2014/05/19 - 2014/06/02
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belleduneさん
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関東大震災以前、現・ホテルニューグランド近くにあった「グランドホテル」の他、多くの外国人向けホテルが建っていました。大震災で、倒壊した瓦礫で、海を埋め立てて、造成されたのが、山下公園だそうです。横浜港から到着した外国人客のために、架設宿泊所が建てられ、「テントハウス」と呼ばれていました。当時の横浜市長・有吉忠一は、「ホテル建設計画」を市議会に提出し、可決されて、ホテル建設が始まりました。瓦礫を埋め立てた山下公園の正面に、昭和2年(1927)に竣工した「ホテルニューグランド」は、渡辺仁の設計、清水組の施工で誕生しました。地上5階建て、スイートルーム3室を含む49室でした。
先日、「グランド・ブダペスト・ホテル」、伝統のコンシェルジュが究極のおもてなしと…というチラシと昔の一流ホテルの外観に魅かれて見に行きましたが、なかなか面白いものでした。一流ホテルであり続けるということは、本当に大変な努力がいるものなんだと痛感しました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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ヨコハマニューグランドホテル本館の西側から正面に向かいます。
ホテルニューグランド 宿・ホテル
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先日初めて横浜に泊まって、朝早く埠頭辺りを散歩した時に、同じ港でも神戸とは違う風を感じました。先日は、20年前に建てられたインターコンチネンタルホテルに宿泊しましたが、次回はこの伝統ある古いホテルに泊まってみたいですね。でも、6月から9月末迄は本館改築中で、新館タワーしか泊まれません。
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西北の丸くなった角上部に1927年設立と記されています。綺麗な曲線ですね。
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本館1階廊下に展示してあった、昭和元年12月頃、建設中のホテルの写真です。
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昭和2年、落成当時のホテル
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本館1階西北角には、The Cafe(ザ・カフェ)があります。この他、本館1階にはレストラン,ル・ノルマンディー、イル・ジャルディーノ、ラ・テラスがあります。
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山下公園に面した玄関側へ来ました。
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玄関上部のテラスと外壁の装飾
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後で、2階のロビーへ行きます。
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本館の北端で、この右側に平成3年(1991)に完成した新館タワーがあります。新館は、地上18階、地下5階となっています。
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北端から見た正面玄関方向
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正面玄関前の道路が未舗装ですね。
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本館玄関を出て、降伏調印式に向かうマッカーサー元帥です。周辺は一面焼け野原でした。ホテル開業後18年経った1937年、フィリピン軍事顧問として当時のケソン大統領訪米に随行した帰りに来日した際に、新婚旅行でホテルニューグランドに泊まったという記録が残っています。第2次大戦後の1945年8月30日に、厚木基地から真っすぐこのホテルへ向かいました。戦火を逃れたホテルニューグランドが、最高司令官宿舎として相応しいとされたましたが、当のマッカーサー元帥は、新婚旅行の思い出の地でもあるので、良く焼けないで残っていてくれたと感慨深い思いがあったのではないでしょうか。3日間滞在しただけで、次の居留地へ移ることになりますが。315号室は「マッカーサーズスィート」となって宿泊することも出来ますが、6月から9月末までは、本館改装中で使用不可となっています。
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昭和20年(1945)8月、駐留米軍によって全館接収され、米軍将校宿舎となりました。将校以下の兵隊は、前の山下公園で野営でした。昭和27年(1952)の全館接収解除まで続きます。
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玄関を入ると大階段があります。
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開業当時、床一面にイタリア製の亀甲タイルが敷き詰められていました。
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この大階段は、スクラッチタイルで仕上げられています。
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吹き抜けの天井が素晴らしい。
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1階階段奥は、中庭があります。客室棟は中庭を取り囲むように建っています。
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1階階段脇の梁に施された装飾
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柱の両脇に防火シャッターが取り付けられていました。年々、消防法が厳しくなっていますから、こういう古い建物は対応していくのが、大変でしょうね。
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大階段を下から見上げたところです。
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開業当時の大階段周りのロビーの写真
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2階の階段上の織物の壁張り『天女寿樂の図』は、京都の川島甚兵衛作です。
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現在の2階ロビーです。この時間は、宴会もまだなくて、広々としたロビーには誰もいませんでした。マッカーサーズルームは、宿泊客のツアーで見学することが出来ますが、事前にコンシエルジュに連絡を取って、予約すれば、泊まっていなくても可能です。しかし、現在は9月末まで本館改修中で、ありません。
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昭和2年12月1日、開業当日のロビーの様子です。現在とそれ程変わっていませんね。素晴らしい!
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現在地下1階にある「シーガーディアン」は、当時1階にありました。北欧スタイルの天井と壁画です。
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当時の2階のパルムルームの写真です。
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当時、最上階の5階にあったメゾネットルームで、上階が寝室で、窓際側は吹き抜けになっていました。
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レインボールーム脇のパームルーム上部屋根が写っています。
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1階玄関側から中庭へでるための扉です。以前は、この建物部分の2階にホテルの社長室と支配人室がありました。
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中庭を囲んで客室棟があります。関西の宝塚ホテルが同じように中庭がある造りになっています。
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ホテル西側の道路からも中庭が見えます。
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昭和2年11月28日の修抜式の写真です。お祓いのことですね。
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現在のロビー辺り 左側にレインボールームがあります。
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天井部分の装飾
天井から吊るされた照明は、伽藍の灯籠のイメージだそうです。 -
創業当時からの柱
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ロビーに置かれていたライティングデスクも思わず、ここで誰かに手紙を書いてみたくなります。
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窓際の柱に取り付けてある照明
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昔の話になりますが、「グランドホテル」は、居留地20番(現・横浜人形の家付近)に明治6年(1873)、開業しました。新橋ー横浜間に日本最初の鐵道が開通した1年後の話です。この地で、明治3年(1870)頃まで営業していた同じ名前の「グランドホテル」の前身として、横浜ユナイテッドクラブ(イギリス系外国人クラブ)の支配人W.H.Smith や写真家フェリーチェ・ベアトら数人が資本を出して、建設され、開業しました。総支配人は、W.H.Smith 、支配人は、J.リオンズ、料理長はルイ・ベギューでした。日本における「フランス料理の父」と絶賛されたベギューは、江戸末期に開業した日本初の西洋ホテル「築地ホテル館」の初代料理長でした。開業後、4年目に焼失してしまいました。翌年、このホテルの料理長となり、その腕前は評判以上のものでした。当時厨房には吉川兼吉(後の帝国ホテル初代料理長)など多くの名料理人となる人達が修行を積む場所でもありました。
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明治23年(1890)に隣接地に新館をフランス人建築家サルダの設計で建設しました。支配人はドイツ人エピンゲルで、旧館、新館合わせて100室を越えていました。エピンゲルは、このホテルをリッツ・ホテルやカールトン・ホテルのような一流ホテルにすることを目指していたので、改修、補修を繰り返していました。同時期に東京・帝国ホテルが開業しています。新館は、海側に60mものベランダ、三百人収容の大食堂、読書室、社交室、ビリヤード室、バーなどが備えられ、冷房も完備されました。増築を重ねた結果、客室は360室余りに増えましたが、廊下が迷路のように入り組んでしまいました。明治13年(1880)、イギリス人デザイナー・クリストファー・ドレッサーは、「パリのグランドホテルに滞在しているようだ」とか「石造りの堅牢な建物だと思っていたのに、内部は壁に薄い石版を張った木造だったので、壁に釘を打って吊るしてあることに驚いた」とも記しています。
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日本最大の豪華ホテルだった「グランドホテル」は、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で崩壊、焼失しました。地震に備えて、ロンドンの保険会社と契約していたので、保険金を得ることができましたが、被害が余りに大きく、政権を諦め、ここに50年の歴史が終わることになります。昭和2年の「ニューグランドホテル」開業までには、こうした長い道程があったんですね。
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昭和2年開業の「ホテルニューグランド」の初代会長・伊坂孝(当時横浜商工会議所会頭)は、古巣の東洋汽船から土井慶吉を常務に迎えました。土井氏は欧米視察で、新しいホテルのあるべき姿を作り上げ、長く滞在したパリで、最初の支配人となるスイス人アルフォンゾ・デュナン、コッック長・サーリー・ワイルらを採用しました。「最新式設備とフレンチスタイルの料理」というキャッチフレーズで、評価を得ていきます。玄関ドアボーイに英国風制服を着用させたり、客本位のサービスを実践しました。料理長ワイルは皆に「スイス・パパ」と呼ばれ、日本人向けにドリア、ナポリタン、プリンアラモードなど独自の料理を発表しました。弟子の育成にも熱心で、帝国ホテル第4代料理長・内海藤太郎を補佐に付けたこともあります。
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左がレインボールームの扉です。
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マホガニーの太い柱が圧巻です。
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柱と壁の照明に同じ装飾が施されています。
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扉上部の装飾
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扉の装飾 レインボールームは273平方m。本館には5階のスターライトルーム(現在リニューアル中)と2階の2つの宴会場があります。
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大階段上部の天井
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階段から左へ行くと「フェニックスルーム」があります。
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このロビーには同じ灯籠風照明が吊るされていますが、遠くから見ると上部の傘の形から灯籠風だなぁと納得。
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部屋の中から見た扉部分
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現在のフェニックスルームの天井
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マホガニーだらけの天井です。
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開業当時の写真と全く同じですね。シーリング・ファンが無くなった位でしょうか。
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このフェニックスルームは221平方mあります。
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この御簾の後ろはなんだろうと覗いてみると、空調ダクトでした。
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宴会前のセッティングがされていたので、さっさと退出しました。
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開港150周年を記念して、小泉雅生設計の象の鼻波止場が明治中期の形状で復元されました。
安政6年(1859)、東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の2本の突堤が幕府に因って建設され、横浜港が開港しました。慶応3年(1967)東波止場が弓なりに湾曲した形に築造され、その形から象の鼻と呼ばれました。明治29年(1890)、英国人技師パーマーの設計で東波止場の先端に大桟橋が築造され、西波止場の背面が埋め立てられました。その後、関東大震災で被災し、象の鼻波止場は直線に近い形で復旧しました。 -
象の鼻波止場辺りに老朽化した建物があり、高い煙突?らしきものがありました。一体なんだろうと色々調べていますが、分かりません。
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大桟橋国際客船ターミナル方向
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赤煉瓦倉庫から見た夜景の大桟橋国際客船ターミナル
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インド水塔は、関東大震災で、インド商人をはじめとする外国人の救済措置を積極的に講じた返礼として、インド商組合から寄贈されたものだそうです。華麗なモザイク模様のドームのイスラム建築をはじめ、その意匠は、様々な要素が組み合わされています。
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久し振りに見た「赤い靴履いてた女の子」像
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明治42年(1909)開港50周年を記念して制定されました。南能生が作った旋律の上に森林太郎が歌詞を付けたものです。
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インターコンチネンタルホテルから見たシーバス乗り場「ぷかり桟橋」
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夜に見た同じ「ぷかり桟橋」です。こういうものは、やはり夜見た方が綺麗ですね。
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偶然入ったインターコンチネンタルホテルに隣接する会議センターの1階エスカレーターホールになんと堀木エリ子さんの手漉き和紙による芸術作品がありました。虹の七色に染めた糸を漉き込んであるそうで、2010年制作のアート光壁「波光」というものです。
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近くに寄って見るとこんな風になっています。
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エスカレーターで2階へ上がってみると、2階のホールにも異なるデザインの光壁がありました。朝早く散歩に出た帰りに、こんな素晴らしいものを見れて、幸せなでした。
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