸では現在でも西縁に土塁と思われる土盛りが見られます。調査では時期は定かではありませんが、東照宮南から櫓台と思われる遺構が確認され、本丸の中央からは柱穴が複数確認されています。本丸の南西には「二の丸」、「三の丸」と呼ばれる曲輪が続き、「三の丸」の東には帯状に細長い、通称「帯郭」という曲輪がみられます。「二の丸」の北西端も帯状の曲輪が連なり、この曲輪の斜面の調査では豊織期に推定される石垣が確認されています。同時期と考えれれる石垣は「二の丸」と「本丸」間の遊歩道でもできます。<br /><br />北尾根には、「大沢見張り台」と呼ばれる曲輪がみられます。この曲輪は江戸幕府御用の茶を貯蔵する茶壺蔵の推定地とされてきましたが、調査で遺構は確認されていません。<br /><br />この曲輪の周囲には約3~5m下がって帯状の曲輪がめぐり、調査によって城が埋没していることが明らかになりました。この地点から南には「竪堀」と呼ばれる顕著な堀切がみられます。ここより南の尾根の付根には緩やかな傾斜をもつ曲輪が確認できます。調査では蔵と推定される建物跡が確認され、南斜面からは堀切が確認されました。<br /><br />東尾根には「甲斐国志」に「焔硝蔵」と伝えられる曲輪が確認できます。この曲輪から東に下ったところに対岸の眺望がきく「源生見張り台」と呼ばれる曲輪が位置しています。<br /><br />南尾根には尾根先端に上谷から田原地区にかけて眺望がきく「川棚見張り台」と呼ばれる曲輪がみられます。この曲輪から西へ下がった地点から北尾根付根付近まで緩やかにS字を描きながら北上する空堀は「内堀」と呼ばれ、途中にふたつの大きな段差をもつ特徴があります。<br /><br />勝山城の西には幅約30mの低地が水田ないしは住宅地として鍵の手状に存在し、これは「外堀」の痕跡と考えられています。』<br />

甲斐都留 武田氏従属的同盟者で郡内(甲斐東部)の国人領主小山田氏の本拠『谷村城』並びに後詰城の機能を有する『勝山要害城』訪問

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2014/06/30 - 2014/06/30

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR中央線大月駅から富士急行線にて12分、谷村(やむら)駅東側を大月方面に戻った平地に都留市役所と谷村第一小学校が隣接しており、これらの敷地を中心として郡内(甲斐国東部地方)を治めていた小山田氏の本拠谷村城(やむらじょう、山梨県都留市上谷)があったとされています。

享禄3年(1530)、大幡川支流の河岸段丘に位置する中津森館(都留市金井)が火災により焼失、国人領主小山田越中守信有(おやまだ・えっちゅうのかみ・のぶあり、1488~1541)は桂川に沿った谷村の地に新たな居館造りに着手、天文元年(1532)の完成により谷村に移転、以降出羽守信有、弥三郎信有そして信茂(のぶしげ、1539~1582)と領主の変遷がありました。

地勢的には谷村館は大月から河口湖に向かう主要道路・富士道という交通要所にあるものの蟻山と桂川に挟まれた平坦地に築かれており敵の侵入に対し防御性が極めて低くその対応として谷村館と桂川を挟んだ対岸である川棚の山地に詰城として勝山城(海抜571m)が築かれたと言われます。

元亀3年(1572)上洛をめざして武田信玄は甲府を出立、徳川家康軍を三方ケ原にて徹底的に敗走させるなど目覚ましい戦功をあげますが、持病が悪化し信濃伊那郡駒場にて53歳で病死します。事実上家督を相続した四男勝頼(かつより、1546~1582)は領国拡大政策を継承する中、天正3年(1575)長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗、父信玄からの宿老を多数失い以降戦略拠点を次々と失います。

信玄死後の武田軍凋落に将来を失望した重臣の中で木曽義昌(きそ・よしまさ、1540~1595)は新府城造営に関わる自領の木材拠出を含む重税に反発しこれを機に徳川家康方に寝返り支援を求めます。

天正10年(1582)、織田・徳川討伐軍に追いつめられた勝頼は新築したばかりの新府城を焼き捨て郡内・岩殿城籠城をめざすも信茂の裏切りにより天目山にて室や嫡男を始めとする近臣共々自刃し武田氏は滅亡します。

やがて信茂も出頭通知があり甲府善光寺に在陣中の織田信忠に出向きますが勝頼を最後に裏切ったという咎を受け信茂は自刃家族及び重臣らは死罪となり小山田氏の郡内支配は終わります。

主家を失った郡内地方はその後織田氏の支配地となり甲斐国統治を任された河尻秀隆(かわじり・ひでたか、1527~1582)が入部するも同年6月本能寺の変で信長が明智光秀に殺されると河尻の支配力低下、その後発生した一揆に抗しきれず甲斐脱出の際武田遺臣に殺害されます。

織田氏支配後の甲斐を巡っては小田原北条氏と徳川氏とが争うことになり(天正壬午の乱)、小田原北条の氏直は若神子に陣をはり、徳川家康は新府城に陣を張って相対します。一方小田原城の氏直の父氏政は北条氏忠(ほうじょう・うじただ、生誕不詳~1593)に出動を命じ郡内を制圧、その勢いで家康背後を突くべく谷村城を出陣させ御坂(みさか)峠に向かわせます。

これに対して家康は家臣鳥居元忠(とりい・もとただ、1539~1600)を甲府から対応させ御坂峠付近の黒駒合戦で小田原北条軍に大勝、北条軍の戦況不利のまま膠着状態が続くなか氏直の申出によって双方和解、信濃と共に甲斐は徳川領、旧武田領の西上野は小田原北条領と双方認め所領割が決定します。

こうして甲斐国が徳川氏の支配地となり郡内には壬午の乱で戦功を挙げた鳥居元忠が入部しますが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻めによって小田原北条氏は開門・降伏し北条氏滅亡します。

戦後秀吉の命によって家康は東海五か国を放棄し北条氏旧遺領の関東八か国を与えられ江戸に拠点を移します。

これにより徳川領であった郡内を含む甲斐国は豊臣領となり国中(甲斐中央部)は羽柴秀勝から加藤光泰、そして浅野長政へと領主の変遷が行われ郡内についても秀勝家臣の三輪近家、光泰家臣加藤光吉、長政家老浅野氏重と領主が替わります。

慶長5年(1600)関ヶ原合戦で家康率いる東軍が勝利しその後の戦功による所領配分が行われ、甲斐国は再度徳川領になりかつて同領を治めていた鳥居元忠の三男である鳥居成次(とりい・なりつぐ、1570~1631)が翌年郡内谷村藩1万8千石の初代領主として封ぜられます。

そして成次、その子忠房(ただふさ、1606~1637)と鳥居氏による治政が続きますが、秀忠の二男である徳川忠長の改易に関連して付家老の立場であった忠房は責任を追及され寛永10年(1633)領地を召上げられます。

改易された鳥居氏を受けて上野国総社藩より秋元泰朝(あきもと・やすとも、1580~1642)が都留郡1万8千石を以て谷村城主として入封し富朝、喬朝と三代続きこの間泰朝による谷村大堰の開削工事や富朝による富士浅間明神本殿等修造そして喬朝による織物産業振興させるなど内政に尽力します。

宝永元年(1704)喬朝は武蔵国川越藩に転封、他方川越藩主であった柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす、1658~1714)が甲府領主として移封、これを機に谷村藩は廃藩とされ幕府直轄地(天領)のなか谷村城も破却、一時的に柳沢氏が預かっていた都留郡支配の解除を経て郡内領は谷村に置かれた代官所による支配となります。



2023年9月7日追記

現地案内板には江戸時代に作成の谷村城の絵図と共に、当該城について説明がなされています。

『 谷 村 城

谷村城は現在の鶴市役所、谷村第一小学校付近に位置していたと考えられます。「甲斐国志」によれば城の曲輪は「本丸」、「二の丸」、「三の丸」と東へ続くとされ現在の高尾神社くらいまでが城域と考えられています。谷村城は郡内領主の居城として機能していたとされ、桂川に架けられた「内橋」によって勝山城と結ばれていたと伝えられています。谷村城の築城時期は定かではありませんが、谷村藩主であった秋元喬朝が宝永元(1704)年に川越に転封になった際、廃城になったと伝えられています。』

更に詰城であった勝山城については当該城の本丸跡に案内板があります。

『 史跡 勝 山 城
             平成8年 山梨県指定史跡第21号

勝山城は地元で「お城山」と呼ばれる標高571・234の山城です。山頂の「本丸」を中心に、北、東、南の尾根にそれぞれ曲輪が見られ、一部で遺構が確認できます。勝山城では平成17年から21年にかけて発掘調査を含む学術調査を行いました。本丸では現在でも西縁に土塁と思われる土盛りが見られます。調査では時期は定かではありませんが、東照宮南から櫓台と思われる遺構が確認され、本丸の中央からは柱穴が複数確認されています。本丸の南西には「二の丸」、「三の丸」と呼ばれる曲輪が続き、「三の丸」の東には帯状に細長い、通称「帯郭」という曲輪がみられます。「二の丸」の北西端も帯状の曲輪が連なり、この曲輪の斜面の調査では豊織期に推定される石垣が確認されています。同時期と考えれれる石垣は「二の丸」と「本丸」間の遊歩道でもできます。

北尾根には、「大沢見張り台」と呼ばれる曲輪がみられます。この曲輪は江戸幕府御用の茶を貯蔵する茶壺蔵の推定地とされてきましたが、調査で遺構は確認されていません。

この曲輪の周囲には約3~5m下がって帯状の曲輪がめぐり、調査によって城が埋没していることが明らかになりました。この地点から南には「竪堀」と呼ばれる顕著な堀切がみられます。ここより南の尾根の付根には緩やかな傾斜をもつ曲輪が確認できます。調査では蔵と推定される建物跡が確認され、南斜面からは堀切が確認されました。

東尾根には「甲斐国志」に「焔硝蔵」と伝えられる曲輪が確認できます。この曲輪から東に下ったところに対岸の眺望がきく「源生見張り台」と呼ばれる曲輪が位置しています。

南尾根には尾根先端に上谷から田原地区にかけて眺望がきく「川棚見張り台」と呼ばれる曲輪がみられます。この曲輪から西へ下がった地点から北尾根付根付近まで緩やかにS字を描きながら北上する空堀は「内堀」と呼ばれ、途中にふたつの大きな段差をもつ特徴があります。

勝山城の西には幅約30mの低地が水田ないしは住宅地として鍵の手状に存在し、これは「外堀」の痕跡と考えられています。』

旅行の満足度
4.5
交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩
  • 富士急行線・谷村町(やむらまち)駅舎<br /><br />大月ー河口湖を結ぶ富士急行は運転距離26.6Kmの単線運転、自分が乗った車輛は偶然にも河口湖直通車輛115系(6輌のうち3輌は途中の大月止)でした。<br />駅員(委託)女性に尋ねて備え付けの都留ガイドマップを入手して訪問先の確認をします。

    富士急行線・谷村町(やむらまち)駅舎

    大月ー河口湖を結ぶ富士急行は運転距離26.6Kmの単線運転、自分が乗った車輛は偶然にも河口湖直通車輛115系(6輌のうち3輌は途中の大月止)でした。
    駅員(委託)女性に尋ねて備え付けの都留ガイドマップを入手して訪問先の確認をします。

  • 谷村町駅周辺歴史地図<br /><br />駅舎の前には「谷の町史の町」と題する周辺地図が掲示、たまたま駅前広場を自転車に乗ってきた社交的おばさんから説明を聞きますと勝山城跡行くことをさかんに薦めてくれます。

    谷村町駅周辺歴史地図

    駅舎の前には「谷の町史の町」と題する周辺地図が掲示、たまたま駅前広場を自転車に乗ってきた社交的おばさんから説明を聞きますと勝山城跡行くことをさかんに薦めてくれます。

  • 谷村(やむら)城跡<br /><br />谷村町駅から都留市駅に向かう途中に都留第一小学校が在り、この地が戦国時代に郡内支配していた小山田氏の城郭があったとされます。

    谷村(やむら)城跡

    谷村町駅から都留市駅に向かう途中に都留第一小学校が在り、この地が戦国時代に郡内支配していた小山田氏の城郭があったとされます。

  • 谷村城跡

    谷村城跡

  • 谷村城跡石標<br /><br />谷村第一小学校校庭の道路側にまだ新しい石標が建立され、この石標の他往時の姿を留めるものは何一つありません。

    谷村城跡石標

    谷村第一小学校校庭の道路側にまだ新しい石標が建立され、この石標の他往時の姿を留めるものは何一つありません。

  • 谷村城跡石標近景<br /><br />

    イチオシ

    谷村城跡石標近景

  • 谷村城跡石標近景

    谷村城跡石標近景

  • 谷村城跡石標近景

    谷村城跡石標近景

  • 谷村城跡

    谷村城跡

  • 谷村城跡<br /><br />谷村第一小学校の西隣の都留市役所側にも谷村城跡の一部で、この敷地から更に南方面にわたって谷村城の城域として拡がりを見せています。

    谷村城跡

    谷村第一小学校の西隣の都留市役所側にも谷村城跡の一部で、この敷地から更に南方面にわたって谷村城の城域として拡がりを見せています。

  • 都留市役所玄関<br /><br />谷村城跡に関する情報収集として市役所に向かうと、玄関右側に何やら谷村の歴史変遷を示す絵地図が建立しています。

    都留市役所玄関

    谷村城跡に関する情報収集として市役所に向かうと、玄関右側に何やら谷村の歴史変遷を示す絵地図が建立しています。

  • 谷村城絵図・秋元氏治世:寛永10年(1633)~宝永元年(1704)<br /><br />江戸時代谷村藩として秋元氏が知行していた当時の絵図が立っており、説明では西から東へ本丸、二の丸、三の丸と続き、現在の高尾神社境内辺りまで谷村城の城域だったそうです。

    谷村城絵図・秋元氏治世:寛永10年(1633)~宝永元年(1704)

    江戸時代谷村藩として秋元氏が知行していた当時の絵図が立っており、説明では西から東へ本丸、二の丸、三の丸と続き、現在の高尾神社境内辺りまで谷村城の城域だったそうです。

  • 谷村城絵図説明<br /><br />更に説明では当城は平地に造られた城であったので敵の侵入に対する防御力なく、有事の場合には桂川に架けられた「内橋」を渡って要害の勝山城に籠るようになっていたそうです。

    イチオシ

    谷村城絵図説明

    更に説明では当城は平地に造られた城であったので敵の侵入に対する防御力なく、有事の場合には桂川に架けられた「内橋」を渡って要害の勝山城に籠るようになっていたそうです。

  • 山岳風景<br /><br />都留市役所玄関から迫ってくる東方向の山々を捉えます。桂川を挟んで東西からそれぞれ山地が迫ってきており耕地に恵まれない状況です。

    山岳風景

    都留市役所玄関から迫ってくる東方向の山々を捉えます。桂川を挟んで東西からそれぞれ山地が迫ってきており耕地に恵まれない状況です。

  • 谷村陣屋跡<br /><br />江戸時代後半の甲斐国は幕府直轄地となり代官による支配がなされ、郡内においても代官の詰所である陣屋が設置されます。(跡地は現在では都留簡易裁判所となっており、工事中のようです)

    谷村陣屋跡

    江戸時代後半の甲斐国は幕府直轄地となり代官による支配がなされ、郡内においても代官の詰所である陣屋が設置されます。(跡地は現在では都留簡易裁判所となっており、工事中のようです)

  • 谷村陣屋跡石標<br /><br />交差点角にに石標が立っているだけです。<br /><br />

    谷村陣屋跡石標

    交差点角にに石標が立っているだけです。

  • 谷村陣屋跡石標

    谷村陣屋跡石標

  • 富士坂<br /><br />谷村城跡を済ませ次に勝山城跡をめざします。富士急行谷村町駅に戻り更に南進し途中を右折踏切を渡り、「富士坂」と称される坂を下ります。<br />

    富士坂

    谷村城跡を済ませ次に勝山城跡をめざします。富士急行谷村町駅に戻り更に南進し途中を右折踏切を渡り、「富士坂」と称される坂を下ります。

  • 「富士見坂」石標<br /><br />勝山城跡を案内する石標で昭和2年開通となっています。<br /><br />

    「富士見坂」石標

    勝山城跡を案内する石標で昭和2年開通となっています。

  • 城南橋<br /><br />南から流れる桂川に架かる「城南橋」を渡りさらに進みます。

    城南橋

    南から流れる桂川に架かる「城南橋」を渡りさらに進みます。

  • 桂川<br /><br />城南橋から桂川下流を望みます。<br /><br />

    桂川

    城南橋から桂川下流を望みます。

  • 桂川風景<br /><br />城南橋を渡って桂川を望みます。車輛や人の動きがなくただ桂川の流れる音だけが聞こえます。<br /><br />

    イチオシ

    桂川風景

    城南橋を渡って桂川を望みます。車輛や人の動きがなくただ桂川の流れる音だけが聞こえます。

  • 城山遠景<br /><br />勝山城跡を有する城山(海抜571m)を望みます。

    城山遠景

    勝山城跡を有する城山(海抜571m)を望みます。

  • 山麓の洗面所<br /><br />「勝山城跡」方向を指し示す簡単な案内板を見ながら通過します。<br /><br />

    山麓の洗面所

    「勝山城跡」方向を指し示す簡単な案内板を見ながら通過します。

  • 勝山城跡地図説明<br /><br />勝山城跡登り口に立てられた城跡地図が掲載されています。

    勝山城跡地図説明

    勝山城跡登り口に立てられた城跡地図が掲載されています。

  • 勝山城跡地図<br /><br />頂上の本丸から3方向に伸びる尾根の先端にはそれぞれ見張台が設置されています。本丸の南側に二の丸、三の丸が造作され二の丸のはるか下部には内堀が西から東へ施されて南からの侵入に備えています。

    勝山城跡地図

    頂上の本丸から3方向に伸びる尾根の先端にはそれぞれ見張台が設置されています。本丸の南側に二の丸、三の丸が造作され二の丸のはるか下部には内堀が西から東へ施されて南からの侵入に備えています。

  • 登城口<br /><br />「南口遊歩道」の案内板を入りますが「熊出没注意」の看板が気になります。

    登城口

    「南口遊歩道」の案内板を入りますが「熊出没注意」の看板が気になります。

  • 登城途中<br /><br />過日登城した岩殿山ほどではありませんが、それでもだらだらした登城となります。

    登城途中

    過日登城した岩殿山ほどではありませんが、それでもだらだらした登城となります。

  • 内堀石標

    内堀石標

  • 内堀状況

    内堀状況

  • 登城途中風景<br /><br />眼下にはタイミングよく富士急行車輛の走行が見えます。

    登城途中風景

    眼下にはタイミングよく富士急行車輛の走行が見えます。

  • 川棚見張台石標<br /><br />勝山城跡の三つの見張台の一つとして川棚見張台が現れます。<br /><br />

    川棚見張台石標

    勝山城跡の三つの見張台の一つとして川棚見張台が現れます。

  • 川棚見張台先端<br /><br />当所からは桂川が視野に入り敵の動きが良くわかります。

    川棚見張台先端

    当所からは桂川が視野に入り敵の動きが良くわかります。

  • 市街風景<br /><br />川棚見張台から市街地方向を捉えます。

    市街風景

    川棚見張台から市街地方向を捉えます。

  • 登城道<br /><br />

    登城道

  • 登城道<br /><br />狭い通路から足を外すと這い上がって来れないほどの谷が控えています。

    登城道

    狭い通路から足を外すと這い上がって来れないほどの谷が控えています。

  • 登城道<br /><br />だらだらした道が続きます。「熊出没注意」の看板が見えます。<br /><br />

    登城道

    だらだらした道が続きます。「熊出没注意」の看板が見えます。

  • 三の丸下<br /><br />登城道を登って行きますと目の上に三の丸が見えてきます。

    三の丸下

    登城道を登って行きますと目の上に三の丸が見えてきます。

  • 三の丸石標

    三の丸石標

  • 三の丸跡

    三の丸跡

  • 帯郭(おびぐるわ)跡石標

    帯郭(おびぐるわ)跡石標

  • 帯郭跡<br /><br />本丸を降りた外側に帯状の狭い郭が造られています。

    帯郭跡

    本丸を降りた外側に帯状の狭い郭が造られています。

  • 二の丸石標

    二の丸石標

  • 二の丸跡

    二の丸跡

  • 中央高速河口湖線<br /><br />二の丸からは河口湖に向かう高速道路が確認できます。

    イチオシ

    中央高速河口湖線

    二の丸からは河口湖に向かう高速道路が確認できます。

  • 勝山城本丸跡<br /><br />ようやく本丸跡の山頂に辿り着きます。削平部は思っていた以上に広々となっています。

    勝山城本丸跡

    ようやく本丸跡の山頂に辿り着きます。削平部は思っていた以上に広々となっています。

  • 勝山城跡石標

    勝山城跡石標

  • 東照大権現石標<br /><br />東照大権現とは徳川家康の事を指し、家康死亡後全国の各大名が半ば強制的に東照宮を設置しており当時の谷村藩主鳥居成次(とりい・なりつぐ、1570〜1631)が谷村城内に奉納しその後当該城に移設されたものと思われます。

    東照大権現石標

    東照大権現とは徳川家康の事を指し、家康死亡後全国の各大名が半ば強制的に東照宮を設置しており当時の谷村藩主鳥居成次(とりい・なりつぐ、1570〜1631)が谷村城内に奉納しその後当該城に移設されたものと思われます。

  • 東照大権現祠堂<br /><br />本丸跡西端には東照大権現が祀られる御堂が在ります。<br /><br />

    イチオシ

    東照大権現祠堂

    本丸跡西端には東照大権現が祀られる御堂が在ります。

  • 本丸跡風景

    本丸跡風景

  • 本丸石標<br /><br />東照大権現の右側に小振りながら「本丸」石標が建立されています。

    本丸石標

    東照大権現の右側に小振りながら「本丸」石標が建立されています。

  • 東照大権現祠堂近景

    東照大権現祠堂近景

  • 東照大権現祀堂内部

    東照大権現祀堂内部

  • 本丸跡風景<br /><br />東照宮祠堂から本丸跡を捉えます。

    本丸跡風景

    東照宮祠堂から本丸跡を捉えます。

  • 都留市街風景<br /><br />本丸から眺めた都留市内風景はさすがです。

    イチオシ

    都留市街風景

    本丸から眺めた都留市内風景はさすがです。

  • 本丸跡風景<br /><br />本丸西側には東照権現の祠堂が建立されています。<br />

    本丸跡風景

    本丸西側には東照権現の祠堂が建立されています。

  • 本丸先端部<br /><br />本丸東方向先端部には休憩できるベンチが造作されその先には勝山城の変遷が記載されています。

    本丸先端部

    本丸東方向先端部には休憩できるベンチが造作されその先には勝山城の変遷が記載されています。

  • 勝山城跡説明<br /><br />説明では築城主は浅野長政家老の氏重が文禄3年(1594)築城と記載がありますが、近年では小山田越中守信有が中津森館が焼け、谷村に居城を移した時に築城されたのではないかと考えられています。

    勝山城跡説明

    説明では築城主は浅野長政家老の氏重が文禄3年(1594)築城と記載がありますが、近年では小山田越中守信有が中津森館が焼け、谷村に居城を移した時に築城されたのではないかと考えられています。

  • 本丸跡風景<br /><br />左側には東照権現祠堂、右側には簡易トイレの屋根が見えます。

    本丸跡風景

    左側には東照権現祠堂、右側には簡易トイレの屋根が見えます。

  • 大沢見張台方向?<br /><br />本丸跡の一段降りた簡易トイレの前は細い道が見られます。大沢見張台に繋がる路と思われます。

    大沢見張台方向?

    本丸跡の一段降りた簡易トイレの前は細い道が見られます。大沢見張台に繋がる路と思われます。

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